在日済州島人の「不法入国」から「特別在留」獲得まで −大阪を事例に−
高 鮮 徽(鹿児島大学)
その往来形態のなかには「不法入国」もいた。とりわけ、戦後「不法入国(密航)」の出身地を明らかにした数字(法務省発表)をみても、1970年以降の「不法入国」の8割以上を済州島人が占めている。済州島人の「不法入国」は、それだけ日本との関係が深いということを物語っている。その意味で、大阪の入管にとって済州島人は特別な存在だったかも知れない。これは、入管も済州島人について勉強せざるを得ない状況を作り出したと考えられる。「不法入国」の済州島人への理解は、済州島人コミュニティの人々、入管・支援者順ではなかったのかと考える。入管が済州島人の「不法入国」事情を最も知っている。入管から見ても、「不法入国」者であれ、人間に変わりない。「不法入国」してまで、生きる場を求め、生活基盤を築いてきた努力を積極的な評価したものと捉えられる。おそらく、上記のような背景があり、「出稼ぎ」目的の「不法入国」の済州島人に「特別在留」が認められたものと見ている。もちろん、済州島人の「不法入国」の背景として、日本の植民地支配の影響を忘れてはならないしかし、済州島人の「不法入国(以下で密航)」は植民地支配の影響のみに括られるものではない。
済州島人の戦後密航は、大きく三つに分けられる。その一、戦前から日本で暮らしていた人々の「家族結合」目的。その二、戦争の「避難民」。その三、就労先を求めた「出稼ぎ目的」に分けられる。「家族結合」の密航は、終戦直後から長期に渡って続けられた(たとえば、ケース3)。「避難民」は、済州島の四・三事件(1945〜1955年)と朝鮮戦争(1950〜1953年)によるものであった。入管は、「昭和40年以降出稼ぎケースが主流」と発表している。そして、1970年代半ばからは、大量の集団密航時代に入る。
戦後、済州島人の「不法入国(密航)」から「特別在留」獲得までを生活史より、簡略に紹介したい。
ケース1,女性、1920年父は樺太へ出稼ぎ、1946(28歳)年、済州島で夫と死別後、6歳の娘を連れて密航(鹿児島上陸)。大阪の平野の石鹸工場で働き、同僚の済州島人男性と再婚。再婚の夫との間に一男三女生まれる。「特在」に関しては、とくに語られていない。しかし、密航時期が外国人登録をする以前であり、さらに夫が戦前より在日していたので、「特在」でなく、「永住者」になったと考えられる。
ケース2,男性、1947(23歳)年、済州島で結婚、四・三事件関係の地下運動で罰金刑を受け、一時的避難のつもりで密航(三崎上陸)。翌年、親族が他人名義の外国人登録をしてくれる。1949年弟密航、親族が弟の名前の外国人登録をしてくれる。1950年済州島人女性と再婚。再婚の妻との間に二男三女生まれる。自主し「特在」、1977年(密航から30年後)。このケースも、密航が早期(1951年サンフランシスコ条約、出入国管理令公布以前)であり、永住者の夫、永住者の子(5人)の扶養の責任、潜在期間が30年と長期であったことで難しくなかった。「特在」をとって30年ぶりに帰郷果たす。
ケース3,男性、1927年生後一ヶ月目に日本の船に乗っていた(船員)父台風で死亡。1929年(3歳)母(海女)の出稼ぎに連れられて、初来日(鹿児島)。1941年(16歳)東京の蒲田の鉄工所で働く帰郷。翌年は船乗りとして来日伊豆半島で働き帰郷。さらに、その翌年は南伊豆でかじめ採りをし、帰郷。結婚、長女誕生。1948年(四・三事件、24歳)釜山から日本へ密航者を運ぶ船員として密航(南伊豆上陸)、済州島では長男誕生。南伊豆で漁師、八丈島で難破(1951年)し、大阪へ。日雇いやトラックの助手をする。日本人女性と同棲始める。1953年対馬へ移住、日本人女性との間に日本の長男誕生。対馬から釜山や麗水間、ヤミ(密航者と密貿易)の運び屋。1955年(30歳)釜山で捕まる、韓国の長男初対面、対馬に戻る。1960年(35歳)対馬の仕事が減り、大阪の靴の仕事へ、日本の三男誕生。1969年(44歳)日本人女性と別れる。自首し、1970年「特在」を取る。このケースの場合、戦前からの来日歴があることと、1948年密航(早期)として考慮されたと考えられる。日本人女性とは、事実婚であった。
