竹田恒泰「女帝とは何か?」
■初の女帝推古天皇
崇峻(すしゅん)5年(592)、崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)に殺害されるというおぞましい事件が起こった。この後に群臣の要請を受けて即位したのが敏達(びだつ)天皇の皇后豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)、後の推古天皇である。わが国最初の女帝がこのとき誕生した。
推古天皇の夫である敏達天皇は崇峻天皇の兄で、崇峻天皇から見れば推古天皇は兄嫁に当たる。推古天皇は欽明(きんめい)天皇の皇女で、敏達天皇・用明(ようめい)天皇・崇峻天皇も同じく欽明天皇の子である。推古天皇と敏達天皇は兄弟同士の婚姻だった。また崇峻天皇を殺害した蘇我馬子は、崇峻天皇と推古天皇の伯父に当たる。
中国と新羅(しらぎ)でも女帝が存在したが、中国では唐の時代の則天武后(そくてんぶこう)(690年即位)が唯一で、新羅では善徳(ぜんとく)女王(じょうおう)(632年即位)が初の女帝となり、以降合わせて三代しか例がなく、また百済(くだら)と高句麗(こうくり)では女帝は存在していない。推古天皇が即位したのが592年であるため、当時は中国にも朝鮮半島にも女帝の前例はなく、初めて例を作ったのがわが国の推古天皇だった。
それではなぜ日本に女帝が誕生したかといえば、それは皇位をめぐる争いを避けるためであった。崇峻天皇が突然殺害されたこのとき、皇位を巡る争いが起こった。崇峻天皇には皇子がいたが、天皇は皇后を立てておらず、その皇子は庶系だった。一方、崇峻天皇の先代は兄の用明天皇、またその先代は兄の敏達天皇であり、この三兄弟にはそれぞれ皇子があり、中には敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのおうじ)(生母は皇后広姫(ひろひめ))と竹田皇子(たけだのみこ)(生母は皇后炊屋姫(かしきやひめ))、また用明天皇の皇子である厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子(しょうとくたいし)、生母は皇后?部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ))など、有力な候補者が多数存在していた。それぞれを推す群臣があったため、利害を一致させることは困難であった。
この時代は現在と違って天皇が在位中に皇太子を立てる明確な制度が確立しておらず、崇峻天皇は即位後僅か5年で殺害されたこともあり、後継者については何の選定もされていなかった。
皇位継承者を決めるための争いを避けるために、白羽の矢が立ったのが炊屋姫だった。今までの原理とは別の原理に基づいて皇位継承者を定めることで合意が成立したと見られる。炊屋姫は敏達の皇后、しかも欽明天皇の皇女であり、年齢も満38歳と、若手同士の後継争いからすると達観した位置にあった。炊屋姫が即位したことで争いは回避されたことになる。
推古女帝の誕生はこのように争いの回避という大義名分の上に成立したのであるが、実際は蘇我馬子が聖徳太子を皇位継承者に位置づけるたに描いた絵であったと考えてよい。推古天皇の母は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘であり、推古天皇は馬子の姪に当たる。馬子は早い段階から聖徳太子の卓越した能力を見初めていて、一番親近感を抱いていた。聖徳太子は生まれて間もなく言葉を発し、聖人のごとき知恵の持ち主であったと伝えられている。一度に10人の訴えを聞き分けたという逸話は有名であるが、聖徳太子の業績である冠位十二階の制定、憲法十七条の制定、遣隋使の派遣、天皇紀など国史の編纂なども万人の知るところであろう。
推古天皇が即位して僅か4ヵ月後の推古(すいこ)元年(592)4月、聖徳太子が皇太子になった。これは蘇我馬子の思惑どおりの流れであり、推古天皇の即位と聖徳太子の立太子は一体のものであったと考えられる。立太子を済ませると聖徳太子は、天皇の代行者として国事を行う立場に立たせられ、事実上の摂政として機能した。天皇の健康に障害があって摂政が立てられることはあっても、このように五体満足で健康な天皇の元で天皇の代行者が存在できるというのは前例がなく、女帝の元で初めて可能だったのだ。
しかし、聖徳太子は蘇我馬子と推古天皇より先に命を落とした。推古天皇が没するとまたしても後継者争いが起こり、押坂彦人大兄皇子の子、田村皇子(たむらのおうじ)が蘇我蝦夷(そがのえみし)の後押しを受けて即位し、舒明天皇となった。蝦夷が舒明天皇を推したのは、蘇我馬子の娘である法提郎媛(ほていいらつひめ)が舒明天皇と婚姻していて、二人の間に生まれた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を次の天皇にしようと考えていたからである。
わが国初の女帝、推古天皇は、天皇の位を巡る争いを回避する大義の下で成立し、同時に皇太子を導き出す役割も担った。緩衝帯となったことだけではなく、皇位継承の筋道を作ったところ、そして東アジアにおいて女帝の先例を作ったことに推古天皇の本当の意味がある。
