愚樵空論

〔わがまま〕の闇について

私たちの素朴な感覚として、〔わがまま〕は良くないことだと思われています。

〔わがまま〕とは自分の利益だけを考えて他を省みないことですから、社会や共同体を構成する各人が〔わがまま〕な状態に陥ってしまうと、秩序が乱れて社会や共同体の利益が損なわれ、そのことによって各人の利益も損なわれる。崩壊の様相を呈している自民党が「自分党」などと揶揄されていますが、今の自民党がまさに〔わがまま〕の典型例といえるでしょう。

我が国の国民を代表する政治家たちが〔わがまま〕の見本を示してくれているというのは、悲しむべきか、笑うべきか、いずれにせよ好ましい状況ではないのですが、この自民党の例からもわかるとおり、〔わがまま〕は悪であり闇だとイメージされます。それゆえに〔わがまま〕は克服されるべきものと捉えられる。そして、〔わがまま〕を克服する「意志」(自制心とか「克己心)、あるいは「理性」といったものが〔わがまま〕の悪および闇のイメージと対立して、善あるいは光として捉えられることになる。

〔わがまま〕を巡っての捉え方は、こうした二項対立的な捉え方が現代では一般的であると言えるように思います。


〔わがまま〕を二項対立的に克服すべきものと捉えるのは西洋的だとします。すると、東洋的な〔わがまま〕の捉え方があることになります。そこで思い浮かぶのが、孔子の非常に有名な「吾、一五にして学に志し、...」というやつです。

子曰、
吾十有五而志於学。
三十而立。
四十而不惑。
五十而知天命。
六十而耳順。
七十而従心所欲、不踰矩

孔子70才での「従心」の境地を〔わがまま〕に即して言いますと、「心の欲するところ」すなわち〔わがまま〕であっても「矩をこえず」、〔わがまま〕ではない。「従心」で表明されているのは、〔わがまま〕二項同体的な把握だと言えそうです。

年齢を遡っていきますと、60才「耳順」は他人の〔わがまま〕を自他の対立的なものとは捉えないということになるのでしょうし、50才「知天命」は、捉えようによって究極の〔わがまま〕であるということができます。15で「学に志す」のも〔わがまま〕ですが、それが30で決断し、40で迷うことがなくなるというのですから、歳とともに〔わがまま〕は深化していく。そして「知天命」=究極の〔わがまま〕まで届くと、その先は自他の〔わがまま〕対立の解消へと「飛躍」します。

この「飛躍」は、西洋論理が開拓した止揚でも届かない飛躍であるように私には感じられます。すなわち、〔わがまま〕を克服しようとする行き方の限界がここにある。〔わがまま〕の究極から解消への「飛躍」は、「解脱」という言葉をあてるのが相応しいように思うのです。



この〔わがまま〕について、ごんさんからとても興味深いコメントを頂いています。

『A案は「国定道徳」である』 コメント番号3114
>あなたやあなたの家族が、臓器移植でしか生きられない病気になったときでも、あなたは移植を望まないと断言できますか?

自分自身は臓器移植を望みません。

ですが、自分の子どもには望みます。

そして、自分の子どもからの臓器摘出は拒みます。

このコメントの何がどう興味深いのか、訝しく思われる方も多いかもしれません。文章として記されている内容の論理だけをみますと、ごんさんの宣言は明らかにダブルスタンダードであり〔わがまま〕であり、克服されなければならないものになります。克服されなければならない〔わがまま〕を有り体に示すごんさんは、その人格を疑われてしまうことになりますし、事実そうした批判もなされています。

私が興味深いと感じるのは、人格といったレベルでのことです。〔わがまま〕は克服するべきとの見方からすれば、ごんさんの人格は〔わがまま〕の闇に囚われているようにしか見えないでしょう。しかし、〔わがまま〕から解脱するという見方からすれば、ごんさんには「飛躍」への可能性が秘められているように感じる。その可能性が興味深いのです。

闇の中を瞬く光ごんさんのコメントからは、ごんさんの葛藤が明らかに読み取れます。ごんさんの自分の子どもに対する臓器移植の態度だけをみれば、ダブルスタンダードあり〔わがまま〕でしかありません。しかし、ごんさんは自分の臓器移植については望まないと答えています。自らとわが子とについての態度の違いに葛藤があらわれている。もし、この葛藤がなく、自らも臓器移植は望み、臓器摘出は拒否するというのなら、ごんさんは〔わがまま〕の闇の中に沈んでしまっていると言えたかもしれませんが、そうではなく、〔わがまま〕の闇の中にいても、葛藤という光を放っている。そして、生きているということは、葛藤を抱えていくことに他なりません。



臓器移植という技術は、「カルネアデスの舟板」を生み出す技術です。もし臓器移植の技術がなければ、脳死に至った人は死に逝くだけだし、臓器移植なしで生きられない人も死に逝くだけ。臓器移植の技術が出現する以前は、死という誰もが逃れられない摂理の前で
この両者は平等だったのです。

しかし、臓器移植の技術はこの平等を崩してしまった。両者の間に格差をもたらしたのです。生命の危機にある2人を「カルネアデスの舟板」の上に載せ、片方に武器を手渡した。武器を手にしたことで強者になった者は、徒手空拳の弱者を打ち殺すことができるようになった。「脳死を人の死」と定めたことは、臓器移植によって生み出された格差を偽装するものでしかありません。

〔わがまま〕の闇は、格差のあるところで生まれるものです。格差の可能性のあるところで格差を求めて生じるのが〔わがまま〕の闇です。2人が等しく死地に臨むのなら、そこから生まれるのは〔わがまま〕の闇ではなく〔友愛〕に光でしょう。こんなことは理屈や論理と関係なく、誰もがよく識っていることです。

であるなら、ごんさんの〔わがまま〕の闇は、ごんさん自身が生み出したものだと言い切ることは出来ません。臓器移植技術によって生み出された格差の可能性に、人間なら誰もが持っている〔わがまま〕への心性をが反応した。そして、その反応をごんさんは「脳死は人の死」という偽装で取り繕うことを拒否し、葛藤することを選んだ。つまり、外部からもたらされた闇を受け入れつつも、その闇と同化することを選択しなかったのです。闇には葛藤という「いのちの光」で対抗した。いのちは闇の中をまたたく光なのです。
(身体的な現象としては、臓器移植を拒否することは死を選ぶことになりますが、精神的には
「いのちの光」を選ぶことになります。かくのごとき境地においては〔死=いのち〕です。)

もうすこし付け加えておきましょう。ごんさんが子どもについては〔わがまま〕の闇を選択する理由です。その理由は、子どもが未成熟であることに他ならないと私は考えます。すなわち、
〔死=いのち〕を選択できるところまで成熟するに至っておらず、子どもたちはいまだ〔わがまま〕の闇に流されざるをえないということをごんさん自身が識っていることが、ごんさんが子どもについては〔わがまま〕を選択する理由でしょう。

これはあくまで私の推測ですが、なぜこのように推測するかというと、ごんさんは、子どもが長じたときには
〔死=いのち〕の選択が出来るような成熟を果たすことを望んでいるだろうと思われるから。ごんさん自身がその選択をすると明言されているのだから、子どもにもそのように望むのと考えるのは自然なことです。

最後に。これはおそらくごんさんと私の見解は一致するだろう予測しますが、私は技術の進歩を無条件で歓迎する立場ではありません。技術は須く何らかの格差をもたらすものではありますが、絶対的な格差をもたらす技術は歓迎できません。臓器移植の技術もそうですし、核兵器をはじめとする軍事的な技術も、それから金融工学といった技術もそうです。そしてもうひとつ、歓迎できない、というよりも憎むべきと考えているのは、格差を偽装する概念です。脳死がそうですし、俗にいう新自由主義という思想もそうです。核拡散防止という概念もこれにあたります。
これら格差を偽装する概念は、格差の可能性が否応なく生み出す〔わがまま〕の闇を、正当なものへと転化してしまいます。

〔わがまま〕の闇は、人間の属性です。決して忌避すべきものではありません。忌避すべきは、
〔わがまま〕の闇を偽装することです。闇の偽装は、闇の中でまたたく「いのちのひかり」の力を奪ってしまうのです。

コメント

なるほど

自分なりに葛藤してみて、このエントリーなるほどと思うところもあります。

それにしても、「脳死は人の死」なのか、そうではないのか…。答えはいつも闇の中です(わたしにとっては)。
一般的な合意があると言われたら、やはり違和感はいなめません。
二重の意味で、「どうしてそんな確信をもてるのだろう?」と不思議に思うのです。
「脳死は人の死である」という確信についても、「それは一般に合意を得ている」という確信についても。

そうした法的決定が、愚樵さんの言うように、ある意図を持って強引になされたのだとしたら、納得はできますが、それはそれでとんでもないことです。

金融工学という例は、なにかしっくりくるものがありますね。
否応なく人間の欲望や「わがまま」や「自己中」を刺激し、混乱させ、人間精神を葛藤や堕落に引きずり込む科学的ツールとしてわかりやすい例です。

>「脳死は人の死である」という確信についても、「それは一般に合意を得ている」という確信についても。

わたしはこの「確信」が怖いのです。

あることがらが「一般に合意を得ている」社会に生まれついたら、どうしてもそう「確信」せざるを得ない、そういう出来事が世の中にはたくさんあります。

わたしは、そういうことが「理解」できるようになるまで、この社会に育てていただきました。

だから、自分のこれからのことに関して、自ら「拒絶の意志」がある場合、それを認め、そのことを示すことができます。それ(わたしが拒絶するもの)がこの社会で「一般に合意を得ている」ものであっても。

ですが、(わたしの子どもに限らず、ほとんどの)子どもたちはそうではありません。子どもは、これからこの社会に出て、そのことを学んでいく存在です。そうして成長して、自分を育ててきたこの社会が、信用に足る、感謝すべきもであるのか、自分はここでどのようにはたらいていくか、じっくり生きて、自ら答えを出すのです。

そんなとき、

私には、子どもたちが、自身で答えを出さなければならない、そのときに、子どもたちには、そういうことがらから自由であって欲しいという願いがあります。

そう「確信」せざるを得ない、そんなことがらから。



〜〜〜宿命を希望に変えよ

やられた。

自分自身は臓器移植を望みません。

ですが、自分の子どもには望みます。

そして、自分の子どもからの臓器摘出は拒みます。

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すごい、と思った。
これをことばにできるところが、ごんさんの凄いところだなあ。

結局のところ、子を持つ親の本音はこうだと思う。私も含めて。

でも「自分の子どもに望むなら、子どもの臓器も摘出しろ」という「倫理」や「道徳」みたいなものがあって、それによって、「子どもに望むなら、摘出OK」か「子どもに望まないから、摘出も拒む」の二者択一にされてしまっている。どちらを選ぶにしても身を切られるようなつらさを伴う二者択一に。

その感情を「善」で、もっとぶっちゃけて言えば「きれいごと」で覆い隠して、前者を選ばせようとする「空気」。それが私はとても気持ち悪いし、とても腹立たしいのです。

ごんさんの「親としての本音」は、決して「矛盾」したものではないんですよね。とても切実なそうした気持ちの表明は誠実だと思う。なのに「わがまま」とバッシングされるというのなら、私にはそれはとても気持ち悪いと思います。死に伴う複雑な思いを無視した議論に誠実さがあるとは私には思えません。

わがまま

ごんさんのわがままを批判しているのは私だが、

親のエゴをエゴだから認められないとか許せないと言っているのではない。親のエゴを通さざるを得ないなら、そのエゴが他者に与える影響、他者から受けざるをえない事柄に自覚しないといけないと言っている。そして、そんなわがままなごんさんの子供に、自分の子どもが脳死になったら、その臓器を提供することも自分は拒否しないとも言っている。その意味と気持ちを理解しないから愚礁さんはそんな薄っぺらなことが書けるのです。

簡単に言えば、自分の子どもの臓器移植して欲しいと思うなら、他人の子供の臓器移植や他人の子供が臓器提供することを認められないというのはおかしいだろう、ということです。でなければ、ごんさん自身がお子さんが臓器移植治療を受けられるはずの扉を閉ざそうとしていることになる。

私はこちらのダブルスタンダードを非難している。

で、愚礁さんはどこの何の話をしているのです?

技術の否定?

>臓器移植の技術が出現する以前は、死という誰もが逃れられない摂理の前でこの両者は平等だったのです。

と言うことは、死に至っていた病の治療技術が確立される度に、それまでは同じく「死が逃れられない摂理」だった人たちの一部を救い出すことが出来るようになりましたが、これが「平等を崩し」「格差」を生んだとおっしゃるわけですね。

医療技術の発達を否定するのと同じ論理に見えますが、気のせいでしょうか?

というか、その技術を持つ者と持たざる者では、常に一定の格差は生じると思うが、ということは、全ての技術を格差を生じさせるからと否定なさるのでしょうか?

個と社会とを峻別する決意

ごんさんの示した〔わがまま〕は「決意」ですよね。個と社会とが対立したときには、個を優先するという決意表明。

といって、社会を蔑ろにしようというのではない。あくまで最終局面での決意。カルネアデスの舟板に乗ってしまったら、どちらを選ぶかということ。

けれど、これを平時に言葉にして表明するのは、みみずさんの言うとおり、なかなか大変なことです。多くの人は、いざとなったらごんさんの言葉の方をえらぶでしょうけど、平時にその“いざとなったら”のことを言うのはなかなか難しいですね。

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Looperさん

親のエゴをエゴだから認められないとか許せないと言っているのではない。親のエゴを通さざるを得ないなら、そのエゴが他者に与える影響、他者から受けざるをえない事柄に自覚しないといけないと言っている。

Looperさんは、よくこの手の文章をお書きになりますね。

エゴが他者に与える影響? そんなことを考えないからエゴであり〔わがまま〕なんでしょう? 結局、Looperさんはエゴはダメと言っているんですよ。

私は子どもがいないからごんさんと同じ立場には到底立てないけど、思うところを述べてみますとですね、ごんさんが示したのは、上記のように最終局面での決意です。でも、ごんさんも私も、そしておそらくはLooperさんも現実にそうした最終局面が訪れることは望んでいないでしょう。望まない、しかも訪れる確率の低い最終場面のために賛成できないということです。

まあ、こういうと、現実に最終場面が訪れた人はどうすると言われるでしょうけどね。

私なら諦めるという決断をする。ごんさんもそう言っている。しかし、子どもの場合には、その決断が下せるほど個が育まれていないから逡巡する。親のエゴを抑えられないというのでしょう。そうなると、これまでの反対の立場などかなぐり捨てるという、これまた決意表明でしょうね。

では、反対が功を奏して臓器移植が出来なくなったら?
 それはそれでその現実と向き合うことになる。現実と向き合うことができるということが「個が確立する」ということですからね。


医療技術の発達を否定するのと同じ論理に見えますが、気のせいでしょうか?

