市民が行政・議会・一部のネット族を監視するための辛口情報紙・東村山市民新聞

『倶会一処』
「天声人語」(朝日新聞79年10月1日付け)より (表記は原文のまま) |
「いのちの初夜」を書いた北条民雄は、ハンセン氏病療養所の多磨全生園で死んだ。園内での死者番号は1560番だった。かけつけた川端康成は「こんなみすぼらしい死体をみると、もうなにもしてやれなくなったことが、よけいつらかった」と書いた。42年前のことである。
▼その多磨全生園が数日前に創立70周年を迎えた。それを記念して、患者たちが『倶会一処』という本をつくった。疎外され、隔離され、いやしめられながらなお、生きるために命を燃やし続けた人々の70年の記録である。思わず、夜を徹して読んだ。
▼全生園の骨堂には倶会一処の四文字が刻まれている。ともに一処に会う、の意味だ。この園に強制的に隔離されてきた患者は70年間で8千人を越えた。死者は3300余人である。隔離時代の患者たちは、生者としてではなく、死者番号の順番を待つものとして扱われた。
▼点鬼簿には、患者同士が産んだ私生児もいる。園内の畑のイモを盗んだだけで監房にいれられ、恨みをのんで首つり自殺をした患者もいる。長ぐつを支給せよと迫ったことがきっかけで重監房に写され、病み崩れて死んだ患者もいる。敗戦前後の患者たちは飢えてガマガエルまで食べた。栄養失調で病態が悪化し、つぶれた目の中や傷口にうじ虫がわいたという。1年間に百人以上が死んだ。
▼戦後、特効薬によて、ハンセン氏病は「なおる病気」になった。長期療養者も無菌者になり、伝染の恐れがなくなった。しかし、いまもなお、世間には根強い偏見がある。「この病気がもう、ふつうの病気と変わらないということを広く社会にわかってもらいたい。わかってもらえないうちは死ねない」と全生園の自治会代表はいっている。
▼患者たちはいま、園内の森づくりに精を出している。医学の進歩で、全生園はやがて消える運命にある。その時、この地にゆたかな緑を残そうという意図だ。世話になった地域住民への感謝のしるしだという。 |
「いのちとこころの人権の森宣言」
平成21年9月2日
東京都東村山市 (表記は原文のまま) |
かつてハンセン病は、不治の伝染病とされ、患者は国の強制隔離政策と人々の偏見や差別の中で、長く苦しい歴史を歩んできた。
ここ全生園には、故郷を捨てさせられた人々が眠る納骨堂、終生隔離のなかで故郷を偲んだ望郷の丘、苦難の歴史を語り継ぐハンセン病資料館、これらとともに多くの想いがある。
この地を第二の故郷とした人々は、萎えた手足に力を込め、病をおして拓いた土地に、一人一人が想いを込め、一本一本植樹し緑を育てた。
いま、その緑の地は、そこに暮らす人々と東村山市民との百年の交流をとおし、いのちとこころの人権の学びの場となった。
私たち東村山市民は、こころをひとつにし、ここに眠る人々を鎮魂し、この土地と緑と歴史の全てを『人権の森』として守り、国民共有の財産として未来に受け継ぐことを宣言する。 |
▼「人権の森宣言」(創価系元助役が主導し自公連立ムラ市長が利用しただけの政治ショー上演) |
9月2日、朝木明代議員が殺害された当日だったが、東村山市議会では、「いのちとこころの人権の森宣言」というものを議決するためのセレモニーが、全生園入所者自治会代表、作文を書いた小学生2名を議場に招き、一般質問の前に時間を割いてとり行われた。
この「宣言」が、後世の人々に内容あるメッセージを伝えることができるものであれば、まだしも、全生園の入所者に対する人権蹂躪の生々しい歴史にフタをし、「人権の森」などという美名の下に「隠蔽美化」するものでしかないものであることは、上記の「宣言」本文を読めばすぐわかる。
