皇室のきょうかしょ 皇室のあれこれを旧皇族・竹田家の竹田恒泰に学ぶ!
vol.70 邪馬台国とは何か
 古代史最大の謎といわれるもののひとつに邪馬台国(やまたいこく)があります。中国の歴史書が記した日本の邪馬台国は一体どのような国であり、どこに存在していたのか、今でも論争が続いています。
 二・三世紀、日本にはまだ文字はなく、当時の様子を知る方法は遺跡の発掘調査などに限られています。しかし、日本に文字がなくとも、中国の歴史書にたびたび日本の記事が出てきます。
 中国の歴史書に最初に日本が登場するのは、『漢書(かんじょ)』地理志(ちりし)です。この時代、中国は日本人のことを「倭人(わじん)」と呼び、百以上の小国が分立していたことが書かれています。
 次に中国の歴史書に日本が現れるのは『後漢書(ごかんじょ)』東夷伝(とういでん)です。この記述は教科書でも必ず紹介される有名な部分ですからきっと知っていることでしょう。
 漢の光武帝(こうぶてい)が日本の奴国(なこく)の使者に「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と刻印した金印を授けたこと、そして二世紀後半に倭国で大乱があったことなどが書かれています。
 そして、次に日本が登場する『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)で、そこに邪馬台国の記述があります。二世紀後半から三世紀にかけての日本の様子は、次のように書かれています。

 「邪馬台国は、当初男性が治めていたが、七、八十年で倭国に大乱があった。その後、女王・卑弥呼(ひみこ)を共立したことで政治的統合を回復した。卑弥呼は鬼道(きどう)に通じ、人々を巧みに治めた。既に年長であったが、夫は無く、弟が助けて国を治めた。景初二年(二三八)卑弥呼は魏に朝貢し「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を得た。正始八年(二四七)頃、男王が支配する狗奴国(くなこく)との戦いの最中に卑弥呼は没し、径百余歩の大きな塚に葬られた。次に男王を立てるも国はまとまらず、十三歳の女王・壹与(いよ)を立てたことで再び政治的統合を果たした。」

 当時日本列島に邪馬台国という国があり、卑弥呼という女王が国を治めていたことがわかります。
 中国に朝貢したことも記されていますが、この時代に海をわたって中国に行くことは危険であるばかりか、とても負担の大きいことですから、邪馬台国はある程度の国力があったはずです。
 そして、邪馬台国は狗奴国という国と戦争をし、卑弥呼はその戦争の最中に命を落としました。
 『魏志』倭人伝には、このような記述のほかにも、倭人の風俗習慣や、邪馬台国の場所などについても記しています。わずか二千字程度ですが、ここから多くのことを読み取ることができます。
 ところが、邪馬台国とヤマト王権(大和朝廷のこと、日本国の祖)の関係はよく分かっていません。「邪馬台国」という国号は日本側の歴史書にはありません。また中国側の歴史書でも『魏志』倭人伝以外にはないのです。
 しかも、ここに書かれている通りにたどると、邪馬台国の位置は、日本列島を越えて太平洋のはるか沖になってしまいます。
 きっとどこかの部分を書き間違えたのでしょう。ところが、どの部分を書き間違えたのか、意見が分かれるところです。
 邪馬台国の場所をめぐっては、九州説と畿内説に分かれて、二百年以上激しい論争が続けられています。これが「邪馬台国論争」です。
 邪馬台国論争自体は興味深い論争ではありますが、それはさておき、わが国の歴史書に記載がない邪馬台国を、どのように理解すればよいのでしょう。
 遅くとも三世紀前半までには畿内にヤマト王権が成立していました。そして『魏志』倭人伝は邪馬台国が中国に朝貢をした時期と、卑弥呼が死亡した時期が、いずれも三世紀前半であることを記しています。ですから、ヤマト王権と邪馬台国は同じ時代に存在していたはずです。
 そうすると、二つの可能性が考えられます。ひとつは邪馬台国がヤマト王権のことである場合、そしてもうひとつは、邪馬台国とヤマト王権は別の国である場合です。
 ヤマト王権が政権基盤を整えて大和王朝となり、それがやがて日本国となることは事実ですから、もし邪馬台国とヤマト王権が別であるならば、邪馬台国は大和朝廷によって滅ぼされた地方のひとつの政権だったことになります。
 また、もし邪馬台国が大和朝廷ならば、邪馬台国こそ日本列島を代表する中央政権だったことになります。
 邪馬台国の場所についても、二つの可能性のどちらを採るかによって、決まってきます。ヤマト王権の本拠地が三世紀に畿内にあったことは明らかですから、邪馬台国とヤマト王権が同一ならば、邪馬台国の場所は畿内説が有力となり、また、邪馬台国とヤマト王権が別ならば、邪馬台国の場所は九州説が有力となります。
 ところで、わが国の歴史書『古事記』『日本書紀』には、初代天皇である神武(じんむ)天皇は、九州から畿内に東征し、畿内で王権を樹立したと記しています。これを神武天皇東征伝説といいます。
 これをただの伝説だと切り捨ててしまうのは簡単ですが、国家統一の動きが九州地域から起こったと考えることは十分に可能です。よく民間の家でも「誰々の先祖は何所何所から来たらしい」という言い伝えがあるものですが、そのような言い伝えは、大方正しいものです。
 東征伝説についても、邪馬台国をどのように考えるのかによって考え方がかわってきます。つまり、邪馬台国とヤマト王権が同一ならば、ヤマト王権が畿内に本拠地を置く前に東征が行われたと考えられます。
 そして、邪馬台国とヤマト王権が別であるなら、北部九州地域に拠点を置く邪馬台国が東征して、畿内にあった勢力を滅ぼし、そして九州から畿内に至る広い地域を平定したと考えられます。
 ということですから、邪馬台国論争は興味深い論争ではありますが、その結論がどちらであろうとも、それは長い日本史の数あるゆらぎのひとつであって、それによって国史が決定的に覆されることはないわけです。


関連記事
第61回 神武天皇東征伝説@(古事記、第十八話)
第63回 神武天皇東征伝説A(古事記、第十九話)
第65回 神武天皇東征伝説B(古事記、第二十話)
第62回 神武天皇は実在した


出典:「お世継ぎ」(平凡社)八幡和郎 著
皇室の系統図(クリックで拡大)

≪バックナンバー≫

 第69回  第68回  第67回  第66回  第65回  第64回  第63回  第62回  第61回  
 第60回  第59回  第58回  第57回  第56回  第55回  第54回  第53回  第52回  第51回  
 第50回  第49回  第48回  第47回  第46回  第45回  第44回  第43回  第42回  第41回  
 第40回  第39回  第38回  第37回  第36回  第35回  第34回  第33回  第32回  第31回  
 第30回  第29回  第28回  第27回  第26回  第25回  第24回  第23回  第22回  第21回  
 第20回  第19回  第18回  第17回  第16回  第15回  第14回  第13回  第12回  第11回  
 第10回  第 9回  第 8回  第 7回  第 6回  第 5回  第 4回  第 3回  第 2回  第 1回
作家 プロフィール
山崎 元(やまざき・はじめ)
昭和50年、東京生まれ。旧皇族・竹田家に生まれる。慶応義塾大学法学部法律学科卒。財団法人ロングステイ財団専務理事。孝明天皇研究に従事。明治天皇の玄孫にあたる。著書に『語られなかった皇族たちの真実』(小学館)がある。
artist H.P.>>
ケータイタケシ

 ケータイでコラムも読める!

ケータイタケシ
URLをケータイへ送る