ですから、絶対的格差をもたらす技術だと言っているではないですか。臓器移植は2人の人間が1個の臓器の取り合いをする技術でしょう? 臓器を持つ持たないは絶対的格差。

例えば腎臓移植ならいいですよ。1人に2つありますからね。肝移植も、1個の肝臓を2つに切り分けても大丈夫らしい。そういったのはいいのです。平等を実現できるから。

愚樵さん、ごんさん、みみずさん

ぜんぜん、わかってない。
これほどまでに、わからない人っているんだろうか。

『最後の最後まで「わが子の死」を認めたくない、臓器移植なんて絶対に断る。』

『最後の最後まで「わが子が助かる」道をあきらめたくない、臓器移植でそれができるなら、それを一刻も早くやって欲しい』

この矛盾した2つの気持ちがあることぐらい、誰もが承知している。
だからこそ、どちら側にしても、反対側に対して、許されざる一線を越える表現をしてはいけないんじゃないのか?

愚樵さん、あなたは「強欲」と発言した。
ごんさん、あなたは臓器摘出される側のこと「しか」述べていない。
悪意がないのはわかるが、君たちが並べ立てた『単語』を、「一日でも長く生きられる希望」を持って苦しんでいる臓器移植を必要とする患者とその親族が見たら、いったい、どういう気持ちになるのか、それに思いを馳せたことがあるのか?

あなたたちがどういう立場かは、私は知らない。
しかし、君たちが「真ん中の立場」であるならば、なおさら表現方法は気をつけないといけないはずだ。

傷口を塩で塗るようなことはするな!

このことを、私は再三述べているのだが、理解できない、理解しようともしないなら、この件については、二度と発言するな。感情を抱くな。思考を持つな。君らの感情、思考、発言は、聞いた人からすれば「殺人者のレッテル」を貼られているようなものだと、少しは真面目に考えろ。


みみずさん、『結局のところ、子を持つ親の本音はこうだと思う。私も含めて。』と思うなら、『すごい、と思った。これをことばにできるところが、ごんさんの凄いところだなあ。』なんていう感情を抱いてはいけない。ごんさんを批判して掣肘しなければならない。

どちらを選ぶにしても身を切られるようなつらさを伴う二者択一であったとしても、第三者からは「子どもに望むなら、摘出OK」か「子どもに望まないから、摘出も拒む」のどちらかを選択し、それを実現しなければならない。
それこそ、目の前の子どもは『生きるか死ぬかの瀬戸際』にある。どちら側を選んでも、法的にはともかく、どちらかは確実に死ぬのである。人の命がかかっていることについて、『その感情を「善」で、もっとぶっちゃけて言えば「きれいごと」で覆い隠して、前者を選ばせようとする「空気」。』なんてことを、医療現場で起こるとでも思っているのか?
「わが子の生き死に」がかかっている親からすれば、法律も道徳も空気も関係ない、その親を目の当たりにして手術を行う。その雰囲気を想像することができれば、悪いが、みみずさんのような感情や思考を抱く方が無理である。

このお三方は、悪意はないと思うので、注意喚起程度のコメントにしたいが、糾弾すべき悪意丸出しのコメントを出したのがいる。

HN「早雲」。

こいつのデータ分析の自己中丸出しと論理の摩り替え100%、反論不能に陥って『投稿態度からあなたが本気で患者の生存を望んでいるわけではないことが解りましたのでコメントはこれで終わりにします。』という捨て台詞。
こいつが、最も臓器移植患者、臓器摘出患者を人間として扱っていない。他の誰よりも人命を軽視している。
こんな馬鹿に言論の自由を認められることこそ、日本国憲法が、人類史上最悪の憲法である証拠である。

くわくわ 君

あなたの言辞は抽象的な言語の羅列です。
私にはあなたとの意味のある対話は不可能と判断したまでです。
わたしが、具体的に、どのデータをどのように改ざんしたのかひとつひとつ示してください。それがなければ対話になりません。
入手できるデータは限られていますから高い精度で語ることは出来ませんが、データの背景を含めて検証すれば傾向は把握できます。

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大脳上皮からの脳波はノイズレベル以下で検知不能。

時々彼のパソコンに何か文字列が入力されるが、脊髄反射による蠕動でキーボードが誤作動しただけだ。
その証拠に刺激を変えてみても出力される文字列に有意な変化はない。

家族もいない上に世間との係わりも無いようだ。「脳死」と判断してどこからもクレームがくることは無いだろう。

自発呼吸は有るから脳死判定員が到着する前に念のために大量のバルビタールでも打っておこう。

かくして、「くわくわ」君の、「脳」を除く全ての臓器、皮膚、関節、腱、角膜その他は移植を待つ患者と実験用の生体を待つ製薬会社の下に無事届くのでした。

なんてことにならないようにご用心。

自覚

>結局、Looperさんはエゴはダメと言っているんですよ。

いんや。
そのエゴの実現に、私もあえて協力を拒否しないだろうと発言していることの意味をまず理解すべきでしょう。臓器提供を希望する側の想いと覚悟をね。

エゴを主張するなら、当然「臓器移植」という医療行為に関わる者に対する態度を考えるべきだろうと言っているのです。
エゴを実現するには、当然他者に何らかの譲歩と協力を要求する。それなら、それらを他人に要求するに足る、人としての最低限の礼節があるはずです。

臓器移植に関わる者を、(これはごんさん自身の言葉ではないが)仮に、「強欲」だの「人殺し」だのと拒否しながら、いざとなったら自らはその恩恵に預かろうとするならば、これは人として最低限の礼節を踏み外していることになる。

踏み外してもいいのだというのなら、価値観の違いとして仕方のない事だが、少なくとも、その意味を自覚していますか?と問うている。

これ以上何を自覚せよと?

>踏み外してもいいのだというのなら、価値観の違いとして仕方のない事だが、少なくとも、その意味を自覚していますか?と問うている。

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たとえ強欲だ人でなしだ悪魔だと言われようとも、わたしは人である前に、親です。

| 2009-07-15 | ごん #bLNrjBuk URL [ 編集 ] | コメント番号3118 |
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自覚2

>たとえ強欲だ人でなしだ悪魔だと言われようとも、わたしは人である前に、親です。

それはあなたのエゴを表明したに過ぎない。
そのエゴの影響・意味をどう自覚しているか?については何も語られていない。
その影響や意味への考察・自覚がある上で、あなたは、「臓器移植」という医療行為に対する賛否を語っていますか?と問うている。

ちなみに、移植治療を受けることを「強欲」だと言っているのは愚礁さんですので、お間違えのないように。移植治療に関わっている方たちは、誰もあなたのエゴ自体に対しては、そんな言葉は決して投げないでしょう。
しかし、そのエゴの意味・影響を見ようともせず、天につばを吐くような言動を続けていれば、それは非難されても仕方がありません。エゴを通すからには、それで影響を受ける方々への、人として最低限の礼節を示すべきだと信じます。

誤診

ここは訂正願いたいのだが、

>いざとなったら自らはその恩恵に預かろうとするならば

わたし自身に関しては、明確にその「延命策」を拒否してる。

自分自身は臓器移植を望みません。

わたしの子どもは、わたしではない。
あなたの子どもが、あなたではないのと同じように。
子どもは、親のものではない。


だからわたしの願いは、子どもが自分で答えを出せるようになるまでは、その生育を見守りたい、ということだ。

それまでは、その可能性のある限り、いつまでもいつまでも。

自省

そもそもあたしは臓器移植という延命策を選択した方々を一度も責めていない。

むしろその気持ちを肯定している。

多くの親はどんな場面に立たされても、子の延命を望む。

わたしがいつ、臓器移植を望む親と子を否定したか。

それなのにどういうわけだか、あなたがたは、わたしの意を逆に受け取りたがる。

なぜ、あなたがたはそうするのですか。

これはLooperさんの言ではないのかもしれないが、「外国で臓器を買い漁る」だとか「日本の患者を見殺し」だとか、当たり前のように使用なされる方々が推進する側にいらっしゃる。

そういった方々は、自らで使用するそれらの言葉の「トンデモ」具合、というか、その「えげつなさ」加減を自覚しておられるのだろうか?

自覚していないとすれば、これは危険な兆候だと、わたしは思う。

そうした言葉になんら違和感を得ることなく、それどころか「愛」を感じていたりするとすれば、その危険性は格段に増加する。

これは、その言葉の受け取り手である、読む側、聞く側にも言えることだが。

ところでLooperさんは、ご自身でお使いになった「見殺し」という言葉が人の心にどのような影響を与えるか知っていて、つまりはそれを「自覚」なされて、その言葉をあえてお使いになったのですか?



そうだそうだ!

>そもそもあたしは臓器移植という延命策を選択した方々を一度も責めていない。

>むしろその気持ちを肯定している。

>多くの親はどんな場面に立たされても、子の延命を望む。

そうなんだよねえ。だから、自分の子どもの臓器提供はイヤだという気持ちと自分の子どもには臓器提供を望むかもしれないという気持ちは、全然矛盾しない。

でも、それはエゴだと批判される。

フツーの多くの人は、ごんさんみたいに正直な気持ちを表明したりしない。こんなふうに自分の身に引き寄せて突き詰めて考えてみたりもしない。よって、こんなふうに責められたりもしない。

私は、表面だけの「道徳的な」二者択一を迫る方より、ごんさんの不器用な正直さの方がずっと誠実に感じる。自分の限界を認めた上で、自分のエゴを引き受けていこうという、毅然とした態度に感じるよ。

いいじゃん、どんなふうに感じようと。誰でも限界つきの今を生きてるんだから。推進派の人たちだって、その場に立たされてみなきゃわかんないって。妻が猛反対するかもしれないし、子どもとの関係にもよるだろうし。

「自分の子どもの臓器を提供します」と明言するのは、子どもの人格を別個のものと認めてない感じがして、私はイヤ。子どもは親の持ち物じゃない。

早雲へ

私に対して「くわくわ君」と、論破された人の典型的な言動をしている時点で、君は「言論の自由」を冒涜したことに対して、何ら反省する気もない、人格を認めるに値しない生き物であることが決定された。


みみずさん

まだ、わかってないというか、わかろうという努力もしていない。

仮に、ごんさんが当事者であるならば、ごんさんを責める人などいないと思う。わが身ならば、当然抱くであろうことを、誰が責めることができるだろうか。誰も、そんなことを問題にしているのではない。
ごんさんが責められたのは、『当事者ではないにも関わらず』、『もう一方に配慮しない言質を並べて』、『ただでさえ一生十字架を背負っていく人に対して、さらに十字架を背負わせる』言動をしていること。
つまり、当事者じゃないんだから、表現に気をつけろ、ということ。

その程度のことを、いったい、いつまで指摘されれば気がつくのか。情けなくて仕方がない。

卑劣漢

わくわくさん、あなたですよ。

まあ、あなたがわからないヒトだということは、当ブログでは今更指摘するまでもない“常識”ですが(笑)。

ごんさんの発言は、子を持つ親としての発言であって、当事者としての発言です。

「私の子どもの臓器は提供しない」
「私の子どもに臓器移植は求める」

“私の子ども”は当然ごんさんの子どもであり、ネットでしかごんさんと接触できない私たちには見えないけれども、ごんさんにとっては“そこに居る”存在。それはみみずさんにとっても同じことでしょう。その存在のことを、どうやって部外者として語れるというのか?

あなたが当事者といっているのは、単にあなたが感情移入できる存在でしかない。あなたは不幸な境遇の人に感情移入することで、自らの論理を正当化しようとしているだけ。あなただって当事者ではない。

当事者の感情の前にすれば、部外者である我々は立ちすくむしかない。しかし、あなたは立ちすくむどころか、その感情を剽窃して自己正当化に利用し、「子を持つ親」という他方の当事者を非難している。

こういった輩を私は、卑劣漢だと断定します。

わくわくさん、そろそろあなたも当ブログから退場していただけませんか? あなたの論理には見るべきところがあるとこれまでは考え、その考えに今も変わりがあるわけではありませんが、卑劣漢は必要ありません。論理だけなら、他に替わりはいくらでもいるでしょう。

私にはあなたの論理は必要でしたが、もはやあなたは必要ありません。

激怒

>ごんさんの発言は、子を持つ親としての発言であって、当事者としての発言です。

私に対して「他人を頭ごなしに叱るなら、文意を十分に汲み取る能力を身につけてからにしてくださいな。」と発言するなら、私が何を指して「当事者」と言っているのかぐらい、察知せよ。

ごんさんもみみずさんも、「目の前のわが子が、脳死状態にあって、臓器摘出を求められるかもしれない」というわけでもなければ、「目の前のわが子が、臓器移植が最後の頼み」というわけでもない、ということだ。

>“私の子ども”は当然ごんさんの子どもであり、ネットでしかごんさんと接触できない私たちには見えないけれども、ごんさんにとっては“そこに居る”存在。それはみみずさんにとっても同じことでしょう。その存在のことを、どうやって部外者として語れるというのか?

誰が「部外者として語れ」と言った?
人の子の親なら、余計に私の話はわかるはずだろ?

ごんさんの「わが子の臓器移植は拒否する」という気持ちは理解できる。それ自体を批判したり非難しているのではない。これはわかってるよな?

