「おおえやま」 石原和三郎作詞 田村虎蔵作曲
一 むかし、たんばの、おおえやま
おにどもおおく、こもりいて、
みやこにでては、人をくい、
かねやたからを、ぬすみゆく。
(わかき、ひめをば、ぬすみゆく)
二 げんじのたいしょう、らいこうは、
ときのみかどの、みことのり、
おうけもうして、おにたいじ、
いきおいよくも、でかけたり。
三 けらいは、なだかき、四天王、
やまぶしすがたに、みをやつし、
けわしき山や、ふかき谷、
みちなきみちを、きりひらき。
四 おおえの山に、きてみれば、
しゅてんどうじが、かしらにて、
あおおに、あかおに、あつまって、
(のがるるひめをば、ひっとらえ)
まえようたえよの、大さわぎ。
五 かねてよういの、どくのさけ、
すすめておにを、よいつぶし、
おいのなかより、とりいだす、
よろいかぶとに、みをかため。
六 おどろきまどう、おにどもを、
ひとり、のこさず、きりころし、
しゅてんどうじの、くびをとり、
めでたくみやこに、かえりけり。
明治34年7月発行「幼年唱歌」より。
※カッコ内の歌詞は明治34年の初出時のもの。
現在の歌詞には「検定唱歌集」大正15年刊で変更されました。
作詞、作曲とも「きんたろう」と同じコンビです。
この歌は源頼光が四人の部下とともに大江山に棲む鬼、酒呑童子を退治する話を児童唱歌にしたものです。
酒呑童子が京を恐怖のどん底に陥れた時代は平安中期、藤原兼家の五男、道長が、
「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思えば」
と、歌に詠んだ藤原家全盛の時期の事です。
当時の京は、藤原家の栄華の裏で、魑魅魍魎が跋扈し闇に凶賊が走る時代でした。 安倍晴明が陰陽道を駆使し、また源頼光をはじめ武士が武力を持って京の治安を守っていました。
そのころ大和朝廷の形成過程で山に追われた神々の末裔は、あるものは山岳信仰を形成し、独自の規律、独自のつながりをもって自分たちの生活を形成していました。
一方、山には山の人間ばかりがいたわけではなく、町を追われたものが逃げ込む所でもありました。 何かの都合で町にすめなくなったり、追われたり、すてられたり、また犯罪をおかして逃げ込む場所も山だったのです。
酒呑童子は捨て童子、ある理由のために捨てられた子供だとされています。
近江の国に大野木殿とという有徳な人がいました。 彼には十六歳になる美しい一人娘があり、この姫君のもとに、夜毎かよってくる男のあったのですが、誰も気がつかずにいました。
そのうち姫は身ごもってしまい、驚いた乳母が問いただすと、姫君は、どこの誰とは知りませんが「そのありさまけだかき人」が毎晩通ってくる、と答えました。
乳母から事情を聞いた母親は、その男がおそらく変化のものと察し、正体をつきとめるために、娘の姫に針のついた苧環(おだまき)を渡し、男のすそに縫い付けさせました。
朝になって帰っていった男の後を、糸を頼りにたどると、垣の穴から外へ、そして伊吹山のほとり、弥三郎の家へと続いていました。
この弥三郎は野山のけだものを狩って食べ物としていました。 けものが捕れない時は、家畜として飼われている、薪を背負った馬や、田を耕していた牛まで奪い取り、打ち殺して食べてしましました。 そのさまは、まさに鬼神、人も喰うとして、あたりのものは皆逃げ出し、伊吹の里には人がすまなくなっていました。
常人ではないと世間に聞こえた弥三郎が相手と知り、姫君の父大野木殿は、おろそかに扱う事が出来ず、その晩は姫君のもとへ山海の珍味を贈り、夜通し弥三郎の好物の酒でもてなした。
弥三郎は姫に宿った子が尋常ならざる能力を備え、国の主ともなりうる男子であると予言します。 しかし、弥三郎は大野木殿が勧めた酒を過ごしたため、死んでしまいます。
三十三ヶ月程を経て、姫には異様な男の子が生まれました。 生まれてきた男の子は黒々とした髪の毛が肩のまわりまで垂れ、歯は上下とも生えそろい、抱きかかえあげた乳母の手の中で、カッと目を見開くと、「父はいずくにましますぞ。」と、人語を発して皆を驚かせました。
この赤ん坊は伊吹童子と名づけられますが、世間には大野木殿の姫君が恐ろしい鬼子を生んだという噂が広まりました。
姫の兄、大野木の太郎は、父に対し進言します。 世の中の人々は、伊吹童子を鬼神の変化と言って恐れています。 人々の言うように童子は世の子供とは違います。 このまま成長して、おとなしくならず、世の中のためにならない事も起るのではありませんか、その時後悔しても、どうにもなりません。