■初の譲位と重祚をなした皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇
推古天皇に次いで二番目の女帝となったのは、舒明天皇の皇后で、後の皇極(こうぎょく)天皇である。舒明天皇が崩じたとき、またしても皇位継承の争いが起きた。聖徳太子の息子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)、蘇我馬子の娘(法提郎媛)と舒明天皇との間に生まれた古人大兄皇子、そして舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智(てんじ)天皇)など、次の後継者と目される人物が並び、皇位継承者争いを避けるため、崩じた天皇の皇后宝皇女(たからのおうじょ)が即位し、二代目の女帝、皇極天皇が誕生した。推古天皇が即位したのと同じような背景による。
しかし、争いを避けるためというのは、推古天皇のときと同様に表向きの理由である。時の権力者蘇我蝦夷の本当の狙いは、自分が推す古人大兄皇子を皇太子にすることだった。そのための第一段階としてまず女帝を立て、間もなく古人大兄皇子を皇太子にさせようとしていた。推古天皇の即位と聖徳太子の立太子が一体であったのと同様である。
だが皇極天皇が即位して間もなく皇太子を定めることができなかった。三人の有力候補者が並立する状況は、皇極天皇が即位しても変わらず、時の権力者蘇我蝦夷ですらも、群臣の意向を全く無視して古人大兄皇子を立太子させるわけにはいかなかったようだ。
ところが、蝦夷の息子の蘇我入鹿(そがのいるか)は、皇極(こうぎょく)2年(643)10月、古人大兄皇子を皇太子にするため、皇太子の有力候補である山背大兄皇子一族を襲わせ、山背大兄皇子は子弟妃妾と共に自決する事件が起こった。これがきっかけとなり、約1年半後に大化改新で蘇我入鹿が殺され、蘇我氏は滅亡することになる。
ここで我々は重大な事実に気付かなければいけない。当時有力な皇太子候補は古人大兄皇子以外にも、山背大兄皇子と中大兄皇子がいたが、入鹿は片方の山背大兄皇子を殺害し、中大兄皇子には指一本触れていない。古人大兄皇子を皇太子にするなら、山背大兄皇子だけでなく、同時に中大兄皇子も殺害しなければいけなかったはずだ。なぜ入鹿は中大兄皇子を殺害しようとしなかったのか。
京都女子大学瀧浪(たきなみ)貞子(さだこ)教授の学説によると「女帝の実子は皇太子になることができない」というルールが存在していたからだという。皇極天皇が即位したのは、古人大兄皇子を皇太子に導き出す構想によるものであり、決して皇極天皇実子の中大兄皇子を皇太子とする意図があったわけではない。皇極天皇の実子である中大兄皇子には立太子する資格はなく、そのため蘇我入鹿は中大兄皇子に何ら脅威を抱いていなかったという。
推古天皇の即位も皇位を巡る争いを回避し、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に導き出すという蘇我馬子の構想によって実現したものであり、決して推古天皇実子の竹田皇子を皇太子とする意図があったわけではない。
わが国の皇統史において初の生前譲位は、大化改新で皇極天皇が譲位したときであり、推古天皇と皇極天皇の即位に際して在位中に譲位する発想は存在していなかった。とすると、両天皇が寿命に達した後に、実子の即位が予定されていたとは考えにくい。現に推古天皇は75歳まで存命し、竹田皇子の方が先に亡くなっている。したがって、推古天皇と皇極天皇は実子が成長するまでの中継ぎとして成立したのではない。
そもそも、女帝の本質は緩衝帯であった。もし女帝の実子が立太子できるならば、女帝を擁立することで、その先の皇位継承の道筋が確定してしまうことになり、女帝擁立の本来の大義である「争いの回避」にならなくなってしまう。女帝は緩衝帯として機能してきたのは事実であり、女帝の実子は立太子することができないとするのが自然な解釈であるはずだ。女帝を立てることの本質は、次の皇太子を導き出すことであり、次の皇太子を確定させることではない。
皇極天皇が生前譲位するまでは、現在と同様、天皇の代替わりは天皇の崩御による以外になかった。その代わり当時は現在と違い、皇位は必ずしも親子間の継承にこだわらず、むしろ兄弟間で頻繁に継承されてきた。兄弟間で継承できない場合に初めて一つ若い世代に皇位を移したと見て取ることができる。
案の定、世代が変わるときに皇太子を立てる習慣があった。つまり、兄弟間の継承の場合は候補者の人数が少ないが、世代が変わる場合は全ての天皇の皇子が候補者になるため、その人数は極端に多くなったからである。初の女帝誕生は、将に同一世代最後の天皇であった崇峻天皇が皇太子を立てる前に暗殺されたことによる。
皇極4年(645)、飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿が中大兄皇子に斬りかかられ殺害される事件が起きた。大化改新である。最期を悟った蘇我蝦夷も火を放って自害し、これを以って蘇我家が滅びた。そしてこのとき、皇極天皇が譲位した。