しかし、もう一方で、ごんさんは、「私の子どもに臓器移植は求める」と述べた。『たとえ強欲だ人でなしだ悪魔だと言われようとも、わたしは人である前に、親です。』『 多くの親はどんな場面に立たされても、子の延命を望む。』とまで述べた。これだって、人の子の親ならば、当然そう思うだろう。それを私は批判したり非難するつもりもない。

私がごんさんを批判したのは、「臓器を移植されれば、わが子が助かるかも知れない状況であるならば、ごんさんは、強欲で人でなしの悪魔だと罵られようが、臓器移植を望む」というのであれば、A案に対して『悪魔のような法案』だとか、A案に賛成した人に対して、『日本国民はどれだけバカなんだ。末代までの恥だよ。』という攻撃的な言動をするな、ということだ。

何度も言うが、私は、ごんさんのエゴイズムを批判するつもりもなければ、非難するつもりもない。
ごんさんが、思考と感情を改めて、『もう一方の側を攻撃する言動』ではなく『親としての苦しい心うち』を表現したのであれば、私は何も言うことはなかっただろう。

>あなたが当事者といっているのは、単にあなたが感情移入できる存在でしかない。あなたは不幸な境遇の人に感情移入することで、自らの論理を正当化しようとしているだけ。あなただって当事者ではない。
>当事者の感情の前にすれば、部外者である我々は立ちすくむしかない。しかし、あなたは立ちすくむどころか、その感情を剽窃して自己正当化に利用し、「子を持つ親」という他方の当事者を非難している。

従って、この思考、感情及び言動は、不正かつ不当なものであり、私は愚樵さんに対して、謝罪を要求する義務があり、愚樵さんは私に謝罪し、反省する義務を負う。

>こういった輩を私は、卑劣漢だと断定します。
>わくわくさん、そろそろあなたも当ブログから退場していただけませんか?
>あなたの論理には見るべきところがあるとこれまでは考え、その考えに今も変わりがあるわけではありませんが、卑劣漢は必要ありません。論理だけなら、他に替わりはいくらでもいるでしょう。
>私にはあなたの論理は必要でしたが、もはやあなたは必要ありません。

「他人を頭ごなしに叱るなら、文意を十分に汲み取る能力を身につけてからにしてくださいな。」と私に対して「上から目線」で言動した人が、「行間など読まずにも、文意を汲み取ることができる文章を書いた人」の文章を思い切り誤読し、不正かつ不当な感情と思考を抱いている。その自覚があるならば、君が抱くべき思考と感情は、わかるよな?

分ろうとする気があるのか?

わくわくさん、
貴方と私の指摘のニュアンスは若干違うが、この自爆している連中に感じている違和感は同じなんでしょうね。

臓器移植に関わる人達の気持ち(=ごんさんと同じく、エゴだろうが、わがままだろうが、どうしようもなく命を助けたいと思う気持ち)を分ろうとする気のない連中に何を言ってもムダですね。

で、ごんさんのような親のエゴを持ってきて、反論できていると思っている勘違いさん達は、どうしようもありません。逆に、そのエゴの実現をサポートしている(だからこそ注文を付ける)のがこちらであり、そのエゴの実現を断固拒否しているのが早雲氏であり、口汚く罵っているのが愚樵氏です。ごんさん、あなたにはそれが分っていますか?あなたのエゴ実現を阻む者は誰なのか?本当に気付いてますか?

で、そもそも私が批判したのは、エゴだろうが何だろうが、命を救いたいと懸命になっている人達に「強欲」「人殺し」「幼児ポルノ」とかいう、許し難い言葉を投げつけ続ける愚樵という卑怯者の事です。で、こいつが共感派?笑わせんで下さい。
ごんさんは、実は愚樵さんにそうした罵声を投げられているという事になぜ気付かないのでしょうね?不思議です。

で、私が指摘しているのは、子どもの命をどんなことをしても救おうと行動するのは、親として当たり前だが、その行為が、どういう意味を持つのか?そのために、他者にお世話になるなら、その他者に配慮するようにすべきなのではないか?という事です。エゴにも他者への礼儀が必要だと言っている。エゴを拒否するとは決して言っていない。ごんさんのような人にでも、自分の子の臓器提供でも拒否をしないと明言しているのはその証拠である。しかし、臓器提供した後も、ごんさんが相変わらず臓器移植に関わる者が悪意の人であるかのような言動を続けているのを見たとしたら、それはそれは悲しく・虚しい気持ちになるでしょうね。

で、ごんさん。貴方の子どもが移植が必要な病気になるまでは、別に反対してても構わないが、不幸にもそういう事態になり、仮に移植を受けることが出来たなら、それに関わったすべての人に対する感謝と配慮を込めた言動に勤めるべきだとあなたも思いませんか?それが、人としての礼節というものではありませんか?そして、もし貴方にそうした想像力があるのなら、いまからでもそういう配慮はできるはずなのではないですか?あなたに想像力があるなら、エゴをただ表明するだけで、本当にいいのですか?

一応、問うておきます。
また徒労に終わる気もしますが・・・

「強欲」とは…

愚樵さんのいう「強欲」の意味は?

脳死と診断された子に呼吸器を使用し続け、国家の費用を使い続ける親は「強欲」だろうか。
そうではないだろう。
では、わが子に心臓移植を望む親はどうなのか?
「その心臓がまだ生きている」という一点において、強欲と言われてもしかたがないのかもしれない。
それは、他者の命を奪って、最愛の命を救うという意味を多かれ少なかれ持つからだ。
かといって、親の立場となれば、そのような「強欲」に突き動かされない者は少ないだろう。

だからこそ、人の心をそのような「強欲」に駆り立ててしまう「技術」そのものに、彼は警鐘を鳴らしたいのだろう。
かりにそれが人工心臓であったなら、それを取り付けることを強欲とは言えないのではないか?
だから、「科学」というツールもまた、その他のツール同様、‘使いよう’なのだと。

臓器移植そのものを、あるべきでない「科学技術」と言い切れるほどの見識は、わたしにはないが、愚樵さんの言わんとするところは理解できる気もする。

最後に

移植医療賛成派の方の議論には深みがないことを以前から感じています。

臓器移植はこれまでの医療と全く異なる「医療」であるを軽視しているように思います。

医者が患者に対して「毒物」(薬は使用法、服用量を誤れば死に至ることもあります)を投与し、体を切り刻む事が許されているのは患者本人の治療目的に限ります。

患者本人の治療目的ではなく同様のことを行えば、傷害罪、殺人罪にも問われる行為です。

傷害、殺人から患者を守る社会的な備えが出来ていないことは「和田教授事件」以降の動きからも明かです。

また、移植医療が表に出されてはいますが、陰では実験用の生体を欲しがっている業界があることも忘れるわけにはいけません。

さらには、患者の悲痛な叫びだけにを脇に置いてでも、科学的な見地から移植医療の効果を測定、検証する必要があります。日本社会に適応した場合のシミュレーションも必要です。

これらの論議は各人の「価値観」に関わるものではなく「論理」ですからもう少し冷静な論議が出来るものと期待していましたが。。。。

自覚3・4

この質問には答えていただけないのですね。

>ところでLooperさんは、ご自身でお使いになった「見殺し」という言葉が人の心にどのような影響を与えるか知っていて、つまりはそれを「自覚」なされて、その言葉をあえてお使いになったのですか?



それと、もうひとつ、
これは、ここにいらっしゃるみなさんに、
ぜひとも心に留め置いていただきたいのですが、
わたしのここでの「表明」に対しての、これらの言葉

天につばを吐くような言動

人として最低限の礼節を踏み外している

どうやらこの方の中では、神も人倫も、いつの間にか「意志の確認できていない脳死者は死んだと見なす」側にいらしたようですね。(もちろん、エゴ丸出しのわたしの側にあるとはいいません。これは前提の話しです。この方が、自らの正義を微塵も疑っていないという)

これが科学とカルトの結び付きの実例です。

おそらくご本人にその自覚はないでしょうが。

おそれおおいことです。

はい、以上をもって強制退場ね

わくわく44氏へ。

以後、述べたいことがあればご自分のブログでどうぞ。

私が言いたいのは一点。

ごんさんもみみずさんも、「目の前のわが子が、脳死状態にあって、臓器摘出を求められるかもしれない」というわけでもなければ、「目の前のわが子が、臓器移植が最後の頼み」というわけでもない、ということだ。

あなたもね。

が、ごんさんやみみずさんは、子を持つ親という当事者ではある。

>何度も言うが、私は、ごんさんのエゴイズムを批判するつもりもなければ、非難するつもりもない。

あなたはLooperさんは、そういった類のことをよく仰いますね。で、そう述べた直後にすぐに批判に移る。あなた自身が不快に思い、それを批判するのは一向に構わないと私は思う。が、他人の感情を剽窃するのを見るのは不快です。

ごんさんが、思考と感情を改めて、『もう一方の側を攻撃する言動』ではなく『親としての苦しい心うち』を表現したのであれば、私は何も言うことはなかっただろう。

いまさら何を言うか。それならはじめからそう言えばよい。いまさら後出しでそんなことをいっても、信用できません。ごんさんは、最初から『親としての苦しい心うち』を直截に表現している。だから、みみずさんが凄いと共感の意を表した。

ごんさんの表現が誤解を招く、という指摘であったのなら、ごんさんも謙虚に耳を傾けたでしょう。けれど、あなたは当事者にさらなる十字架を背負わすといって批判した。バカなことだ。当事者にさらなる十字架を背負わせたのは、臓器移植という希望を与えてしまった者ではないのか?
(こういうと、また短絡的に技術を否定するのかと噛みつくのかな?)

そうした希望を与えるから、エゴが対立するようになる。技術がカルネアデスの舟板を出現させてしまう。

「他人を頭ごなしに叱るなら、文意を十分に汲み取る能力を身につけてからにしてくださいな。」と私に対して「上から目線」で言動した人が、「行間など読まずにも、文意を汲み取ることができる文章を書いた人」の文章を思い切り誤読し、不正かつ不当な感情と思考を抱いている。その自覚があるならば、君が抱くべき思考と感情は、わかるよな?

ははは。何を言いたいのか見当はつきますが、私のすべきことはハッキリしています。わくわく44さんのコメントは、見つけ次第削除の処置に出ます。

では、わくわくさん、さようなら。

議論は深まらなかったし、広がりもしなかった…

わたしとしては「脳死は人の死」と法的に位置づけねばならなかった意味について、もうすこし議論したかった。
臓器を外国で手に入れにくくなったからなのか?
さらに、国内での脳死者からの臓器提供行為を、倫理面で補強・促進したかったからなのか?
また、法によって「脳死は人の死」と定められたことによる、「脳死者」への今後の社会保障はどうなるのか・・・。

それから「移植技術の進歩は最終的に人類に幸福に寄与するのか、それともしないのか?」という点についても。
わたしとしては技術の進歩自体は、人類の幸福に寄与するものと考えている。
しかし、そこから生じる社会的葛藤をどうするのか?
人工臓器の発達を待つしかないのか…。
愚樵さん、早雲さんの言うように移植技術は、格差社会を象徴する禁断の果実のひとつなのだろうか?

共感と実感

Looperさん

>で、そもそも私が批判したのは、エゴだろうが何だろうが、命を救いたいと懸命になっている人達に「強欲」「人殺し」「幼児ポルノ」とかいう、許し難い言葉を投げつけ続ける愚樵という卑怯者の事です。

そうそう。非難の刃は私に向けてください。それは一向に構いません。ただし、反論する権利は手放しませんが。

で、こいつが共感派?笑わせんで下さい。


私が何をもって共感派だと自称するのか。それは、私自身は当事者ではない、というところから出発するものです。私自身が当事者であるなら、共感もヘチマもない。当事者としての実感があるだけ。その実感がないというところから出発するから共感なのです。

私はそのことに自覚的であるつもりですから、他者への共感を自らの実感の如く語る者には嫌悪感を禁じ得ません。正直申しまして、Looperさんもその傾向があるようです。そうした者は得てして、他者の像を勝手に作り上げて、それを他者に押しつけつつ非難します。

共感はあくまで共感でしかありません。共感を為す者に表明できるのは、他者の実感に共感できるか否か。共感をもって他者の共感を批判することはできないと考えています。その共感はまちがえている、などということは、別の共感を根拠にしていうことは出来ない。それができるのは実感を抱く者のみでしょう。

あなたが臓器移植希望者に抱いている共感は、あくまで共感でしかないのです。ご自分の足元を見つめ直すことをお薦めします。

議論を続けましょうよ

>わたしとしては「脳死は人の死」と法的に位置づけねばならなかった意味について、もうすこし議論したかった。
>臓器を外国で手に入れにくくなったからなのか?

直接的にはそうだと、私は理解しています。更に、「グローバルスタンダード」という呪文が掛かってます。

>さらに、国内での脳死者からの臓器提供行為を、倫理面で補強・促進したかったからなのか?

