室町時代初期から使われはじめた「御所ことば」は、時代が下るに従って発展し、幕末から明治時代にかけて最盛期を迎えます。江戸期には婦人の教養書に御所ことばが紹介されるようになり、またそれらの教養書がベストセラーになったため、一部の御所ことばが急速に一般語化しました。それが前回の冒頭に紹介した「おみおつけ」や「おしゃもじ」などです。
御所ことばはブームになりました。上流階級の婦人たちが、争うように、教養として御所ことばを身に付けようとしました。
御所ことばは雅で、しかも音も柔らかく、上流階級の婦人がこれを話すと、一層上品に見えたのでしょう。
御所ことばと一般語は単語が違うだけでなく、挨拶の作法も異なります。たとえば一般語では人と会った際に「こんにちは」で済みますが、御所ことばでは簡単には済みません。
高松宮妃喜久子(たかまつのみやきくこ)殿下の手記によると、両陛下へ挨拶をする場合は次の通りだそうです。
まず「こんにちはまことにお暑いことでございます」といった時候の挨拶から始まり、続けて、両陛下のご機嫌を伺いで「お揃いあそばしましてご機嫌ようならっしゃいまして」といい、さらに続けて「大宮(おおみや)さんにもなんのお障りもあらっしゃりませんで」と、皇太后陛下がお元気でいらっしゃることに触れ、その上、女官長が近くにいれば、「楊梅(やまもも)の典侍(すけ)さんにもなんのお障りものう」(「楊梅」というのは当時の女官長の源氏名、「典侍」とは女官の位のこと)と、女官長が元気なことなどにも順に触れ、そしてやっと本題に入ることができるというのです。
(「大宮さん」と「典侍さん」では同じことを言っていても、語尾が異なるのに注目。これは目上に対する言葉と、目下に対する言葉の違いです。)
民間人がこれをそのまま真似をしたということではありませんが、よそ様のお宅に伺った際に、時候の挨拶、ご機嫌伺い、そしてお父様やお母様のご機嫌などにも気を配る挨拶をすれば、それは誠に丁寧で印象も良いわけです。
その他にも、女官同士が廊下ですれ違う際に「お許しあそばせ」という言い方がありますが、この言葉を使える女性は、御所ことばのことを知らない人からも上品な印象を受けるのではないでしょうか。
このような御所ことばの作法は、現在の女性も身につける価値があるのではないかと思います。
しかし、その一方で、特に太平洋戦争が終結して以降、雅で洗練された御所ことばは急速に衰退する傾向にあります。
その昔、天皇と皇族方は御所ことばだけで生涯過ごすことができました。なぜなら、天皇と皇族方が外部の人間と面会する機会はほとんどなかったからです。
特に幕末までは、幕府が定めた法によって、大名と民間人が天皇と面会することは固く禁じられていました。天皇が面会することができる外部の人間は、位の高い公家に限られていたのです。
公家も御所ことばを話しますので、結局、天皇と皇族方は、町方ことばに触れる機会はありませんでした。
昭和期に入っても、その状況にあまり変化はありませんでした。昭和26年に貞明皇后(ていめいこうごう)(大正天皇后)が崩御されるまで御内儀は存在していたからです。
昭和天皇も一般語をお話しになる機会はほとんどなかったといわれています。しかし、昭和21年から始まった戦後の全国巡幸で、天皇が初めて民間人と親しくお話しになる機会が生じ、状況は変わりました。
巡幸の初め頃、昭和天皇は一般語をお話しになることができず、文語的な言葉しかお話になれなかったようです。昭和21年2月19日に、最初の巡幸先である昭和電工川崎工場へ御出ましの際には「父、母は元気か」といった話し方だったようですが、昭和29年まで9年間かけて行われた巡幸の後半では、にこやかに一般語をお話しになっていらしたといいます。
このようにして、終戦を境にして、天皇と皇族方は民間人と盛んに接触されることとなり、日常生活の中でも一般語が使用されるようになりました。そして、それは御所ことばが衰退することを意味します。
また、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌など、メディアの発達も御所ことばが衰退した要素の一つでしょう。宮中の奥深くにまで日常語を侵入させたからです。
しかし、御所ことばの衰退も時代の流れなのです。
高松宮妃喜久子殿下によると、先ほど紹介したような宮中での挨拶は、貞明皇后がいらした時までで、現在の皇族方は、三笠宮大殿下(みかさのみやおおでんか)と大妃殿下(たいひでんか)を除き、このような挨拶はもうご存知ではないというのです。
急速に失われつつある御所ことばですが、江戸期にブームがあったように、平成の御世で今一度注目し、一般語として御所ことばを残していったらよいのではないかと思います。
関連記事 第06回 なぜ天皇の昼食は毎日「鯛」なのか?
関連記事 第23回 宮中ことば@