vol.57 島流しになった天皇A―鬼になった崇徳天皇
流刑(るけい)や幽閉(ゆうへい)の憂き目を見た歴史上の天皇は少なくありませんが、その内後世に最も恐れられたのは第75代・崇徳天皇(すとく・てんのう)です。
流刑地で深い失望と怒りのうちに憤死した崇徳天皇は、怨念のかたまりとなって自ら魔界に入り、魔王となって天皇を呪い続けたと語り継がれています。
一体どうして天皇が魔王になってしまったのでしょう。
崇徳天皇は、保安(ほうあん)4年(1123)、曽祖父(そうそふ)・白河上皇(しらかわ・じょうこう)の意向により、鳥羽天皇(とば・てんのう)の譲位によって5歳で天皇となりました。その歳ではとても天皇として振舞うことはできず、白河院政が継続されました。
崇徳天皇は正式には鳥羽天皇の皇子ということになっていますが、実際は白河上皇の御落胤(ごらくいん)であったといわれています。このことは当時の宮中では公然の秘密だったそうです。白河上皇が崇徳天皇の最大の庇護者(ひごしゃ)であったことからも頷けます。
ところが、その白河上皇が崩御すると、白河院政に替わって鳥羽院政が敷かれ、崇徳天皇の立場はにわかに不安定になりました。崇徳天皇と鳥羽上皇は、系譜上は親子とされていますが、どうやら強い確執(かくしつ)があったようです。鳥羽上皇は別の皇子を天皇に立てようとしました。
永治(えいじ)元年(1141)、鳥羽上皇の圧力により崇徳天皇は譲位を余儀なくされます。新たに天皇となったのは、系譜上弟とされる近衛天皇(このえ・てんのう)でした。
その後、崇徳上皇は自らの皇子を即位させようと機会をうかがっていましたが、久寿(きゅうじゅ)2年(1155)に近衛天皇が眼病により17歳で崩御すると、崇徳天皇の同母弟(どうぼてい)・後白河天皇(ごしらかわ・てんのう)が即位してその皇子(後の二条天皇)が皇太子となりました。そして保元(ほうげん)元年(1156)に鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇はついに挙兵しました。これが「保元の乱」です。
崇徳上皇の挙兵は、後白河天皇方の罠だったと思われます。鳥羽上皇の危篤を聞いて鳥羽殿に駆けつけた崇徳上皇は、鳥羽上皇の近臣に面会を謝絶され、父子の最期の対面も叶いませんでした。崇徳上皇が近衛天皇を呪い殺したという噂や、崇徳上皇が反乱の準備をしているなどといった噂が意図的に広められたため、崇徳上皇は身の危険を感じ、挑発されるような形で挙兵の準備をはじめたのです。
一般的には「崇徳上皇が挙兵した」と表記されますが、「挙兵」といっても、先に攻撃をしかけたのは、崇徳上皇方ではなく、後白河天皇方です。「崇徳上皇ははめられた」のだと考えられます。
後白河天皇方の軍兵は、崇徳上皇方の白河北殿を夜襲で先制攻撃し、崇徳上皇方はあっけなく敗北を喫しました。崇徳上皇は仁和寺(にんなじ)に逃れたものの、捕らえられて遠方の讃岐国(さぬきのくに)(四国・香川県)に流されます。上皇は時に39歳、これから8年の配所(はいしょ)生活がはじまりました。
崇徳上皇は京都に帰ることをずっと夢見ていましたが、許されることはありませんでした。苦しみと失望と怒りのなかで、悶々と過ごしたのです。
そんな中、崇徳上皇は鳥羽上皇を弔おうと、流刑地で大掛かりな写経に着手しました。3年がかりで五部の大乗経の写経を完成させると、上皇は鳥羽院の墓所に納めようと写本を仁和寺に預けました。ところが、写経は後白河天皇の許しが得られずに返却されてしまいました。
『保元物語』(ほうげん・ものがたり)には写本が返却されてから上皇が崩御するまでを次のように書き記しています。
仁和寺からは、「(天皇の)お咎めが重いので手跡(しゅせき)であっても都に置くことができない」との理由で後白河天皇が写本の受入を拒絶したとの説明がありました。
これを聞いた崇徳上皇は激怒し、
「悔しい。我が国だけでなく、インドや中国でも王位を争って兄弟が合戦をすることはあるが、私はこのことを後悔して、自らの罪が救われるように、懺悔のために膨大な写経をしたのである。にもかかわらず、ただの手跡でさえも都に置かないということならば、いっそうのこと、この経を地獄に投げ込んで魔道に差し向け、自分が魔王となって遺恨を晴らそうではないか。天皇を取りつかまえて民となし、民を引き上げて天皇としてくれる」
というと、自らの指を噛み切って、したたる血液で大乗経に「天下滅亡」の呪いのことばを書き記しました。
その後、崇徳上皇は爪を伸ばし続け、髪と髭も切らずに、その姿は生きながらにして、およそ天狗のようであったと伝えられています。そして、長寛2年(1164)、崇徳上皇は46歳で憤死しました。
崇徳上皇が失意のうちに崩御すると、間もなく延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵による強訴(ごうそ)事件が起こり、度重なる飢饉と洪水によって社会が不安定になりました。これは崇徳上皇の怨念によるものだと、まことしやかに語られるようになったのです。
崇徳上皇の崩御から13年後の治承(しじょう)元年(1177)になって、朝廷は崇徳上皇の霊を慰めるために、院号である「讃岐院」に換えて「崇徳院」を贈りました。
ところが、社会の混乱は鎮まりませんでした。後白河上皇と平氏が対立を深め、治承(じしょう)元年(1177)には「鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀」が起こり、治承3年に後白河上皇は平清盛(たいらのきよもり)によって幽閉され、院政が停止されたのです。そして、壇ノ浦(だんのうら)の合戦に向けて、混乱は更に拡大していきました。これも崇徳上皇の怨念だと信じる者が多かったといいます。
保元の乱の戦場跡には鎮魂のために粟田宮(あわたのみや)が建てられましたが、その後も崇徳天皇の怨念の凄まじさは長年にわたって恐れられ、数世紀の後には京都に白峰宮が立てられました。
崇徳天皇の怨念はその後も忘れられることはありませんでした。崇徳天皇没後700年に当たる幕末の元治元年(1864)には、世情は混乱を極め、禁門の変が起きて崇徳天皇の怨念が再来したのではないかと心配されたのです。
崇徳天皇は今も、香川県坂出市の白峯陵(しらみねのみささぎ)に眠っています。

江戸時代の浮世絵に描かれた崇徳天皇(出典:ウィキペディア)
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