この一面ももちろんありますよね。そしてもちろんその裏面もあるということです。少なくとも私はそう思います。

>また、法によって「脳死は人の死」と定められたことによる、「脳死者」への今後の社会保障はどうなるのか・・・。

これは別方面からの理由、例えば財政難、とかで医療保険自体が破綻しかけているからしょうがない、みたいなことで、そうそうに切られていくのではないでしょうかね。ゆくゆくアメリカのように国民皆保険でなくなるなんてこともあるでしょうしね。アメリカのようにならないとしても、イギリスの国保みたいに何日も何ヶ月も待たされるような医療制度になる可能性は大だと思います。脳死者=死者ならば、脳死者を保険適用で延命することは、論理的にありえないですよね。これには誰も文句言えないんじゃないでしょうか。大掛かりな詐欺みたいなもんですが、誰もそれを証明できないですから。普通に誰から見ても、おかしいと思うにも関わらずに、です。

>それから「移植技術の進歩は最終的に人類に幸福に寄与するのか、それともしないのか?」という点についても。
>わたしとしては技術の進歩自体は、人類の幸福に寄与するものと考えている。
>しかし、そこから生じる社会的葛藤をどうするのか?
>人工臓器の発達を待つしかないのか…。

私個人の死生観に拠りますので参考にならないかもしれませんが、私は人工臓器を入れてまで長生きしてもしょうがないと思っています。ましてや人の臓器なんてまっぴら御免です。

人類の幸福に寄与? どうでしょうか。いまでも十分複雑な社会を更に複雑にするだけです。一方、人類はそれについていけず、困惑し、脅えながら生きていくことになると想像します。それでも順応しようとすれば、システムに対して従順に生きていくことになるのでしょうね。私はこの点をもっとも憂慮しています。

ご批判お待ちしております。

よくわかんない。

>臓器移植に関わる人達の気持ち(=ごんさんと同じく、エゴだろうが、わがままだろうが、どうしようもなく命を助けたいと思う気持ち)

Looperさんの立ち位置がイマイチよくわからないんですよね。
私は、夜中に目が覚めて隣に寝ている子どもの寝息を確認して「ああ、よかった」と安堵してまた眠りにつくような生活をしてますし、交通事故で亡くなった子どもの話を聞いても他人事じゃない。なので、自分の子どもがドナーになるかもしれないという「仮定」は、とても現実的なものだったりします。なので、気持ち的にはドナー側の「当事者」なんですよね。

一方で、次に生まれてきた子が心臓に疾患があったら、、と思うと、臓器移植が一筋の光に見えてしまうかもしれない。「よその子より、自分の子がかわいい」という「エゴ」と直面するわけです。

でも、そのエゴが悪いものだとは私は思っていない。だって「あなたがいちばん大事」という親のエゴの中でこそ、子どもはすくすく育っていくものなのだから、脳死だからそのエゴを手放せというのは違う気がする。

Looperさんに当事者としての生々しい思いがあるのなら(例えば、臓器移植を待ち望みながら死んでいった子どもと関わったとか)それを知りたい。それが見えないから、単なる道徳オジサンに見えてしまって戸惑う。

>ごんさんのような人にでも、自分の子の臓器提供でも拒否をしないと明言しているのはその証拠である。

とてもくだらないなー。仮定に仮定を重ねて、キレイゴトを言えてる自分の方がエライって言ったところで、なんの説得力もない。

「当事者ではない今」だからこそ、「自分の子の臓器提供でも拒否をしないと明言」できるのかもしれない、というご自分の「限界」に対して楽観的すぎるのじゃないでしょうか。

Looperさんにお子さんがいらっしゃるのかどうか存じませんし、お幾つなのかも知りませんが、親に「自分の子の臓器提供でも拒否をしないと明言」されるって、子どもからするとどうなのかなあ?

私には「自分の子の臓器提供でも拒否をしないと明言」する際の、Looperさんの「親としての葛藤」が見えてこない。

あと、医学は科学じゃない。
EBMなんて盛んに言われるのも、これまで医療がいかに科学的じゃなかったかを物語っていると思います。

そもそも、脳死判定は医師にしかできない。脳死判定する医師の善意や能力を、なぜアッサリ信用できるのかということが、私には疑問でなりません。

私が野心を持った心臓外科医なら、脳死臓器移植はぜひともやってみたいと思うだろうなー。脳死患者の臓器は「余ってる臓器」に見えるかもしれない。今ならどんな手術になろうと事例研究として論文を発表できるだろうし、学会での知名度も上がる。ハシリだから失敗してもそんなに責められないだろうし。で、表では「どうしようもなく命を助けたいと思うんです!」って言うと思う。

臓器提供はギブだけではない

>「当事者ではない今」だからこそ、「自分の子の臓器提供でも拒否をしないと明言」できるのかもしれない、というご自分の「限界」に対して楽観的すぎるのじゃないでしょうか。

みみずさん、
私にも、人並み以上に我が子の切迫した状況に接した経験はありますが、それを殊更表明するつもりはありません。逆に、平時だからこそ、ドナー・レシピアントのどちらの立場にも想像力を働かせて「共感」して考える必要があるのだし、それが出来るのだろうと思っています。
例えば、みみずさんは、ドナー側だけの視野で考えていませんか?あなたのお子さんが拡張型心筋症などになった場合をも想像できていますか?
このどちらの立場をも想像して考えられるのは、平時だからこそなのですよ。

あと、あなたがそう感じるのは、やはり我が子が脳死となったら、臓器提供を進んで希望するという価値観があることがご理解できないからでしょう。むろん私も医者や医学を100%信用しているわけではありませんから、「脳死判定」に納得がいかないうちは、絶対に臓器提供しようとは思わないでしょう。
しかし、友人の医師に相談したり、あらゆるジタバタをしても、完全なる脳死であると認めざるを得ないとの判断に至ったら、人工的に他の臓器のダメージが抑制されている内に、臓器提供を心から望みます。何らかの事情でその望みが叶えられなければ、大変落胆をするだろうと思います。そうした親の思いも貴方は想像できていますか?

臓器提供をギブだけの行為と捉えていたんでは、ここの管理人のような視野狭窄に陥ることになりますよ。

Looperさん!

みみずさんがわが子の「脳死を死」と考えられないとしたら、その思いを変えさせ、「脳死は死である」と受け入れさせたいとお望みですか?

えー?できてないじゃん。

>平時だからこそ、ドナー・レシピアントのどちらの立場にも想像力を働かせて「共感」して考える必要があるのだし、それが出来るのだろうと思っています。

うそだー。ごんさんの葛藤にも「共感」して考えられてるようにはとても思えないー。だからこそ、

>例えば、みみずさんは、ドナー側だけの視野で考えていませんか?

なんてことが書けるんだと思う。私はその前に自分の「エゴ」について書いてるのに、Looperさんは「みみずはドナー側だけの視野だ」と思いこんでるから、私の文章が目に入らないのかも。私もごんさんもドナー側だけの立ち位置じゃないからこそ葛藤してるのに、そういうことを認めたくないのかな???

>むろん私も医者や医学を100%信用しているわけではありませんから、「脳死判定」に納得がいかないうちは、絶対に臓器提供しようとは思わないでしょう。

もしかしたら、ここで歩み寄れるのかも。脳死判定に対する疑念が強ければ強いほど、臓器提供には消極的になるものですからね。

>やはり我が子が脳死となったら、臓器提供を進んで希望するという価値観があることがご理解できないからでしょう。

いいえ。たぶんそれは違う。もう助かる見込みがないのなら、臓器だけでも他の子の中で元気に生き続けてほしいと願う気持ちは私にもわかります。でも、人工呼吸器をつけているにせよ、体温も心拍もある子どもの体にメスを入れて臓器を摘出される、ということが「私には」耐えられない。私なら、自分の腕の中で冷えていく子どものからだを抱きしめながら、ようやく子どもの死と直面できるような気がするのです。体感での「死」ですね。一方「この子は脳死だから死んでます」と言われて納得するのは、頭の中での死。理性での死の認識。

その場に立たされてみないとわからないんですが、自分の子どもが臓器を必要とする側になったら、臓器がほしいという気持ちと、ドナーの子どもの親に「体温も心拍もある子どもから臓器を摘出する」というような思いをさせたくないという気持ちの間で葛藤すると思います。この感じは、自分の子どもとの身体接触が多い親(多くは母親、あるいは子どもが幼い)ほど、そう感じると思う。

頭で子どもの死を割り切れる親同士で、子どもの臓器をやりとりすればいいと思いつつ、私は児童虐待の絡みをとても心配しています。子どもとの関係が悪ければ、子どもの臓器提供に際しての葛藤は少ないでしょうから。

Looperさんの妻はどう思うのかな、というのも気になったりして。同じ思いなら結構ですが、「論理」で「科学的」に説き伏せられて同意せざるを得ない状況だった(夫婦間の力関係が働いた上で同意させられた)なら、私なら、一生Looperさんを恨み続けると思う。

多様な価値観

>みみずさんがわが子の「脳死を死」と考えられないとしたら、その思いを変えさせ、「脳死は死である」と受け入れさせたいとお望みですか?

質問のレベルが低すぎます。
で、誰かそんな事を望んでる可能性があるとでも思っているんですか?
で、今回の改正でも、そんなことには決してなりませんし、個人の価値観を強制的に変えることなんぞ誰にもできません。
ただし、多様な価値観を認めること、許容することは出来るはずです。私が求めているのはそれだけです。

取り急ぎ

>私もごんさんもドナー側だけの立ち位置じゃないからこそ葛藤してるのに、そういうことを認めたくないのかな???

いいえ、仮にそうなら歓迎すべき事です。

>もう助かる見込みがないのなら、臓器だけでも他の子の中で元気に生き続けてほしいと願う気持ちは私にもわかります。

そこが違う。
「助かる見込みがない」のではない。
私の中では、もう「亡くなった」のです。

あなたも視野狭窄です

みみずさん、

>頭で子どもの死を割り切れる親同士で、子どもの臓器をやりとりすればいいと思いつつ、私は児童虐待の絡みをとても心配しています。子どもとの関係が悪ければ、子どもの臓器提供に際しての葛藤は少ないでしょうから。

「子どもの死を頭で割り切れる親」だから臓器提供を望むと?それは児童虐待にも繋がりかねないと?自分の子どもに愛情の少ない人なら、臓器提供にも応じられるかもしれないと?

ここの管理人以上の酷い言葉ですね。

>Looperさんの妻はどう思うのかな、というのも気になったりして。同じ思いなら結構ですが

同じどころか、私以上にそう考えていますよ。
で、それが自分の子どもの死を「頭で割り切れる母親だから」だと思ってんですか?
自分の娘の死を本気で覚悟し、脳にダメージを受けたかも知れないと告知された上の緊急手術で、命だけは助かった欲しいと手術室の外で5時間も願い続けた母親が、最悪の場合には臓器提供を望むのが、自分の子どもの死を「頭で割り切れるから」だと、本気で思っているのですか?

あなたは、科学オタクの冷徹人間だから「脳死が人の死」が認められる。親としての心が足りないから、自分の子どもの臓器提供を望むのだと思い込みたいのです。

ここの管理人と同じ、視野狭窄ですね。

なるほど、それならよいのです

Looperさんが、ご自分が心から望むことを、他者に押し付ける意思がないということは承知しました。
では、「脳死は死である」と考えない人の意見も尊重するというなら、脳死者の社会保障の適応の今後についても憂慮なさっていることでしょう。

また、たとえば子どもの臓器提供を仲介するという仕事が、「脳死」と判定されている子の親を相手として、どのような対応をしたとしても精神的に深刻な傷を負わせる可能性が大きいことについても考慮していらっしゃることでしょう。

その上で、臓器移植の促進が社会をよりよい方向へ導くと思われるのでしたら、そこから先の議論は、個人と社会の関係性への認識の違いということかもしれません。

ありがとう。

>自分の娘の死を本気で覚悟し、脳にダメージを受けたかも知れないと告知された上の緊急手術で、命だけは助かった欲しいと手術室の外で5時間も願い続けた母親が、最悪の場合には臓器提供を望むのが、自分の子どもの死を「頭で割り切れるから」だと、本気で思っているのですか?

そんなことがあったのですね。個人的な出来事を書いて下さってありがとうございます。無理矢理引き出してしまったようで、申し訳なく思います。こう書かれるということは、お嬢さんは今はお元気なのでしょうか。そうであることを祈ります。

何らかの事情があるのだろうなと感じてはいました。あまりに感情的に感じたので、これまでのLooperさんとの整合性が取れず違和感があったのです。

児童虐待はひとつの側面です。子どもの臓器提供を望む全ての親がそうだとはこれっぽっちも思っておりませんが、その中には虐待加害者も含まれるだろうという懸念があるということです。そこは冷静に認めて頂けますよね?

>あなたは、科学オタクの冷徹人間だから「脳死が人の死」が認められる。親としての心が足りないから、自分の子どもの臓器提供を望むのだと思い込みたいのです。

と、Looperさんは思い込みたいんだな、ということはわかりました。
私はそうは思っていません。先のコメントに書いたように「臓器だけでも生き続けてほしい」という気持ちなら、理解可能ですので。

私はLooperさんの個人的な出来事を根掘り葉掘り聞きたいとは思っていません。聞きたいのは、そこであなたが「どう感じたのか」ということなんです。印象だけで申し訳ないのですが、私はもしかしたらLooperさんは、その時お連れ合いの反応に対し、戸惑ったのではないか、と感じるのです。そして、今もお連れ合いの気持ちを正確には理解できてないんじゃないのかな、と。そのために「道徳」や「倫理」を持ち出してるような気がします。

Looperさんのご経験は「ドナー側」の視点だったと思います。また当時は脳死になったとしてもドナーとしての打診があったわけでもない。それだけ心配なさりながら、なぜ、臓器提供を強く望まれるのか、その動機の部分を教えてほしいと思います。視野狭窄と責められたところで、わからないのです。想像を働かせようにも素材が少なすぎて、どのように理解してよいのかわからないのです。私は理解したいのです。歩み寄りたいのです。葛藤を含めた生々しい感情を教えて下さい。お願いします。・・・もちろん、傷に障るようであれば、無理にとは申しません。

わがままフェアリーミルモでポン

・あなたの長男が脳死になりました
・あなたの次男は難病で、臓器移植を必要とします
・長男の臓器で次男を治療できます

子どもの臓器移植とは、つまりこの構図ですね。
子どもは社会のものであるから、他人の子どもは私の子どもと同じ。
現状私達には、脳死状態の子どもと、臓器移植を待つ子どもがいる。同じ屋根の下に。

……選べるものかよ。
せめて、親である私の命で済むなら、どれほど簡単な話だったか。


しかしながら、社会的にはどうも、「臓器移植を待つ親子」と「脳死の子をもつ親」はいても、その両方を包括する視点が出て来ていないのではないか。あるいは、見えにくくなっているのではないか。
本来、対立するものではない二存在が、相反する存在として構図化されている。

これは、社会科学の敗北なのでしょう。
「両方」を包括する親の視点を、どの程度多くの人が持っているのか。すなわち、我々はまだ親になっていない。大人じゃない。

> 私はもしかしたらLooperさんは、その時お連れ合いの反応に対し、戸惑ったのではないか、と感じるのです。そして、今もお連れ合いの気持ちを正確には理解できてないんじゃないのかな、と。そのために「道徳」や「倫理」を持ち出してるような気がします。

人をバカにするのはいい加減にしてくれ。
自分が理解できないからと、無理矢理自分の枠に放りこもうとするのも止めろ。
一番失礼な行為だ。

で、自分のことなんぞ言いたくもないが、娘は将来レシピアントになる可能性も当然ある。
だからこそ、どちらの場合の可能性も真剣に考えていることだけは確かです。

しかし、どこかのバカのように、そういう経験があるから他人より自分は深く捉えられているかのごとく誇示するつもりはさらさらない。だからこんな個人的なことは言いたくはなかった。あなたの挑発に乗せられなければね。だから、もうそれに触れるのは止めてくれ。

もっとも、一方の視点でだけの自己満足論で他者を辱めながら、自分は何か他人よりも分っている気分に浸っている愚かな管理人に軽蔑の反吐が出る原因は、この為なのかもしれません。

muchomejorさんへ

ちょっとのつもりが、コメント欄からみるとお返事が大変遅れました。

>大掛かりな詐欺みたいなもの
には、かなりうなずけるものがありました。
実際、多くの国会議員がこの詐欺にのっかってしまったのは、わたしにとってはけっこうショックだったのです。

臓器移植全般に関しては、muchomejorさんは、わたしより早雲さん寄りの感覚ではないかと思います。
とはいえ、わたしの懸念に対してダイレクトな回答、ありがとうございます。

ところでひとつ質問が。
『脳死は人の死』と法的に確定することの目的として、国内での臓器移植促進を倫理的に補足・支援することではないかとわたしは述べたのですが、それに対してmuchomejorさんがおっしゃられたその‘裏の意味’とはなんなのか、差し支えなければ教えていただけますか?

