新人声優としてようやく一歩を踏み出したちぢぃーの、今日に至るまでの紆余曲折の道程をご紹介します!
役者としての鍛錬を重ねる中で、これまでに出会った素晴らしい仲間達や先輩、後輩との思い出、
収録現場での経験などを通じて自身が感じた様々な思いなどを書き綴っていきたいと思います。

※本コーナーは千々和竜策が個人的に作成・公開しているもので、マウスプロモーションの公式な営業活動とは一切関係ありません。
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●ナッシュとの出会い

1998年のこと。毎週日曜の午後は東京アナウンスアカデミーでのレッスンと決まっていた。ある日曜日、いそいそとレッスンに行く用意をして出かけようとする自分の耳に、つけっぱなしのテレビから威勢のいい声が飛び込んできた。『…ナッシュだ!
そこには、目の覚めるような赤いジャケットをカッコ良く着こなし、あざやかな黄色のコンバーチブルを駆って颯爽と活躍する刑事の姿が映し出されていた。「…あれ、この役者さんって、誰だったっけ?…何てお洒落でカッコいい刑事なんだろう…」その敏捷な動きと、独特な台詞回し。かつてのアラン・ドロンにも似た甘いマスクの男は、これまでになく新鮮でスタイリッシュなヒーローとしてちぢぃーに衝撃を与えたのだった。その一番の理由は、何よりもその刑事の声をアテた日本語吹き替えの声だった。「これは……那智さんだ!!!」
これが、米CBSテレビの人気刑事ドラマシリーズ「刑事ナッシュ・ブリッジス」との出会いだった。主人公であるサンフランシスコ警察のナッシュを演じるのはドン・ジョンソン。かつて同じ刑事ドラマシリーズの「マイアミ・バイス」のソニィ・クロケット役で全米のセックス・シンボルとして絶大な人気を誇っていた役者さんである。そしてその声を吹き替えていたのが、この業界でも大ベテランの野沢那智さんだった。
野沢さんと言えば、かつて「0011ナポレオン・ソロ」でデイビッド・マッカラム演じるイリヤ・クリヤキンの役で爆発的な人気を得て一世を風靡し、アラン・ドロンやジュリアーノ・ジェンマなどのフィックス(持ち役)としても名を馳せた方だ。それまでは「アテ師」と呼ばれ陽の当たらない裏方の職業といったような認識しか一般に持たれていなかった日本語吹き替えの世界で、最初にアイドル的な人気をもって世間から注目を集めた、初めての人なのである。世代的にそれらの活躍をリアルタイムで体験していないちぢぃーだが、野沢さんの演技者としての、また優れた指導者としての名声は業界において広く轟いており、充分すぎるほど知識として身に付いていた。当時は野沢さんが主役を務めたアニメシリーズでも比較的新しい「いじわるばあさん」を見て、「何て伸び伸びとした演技なんだろう…!」と驚いたものであった。「ゴッドファーザー」のアル・パチーノしかり、「ダイ・ハード」のブルース・ウィリスしかり、野沢さんの演技は静と動、人間の深い感情の陰影を見事なまでに表現し、その役の生命、魂の躍動感が肌に伝わってくるかのように、ぐいぐいと見るものを圧倒する。その魅力は「刑事ナッシュ・ブリッジス」の吹き替えにおいても遺憾なく発揮されており、ちぢぃーはあっという間にこの「ナッシュ…」に夢中になったのである。ナッシュに対する憧れは、すなわちその声を吹き替える野沢那智さんへの強い憧れであった。

