皇室のきょうかしょ 皇室のあれこれを旧皇族・竹田家の竹田恒泰に学ぶ!
vol.28 自称天皇
 平成18年(2006)9月11日、東京地裁で、ある奇怪な事件の判決が下されました。「皇室、皇族を崇敬する心情を踏みにじる犯行」とした被告人2人に対する懲役2年2ヶ月の実刑判決です。
 事件は平成15年(2003)4月6日に起きました。東京の青山で結婚披露宴を開いた自称「有栖川識仁(ありすがわ・さとひと)」とその「妃殿下」二人は、自らを大正時代に後継者がなく断絶したはずの有栖川宮(ありすがわのみや)の継承者で、自らを皇族であると偽り、集まった400人の招待客から祝儀(しゅうぎ)を騙し取りました。皇族への畏敬(いけい)を利用した、まさにとんでもない事件です
 しかし、このような「自称皇族」(皇族と偽った)の詐欺事件は枚挙に暇がなく、これが初めてではありません。かつては「自称皇族」どころか、なんと「自称天皇」もいたのです。

 天皇を自称した人物の中でも、最も有名なのが熊沢天皇(くまざわ・てんのう)、こと熊沢寛道(くまざわ・ひろみち)です。
 日本の敗戦直後、熊沢は「私こそ南朝正系の皇胤(こういん)で皇位継承者である。北朝の天皇裕仁(ひろひと)(昭和天皇)は偽天皇であるから、速やかに退位せよ」などと天皇宣言を行い、話題を呼びました。
 熊沢はまず、連合軍総司令官マッカーサーに請願書を送ります。そこでは「日本の暗黒政治を一掃するには北朝の系統たる現皇室より『南朝系統』に大権を奉還(ほうかん)する先約を実行するより他にない」として、昭和天皇の退位と、自分の天皇即位への協力を求めました。
 すると進駐軍側も、日本を弱体化させる政策の一環として、熊沢天皇を利用します。アメリカの有名な写真誌「ライフ」や進駐軍新聞「星条旗」は、「寛道天皇が真の天皇であろう」と大きく報じました。日本の各新聞も一斉に報じるようになり「熊沢天皇」はまたたく間に世間へ知られていったのでした。
 そこから熊沢は一躍時の人となります。全国各地で「真偽両様の皇統史」と題する講演会を行い「南朝奉戴国民同盟」なるものを組織し、政党・正皇党の党首に就任し、さらには「熊沢寛道は分家で、真の熊沢天皇は宗家の私である」と主張する「新・熊沢天皇」まで現れる始末でした。
 しかし国民も馬鹿ではありません。結局国民の大多数は、熊沢を好奇の目で見るだけで、昭和21年(1946)の人間宣言後も昭和天皇に対して変わらぬ支持をします。
 さらに熊沢が南朝の正系であるという主張も学会から否定され、熊沢の希望は徐々に潰えていきます。進駐軍のバックアップも消え、支持者も減った熊沢は、何度か悪あがきをしつつも、結局寂しい晩年を過ごすこととなりました。

 同じく、南朝系の皇胤を自称したのが、三浦天皇(みうら・てんのう)、こと三浦芳聖(みうら・よしまさ)です。
 三浦は、愛知県豊川市で「神風串呂講究会」(しんぷうかんろこうきゅうかい)を主宰していました。「神風串呂」とは、地図と糸を道具にして霊的な解釈を行う神法のことです。そうして得られた神示によって、皇居移転や日本に起こる天変地異などを進言書にして政府へと送りつけていました。
 ある日、三浦は父の遺言に従って蔵から『三浦皇統家系譜』なるものが入った瓶(かめ)を掘り出し、家系の秘密を知ったというのです。
 自分が南朝系の直系であると「気付いた」という三浦は「南朝の直系である自分こそが真の天皇資格者で、北朝の天皇は偽天皇である」と主張するようになります。しかし、その後田中光顕(たなか・みつあき)伯爵から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回りました。
 その後の三浦は神風串呂の膨大な量の鑑定を続け、その結果を次々に政府に主張します。しかし「皇居を遷都しないと大変な国難に見舞われる」「再宣戦布告すべし」「昭和天皇はタヌキにとりつかれている」などの主張が聞き入れられることはありませんでした。