ちょっと考えてみると

表の意味が、『提供者への倫理的な支え』
裏の意味が、『無言の強制(あるいは社会的正義の押し付け)』ということでしょうか?

それなら判る気がします。

「臓器提供をおすすめします」という無言の社会的圧力。
その上さらに、「以後、保険は適用されません」とか「障害者手当ては打ち切られます」ということになると、多くの「脳死者」の子を持つ生活に余裕のない親にとって、文字通りの『強制』となってしまいますね。

naokoさん、コメントありがとうございます

>表の意味が、『提供者への倫理的な支え』
>裏の意味が、『無言の強制(あるいは社会的正義の押し付け)』ということでしょうか?

頭の中ではっきり言葉にして書いたわけではないので、改めて考えるといろいろ出てきますが、naokoさんの言うそういう面もあるでしょうね。但し、賛成の議員が「目的」として意図していたかは不明です。(naokoさんの質問は目的をお尋ねでしたね。失礼、混同してました。)ただ、少なくとも結果的には、無言の強制が起こりえるシステムで、また、悪意のある人にとって悪用しやすいシステムであると思います。

「目的」ということで言えば、議員でなく臓器移植を取り扱う医師の団体が献金なりなんなりで後押しした可能性は思わずにおれません。移植手術には何億円もかかるんですよね。(経団連も国防予算とかに提言をするような時代です。)

あと、臓器移植繋がりではありませんが、労働を提供しない国民に長生きされると困ると思う人がいるんじゃないかと思えてしょうがないです。後期高齢者保険制度のことと併せると余計にそう思えます。

ところで、子供の虐待は本当に起こらないのでしょうか。また、臓器売買市場というものは本当にありえないのでしょうか。それらを防止する装置が一緒に法制化されたようには見えませんが、naokoさんご存知でしたら(あるいはご存知の方いらしたら)教えていただけないでしょうか。

Looperさんへ

>人をバカにするのはいい加減にしてくれ。
>自分が理解できないからと、無理矢理自分の枠に放りこもうとするのも止めろ。
>一番失礼な行為だ。

えらく怒らせてしまったみたいですみません。
夫婦であっても相手の思いを完全に理解できないのは当たり前のことなので、「理解できていると思っている」といった冷静な否定だとか、「確かに全部は理解できてないかもしれないけれど、でも・・・」といったお返事を期待しておりました。そこから話ができるかもと思ったのです。

私は、あなたを自分の考える枠に入れたいとは思っていません。どうやらあなたは私が考え得る枠の外にいらっしゃるみたいなので、理解したい、教えてほしいと思っただけです。

私が自分の子どもを眺めながら矛盾や葛藤を抱えているのも「個人的なこと」です。
それを表明したごんさんや私に対して「視野狭窄」だと断罪するなら、あなたの「思い」も聞かせてほしいと思っただけなのです。

せっかく熱い思いを持っていらっしゃるようなのに、道徳や倫理といった一般論で語られると、どうにも薄っぺらで伝わってこないんですよね。そこに焦れてしまったのですが、傷つけてしまったようで申し訳ありません。

上の人生アウトさんのコメントは、あまりに切り口が鮮やかでドキドキしたけれど、そういうお気持ちなのでしょうか。だとしたら、宗教的な動機以外に、それを為し得るのは本当に難しいのではないかと感じてしまいました。おそらくそこが私の「限界」なのだと思います。Looperさんが人生アウトさんの書かれた境地に至っていらっしゃるのであれば、私とは魂の次元が違うのだなと尊敬しますし、どうしてそこに至れたのかをお聞きしたいとも思います。

気になって色々探して読んでみました。
-------
http://mainichi.jp/select/science/news/20090714k0000m040136000c.html
「生きた証しを残してやりたい」
「他人の体を借りてでも息子を生かしたい」との親心からだったが、「これで良かったのか」と悩む日々が何年も続いた。
-------
とかね・・・。Looperさんには偏った記事だと感じられるのでしょうか。

「挑発」・・・確かにそうだったかもしれません。学校の先生にお説教されてるようでイヤだったので、子を持つ親としてのLooperさんの生々しい気持ちに触れてみたいと思ったのです。あなたの主張の背景には私が抱えているものよりずっと重い体験があるということはわかりました。でも「自分の子どもの臓器を提供したい親の気持ち」というのが、私にはまだ実感としてわかりません。上記の人たちの思いも理解可能ですが、感情としてついていけないんです。いずれも「父親」であるのも気になるところ。

今回はこれ以上はつっこみませんが、いつか気持ちが整理できたら教えて下さい。

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だからといって立ちすくむわけにもいかない

一部の推進派の思惑通り、あと数年もすれば、既成事実化されたこの法案が「脳死は人の死ではない」と思っている人々の口を塞いでいくだろう。ほかの国と同じように。そうして、今回わたしに向けられた人非人扱いの言辞や、A案に反対する不特定多数の人々に投げつけられた「見殺しにするのか」という卑怯な問い掛けが、同調圧力に形を変え、「死体と判定されたわが子の生体」に執着する親を押し潰すように取り囲んでいく。

わたしはその壁の前に立たされた人のことを思うと、ふるえが止まらない。

人が鬼になるのではない

人間集団に取り憑き、人を取り囲む思想が

人に鬼の面を被せるのである




「心臓を自分の意志で止めることは出来ない。だから仏はいる」 親鸞



Looperさん

そのような事情があるなら、ここにコメントせず、もっと他の場所で、建設的な議論ができるところで、Looperさんの労力をお使いになるべきだと思います。

この問題は感情論になりやすく、そこから抜け出ることが極めて難しい。感情論を抜け出ようとすることすら、もしかすると非人間的な行為と非難されるかも知れない問題です。

ただ単純に理論的・観念的にコメントされているならと傍観していましたが…口をはさんでしまいたくなりました。余計なお世話なら、すみません。

※7/27追記
補足ですが、建設的でないというのは、この場で水掛け論をすることについてであって、どれかのコメントの内容について非建設的だと言っているわけではありません。紛らわしい書き方ですみませんでした。

muchomejorさんへ

残念ながら、ご質問に答えるだけの見識を持っておりません。それに、そこまで話を派生させると、それこそaliceさんのおっしゃるように、議論が感情論に急速に傾く恐れがあり(←誰よりもわたし自身が!)、また、ブログ主のエントリーの題材から離れていく可能性も大きいです。
というのも、わたし自身の感じている「格差」、愚樵さんの主張している「格差」、muchomejorさんのおっしゃりたいことが、互いに焦点がずれており、議論が拡散していくことが予想されるからです。
加えて、移植の是非についての見解も異なっていることですし、テーマは限りなく重い問題ですし…。

小説「闇の子どもたち」で注目を浴びた重要なテーマではありますが、憶測で話せることではありません。ということで、ご質問についてのコメントは控えさせていただきます。

Looperさんへ
人生アウトさんのおっしゃるように、わが子に移植を望む親も、わが子の臓器提供を拒む親も、どちらも当然視野に入ってはいたのですが、Looperさんのようにわが子の臓器提供を望む親もいらっしゃるというところで、みみずさん同様、わたしの理解範囲を超えており、相反する立場を理解するということができずにいるのが正直なところです。
わたしにとってのわが子は、触れて撫でたり、ぎゅっと抱きしめることの出来る、あたたかい身体なのです。
「脳死」状態にあるその身体は‘塵’にすぎないのかもしれません。
パール・バックの母親の言葉を借りれば「わたしは塵を愛しました!」ということでしょうか。
「肉体は塵なのだ。魂は天に還ったのだから、嘆くことはない」という夫に食って掛かる場面です。
あたたかいその‘塵’が、わが子の‘命’なのです。
また、そのようではない母親というものを、心のどこかで拒絶しているところもあります。
もうこれは‘からだ感覚’からの拒絶ですから、aliceさんの言うように議論には持ち出しにくい。
でも、一番肝心な点でもあるのです。
みみずさんはそれをあえて持ち出した。(わたしは逃げましたが…)
Looperさんはそれに応えた。
だから議論が上滑りにならなかった。
そう思うのです。

naokoさんへ

もちろんです。ご丁寧にありがとうございます。
取り急ぎ、御礼まで。

naokoさん

>わたしにとってのわが子は、触れて撫でたり、ぎゅっと抱きしめることの出来る、あたたかい身体なのです。

で、私にはそうでないとでも?

>「脳死」状態にあるその身体は‘塵’にすぎないのかもしれません。
>パール・バックの母親の言葉を借りれば「わたしは塵を愛しました!」ということでしょうか。

で、私がそう感じているとでも?

>「肉体は塵なのだ。魂は天に還ったのだから、嘆くことはない」という夫に食って掛かる場面です。

やはり、みみずさんと同様、どうしてもそういう夫だからだと思い込みたいのですね。
そうでないと、あなた方の感性では整理が出来ないのです。
でも、その的外れな整理を他者に押し付けるのはお止めなさい。

で、残念ながら、魂は天になんぞ昇りません。
そもそも存在しませんから。
(ここに突っ込むなら、別スレッドの方へどうぞ)

>あたたかいその‘塵’が、わが子の‘命’なのです。

で、あなたは心臓が止まり、それが冷たくなったらどう感じるのです?
魂が旅立った塵になると感じますか?
そうでないと思いたいですが、もしそうなら、それこそ冷血ですね。
私たちにとっては、髪の毛からつま先まで、暖かくても、死んで冷たくなったとしても、変わらず大切な愛するわが子であり続けるでしょう。あなたが暖かい内にだけ?感じている感情を、少なくとも我々は冷たくなろうが同じように持ち続けるでしょうね。

>また、そのようではない母親というものを、心のどこかで拒絶しているところもあります。

そのようではないとどうしてわかるのです?
何よりも大事だからこそ、大切だからこそ、その生が残念ながら尽きたなら、他の生を生かすことでその生を繋ぎたい。命のバトンを渡したい。と心から願う母親が、どうしてその死に至った体であっても、以前と変わらずいとおしいと感じていないとあなたは決め付けられるのです?他人の子供の命で、自分の子どもの命を繋いでもらおうと願う親が、子への情が足りないわけですか?
我々の感性から言えば、その大切な生を繋ぐ最後のチャンスなんですがね。

あなた方は、そうした人たちは、情が足りない、死体を‘塵’と扱える人たちだと言っているのですよ。
いい加減、どんだけ酷いことを言っているのか?自覚されたらいかがです?

ここの管理人も同様です。
臓器移植に関わる人は、人の生を自分よりも軽く扱っていると決め付けている。実に愚かな思い上がりです。

>もうこれは‘からだ感覚’からの拒絶ですから、aliceさんの言うように議論には持ち出しにくい。

その「からだの拒絶」がどこから来ているのか?をも考えるべきでしょうね。先天性のものでないことぐらいは分かりますよね。その「感覚」がどうやって形作られたのかもね。ちなみに、芋虫をあなたは怖いですか?でも、それを「美味しそう」と思う感覚があることもご存知ですよね。その違いはどこから来ているのか?考えたことがありますか?

想像できないならそれで結構です。
しかし、個々の経験、知識が異なれば、何に「体が拒絶」するかも異なることぐらいは分かってくださいね。自分の「体が拒絶」することは、他人もそうでないはずがない、などという思い込みが間違いであることぐらいはご理解くださいね。

そして、最低限、ここの管理人のように、自分に都合よく整理するために他者を侮蔑するようなことだけは、どうかお止めいただきたく思います。

いや、侮辱も何も…

ちょっと想像を絶する話なので、どう答えていいのやらとまどうばかりです。

今さっきまで温かかったからだが冷たくなってゆくことで、死を感じない…。
侮辱するつもりはないのですが、そういう感性は、理解の外です。
さらに‘塵’うんぬんに関しては、パール・バックの『母の肖像』をお読みください、と言いたいところですが、子どもの亡骸を抱きしめて嘆き続ける母親が、慰めようとする夫の言葉をさえぎって叫んだ言葉が、「わたしは塵を愛しました」なのです、とだけ言っておきましょう。彼女は生きていた温かい身体を「愛しい‘塵’」と言っているのです。対する夫は、「大切なのは輝かしい精神であり、その精神は不滅なのだから、なにも消えていく‘塵’に等しい身体にすがって嘆く必要はない。」と言うのです。しかし、そのあたりは文脈から察せられませんか?

