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vol.20 皇族の御誕辰(ごたんしん)A
 先週に引き続き、皇族の「御誕辰」(ごたんしん)(お生まれになること)にあたって行われる様々な伝統的儀式について説明します。前回は、明治天皇の御誕辰の日の様子を途中まで紹介しました。

 嘉永(かえい)5年(1852)9月22日午後1時頃に明治天皇がお生まれになると、間もなく陰陽頭(おんみょうのかみ)の土御門晴雄(つちみかど・はれお)が呼ばれました。

 陰陽頭は宮中に仕える陰陽師(おんみょうじ)の頭です。土御門家は代々陰陽頭を務める家柄で、安倍晴明(あべのせいめい)の子孫とされます。宮中で何か重要な決定が下される時や、吉凶事が起こった時には必ず陰陽師が呼ばれ、陰陽師の指示に基づいて事が進められるのです。

 晴雄が御産所に着いたのは5時頃でした。晴雄は到着するや否や、初めて乳を与える時間、臍帯(さいたい)(へその緒)を切る時間、産湯に入れる時間などを次々と勘進(かんしん)していきました。しかし、晴雄が着いた時、既に臍帯は切られ、産湯も済んでいました。陰陽師がこれらの日時を勘進することは、形式的なものでした。

 晴雄はその他にも、胎髪(うぶげ)を切る日時、産衣を着せる日時、胞衣(えな)(胎盤のこと)を埋蔵する日時などを勘進しました。

 中でも、胞衣を地中に埋める胞衣埋蔵の儀式は皇子の将来を左右する、極めて重要な儀式であると考えられてきました。晴雄は胞衣を埋蔵する場所と日時を慎重に吟味し、10月2日に御所の東にある吉田神社に埋蔵すべきことを御所に勘文したところ、その日の夜に御所から承諾の返事がありました。

 出産が「穢れ」の一つであることは前回説明したとおりですが、明治天皇の母方の祖父に当たる中山忠能(なかやま・ただやす)は触穢(しょくえ)、つまり出産の穢れに触れたことを、御所に書面で報告しました。これも形式的なことでした。

 御誕辰から3日目の9月24日、生母の中山慶子(なかやま・よしこ)が初めて皇子に乳を飲ませました。続けて6日目の27日には、皇子の胎髪を剃る儀式が行われました。これは俗にいう六日垂(むいかだれ)にあたります。

 そして28日は、7日目に当たり、陰陽師が勘進したとおり七夜の礼(しちやのれい)が行われるはずでした。しかし、この日は皇子の姉の順子内親王の没後百日目に当たる日だったため、七夜の礼は翌日に延期されました。

 翌29日、陰陽師が皇子の居室の清祓(きよはらい)を行い、皇子は天皇から幼名を「祐宮」(さちのみや)と命名されました。午前11時頃に御所から孝明天皇の女官が遣わされ、幼名を記した紙と、太刀、産衣、鮮魚などが届けられました。

 幼名は、三つ折にされた備中檀紙(びっちゅうだんし)に宸筆(しんぴつ)で「祐宮」と書かれていました。宸筆とは天皇自らしたためた書を意味します。

 現在でも皇子女が誕生すると7日目に命名の儀が行われます。当時は七夜に幼名が贈られ、親王宣下(しんのうせんげ)のときに本名である御名(おんな)が贈られていましたが、現在は命名の儀で幼名と御名の両方が贈られることになっています。

 平成13年に敬宮(としのみや)愛子(あいこ)内親王殿下が御誕辰遊ばされた際に、「称号を敬宮、御名を愛子と称される」と同時に発表されました。今でも御名は宸筆で三つ折の檀紙にしたためられ、また幼名は宮内庁長官の直筆が、皇子女の枕もとに大切に置かれることになっています。

 胞衣埋蔵の儀式が行われたのは10月2日でした。本来ならば誕生から23日の内に行われるのですが、皇子が誕生したのが土用(どよう)の節に当たっていたため、土用中に地面に穴を掘ると祟りがあるという言い伝えがあるため、埋蔵の日程をずらしました。
 胞衣は吉田神社の境内に埋められ、そこに印として赤松が植えられました。現在もこの松は残っています。

 祐宮が父孝明天皇と初めて対面したのは、御誕辰から一ヶ月経過した10月22日の御参内始(ごさんだいはじめ)の日でした。これは一般でいう「お宮参り」にあたります。この日、祐宮は中山慶子に抱かれて板輿(いたごし)に乗り、総勢30人を超す立派な行列を組んで御所に向かい、御常御殿(おつねごてん)で孝明天皇と面会を果たし、賢所(かしこどころ)を参拝しました。

 孝明天皇が我子と対面するまで一ヶ月も待たされたのを不思議に思う人もいるかもしれません。しかし、江戸期において、天皇の行幸(ぎょうこう)(天皇が御所から外出すること)は幕府から固く禁止されていたのです。孝明天皇は即位からこの日まで一度も御所の外へ出ていらっしゃいませんでした。


 これまで、皇子が誕生した後の諸々の行事について説明してきましたが、実は生母の懐妊から出産までの間にも、数々の行事があったのです。そしてそれらは全て陰陽師の勘進に従って進められてきました。その中でも特に重要な「着帯の儀」(ちゃくたいのぎ)について説明することにしましょう。

 4月23日は中山慶子が懐妊してから5ヶ月目の戌(いぬ)の日にあたり、内着帯の儀が行われました。これは、犬のお産が軽いことにあやかって行われる儀式です。
 そして8月27日は懐妊9ヶ月目の戌の日に当たるため、御所において正式な着帯の儀が行われ、孝明天皇自ら帯をお結びになりました。そしてこの日、胞衣桶、屏風(びょうぶ)その他、お産に必要な多数の調度品が天皇から中山家に下されました。現在でも内着帯と着帯の儀は昔ながらの方法で行われています。


 このように、皇子女が御誕辰遊ばされるということは、宮中にとっては大変重要な行事です。赤ん坊が健康に育つことを願い、ありとあらゆる儀式が行われます。

 皇子女が健康に育つことは皇室に幸せをもたらし、それは日本に幸せをもたらすと固く信じられていたのです。そして、この考え方は現在においても変わることはありません。現在の宮中でも、皇子女の御誕辰に当たり、伝統的な儀式が行われています。

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出典:「お世継ぎ」(平凡社)八幡和郎 著
皇室の系統図(クリックで拡大)

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作家 プロフィール
山崎 元(やまざき・はじめ)
昭和50年、東京生まれ。旧皇族・竹田家に生まれる。慶応義塾大学法学部法律学科卒。財団法人ロングステイ財団専務理事。孝明天皇研究に従事。明治天皇の玄孫にあたる。著書に『語られなかった皇族たちの真実』(小学館)がある。
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