天皇の葬儀を「大葬(たいそう)の儀」といいます。そして、太皇太后・皇太后・皇后の葬儀も同じく「大葬の儀」と呼ばれます。終戦後は貞明皇后(ていめい・こうごう)(大正天皇后)、昭和天皇、香淳皇后(こうじゅん・こうごう)(昭和天皇后)の大葬の儀が行われました。
大葬の儀はおびただしい数の様々な儀式によって構成されます。天皇が崩御(ほうぎょ)(天皇が亡くなること)あそばすと、一ヶ月半に及ぶ一連の大葬の儀が始められます。儀式の数はあまりに多く、それらを全て列挙することはできませんが、簡単にいうと昭和64年1月7日に崩御あそばした昭和天皇の大葬の儀は、およそ次のような流れで進められました。
遺された皇族が最期のお別れをする拝訣(はいけつ)という儀式に引き続き、御遺体を棺に納める御舟(おふね)入りという、一般の納棺(のうかん)に当たる儀式がありました。崩御10日目にはしん殿(しんでん)十日祭が行われました。しん殿とは、天皇の棺が安置されている部屋のことです。吹上御所一階の居間がしん殿とされました。そして、1月17日には、後に御遺体を納める御陵で、陵所(りょうしょ)地鎮祭の儀が行われ、埋葬まで御陵の準備が進められます。
そして次に、天皇の棺をしん殿から殯宮(もがりのみや)に移す、殯宮移御(ひんきゅういぎょ)の儀が行われました。殯宮とは、一般の告別式にあたる斂葬(れんそう)までの間、天皇の棺を安置するために皇居内に設けられた仮の御殿のことで、一つだけ明かりが灯されます。昭和天皇の時は正殿・松の間が殯宮とされました。棺が殯宮に移されると、斂葬までの約一ヶ月の間、昼夜途切れることなく誰かが付き添います。そのことを「殯宮祗候」(ひんきゅうしこう)といいます。この一ヶ月の間が一般の通夜に当たります。
殯宮では数々の儀式と礼拝が繰り返されます。毎日行われる殯宮日供(にっく)の儀、二日目には殯宮移御(いぎょ)後一日祭の儀、その後も十日ごとに、殯宮十日祭の儀、殯宮二十日祭の儀、殯宮三十日祭の儀と続き、その間に皇族方が礼拝あそばす殯宮礼拝の儀や、日本に駐在する外交使節団が礼拝する外交団殯宮礼拝などが行われました。
崩御あそばした天皇は、天皇号が追号(ついごう)されるまでの間「大行天皇」(たいこう・てんのう)と呼ばれますが、追号が決定すると、殯宮で追号報告の儀が行われました。明治天皇以降は天皇一代につき一元号の制度が確立し、大行天皇にはそのまま元号が追号されることになっています。昭和天皇もこの時に「昭和」が天皇号として追号され、正式に「昭和天皇」となりました。ところで、皇太后や皇后も崩御あそばすと諡(おくりな)が追号されます。昭和天皇后の良子(ながこ)皇后には「香淳」が贈られ、「香淳皇后」となりました。
斂葬の前日には重要な三つの儀式がありました。斂葬前殯宮拝礼の儀に引き続き、完成した御陵を祓う陵所祓除(りょうしょばつじょ)の儀があり、そして天皇の御霊代(みたましろ)を宮殿の表御座所(おもてござしょ)「芳菊(ほうぎく)の間」に奉安する霊代奉安(れいだいほうあん)の儀が行われました。一年後に御霊代は宮中三殿の皇霊殿(こうれいでん)に移されることになりますが、それまでの間、芳菊の間が天皇の御霊代を祀る権殿(ごんでん)とされ、ここでも権殿日供の儀が毎日行われ、その後も十日ごとに権殿十日祭の儀、権殿二十日祭の儀と五十日祭まで続けられ、その後は百日祭、一周年祭が行われます。
そして、2月24日、新宿御苑にて本葬である斂葬の儀が行われました。この日、殯宮では斂葬当日殯宮祭の儀があり、天皇の棺を乗せた轜車(じしゃ)が皇居を出発する轜車発引(はついん)の儀があり、棺は新宿御苑に運ばれました。葬列が新宿御苑に到着すると棺が轜車から葱華輦(そうかれん)という天皇が神事などでお使いになる御輿に移され、徒歩の葬列を組んで、葬場殿に到着、そこで一般の告別式にあたる葬場殿(そうじょうでん)の儀が行われました。
この時、天皇は一般の弔辞(ちょうじ)にあたる「御誄」(おんるい)を奏上あそばし、続けて、皇族方による礼拝が行われました。
