【嘘人半真の読書コラム】 2009年6月15日更新 メニューへ戻る 

●090615 重松清「重力ピエロ(新潮文庫)」。連続放火事件と町角グラフィティの謎解き暗号小説。のようにカムフラージュされた、実は人情噺。出火建物の頭文字を順に並べるとCGATCTAGTで、グラフィティに残された英単語の頭文字を並べるとGCTAGATCAになって、「これは二重らせんじゃないか!」。なんていうのは、実は物語の筋とほとんど関係がない。遺伝暗号をせっかく使うなら、もう少し筋と関わるように使ってほしかったな。連続暴行魔への復讐予告なら、別に遺伝暗号を小道具に使う必要はなく、単に旧現場を事件順にたどった写真を送りつければ、それでよかった。それもするんだし。重松先生、よほど遺伝暗号のしくみが気に入ったとみえる(先生、語り手は遺伝子診断会社の社員という設定ですが、それならコドン表くらい暗記してますし、アミノ酸の一文字表記くらい、調べなくてもわかりますよ)。

●090507 岡崎寛徳「遠山金四郎(講談社現代新書)」。遠山の金さんの「知られざる実像」を解明、という触れ込みに引かれたが、うーん、「知られてる実像」ばかり、という印象ぬぐえず。父親の遠山金四郎景晋が名長崎奉行だったことは、先年景晋を主人公にしたNHK連続時代劇「夢暦」がゴールデンタイムに放送されて周知になったし、水野忠邦・鳥居耀蔵との確執は、多くの金さん物語で描かれていて(ドラマの香辛料的サイドストーリーにしても)周知のことだし。私としては、せめて金さんのイレズミの本当の図柄が何であったか解明してほしかったのだが、諸説あって結論なし、とは拍子ぬけ。とはいえ、断片的に知られている史実をまとめ上げて定本にしてくれた価値は高い。これから金さん物語を作る監督には、時代考証が難しくなるかも。

●090429 来る5月5日は中島敦の生誕百周年である。中学校の教科書で「山月記」を読んだとき、その名調子に電気が走り、暗唱を試みた。全文は無理だったが、今でも「ろうさいのりちょうははくがくさいえいてんぽうのまつねんわかくしてなをこぼうにつらね・・・」と、1ページ分くらいはソラでいえる。他の作品もむさぼるように読んだ。しかし「悟浄歎異」あたりで、その諧謔の魅力を理解するにはまだ子供すぎて、終わってしまった。このGWには、全集を借りて再度ハマってみようと思う。それにしても、ずいぶん昔の作家のように思っていた敦が、実は松本清張と同年生まれで、淀川長治の1週間違いだと知ると、時空の歪みを見たような不思議な気分になる。人は没年で記憶されるのだろう。

●090331 篠田節子「仮想儀礼」。これまで篠田作品のほとんどすべてを読んできた私には、随所で「このプロットは○○と似てる」、「これは○○で読んだ気がする」と気になった。それは、本作が篠田作品の典型といえるパニックホラーだからなのかもしれないし、著者お得意の邪教ものだからなのかもしれないのだが、あるいは(それが心配だが)スランプなのかもしれない。もちろん違う点もある。たとえば、篠田作品は、たとえ破滅的で救いのない悲惨なエンディングでも、語り口は妙に清々しく明るいのだけれど、本作は暗く終わる。しかし、これではあまり怖くない。新潮社の本なのに、新潮社が名誉棄損で660万円払わされて終わるところが笑える。

●081214 仙川環を続ける。「転生」小学館文庫。真相を解決するのが主人公でなく脇役だ、という不満は前作同様残るが、人物のキャラを直接説明でなく間接描写で立たせる点など、作家としての練度は上がっている。犯人を追う主人公自身が警察に追われるというチェーシングゲームの要素が濃くなり、サスペンス度も上がった。だが、惜しむらくは、プロット(ヒトクローン作成)が専門的にすぎ、その作業手順を知らない一般読者には、婦人科医でなく獣医がなぜ犯人でなくてはならないのか、その必然性がおそらくピンと来ないのではなかろうか。作家の専門知識が災いしたようにも読める。
 「ししゃも」。過疎の町興し。出だしは快調。篠田節子「ロズウェルなんか知らない」風のコメディスリラーを思わせる。ははん、これが伏線だな、と思わせるエピソードが散りばめられている。わくわく。・・・が、読後感は、というと。いや、なかなか面白い。面白いのだが、何となく不消化。使われない伏線が多いのだ。とくに、繰り返し示される「池野博士の虹色ししゃも商品化の忌避」が使われないのが拍子抜け。トラウマにつながるから? だったら、そもそも深層水利用研究を始めちゃおかしいじゃないの。野々宮の謎めいた振舞も、結局単なる描写で終わってしまった。憶測するに、当初の著者のプロットは、この虹色ししゃもの作出に禁断のバイオ技術が使われており、農水省キャリアの陰謀が背後にある、というものだったのではなかろうか。そっちバージョンを読みたい。

●081130 仙川環「感染」小学館文庫。2002年度文庫小説賞作品。プロットはいいのだが説明に終始して人物描写が浅薄、偶然が多すぎ、殺人計画者の動機はわかるにしても実行者の動機が希薄、問題を解決するのが主人公ではなく脇役なので拍子ぬけ、などなど、と、小説としての欠点をあげつらえばいろいろいろ出ようが、メディカルスリラーとしては佳品(アガサ・クリスティーだってコナン・ドイルだって、文学としては二流ですもん、スリラーやサスペンスの醍醐味はそこにあるわけじゃない)。同様の問題をもつ「チームバチスタの栄光」があんなに評判になるのなら、これも同じくらい評判になっていいのに、と思う。
 なお、作者が阪大医学系大学院卒だからといって、モデルが阪大医学部で、医学部長は驕慢で、病院では陰謀が渦巻いているのだ、などと誤解しないでください。本物の医学部長は真摯で誠実で裏表のない人です。

●081103 寺澤盾著「英語の歴史」中公新書。「過去から未来への物語」との副題がついているものの、過去の話主体で未来予測はほとんどなし。学者は慎重だねえ。論文みたい。どうせ新書が数百年後まで生き残って、予想は正しかった/誤っていたなどと採点されるはずもないのだから、歴史を外挿して、もっともっと大胆に予想してほしい。英語に関する豆知識がたくさん仕入れられので、ちょっと知ったかぶりしたい人にお勧め。

