第35代皇極(こうぎょく)天皇の時代に起きた「乙巳(いっし)の変」は、古代における重大事件のひとつとして、必ず歴史の教科書に書かれています。
乙巳の変とは、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足(なかとみの・かまたり)が蘇我入鹿(そがの・いるか)を暗殺する事件のことです。この事件がきっかけとなり、「大化の改新」が行われます。
中大兄皇子が事件の首謀者であるというのがこれまでの考え方でしたが、近年は別に首謀者がいて、中大兄皇子は実行者の一人に過ぎないという考え方が有力になりつつあります。
先ずは、『日本書紀』に記された事件の背景と経緯を確認してみましょう。
第33代推古(すいこ)天皇のもとで摂政(せっしょう)として政務を取り仕切っていた聖徳太子(しょうとくたいし)は、推古天皇の次に天皇に即位するものと考えられていましたが、推古天皇よりも先に命を落としてしまいます。
すると、皇位継承をめぐって争いが起きました。聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)が有力視されたことは当然ですが、聖徳太子の影響力によって力を落としていた蘇我(そが)氏がこれに反対し、結局は押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)の子、田村皇子(たむらのみこ)を天皇に擁立しました。第34代舒明(じょめい)天皇です。
舒明天皇が崩御すると、またしても皇位をめぐって紛議が起きました。このとき、再び聖徳太子の子、山背大兄王に即位の可能性がありましたが、蘇我氏がまた妨害し、舒明天皇の皇后が即位し、推古天皇についで二番目の女帝、第35代皇極天皇が成立したのです。
舒明天皇、皇極天皇と蘇我氏の思うままの天皇が成立し、蘇我氏の権力はいよいよ強いものとなり、蘇我蝦夷(そがの・えみし)が蘇我入鹿(そがの・いるか)に大臣の位を譲ると、入鹿は山背大兄王の住む斑鳩宮(いかるがのみや)を襲撃して、殺害します。山背大兄王が暗殺されたことで、聖徳太子家は親子二代にして滅びてしまいました。
そして、運命の皇極四年(六四五)六月十二日。この日は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の使者を迎えて三韓が大和朝廷に忠誠を誓う儀式が行われることになっていました。『日本書紀』に記されたこの時の事件はあまりに有名です。
皇極天皇の子である中大兄皇子は中臣鎌足とともに、儀式の最中に蘇我入鹿に斬りかかる計画を立てていました。
儀式が始まり、皇極天皇の前で上表文が読み上げられると、中大兄皇子は入鹿の頭と肩を斬りつけました。
血まみれになった入鹿は、皇極天皇の御座にすがり、
「まさに日嗣(ひつぎ)の位にましますべきは、天子(あめのみこ)なり。臣(やっこ)、罪を知らず」
と、自らの無実を訴えたと『日本書紀』は記します。そして、中大兄皇子は天皇に、入鹿が皇位を狙っていたことを述べました。
驚いた天皇は黙って奥へ入っていき、入鹿にはとどめが刺されたのです。
入鹿が息も絶え絶えに訴えた無実の主張は、中大兄皇子の次の発言を予期していなければ発することができないはずですし、血まみれになりながらこれだけ長いセリフを述べたとは到底思えないので、これは後世の創作と考えられます。実際は「うー」といいながらうずくまったのではないでしょうか。
天皇の息子が、外交的な儀式の途中、天皇の前で、白昼堂々と大臣を殺すわけですから、これは一種のテロであり、大変なことです。現在に置き換えれば、国賓を招いた宮中晩餐会で、天皇陛下の前で、皇太子殿下が内閣総理大臣を殺害するようなものです。
そして、入鹿が殺害された翌日には、入鹿の父親の蝦夷も自害に追い込まれ、以降、蘇我氏は完全に没落することになります。
さらにその翌日には、皇極天皇が、日本史上初となる生前譲位をおこなって、第36代孝徳(こうとく)天皇が即位しました。
これまで、「乙巳の変」の首謀者は中大兄皇子とされてきましたが、それについては次のような反論があります。
先ず、当時は若年で天皇に即位した例はなく、二十歳の中大兄皇子が即位できる可能性はありませんでした。したがって、この時点で中大兄皇子が自ら入鹿を殺害する動機がはっきりしません。
また、もし殺害後に中大兄皇子が速やかに即位すると、天皇になるために入鹿を殺害したと周囲からいわれることになりますから、その動機もなかったと考えなくてはならないでしょう。
すると、中大兄皇子と中臣鎌足は事件の実行者であるも、二人とは別に事件の首謀者がいると考えることは自然なことです。
乙巳の変の首謀者は、入鹿が殺害されることにより、もっとも利益を得た人物、孝徳天皇ではないかと考えられています。
次の第37代斉明(さいめい)天皇の後、中大兄皇子は即位して第38代天智(てんじ)天皇となりました。