さらに、言わせてもらえれば、先の別エントリーでのわたしのコメントに対する返答として、『魂などないから』とおっしゃったのでしたら、そのLooperさん自身の言葉が、「脳死者」のわが子をケアする親にとっては、どれほど心ない言葉として響くだろうかと、そちらの方も想像をめぐらせてみてはいかがでしょうか。

それにしても、Looperさんが何に拒絶反応をしめしていらっしゃるのかは判りかねます。
でも言葉の端々から伺えるのは、拒絶反応と言うより、また、理解されない悲しみと言うより、むしろ「馬鹿にされている・侮辱された」という憤りのように感じられます。

はっきりいいます。わたしはあなたをまったく馬鹿にしてはいません。勝手に冷血漢とみなしているわけでもありません。ただ、理解できないだけです。
そのように表明しておりますし、それ以上のものではありません。

なるほど。

>何よりも大事だからこそ、大切だからこそ、その生が残念ながら尽きたなら、他の生を生かすことでその生を繋ぎたい。命のバトンを渡したい。

>他人の子供の命で、自分の子どもの命を繋いでもらおうと願う

>我々の感性から言えば、その大切な生を繋ぐ最後のチャンス

なるほど。ようやく少しだけ理解できた気がします。

私も子どもが1人だけなので、この子にもしものことがあったら私が関わることのできた「命のバトン」は終わってしまうんだな、ということは考えたことがありますので。

つまりは「親としてのエゴ」なんですよね、こっちも。命を助けるという大義名分があるので美談として語られがちだけど、自分たちの「命のバトン」をつなげるために、他人の子どもの命を「利用したい」ということ。ならば、私やごんさんの「エゴ」を一方的に否定することはできないのではないかと思います。

私にも、遺伝子とか、細胞とか、子どもが生きた証だとか、それを繋いでいきたいという気持ちもありますが、麻酔なしで摘出するとドナーから脂汗が、なんて話を聞くと「命のバトン」とかどうでもいいや、って思ってしまう。私はね。「来世で会おう!」とか、きっとそっちの方向にいく。笑

どっちがいいとか悪いとかという話ではなく、どうしようもなくそうしなくてはいられない、って感じなんだと思います。Looperさんも私も。死生観に関わることなので、たぶん議論しても平行線だと思う。

でも、Looperさんは面白いなあと思いました。脳が死んだら「既に死んでる」とのことなのに、その臓器を移植したら「自分の子どもの命が繋げる」とおっしゃる。もしかしたらLooperさんにとって臓器移植は「復活の儀式」なのかもしれませんね。

「自分の子どもの命が繋げる」とか「命のバトン」といった言葉はいささかセンチメンタルでLooperさんっぽくないなあ、と思ってしまったのですが、そうしたところこそがLooperさんの親としての葛藤なんでしょうね。生身のLooperさんに触れられた気がして、ちょっとうれしい気分です。

もし、子どもの臓器を提供してよかった、と思っていらっしゃる方の手記などご存知でしたら紹介してください。読んでみたいです。

エゴイスト

>私も子どもが1人だけなので、この子にもしものことがあったら私が関わることのできた「命のバトン」は終わってしまうんだな、ということは考えたことがありますので。

あのー、そんな「命のバトン」に、私は興味はございませんが?自分の未熟な遺伝子が潰えることには、なんの未練もございません。

> 自分たちの「命のバトン」をつなげるために、他人の子どもの命を「利用したい」ということ。ならば、私やごんさんの「エゴ」を一方的に否定することはできないのではないかと思います。

ふーん、自分の遺伝子が子・孫に繋がっていくことと、自分の遺伝子は一切残らない臓器提供が、あなたのレベルでは同じ「親のエゴ」ですか?

子どもが溺れているのを思わず飛び込んで助けたが、自らが亡くなってしまったような方に、「それもエゴ」といってる感じがしますね。

遺伝子は繋がっていない他人の子どもの命を、自分の子の命と同じく大事で、助けられるチャンスがあるならなんとしても助けてあげたいと思うのは、「親のエゴ」なのですね。避けられなかった自分の子の死が、他の生を活かすことに役立つなら、生を全うできなかった子の無念をも救える道ではないのか?と考える親もエゴなのですね?

このように、自分と他の子どものためをと思い、臓器提供を決意する親はエゴイストなのですね?

あなた方の感性はよく分りました。

スピリチュアルケア

>『魂などないから』
> そのLooperさん自身の言葉が、「脳死者」のわが子をケアする親にとっては、どれほど心ない言葉として響くだろうかと、そちらの方も想像をめぐらせてみてはいかがでしょうか。

さっぱり分りませんね。
魂の存否がなぜ脳死者の親と関係があるのです?

で、ありもしない「魂」を信じさせて、それであなたのお子さんの魂が慰められていますよなどと、嘘でその場を納得させるスピリチュアルケアなんかは、その方が死ぬまでその嘘を信じていれば、ある意味幸せなことかも知れません。「嘘も方便」というやつですね。

でも、それが嘘だったんだと後で気付いた人には、恨まれるでしょうね〜

で、私なら、ありもしないことを信じる幸せよりも、辛いことでもありのままに受け止めることを選びたいですね。

それが嘘だったとどうやって後で気づくのでしょう?

なにかもう支離滅裂ですね…。

‘科学教信者’とはどういうものか、ある程度判った気がします。

脳が機能を停止している以上、かつてわが子だった存在は、もはや考えることも感じることもない。つまりは存在の消滅と言える。
したがって、その命の費えた身体の臓器が、他者の存在の延命に使えるなら使用してもらいたい。

そんなことは、小学生でも言える事です。
逆に言えば、それ以上のなにものでもない。

それ以外に何もないし、他には本当に何も考えきれない方だということが、よくわかりました。

披露していただきどうもありがとうございました。

なんだかなあ。

どうも頑なになってるみたいですね、、。うしろめたいのですか?

>子どもが溺れているのを思わず飛び込んで助けたが、自らが亡くなってしまったような方に、「それもエゴ」といってる感じがしますね。

まったく違いますね。あなたが出された例では「自分の命」を差し出している。別個の個体である「子どもの命」を差し出すのと、同レベルで語れることの方が私には信じられません。

>避けられなかった自分の子の死が、他の生を活かすことに役立つなら、生を全うできなかった子の無念をも救える道ではないのか?と考える親もエゴなのですね?

エゴでしょう。臓器提供によって「善いことをできた」と思いたいというエゴ。「他の子どもの命を救えたのだから、自分の子どもの命は無駄ではなかった」と自分を納得させたいというエゴ。「科学的で意識の高い親だと見られたい」というエゴ。・・・etc

自分のエゴを満足させるために子どものからだを使うという側面はあるのではないでしょうか。それを悪いと言いたいのではないのです。私はそもそも「エゴ」を悪いことだとはまったく思っていませんからね。子どもの臓器を提供して「他の子の命を救えた」と思うことでしか、子どもの死を受け止められない親だっていると思いますし。

自分のエゴと直面するのは怖いかもしれません。でも、子どもといえど他人の臓器を勝手にやりとりするわけですから、「善」や「正論」によって見えなくなりがちなことも抱えていく覚悟は必要なのではないかと思います。

>生を全うできなかった子の無念も救える道

と書かれていますが、例えば乳幼児だった場合、本当に子ども自身が無念に思うものなのでしょうか?無念なのは親の方だと思います。幼いながらも「生を全うした」という考え方もあると思います。運命論的ではありますが・・・。子どもの命を「不完全なもの」にしてしまうのは「子は生を全うできず無念に思っているに違いない」という親の考え方ではないでしょうか。また、魂の存在を否定しながら、生を全うできなかった子どもの「無念」を「救える」というのは矛盾しているとも思います。

私には「育ての母」だと勝手に思っている女性が3人いますが、どなたにもお子さんがいらっしゃいません。遺伝子や細胞レベルでは彼女らの「命のバトン」は彼女たちの代で終わってしまう。だけど、私は彼女たちに「生きる力」をもらってきました。彼女たちが次世代に繋いだ「命のバトン」は確実に存在するのです。今は私自身が彼女たちの思いを、また次の世代に伝えていく立場になっています。私以外にもそんな人間はたくさんいると思うし、彼女たちの「命のバトン」は確実に多くの人たちに受け継がれています。そして私が受け取った「命のバトン」は彼女たちがそのまた先輩たちから受け取ったものでもあったでしょう。

「他人の命」を救うのは、なにも脳死下の臓器提供だけではない。その人ができる範囲、納得できる場面で「他人の命」に関わっていけばいいと私は思っています。なので「子どもが脳死になっても臓器提供はしたくない」と言っただけで責められるいわれはありません。自分の専門分野で、他人の命に貢献することは十分に可能なのですからね。臓器提供レベルでしか「命への貢献」の可能性を語れないというのは、あまりに淋しすぎるように思います。

「視野狭窄」ということばは、そのままあなたにお返ししましょう。


>魂の存否がなぜ脳死者の親と関係があるのです?
>
>で、ありもしない「魂」を信じさせて、それであなたのお子さんの魂が慰められていますよなどと、嘘でその場を納得させるスピリチュアルケアなんかは、その方が死ぬまでその嘘を信じていれば、ある意味幸せなことかも知れません。「嘘も方便」というやつですね。
>
>でも、それが嘘だったんだと後で気付いた人には、恨まれるでしょうね〜

唖然としました。スピリチュアルケアについての無知(あるいは誤解あるいは意図的な曲解)を譲ったとしても、子どもを亡くした親には「嘘でその場を納得させるスピリチュアルケア」が、その親の命をかろうじて繋ぐことだってあると思います。

そして「スピリチュアルケア」が商売やカルト宗教に根ざしたものじゃない、身近にいる人からのことばだった場合、「この人をなぐさめたい、力になりたい」という「思い」しか伝わらないんじゃないのかなあ。言ってる方も言われてる方も、魂の存在の真偽なんてどうでもいいと思う。

>ありもしない「魂」

というのは「あなたが信じていること」あるいは「あなたの哲学」です。
それを普遍的な科学的な真実だと「相手に押しつける」のは、あなたのエゴではないのですか?相手の思想や価値観までコントロールしようとする傲慢さを感じます。

「魂の存在」が嘘だとか真実とか、よくそんなレベルで語れますね。

はじめにもどって

Looperさん
元々のLooperさんの意図は以下のことにあったと思います。わたしも同じ立場に立ちます。シャットアウトされたわくわくさんもほぼ同じであったと思います。
・臓器移植という治療手段の可能性を現行法によって閉ざされている15歳以下の子供にドアを開けること
・それは決して臓器提供を拒む人たちに対して無理強いするものではない
・A案にこだわるものではない。むしろDやA'案の方が良いと考えるが、A案でも無理強いを防止することは可能である
・落とし所を見つけてほしい。「強欲」の名のもとに切り捨てるのだけはやめてほしい

ここまでのやり取りにおいて、みみずさんやnaokoさん、そして「自分の子に移植を望む」とおっしゃったごんさんとの間に、何の落とし所、つながりどころも生まれなかったのか?そうではないと思います。
たとえばみみずさんは、私のブログ記事に「同じ価値観の者どうしでのやり取りは止めない」とコメントされました。「他の子の一部になって臓器だけでも生き続けてほしい」と願う親がいることへの理解を込めて。

ごんさんも、苦渋の末に「わたしの子には望む」とおっしゃった時点で、思いははせられています。
決して、臓器移植そのものを悪とみなし、その価値観の上でドアを閉ざす立場には立っていない。

得られた合意を大事にしていくことがいちばん大事だと思います。

いまさらの愚痴

なめぴょんさん、ならびにコメントくださる皆さんへ。

落とし所を見つけてほしい。「強欲」の名のもとに切り捨てるのだけはやめてほしい

この部分について、「強欲」という表現を持ちだした者から一言。

私の当初のエントリーの意図からすれば、
(『それもまた「強欲」なのではないだろうか?』
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-263.html
この「強欲」(←なんども強調しますが「」付き!)の意味するところ、私が何を指して「強欲」と呼んだのか、そこのところを対話したかったと思うのです。今更の愚痴でしかありませんが。

私は、「強欲資本主義」とならべて臓器移植を論じました。そして次のように述べました。

難病に冒されたわが子を何とか救いたいという両親の希望は、「強欲」ではありません。ひとり一人の“生きたい”“生かしたい”という切ない願いを「強欲」だなどと断じると大きな非難を浴びることになるでしょう。しかし、その願いをかなえる技術が生み出され、願いが組織的な「目的」に変化してしまったとき、その「目的」は「強欲」となってしまうのでないか。私にはそのように思えて仕方がありません。

ヘッジファンドに自らの資産運用を委託し、老後を穏やかに暮らそうと願う願望を「強欲」とはいえません。その願いは、臓器移植の技術に託される願いほど切実ではないでしょうけれども、だからといって非難されるいわれのないごく平凡な願いに過ぎません。しかし、それが「目的」となってしまうと――(以下省略)

では、「強欲」とは何を指すのか? それは私の用語に従って言えば〈一次意思〉と〈二次意志〉の倒錯なのです。

この点については、海舌さんのエントリー『明確になってきた「近代合理性の悪魔主義への倒錯過程」』
http://blog.kaisetsu.org/?eid=783540
で明晰に分析されていますので参考にしていただきたいと思います。

そしてさらに言えば、わくわくさんをシャットアウトした理由も述べられています。

 「本気で悲しんでいるつもりはなくても、本気で悲しんでいる他者を前提にして振る舞えば、客観的には悲しんだことになる。」

私はこの「客観的な悲しみ」を憎む者です。そんなものは欺瞞でしかないからです。

〈一次意思〉である「悲しみ」が〈システム〉を生み出す(臓器移植の場合)。私はそのことそのものを否定はしません。それは人間の持つ能力だと言ってよいし、その能力を否定することは文明の否定でもある。そうではなくて、問題はその先なのです。〈一次意思〉である「悲しみ」を克服する「目的」をもった〈システム〉を維持運営するとなると、そこに必ず〈二次意志〉が生じます。この〈二次意志〉はしばしば、「客観的な悲しみ」を装う。この「装い」こそが、私が「強欲」と呼んでいるものです。

