近年、憲法の改正について盛んに議論されるようになりました。その中で、天皇が元首(げんしゅ)であることを憲法に明文化すべきではないかという点も議論されています。
「元首」は、憲法・国際法の用語で、英語では「Head of state」と表現され、国家を対外的に代表する存在のことです。英語の表現から分かるとおり、古くは国家を人体にたとえ、その頭(Head)に当たる機関を「Head of state」と表現したのです。
法律学では人間は「自然人」と呼ばれていて、肉体を持っています。ところが、国家は、会社などと同じく、「法人」と呼ばれていて、肉体を持たないので、掴みどころがありません。
そのため、法人には代表者が必要です。そして、会社を代表するのは「代表取締役」、国家を代表するのは「元首」なのです。
国際社会は、およそ二百の国家と、その他国際機構によって構成され、国家間で様々な付き合いがあり、決め事がありますが、もし元首が決まっていないと、いろいろな不都合が生じます。
たとえば、外国の大使が着任するときに、赴任先の国家の代表に信任状を渡したくても、誰に渡してよいか分かりません。また元首への表敬が必要になることもあります。
では、世界の国々では、どのような存在が元首とされているのでしょう?
一般的には、アメリカ・ロシア・ドイツなど共和制の国では大統領が、イギリス・スペインなど君主制の国(王室がある国)では国王、もしくは女王が元首とされています。ちなみに、社会主義国は変則的で、たとえば中国では国家主席が、またキューバでは国家評議会議長が元首とされています。
そして、国際社会の慣行上、我が国の元首は天皇であるとされています。
しかし、大日本帝国憲法は第4条で天皇を元首と定めていましたが、日本国憲法は元首に関する規定を設けていないため、誰が元首か、いまだ国民的合意に至っていません。
元首に関してはいろいろな憲法学説があります。その中でも、行政権を持つ首相、もしくは外交権を持つ内閣が元首であるという学説も強く主張されています。
ところが、国際社会における確立した慣習によれば、元首が必ずしも行政権を持つ必要はありません。たとえば、イギリスの女王、ドイツの大統領などは元首であることは疑いようもありませんが、政治的権限はないのです。イギリスとドイツの首相は、政治的権限を持ちますが、元首ではありません。(ドイツには大統領と首相の両方がいるので注意)
もし、元首は行政権を持つ機関である必要があるというならば、西洋の立憲君主国のほとんどの君主は元首ではないことになってしまいます。
また、確かに日本国憲法(第73条2号・3号)によれば、実務的な外交権は内閣に属します。しかし、国際社会において、内閣といったような合議機関を元首とする国は例がありません。
しかも、日本国憲法は第6条で、天皇が首相を任命することを定めているため、天皇は首相よりも地位が上であることは明確です。もし首相を元首とするならば、元首が天皇から任命されることは矛盾します。
その上、日本国憲法第7条が定める天皇の国事行為には、国務大臣などの任免・大使などの信任状の認証(5号)、批准書・外交文書などの認証(8号)、外国大使などの接受(9号)などが示されていますが、憲法が定める天皇の国事行為は、全て元首が行うべき権能なのです。
したがって、憲法には元首に関しての規定がなくとも、天皇が日本国の元首であるとするのが自然なのです。
そして、日本政府は、天皇は元首であるという立場に立っています。(昭和63年10月11日、参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁)
では、日本国憲法草案の立案者はどのような意図を持っていたのでしょう?
昭和21年(1946)2月3日、連合国軍総司令官マッカーサー元帥が、憲法起草のために部下に指針を示した「マッカーサー・ノート」には当初「Emperor is at the head of the State」(天皇は元首である)と明記されていました。ところが、GHQ(連合国軍総司令部)が作成し、2月13日に日本政府に手渡した「マッカーサー草案」には元首についての記載は削除されていたのです。
これをもって、「元首を否定したのはGHQの意図であった」と主張する学者もいます。しかし、内閣調査会がアメリカで行った調査によると、GHQが元首の規定を外したのは別の理由だったことが伝えられています。
特に「Head of state」(元首)という語を避けたのは、「head」を用いると、「天皇主権」という明治憲法の解釈に戻るおそれがあり、それは民主主義に反するという理由でした。そして天皇を「symbol」(象徴)とすることで、「Head of state」を否定することにはならないという判断があったのです。
つまり、マッカーサー元帥とGHQは、天皇が元首であることを否定したわけではなかったのです。これが憲法草案立案者の意図なのです。