これまで「自殺した天皇」(第30回)と「殺された天皇」(第40回)そして、「殺されかけた天皇@」(第42回)などを記事にしてきましたが、今回は「殺されかけた天皇A」をお届けいたします。
天皇が暗殺の対象になるということは、現在では信じ難いことです。しかし、誠に畏れ多いことではありますが、歴代天皇の中には、暗殺未遂事件に巻き込まれた方もいらっしゃいました。
「殺されかけた天皇@」では第11代・垂仁天皇(すいにん・てんのう)と第65代・花山天皇(かざん・てんのう)を紹介しましたが、今回は第92代・伏見天皇(ふしみ・てんのう)と第124代・昭和天皇(しょうわ・てんのう)の暗殺未遂事件について述べます。
伏見天皇
13世紀後半に天皇の位にあった伏見天皇も暗殺の難を逃れた天皇です。
伏見天皇の時代は南北朝時代(なんぼくちょう・じだい)に当たり、互いに対立する持明院統(じみょういん・とう)(後深草天皇の系統)と大覚寺統(だいかくじ・とう)(亀山天皇の系統)が、幕府に働きかけながら交互いに皇位を継承するという異例の時代でした。
伏見天皇が即位して間もなく、伏見天皇の皇子(後の後伏見天皇)が立太子したため、持明院統は大きな力を持つことになり、大覚寺統との覇権争いは激化していました。
そんな中、天皇暗殺未遂事件が起こります。正応(しょうおう)3年(1290)3月9日の夜、甲斐源氏・浅原為頼(あさはら・ためより)一族数名が武装して宮中に乱入し、天皇の命を狙ったのです。
天皇の命を救ったのは、女官のとっさの機転でした。「天皇はどこに寝ておられるか」との武士の問いに対して、嘘をいって時間を稼ぎ、その間に天皇は女装して宮中から逃れました。
女官たちは、まだ幼い東宮(とうぐう)(皇太子のこと)を抱きかかえ、また三種の神器の内の剣璽(けんじ)(剣と勾玉)、そして管弦(かんげん)の名器もしっかりと運び出して守りました。
そして反乱軍は警護の武士の防戦によって鎮圧され、為頼は天皇の寝床である「夜の御殿(おとど)」で、天皇の御敷きものの上で自害し、またその長男は紫宸殿(ししんでん)の御帳台(みちょうだい)の中で果てました。
この恐ろしい事件は当初、弘安合戦(こうあんの・かっせん)により所領を没収されたことへの反抗と考えられていましたが、為頼が自害したのが三条家に伝わる鯰尾(なまずお)という刀だったことが分かり、三条実盛(さんじょう・さねもり)が関与していたことが発覚し、天皇暗殺未遂事件の背後には亀山上皇がいるとの噂が広がりました。
伏見天皇も事件を究明する動きを見せるも、亀山上皇が幕府に対して事件と関係がないことの誓いを立てたことで、真相は究明されないまま終わりました。
しかし、殺されかけた伏見天皇は、暗殺未遂事件の黒幕が亀山上皇であることを確信していたと思われます。事件から二年後の正応5年(1292)正月、亀山上皇が後深草上皇に事件のことを詫びる夢を、伏見天皇が見たことが記録されています。このとき伏見天皇は、「これほどの吉夢はない」と書き残していることから、天皇は亀山上皇が事件の黒幕であると信じていたことがわかります。
昭和天皇
昭和天皇は生涯、二度の暗殺未遂事件に巻き込まれました。その一回目は、皇太子時代の大正12年(1923)12月27日、虎ノ門(とらのもん)で起きました。
第48回帝国議会の開院式に向かう摂政(せっしょう)・皇太子裕仁親王(ひろひと・しんのう)(後の昭和天皇)の御召自動車(おめし・じどうしゃ)に向けてステッキ状の銃から銃弾が撃たれました。至近距離でしたが銃弾は幸いにも、僅かに皇太子の顔を外れ、車のガラスが破損しただけで済み、皇太子は難を逃れました。
皇太子の暗殺を狙った青年は、その後も車を追い「革命万歳!」と連呼したところを警官に取り押さえられました。この狙撃事件は「虎ノ門事件」と呼ばれています。