もともと皇極天皇は蘇我蝦夷が皇位継承を巡る争いを避けつつ、古人大兄皇子を立太子させる意図で擁立したのであり、蘇我氏が滅亡した今となっては、皇極天皇を支える背後が既になくなったと考えられる。そのような状況の中で譲位が行われた。
皇極天皇は次の天皇に中大兄皇子を指名するが、中大兄皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり)の助言を受けてこれを辞退した。その助言とは、兄の古人大兄皇子と叔父の軽皇子(かるのおうじ)を差し置いて即位すべきではないというものだった。蘇我入鹿を殺害し、蘇我氏を滅ぼしたのは中大兄皇子まさにその人であり、その直後に天皇となると皇位を簒奪したと見られる危険があった。
皇極天皇は弟の軽皇子に譲位することにした。軽皇子は古人大兄皇子こそ天皇になるべきだとしたが、蘇我氏が滅亡したことで、既に古人大兄皇子には後ろ盾がなく、古人大兄皇子本人も中大兄皇子の襲撃を恐れて出家し、いよいよ軽皇子が即位して孝徳(こうとく)天皇となった。そしてこの日、中大兄皇子が皇太子となった。
しかし、間もなく孝徳天皇と皇太子中大兄皇子の間に対立が生じることになる。白雉(はくち)4年(653)、中大兄皇子は都を大和に遷すように奏上したが、孝徳天皇はこれを拒否した。しかし、中大兄皇子は皇祖母尊(すめみやおやのみこと)(皇極天皇)、間人皇后(はしひとのこうごう)(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)らを伴って大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に移り、公卿大夫以下官人の大半がこれに随行した。孝徳天皇は中大兄皇子に恨みを込め、白雉5年(654)10月に憤死したと伝えられている。
斉明(さいめい)元年(655)正月、皇祖母尊が再び天皇の位について斉明天皇となった。再び即位することを「重祚」という。皇極・斉明天皇は譲位したのも初めてであり、重祚したのも初めてである。
孝徳天皇が崩御したとき、皇太子中大兄皇子が次の天皇になるのが自然な流れである。だがこのとき中大兄皇子は即位せず、斉明天皇の重祚となった。孝徳天皇は中大兄皇子と対立した上で憤死したのであり、ここで中大兄皇子が即位してしまうと、またしても皇位を簒奪したといわれることになるために辞退した。このとき他に皇位を継承する候補者がいなかったため、中大兄皇子が皇太子の地位にありながら、斉明天皇の重祚となった。
■皇位継承のありかたを変えた持統天皇
三番目の女帝となった持統天皇は、壮絶な人生を歩んだ天皇だった。持統天皇は名を?野讃良(うののさららの)皇女(おうじょ)という。天武天皇の皇女であり、同時に天武天皇(大海人皇子)の皇后であると説明すれば、その立場の難しさを理解することができよう。白鳳(はくほう)元年(672)に起こった壬申の乱は彼女にとって、実の父と夫の間の争いであった。?野(うのの)は常に夫の大海人皇子と行動を共にし、勝利して夫が即位すると皇后になった。
天武天皇はカリスマ性の強い天皇だった。天皇は臣下が政治に関与するのを嫌い、皇族だけによる皇親政治を行った。そのため皇后?野も政治に参画し、よく天武天皇を助けたと伝えられる。
?野の願望は天武天皇との間に儲けた実子草壁皇子(くさかべのおうじ)を次の天皇にすることだった。このことは?野にとって執念となり、この執念が三番目の女帝を誕生させ、そして譲位の制度を確立させただけではなく、これまでの兄弟相承から嫡系相承への道をひらき、ひいては皇位継承のあり方を根本から変えることになる。
天武天皇は9人の女性との間に10人の皇子と7人の皇女を儲けた。第一皇子の高市皇子(たけちのおうじ)は生母が地方豪族で庶系であったため、当時の慣習からして皇位に就く可能性は低かった。第二皇子か?野が生んだ嫡系の草壁皇子である。第三皇子の大津皇子(おおつのみこ)は、大田皇女との間に生まれた皇子である。大田皇女(おおたのひめみこ)は?野の同母姉に当たり既に没していた。大津皇子は草壁皇子のライバルになり得る存在であるも、草壁皇子は実母が皇后であり、しかも健在である点からして、他のどの皇子よりも遥かに優位な位置にいたと考えてよい。
天武(てんむ)10年(681)2月、草壁皇子が20歳となり立太子した。当時は立太子の適齢期が20歳とされていた。既に述べたように皇極天皇が生前譲位の初例となったものの、皇極天皇が譲位した裏には特殊な背景があり、いわゆる天皇が自らの意思によって皇太子に位を譲るという意味の譲位ではなかった。そのため、一旦即位して天皇になったなら崩御するまで退位することはできない慣習は依然として存在していた。草壁皇子が皇太子となったことで?野の願望が叶うかのように思えた。
ところが、天武15年(686)、天武天皇が崩御となり事態は急変した。本来であれば皇太子である草壁皇子が速やかに即位するべきであるが、時に草壁皇子25歳、天皇になるには少なくとも30歳でなくてはならないという不文律があり、草壁皇子の即位は実現しない。