 次に「南北朝」ではなく「西朝」の皇胤を名乗ったのが、長浜天皇(ながはま・てんのう)、こと長浜豊彦(ながはま・とよひこ)です。
 太平洋戦争(大東亜戦争)の戦場としても有名な鹿児島県南部沖にある硫黄島(いおうじま)では、この西朝伝説が残っています。
 壇ノ浦(だんのうら)で入水(じゅすい)したとされる第81代安徳天皇(あんとく・てんのう)が実は生き延びていて、硫黄島へ渡り西朝を開いたというのです。そして、その安徳天皇の皇統を硫黄島では西朝と称し、その後裔をごく普通に「天皇」と呼んでいたそうです。
 島で元々「天皇」と呼ばれていた長浜は、戦後改めて天皇宣言を行います。自分が安徳天皇の直系であることを認めてもらいたかったというのが動機のようです。長浜は自らが昭和天皇に取って代わろうとしたわけではありませんでした。そこが他の自称天皇との違いでしょう。
 その正当性については一時中央の政界人をも巻き込んだ騒ぎにもなりましたが、結局は「天皇」と認められることはありませんでした。ともあれ、元々地元民から慕われていた長浜天皇は、幸せな晩年を過ごしたそうです。

 これまで見てきた「自称天皇」は皆血統を根拠にその正当性を主張するものでしたが、中には「天皇霊(すめらみことのみたま)が自分に移った」として天皇宣言する奇天烈(きてれつ)な人物もいました。それが璽光尊(じこうそん)、こと長岡良子(ながおか・ながこ)です。
 璽光尊とは、璽宇教(じうきょう)という宗教の教祖のことを指します。長岡は昭和21年、人間宣言をした昭和天皇から天照大神が去って自分の身体に乗り移ったとの神示を受けたというのです。
 そこで同年「霊寿(れいじゅ)元年」と元号を改め「璽宇内閣」を組閣、東京から石川県金沢市に璽宇皇居を遷宮、新皇居を十六弁の菊花紋で飾りました。翌年、天変地異を予言し、献上品を出した信者にその後流通するとされた私製の紙幣を渡しました。
 その後石川警察本部に長岡ら教団幹部は拘束されます。翌日、他の幹部らとともに釈放されますが、長岡は精神鑑定で「妄想性痴呆症」(もうそうせい・ちほうしょう)と診断されます。
 事件後、長岡は各地に遷宮し、晩年は横浜の璽宇皇居に落ち着きます。長岡は最後まで主張を曲げず、高松宮などの皇族方にも参内を命じる神勅を送り、昭和天皇にも「お詫び参内」すべしと訴え続けましたが、全て無視されました。
 
 このように様々なタイプの「自称天皇」がいましたが、その多くは戦後十年ほどの期間に現れました。なんとその数は確認される範囲で二十人をゆうに超えます。
 ではなぜ、この時期にたくさんの「自称天皇」が現れたのでしょうか?
 太平洋戦争で日本は敗戦し、天皇を中心とした国家神道体制の大日本帝国が崩壊、皇室は危機に瀕していました。その皇室の危機の時期を見計らって、次々と「自称天皇」が名乗りを上げたからです。
 しかし「自称天皇」の出現は、国民にとって「皇室とは何か」を考えるきっかけとなりました。その結果、国民は昭和天皇を支持したのです。昭和天皇が全国へと行幸なさって国民を激励、各地で熱狂的な支持をお受けになる一方で「自称天皇」は次第に飽きられ、時代の影へと消えていきました。
 現在まで続く皇室の伝統。それを考える上で「自称天皇」の出現は、一つの象徴的な出来事だといえるでしょう。
 平成18年に判決が下った冒頭の「有栖川宮詐欺事件」も、平成の御世において「皇室とは何か」を考えるよい機会ではないでしょうか。


出典:「お世継ぎ」(平凡社)八幡和郎 著
皇室の系統図(クリックで拡大)

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作家 プロフィール
山崎 元(やまざき・はじめ)
昭和50年、東京生まれ。旧皇族・竹田家に生まれる。慶応義塾大学法学部法律学科卒。財団法人ロングステイ財団専務理事。孝明天皇研究に従事。明治天皇の玄孫にあたる。著書に『語られなかった皇族たちの真実』(小学館)がある。
artist H.P.>>
ケータイタケシ

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