もうひとつ

海舌さんの同じエントリーから。

「自分が悲しんでいない」という第一次意思を、第二次意思で、さらに「信じる」精神は、非常に強固な確信、悟り、を必要とするからだ。

この文章は、前半を「自分が悲しんでいない」を「自分が悲しんでいる」に置き換えることもできます。すなわち、

「自分が悲しんでいる」という第一次意思を、第二次意思で、さらに「信じる」精神は、非常に強固な確信、悟り、を必要とする

ごんさんの〔わがまま〕が興味深いのは、この“さらに「信じる」精神”を端的に示したものであるからです。自らの「悲しみ」を強固に「信じる」精神(平たくいうと、“己の悲しみをありのままに認める”精神)があるからこそ、一見、〔わがまま〕に居直った態度をとることができる。矛盾するようですが、そうした精神こそが、他人を他人のままで“あるがまま”に信じることができる、すなわち孔子のいう「耳順」の境地をもたらすものなのです。

それなんです

親子で前もって、いざと言うときの臓器提供の意思の有無を確認しあうことを強いる社会ってどうなんだろう?
自分のことならドナーカードにこっそり記しとけば済むこととは思っても、それでも答えはなかなか出ない。
まして子どものこととなると…。
そういうことを自己責任で意思を示せと言われても、「無体な!」と感じてしまう。

そういう意味で、本当に取り扱いのやっかいな技術ですよね、臓器移植技術って。
そして、そうした技術の存在するこの社会は、やっかいな世の中です。
技術によって命をとりとめ、同時にこの技術によって悩まされる。
取り扱う人間の側の度量不足も、感じつつ…。

なめぴょんさん、

> 脳が機能を停止している以上、かつてわが子だった存在は、もはや考えることも感じることもない。つまりは存在の消滅と言える。

他者の考えに対して、こういうことを平気で書き続けられる人が私には理解不能なんです。私だって落としどころを探りたいが、無神経な傲慢さを示され続けたんではそれも不能です。そして、一番やっかいなのは、それを本人たちが全く自覚していないこと。
まー、意図的にそれをやっているここの管理人よりはマシですけどね。

naokoさん、
>そんなことは、小学生でも言える事です。
>逆に言えば、それ以上のなにものでもない。

所詮、自分には理解できない人にたいして、そういう決着のさせ方をしないと整理できないということの表明と捉えさせていただきます。

世の中には、私のように魂の存在なんぞ信じない人は沢山います。「魂」なんかとは全く別の視点で命の大切さを捉えている人たちは沢山います。貴方は、そうした人に「人の命を軽く扱う人たち」というレッテルを貼り続けているのです。私は、こういう人もいるという事例を示し続けている。あなたは、それに対して自分視点で「酷い人だ」言い続けているのです。

みみずさん

>というのは「あなたが信じていること」あるいは「あなたの哲学」です。

そうですよ。当たり前じゃない。
そういう価値観も在ることを示しているのです。
あなた方と違うね。

>それを普遍的な科学的な真実だと「相手に押しつける」のは、あなたのエゴではないのですか?

あほなこと言わんといてください。
そもそも人によって信じるかどうかが違う「魂」を「勝手に普遍的な物」として相手に押しつけているのはあなた方。
>「肉体は塵なのだ。魂は天に還ったのだから、嘆くことはない」
などと書くから、それとは全く違う私の考えを述べただけ。
臓器提供する方の中には、もちろん霊魂の存在を信じている人も沢山いる。
それはそれで全然構わない。
しかし、他者の考えの整理に、その人が信じてもいない「魂」を持ちだしたから、「そんな存在しないものは信じない」と拒否されたのです。

>相手の思想や価値観までコントロールしようとする傲慢さを感じます。

相手に違う考えを表明されただけで、コントロールされている気になるわけですか?そりゃ凄いですね。

なめぴょんさん、

> 元々のLooperさんの意図は以下のことにあったと思います。わたしも同じ立場に立ちます。

おっしゃるとおりですが、私が示したかったのはもう一つあります。それは、ドナーとレシピアントは、対立構造だけでは無いはずだという事です。ドナー側の視点だけ、レシピアント側の視点だけでは、決して見えてこないことです。

死んだならもう臓器は要らないのだから、それを使いたい人がいるならあげればいいじゃないか?そういうドライな考えもあります。
しかし、ほとんどのドナーは、そういうドライな考えから提供してわけではないでしょう。実際、自分の大切な人の体に、例え死に至ったとしてもメスが入るのを苦痛に感じない人はほとんどいないはずです。では、なぜそれでもドナーとなることを希望するのか?

それは、その亡くなった方を大切に思う心が少ないからではない。むしろ逆です。その亡くなった人を心の底から大切だと思うからこそ、同時に、病気で苦しんでいる他人であっても、その命を同じように大切に思える。そして、助けてあげることができるなら、例え自分がそれによって苦痛を味わったとしてもしてあげたいと考えられるのだろうと思うのです。自分でドナーカードにサインする人の心境は、大抵そうしたものでしょう。そして、提供されたその人が元気になり充実した生を全うできるようになることで、自分や自分の大切な人の生が、その人に引き継がれていったと感じる人もいるでしょう。「命のバトン」といったのは、そうした意識をもってドナーを希望する人がいるからです。ここでは、ドナーとレシピアントは、お互いに伴走者であり、ともにバトンを繋ぎながらトラックを走る仲間なのです。決して、対立者であったり、「恵む者と恵みを受ける者」といった上下の関係ではないのです。

これも「わがまま」と表現した人がいたが、仮にそうだとしても、ごんさんが「母親」として示した「わがまま」と比べて、なんら「遜色」があるとは思えない。自分の身を危険にさらしても思わず他人を助けてしまう人の「わがまま」と何が違うのでしょうか?

ごんさんのそれが「孔子のいう「耳順」の境地」だというなら、そうしてドナーになろうという人は、どういう「境地」なのかを示してみろと言いたいですね。

良心の自由

>あほなこと言わんといてください。
>そもそも人によって信じるかどうかが違う「魂」を「勝手に普遍的な物」として相手に押しつけているのはあなた方。

筋の通らんこと言わんといてください。
そもそも人によって、場合によって、了承するかどうかが違う「脳死」を「勝手に法案」としてすべての人に押しつけているのはあなた方

でしょう。

このコメント欄をよくお読みください。誰もあなたの価値観を否定してはいません。「魂は普遍的なものである」と考えることがなぜ、相手への押し付けになるのですか。(それによってあなたが否定されたと感じるのなら、それはあなたの心の問題でしょう)あなたが、人にひとつずつある(ということは否定しようもないはずの)「魂」の存在を否定したのです。

Looperさん、

あなたはここで「見殺し」という言葉をお使いになった。

その言葉がこの先、脳死者の親たちに向かっていく流れは、これはもう必然だとわたしは考えています。

あなたには(できればみなさんにも)ここでご自分の意志を確認していただきたい。

今後、脳死者の親たちにこの言葉「見殺し」が向けられることを「是」とするか「否」とするか。

そのことを確認して欲しい。

そしてできれば、A案が通った今、これから先、「見殺し」(と、もうひとつ、これはLooperさんの言葉ではないが)「買い漁り」という言葉が誰かの口から(親たちに向けて)発せられるのを戒め、全力をかけてその言葉を否定する。その言葉を発する人間の軽佻浮薄を、今、Looperさんが(そしてわたしたちが)こちらに精力を傾けている程度には、そういう言葉を使う人々を非難の対象としていくと、

約束して欲しい。

< 私自身、無駄な抵抗だという考えもあるが、もしかしたらという思いもある >

わたしは、こちらにいらっしゃるみなさんが、この件に関しては「潰される卵」として振る舞うこと望む。

偽善者だと言われようとも。

あえて?

Looperさんが、私が指摘した「子どもの臓器を提供したい親のエゴ」や「魂の存在を否定しながら、生を全うできなかった子どもの「無念」を「救える」という矛盾」について言及されなかった(無視した?)ことが、私にはとても興味深いです。^^

>相手に違う考えを表明されただけで、コントロールされあまりている気になるわけですか?そりゃ凄いですね。

えー、自覚されてないんですかー?
Looperさんの文章って、めっちゃ上から目線で押し付けがましい道徳おじさん的だと私は感じてますよ?

>簡単に言えば、自分の子どもの臓器移植して欲しいと思うなら、他人の子供の臓器移植や他人の子供が臓器提供することを認められないというのはおかしいだろう、ということです。

>で、ごんさん。貴方の子どもが移植が必要な病気になるまでは、別に反対してても構わないが、不幸にもそういう事態になり、仮に移植を受けることが出来たなら、それに関わったすべての人に対する感謝と配慮を込めた言動に勤めるべきだとあなたも思いませんか?それが、人としての礼節というものではありませんか?そして、もし貴方にそうした想像力があるのなら、いまからでもそういう配慮はできるはずなのではないですか?あなたに想像力があるなら、エゴをただ表明するだけで、本当にいいのですか?

・・・とかね。
質問という形を取っているけれど「こうすべき」と、相手にもそう思わせたい、操作したいという意図がむんむん伝わってくるんですけど。

なんでもいいですけどね、道徳おじさんを気取るなら、

>臓器提供をギブだけの行為と捉えていたんでは、ここの管理人のような視野狭窄に陥ることになりますよ。

>ここの管理人以上の酷い言葉ですね。

>ここの管理人と同じ、視野狭窄ですね。

>もっとも、一方の視点でだけの自己満足論で他者を辱めながら、自分は何か他人よりも分っている気分に浸っている愚かな管理人に軽蔑の反吐が出る原因は、この為なのかもしれません。

>ここの管理人も同様です。
臓器移植に関わる人は、人の生を自分よりも軽く扱っていると決め付けている。実に愚かな思い上がりです。

>そして、最低限、ここの管理人のように、自分に都合よく整理するために他者を侮蔑するようなことだけは、どうかお止めいただきたく思います。

>まー、意図的にそれをやっているここの管理人よりはマシですけどね。

この記事のコメント欄だけで7回もあなたは「ここの管理人」をあからさまに侮辱しているんですけど、これは「道徳おじさん」にあるまじき行為だと私は思います。私たちは愚樵さんのブログの軒下を借りて議論させてもらってるんですよ?脛をかじりながら親をバカにしている反抗期の子どもみたいなマネはおやめになったほうがよろしいかと。


ここからは雑念です。

フト思ったんですけど、脳死臓器移植にかかるお金をアフリカの子どもたちに寄付したら、どれくらいの命が助かるんでしょうね? 命の値段の格差がどんどん開いていくなあ、、、。

どなたかが指摘されてましたが、心移植は手術による負担で命を縮めることもあるそうですね。でも、ドナーの家族は提供してから、その手術がうまくいったかどうかも知らされないんですってね。臓器移植によって「命のバトン」を繋いで「子どもの無念を救えた」と思っているのはドナーの親だけ、なんて話もゴロゴロしそうですね。

一言だけ

ごんさん
>今後、脳死者の親たちにこの言葉「見殺し」が向けられることを「是」とするか「否」とするか。

わたくしは「否」とするという立場に立って自ブログで記事を書き、ここでもコメントしています。
空気を作るのは我々自身だから。
絶望に阪神、じゃねえよ、半身つかりながら、偽善でもドリーマーでも言い続ける。
「臓器移植賛成」の者がその責任はより多く負うべきだろうとも認識しています。

Looperさん

わたし自身は「魂」は絶対に在るなんて、主張していないし、ごんさんの言うように、誰もそれを押し付けるなんてしていませんよ。
もちろん、わたしは「魂」を信じない人を「酷い人」とも言っておりません。

あなたがそう感じるということは、あなた自身の先入観(思い込み)でもあるでしょうし、同時に、わたしやみみずさんが言いたいこと、言っていることが、あなたには全く理解できていないということなのです。

あなたの「まったく理解できませんね」というコメントに対して、わたしは「小学生」と評しました。しかし、それは「魂を信じる」とか「信じない」という問題ではなく、一連のコメントのやり取りから、あなたが、「脳死者」の親が、わが子の臓器提供を拒む心情に対して、一切の理解を示さなったことから判断したものです。
それは「酷い」というわたしの感情ではなく、「ああ、この人はそういう心情がまったくわからないのだ」というわたしの判断です。

無神経で傲慢と感じられるのはあなたの自由ですが、その感じ方も少々子供っぽく感じられますよ。
言葉の端々から、感じられるあなたの感受性、感性は、みみずさんが指摘した、愚樵さんに対する「非難」含めて、少々軽薄に感じられるのです。

さらに、「戦う天使」と娘に呼ばれたほどの熱烈な宣教師であったパール・バックの父親の言葉を述べたのは、それ以前のあなたのコメントから、肉体は‘塵’と言ったわたしの言葉を、あなたがまったく誤解していると判ったからです。
それで、‘塵’という言葉に込めたわたし自身の心情を説明するために、その言葉の背景を説明したのです。
しかし、その説明はあなたの許容範囲を超えていたようです。

わたしはあなたの心情をことさらドライに描写したつもりはありません。
なめぴょんさんへのLooperさんの返答の中で、(わたしのコメントの後で)書かれたあなたの心情そのものに対して、「一理ある」と思っていたからこそ、そう書いたのです。あなたが再三主張されていたことです。
無神論者として模範的な回答であり、文句のつけようがありません。
しかし、その模範の範囲の外・先を考えることは、どうしてもあなたの許容範囲を超えるのでしょうか?

他人の心を無理やり勝手に整理しようとする、と繰り返し、おっしゃっていますが、むしろあなた自身が、その模範とする‘観念的な正義’の外にはみ出した、ご自分の思いを整理しきれずにいるように思えてなりません。

もう少し・・

なめぴょんさんへの返答でLooperさんのおっしゃっていることは、臓器移植に関して、ある意味すばらしい回答のひとつだと思うのですよ。
だから『なぜこの回答を認められないのだ』というLooperさんの苛立ちはわかるのです。
しかし同時に、その一つの正義からはみ出した部分は、いっさい受け付けられないという妙な頑なさも、あなたから感じるのです。その頑なさは、Looperさん自身をも混乱させているのではないかと思われるのです。

わたしが『肉体は‘塵’』という言葉を述べたときも、パールバックの父親のセリフを書いたのも、Looperさんの心情を述べたつもりはまったくないのです。そのように受け取られたのが大変不思議です。
Looperさんの心を勝手に解釈して整理するつもりなど、なかったからです。そのように受け取られたLooperさん自身が、いささか内面において混乱していらっしゃるのではないか、自らの理想の外にはみ出ようとするご自分の心情を拒絶しようとしているのではないでしょうか?