●081007 安藤優一郎著「幕臣たちの明治維新」講談社現代新書。幕府天下・外様忍従から一夜にして大逆転、薩長天下・幕府賊軍。勝者からみれば栄光の明治維新も、敗者から見れば・・・。幕臣3万人はどこに消えたんでしょう。教科書の教える歴史って、今に至っても薩長史観なんですよね(明治維新を市民革命の日本版としてとらえたマルクス主義史観と合致して、さらに強化されているんでしょうか)。零落する旗本・御家人。しかし、ともかく今日を生き抜かないと明日は来ません。積もる恨み重なる辛みを、反逆に、開拓に、実業に、学問に、議会設立に変えて必死に明治を生きる敗者たち。この大リストラ時代、励みになります。

●081001 重松清「その日のまえに」文春文庫。全7話のうち前5話はそれぞれ別の人情話として読める。が、それだけではない。第4話までの主人公が第5話以降に脇役として再登場して、大団円(ハッピーエンドではないけれど)を作る。それぞれが死の影を宿す。だから暗いか、というと、それが妙に明るい。重松ワールド絶好調。必ず泣ける。私もがん患者の端くれなので、共感も感動もするのだが、ちょっと違和感もある。死って、こんなに穏やかに訪れるものばかりとはかぎるまい。
 永作博美主演で映画になるそうだが、大林宣彦監督は原作をこのままなぞるのだろうか。抒情をいやがうえにも掻き立てるにはそれがよかろう。しかし、それをやったら散漫になりそう。「バベル」では、3話をパラレルに走らせただけで散漫になった(アート070506参照)。

●080915 楊逸の芥川賞作「時が滲む朝」。知性と感性の融合と持ち上げられているが、一時代前の古典的な風合いの小説である。著者をけなすつもりは毛頭ないし、誠実な筆致で近過去の隣国の明暗と、全世界・全時代共通な若者の共感と挫折を描く感動作なのだけれど、それはそれとして評価しても、これが芥川賞、つまり現代日本文学の潮流を切り拓く代表作品なのかと問えば、少しく違和感を覚える。芥川賞は、このところ、最年少とか外国人作家とか、話題作りに走ってはいまいか。

●080901 しばらく偏見書評をサボっていたが、本を読まなかったというわけではない。ただ、この夏はあまり小説を読まなかったのは事実で、新書は読んでも評は書けない。
 米原万里「パンツの面目ふんどしの沽券」(新潮文庫)。一昨年惜しくも亡くなられたこのロシア語通訳者は、大陸的な悠揚迫らぬユーモアに溢れる名ノンフィクションライター・名エッセイストだった。この文庫も、米原節満開で、人に話したくなる豆知識一杯、ウンチく一杯である。男物のワイシャツがなぜ妙に長くてしかもワキで割れているのか、私は長年の疑問に思ってきたが、謎がやっと解けた。ワイシャツの裾で逸物を包みパンツの代わりにしていたのである。つまり欧米の男はつい先ごろまで(少々の時差があるからロシアの男は今も)パンツなんて穿いてなかったのである。なーんて男女シモネタ満載。

●080420 森史朗「松本清張への召集令状」文春新書。清張の社会派ミステリーの原点を、「遠い接近」と清張自身の兵役体験を対比させた「書評スペシャル版」。しかし、著者が文春の清張番だったためにエピソードがたくさんあり、それを盛り込みすぎて、かえって焦点がぼけた。清張ファン(私を含めて)には、小ネタいっぱいで嬉しいが、そうでない人には読みにくかろう。作品引用と地の文とが、段落分けも括弧分けもされておらず、文脈で判断しなくてはならないのも、困った点。

●080320 牧野富太郎「植物一日一題」ちくま学芸文庫。植物分類学の巨人、牧野富太郎(1862-1957)晩年(終戦1年後の1946年8月から100日間)のエッセイ。ほとんどが、中国で○○と呼ぶ植物が日本の何に当たるかという「名実考」である。桜はサクラではない、松はマツではないと、既存の学説を、片っ端から切っては捨て、突いては屠るその筆鋒は、老いてなお火を吐くようだ。まあまあ、そんなに怒らなくてもいいじゃないの、って気がするが、本草学(漢方薬学)の立場からすれば、同種か異種かは薬効の有無に直結するから、死活的に重要なことなのである。明治・大正期の植物学では、これがメインの仕事であったのだ。しかし、この強烈な個性には、当時から毀誉褒貶が激しかった。論敵は、ただ学的に批判されるだけでなく、人格的に罵倒されるから、まったくもってかなわない。いま再検証すると、富太郎の見解もすべて正しいわけではないから、当時罵られた人たちは相当腹に据えかねたろうと思う。富太郎には学歴がないので、権威主義の学界から認められなかった、と犠牲者のようにいわれるが、それだけでもない。お友達にはしたくない人だ。しかし、学問に個性が溢れていた時代というのは、うらやましくもある。現在の科学には研究者の個性の輝きが乏しい。それは、私たちが先輩からそうするよう教育を受け、後輩にそうするよう教育するからだけれど、それは科学をつまらなくする自殺行為なのかもしれない。

●080202 篠田節子「ロズウェルなんか知らない」。過疎の村の破天荒な村おこし。当然失敗するんだけど、妙に明るく、すぐまたさらに開き直る。常識人の弱さを衝く快作? 怪作? 篠田流ホラーは、異次元よりずっとすぐそばにある隣接次元。篠田ワールドは健在だ。
 なお、題名にある「ロズウェル」とは、1947年米国で起きたとされる宇宙人飛来の噂のこと(知ってる人は知ってるが知らない人は全く知らない、後者の人がこの小説の本文に一度も「ロズウェル」という語が出てこないことに訝らないよう、念のため)。

