以前、第40回で「殺された天皇」と題して暗殺された歴代天皇を紹介しましたが、今回は暗殺未遂事件のあった天皇を紹介します。天皇暗殺未遂事件の全てを網羅することは困難ですが、主なものを挙げることにします。
垂仁天皇
歴代天皇の中で最初に暗殺未遂が記録されているのは、第11代垂仁天皇(すいにん・てんのう)です。
古事記によると、垂仁天皇の皇后沙本毘売(さほびめ)は、兄の沙本毘古王(さほびこ・おう)に「お前と私とで天下を治めよう。この小刀で寝ているすきに天皇を刺し殺せ」とそそのかされ、幾度も鍛えた小刀を渡されました。
何も知らない天皇は皇后の膝を枕にして眠っていました。皇后は天皇の首を刺そうと三度小刀を振り上げましたが、結局首を刺すことができず、溢れた涙が天皇の顔にしたたり落ちました。
天皇はふいに目覚め、「私は奇妙な夢を見た。沙本(さほ)(佐保川の流れる現在の奈良市法蓮町周辺の古称)の方から激しい雨が降ってきて、急に私の顔を濡らした。また蛇が私の顔に巻きついた。この夢はいったい何の兆(きざ)しなのだろうか?」と皇后に尋ねました。
そこで皇后は観念して、兄から天皇を刺し殺すように言われたことを打ち明け、きっとその兆しであることを述べました。
天皇は激怒して兵を挙げ、皇后の兄・沙本毘古王を討とうとします。沙本毘古王は稲城(いなき)(稲穂の束で作った砦)を作ってこれに応戦しました。
すると、兄を可愛そうに思った皇后沙本毘売は、裏門からこっそりと抜け出して、兄のいる稲城へ行ったのです。
この時、沙本毘売のおなかの中には天皇の皇子(みこ)がいました。天皇は稲城を攻めるに攻められず、ただ包囲していたのですが、やがて稲城で皇子が誕生します。
沙本毘売は皇子を稲城の外に置き、「もしこの子が天皇の皇子であると思われるなら、受け取ってください」と天皇に伝えさせました。それに対して天皇は「兄を恨んでいるも、后(きさき)を愛おしく思う心をこらえきれない」と答えました。
天皇は兵士の中から特に強い者を集めさせ、皇子を受け取る時に、その母も同時に掴み取ってくるように命じました。
ところが沙本毘売は天皇のそのような計画を予測していて、髪を剃り、その髪で頭を覆い、玉のひもと衣服を腐らせて準備し、皇子を抱いて城の外へ差し出しました。
天皇の兵士は皇子を受け取ると、すぐに沙本毘売の髪、身に着けている装飾品・衣服などに掴みかかり、沙本毘売を天皇のもとに連れ戻そうとしますが、髪はずり落ち、玉のひもや衣服はちぎれ、とても掴み取ることができませんでした。
天皇は遣いを立てて、「子の名前は母が付けることになっているが、この子の名前はどうしたらよいか」と尋ねたところ、沙本毘売から「火が稲城を焼く時に、火の中で生まれた子なので、その名を本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)と名付けるのがよいでしょう」と答えました。
そしてついに天皇は軍を動かして稲城を攻め落とし、沙本毘古王を討ったのです。皇后沙本毘売は兄と運命を共にしました。
花山天皇
10世紀の末に天皇の位にあった第65代花山天皇(かざん・てんのう)も暗殺未遂事件に巻き込まれた天皇です。
事件は天皇が退位して落飾(らくしょく)(髪を剃って仏門にはいること)した後に起こります。恋愛をめぐるトラブルが発展したものでした。
花山天皇は女御(にょうご)(皇后に次ぐ妃のこと)・藤原?子(ふじわらの・しし)を寵愛(ちょうあい)していましたが、?子は懐妊八ヶ月で他界してしまいます。その時の天皇の失意は大きかったと伝えられています。
その後天皇は退位して花山法皇(かざん・ほうおう)となってから、?子の妹に恋をしました。ところが、時の内大臣・藤原伊周(ふじわらの・これちか)も同じく?子の妹に恋をしていたのです。
恋愛のもつれというのは何時の時代も恐ろしいものです。長徳(ちょうとく)2年(996)4月、伊周と弟の藤原隆家(ふじわらの・たかいえ)は花山法皇に矢を射掛(いか)けて、矢が法皇の袖(そで)を突き通し、さらには別の矢によって法皇の従者を死亡させるという事件を起こしました。「長徳の変」です。この事件により、藤原伊周と藤原隆家は左遷され、失脚することになります。
しかし、この事件は藤原伊周のとんだ勘違いが引き起こしたものでした。?子には複数の妹がいました。花山法皇が恋をした?子の妹と、藤原伊周が恋をした?子の妹というのは、全くの別人だったのです。
暗殺未遂事件に巻き込まれた天皇は、垂仁天皇、花山天皇の他にも例があります。第44回では「殺されかけた天皇A」と題して、さらに掘り下げていきます。おたのしみに。
関連記事
第30回、自殺した天皇
関連記事
第40回、殺された天皇