後に、済州島の長女が成人して密航(1963年?)し、大阪で密航者同士の結婚(1969年)をするが、夫(生野生まれ)が強制送還(1975年)。子供と長女が残る。夫再び密航(1976年)するが、長女とは事実上離婚。長女が逮捕で自費出国(1977年)され、子供は施設に預けられる。長女の元夫は、永住者の女性と同棲、子供生まれる(1979年)。長女も再び密航。長女の元夫や子供達は、住民運動の成果により1985年「特在」認められる。さらに、1983年、ケース3の母が年老いて、息子を頼って来日、「超過滞在」のまま、1995年大阪で亡くなる。
ケース4,女性、1943年(17歳)結婚するが、夫は福岡へ行く。本人は、黄海道(現在北朝鮮)へでる。1945年、解放で南北分断により、帰郷。1946年夫と暮らし始める。1948年四・三事件に巻き込まれ、疎開先で長男出産、夫逮捕。1950年朝鮮戦争が始まり、夫木浦で銃殺。1952年病気により長男を夫の実家に預ける。再(事実)婚(夫には妻が日本にいた)。1953年再婚夫日本へ密航。次男誕生。1955年(29歳)次男(2歳)と姑を連れて密航(生野区)、再婚夫は、東京で正妻と暮らす。ミシンの仕事始める。1962年、済州島男性と再々(事実)婚するが、暴力をふるうため、逃げる。三男出産。隠れてミシンの仕事をする。1966年済州島にいた長男密航。1969年(43歳)三男が小学校に入ったことで自主、1970年「特在」認められる(長男の密航事実は隠す)。このケースの場合、潜在期間が長く、子供(次男も日本で生まれたことにした)二人が日本で生まれている。さらに子供が二人とも学齢に達し、扶養の責任がある。潜在期間が長いにも関わらず、隠れて一人でミシンの仕事をしていたため、日本語が上達しておらず、指摘された。長男は、密航後、工場の住み込みで働く。女性と同棲し、子供生まれるが、別れる。子供は、母に預ける。長男自首し、「特在」認められる(時期不明、潜在期間15年以上と推定)。長男の子供も未登録のまま中学卒業する。未登録では高校の進学ができないため、手続き、「特在」認められる。面接当時(1993年)、高校二年生。
以上4ケースを紹介した。済州島人にとって密航は、それほど特別なことではなかった。しかし、密航した人々は、密航後、その代価を支払うことになる。密航した本人が最も苦しめられる。密航すること自体はある意味、簡単だったかも知れない。しかし、日本での生活が長くなればなるほど、誠実に働き、日本で生活基盤を築き上げ、家族形成、定着度が高くなればなるほど「非合法」なための「不自由」が痛く、自分が生きる日本の法律を犯していることの重大さを知る。ここで、潜在期間が長いのは、その間特に問題なく暮らしたために、潜在のままいられたと解釈される。そして、長い潜在期間を耐え、その間の実績(定着度、仕事の安定性、経済的能力、人物評価(それこそ「善良性」)など)を評価し、「特在」を認めることで、「不法入国」が許されたものと考える。そのため、「特在」は、それぞれの努力が認められた結果、かちとったものである。
(密航に関しては、高鮮徽『20世紀の滞日済州島人ムその生活過程と意識』1998年、明石書店、第3章、「第三世代」(密航者)の来日と定住をお読み下さい)