●080101 佐々木譲「警官の血(上・下)」。「このミステリーがすごい!」の2007年度第1位、という帯につられ、ハードカバー単行本で求める。終戦直後から現代まで、三代にわたる警官一家の家族史である。高村薫「晴子情歌」あたりから、サスペンス作家には昭和大河ロマンが流行ってるのかしら。さて、読みごたえは。
 どうでしょうね。いちおう水準ではあるけれど、佐々木らしい細部の緻密な伏線はりと息詰まるクライマックスへの収斂、という醍醐味には乏しい。ラストで最高潮に達すべき三代目(現代)の部分が、一代目・二代目に比べて書き込み不足で、あらすじ的なデッサン段階どまりで端折っている。著者が書き飽きて(それとも、小説新潮の担当さんが指示して?)チャッチャッと終えてしまった感じだ。高村なら、ここで粘るところなのだが。一応謎解きはして読者へのお約束は果たすけれど、このプロットなら、多くの読者には最初から読めていたろう。それならプロット自体より心理を描いてほしかったのに、「それが時代だったんだ」という犯人の開き直りでは、サスペンスの結末としても、三人殺した公安刑事の独白としても、いかにも薄い。昭和史を書くなら、事件てんこ盛りにする必要はなかった。サスペンス仕立てにする必要すらなかった。むしろ佐々木の本職、クルマの開発で書いた方がよかったのではなかろうか。この小説での魅力の宝庫は、むしろ妻たちだと思うが、佐々木は相変わらず女の描き方が下手だ。

●071230 遠藤寛子「算法少女(ちくま学芸文庫)」。お正月の凧揚げのように清々しいジュブナイル小説(実際に父娘共著の「算法少女(安永4=1775)」があるのだから伝記か)。1974年(原本のちょうど200年後)の少女向けに書かれた本の復刻だという。その33年後の少女たちには、セックスもなければいじめもバイオレンスもないお話は、刺激不足で「かったるーい」かもしれないが、その33年の差を知るのも、その先200年の差を知るのも、勉強のうちである。

●071225 お笑い「麒麟」の田村裕「ホームレス中学生」がベストセラーだという。私はこれまで「タレント本」を読んだことはほとんどないが、娘がクリスマスプレゼントにもらって読んで「めっちゃ感動した」というので、奪って読んだ。私も、感動した。無駄のない達意の文章。落ち着きのある統一された文体。ギャグもステージほど嫌味がない(むしろ上品といっていいほどだ)。近頃めずらしいメルヘンのような愛情溢れる逸話集である。非行少年も、引きこもり少女も、これを読んで「世の中捨てたもんじゃない」気になってほしい。
 さて、これだけ面白い事件てんこ盛りの話を、細部に入れ込みすぎず、楽屋受けにせず、しかも本全体のテーマを散らさずに家族愛・隣人愛で一貫してまとめ上げる筆力は、並大抵ではない。田村には悪いが、このゴーストライターの実力はすごい(もしもこれを田村が自分で書けたなら、なぜコントの台本を相方の川島に頼っているか、わからなくなる)。私は同時に、世の中には多くの才能が人知れず隠れていることにも、感動した。

●071203 病院のコンビニ併設の書店では、場所柄病気関係の本が多い。実用書にしても小説にしても。そのオススメの中に、ちょっと前「このミス」史上最強とかいわれて、評判になったメディカル・エンタテインメント、海堂尊「チームバチスタの栄光」があった。ついに文庫化!記念セールというわけだ。乗せられて購入し、読んだ。面白かった。たしかに面白かった。現役病院勤務医の筆ならではの、細部のリアリティが抜群だ。だけど、だけど、病院内の覇権争いや、昇進をめぐる嫉妬の嵐や、マッド医師の狂気で、患者が次々と殺されていく、というストーリーなのである。いいのかしら、病院にどっちゃり平積みで売られていて。これを読んだ患者さん、硬膜外麻酔を拒否しちゃうよ。

●071128 津本陽の直木賞(1978)受賞作「深重の海(新潮文庫)」。重厚な時代物伝記小説というイメージが強くてちょっと敬遠していた津本作品を、入院して気分が変わったせいか、手にとってみる気になった。明治初期の太地鯨方の衰亡(盛衰ではない)を雄渾に描いた挽歌。濃厚な紀州方言の会話についてゆけず、たぶん普段なら数ページで投げ出したろう。こういう経験ができるから、入院もよいものだ。その昔、メルビルの白鯨を読んで感動したのは、中学生の頃だったが(もちろん冒険小説としてで、哲学のところは読み飛ばした)、津本作品は、エイハブ船長個人の戦いでなく一つの文化の絶滅であり、イシュマエル一人すら生き残らない徹底した滅亡であるところが、深く、重く、苦しい。「あーん、かわいそう」だけの欧米豪の捕鯨反対運動(しかも、自分たちの乱獲でナガスクジラを絶滅に追い込んでおきながら、だ)の浅薄さをつくづく思う。日本人はこれを読んで、熱血沿岸捕鯨再興に立ち上がれ。

●070801 たまには自分の本について書く。「生物○理学ハンドブック」。私が依頼されて原稿を編者に提出したのは、2002年の1月のことである。書いたことさえ忘れてしまった今春、ふとゲラが送られてきた。ということは、〆切を5年も遅刻した分担執筆者がいるということである。書店の担当者は「ここで大幅校正するとまた出版が遅れるから、最小限にとどめてほしい」という。その苦労はよくわかるから、句読点直しにとどめて返送した。
 そのツワ者が誰か、大体見当はつく。先生に悪気はなかったのだと思う。なにしろとても忙しいのだ。いや、最新の知識を紹介し、最新の技術を記述しようと、学者的良心をフルに発揮して推敲を重ねていたのだ、きっと。しかし、そのおかげでご当人以外の執筆部分は、5年前の内容になってしまった。日進月歩のこの分野で、5年遅れたらメリットは薄れる。これが雑誌ならば、こういう場合は原稿落ちで見切り発車するだろうが、本だとそうもいかないのだろう。そこで提案。各項目末に内容賞味期限を著者名と並べて記せ。
 先日、その成書が送られてきた。A4変型ハードカバー、上質アート紙663ページ、重さ1.3kg。これ、果たしてハンドブックだろうか。左手に持って右手でページを繰る、なんて芸当はとてもできない。机の上におくか、腿の上に置くかである。サイブックかハムブックと呼ぶべきであろう。

●070722 森見登美彦「太陽の塔」(新潮文庫)。京大農学部留年生の主人公が、ふられた彼女に恋々とし悶々とする妄想小説。小説というより、ブログ集。それでいて、ラストのクリスマスに向けてぐんぐん盛り上がる。「もてない京大生」というのが、じつにいい設定で、この尊大で矮小な存在がいとおしい。下に書いたジュブナイル小説(070603、0610参照)と違ってこれは変化球だが、山上たつひこの名作「喜劇新思想大系」的なこの悶々こそが、セックスに不自由しない高校生たちとは違う、実物大の大学生だと思う。最後まで「さん」づけの元カノが、神々しいまでに持ち上げられているのが、またじつに痛ましく、切ない。いや、これもジュブナイルの一つの形かもしれぬ。リアルな京都市内の地理描写や超然的な太陽の塔の形容が、よく計算された小道具として利いている。