草壁皇子の即位はほぼ絶望的と見られる中、何とかわが子を天皇にさせたい?野は、いわゆる法の隙間を突く方法を実行した。天武天皇が没した直後、皇后?野讃良が称制の女帝となったのである。称制とは、即位せずに政務を執ることで、その立場や権限は天皇とほぼ同等であった。斉明天皇が没したときに皇太子であった中大兄皇子(天智天皇)がしばらくの間即位せずに政務を執ったのが初例である。
?野は自らが称制の女帝となることで、わが子草壁皇子が30歳に達するまで時間を稼げばよかったのだ。?野がなぜ即位せずに称制をとったかといえば、この当時は天皇自らの意思によって皇太子に譲位する慣習も前例もなかった。よって、もし?野が即位してしまうと、?野が没するまで草壁皇子が皇位に就くことはできないことになる。?野と草壁皇子との年齢差は僅か16歳であり、いくら世代が違うとはいえ、草壁皇子の方が長生きする保証はどこにもない。5年間称制を敷き、その上で草壁皇子を即位させる目論見だった。間もなく?野の願望が叶うかと思われた。
だが、歴代天皇の系譜に草壁皇子の名前が連ねられることはなかった。称制して3年目の持統(じとう)3年(689)4月、皇太子草壁皇子が28歳にして亡くなってしまう。わが子を皇位に就かせることに情熱を燃やしてきた?野の落胆ぶりは想像に難くない。
しかし、草壁皇子には7歳になる息子の珂瑠皇子(かるのおうじ)がいた。草壁皇子と天智天皇の娘阿閇(あへ)内親王(後の元明(げんめい)天皇)との間に生まれた子供である。?野の意識は草壁皇子から珂瑠皇子に移り、そしてそれは新たな執念となる。
持統4年(690)正月、ついに?野讃良は即位し、正式に天皇となった。三方四代目の女帝、持統天皇の誕生である。時に46歳。持統天皇の即位は、珂瑠皇子が成長することを待ち、珂瑠皇子に皇位を継承することを強く意識したものだった。
ただし、珂瑠皇子が皇太子となるには幾多の問題があった。当時皇位の継承は兄弟相承が原則であり、天武天皇には多数の皇子があったため、珂瑠皇子よりはむしろ草壁皇子の兄弟たちの方が優勢ともいえた。また、即位するためには30歳に達していることが必要であり、珂瑠皇子がこの条件を満たすには23年という長い時間が必要だった。その上、譲位の制度もなく、女帝の係累は即位できない暗黙のルールも存在していたのだ。
だが持統天皇は今までの兄弟相承から嫡系相承へ皇位継承の方法を改めることで衆議を一致させることに成功した。天皇は持統10年(696)、諸皇子と重臣たちを集めて皇位継承者について議論させた。その席で議論は紛糾したものの、嫡系相承に改めることで衆議の一致を見た。
兄弟相承から嫡系相承への変更は、皇位継承の根本を変更することになった。それにより、今までの先例に必ずしも拘束される必要がなくなった。つまり嫡系相承であるならば、譲位を認めて適切な時期に嫡子に皇位を継承させるべきであり、また新天皇が30歳に達している必要性も薄く、さらには歴代天皇の男系男子であるならば、女帝の係累であろうとも皇位に就くことが妨げられるべきではないことになる。初めて珂瑠皇子の立太子が可能になった。
持統天皇は持統11年(697)2月、珂瑠皇子を立太子させた。持統天皇はその後、少しでも早く譲位する必要があった。なぜなら、この時珂瑠皇子は15歳、これまでの慣習では年齢的に後15年の歳月を待たなくては即位することはできないからである。時に持統天皇は52歳、15年後まで生きている保証はなかった。
立太子から僅か半年後の同年8月1日、ついに持統天皇は譲位し珂瑠皇子が即位した。15歳の年少天皇、文武(もんむ)天皇の成立である。これは天皇の意思による生前譲位の初例、また年少皇太子即位の初例となった。二つの慣習が同時に破られたことになる。持統天皇の長年の夢がついに叶った。
持統天皇の果たした役割は大きかった。持統天皇は皇太子に生前譲位し、太上天皇となった初めての天皇であり、初めての年少天皇を成立させた。皇位継承のあり方を兄弟相承から嫡系相承に変更し、皇太子に関する制度を整えたことは、奈良時代の皇位継承の原則を決定付けることになったからである。持統天皇は譲位から5年後の大宝(たいほう)2年(702)12月、57歳で崩御となり、波乱に満ちた生涯を閉じた。
■母娘二代続けての女帝となった元明天皇・元正天皇
次に女帝となったのは文武天皇(珂瑠皇子)の実の母、元明天皇である。名を阿閇内親王といい、天智天皇の第四皇女として生を受けた。阿閇内親王は皇太子となる草壁皇子の妃となり、文武天皇、氷高(ひたか)内親王(後の元正(げんしょう)天皇)、そして吉備(きび)内親王を生んだ。
阿閇内親王は慶雲(けいうん)3年(706)11月、病床に伏した息子の文武天皇から譲位をしたい旨を聞かされた。このとき24歳の文武天皇は既に死の病に侵されていたのだ。内親王は初めこれを拒んだものの、結局文武天皇が崩御する直前に皇位を継ぐことに決めた。元明天皇、時に47歳、四方五代目の女帝である。
