天皇の生活空間は、現在は「オク」と呼ばれていますが、昭和初期までは「御内儀」(おないぎ)と呼ばれ、男子禁制とされていました。
御内儀には数多くの女性が天皇の側に仕え、身の回りのお世話をしていました。その女性たちのことを女房(にょうぼう)、または女官(にょかん)といいます。
「女房」といっても、現在でいう「妻」のことではありません。特別に房(部屋)を与えられていたので、「女房」と呼んだのです。
幕末まで、御内儀には一人だけ「御差」(おさし)と呼ばれる役の女官がいました。御差には他の女官にはない特別な任務が与えられていました。その任務とは、天皇の御東司(おとう)(便所)のお供をすることです。そして、それだけが御差の唯一の役割でした。
御差は常に天皇の近くに待機していなくてはいけません。天皇がお一人で御東司に御出ましになることはありません。深夜であっても必ず御差は起こされます。御差の名前が呼ばれると、それは御東司の合図なのです。夜はロウソクに火をともし、御東司まで天皇の先に立ってお供をし、お世話をします。
大勢いる女官のなかでも、天皇と話ができるのは一部の高等女官に限られていましたが、下級女官の中では、御差一人だけが天皇と話をすることが許されていました。そしてなぜか天皇と御差の会話は弾むことが多かったといいます。
典侍局(すけのつぼね)や内侍局(ないしのつぼね)などの高等女官になれるのは、極めて身分の高い家の娘に限られていました。
しかし、御差は比較的身分の低い家の娘でも上がることが許されたため、御差は他の女官と比べて、型にはまっていないことが多く、毛色が違っていたようです。
また密室で一つの空間を共有することもあってか、天皇も御差にだけは舌が滑らかになり、また御差も憚らずよく話し、天皇と御差が親しくなることが多かったと伝えられています。
幕末の嘉永年間、孝明天皇(こうめいてんのう)の御差をしていたのは桂宮(かつらのみや)の諸大夫、生島成房(いくしまなりふさ)の娘の駿河(するが)です。
御差は他の女官よりも天皇と親しくなりやすいのですが、御差は天皇の子供を産むことは絶対に許されません。ですから天皇と御差の只ならぬ関係は、許されざる禁断の関係ということになります。
そのためか、御差に選ばれるのはいつも老女でした。嘉永7年(1854)に駿河は56歳、孝明天皇は22歳でした。
御差の仕事は、天皇とおしゃべりをすることだけではありません。天皇の褌を外すのも御差の大切な役割です。天皇は絹で作られた六尺の綺麗な御犢鼻褌(おふんどし)を身につけています。
天皇の御膳を用意する御末(おすえ)の拝領が天皇の残飯であったことは第6回「なぜ天皇の昼食は毎日「鯛」なのか?」で紹介しましたが、御差の役得は、なんと「天皇の褌」でした。
天皇が身につけた絹の褌は、御差が一度取り外すと、再び使われることはありません。天皇は毎日新品の絹の褌を身につけていたのです。
なぜなら、使用済みの褌は穢れているので、もし穢れた褌を玉体(ぎょくたい)(天皇の御体)に付けてしまうと、玉体が穢れてしまうと考えられていました。
褌の穢れは洗っても祓われないとされていたため、天皇には鯛と同じく、絹の褌も、毎日毎日全くの新品が献上され続けたのです。
そして、御差が拝領した天皇の犢鼻褌は、呉服所で洗って紋付羽織などに仕立てられました。ということは、京都の町には天皇の褌を纏(まと)って歩く者がいたことになります。
ですから、毎日新品が献上されたといっても、無駄になることはなかったのです。
しかし、褌に関するこの話し長い間、公にされることはありませんでした。
もともとこの話しは摂家(せっけ)の御側役(おそばやく)を務めていた下橋敬長(しもはし・ゆきおさ)により語られたことです。しかし談話の記録が『幕末の宮廷』という本として出版されるに当たり、下橋本人か宮内省の判断によって、褌のエピソードが削除されていたのですが、この本が1974年に東洋文庫で復刊された際に、解説後記にその経緯が記載され、結局褌の話しは歴史に記録されることになったのです。
ところで、現在は天皇が毎日新品の褌をお付けになることはなくなったようです。
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第6回 なぜ天皇の昼食は毎日「鯛」なのか?