初代天皇の神武天皇(じんむ・てんのう)は「伝説の人物で実在しない」といわれることがあります。むしろ戦後は盛んに非実在説が唱えられ、この考え方が広く浸透しているのが現状です。
確かに『古事記』には神武天皇は百三十七歳まで生きたと書かれていますから、それだけでも伝説の人物であると思わせる十分な理由になるかもしれません。
それに、『日本書紀』に書かれた年代をそのまま信用すると、神武天皇の即位は紀元前六六〇年となり、考古学的にヤマト王権が成立したと考えられている年代より、かなり早い時期になってしまいます。
そのため、神武天皇だけでなく、第二代綏靖天皇(すいぜい・てんのう)から第九第開化天皇(かいか・てんのう)までの八代を、「欠史八代」(けっし・はちだい)と呼んで、いずれも伝説の天皇で実在せず、第十代崇神天皇(すじん・てんのう)が初代天皇であるという説も主張されています。記紀(きき)(『古事記』『日本書紀』のこと)の編纂者が、天皇の歴史をより長く思わせるために捏造したというのです。八代の天皇について記紀は具体的な事蹟をほとんど記していないのもその証拠だと主張されています。
さらに、記紀に書かれている神武天皇伝説には、例えば天から授けられた霊剣が勝手に敵をなぎ倒していく場面など、科学的には到底有り得ない、明らかに不合理と思われる部分が含まれていることを理由に、神武天皇伝説は全くの作り話であると主張されています。
戦前までは記紀に書かれた神話・伝説は、全て史実であることを前提とした教育が行われてきました。しかし、日本が敗戦したことにより、これまでの反動が起こり、戦後は記紀に書かれた伝説の史実性を積極的に否定する傾向にあります。
神武天皇は本当に実在しなかったのでしょうか。
確かに、「非科学的」「非合理」なものを否定する考え方には一定の説得力があります。しかし、そのような「非科学的」「非合理」な記述の中にも、一定の史実が含まれている場合があるのも事実です。
例えば、釈迦(しゃか)やキリストにまつわる話の中には、とても史実とは思えない非合理なエピソードも多く含まれます。でも、それを理由に直ちに釈迦やキリストが実在しなかったと断定することはできません。少なくとも釈迦とキリストが実在したことは疑う余地はないのです。
もし非合理なものを全て否定するようなことをしてしまったら、ゴミと一緒に宝石を捨ててしまうようなことになってしまいます。
記紀には神武天皇が九州から大和(やまと)に東征(とうせい)し、軍事力で大和の地を平定して、その地で天皇に即位したという神武天皇東征伝説が書かれています。先ほどの例でいうと、「天から授かった霊剣が敵を勝手になぎ倒す」といった部分は史実でないにせよ、国家を統一する力が九州からやってきたことなどには一定の史実性を見出してもよいのではないでしょうか。全てを、記紀編纂者の作為として片付けてしまうのは乱暴というものです。
大和に本拠地を構える大和朝廷が、歴史書を編纂するに当たり、なぜ九州に天孫が降臨した物語を作ったのでしょう。単純に考えれば大和の地に天孫が降臨したと記した方が大和の地を神聖化できたはずですし、出雲の国譲りの物語も活かせたはずです。
にもかかわらず、天孫が降臨したのは九州で、神武天皇が九州から大和に東征したと記したのは、単に編纂者の作為ではなく、ヤマト王権の起源が九州にあり、国家統一の動きが九州から動いたという伝説が史実として語り継がれていたからだと考えるのが自然です。
国家でも会社でもそうですが、創業者の名前と事蹟は、時代が下っても記憶されるものです。一人の偉大な指導者を中心に、九州から大和へ民族移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、記紀が編纂された七世紀まで、史実として伝承されたのでしょう。
考古学の視点から見ると、三世紀前半に大和の三輪山周辺に、初めて前方後円墳が造られはじめ、三世紀後半にはそれが巨大化していく事実から、この時期にヤマト王権の基盤ができたのではないかと考えられています。