文武天皇には、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘宮子(みやこ)との間に5歳になる首皇子(おびとのおうじ)がいた。文武天皇も藤原不比等も首皇子が天皇になることを強く望んでいた。初めて年少天皇として即位したのは文武天皇だったが、いくら先例が開けたとはいえ、5歳にして天皇となるのは余りに若すぎる。また文武天皇のときは、先帝の持統天皇が退位後も太上天皇として後見したが、死の床についた文武天皇が新帝を後見することができないのは見えており、文武天皇が即位したのと同じ原理によって首皇子を即位させることは不可能だった。そのため、中継ぎ役として阿閇内親王が皇位を継ぐことが求められたのである。文武天皇を後見してきた持統天皇も5年前に崩御しており、そのとき文武天皇の頼れる身内は藤原不比等と阿閇内親王だけだった。元明天皇は、息子である文武天皇の求めによって即位した特別な例であり、今までの女帝の原理とは全く趣を異にする。ただし、祖母が孫の成長を待つという構造は持統天皇と等しい。
持統天皇以前の女帝は例外なく皇后だったが、阿閇内親王は皇太子草壁皇子の妃だったため、政治的立場に弱みがあったことは否めない。ただし慶雲4年(707)4月、草壁皇子の命日の4月13日が国忌(こっき)と定められ、草壁皇子が事実上の天皇、またその妃であった阿閇内親王が皇后とみなされた。元明天皇の即位はこのように慎重な手続きが踏まれて準備されたのである。
中継ぎ役として即位した元明天皇であるが、わが国最初の貨幣となる和同開珎を鋳造・施行させ、平城京への遷都をなすなど、果敢に政治に取り組んだ。
元明天皇は和銅(わどう)7年(714)6月、14歳の首皇子を立太子させた。そして天皇は翌年和同8年9月に、皇太子首皇子ではなく、首皇子の伯母に当たる氷高内親王に譲位した。五方六代目の女帝、元正天皇である。
女帝が二代続くのは初めての例であり、元明天皇と元正天皇は母娘の関係にある。また未婚の内親王が皇位に就くのも全く前例のないことだった。これまでの女帝は皇后であることが原則で、皇太子妃の阿閇内親王(元明天皇)ですら、夫の草壁皇子を事実上天皇とみなして内親王を皇后に準じた地位に引き上げる手続きが踏まれてきたことは既に述べたとおりである。
ただし、無秩序に先例破りがおこなわれたわけではない。首皇子の立太子前後に氷高内親王に増封があり、さらには一品(いっぽん)に叙している。これは氷高内親王を即位させるための準備であり、首皇子の立太子と氷高内親王の即位の準備は連動していると考えられる。
では元明天皇はなぜ首皇子を立太子させておきながら、皇位を首皇子に譲らずに、氷高内親王に譲ったのだろうか。これは首皇子が若干15歳であることと、首皇子の立場が必ずしも強くないことが関係していると思われる。
文武天皇が15歳で即位して年少天皇の道が開かれており、15歳という年齢は特別問題がないかのように見える。ただし、元明天皇が既に55歳に達していたことから、譲位の後に太上天皇として後見するにしても、首皇子が一人前になるまでの十数年間健在でいられる保証はないと考えたのではないだろうか。であれば、35歳の氷高内親王に一旦皇位を譲り、その後首皇子に継承していくことが上策となる。現に元明天皇は譲位した後6年で崩御となった。
天皇になっても安定した政権運営ができなければ元も子もない。元明天皇と藤原不比等は首皇子の皇太子としての立場を確固たるものに固めることを重視した。目先の利益ではなく、先のことまで考えた結果であり、元明天皇の選択は極めて賢明であったといえよう。ここに元明天皇の政治的センスの良さがうかがえる。
元正天皇は即位して9年の養老(ようろう)8年(724)2月、ついに23歳の皇太子首皇子に譲位した。聖武天皇の誕生である。このことは父である文武天皇だけでなく、祖母の元明天皇、そして伯母の元正天皇らの長年の夢だった。文武天皇と元明天皇は既に崩御しているが、譲位を済ませた元正天皇は大きな使命を成し遂げてさぞほっとしたことだろう。
元正天皇の存在は、結果として女帝の機能を「中継ぎ」に限定させることになった。中継ぎとしての女帝のありかたは持統天皇からの流れであるものの、元明天皇と元正天皇でほぼ決定的になり、後の女帝のありかたが決定されたといえる。
■初の女性皇太子となり皇位を継いだ孝謙・称徳天皇
そして次の女帝は早くも聖武天皇の次に現れる。聖武天皇は神亀(じんき)4年(727)、藤原不比等の娘光明子(こうみょうし)との間に第一皇子の基(もとい)王が生まれると、33日目にして皇太子とした。生後間もなく皇太子となったのはそれまで前例がなかった。だが翌年9月に基王が急死してしまう。
しかしその頃、聖武天皇の二番目の皇子安積(あさか)親王が誕生するが、庶子だった。この時代は嫡系が圧倒的に優先される時代であり、安積親王の即位は最終手段と考えられた。
生来嫡子が生まれるかも知れないと、天皇を含め周囲が期待したに違いない。天皇は光明子を皇后に立て、嫡子の誕生を心待ちにしたが、その後皇子が生まれることはなかった。
基王が亡くなってから10年後の天平(てんぴょう)10年(738)、次に皇太子に立てられたのは聖武天皇の皇女で20歳になる阿倍(あべ)内親王だった。女性が皇太子になるのは後にも先にも例がない。
聖武天皇の皇子は庶系の安積親王ただ一人であり、その皇子を差し置いて皇女阿倍内親王が皇太子となったのだが、決して安積親王の立太子が否定されたわけではなく、むしろ「阿倍内親王の次は安積親王」という道筋が立てられたことになる。女帝となった阿倍内親王は、不文律により結婚も出産も厳しく禁止されることから、次は安積親王以外にないわけだ。
