皇室のきょうかしょ 皇室のあれこれを旧皇族・竹田家の竹田恒泰に学ぶ!
vol.8 天皇の御名(おんな)
 天皇と皇族の名前のことを、正式には、「御名」(おんな)もしくは「諱」(いみな)といいます。今上天皇は御名を「明仁」(あきひと)と称されます。
 しかし、天皇の御名を直接口にすることや、文字にして書き記すことは、畏れ多いことであり、歴史的に憚(はばか)られてきました。ですから、民間人だけでなく皇族ですら、天皇を直接御名で呼ぶことはありません。
 このことは、われわれの日常生活でも同じことです。目下の人を名前で呼ぶことは許されますが、目上の人を名前で呼ぶことは失礼なことなのです。
 ですから、皇子が父である天皇から、御名で呼ばれることはあっても、皇子が天皇を御名で呼ぶことは許されないのです。
 しかも、天皇を「天皇」と呼ぶことすら畏れ多く、憚られます。実際は敬称の「陛下」などが用いられることは、既に第四回「天皇の敬称」で説明したとおりです。
 皇族が御名を賜る時期は、平安中期から江戸期までは親王宣下(しんのうせんげ)のときに、また現在では、皇族は降誕から七日目の「命名の儀」(めいめいのぎ)で、天皇から御名を賜ることになっています。(「親王宣下」とは、皇族の子が一定の年齢に達し、天皇から親王として認められる儀式のこと。親王宣下を済ませると正式に皇族の一員となる。現在は皇族の子は生まれながらにして皇族になるので、親王宣下は行われていない。)

 歴代天皇の御名の表を見ると、ほとんどが「○仁」であることがわかるでしょう。遡ってみると、昭和天皇が「裕仁」(ひろひと)、大正天皇が「嘉仁」(よしひと)、また明治天皇が「睦仁」(むつひと)、それ以前もずっと御名に「仁」が付きます。
 歴代天皇で一番初めに御名に「仁」が付くのは第56代清和(せいわ)天皇の「惟仁」(これひと)、続いて第60代醍醐(だいご)天皇の「敦仁」(あつぎみ)、そして第66代一条天皇の「懐仁」(やすひと)、そして第70代の後冷泉(ごれいぜい)天皇の「親仁」(ちかひと)以来現在まで、八例の例外(女帝は含まない)を除いて、全ての天皇の御名に「仁」が付いています。
 御名に「仁」が付くのは、約千年の歴史があるのです。
 
 では「仁」にはどのような意味があるのでしょうか?
 『大漢和辞典』(大修館書店、日本最大の漢和辞典、全十三巻)によると「仁」の意味として第一に「いつくしむ」、「親しむ」、「愛する」が挙げられていて、その他に「諸徳の総称」、「有徳の人」の意味もあるようです。「仁」の字は、慈愛(じあい)の徳を示し、善行(ぜんこう)の総称であると考えられています。(「慈愛」とは、いくつしみの気持ち。「善行」とは、良いおこないのこと。)
 「仁」の字は、皇室が本質的に守りつづけてきたテーマを見事にいい表していて、天皇が称するについて不足のない立派な字だといえるでしょう。

 一方、女性皇族の名前にも歴史的な習慣があります。側室(そくしつ)を含む天皇の配偶者と、皇女(天皇の娘)は御名に「子」が使われています。(「側室」とは、めかけのこと。非公式な配偶者のこと。)
 皇女の御名に「子」が使われるようになったのは、第52代嵯峨(さが)天皇の時代からです。「秀子内親王」・「純子内親王」といった具合に十二人の皇女全員の名に「子」が使われました。そして次の淳和天皇も七名の皇女全員に「子」の字を用いています。
 現在残されている史料で知り得る範囲に限られますが、嵯峨天皇の代から約一二〇〇年間、現在に至るまで皇女の名前は、一つの例外もなく、全員「子」が使われているのです。