ナッシュとの衝撃的な出会いは一途な思いとなってまたたく間に燃え上がり、ちぢぃーは1998年夏、日本でどこよりも早く自分のサイト内に「ナッシュ・ブリッジス・ファンページ」を開設した。数少ない情報をあれこれと集めるうち、海外のオークションサイトで「ナッシュ・グッズ」がわずかに出回っているのを見つけ、夢中になって競り落とした。その戦績はコレクションページに公開している通りだが、中でも一番のお気に入りは熾烈な競り合いの末に手に入れた本物のスタッフ・ジャンパー。背中に大きく「NASH BRIDGES CREW」と金色の刺繍が誇らしげに入った、撮影スタッフや出演キャストメンバーのみに配られた非常に稀少なアイテムだ。このジャンパーをいつも得意げに着て、ちぢぃーはレッスンに通っていた。一見あまり目立たないように見えて、非常にミーハーな愛情表現だ。
ナッシュは番組中、ジョー・ドミンゲス(チーチ・マリン)というラテン系の陽気な刑事とコンビ組んで活躍する。そのジョーの声をアテるのが、これも大ベテランの青野武さん。この二人の豪華な顔ぶれによる掛け合いが絶妙で、番組の魅力をさらに深く、味わいのあるものにしている。それぞれに活動も長く華々しいキャリアを持っている方々を贅沢にキャスティングしているこんな現場に、自分も出てみたい!いつしかそんな思いを抱くようになり、それがまた自分が役者を目指す上でまず狙いを定めた、当面の目標となったのだった。
アカデミー在学中に出会った先生方や、のちに入る事務所の先輩のなかに「ナッシュ」への出演経験者がいるとみるや、あれやこれやと番組のことを質問したものだ。特に、ナッシュと同じSIU(特捜課)のメンバーとしてともに活躍するエバン・コルテス(ジェイミー・ゴメス)の声を担当した佐久田修さんとは一時期同じ事務所であったことから、舞台共演などを通じて「ナッシュ」に関する様々な裏話を興味深く聞かせていただいた。そんなことを繰り返すたびに「ナッシュ」に対する憧れは増す一方なのに、自分が出演者として参加できる機会は一向にめぐって来ない。それどころか、その可能性さえもゼロに等しかった。いつしか、「それならいつか野沢さんと共演してやるんだ!」という思いをひそかに抱くようになった。自分には、まだ早すぎるんだ。いつかきっと、収録現場でナッシュ=野沢さんに会うんだ!
その夢がいつ叶うのかはわからない。その思いを胸に秘めて、ぼくは今日も歩き続けているのだ。

夜中に誰かがやってきて「SFPDのナッシュだ。」というセリフをナッシュそっくりに言われたとしたら、はいはいとすぐにドアを開けてしまうのに…残念ながら、それを実行してくれる人はまだいない。どうしてなんだろう?
…などという妄想を抱いたことは、全くない。

●自分が「声優」を目指したわけ

専門学校2年生の時に演劇学校に入学後、様々な経験を経て現在はマウスプロモーション付属俳優養成所に身を置いて声優を目指している自分だが、もともと俳優や声優という職業に強い憧れがあったわけではない。現在でもよく「この道を目指したキッカケは何だったの?」と聞かれたりすると、はて何だったのか…と自ら考えてしまうほど、はっきりとした答えを述べることは難しい。しかしながら幼い頃から腕白で目立ちたがりであった自分は、華やかな芸能界への漠然とした憧れはどこかに抱いていたのかもしれない。家族旅行で乗った新幹線の車中では大きな声で下品な替え歌を歌ったり、親戚一同が会する場ではお手製のサングラスにホウキを持ってモノマネを披露したり(当時はダウンタウン・ブギウギ・バンドが流行っていた)、小学校の「おたのしみ会」では決まって当時流行していたジュリーこと沢田研二の歌マネを披露したり、とにかくにぎやかな子供だという評判はこの頃からすでに周囲へ広まっていた。
小学生の頃、いつだったか突然思いついたように「劇団東俳」のオーディションに応募しようとするも、兄弟に冷やかされて断念したことがある。今となっては何故にその対象が東俳であったのか、何を根拠に応募を思い立ったのか記憶は定かではないが、子供なりの打算があって、すっかりその気になって履歴書ほか一揃いを用意したのであろう。後年、その自意識過剰ぶりを縦横無尽に発揮する性格は、すでにこの頃から根づいていたのだ。漫才師にあこがれて友人とコンビを組んだり、漫画家になりたくて落書きまがいのつたない作品を描いて人に見せたり…。小学校の卒業アルバムには「テレビに出たい」と書くほど、とにかく華やかな表舞台に立ちたい、人よりも目立ちたいという煩悩にとらわれていたのであった。