●070708 必要があって、慶應義塾大学医学部教授、故林髞(はやしたかし)先生の事蹟を調べていて、「頭のよくなる本」(光文社、1960年のベストセラー第2位)をネットで入手し、読んだ。博士は戦後日本における大脳生理学の復興者であり、今日でも毎年冬になると各コンビニで受験生向けに売り出される「頭脳パン」の提唱者である。同時に筆名木々高太郎として、直木賞作家であり、推理小説(当時は探偵小説といった)は芸術であるべきかパズルであるべきか、と争う木々-甲賀論争の旗頭であり、前者に立って高木彬光や森村誠一や松本清張を世に送り出した日本小説界の恩人でもある。また、シナプス可塑性研究者の端くれである私にとっては、脳内伝達物質としてのグルタミン酸を世界に先駆けて唱えた先駆者として記憶され、かつ、幼い頃、母に1日小さじ1杯ずつの味の素を飲まされた私にとって、にっくき犯人としても記憶される。
 ところが、読んでみて驚いた。博士はグルタミン酸説を唱えてはいなかった。博士によれば、蛋白質の分解産物であるグルタミン酸は、ガンマアミノ酪酸(GABA)に変換されたあと、興奮性伝達物質Pと抑制性伝達物質Nとに変換される前駆物質なのであった。Pの正体は未知で、Nの正体はガンマアミノヒドロキシ酪酸(GABOB)であり、GABAがPやNに代謝されるには、ビタミンB1B6B12が補酵素として必須であると書いてある。そこで脳の活動の源として、グルタミン酸の原料である蛋白質と、PとNを作り出す補酵素のB1B6B12を添加したパンを「頭脳パン」として推奨したのであった。そして睡眠は、脳が活動を止め、昼間消費したPやNを補充するための補充期間として重要なのであった。
 今から見るなら、全ー部間違いである。グルタミン酸とGABAこそ、興奮性および抑制性伝達物質そのものであって、PもNも実在しない幻である。したがって、GABAをPやNに変換するためのビタミン類も頭脳パンも、幻である。グルタミン酸は脳内で蛋白質から作られるのではなく、肝臓で主として糖から作られ、脳では循環血中から取り込まれるのである。また、睡眠中に脳は休んでなどいない。休止どころか、神経伝達は昼夜休みなく続いている。また、私に味の素を飲ませたのは、博士の説を早飲み込みした「息子思いの母の誤解」ではなかった。博士が本文140ページで、子どもにはグルタミン酸を飲ませよ、とあからさまに指示しているのであった。
 しかし、今の高みから博士の主張を笑うことはできない。それをすれば、今の私は50年後の脳研究者から笑われるに違いない。むしろ、栄養失調気味の国民のビタミン不足に警鐘を鳴らし、蛋白質摂取の必要を教え、睡眠の重要を説いた功労をこそ、評価すべきであろう。人はその生きた時代の文脈で評価さるべきである。

●070701 えーと、私がこのコーナーに書いている本が、私の読んでいる本のすべてだと思われて、「もうちょっとためになる本も読みなさいよ」と忠告してくださる先輩・同僚が多い。ありがとうございます。でも、それは誤解です。ここに書いているのは、ごくごく一部です。本当は、もっともっとくだらない本をたくさん読んでいます。

●070610 ジュブナイルを続けて読む。飯田雪子「夏空に、きみと見た夢」(ヴィレッジ文庫)。虚無的なツッパリ娘の主人公が、ひょんなきっかけで死んだ少年の葬式に出て、痴漢に遭って救われてその幽霊と恋に落ちる。恋は彼女のコンプレックスを浄化し、幽霊はやがて消える。彼女は「幸せになるぞー」と誓う。わ、「ニューヨークの幻」じゃないか。悪く言えば陳腐だけれど、文体がてらいもなくストレートなので、読後感はさわやか。彼が彼女をストークするようになったきっかけに、いまいち説得力がないし、彼がもし幽霊でなかったらどんなに面倒なことになるか想像するとゾッともするが、いいでしょう。高校三年生だもんね。
(余計な感心:いまどきの高校生の女子って、そんなに気軽に誰彼なくセックスするのかしら)

●070603 ジュブナイルを一つ。佐藤多佳子「黄色い目の魚」(新潮文庫)。家に居所がなく、イラストレーターの叔父だけが拠り所の少女と、父への嫌悪と思慕がないまぜになって、好きな絵に本気になれない少年とが、ねじくれた恋をして、恋をしたからこそだんだんねじれがほどけていく、ラブストーリー。きゃー、はずかしい。恋ってそんなに万能なのかしら、って気もするけど、いいでしょう。高校二年生だもんね。題名がちょっとずれてるような気もする。
(余計な感心:いまどきの高校生の男子って、そんなに気軽に誰彼なくセックスするのかしら)

●070513 志水辰夫「行きずりの街」(新潮文庫)。帯に、最近のサスペンス小説と読み比べろ、と挑発的なキャッチが書かれていたので、気に入った。冒険小説大賞受賞作で当時評判になったらしいが、たしかに最近のサスペンスとはだいぶ趣きが違う。17年前には、こんなに熱い高校教師がいたのか(いなかったろうが、いると設定しても違和感がなかったのか)。17年前はこんなに戯画的な学園乗っ取りがあったのか(なかったろうが、あると設定しても違和感がなかったのか)。

●070303 逢坂剛「カディスの赤い星・新装版」を文庫で読む。昔、お師匠(工藤先生)に強く勧められ、単行本で途中まで読んだことがある。そのときは、話がなかなか進まないのに腹を立てて、師匠には申し訳ないながら、投げ出してしまった。しかし、私も歳をとって気が長くなったのか、今度は通して読めて、やっぱり最後まで読むと、お師匠のいうとおり面白いことがわかった。文庫で上下に分けると、ちょうど真ん中、下巻から話が動き出す。ここまで伏線張りに原稿用紙を使ったハードボイルドも珍しいのではないか。後半に人物と人物が次々にまとまり始めてピッチが上がり、かなり御都合的な冒険展開もあまり無理に感じないのも、前半の緻密さの余韻が残っているからこそだ。ただ日本赤軍の実力を買いかぶっているところが、この小説の書かれた時代(1986年)の遠さを思わせはする。

