代表的な文化遺産を17点集めて北新地の文化と 歴史を説明する文化銘板「わが北新地」
現在、一般に「北新地」と呼ばれているのは、北は国道2 号線、南は堂島川、東は御堂筋、そして西は四ツ橋に囲まれた、東西約500m ・南北約250mの長方形の地域である。その歴史は古く、江戸時代の元禄元年(1688年)の「堂島新地」の誕生に始まる。江戸幕府の命を受けた川村端賢が淀川本支流の各所で改修工事を行い、堂島新地は、その一部の堂島川・曾根崎川の浚渫工事によって町割が行われて誕生した。元禄10年から「堂島の米市」が開かれるようになり、堂島新地には大名屋敷をはじめ、茶屋、風呂屋、芝居小屋などが許可され、新地の繁栄が始まった。その後、堂島の米市の急速な発展により、仲買人や両替商が次々に店舗を構えて商人街となり、遊所は曽根崎川を渡った川向うの曽根崎新地へと移動した。曽根崎新地は、天保13年(1842年)に日本初の公許の遊所地となり、遊女を置く茶屋を中心に、煮売屋、湯屋、風呂屋(蒸ぶろ)、芝居小屋、射的場、宿屋などで賑わう盛り場となった。その後、明治42年(1909年)の「北の大火」のあと、3年後の明治45年(1912年)に曽根崎川が埋め立てられ、街路が整備されて堂島新地と曽根崎新地が一体化してほぼ現在の地形となり、「北新地」の原形が出来上がった。大正7年末の統計では、当時の北新地には芸妓置屋11軒・貸席153軒、芸妓825人を誇る繁栄ぶりだった。ところが、第二次世界大戦でこの街のほとんどが焼き尽くされた。そして、昭和30年代後半からの高度成長期以降、北新地にはバーやクラブが増えはじめ、元禄以降続いてきたお茶屋の町から、バー・クラブ・料亭が立ち並ぶ社交場へと様変わりし、現在に至っている。しかし、北新地誕生以来の「おもてなしの心」は、今も変わらぬ街の礎になっている。
北新地社交料飲協会理事長(石鍋料理「沙茶」圓石本店店主)の河口 貴賦氏は、「戦後は財界人の情報交換の場として栄え、“夜の商工会議所”と呼ばれていました。北新地で遊んでいると、お金に余裕があると見られ、銀行からも信用されていたのです。かつてのお茶屋は貸しビルへと変わり、現在は約3000軒の飲食店が軒を連ねています。しかし、年間に1000軒くらいはオーナーが入れ替わっており、その実態は定かではありません。現状は衰退傾向にあるので、歴史ある北新地を再興させるのが我々の仕事です」と語る。
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