第40回「殺された天皇」で、第20代安康天皇(あんこう・てんのう)と第32代崇峻天皇(すしゅん・てんのう)が暗殺された天皇であることは既に紹介しました。
その他にも第31代用明天皇(ようめい・てんのう)、第47代淳仁天皇(じゅんにん・てんのう)、第132代孝明天皇(こうめい・てんのう)には暗殺説が主張されています。
今回は、その中でも崩御からまだ百四十年ほどしかたっていない、孝明天皇に焦点を当ててみます。孝明天皇は明治天皇の実の父親です。幕末は維新前の時代ですから、だいぶ時間が経過していると思う人が多いでしょう。ところが、我が国の長い歴史を思えば、125代の歴代天皇の内、孝明天皇は今上天皇の僅か4代前ですので、つい最近の天皇ともいえます。
つい最近の天皇が暗殺されたかもしれないというのは、尋常なことではありません。いったい孝明天皇は、どんな天皇だったのでしょうか。そして、なぜ暗殺説があるのでしょうか。
幕末の激動期の孝明天皇は、幕末維新の主人公ともいえる存在でした。諸外国から次々と軍艦が差し向けられ、開国して通商をするように求められる困難な時期、孝明天皇は一貫して「攘夷」(じょうい)と「公武合体」を政治信条としていました。つまり、外国と通商を許さず、鎖国を継続すべきこと、そして困難な時期を朝廷(公)と幕府(武)が力を合わせてそれらの困難を乗り越えてゆくべきことを強く望んでいたのです。
幕末維新は「尊皇攘夷派」と「公武合体派」が激しくぶつかり合ったと説明されますが、孝明天皇の政治信条の内、「攘夷」の部分に響いたのが、草莽(そうもう)の志士や薩長をはじめとする「尊皇攘夷派」、そして「公武合体」の部分に響いたのが、幕府や京都守護職を務めた会津藩をはじめとする「公武合体派」でした。この二つの政治派閥は、もとはといえば孝明天皇が生み出したといえるでしょう。
幕末期は幕府の権威が急激に落ちはじめ、それに替わって朝廷の権威が急激に上昇しました。かつては天皇が将軍の顔色をうかがっていたのですが、今度は将軍が天皇の顔色をうかがうようになりました。孝明天皇の時代に、将軍と天皇の地位が入れ替わったのです。幕府を上回る存在になった朝廷のトップこそが天皇なわけです。だから孝明天皇は幕末維新の主人公ともいえる存在なのです。
ところが、主人公といっても、孝明天皇の生涯は苦悩に満ちた生涯でした。世の中は、攘夷と公武合体を求める孝明天皇の希望とは全く違う方向に進んでいきます。天皇の権威は格段に高まるにもかかわらず、孝明天皇の個人の考え方は何一つ通らない状況になってしまうのです。
そんな中、「尊皇攘夷派」はやがて「討幕派」へと変化していきます。孝明天皇は討幕には大反対でした。孝明天皇は朝廷と幕府が一緒になって攘夷を行っていくことを求めているわけで、幕府を倒して天皇が自ら政治を執ることを望んではいなかったのです。しかし何とも皮肉なことに、慶應年間に入ると討幕への流れが一気に加速し、討幕への最後の障壁が「孝明天皇」となってしまいました。
そして慶應二年、孝明天皇が突如として崩御(ほうぎょ)(天皇が亡くなること)となり、世の中は騒然となりました。それにより、討幕への障壁が取り除かれ、まだ幼い14歳の明治天皇が即位して、間もなく、大政奉還(たいせいほうかん)、王政復古の大号令へと進み、結局は幕府が倒れ、明治維新政府が成立するのです。
孝明天皇の崩御の原因は、公式には天然痘(てんねんとう)であると記録されています。しかし、最後の最後まで討幕に反対していた孝明天皇の突然の崩御は、討幕を企む一派にとってあまりにタイミングがよかったため、当時から「孝明天皇は暗殺されたのだ!」と囁(ささや)かれ、今に至ります。
今でこそ孝明天皇について語ることはできますが、明治維新から太平洋戦争が終結するまでの約八十年間、孝明天皇研究は禁断の研究でした。
なぜならば、もし明治政府が孝明天皇を高く評価すれば、政府の正当性を自ら否定することになってしまうからです。
つまり、孝明天皇の嫌う討幕の結果成立したのが明治政府なので、明治政府としては孝明天皇についてどのように記録し、後世に伝えていくかということが、非常に難しい問題になっていたと思われます。そのようなわけで、孝明天皇研究は一種のタブーになっていたのです。孝明天皇は、いわば「封印された天皇」ということになります。
ところが、そのような政治的緊張は、時間の経過と共に緩まりました。昭和42年(1967)に孝明天皇の公式記録『孝明天皇紀』が初めて公刊され、現在は、孝明天皇研究はタブーではなくなりました。この研究が進めば、明治維新史が大きく塗り替えられるかもしれません。
孝明天皇が実際に暗殺されたかどうかはともかく、当時から現在まで暗殺説が囁かれているということは、それだけで、孝明天皇が幕末期に政治的な鍵を握っていたことを意味することなのです。
孝明天皇は、本人の意思は異なりますが、結果的には徳川幕府を滅ぼすのに絶大なる影響を与えたことになります。
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