現在の皇室には、秋篠宮(あきしののみや)、常陸宮(ひたちのみや)、三笠宮(みかさのみや)、桂宮(かつらのみや)、高円宮(たかまどのみや)の5つの宮家があります。
しかし、若い世代に継承者がいらっしゃるのは秋篠宮だけですので、このままですと、少なくとも半世紀後には他の4つの宮家はなくなる運命にあります。
しかも、その秋篠宮ですら、若い世代の継承者は今のところ悠仁親王(ひさひと・しんのう)殿下お一人ですので、将来殿下が天皇に即位されると、秋篠宮もなくなります。
皇族男子がお生まれになると、長男は将来その宮家の当主となり、次男以下は結婚とともに新宮家を創設します。ですから、どこかの宮家に次男が誕生すると、将来新しい宮家ができることになりますが、現在、次男が誕生する可能性があるのは、秋篠宮だけであり、今後宮家が減ることはあっても、増えることはあまり期待することはできないのが現状です。
このように、いま宮家は受難の時代を迎えていますが、昭和20年(1945)の終戦時には14の宮家がありました。ところが日本が戦争に負けると、連合国総司令部(GHQ)は皇室改革を推し進め、皇族を少なくする措置が採られました。そして議論の末、14の宮家が3つに減らされることになったのです。
連合国は日本を占領するにあたり、当初皇室をなくしてしまおうと考えていました。当時のアメリカの世論はそれを支持していました。ところが、総司令官マッカーサー元帥は昭和天皇と会見して考え方を180度変更しました。
マッカーサー元帥は「天皇は命乞いをしに来る」と思っていたのですが、総司令部に御出ましになった昭和天皇は、命乞いどころか、「自分の命はどうなってもよいから、国民を餓えさせないでほしい」と仰せになり、マッカーサー元帥は皇室を存続させなくてはこの国は治まらないと直感しました。
そして昭和22年(1947)、昭和天皇の弟宮に当たられる、秩父宮(ちちぶのみや)、高松宮(たかまつのみや)、三笠宮(みかさのみや)の直宮(じきみや)3家を除いた、他の11宮家51名が一斉に皇族の身分を離れ、民間人になりました。皇族が皇族の身分を離れることを「皇籍離脱」(こうせきりだつ)といいます。
14の宮家を3家に減少させることには強い反発もありました。「もし皇統が途絶えることになったらどうするのか」という意見です。それに対して当時宮内省(くないしょう)次官だった加藤進(かとう・すすむ)氏が「かつての皇族の中に社会的に尊敬される人がおり、それを国民が認めるならその人が皇位についてはどうでしょうか。」と述べ、皇籍離脱する皇族には「万が一にも皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい」と意見したことが記録されています。
宮家とは、室町時代に作られた制度で、いざ天皇家が断絶しそうになったら天皇を出す役割を担いながら代々世襲される家のことです。室町以降は皇統断絶の危機が2回ありましたが、1回は伏見宮(ふしみのみや)から天皇を出し、そしてもう1回は閑院宮(かんいんのみや)から天皇を出すことで皇統は保たれました。そして、現在の皇室は、閑院宮の血を引いていらっしゃいます。
江戸期には4つの宮家がありました。伏見宮、桂宮(現在の桂宮とは別)、有栖川宮(ありすがわのみや)、閑院宮の4家です。しかし、その内3家は継承者不在で既に断絶となり、終戦時には伏見宮だけが残っていました。
昭和22年に皇籍離脱した十一宮家は、全て伏見宮の系統です。伏見宮が創設されたのは今からおよそ600年前の南北朝時代で、初代伏見宮は北朝第3代崇光天皇(すこうてんのう)の第一皇子でした。
江戸末期には、伏見宮第19代邦家親王(くにいえ・しんのう)が子沢山に恵まれ、明治維新後に8つの宮家が伏見宮から分立しました。さらにその後、新しい宮家から分立する宮家もあり、明治期に宮家の数が増やされ、増減を繰り返しながら、終戦時には伏見宮系統の十一の宮家があったのです。
伏見宮は600年も昔に天皇家から分立した家ですから、天皇家から相当の隔たりがあると思うかもしれません。しかし、伏見宮と天皇家は600年間、お互いに娘を嫁がせながら、常に近い関係を保ってきたのです。
明治天皇の皇女の内、成人した内親王4方は、いずれも邦家親王の孫と結婚し、その内の3方は新しい宮家を創設しました。それが朝香宮(あさかのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)、竹田宮(たけだのみや)の3家です。
皇籍離脱した十一宮家51名は、それまで国から生活が保証されていたのですが、それがなくなったために、生活費は自ら稼ぎ出さなくてはいけなくなりました。与えられていた大きな邸宅も、間もなく90%の財産財が課税されたことで、納税するために手放さなければなりませんでした。
十一宮家の状況は家ごとに異なりますが、皇籍離脱当時に子どもだった世代は、その後大学を卒業して就職する人が多くいましたが、当時の当主は、昨日まで皇族だった人がどこかに就職するというのもなかなか難しく、苦労が多かったようです。また、皇籍離脱時に高齢だった当主は、僅かに残った財産を切り売りしながら生活していました。
その後、十一宮家は4家が既に断絶し、2家は現在の当主をもって末代となるので、断絶することになります。ですから、若い世代に継承者が残るのは5家のみとなりました。
十一宮家が皇籍離脱するに当たり、昭和天皇の思召(おぼしめし)によって菊栄親睦会という会が設立されました。皇室と旧皇族の親睦を深めるための会です。新年の祝賀、天皇誕生日をはじめ、様々な機会に旧皇族が招かれ、現在でも皇室と旧皇族は深い関係にあります。
終戦旧皇族は自らの生計を立てることに精一杯だったかもしれませんが、暫くすると公職に就く人も現れました。旧竹田宮の竹田恒徳は日本オリンピック委員会委員長、国際オリンピック委員会理事その他スポーツ関係の団体の役員を歴任した他、現在では旧北白川宮当主が神宮大宮司を、また旧久邇宮当主が神社本庁統理を勤めています。
十一宮家の現在
伏見宮(ふしみのみや) 現当主で断絶
山階宮(やましなのみや) 断絶
賀陽宮(かやのみや)
久邇宮(くにのみや) (現当主は神社本庁統理)
梨本宮(なしもとのみや) 断絶
朝香宮(あさかのみや)
東久邇宮(ひがしくにのみや)
北白川宮(きたしらかわのみや) 現当主で断絶 (現当主は神宮大宮司)
竹田宮(たけだのみや)
閑院宮(かんいんのみや) 断絶
東伏見宮(ひがしふしみのみや) 断絶
※ 天皇家と十一宮家の略図はこちら