 ではなぜ嵯峨天皇の時代に「子」を用いる習慣ができたのでしょう?
 それは藤原氏(ふじわらし)の娘の名前に「子」が使われていたからです。つまり、「○子」という名前は、貴族である藤原氏の姫君の名前だったのです。
 いつの時代も権力者達は天皇と外戚関係を築くために娘を天皇に嫁がせる努力を繰り返してきました。
 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が娘二人を第40代天武(てんむ)天皇の側室に送り出してから、藤原氏は次々と天皇家と外戚(がいせき)関係を結んできました。
 その藤原氏が、娘の名に「子」を使うようになったため、その習慣は宮中にも広がり、皇女の御名にも「子」が使われるようになったのです。間もなく天皇の配偶者にも「子」の付かない名は見られなくなります。
 ところで、藤原氏の前の時代に権力を握っていた蘇我氏(そがし)には「子」を用いる習慣はありませんでした。

 そして、天皇と皇族は、御名とは別に、「幼名」(ようめい)を持ちます。これは子供の時だけに用いられる名前です。
 幼名は正式には「称号」(しょうごう)といい、男性皇族は古くは親王宣下まで用いられましたが、現在では、皇嗣(こうし)(皇位を継承する予定の皇族)は立太子(りったいし)まで、またその他の皇族は御結婚まで用いられます。女性皇族も御結婚まで用いられます。(「立太子」とは皇太子を定めて、公式にその地位につけること。)
 今上天皇は立太子まで称号を「継宮」(つぐのみや)と称されました。また、昭和天皇は「迪宮」(みちのみや)、大正天皇は、「明宮」(はるのみや)、明治天皇は「祐宮」(さちのみや)と称されました。
 傍系(ぼうけい)の皇族(天皇家から別れた皇族)は、家ごとに家名があり、幼名と同じ「宮」が付きますが、これは「宮号」といって「幼名」とは違います。現在の皇室には、秋篠宮(あきしののみや)、常陸宮(ひたちのみや)、三笠宮(みかさのみや)、桂宮(かつらのみや)、高円宮(たかまどのみや)の五つの宮家があります。

 これまでは天皇と皇族の名前について説明してきましたが、では苗字はどうなっているのでしょう?
 結論をいうと、天皇と皇族には苗字・姓はありません。
 世界史の常識では、王家には家名があります。ヨーロッパでも中国でもたくさんの王朝ができてはなくなってきました。そのため、王家に苗字がないと、単に「フランスの王」とか「中国の王」といっても、どの時代のどの王家か区別がつきません。
 しかし、日本だけは違います。第一回「世界最古の国『日本』」で説明したとおり、日本は二千年以上の間、王朝の交代がなかったので、わざわざ王朝に名前を付ける必要もなかったのです。太古の昔に大和王朝が日本を統一してからというもの「日本の王朝」といえば、天皇家しかないわけです。
 そして、天皇は姓を賜(たまわ)る存在であり、自ら姓を持たないのです。(「賜る」とは、さずけることの尊敬語。またさずかることの尊敬語でもある。)たとえば、皇族が天皇から姓を賜って皇族の身分を離れる場合がありますが、清和源氏(せいわげんじ)は第56代清和天皇の子孫、また桓武平氏(かんむへいし)は第50代桓武天皇の子孫が、それぞれ天皇から、源氏姓、平氏姓を賜ったものでした。

 また、昭和天皇、明治天皇など、「○○天皇」というのは、天皇の御名ではありません。これは「天皇号」といって、天皇が崩御した後に、贈られるものです。天皇号については、また別の機会に説明することにしましょう。

出典:「お世継ぎ」(平凡社)八幡和郎 著
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作家 プロフィール
山崎 元(やまざき・はじめ)
昭和50年、東京生まれ。旧皇族・竹田家に生まれる。慶応義塾大学法学部法律学科卒。財団法人ロングステイ財団専務理事。孝明天皇研究に従事。明治天皇の玄孫にあたる。著書に『語られなかった皇族たちの真実』(小学館)がある。
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