父の大野木殿は、童子が父の伊吹の弥三郎の凶悪無比な血を受け継いでいる事を考えると、恐ろしくてなりません。ついに意を決して、伊吹山中の谷底に童子を捨ててしまいました。
童子は始めの頃は泣き叫んでいましたが、しばらくするとケロッとしてあたりを駆け回って遊ぶようになりました。 山中の狼や猪、鹿は童子を守り、花や食物を運び、童子は捨てられて死ぬどころか、ますます元気に成長していきます。
山の神の庇護を受け、けものに育てられ、丈夫にそだった伊吹童子は、不老不死の薬と言われる伊吹山の「さしも草」の露をなめ、そのしたたりの水を飲み、たちまち仙術を得て神通力を自在に使う身となりました。
そして、それから長い年月がたったのか、大野木殿の事も弥三郎とのいきさつも、遠い昔語りとなり、詳しい事を知るものは誰もいなくなっていました。
しかし、それほどの年月がたっても 伊吹童子は、十四、五歳くらいにしか見えませんでした。 その力は山を動かし、空を稲妻のように翔け、多くの鬼神を従えてしたい放題の乱暴を働いていました。
その乱暴狼藉はついに伊吹大明神の怒りに触れ、伊吹童子は山から追放されました。
伊吹童子は比叡の東の峰に翔び、大比叡の山に移りましたが、伝教大姉の法力と山王権現の神力には勝てず、比叡山から逃げ出し、さらに西の山に向かって飛び去りました。
西に翔んだ伊吹童子は、丹波の国に大江山という高く険しい山に降り、そこに岩屋をたててすみかとします。
大江山は、人の通いが難しい要害で、伊吹童子は岩を積んで築地とし、岩をうがって窟をつくり、また門という門に異形異類の鬼神を置いて警護しました。
そして、虚空をかける眷属を都に送り、人の宝を奪い、みめよく若い女房、娘をかどわかして、岩屋のうちに連れ込み、すぐれた女を召使いにし、劣ったものは打ち殺して喰らいました。
岩屋にはいつしか金銀財宝がうずたかくつまれていました。この岩屋は鬼ケ城と呼ばれるようになり、恐れて近づく者さえいませんでした。 それは人間だけではなく、鳥やけものでさえも、近づこうとしませんでした。
以上が、伊吹童子のお話で、酒呑童子の出生から大江山に住みつくまでの事を、伊吹童子として書かれています。 誕生の部分は三輪山縁起のの蛇婿入苧環型の形式を取っています。
伊吹山の伊吹大明神は本地が八岐大蛇とされていて、伊吹の弥三郎は、八岐大蛇の申し子、末裔と考えられています。 弥三郎が酒好きで、大野木殿が弥三郎に酒を飲ませたのも、大蛇退治を踏んでいる事になります。 また、狼は山の神を暗示する生き物で、しばしば山中に捨てられた子供を守り育てます。
ただ、酒呑童子の出生譚である伊吹童子の物語の成立は、酒呑童子より数百年後、でした。
まず酒呑童子の物語があって、後になって出生譚が成立しました。 史実として藤原頼光に退治されたと考えられる酒呑童子は1000年前後、弥三郎の物語が現れるのは1407年に成立した「三国伝記」です。ここでの弥三郎は、異類のものとして住民を恐怖に落とし入れ、退治された後、明神として祭られた、とされています。
これより先1201年、史実上伊吹の弥三郎という凶賊が討伐されています。
1185年壇ノ浦の戦いで平家を破った源氏は武家政治を開始します。 柏原弥三郎は平家との戦いで軍功をあげ、近江の国、柏原庄の地頭に任じられました。
地頭は兵糧米を一反につき五升の割で徴収する代わりに、反乱などを鎮圧する役目を持ち、警察権、徴税権、土地管理権をもっていましたが、弥三郎は農民支配に乗りだし、寺社領をも横領しはじめました。
そこで近江の国の守護、つまり弥三郎の上司にあたる、佐々木定綱に柏原弥三郎討伐の命が下されました。 しかし、定綱は弥三郎を取り逃し、弥三郎は伊吹山中に逃亡し、一年半にわたり、近隣の集落を襲う凶賊と化したのです。
弥三郎は定綱の四男、佐々木信綱によって討たれるのですが、弥三郎の恐怖は数世紀にわたり続きます。
廿一日。 大風近国ノ山木半吹倒ス。 弥三郎風ト云。
元和七年1(621年)十一月二十一日、近江の国一帯に大風が吹いて、山間部に被害が出ました。 今で言う台風被害ですね。 この台風だけでなく、不思議な事や理解できない事、何か凶事があると、弥三郎の仕業として恐れ理解したようです。
そして弥三郎の子、伊吹童子は酒呑童子とむすびつき、酒呑童子の誕生譚となって語られるようになっていったと考えられています。
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