すなわち、強制隔離された入所者を待っていたのは、「生者としてではなく、死者番号の順番を待つものとして」、全生園当局による徹底的な人権蹂躪政策だったが、この人権蹂躪を強行したのは最大の責任者は誰か、そしてこの戦前戦後の人権蹂躪を座視し許してしまった所在地東村山市の関係者、首長、議員、職員を含めて、責任はないのか、これらが全く言及されていないばかりか、これらの重大な責任を全生園設置100年を機に、明らかにし、どのように贖罪していくのかについて、全く、言及もない。
そしてさらに問題なのは、自公連立ムラ市長の政治的利用をお膳立てしたのは、自公連立ムラ市長の「アドバイザー」と称してあれこれ入れ知恵している創価系元助役で、しかも、全生園入所者自治会代表、を招くのは置くとしても、2名の小学生まで、を「政治ショー」の演出に利用したのである。加えて、ムラ議員の中には「小学生の朗読した作文に感動した」という人物らまでいたのだから、ますますあきれ返る。
草の根・矢野、朝木議員には、市民多数が「全生園100年の歴史があるのに、あのような程度の宣言をしていいのか?」と異議を伝えており、中には共産系の元教師の方までいたという。全生園の歴史と人権蹂躪の実態を知っている市民なら、「ここ全生園には、・・・これらとともに多くの想いがある。」などと抽象論で誤魔化すことが許されないことはよく知っているのは当然のことである。
それに、今から30年前に、全生園入所者自治会が『倶会一処』を刊行し、全生園70年の生々しい人権蹂躪の実態を詳細に公表しているから、東村山市民で少しでも全生園について関心のある方なら、殆どの方がこの書物を知っており、人権蹂躪を強行した全生園当局の関係者が実名のまま登場している内容に、入所者の怨念と怒りの激しさを知らされ、人間の尊厳を踏みにじられた人々の突き刺すような叫びに圧倒されてしまう。朝木明代議員は福祉関係者とのかかわりが深く、全生園入所者の人達との交流や、職員の人達、そして社会復帰した全生園入所者の方々ともおつきあいをさせていただいたし、矢野議員も国際障害者年前後のころから全生園入所者との交流が多くなり、現在でもFMラジオを通して交流がある。朝木直子議員も、子供のころから、知っている全生園入所者らのみなさんもいるほどだ。
朝木直子議員は、この日、自公連立ムラ市長に、「私は母・朝木明代からこの本だけはしっかり読みなさい、といわれた」ことを紹介し「市長は、この『倶会一処』を読んだか、読んでどのような感想をもったか」と追及した。ところが、自公連立ムラ市長は「市議のころ、この本を貰ったが、ひどい取り扱いをされていると思った」という程度の感想で、ろくに読んでいないことを証明した。内容をしっていれば、このような、まやかしの「宣言」を提案するはずがない。この「宣言」は、起草委員会に全生園関係者がふくまれてはいるが、仮に、全生園入所者のみなさんが、「過去のことは全部忘れましょう」といったとしても、こちら側の責任の問題は消滅しないし、自ら責任を明らかにし、贖罪の言葉を宣言に刻み込むことこそが、最も肝要な「東村山市」の「宣言」足りうる最低の前提である。
共産党は、起草委員会の構成を質疑したが、でたらめな「宣言」を後世に残す事に不和雷同するよりも、問題の核心を指摘し、後世に伝えるべき点を明確にする名誉ある「反対派」の道を選択すべきではなかったか。
「非国民」と呼ばれるのが怖くて、斗わず日和るという見掛け倒しでは、政治勢力としての存在価値がない。人権蹂躪の嵐の中で人としての尊厳を徹底的に踏みにじられ、「生者としてではなく、死者番号の順番を待つものとして」無念にも亡くなっていった全生園入所者の怒りをしっかりととらえかすことを忘れてはならない。
なお、『倶会一処』の中で、「草津重監房」として紹介されている群馬県草津町の「栗生楽泉園」の入所者50人の「証言集」がこのほど完成した。(問い合わせ先 栗生園入所者自治会 電話0279−88ー8671)
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