猫を償うに猫をもってせよ

2007-03-13 太宰治賞の悲劇 このエントリーを含むブックマーク

 筑摩書房三鷹市主催の太宰治賞は、もはや悲劇の賞と化しつつある。かつての太宰賞は、吉村昭金井美恵子(優秀作)、秦恒平、宮尾登美子宮本輝を輩出したが、99年の復活以後、なんとかものになりそうなのは第二回受賞の辻内智貴くらいで、あとはもう、芥川賞候補にもならないで、懸命に書き下ろしをしたりして書き続けているが誰一人有名にはなっていない。受賞作も、発表媒体がないため、「太宰治賞」なる雑誌状の本を出しているが、こんなの書店で買う者がいるんだろうか。

 私は二、三度授賞式に行ったが、ある時、話し相手もなく、辛そうに座っている若い男を見かけた。前年の受賞者だった。選考委員の挨拶を聞いて、受賞作が絶讃されたためしがなく、むしろ、読む気をなくすような挨拶ばかりだった。

 ああ哀れ太宰、「芥川賞をください」と川端康成に手紙を書いて、没後五十年たってもこんな形で貶められるとは。

 才能ある人が応募してくれなければ、しょうがない。昨年の受賞者は栗林佐知、既に小説現代新人賞受賞の履歴があったが、受賞作「峠の春は」ってそれ、題名がひど過ぎるだろう(その後改題)。NHK朝の連続テレビ小説か。

 応募する方は、選考委員の顔ぶれを見て応募するのだから、もうこれは、いっそやめるか、選考委員の入れ換えしかない。新しく加わった小川洋子は残すとして、残り三人に代えて、

 金井美恵子橋本治斎藤美奈子

 でどうだ。加藤典洋が選考委員をしている賞に応募してくるなんて、バカか切羽詰まっているかのどちらかなんだから。

−−−−−−−−−−−−−−−−

 夏目漱石が東京帝大を辞めたとき、「講師」だった。まあ明治期のことだし、職名もさまざまだったのだろう、と思っていたが、ふと、では英文科教授は誰だったのか、と考えて、調べたら、漱石が学んだ教授はディクソン、その前に坪内逍遥が学んだ時はホートン、つまり「お雇い外国人」である。漱石の前任者がラフカディオ・ハーンというのは有名だが、ハーンは「教授」とは言われていない。

 じゃあ漱石が教えていた時の英文科教授はというと、いないのである。文科大学に英文学の講座ができたのが、漱石が辞めたあとの明治40年7月だが、英文科の専任の席は、大正五年に市河三喜助教授になるまで空席で、教授も助教授もいなかったようだ。上田敏漱石が辞めたあと明治40年11月から洋行し、洋行中に京都帝大に招かれてそれを受け、翌年帰国して京都帝大講師になるが、42年に教授になる。当時の東京帝大は、国語国文国史、教育学美学言語学(博言学)、梵語学には教授、助教授が揃っていた。独文科に助教授がつくのが大正三年の上田整次で、これは明治40年に助教授になっている。仏文科はさらに大正12年の辰野隆だから、要するに「文学科」などというものはごく新しいものだったのだ。ただし京都帝大では明治42年に上田敏が教授になっているわけで、これは狩野亨吉の革新的な人事だったわけだ。漱石が講師として教え始めた頃は敏も講師だったが、敏のほうがずっと有名だったという。

 してみると、漱石京都帝大教授の打診を受けて断っているけれども、仮に東京帝大で講師を続けていても、教授になれたかどうかは、疑わしいのである。しかもこの「講師」というやつ、どうも今でいう「非常勤講師」のようなものらしく、そうなると、「漱石が帝大を辞めて」云々という話は、どうも疑わしいのではないか。漱石だって、松山、熊本ロンドンと流浪してようやく故郷に帰ったのに、今さら京都へなど行きたくなかっただろう。

 そうなると、上田敏洋行から、明治44年に松浦一が講師になるまで、英文科では誰が教えていたのかというと、外国人教師のアーサー・ロイド、あるいはトランブル・スウィフトといったあたりらしく、四年間、英文科はお雇い外国人の時代だったわけだ。しかも市河は英文学ではなく英語学、東京帝大英文科が英文学者を助教授にしたのは、大正12年の斎藤勇と沢村寅二郎が最初で、京都帝大は既に厨川白村がいたのだから、いかに東京帝大が文学研究に熱心でなかったか、よく分かる。

 今の東大英文科にも外国人教員枠が一つある。長いこと、ラフカディオ・ハーンの好きなジョージ・ヒューズ先生が教えていて、私も授業に出たことがあるが、今はスティーヴン・クラーク。この人は阪大時代に一緒だった。パーティーの時など、嫌煙家に遠慮して片隅で二人でタバコを吸ったりしていたが、クラーク私のことを覚えているだろうか。