そうでなければ、みみずさんがおっしゃったように、『魂』の存在を否定しながら、「亡くなったわが子の無念を晴らす」ということをおっしゃるような混乱を、露呈することもなかっただろうと思うのです。

とはいえ、そのような混乱をわたしは「愛すべき人間らしさ」とも考えています。

失敗したσ(^o^;

わくわく氏からのコメントが来ていたので、速攻で削除しましたが、失敗でした。あまりに可笑しく、しばらく曝しておけばよかった。

というわけで、頂いたコメントを以下、再掲載。

愚樵へ

嘘つけ。
私に論破され、反論できなくなり、持説を維持することができなくなったからこそ、私に不当なレッテルをはり、管理者権限を乱用しただけだろうが。

早く無条件で私のコメントを容認し、私に謝罪し、私が要求する感情と思考を抱け。それがお前の人類に対する義務である。

以上、削除禁止。


削除禁止って...(笑)
それを読む前に削除してしまって申し訳ありません。 けど、申し訳ないけど、削除させていただきます。

当コメントも、8日中には削除します。

なにかとおもえば・・・

ワロタ (^o^)(^o^)(^o^)

当コメントも、8日中には削除してくださいまし。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

naokoさん、
人が「混乱している」だのと訳の分らない整理をしたがるばかりで、何が指摘されているのか?が、ご理解出来ないようですので、まずは簡単なところから始めましょう。

> フト思ったんですけど、脳死臓器移植にかかるお金をアフリカの子どもたちに寄付したら、どれくらいの命が助かるんでしょうね? 命の値段の格差がどんどん開いていくなあ、、、。
> どなたかが指摘されてましたが、心移植は手術による負担で命を縮めることもあるそうですね。でも、ドナーの家族は提供してから、その手術がうまくいったかどうかも知らされないんですってね。臓器移植によって「命のバトン」を繋いで「子どもの無念を救えた」と思っているのはドナーの親だけ、なんて話もゴロゴロしそうですね。

このみみずさんの主張をどう考えます?
感想をお聞きかせ願えませんか?

みみずさん

> Looperさんが、私が指摘した「子どもの臓器を提供したい親のエゴ」や「魂の存在を否定しながら、生を全うできなかった子どもの「無念」を「救える」という矛盾」について言及されなかった(無視した?)ことが、私にはとても興味深いです。^^

あらあら、「また的外れな事言っている」とあえて無視したことで、それが答えに窮したからだろうという想像を働かせているわけですね。なんとも困った方ですね。

そもそも、その人の生きていたときの精神やその生の意味(遺志)を残された者が生かしていこうという行為と、「魂の信心」とは何の関係もないのですよ。あなたの指摘はずれていて、「矛盾」なんぞ最初から存在していないのです。無視したのは、こちらとしては「配慮してあげた」のですが、それも仇となったようですね。

仕方がないので、もう少し分りやすく説明してみましょう。
例えば、「霊魂」を信じない私でも、お墓参りし、線香を手向けることに何の抵抗もありません。ここに何の矛盾なんぞありませんが、分りますか?

私にとってそれらは、魂や霊と交信する行為でも、霊や魂を慰める行為でもありません。自分の精神(脳の活動)の中に、その人の記憶を呼び起こし、その人の遺志を生きている我々が受け継いでいくにはどうすればよいのか?何らかの「無念」があるなら、それに報いるにはどうすればよいのか?といった事を改めて考え直す大事な機会なのです。ですから、本来なら別にお墓に出かける必要もありません。しかし、お墓参りをするという行為は、そうした時間や先祖を想う気持ち家族と共有(亡くなった先祖の話を子どもに聞かせるなど)ができる大切な機会として捉えている。だから、何の抵抗もないし、むしろ大切にしているのです。
あと、今生きていたら、こんなことを言うだろうな〜という、想像もいたします。でも、これもいわゆる魂と話しているわけじゃありません。それは、純粋に自分の脳にある、その人の「記憶」を元に想像力を膨らませる自分の脳のニューラルネットワーク活動です。あなた方がそれを「魂」と呼ぶのは自由ですが、科学的には、あなたの脳の活動を「魂」と呼んでいるに過ぎません。

ちなみに、そもそも仏教の教えでも「霊魂」の存在なんぞ認めていないのですが、それもご存じないのかな?
参考:http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004994.html
お釈迦さまの思考法は、極めて科学的であるなと私は感じますね。

>Looperさんの文章って、めっちゃ上から目線で押し付けがましい道徳おじさん的だと私は感じてますよ?

それは、あなたの文章の落ち度を指摘されるからでしょう。
だからと反発するばかり何も得ようとしないか?それでも何かを得んとするか?はあなたの自由です。

>この記事のコメント欄だけで7回もあなたは「ここの管理人」をあからさまに侮辱しているんですけど、

はい、それが何か?
酷いことを書いたら、それを指摘されるのは当然です。
それを指摘されても何の反省も配慮も無く、さらに酷い行為をエスカレートし続ければ、酷い奴だと罵られても当然です。
私はまだ足りないとさえ感じますが?

>ここからは雑念です。

以下は、まずnaokoさんのご意見を伺ってからにしましょう。

判らないならそれまでです。

わたしはあなたの心を整理などしていないというのに(苦笑)。
それがどうしてもわからないなら、話しても意味がない。

自分の標榜する‘観念的な正義’をはみ出そうとする感情など‘持っていない’というなら、そうストレートに言えばいい。
あるいは、「言いたいことがいまひとつつかめないが、それはこういうことを言っているのですか?」という絡み方もあるでしょう。

しかし、Looperさんの反応の仕方は、「何言ってるかわからんし、興味もない。君の言いたいことになんぞ全く関心ないのでね。そんなことはどうでもいいから僕の質問に答えてよ。(あるいは、僕の意見を拝聴しろ!)」というやり方です。

ここでのあなたのコメントはずっとその繰り返しです。
それで、何がお望みなのですか?
最終的に何を得たいのです?

‘最後まで引かなかった’という形にこだわりますか?
それとも、わくわくさんのように意見のちがう相手を平伏させたいのですか?

あなたが、自分自身のみならず、自分の子どもの臓器も提供するという意思表示は判った。
それを褒めはしないが、責めもしない。そういう意味で、わたしはあなたの判断を認めている。(一つには、止めようがないから)。
A案にまつわる危険性に関しては、あなたとは議論にならないことも判った。
最終的に、あなたにはその危険性を理解する能力が欠如しているとわたしは判断した。あるいは関心の欠如かもしれない。そして、その関心を喚起しようとしても無駄だった。あなたは、A案にまつわる危険性など絶対に認めない。(意見の対立はどこまでも平行線です)

残念ながら、これ以上、議論の余地はどこにもないでしょう。たとえ議論を続けても、もはや肝心な‘命’の問題という切迫感は、わたし自身維持しようもない。おかしな感情的論争の泥沼が口をあけています。
あなたはその不毛に首をつっこみたいという(不可思議な)意思を持っていらっしゃる。しかし、わたしはゴメン蒙ります。時間はもっと大切に使いたい。

ということで、わたしは‘引きます’。
悪しからず。

勝手な整理

naokoさん。
> わたしはあなたの心を整理などしていないというのに(苦笑)。

嘘おっしゃいますな。本当に自覚の足りない方々ばかりなのですね。

> 他人の心を無理やり勝手に整理しようとする、と繰り返し、おっしゃっていますが、むしろあなた自身が、その模範とする‘観念的な正義’の外にはみ出した、ご自分の思いを整理しきれずにいるように思えてなりません。

> しかし同時に、その一つの正義からはみ出した部分は、いっさい受け付けられないという妙な頑なさも、あなたから感じるのです。その頑なさは、Looperさん自身をも混乱させているのではないかと思われるのです。

> Looperさんの心を勝手に解釈して整理するつもりなど、なかったからです。そのように受け取られたLooperさん自身が、いささか内面において混乱していらっしゃるのではないか、自らの理想の外にはみ出ようとするご自分の心情を拒絶しようとしているのではないでしょうか?

> そうでなければ、みみずさんがおっしゃったように、『魂』の存在を否定しながら、「亡くなったわが子の無念を晴らす」ということをおっしゃるような混乱を、露呈することもなかっただろうと思うのです。

こういうのを「勝手な整理」というのです。
人の心情などを勝手に自分が納得できる形に推測して落とし込もうとする。それが「勝手な整理」なのです。
実におこがましく、無礼な態度でありますし、そういう態度を取っている間は、相手の真意も見えてこないでしょうね。

>それがどうしてもわからないなら、話しても意味がない。

それは、こっちの台詞です。
何度指摘しても決して止めないのはあなたですよ。

ははあ、ほんとにおかしな人だ

この界隈では、そうしたことは「無礼で勝手な他人の心の整理」とは言わず、コミュニケーションの試みと言うんです(笑)。
その証拠に、わたしは常にあなたに尋ねているでしょう。「このように感じるのですが?」って。

そうした問いかけが無礼と感じる心性は、「ハリネズミのジレンマ」のようなものですか?

naokoさん

自己批判精神が無いのなら、それで結構です。

いのちの名前

あたしにとっては命、魂、ソウル、スピリット(変なカタカナ日本語でごめんよ)こころ、精神、そして、霊、こういったのは、ほぼ同義、

< 人類が、みんなであたためてきた、いのちの形 >

だからあたしはそういう意味で、これはあたしらがひとつずつ持つもので「否定しようもない」ということを言ったのだけど、

>魂や霊と交信する行為でも、霊や魂を慰める行為でもありません。

>いわゆる魂と話しているわけじゃありません。

>そもそも仏教の教えでも「霊魂」の存在なんぞ認めていないのですが、

で、Looperさんがここで仰る「霊」や「魂」というのは、誰の信仰(による「霊」や「魂」のこと)を言ってるのでしょうか?

もちろん、よその人の信仰について「勝手な整理」をするはずのないLooperさんの仰ることだから、それは明確な根拠をもとに具体的な誰かの「信仰」を想定してのことだと思いますが、その相手がわたしには思いつかないもので、お聞きしています。

あ、もちろんnaokoさんのことではないですよね。

naokoさんは、「精神(=魂)は不滅だ」という父に対しての、「私は塵を愛した」という母の言葉を引いてご自分のお気持ちをあらわしたのですから。

繰り返します。

Looperさんは、ここでかなりの精力をお使いになって「霊魂」を否定なされている。それでお聞きしたい。

Looperさんの否定なされている「霊魂」というもの、それは、いったい誰の信仰ですか。

そもそも自らの知識の範囲、理解の範疇では存在しようもないものを「非科学的な(たとえば『霊魂』)」という分野に「整理」して否定するということは「未知なるものはこの世に存在しない」と言ってるのと同じだと思うんだけど、ね。(あ、もちろんこれはLooperさんのことを言っているわけではないよ。ねんのため)

「整理」の理由

>Looperさんは、ここでかなりの精力をお使いになって「霊魂」を否定なされている。

どちらかと言えば、あたしにとっては、その「理由」の方が興味あるんだけどね。Looperさんが、ここでのあたしらの言を「非科学」の領域に押しやって(=整理して)否定する理由。でも、それはLooperさんにお聞きしてもお答えになれないでしょう。

Looperさんがご自身で今何をしたいと思っているか、

それが見えていれば、みっともなく「恥」を晒すようなことはないでしょうから。

なるほど!

他人の意見を自分の心の中で、‘無価値なもの(非科学)の領域に無理やり「整理」してしまう’という手法が、Looperさん自身のやり方だったのですね?

どうりで不思議な話の進め方をすると思った。「なぜ、こうもしつこく魂、魂と、相手の話の焦点を大幅にずらしてまで、こだわりつづけるのか」と首をかしげたまま、ずっと合点がいかなかったのですが、ようやく腑に落ちました。
こちら(ごんさん・みみずさん・わたし・その他大勢)の話を‘無価値なもの’として「整理」していたのでは、議論にならないわけです。

「整理するな」「整理するな」と神経質なまでに言い続ける理由も判りました。
ご自分(Looperさん)の手法を、相手(わたし)も採っていると誤解したのですね。
わたしの場合は、‘酷い人’‘ドライ’の領域とか、‘小学生’の領域とか(笑)。
そんな領域に自分の意見を「整理」しようとしているように感じたわけですね。

ごんさんの解説で納得です(苦笑)。

それで満足なんですね?

> ごんさんの解説で納得です(苦笑)。

相変わらずお見事な「整理」に感心して、しばらく様子を見ておりましたが、どうやら皆さん、それでご満足なようですね。

私が示し続けたのは、別の視点、別の価値観ですが、「共感」派と口ではいいながら、異論への排除論、嫌悪論のみを展開するこのブログらしい終わり方だと思います。

「科学する心」とは、実は日々向上しようとする人の営みそのもの(料理を作るときも、掃除をするときも、木を切るときも、全ての人は日々科学的思考をしている)なのだが、それへの「偏見」から排除論・嫌悪論を示したいという目論みが先にあり、「カルト」を無理に結びつけようとする。しかし、やはり無理強いなので、文脈はきちんと繋がらない。

で、今は「反共」である。日本共産党批判なら私もよくやるが、そこでは事実のみを批判することにしている。しかし、ここの管理人のやり方は、共産党嫌悪論を示したいという目論見が先にあり、後から理由をこじつけるから、歴史的事実も踏まえず、やはり本質を外してしまう。

で、いつもこれだ。
これって、2流の科学者がよくやる、自分の論を証明するために実験結果から都合のいい物だけ意図的に採用する偽装的行為にとてもよく似ていると感じる。

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