現行犯で逮捕された難波大助(なんば・だいすけ)は翌年11月13日、大審院(だいしんいん)(最高裁判所の前身)で死刑判決が言い渡されました。このとき難波は「日本無産労働者、日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳」を三唱したと伝えられています。そして判決の2日後に死刑が執行されました。
この暗殺未遂事件により、第二次山本権兵衛(やまもと・ごんべい)内閣は責任をとって総辞職となり、警視総監・湯浅倉平(ゆあさ・くらへい)、警視庁警務部長・正力松太郎(しょうりき・まつたろう)らが懲戒免職となった他、難波の出身地である山口県の知事が二ヶ月減給の処分を受け、また難波の出身小学校の校長と訓導は辞職しました。そのうえ、難波が上京するときに京都に立ち寄ったというだけで、京都府知事も処分の対象とされました。
ところで、天皇の暗殺を試みた難波大助は山口県の名家の生まれで、大助の父親は何と現職の衆議院議員でした。父親の難波作之進は、事件の当日議員を辞職し、山口県周防村(現在山口県光市)の自宅で閉門蟄居(へいもん・ちっきょ)していましたが、食事を減じて自らの死期を早め、大助処刑からおよそ半年後に餓死しました。
昭和7年(1932)1月8日、昭和天皇に対する二回目の暗殺未遂事件が起きました。「桜田門事件」(さくらだもん・じけん)です。事件が起きた桜田門は皇居の門の一つで、安政7年(1860)に井伊直弼(いい・なおすけ)が殺害された「桜田門外の変」の現場でもあります。
この日、午前11時44分頃、代々木練兵場(よよぎ・れんぺいじょう)で行われた陸軍観兵式(りくぐん・かんぺいしき)から還幸(かんこう)(天皇がお帰りになること)途中の昭和天皇の行列が桜田門前に差しかかったとき、沿道から手榴弾(しゅりゅうだん)が投げつけられました。
手榴弾は威力が小さかった上に、的を大きく外しました。天皇の御料車(ごりょうしゃ)のおよそ33メートル前方を走っていた宮内大臣(くない・だいじん)乗車の馬車左後車輪付近で炸裂した手榴弾は、馬車の一部を損傷させ、近衛兵(このえへい)一名と馬二頭に怪我を負わせました。
犯人の朝鮮人・李奉昌(り・ほうしょう)は現場で直ちに警察官・憲兵に逮捕されました。その後の取調べで、犯人は天皇暗殺を意図していたものの、宮内大臣の馬車を天皇の馬車と勘違いして、違う馬車に手榴弾を投げたことが分かりました。
李奉昌は同年9月30日、大審院にて大逆罪(たいぎゃくざい)の死刑判決が下り、10月10日に市谷刑務所で死刑が執行されました。
李奉昌は、朝鮮半島を日本の支配から解放させようとする「大韓民国臨時政府」(在中国上海)が組織した「韓人愛国団」(かんじん・あいこくだん)の一員でした。
臨時政府主席の金九から天皇暗殺の指令を受けた李奉昌は、上海から氷川丸(ひかわまる)に乗って神戸に入り、しばらく東京で犯行の機会を窺っていたのです。
犯人の李奉昌は、日本ではテロリストとして処刑されましたが、大韓民国では、現在に至っても未だに英雄とされています。
李奉昌は処刑後、ソウルにて国民葬が行われ、独立運動の義士として埋葬され、現在は独立記念館で顕彰(けんしょう)されています。しかも、1992年には李奉昌逝去60周年を記念する郵便切手が発行されました。また教科書では未だに李奉昌を愛国の義士として紹介しており、テロリストを賛美する教育をしています。
しかし、当時の日本政府は、李奉昌による犯行を「個人の犯罪」として処罰するに留めました。オーストリア皇太子暗殺で第一次世界大戦が始まったときのように、日本政府が朝鮮人民に対して報復措置を講ずることはなかったのです。
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