●070201 水原秀策「サウスポー・キラー」(宝島文庫)。第3回2005「このミス」大賞受賞作品。一気に読むとめちゃくちゃ面白いし、一気に読まないと全然面白くない話。アラが気になり出すとキリがなくなるから。「かつての名選手で今は凡監督」を戴く「巨大新聞社傘下のセ・リーグ人気球団」の2年目左投手が、八百長疑惑に巻き込まれ、その火の粉を払おうと素人探偵をするうちに、より大きな陰謀を暴いてしまうという、痛快といえば痛快、ありえないといえばありえないユーモア・サスペンス。野球界の陰謀がありえないのではなく、こんな賢い野球選手がありえない。「某球団のワンマンオーナー」がものわかりのいい善人だ、というところもありえない。プロットやアクションをいちいち長く引っ張らず、テンポ軽快な小気味よさは秀逸なのだけれど、野球界を舞台にする以上、野球そのものの描写にもう少しリアリティを与えてほしかった。それがあれば、もっともっと楽しめたろう。「5年間続けて左投手をトレードに出し続けている」のが、主人公が初めて気づいた「秘密」って、おいおい、そんなトレード2年続ければ、スポーツ紙がすぐ指摘するよ。葛城監督の「投手交代がカン頼りで場当たりだ」って、主人公が初めて指摘して虎の尾を踏むという設定だけど、野球見てる人は全員知ってたよ。

●070108 冬休み読書感想文4。浅田次郎「椿山課長の七日間」(朝日文庫)。「きんぴか」のノリと「ぽっぽや」の泣かせと、もう浅田節満開。だけど、大爆笑のうちに再昇天してしまったけれど、課長さん、これでいいんですか? もう一度再降地しなくていいんですか。奥さんと部下の浮気、思うツボですよ。息子さん、まだまだ苦しい演技を続けなくちゃなりませんよ。同期の親友女性、満たされないままですよ。そっか、裏切りまで含めてそれ以上に一家を愛しているんですものね。ふがいなさまで含めて自分の人生を愛してきたんですものね。

●070105 冬休み読書感想文3。宇江佐真理「春風ぞ吹く」(新潮文庫)。いかにもお正月向きのタイトルとカバー絵につられて読む。その結果、その通りでした。茶屋の奥で他人の恋文を代筆する内職をしながら、緊張感なくタラタラ学問をしている万年浪人が、恋人の父親にバカにされ、恋人に迫られて一念発起する江戸の書生出世譚。ノーテンキな主人公。しっかり者の恋人。頼りがいのある親友。立派なお師匠。憎まれ役は出てきても悪人は出てきません。結末もハッピー。これ、現代を舞台にしたら、全く刺激不足で文字通りお話になりませんけれど、平和なお江戸の下町が舞台だから、とてもいいお話になりました。

●070103 冬休み読書感想文2。角田光代「キッドナップ・ツアー」(新潮文庫)。「ミカ!」(下記)の伊藤たかみの嫁さん。うーん、似た者夫婦というのだろうか、作風が似てるね。著者を入れ替えても私にはわからないな。つまらない、というんじゃない。芥川賞作家の妻の直木賞作家なんだから、もっと個性が強いかと思ってたのに、ということだ。面白い。過不足のない思い入れ。達者な比喩。何をやっても要領の悪いお父さん。怒ってばかりのお母さん。お父さんの唯一の味方の主人公の娘、なんで一緒に逃げてくれないの。それが娘というもの、結局は母親につくのさ、ってわけ? 結局お父さんは最愛かつ最後の理解者に去られてしまった。わー、救いがない。ジュブナイル小説って残酷ね。

●070101 冬休み読書感想文1。昨年「八月の路上に捨てる」で芥川賞を受けた伊藤たかみの児童文学、「ミカ!」 葉山家の双子の兄妹ユウスケとミカの成長小説第一部、小学6年生編。問題アリまくりの一家(離婚する父母、うちに通ってくる父の恋人、家出する姉、全部独力で解決しなくちゃいけない兄、破天荒に元気な妹)。さらにその中で、兄妹がそれぞれややっこしく発情する。脇役も個性的。わー、大変。最後に大団円を迎えるのかと思ったら、迎えない。問題アリまくりのまま。でも、どういうわけだか、みんな元気。「オトトイ」という正体不明の生物がカギ。大人が読むと、とても素敵な作品なんだけれど、これ、今の子どもが読んで面白いかな。自分たちにはオトトイがいないんだもの。これだけ問題が集中したら、引きこもるか、グレるぞ。
 「ミカ×ミカ!」 第二部、中学2年生編。第一部から2年経った。引っ越しして、父もミカもユウスケも、それぞれつきあう相手が代わったが、困難な状況は同じ。でも、相変わらず揃って元気。今回の妖精はセキセイインコの「シアワセ」。シアワセの命を懸けた大活躍で、こんどこそ大団円。おめでとう、よかったね。タイトルロールのミカはもちろん素敵なんだけれど、優柔不断なユウスケが魅力的。こういうやつは貴重だ。たぶん著者自身なんだろう。

●061216 江國香織「号泣する準備はできていた」。江國の他の小説をこれまで読んでいないので、江國の批評はできないが、この直木賞受賞作についてだけいえば、やさしくって怖い短編集である。ゆるやかに崩壊する人格。溶解する社会。とことん目の前の快楽に耽り、とことん自分を甘やかす女たち。それを見つめて許すとことん優しい男たち。あるかなきかの自我が、ゆらゆらと空中をたゆたって、時間を止める。現実を消し去る。電車の中で、私は微熱を発し、めまいを覚える。

●061203 あさのあつこ「ガールズ・ブルー」。女子高校生の、90%愉快で10%悲しいフツウの日常生活。面白いです。登場人物がそれぞれみんなキャラ立ちしてます。会話のテンポもギャグも見事です。登場人物の元気が伝染して読者もうれしくなります。今の高校生がみんなこんないい子たちだったら、行為として援交してようが、プーしてようが、日本はまだまだ大丈夫です。
 だけど、だけど、痛切に残念ながら、実際の今の高校生や大学生はそうじゃないんです。だから余計に悲しい。だからキャラ設定に異議あり。こんなに元気で、色んなこと知ってて、好奇心旺盛で、羞恥心があって、思いやり豊かで、語彙が豊富で、頭の回転が早くて、人付き合いが上手でなんて、そんな高校生は、今どき10%もいません。なんでこれが偏差値30の落ちこぼれ劣等生なんですか。ラ・ロシュフコーの箴言集を愛読してる劣等生、なんてありえへーん。今どきのバカな高校生、バカな大学生という動物は、もっともっと本格的にバカです。底なしに無気力です。好奇心・羞恥心・思いやりは皆無です。漢字なんか読めません。そもそも識字能がありません。本なんか目の前に置いたら、ものの3秒でキレるか寝ます。身近に実在するのでよく知ってます。

