「天皇」といえば、恵まれた環境で生活し、幸せな人生を全うする方ばかりかと思う人も多いかもしれませんが、必ずしもそうでもありません。中には非業の死を遂げられた天皇もいらっしゃいます。むしろ、確率的には特別な最期を迎える方が多いといえるでしょう。
124代の歴代天皇の内、分かっているだけでも、殺害された天皇2方(殺害説のある天皇は別に4方)、事故死された天皇1方、怒りのあまり憤死された天皇1方、呪い殺された天皇1方、そして自殺された天皇2方がいらっしゃいます。
また、流された天皇、幽閉された天皇、隠居させられた天皇、追放された天皇、逃亡された天皇などもいらっしゃいます。
今回は「自殺された天皇」について掘り下げてみることにしましょう。その二方とは、第39代弘文天皇(こうぶんてんのう)と、第81代安徳天皇(あんとくてんのう)です。
弘文天皇はその名を大友皇子(おおとものおうじ)といい、第38代天智天皇(てんじてんのう)の長子として誕生しました。大友皇子は父帝から大切にされ、我が国最初の太政大臣となり、実質的に皇太子として扱われていました。
天智天皇が崩御されると、大友皇子は近江朝廷の中心となりますが、皇位継承を巡って争いが勃発してしまいます。
先帝の長子である大友皇子は有力な後継者ではありましたが、先帝の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)も同じく有力な存在で、この両者が深く対立し、672年に戦火を交えることになったのです。これが有名な「壬申の乱」(じんしんのらん)です。
大友皇子は七月二十二日、瀬田川の決戦で蜂起した叔父・大海人皇子の軍勢に破れ、一時は右大臣・左大臣と共に戦場を離脱することに成功しますが、従う者はわずか2、3人だったといわれています。そして遂に翌二十三日、大友皇子は山前(諸説あるが現在の京都府乙訓郡大山崎町が有力)で自ら首をくくって自決、25歳の人生を閉じました。
大友皇子の首は不破宮(現在の岐阜県不破郡)にいる大海人皇子のもとに届けられました。そして大海人皇子は即位して天武天皇となったのです。
『日本書紀』は壬申の乱で敗れた大友皇子の即位を認めていませんが、そもそも『日本書紀』は天武天皇が編纂を命じたものであり、大友皇子の即位を認めたくないという事情があったものと考えられます。
しかし、天智天皇の崩御に伴い大友皇子が即位し、もしくは少なくとも天皇の大権を行使する立場にあったという説が有力です。明治時代になって正式に「弘文天皇」が追号され、大友皇子は歴代天皇に数えられることになりました。
大友皇子は戦地で自決するという壮絶な最期を遂げた天皇ですが、大変優秀な文化人だったと伝えられています。風貌はたくましく、頭脳明晰、しかも文武両道で、漢詩の才覚もずば抜けていたといいます。唐使の劉徳高(りゅうとくこう)は大友皇子のことを「彼の器はこの国に収まりきらない」と評したほどでした。
血なまぐさい動乱期ではなく平和な時代に生を受けていれば、大友皇子は歴史を代表する優秀な天皇として刻まれていたと思うと残念でなりません。
次の安徳天皇は平安時代後期の天皇で、3歳にして即位した幼帝です。第80代高倉天皇(たかくらてんのう)の第一皇子として誕生しました。母親は平清盛(たいらの・きよもり)の娘ですので、安徳天皇は平清盛の孫ということになります。安徳天皇の即位は、平氏が政治的に台頭するための切り札だったのです。
しかし、長らく続いた平氏の時代も終わりが近づいていました。寿永2年(1183)、源義仲(みなもとの・よしなか)が備中、続けて加賀で平氏を破って京都に迫りました。結局平宗盛(たいらの・むねもり)は幼い帝を擁して、三種の神器と共に西へ落ちのびました。
それから二年の間に平氏は、一の谷と屋島の戦で次々と破れ、文治元年(1185)三月二十四日、ついに壇ノ浦(だんのうら)(現在の山口県下関市)の海上で源平最期の決戦を迎えます。これが「壇ノ浦の合戦」です。
しかし、潮流の速度と方向を利用した源氏が優勢となり、源義経(みなもとの・よしつね)の奇策もあり、平氏の敗色が濃くなります。
全軍を総指揮していた平知盛(たいらの・とももり)以下、平氏一門の武将はことごとく討ち死にし、平家は滅亡しました。殲滅戦の中、いまだ8歳の安徳天皇は、三種の神器の内の剣と勾玉もろとも二位尼時子(にいのあま・ときこ)(平清盛の妻)に抱かれて入水(じゅすい)、天皇崩御となったのです。
確かに天皇は自らの意思で命を絶ったわけではないので、「自殺」に分類するのに異論もあることと思いますが、「入水」なので一種の自殺と考えました。
安徳天皇は平氏の血を受け継いだために天皇となり、また平氏の血を受け継いだために若くして非業の死を遂げなければなりませんでした。平家により翻弄された短い人生は戦地で入水することで幕を閉じました。その死は誠にいたましい死だったといわざるをえません。