ところが、天平16年(744)閏正月に安積親王は急死してしまう。これで「阿倍内親王から安積親王へ」という皇位継承の構想が崩れ去ってしまった。阿倍内親王の次の皇位継承者が不在に陥る不安が広がった。
聖武天皇の皇子は二人とも他界してしまったため、聖武天皇の皇子を女帝の次の継承者にする途は完全に閉ざされてしまった。聖武天皇の父帝である文武天皇にも他に皇子はなく、それは草壁皇子系統の断絶を意味する。多くの皇子女に恵まれた天武天皇まで4世代さかのぼり、天武天皇の傍系から天皇を擁立するしか方法はなくなった。
そして天平(てんぴょう)勝宝(しょうほう)元年(749)7月、多くの不安要素を抱えながらも聖武天皇は皇太子阿倍内親王に譲位した。六方七代目の女帝、孝謙天皇である。即位後は聖武天皇が進めてきた東大寺の造営事業を受け継ぎ、大仏開眼会を執り行った。その頃、孝謙天皇を力強く後見していた聖武太上天皇は既に病床にあった。太上天皇は新田部(にいたべ)親王の子で、天武天皇の孫に当たる道祖(ふなど)王を皇太子に指名した、これは皇位が天武天皇の長子系から傍系に移ることを決めたことに他ならない。そして天平勝宝8年(756)5月に太上天皇崩御となる。
しかし、崩御から僅か10ヵ月後の天平(てんぴょう)宝字(ほうじ)元年(757)3月、孝謙天皇は皇太子道祖王を廃太子にする。素行が悪いというのが理由であるが、真相は不明である。孝謙天皇が替わりに皇太子にしたのは舎人(とねり)親王の子であり、天武天皇の孫に当たる大炊(おおい)王である。
孝謙天皇は天平宝字2年(758)8月に天皇の位を皇太子大炊王に譲った。淳仁(じゅんにん)天皇が誕生した。淳仁天皇と元来親密であった大納言藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)はこれを期に政治的に台頭することになる。大炊王を皇太子に擁立したのも仲麻呂の計略によるものだった。淳仁天皇の治世で仲麻呂は正一位まで上り詰め、権勢をふるった。
だが、孝謙天皇は必ずしも大炊王に皇位を継がせることに積極的だったわけではない。その証拠に淳仁天皇が即位したときに改元されなかった。天皇の即位と改元が不可分のものであるが、淳仁天皇の即位は改元を伴わない極めて異例な即位となった。
孝謙上皇と仲麻呂の間を取り持ってきた光明皇太后が天平宝字4年(760)6月に崩じると、上皇と仲麻呂の関係は急速に冷え込んだ。天平宝字6年(762)、孝謙上皇が近江の保良宮(ほらのみや)に滞在しているときに道鏡(どうきょう)との運命的な出会いを果たし、上皇の運命は思わぬ方向に動き出す。
上皇と道鏡が親密な関係になるにしたがい、淳仁天皇と仲麻呂の政治的な勢いに陰りが見え始める。上皇と道鏡のただならぬ関係に脅威を抱いた仲麻呂は、淳仁天皇を介して上皇を諌めた。すると孝謙上皇は激怒し、出家して法華寺(ほっけじ)に入ってしまう。さらに孝謙上皇は詔を発し「小さいことは天皇が行うも、国家の大事と賞罰は上皇が行う」と宣言して国政権を掌握する。かつて聖武天皇が譲位後に上皇として天皇をも凌駕する絶大な権力を振るったように、その子である孝謙上皇も名実共に第二の聖武となった。
仲麻呂は危機感をさらに強め、天皇の御璽を奪って天武天皇の孫に当たる塩焼(しおやき)王を擁立する謀反をたくらんだ。しかしこの企ては暴かれ、上皇から討伐の兵が向けられ、官位、藤原姓などを剥奪された。仲麻呂は近江へ逃れたが、天平宝字8年(764)9月、捕らえられ、一族もろとも殺害された。
これに伴い、孝謙上皇は淳仁天皇を捕らえて淡路へと流し、自らが復位して再び皇位に就いた。八代目の女帝、称徳天皇である。大化改新後に皇極天皇が重祚して以来109年ぶりの重祚となった。流された淳仁天皇は天平(てんぴょう)神護(じんご)元年(765)、配所より逃亡しようとしたところを捕らえられ、翌日崩じたと伝えられている。
重祚した称徳天皇は元号を天平神護に改め、2度目の大嘗祭を行った。称徳天皇の重祚は完了したものの、一旦先が見えた皇位継承問題は全く振り出しに戻ってしまった。
称徳天皇が再び天皇となったことで、政治的立場を強めたのは道鏡だった。天皇は道鏡を太政大臣禅師、そして法王として重く用い、道鏡の権威は頂点に達した。そして女帝と法王による共治体制が始まった。
ところが、神護景雲(じんごけいうん)4年(770)3月、称徳天皇は死の床に就く。天皇は白壁(しらかべ)王を皇位継承者に指名し、同年8月4日崩御となり52歳の生涯を閉じた。白壁王は施基皇子(しきのおうじ)の王子で、天智天皇の孫に当たる。白壁王は天武天皇の子孫ではないものの、妻の井上(いのうえ)内親王は聖武天皇の娘で称徳天皇の異母妹に当たるため、称徳天皇と白壁王は近い関係にある。また白壁王には井上内親王との間に他戸(おさべ)王が誕生していた。
白壁王が即位したことにより、皇統は天武天皇系から天智天皇系に移ったことになるが、皇統が草壁系から他に移る状況下における最も賢明で自然な選択をしたと思われる。白壁王は後に光仁(こうにん)天皇と追号される。