●061106 矢作俊彦「ららら科學の子」。何を描きたかったのかよくわからないなあ。1960年代末の風物が次々に紹介される。知ってるさ、俺も同時代者だもん。でも、それを書き残そうというのなら、「学園闘争の新左翼運動の成り行きで中国に亡命し、35年ぶりに帰国した今浦島の熟年」なんてキャラをわざわざ設定する必要はなかろうよ。正攻法に、三田村鳶魚や岡本綺堂の江戸ばなしや子母沢寛の新撰組遺聞のように、記録として書き残せばいいだろ。60年代の事物を背景・道具にして、今に物語が展開するだろう、今に話が始まるだろう、と引っぱっておいて、そのまましりすぼみにネタが尽きて終わりって、ちょっとぉ、これって、いったい何さぁ? 「三丁目の夕日」はいいんだよ、お話があるもの。でもこの本は何。「この30年間に日本が失った物、日本人が失った心を描く」って、新聞の書評はみな好意的だけど、俺にはただ「団塊の世代を懐かしがらせようとしたあざとい懐旧談」としか読めないな。でも、それなら、ハズしたね。そもそもこの世代は「懐かしがらない者たち」なんだ。過去を愛おしまず、素朴に未来を信じていた「科學の子」だったんだから。なにせ、学園闘争で日本を変えられると信じていたくらいなんだもの。

●061103 平岩弓枝「道長の冒険」。冒険ダン吉か西遊記のようにのどかなファンタジー。妖怪悪鬼がとっても善良で、ちょっと懲らしめるとすぐに降参してくれる。お血筋正しいお殿様と心優しい鬼たちとの予定調和の世界。和むなあ。癒されるなあ。これを現代を舞台にやったら、ブーイングの嵐どころか完全シカトされるだろうけど、平安朝でやれば、雅やかに受けるのだ。大納言様のご活躍でござりまするう。もったいないことにござりまするう。

●061021 東野圭吾「手紙」が映画化されるという。以前原作を読んで、何とも釈然としない印象を拭えなかったのを憶えている。憶えているのだから、印象深かったのは事実なのだが、とても暗い。思い出してみよう。「善良な市民」の暴力性を徹底的に描いた作品である。兄が強盗殺人を犯し、弟は何が何だか分からぬうちに、夢も希望も奪われて転落していく。弟は逆境にあっても道を誤ることなく、必死に耐え健気ににがんばる。だが、それでもなおとことん奪われ続ける。「善意」による迫害は、弟の唯一の理解者であり支持者として結ばれた妻にも、そして生まれた愛娘にも、容赦なく襲いかかる。最後は、兄弟をつなぐただ一つの絆であった手紙を、「もう出してくれるな」、「ごめんよ、もう出さない」とやりとりして破滅的に終わる。弟がその誠実な良識にしたがい、思い切って謝罪に訪ねた被害者宅では「お前は犯人の弟だから、犯人と同一視する、お前も一生苦しめ、それが犯罪者の家族の宿命だ」と言い放たれる。
 もう、最っ悪の話である。東野のメッセージは、作の終盤で、弟をどん底に突き落とす善良かつ獰猛な市民の一人である社長の言葉を借りて、明確に表現される。「犯罪を犯したら、周囲の誰も彼もを不幸に陥れる。それでいいのだ。それが正しいあり方だ。社会からの復讐だ。ざまーみろ。それがいやなら犯人は犯罪を犯すな、家族は犯罪を犯させるな」。それでいいのか。これは古代的な一族連帯責任・連座制の復活論、理性欠如の村八分正当化、レッテル張りの奨励、差別の助長論ではないか。これでは、弟はもう生きる方法がない。後味の悪い、つくづく嫌な話である。東野も、あまりにムキダシな自分の応報主義礼賛に恥ずかしくなったか、弟が自分を隠して刑務所に慰問コンサートに行き、祈る兄の姿を見つけるシーンで僅かな光を与えはするのだが、それはそこまでの悲惨につぐ悲惨のご丁寧な描写に比べて、いかにも付け足し的な淡白な描写で、しかもその結果救われたかどうかは書かない。映画では、少しは希望の見えるものに変えてほしい。

●060930 北尾トロ「裁判長、ここは懲役4年でどうすか(文春文庫)」。世の中には裁判傍聴マニアという人たちがいて、日刊スポーツの阿蘇山大噴火氏のコラムなどは、同紙の人気コラムである。だが、世の中に、この種のマニアがこれほどたくさんいるとまでは知らなかった。私は、事件や被告より、この傍聴人の生態に驚かされた。阿蘇山の批評も北尾のコメントも、ベテラン傍聴マニアの意見も、実にマッタクモッテまっとうな市民的常識に沿っている。それだけに、書かれている事件で「なんでこんな人が、こんな事件を犯したり、こんな紛争を起したりするのだろう」と思う以上に、「なんでこんな普通の常識人たちが、こんな興味本位丸出しのノゾキ趣味にのめりこむのだろう」と、不思議になるのである。何件もの痴漢事件の傍聴に連日地裁に通うって、行為においてこそ違え、精神においてほとんど痴漢と同じなのではないか、と思ってしまう、のは私だけだろうか。いや、失礼ながら。

●060909 宝島社の「食品のカラクリ」は、例によって揚げ足取りのバッタ本ながら、多くの謎を解いてくれる。エビフライがなぜまっすぐか、ファミレスのステーキがなぜあんなに安く、同じ大きさか。うすうす気づいていたが、回転ずしのネギトロはやはりマグロじゃなかった。70へえ以上の連発である。