これまでの儀式は全て皇室の私的な儀式でしたが、葬場殿の儀の後に、政府が国の儀式として行う「大葬の礼」が行われました。これは憲法の政教分離との関係上、国家が神道式の儀式を行うことに問題が生じる可能性があるという配慮から、葬場殿の儀と大葬の礼を二分したものです。ところが、葬場殿の儀が終わると、鳥居が取り払われ、宗教色をなくした形で大葬の礼を行うという、不可思議な段取りとなりました。
大葬の礼は、小渕恵三(おぶち・けいぞう)内閣官房長官が開式を告げ、黙祷(もくとう)に引き続き、竹下登(たけした・のぼる)内閣総理大臣以下三権の長が弔辞(ちょうじ)を述べ、外国元首以下参列者の拝礼がありました。
新宿御苑での儀式が終わると、再び葬列が組まれ、武蔵野御陵へ向かい、陵所では皇室の私的な儀式として陵所の儀が行われ、棺が御陵に納められました。
その後も御陵では、毎日の山陵日供の儀だけでなく、殯宮や権殿と同様、十日おきに儀式が行われました。
全部は紹介しきれませんでしたが、大葬の儀はこのような数々の儀式によって構成されています。
大葬の礼には外国からも多くの要人が来日しました。英国のエジンバラ公、米国のブッシュ大統領、仏国のミッテラン大統領をはじめ、世界164カ国、27の国際機構の元首もしくは弔問使節が大葬の礼に参列しました。
昭和天皇の大葬の儀はこのように神式で執り行われましたが、幕末まで天皇の葬儀は仏式で行われていた期間があります。明治維新で神仏分離政策が取られるまでは神道と仏教は一つでしたので、天皇の葬儀で僧侶が読経することがあり、また天皇が火葬されることもあったのです。そして明治天皇からは、古式の葬儀を復古させ、現在に至ります。また、古代の天皇の葬儀については『日本書紀』にその様子が記載されています。
さて、天皇の葬儀を語るうえで、忘れてはいけないのが「八瀬童子」(やせのどうじ)です。京都から大原に向かう山間の小盆地にある八瀬郷(やせごう)(現在の京都市左京区八瀬)の住民は「鬼の子孫」と言い伝えられ、室町時代以降、歴代天皇の棺を担ぐ役割を担い、昭和二十年までは免税などの特権が与えられていました。
延元(えんげん)元年(1336)に後醍醐天皇(ごだいご・てんのう)が足利尊氏(あしかが・たかうじ)に追われて比叡山(ひえいざん)に逃れたとき、御輿に天皇を乗せて山頂まで担いだのが八瀬童子の先祖で、それ以来八瀬童子は天皇の駕輿丁(かよちょう)(輿を担ぐ人)を務めてきました。近世には長らく途絶えていた時期もありますが、八瀬童子は後醍醐(ごだいご)天皇以降の歴代天皇の大葬で葱華輦を担いだとされています。
明治天皇と大正天皇の大葬の儀にあたっては、八瀬童子が葱華輦を担ぐ習慣が復活されたのですが、昭和天皇の時は警備上の都合により、束帯(そくたい)をまとった皇宮護衛官が駕輿丁となり、八瀬童子は担ぎ手になることはできませんでした。また、棺の移動には自動車が使われたため、葱華輦は葬場内の移動にのみ使用され、八瀬童子の代表者数名がオブザーバーとして参加するに留まりました。
[関連資料] 昭和天皇斂葬の儀・葬場殿の儀の御誄
『御誄』
(御名)謹んで
御父昭和天皇の御霊に申し上げます。
崩御あそばされてより、哀痛は尽きることなく、温容はまのあたりに在ってひとときも忘れることができません。
?殿に、また殯宮におまつり申し上げ、霊前にぬかずいて涙すること四十余日、無常の時は流れて、はや斂葬の日を迎え、轜車にしたがって、今ここにまいりました。
顧みれば、さきに御病あつくなられるや、御平癒を祈るあまたの人々の真心が国の内外から寄せられました。今また葬儀にあたり、国内各界の代表はもとより、世界各国、国際機関を代表する人々が集い、御わかれのかなしみを共にいたしております。
皇位に在られること六十有余年、ひたすら国民の幸福と平和を祈念され、未曾有の昭和激動の時代を、国民と苦楽を共にしつつ歩まれた御姿は、永く人々の胸に生き続けることと存じます。
こよなく慈しまれた山川に、草木に、春の色はようやくかえろうとするこのとき、空しく幽明を隔てて、今を思い、昔をしのび、追慕の情はいよいよ切なるものがあります。
誠にかなしみの極みであります。