孝謙・称徳天皇は初の女性皇太子となり、自らの強い意志によって重祚を果たした天皇だった。女帝は「中継ぎ」という社会通念に対して果敢に挑戦したが、それを覆すことはできず、結局歴史的には「中継ぎ」としてくくられることになる。天皇の人生を難しいものにしたのは父聖武天皇の遺した皇子が二人とも若くして亡くなったことだった。しかし、紆余曲折があったものの、内乱を避けつつ草壁系から天智系へ皇統を移す大事業を成し遂げたことの歴史的意義は極めて大きい。そして平安時代に入ると皇太子の制度が整い、中継ぎとしての女帝は必要なくなる。しかし、これまで見てきた六方八代の女帝の足跡は、皇太子制度を作る上で大きな影響を与えたことは間違いがない。
■江戸時代の女帝、明正天皇・後桜町天皇
称徳天皇以降、長期にわたって女帝はなかったが、江戸時代に初期になって七方九代目の女帝、明正天皇が誕生した。明正天皇は御名を興子(おきこ)と称し、後水尾天皇の第二皇女として元和(げんな)9年(1623)に生を受けた。母は2代将軍徳川秀忠の娘和子(まさこ)(後の東福門院(とうふくもんいん))である。寛永(かんえい)6年(1629)に内親王宣下を受け、僅か6歳で践祚し、7歳で即位した。
859年ぶりに女帝が誕生した裏には特殊な事情があった。父帝の後水尾天皇は将軍の娘を迎え入れた天皇であるも、徳川幕府とは度々対立し、幾度か譲位を試みた天皇として知られている。後水尾天皇を激怒させ、譲位を決意させる引き金になったのは紫衣(しえ)事件と、それに引き続く春日局(かすがのつぼね)参内事件であった。
朝幕間の対立事件となった紫衣事件は、江戸時代初期における、朝幕関係上最大の不和確執とされる。紫衣とは紫色の法衣を指し、最高位の僧侶にのみ着用が許されるもので、その着用は天皇の勅許を必要とする。ところが幕府は禁中並公家諸法度などの法令によって、朝廷が行う紫衣勅許に制限を加え、事前の届出を義務付けた。しかし、寛永4年(1627)7月、幕府は元和元年(1615)以降に紫衣勅許を受けた禅僧に対し、事前に届出がなかったことを理由に勅許を無効とした。朝廷は幕府の措置に強く反発し、また大徳寺住職の沢庵宗彭(たくあんそうほう)ら高僧が幕府に抗弁所を提出した。幕府は寛永6年7月、沢庵らを流罪に処し、後水尾天皇の逆鱗に触れることになった。
後水尾天皇を怒らせたのはそれだけではない。同年10月に幕府は三代将軍徳川家光の乳母お福(春日局)の禁裏訪問を実現させた。春日局は無位無官であり、通常天皇の拝謁が許される身分ではないが、伝奏(てんそう)三条西(さんじょうにし)の姉妹分との名目で半ば強引に参内にこじつけたのだ。この事件は「朝廷の権威は踏みにじられた」と周囲を嘆かせた。
後水尾天皇の逆鱗は頂点に達し、同年11月、ついに退位を強行、不快感を顕に幼少の内親王を即位させたのだ。これは後水尾天皇の強い怒りの現れであり、幕府に対する報復的な措置だった。退位した後水尾上皇はその後仏道修行に専念した。上皇は時に33歳、長期間院政を敷き、84歳の長寿を全うする。一方、7歳の少女には天皇としての責任を果たせるはずもなく、実際は摂家らの責任で政治が進められることになった。
明正天皇は践祚してから13年11ヶ月皇位にあったが、寛永20年(1643)に異母兄弟の素鵝宮(すがみや)紹仁(つぐひと)親王(後の後光明天皇)に譲位して上皇となった。後光明天皇は生母が園(その)光子(こうし)であり、徳川の血を引かない天皇なのだ。全ての筋道は後水尾上皇によるものであり、上皇の最期の意地を見ることができよう。
明正上皇は、譲位を済ませて大命を果たしたとはいえ、それでもまだ20歳の若さである。その後明正上皇は、後光明天皇、後西天皇、霊厳天皇、東山天皇の上皇として73歳まで生きた。
この時代政治の舞台は江戸に在り、かつての女帝が威厳を持って政治を執り行ったその姿が蘇ることはなく、また天皇の判断が求められても後水尾上皇か摂家が処理したため、明正天皇が表舞台に登場することはなかった。
明正天皇は弟宮が成長するまでの中継ぎ役の天皇であった。明正天皇の号は、かつての女帝、元明天皇と元正天皇の号から一字ずつを取って贈られたものである。
そしてわが国皇統史における最後の女帝となるのが後桜町天皇である。後桜町天皇は幼名を緋宮(あけのみや)、御名を智子(としこ)と称し、桜町天皇の第二皇女として元文(げんぶん)5年(1740)に誕生した。生母は関白二条(にじょう)吉忠(よしただ)の娘で女御(にょうご)の舎子(いえこ)である。寛延(かんえん)3年(1750)3月に内親王宣下を受けた。
父の桜町天皇には舎子との間に第一皇女盛子内親王があったが、10歳で亡くなっている。また智子内親王には一歳年下の異母弟がいた。第一皇子遐仁(とおひと)親王である。桜町天皇は延享(えんきょう)4年(1747)に6歳の第一皇子遐仁親王(桃園(ももぞの)天皇)に譲位した。しかし桃園天皇21歳の宝暦(ほうれき)12年(1762)7月に崩御となってしまった。
幸いにして桃園天皇には皇子英仁(ひでひと)親王があり、親王が皇位を継ぐものと思われた。だが、このとき英仁親王は4歳の幼少であり皇位を継ぐには余りにも幼すぎた。幼帝の擁立は多くの前例があるも、その場合は後見役となる上皇や皇族がいることが前提であり、このときは父帝だけでなく、祖父の中御門天皇も既に崩じており、後見役となる近親者がいなかった。したがってこのときばかりは幼帝の擁立も憚られることになり、幼い英仁親王が成長するまでの間、姉で22歳の緋宮智子内親王が皇位に就くことになったのだ。またしても伯母が即位して皇子の成長を待つ構図になった。