●060820 米沢富美子「人物で語る物理入門(岩波新書上・下)」。物理学に興味のない学生になんとか興味を持ってもらおうと、危機感に悩む物理学者は、正攻法がダメなら、人物伝とかノーベル賞裏話とか、あるいはスキャンダルとか、埋もれた天才とか、そうした変化球で何とかこちらを振り向かせよう、とする。しかし、多くは焦って結局コロモの下のヨロイが覗けてしまい、失敗する。「数式が一行出るごとに読者が半減する」という編集者の脅しに屈服して、数式を無理に避けるから、かえってわけがわからなくなり、失敗する(数式とは、元々言葉で分かりにくいものを分かりやすくするための手段なのであって、「力はものを加速する、掛ける力が大きければ大きいほど加速が大きい」なんてゴチャゴチャいうより F = a・dv/dt といった方が、よほど簡潔で力強く、分かりやすいのだ、文科系の学生にとってだって同じだ)。この本もその伝かな、と思いつつ、商売上(私も教師の端くれだから、やる気のない学生をやる気にさせる方法に日々悩んでいる)読んだ。いやいや、上出来である。さすがに米沢先生は上手だ。
 米沢先生は我慢強い。最後までヨロイを見せなかった。数式の代りに図で直感に訴える方法で、言葉での説明の分かりにくさを逃れた。いや、うまいものだと感心した。でもね、物理学が嫌いな学生を、これで物理学に引き寄せることはできないだろう。物理嫌いが物理を嫌いなのは、数式が嫌いだからでも用語が難解だからでもないのである。その概念世界が、今自分が暮らしている世界と別世界だから嘘臭くて嫌なのだ。宇宙にしても素粒子にしても、そんなものは自分には見えない。真空にしても、理想気体にしても、自分の周りにはそんなものは実在しない。その現実離れ、人間離れのノーテンキさが嫌なのだ。そんな無機質な概念の世界に遊んでいる無神経さが嫌いなのだ。かくいう私自身はその「現実無視」こそが数学や物理のすがすがしい魅力で、大好きなのだけれど、一方でそれが大嫌いな人の気持ちも、よくわかる。その無邪気なオタクさに病的な虚弱さを嗅ぎつける健康な常識人の心理も、よくわかる。「花子さんは時速5kmで歩いて図書館に向かいました、太郎君が10分後に時速15kmの自転車で図書館に向かいました。太郎君はいつ花子さんを追い抜くでしょう」。何いってんですか。太郎君が花子さんと知り合いなら、横を追い抜いたりしませんって。しばらく並んで話をしますって。太郎君が花子さんに好意をもっていたら、自転車に乗せますって。二人がいい仲なら、図書館なんかすぐやめにして、別のもっとイイトコロに行きますって。
 誠実でいい本である。だが、物理嫌いを物理好きに転向させることはできないだろう。しかし、今無邪気に物理学を学びつつある者に、それを作ってきたのが確かに人間であることを、思い出させることはできるだろう。空想世界に逃避する自閉症的物理学徒を、いっとき現実世界に引き戻すことはできるだろう。

●060815 入江曜子「溥儀(岩波新書)」。先日亡くなった義父は、折にふれ満州の楽しい思い出話をしてくれたが、今ひとつピンとこなかったのは、私たち戦後世代にとっての満州国が、中国共産党と日本の戦後左翼ジャーナリズムによって人為的に作られた類型でしかないためで、実像を知らないからである。清朝ラストエンペラー宣統帝=満州国ファーストエンペラー康徳帝についても、同様である。中国共産党の歴史観から再構築された類型でしか知らない。しかし、当然ながら実物はそんなものではない。清朝皇帝としても満州国皇帝としても国民党時代も共産党時代も文革時代も、とてもしたたかに、世界も自国も、妻も兄弟も、思想も文化も、誇りも意地もすべてかなぐり捨て、100%自分だけのために、全身を時代の空気をかぎ分ける鼻にして生き抜ききった、保身の天才としての生身があるのだ。もちろん入江の描く溥儀も一つの類型ではある。だが、中国共産党の公式発表よりは、あるいは溥儀自身によって創作された「自伝」(わが半生)をノスタルジックに映画化したベルナルド・ベルトルッチの類型よりは、遥かにリアリティがある。しっかし、畏れ多くも、すごーくやーな奴である。

●060731 磯田道史「武士の家計簿(新潮新書)」。そうなのです。中学校の歴史の時間、誰もが疑問に思ったはずです。江戸時代の武士って何して暮らしてたの、だって戦国時代はとっくに終わっていくさはもうないわけでしょ。刀なんて差してて、いったい使うことがあったの。明治維新って政権の交代でしょ。人間は変わらないよね。江戸時代人が全員死んで、明治人が新しく誕生したわけじゃないよね。どうやって新しい生活に変わったの。
 はい、この本を読めば分かります。武士も農民も商人も、明治元年をはさんで、江戸と東京の両時代を、こうやって生き抜いたんです。しかし、こんな詳細な家計簿をよくつけてたよね。猪山直之さんえらい、猪山成之さんありがとう。積年のモヤモヤがはれて、歴史観が変わること、なるほどねえ、そうだよねえと合点が行くこと、請け合います。

●060630 遠藤秀紀「人体・失敗の進化史(光文社新書)」。天地創造を信じる西洋のキリスト教原理主義者とは違い、日本にはダーウィン進化論を疑う人はいない、といわれる。だが、進化論を正しく理解している日本人も、あまりいないのではないか。地球上の動物は、人類を目指して進化レースを繰り広げてきた、人類はゴールだ、みたいに思っている人が多いのではなかろうか。サルは2着で、あと百万年位するとヒトになると思っている人が多いのではなかろうか。この本を読むと、目からウロコが落ちる。そして、ヒトが、角がバカでかくなって動けなくなったオオヘラジカや、牙がバカでかくなって滅びたマンモスと同様、脳がバカでかくなる進化の袋小路に入ってしまい、やがて滅び去る運命のデキソコナイ動物の一種であることが、解剖学の豊富な実例と説得力ある論理で示される。本当だろうか、と心配になるだろう。いや大丈夫、本当である。進化論をちゃんと学ぶと、誰しもが「人間はこの先長くないな」と思うのだが、誰も怖くていわなかっただけなのだ。しかし、その道では常識なのである。
 ついでに、前作の「パンダの死体はよみがえる」の中で、やや控え目に主張されていた、「日本の理科教育と基礎科学は、縮小再生産のループに入ってしまった。もはや早晩絶滅する」という主張も、より明確に主張される。本当だろうか、と心配になるだろう。いや大丈夫、本当である。1980年代以降、教育者が「ゆとり」という名の不作為に逃げ、研究者がお役立ち第一主義の為政者に媚び、ファッションサイエンス競争にうつつを抜かしたツケが回ってきたのだ。これも、その方面では常識である。

