衆議院選挙について
選挙が終わりましたね。ざっくり言って二大政党制と国家社会主義の到来を、良くも悪くも象徴する選挙だったと思いますが、経過と結果を見て感じたのは別のことでした。ひと言でいえば、民主党を支持する人も自民党を支持する人も、旧態然とした「選挙のやり方」にうんざりしていたように思います。
たとえば街頭演説。動員のかかっていない一般の人が足を止めることが少なくなってきているように思いました。交通量の多いところだとよく聞き取れないことが多いですし、「街頭では大した話はしないだろうなあ」「どうせ動員されて人が集まっているのだろうなあ」と多くの人が思っているのではないでしょうか。だからよっぽど著名な候補者か、目新しく見栄えのよい候補者でない限り、一般の人は足を止めてくれないのだと思います。
今回の選挙で鳩山由紀夫の選挙運動の第一声(大阪、なんば駅前)は「少ないねえ。驚きましたよ」だったらしいです。注目されている政党の党首の話を聞く人が「少ないねえ」という状態でも、民主党は大勝したのだから、いかに街頭演説の影響力が低下しているかが分かります。
著名な政治家の応援演説というのも、どれほど効果を上げているでしょうか。応援演説を見ると「親族郎党のツテを頼り、一番偉そうな人に新郎新婦をヨイショしてもらう」という一昔前の結婚式を思い出してしまいます。現代ではこういう結婚式を挙げる人が少ないように、こういう旧態然とした選挙慣習は時代と乖離しているように思います。私は川崎で鳩山邦夫が応援演説をやっているのを見ましたが、「とりあえず写メを撮ってすぐ去る」という人が多かったように思います。
そもそも駅前や街宣車で名前を連呼するのは、日本では選挙運動として戸別訪問が禁止されてたり、選挙運動できる期間がやたら短いからです。そういう制約の中で「効率性」を追求すると「名前の連呼」になってしまいます。ただどう考えても「名前の連呼」について有権者は馬鹿されてんなあ、と感じています。そんなことやるぐらいだったら現行の選挙システムを変えて、はやくネットで投票できるようにしてくれよ、と思っている人は多いのではないでしょうか。
投票サイトに、各候補者が同じ文字数・分数のテキストや動画の情報を載せてくれれば、比較材料になりますし、判断材料も増えます。投票率も上がる可能性が高いです。先のアメリカの大統領選挙のときにYou Choose 08でオバマの動画を見れましたが、似たようなサイトで各候補者に指定の文字数・分数でテキストや動画をアップさせて、比較しながら投票できるような電子投票のシステムを実用化してほしいわけです。
もちろん今でも投票する前に自分の選挙区の候補者の情報をネットで調べている人は多いと思います。ただ候補者の情報の質と情報量というのは何ともまちまちで、いつも比較するのに苦労してしまいます。現状でもヤフーの「みんなの政治」のようなサイトはありますが、使い勝手はどうでしょう。
オバマはただ「チェンジ」と訴えて大統領になったわけではなく、ネットでの少額寄付や情報配信をマメにやり、「選挙のやり方」そのものを「チェンジ」することで、大統領になりました。日本の民主党の政権交代には、このような意味での「チェンジ」はなかったように思います。
旧態然とした「公衆の面前でプライベート な感情をむき出しにする選挙スタイル」に、しらけている人は多いはずです。「必勝と書かれたはちまき」を付けて「街宣車(選挙運動車)で名前を連呼」し、終盤に「嫁はんが涙して同情を誘う」ような挨拶をされても、「誰のための『必勝』なの?」「何で〆に嫁はんが出てくるの?」と思ってしまいます。
もちろん「ドブ板」で選挙活動をおこない、人を集め、街頭が賑やかになると「選挙が近付いている感」は高まります。インドの選挙のように候補者がゾウに 乗って現れるほどではないので、まだまだ日本の選挙は大人しいのかも知れません。また自民党からベテラン議員や二世議員が少なからず当選しているので、未だに「地 盤・看板・かばん」が選挙を勝ち抜く上で重要なのだと思います。
ただ21世紀になっても駅前や街宣カーで名前を連呼している候補者を見ていると、何だか悲しくなってくるのです。「政治のあり方」以前に「選挙のやり方」が、あまりに現代の有権者のリアリティとかけ離れている、と思ってしまいます。「本人」とか書かれたたすきをかけて握手されても、苦笑いしかできません。新しいリアリティのあり方が浸透し、公共性の意味が変化していることについて、もっと真剣に考えてほしいのです。と書くと東浩紀っぽい議論になりますが、この点については、私も「平成人(フラット・アダルト)」や論座の「ゼロ年代の言論」特集に書いてきました。
もちろん「選挙のやり方」をめぐる議論自体は、今にはじまったものではなく、昔からあります。たとえば北一輝は「日本改造法案大綱」の中で、沈黙を美徳とする日本人には、欧米式の選挙のやり方は合わないという意味内容のことを記しています。 現代では、北が考えるように議会制民主主義そのものを覆すのは不可能と思いますが、「欧米式の選挙を日本風にアレンジした選挙のやり方」が、現実 にそぐわなくなっているという点では戦前と似ていると思います。北が上の原稿を書いたのは、ちょうど戦前の二大政党制がはじるまる直前でしたが、二大政党 制のはじまりを迎えた現代でも、「政治のやり方」を見直す以前の問題として、「選挙のやり方」を見直すことが必要だと思います。
現代なら「選挙が近付いている感」を感じるきっかけは無数にあります。ネット上には無料で簡単にアクセスできる情報が落ちていますし、マスメディア の広告や、ポータルサイトのトップページや、コンビニのATMの画面の強制広告で、選挙が行われることも十分に告知されています。そもそもネットで投票できるようになると、投票する側だけではなく、立候補する側の利便性も高く、街頭での選挙活動で金をかけれない党や候 補にもチャンスが出ると思います。また大政党の名前を判断材料にして投票する人が増えがちな二大政党制の弊害も緩和できるように思います。ITの浸透によってマス メディアが衰弱し、政治的な関心が薄れたのは確かだと思いますが、その一方でITを活用する形で、政治的な関心を高めるための社会システムの改良も、それ なりに進んでいるわけです。
つまり新たな「公共性の構造転換」が、確実に起こっているのに、選挙システムはいつまでも変わらない、のが問題だと思うのです。必勝のはちまきを付けたり、街宣カーで名前を連呼したり、配偶者が涙したり、だるまの目玉を塗ったりする選挙活動は、親密性の高い人間関係が隣近所に広がっていた時代なら通用したのだと思いますが、現代ではこのような公共性は成立しがたいと思います。だから旧態然とした選挙にじゃぶじゃぶ金をつぎ込んでも、費用対効果は薄いのです。相対的に言えば民主党の中には「必勝のはちまきで、涙の訴え」をしている人は少なかったように思いますし、一人一人に親密性をアピールし、個別に話しかけるような選挙活動をやっていた印象を受けますが、日本の民主党には、アメリカの民主党のように「選挙のやり方」を変えようという大胆さはなかったように思います。
「政治のあり方」以前の問題として、「公衆の面前でプライベートな感情をむき出しにするような選挙のやり方」を、はやいとこ「チェンジ」してもらいたいのです。
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