宝暦12年7月、緋宮智子内親王が践祚した。八方十代目の女帝、後桜町天皇である。明正天皇には後見役となる後水尾上皇があったが、後桜町天皇の場合は、父帝である桜町天皇と、1歳年下の弟帝の桃園天皇は共に崩御となっており、若くとも自立していなければいけない状況にあった。
英仁親王は周囲の期待を受けてすくすくと成長し、12歳となった明和(めいわ)5年(1770)、ついに立太子し、元服を済ませた。そして同年11月、後桜町天皇は英仁親王に譲位した。後桃園天皇の誕生である。
後桜町天皇は8年間在位し、30歳にして退位して上皇となった。皇子英仁親王が成長するまでの間暫定的に皇位に就くという当初の目的は達成され、後桜町天皇は上皇となった後は静かに余生を過ごすつもりでいたかもしれない。しかし、後桜町天皇の役割はまだ半分も終わっていなかった。
後桜町天皇から皇位を譲り受けた後桃園天皇は生来病弱であり、即位して9年の、安永(あんえい)8年(1779)、21歳の若さにしてあっけなく崩御してしまう。天皇に皇子はなく、生まれたばかりの皇女が一方あったのみ。このときが最も深刻な皇統断絶の危機であり、本書の冒頭につながる。
既に述べたとおり、宮中で様々な議論を経て最終的には、閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王の第六王子で8歳の祐宮(さちのみや)(光格(こうかく)天皇)が皇位を継ぐことになるのだが、後桜町上皇は再びしばらくの間幼帝の後見役を担わなければいけなくなった。
後桜町上皇は幼帝を厳しく育てた。光格天皇が閑院宮出身で傍系から即位した天皇であるため、上皇はその行く末を案じ、天皇に学問に励むように勧めた。その甲斐もあり光格天皇は勉強熱心に育った。そして上皇は公家たちに対して天皇を見習って勉強するように諭したと伝えられる。また傍系から即位した負い目も働き、光格天皇は歴代天皇の中で、天皇としての皇統意識を最も強く持つ天皇となった。上皇は和歌の道にも通じていた。後桜町天皇の御製(ぎょせい)集である『後桜町天皇御製』28冊に、実に1588首もの和歌が収められている。光格天皇も和歌好きで知られるが、それも後桜町上皇譲りであったろう。
後桜町上皇は譲位して43年後の文化(ぶんか)10年(1813)閏11月、74歳の生涯を閉じた。時に光格天皇42歳、明治維新まで55年である。明治維新への礎は後桜町天皇が固めたといってもよい。
これまで八方十代の女帝を順に紹介してきたが、それぞれの成立背景や役割は異なる。しかし、一定の共通項があるので、ここでまとめてみよう。
第一に、女帝は例外なく歴代天皇の男系の子孫であると指摘できる。女系子孫や外部から嫁いで来た女性が天皇になったことはない。
そして第二に、先帝の皇后が女帝になることを原則としているということだ。まさに推古天皇、皇極・斉明天皇、持統天皇は皇后であった。しかし、元明天皇は皇太子草壁皇子妃であり、元正天皇に至っては皇后でも皇太子妃でもなかったが、いずれにしても皇后、もしくはそれに準ずるように格上げされてから即位となっている。そのことからも、女帝は皇后であるべきだという不文律が依然として存在していたことが分かる。ただし、その原則も未婚の内親王が即位した元正天皇の例を以って変化し、以降の女帝は全て未婚の内親王となった。
第三に、女帝の係累は即位することができないことが指摘できる。元来女帝の擁立は、皇位継承を巡る政治的緊張を緩和させるのが趣旨であり、女帝の息子に皇位継承権があるならば、決して緊張緩和にはならなかったことからも明らかである。女帝とはその係累の皇位継承を否定された天皇であった。
しかし、斉明天皇が退位して中大兄皇子が即位して天智天皇となったことにより、その了解も空洞化されてしまう。ただし、中大兄皇子が皇太子である状況で斉明天皇が重祚したため、極めて特殊な例であると指摘できよう。だが次の持統天皇が文武天皇の即位を実現したことで、女帝の皇子についても皇位継承権が認められるようになったと見える。だが、元正天皇以降の女帝は全て未婚の内親王であったため、結局女帝の係累が即位する例は持統天皇と元明天皇の2例に限定される。
また第四に、女帝は一旦即位すると、婚姻した例も、出産した例もなく、これらを禁止した不文律が成立していた点を指摘しなくてはいけない。女帝は、在位中はもちろんのこと、退位した後も未亡人もしくは未婚の立場を貫き通さねばならない運命にあった。そしてこれは一つの例外もなく守られている。皇統が男系によって継承される以上、女帝の婚姻は理論的に許されるものではなく、本人に婚姻の意思があったとしても事実上不可能であった。
八方の女帝にはそれぞれのドラマがあるが、結果的にはいずれも正当な皇位の継承者となることはなく、全て「中継ぎ」の役割を担ったことになる。そして「中継ぎ」とはあくまでも「中継ぎ」であって、皇統断絶の危機に当たっての緊急避難ではない。皇位継承者がいなくなったとき、皇統断絶の危機を回避するために女性が天皇となった例は一例もないのだ。
〜転載禁止〜 掲載日 平成17年11月21日