おおざっぱに言ってドラマという器を作ったのがアイスキュロスだとすれば、今でいうドラマチックな中身をヘロドトスから学んでドラマという器に盛り込んだのがソフォクレス ( Sophocles 前497頃-前406 )、エウリピデスはそのドラマに作家の個性を吹き込んだ人、ということができる。
この三人の違いを知る一番てっとり早い方法は、三人が書いた「エレクトラ」を比べることだろう。もっとも、アイスキュロスの劇は『コエフォロイ』という題名ではあるが。この三つの作品は同じように、エレクトラとオレステスの再会を扱っているのだ。私は一番手近の棚の上から、手当たり次第に一冊の本を抜き出して開き、うやうやしくソフォクレス悲劇の真っ只中にはいって行った。段々年をとるにつれて、私は両古代に愛着を感じるようになり、今ではギリシャとイタリアの詩人たちが本の都でもすぐ手近なところに置かれている。私は激しい芝居のただ中に美しい朗詠調を繰りひろげる優麗かがやくばかりのあのコーラス、老いたるテーベ人らのコーラスを読んだ。《Ερωσ ανικατε・・・無敵なる愛のちからよ、おおなんじ、富める館(やかた)をおそい、乙女の柔らかき頬にいこい、海越えて牛小屋を訪れ来る者よ、不死なる神々も露のいのちの人の子も、なんじを逃れんすべあらず。なんじを胸にいだく者はすなわち狂う》。美しいこの歌を今再び読み終わったとき、アンチゴーネの面影が移ろうことのない清らかさをもって現われ出た。真澄の空を駆けった神々、女神たちよ、それは何たる美しいすがたであろう。アンチゴーネに導かれて久しく放浪をつづけた盲目の翁、乞食(こつじき)王は、今や聖なる墳墓を得ることができた。そして、人間の心にえがき得た限りの美しい絵姿とも娟(けん)を競(きそ)うその娘は、暴王にそむいて恭しく兄を葬る。娘は暴王の子を愛し、暴王の子は娘を愛している。娘が信仰ゆえに刑に処せられ、仕置きの庭におもむくとき、老人たちは歌うのである。興味を持った人はここをクリック してみよう。
《無敵なる愛のちからよ、おおなんじ、富める館をおそい、乙女の柔らかき頬にいこう者よ・・・》(岩波文庫244頁以下)
1. 304行からのクレオンの番兵に対する脅しが「おまえたちに申す」となっている。そのまま読むと、テーバイの老人たちも対象にしているように読める。一人の番人だけでなく番兵全員を対象として言っていると解釈したらしいが。新潮文庫に入っている福田恆存氏の訳は、英国の学者Jebbの英訳からの翻訳であるが、気合いの入った名訳である。ギリシャ語の原文からはやや離れすぎているとしても、日本語としてはこの方がいいのではと思われる個所がいくらもある。いやそれどころか、本当はこういう意味だったのかと教えられる点が多い。一読に値する。
2. 413行から。番人はアンティゴネによって埋葬された死体をもう一度裸にしてから「夜っぴて」番をしていたと言う。眠らないように死体の番をしていたということからそう解釈したらしい。とすると、第一エヒソードから第二エヒソードまでの間に一晩経ったことになる。この解釈は初耳。
3. 1136行「テーバイの港を訪なう君をし送る、雷に撃たれし母君ともども。(一行開き)」は「テーバイの港を訪なう君をし送る。(一行開き) 雷に撃たれし母君ともども、」であるべきで、行送りの誤植であろう。
4. 1201-1202行 ポリュネイケスの遺体を焼いたくだりを訳し落としている。
さあ、あなたはこの問題が解けるだろうか。これに正解を出せないと怪物に食われてしまうとしたらどうだろう。そもそもこんな問題を出す怪物なんて変かもしれない。これはスフィンクスというエジプト伝来の怪物である。これがギリシャの英雄オイディプスの物語では一役買うことになっている。
ギリシャのテーバイの人たちはこの怪物の出した問題が解けないために、パニックにおちいっていた。そこにたまたまやってきたオイディプスが
それは人間だ。赤ん坊は手と足を使って歩き、成長すると二本足で歩き、
老人になると杖をついて歩くからだ。
と喝破(かっぱ)したのである。そして町を救ったオイディプスは請われてテーバイの王となった。しかしこの幸運は実は大きな不幸の始まりだった、ジャジャーンというわけである。
ソフォクレスはここから先を劇にして『オイディプス王』を作った。オイディプスが王になってしばらくするとテーバイの町は飢饉におそわれた。町の人間は再びオイディプスに救いを求めて、子供たちを王の元へ送った。そこで芝居の幕が上がる。さあ ドラマの世界へ飛び込もう。
でも何が書いてある劇なんだと疑問に思うあなたにはちょっと解説を。
人間が行動するのはきっと幸福になることを求めるからだ。しかしそれは同時にうまくいかなければ不幸になるかもしれないという危険をはらんでいる。ということは、逆に言えば、人間は行動しなければ不幸になることはないけれども、さりとて幸福になることもないというわけだ。(早い話、受験をしなければ落ちる心配はない)
でも、人間は行動せずにはいられない(受験しなくてもよい?)。そこに人間の悲劇が生まるのだ。そして、それでも人間は行動(受験)しつづけねばならないのだ。
『オイディプス王』とは、だいたいこういう人間の存在の根本を描いた作品だ。もちろん、これはわたしなりの感想である。あなたの感想はどうだろう?
なお、 『オイディプス王』の岩波文庫の訳は読みやすい訳で、よい訳だと思う。わたしも大分参考にさせていただいた。
「オイディプス王」は犯人探しではじまった話がいつのまにか王の素性探しになって、あげくに王が乞食として国を出ることになるという実にドラマチックな展開をみせる。
ソフォクレスの別の悲劇「エレクトラ」 も展開の意外性という点では「オイディプス王」にひけを取らない。
このドラマは父親の復讐のために故郷に帰ってきたオレステスが、そこにいる姉エレクトラと十数年ぶりに再会するということがこの話の中心になっている。
自分が死んだという偽りの知らせをもって家に帰ってきたオレステスは、皮肉にも自分の帰りをただ一つの希望の星にしていたエレクトラをもだます結果となってしまう。
悲しみのどん底につき落されたエレクトラは、オレステスの骨が入っているという骨壷を抱いて悲嘆にくれる。その様子に耐えられなくなったオレステスはとうとう姉に真実を話そうと決意する。
そして、まずは骨壷を姉の手から取り戻そうとするオレステスと、そうはさせまいと骨壷を必死に守ろうとするエレクトラとの間で骨壷の奪い合いが起きる。
「わたしは弟を失ったのに、その死を嘆くことも許されないの?」
「そうじゅないんだ。オレステスは死んではいないんだ」。
そしてやっと、オレステスが父の形見の指輪を見せると、エレクトラは悲しみから喜びへと180度の変化を見せるのである。
こうして話はハッピーエンドを迎える。
ところで、このように悲劇といっても主人公の不幸で終わる話ばかりではない。悲劇とはシリアスなドラマを意味する言葉で、喜劇と区別するために使われていると考えた方がよい。
『エレクトラ』の市販の翻訳では、人文書院から出ている『ギリシャ悲劇全集』第二巻の松平千秋氏の訳が苦心の訳で読みやすいものになっている。わたしは自刎の訳を作るときに参考にしたが、日本語の訳語の選択で、いかにぎりぎりのところまで絞り込んだものであるかがよく分かった。