可能性として考えられるのは、神武天皇は三世紀前半の王権の基盤が確立する頃の人物であるということ、もしくは、神武天皇はそれより以前の人物で、時代が下って三世紀前半頃の神武天皇の子孫の時代に王権の基盤が確立したということの二通りです。
もし前者なら、初代から第九代開化天皇までの天皇の在位期間を全て十数年とみなすと、神武天皇が三世紀前半頃の人物だったことになりますので、そのように考えることは可能です。
また後者なら、三輪山周辺に前方後円墳が造られるようになったのは、神武天皇からだいぶ後のことで、その前方後円墳がいよいよ巨大化する三世紀後半から四世紀初頭頃が第十代崇神天皇の時代であっても矛盾を生じません。九州で勢力を持った神武天皇が大和に東征し、ヤマト王権のきっかけを作り、だいぶ時間をかけて王権の基盤を整えていったと考えられるからです。
その場合、九州の勢力が大和に勢力範囲を拡大させたのが、特定の指導者一代の仕事ではなく、何代かにわたっていた可能性もあります。たとえば、神武天皇から、何代かの天皇によって東征が行われ、その偉業を一人の人物の仕事として伝承されたのかもしれません。
いずれにしても、ヤマト王権成立のきっかけが生じた瞬間に王権の基盤ができあがることは考えにくいので、地方政権として力を持ち始めた勢力が、時間をかけて王権の基盤を築いたと考えるべきでしょう。そしてその地方政権とは、必ずしも大和を起源とするとは限りません。別の地域の政権が、大和の地を征服して本拠地を構えた可能性は十分にあります。
そして、ヤマト王権成立のきっかけが生じた時期は、つまり神武天皇の時代は、前方後円墳の造営が始まる数十年前であったかも知れませんし、また数百年前であったかも知れません。
神武天皇の即位が紀元前六六〇年となると、いささか古すぎるような気もしますが、ヤマト王権の前身になる勢力がその頃に南九州に誕生し、その勢力が六百年やそこら九州で存続していたとしても何ら不思議はありません。縄文時代の三内丸山遺跡がおよそ千六百年間営まれていたのですから、弥生時代後半に一つの勢力が何百年続いてもおかしくはないのです。まして神武天皇が紀元前後の人物だと考えるのはさらに容易なことでしょう。
大和に造られた前方後円墳の副葬品には刀剣・矛・鏡・玉・鉄器などが見られますが、これらは弥生時代の九州地方の墳墓の副葬品でした。当時鉄は国内では採れなかったので、鉄を保持するというのは、朝鮮半島との交易を独占した王権のみが可能なことでした。
九州に見られた鉄器がやがて大和でも見られるようになったのは、それら王権を象徴するものが九州から大和に移動したことを意味し、この考古学的事実は神武天皇東征伝説を彷彿とさせます。
また、かつて大和には多くの銅鐸(どうたく)がありました。しかし、大和で前方後円墳が造営されるようになって以降は、銅鐸が姿を消します。ということは、大和には銅鐸を使う文化があったところ、他から来た勢力によって滅ぼされたと考えるべきでしょう。そしてヤマト王権の文化に銅鐸がないのは、記紀に銅鐸の記述が存在しないこと、前方後円墳造営以降銅鐸が姿を消していることから明白です。
物事が有ることを証明するのは、有ることの証拠を出せば済むので比較的容易です。しかし、物事が無かったことを証明するのは困難です。全ての可能性を否定しない限り、状況証拠の域をでないからです。
神武天皇が実在したことは、少なくとも我が国の正史である『日本書紀』に記載されていることですから、これが無かったという以上、それなりの証拠があるべきでしょう。
ところが、戦後となえられている神武天皇非実在説の根拠は、いずれも不十分な証拠に終始しています。
確かに、神武天皇が実在したというのも説の一つですが、遺された文献と、考古学的事実を参照すると、神武天皇が実在したと考える方が自然ではないかと思います。それにそのように考えたほうが、ロマンがありますね。
関連記事
第61回、神武天皇東征伝説(古事記、第十八話)
第02回、古事記・日本書紀とはなにか