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vol.40 殺された天皇
 天皇は「暗殺」とは無縁だと思っている人も多いかもしれません。しかし、124代の歴代天皇の内、第20代安康天皇(あんこう・てんのう)と第32代崇峻天皇(すしゅん・てんのう)は暗殺された天皇として記録されています。
 その他にも、第31代用明天皇(ようめい・てんのう)、第47代淳仁天皇(じゅんにん・てんのう)、第132代孝明天皇(こうめい・てんのう)などは、真相は分かりませんが暗殺だったのではないかという説があります。

 安康天皇が天皇の位にあったのは遥か昔古代、五世紀後半頃です。安康天皇は自らの弟で、後に雄略天皇(ゆうりゃく・てんのう)になる大泊瀬皇子(おおはつせの・おうじ)のために、大草香皇子(おおくさかの・おうじ)の妹を妃として迎えることを考えたのですが、奸計(かんけい)によって天皇は大草香皇子を殺してしまいました。
 そして、安康天皇は大草香皇子の妃・中蒂姫(なかしひめ)(履中天皇皇女)を自分の妃としました。中蒂姫には大草香皇子との間に眉輪王(まよわのおおきみ)という子があり、母が安康天皇と再婚したことで、天皇のもとで育てられたのです。
 しかし、ある日天皇が中蒂姫に「眉輪王が怖い」と言ったのを聞いた眉輪王は、天皇が熟睡している間に、何と天皇を刺し殺してしまったのです。実父の仇を討った眉輪王は、当時七歳だったと伝えられています。安康天皇が崩御すると、弟の大泊瀬皇子が即位して雄略天皇となりました。

 安康天皇の暗殺は親族間での敵討ちでしたが、6世紀後半に御位にあった崇峻天皇は古代日本におけるテロにより暗殺されました。
 そしてこのことは『日本書紀』に記録されています。暗殺されたと考えられている天皇の中でも、暗殺の詳細がこれほど明確に記録され、また犯人も判明している例は他にありません。
 第29代欽明天皇(きんめい・てんのう)の皇子として誕生した崇峻天皇は、先代の用明天皇が崩御すると、蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)の熾烈な権力抗争を経て、蘇我馬子(そがの・うまこ)の後押しによって天皇に即位しました。
 しかし、崇峻天皇即位後の蘇我馬子は政治的権力の頂点に上り詰め、天皇に対しても横暴な態度を取るようになったため、天皇は馬子に対して反感を持つようになりました。
 誰かが天皇に猪を奉ったとき、天皇が「いつの日かこの猪の首を斬るように、自分の憎いと思う人の首を斬りたい」と話したのを聞きつけた蘇我馬子は、それが自分のことであると思って身の危険を感じ、崇峻天皇5年(592)11月、東漢直駒(やまとのあやの・あたいこま)を使って天皇を暗殺しました。
 ところで、天皇を殺めた直駒は、馬子の娘・河上娘(かわかみのいらつめ)と密通したということで、馬子によって殺されます。また、馬子の孫・蘇我入鹿(そがの・いるか)は大化の改新で後に天智天皇(てんじ・てんのう)となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)によって殺害され、その後蘇我氏は滅亡することになります。因縁の応酬ではないでしょうか。

 用明天皇・淳仁天皇など暗殺説が唱えられる天皇の中で、最もその真偽をめぐって激しい論争が繰り返されているのは孝明天皇です。
 孝明天皇が崩御遊ばしたのは慶應2年(1866)12月25日(西暦1867年1月30日)です。公式には痘瘡(とうそう)(天然痘)が原因とされましたが、当時から「天皇は殺められたのだ」との噂が広がり、いまでも有力な暗殺説があります。
 崩御14日前の12月11日、天皇は風邪に似た症状を発し、13日には症状が悪化して死の床に就きました。
 16日、典医(てんい)は孝明天皇の病気は痘瘡であると結論し、看病が続けられました。その甲斐あってか、やがて回復の兆しを見せ始め、間もなく完治するものと誰もが思っていたのですが、24日の夜になって天皇の容体が急変しました。
 孝明天皇は25日、前日までとは打って変わって食事や水分を摂れなくなり、そして高熱に見舞われました。
 その後、孝明天皇は激しい嘔吐・下痢・下血を繰り返し、その日の午後十一時頃「九穴(きゅうけつ)より御脱血(ごだっけつ)」という断末魔の苦しみの末、壮絶な崩御を遂げられたのです。享年35歳という若さでした。
 孝明天皇の死には不審な点が多く、当時から孝明天皇の死を第三者による毒殺ではないかという噂がありました。孝明天皇の存在を嫌う勢力の誰かが、天皇が痘瘡に罹ったことに乗じて、天皇が崩ずる前日、つまり24日の晩に毒を盛った可能性が現在でも指摘されています。
 孝明天皇の崩御から間もなく、徳川幕府が崩壊します。孝明天皇は最後まで討幕に反対していました。討幕はから見ると天皇は討幕の最大の障壁となっていました。討幕を意図する誰かが天皇暗殺を目論んだのではないかと考えられています。

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出典:「お世継ぎ」(平凡社)八幡和郎 著
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作家 プロフィール
山崎 元(やまざき・はじめ)
昭和50年、東京生まれ。旧皇族・竹田家に生まれる。慶応義塾大学法学部法律学科卒。財団法人ロングステイ財団専務理事。孝明天皇研究に従事。明治天皇の玄孫にあたる。著書に『語られなかった皇族たちの真実』(小学館)がある。
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