●060529 NHKの朝の連ドラは、これが終わると家を出るための時報代わりに、面白かろうがそうでなかろうが、毎作見ている。今回の「純情きらり」、ギャグとペーソスのファミリードラマである。寺島しのぶがヒロインの宮崎あおいを食ってる。寺島ファンとしては大満足。
 さて、タイトルバックの中に、原作津島佑子「火の山」よりとあって驚いた。津島といえば、暗い女の出口のない苦しみや狂気を書く作家で、およそこんなコメディを書くはずはなかろう、と気になり、講談社文庫版を求めて読む(1200頁以上の大作である)。やはりそうだった。これのどこが連ドラの原作なの、と思うくらい違う。同じなのは登場人物の名前くらい。津島の原作は、甲府の中流家庭有森家5代にわたる長大な年代記で、連ドラでは主人公桜子(宮崎の役)は、そのうちの一人にすぎない。音楽好きだった、大戦直前に達彦という男と結婚し、出征した夫を待ち、子を産み、まもなく死んだ、という程度の記載の女性である。原作の主人公は、物では富士山、人では桜子の姉笛子(寺島の役)である。浅野妙子が、この本から着想をえて連ドラの脚本を書いたのなら、これはもう完全に浅野の創作である。いや、ケナしているのではなく、これだけ違うなら津島の名を出す必要はなかろう。浅野作でいいではないか。
 津島の原作は原作で面白い。いや、面白いというのは違うな。日本の近・現代史をずっしりと感じられる。これは津島の母方のルーツ小説なのである。物語中笛子の夫である杉冬吾という青森出身の破滅型の洋画家が現実の太宰治に相当し、その次女由紀子が現実の津島自身に当たる。ただ、百年間の話だから当然といえば当然ながら、次から次へ人が死ぬ。ちょっとどうにかならないか。べつに、登場人物一人ひとり、こう死んだ、ああ死んだ、とキッチリひとりずつダメ押しして書き切らなくても、話題から消えていけばそれでいいだろうに。

●060520 ロバート・ハリス「ポンペイの四日間」。生協書籍部で「ダヴィ」の隣りに並べてあったので、ついでに買ったのだが、これは掘り出し物。小説として本格的に面白かった。西暦79年8月。ポンペイ市に赴任したローマの水道局の小役人アッティリウスが、謎の失踪を遂げた前任者エクソムニウスとポンペイ市の腹黒い資産家アンプリアトゥスとの汚職を暴いていく。同時に地下で刻々進行するヴェスヴィウス山の地殻変動。アッティリウスは、人と火山のどちらにも「何か変だぞ」と徐々に気づいていく。そしてすべてが判明したとき、ドッカーン。恋あり、冒険あり、前に張った伏線が後でつながっていく。手に汗握る面白さ、小説の醍醐味満喫請け合い。読者は皆ヴェスヴィウス山の大噴火/ポンペイ全滅という史実を知っているから、「オイ、速く逃げろ、わー、バカバカ、そっち行くなー」とアッティリウスを声援する。トム・ハンクスとオドレイ・トトゥで映画化するなら「ダヴィ」より、これをやってくれ。

●060513 ダン・ブラウン「ダ・ヴィンチ・コード」。映画が封切られる前に読まなきゃとプレッシャーをかけて、封切り直前、文庫本上・中・下3巻を読み切る。
 おいおい、「二千年の秘密が暴かれる」などと大仰にいうけど、どこが秘密なんだよー。イエスがマグダラのマリアと結婚して子を残した、なんていう話は、史実かどうか知らんが、お話としてなら昔からよく聴く話じゃないかよー。確かに正統派キリスト教では認めていないけど、グノーシス派の外典福音書には出てくるし、イスラム教では、イエスは偉い人には違いないが神ではなく預言者の一人で、妻はマリア、と素直に認識してる。70年代に大ヒットしたロックオペラ「ジーザス・クライスト・スーパースター」は、イエスとマリアのラブストーリーだったよ。
 ネタバレさせる気はないけど、最後も拍子抜け。なんだよ、それー。最初っからわかってたんじゃないかー。謎解きっていうけど、何は何の象徴だとか、ラテン語では何というとか、文字を並び替えると何になるとか、三流週刊誌の占いコーナーみたいなヘリクツの百連発で、いちいちフォローするのもバカバカしい(そういう箇所はストーリーと関係ないから、読み飛ばすべし)。
 では、この小説はつまらないかというと、結構面白い。しかし、この小説の面白さは、筋立てや謎解きの面白さにあるのではなく、RPGの1面クリアー、第2ステージクリアー、と難所を越えていく面白さなのだ。だから、さっき越えた難関は、もう次には後を引かない。キレイサッパリ忘れて次に取り組めばいい。瞬間瞬間の活劇を楽しめばいい。だから、最後に謎が解けて「なるほどー」と充実の読後感をおぼえる、なんてことを最初っから期待してはいけない。ステージを全面クリアーすること自体が目的で、それがかなえば「あー面白かった。え? ストーリー? 何だっけ? 何でもイイじゃん」というわけなのだ。小説の面白さとはだいぶ異質である。映画にはかえっていいかもしれない。

●060401 藤原正彦「国家の品格」。いちいちもっともである。国家主義の本、右翼の本、という評価もされるが、読んでみるとそんなことはない。ごくごく真っ当なことをいっているだけだ。コドモに理屈はいらん。まず身体でいいことと悪いことを覚えさせろ。体罰あり。基準は単純。下品はダメ、アンフェアはダメ。そうです、その通りです。小学生に英語なんか不要だ。国際化を目指すなら、まず日本語をしっかりさせろ。しっかりした日本語で、しっかり考えしっかり表現しろ。会話だけ上手な頭カラッポの「国際人」育てたって意味ない。そうです、全くその通りです。
 しかし、コワイのは、こんな当たり前のことを口に出していわなくちゃならなくなったってことです。これがベストセラーになるってことです。数学の先生に「理屈はいらん、論理偏重は文化的堕落だ」とまで喝破されると、えー?って気もしますが、そうなんですねぇ。藤原先生、教えて下さい。日本はもう立ち直れないんでしょうか。「民主」教育・「個性尊重」教育・「ゆとり」教育の三連発で、日本人はもうダメになってしまったんでしょうか。

 

2006年4月以前の記事は、だいぶ古くなったので消去しました。必要の節は直接お問い合わせ下さい。090401  oguraa<at>fbs.osaka-u.ac.jp