しかしその後は、これといって学生演劇などに対しては興味を持つことはなかった。小・中学生の頃から文化祭や学芸会の類で舞台劇やビデオ映画などを制作する機会があれば必ず率先してスタッフに加わっていたものの、ほとんどが決まって脚本家や監督という役目だった。つまり、総合芸術としての一つのドラマを作り上げることには熱中しても、その中で「演ずる」という作業だけに固執することはなかったのだ。
それは当時、自分が身を置いている一介の小学校や中学校の演劇部の稚拙な演技を見るにつけ、またことさらその当人たちが真剣に演劇人を気取っていればいるほど気恥ずかしい印象を思い抱くのと同時に、自分は演劇というものの虚構性を早くから感じ取っていたのかもしれない。極端に言えば、心酔していた欧米の映画に見る演技とは質も内容も違う(それが当然のことであるのだが)日本の演劇の絶望的ともいえる可能性の狭さに、幼くして気付いていたのかもしれない(その考えは現在も概ね変化していない。学芸会まがいの演技がTVから垂れ流され、それが問題視される様子も無いこの国の文化に、どれだけの可能性があるといえようか?)。
…しかし、それはまた逆に言えば、自身が演劇というものの面白さに目覚めるような体験をしていないということでもあった。目先の事物にとらわれるあまり、本物に出会い、感動する機会を逃していたということだ。それは何より、TVばかり見ているだけで生の舞台に触れていないという事実からしても、結論を急ぎすぎた幼稚な理屈であった。とはいえ、華やかな芸能界に憧れる自分が、自ら「役者」という道を真っ当に選ばなかった理由はここにあるのだろう。

中学時代、YMOに傾倒して当時一世を風靡した伊武雅刀・小林克也両氏による「スネークマンショー」を聴き、斬新な手法とタブーを無視したブラックユーモアに強い影響を受ける。もともと兄の影響でディスクジョッキーまがいのトークをカセットテープに録音してクラスメートに貸し出すといった趣味のあった自分は、それが高じるにつれて語りだけでは飽き足らずラジオドラマ風の寸劇を演じたりするようにもなっていった。その後ドラムを始めてバンド活動に熱中するようになっていくが、フィールドは違うこそすれ、ライブのステージに立つことは自らを表現するためのパフォーマンス手段である事に何ら変わりはなかった。
名画座通いをするほど映画に夢中になり、バンド活動とディスクジョッキーのカセット製作と趣味は多彩に広がった。音に対して人一倍敏感であったこともあり、TVで放映される洋画の吹替えにも抵抗なく慣れ親しみ、日頃から器用な声優の演技・表現力には自然と興味を引かれてその名前をチェックするようになった。「MrBOO!」シリーズでの広川太一郎氏のハチャメチャぶりに熱狂したり、「スター・ウォーズ」がTVで初放映された際の吹替えキャスト(ルークが渡辺徹、レイアが大場久美子、ハン・ソロが松崎しげる!)のミスキャストぶりが大きな話題となった時は、抗議が殺到する雑誌の投書欄を夢中で読みふけり、なるほどそうだよなぁなどと感心したりしていた。そんなことが続くうち、「声優」というプロフェッショナルの、その職人然とした仕事ぶりが常に気にかかるようになり、その職業に対して特別の感情を抱くようになっていった。声優というものに実際に向き合ったのは中学時代に放送劇クラブに所属してアニメの「みゆき」やディズニー映画の「ダンボ」といった映像の吹き替えを経験したことぐらいで、それ以外では浪人時代に古本屋で買ったアニメ雑誌に連載されていた「勝田久の声優入門コーナー」を何となくスクラップしていたぐらいである(まだ声優に関する本やムックが少なかった頃で、そういった情報はとても貴重なものだという印象を持っていたからだったのだ)。しかし、それが決して「声優になりたい」という思いを抱き実行に移すまでにふくらむことはなかった。自分が進む道は音楽以外にないと信じていたし、というよりは、「こんなすごい世界には、到底自分が入ってゆけるものではない」と感じていたというのが本音であった。しかしながら、声優という職業に漠然とした憧れを抱いていたことは確かであった。

高校卒業後、ドラマーとして大成することを夢見て音楽学校に入学したが、結果は惨澹たるものであった。実力は他のクラスメートに遠く及ばず授業には置いていかれるばかりで、担任からは足手まといのレッテルまで貼られてしまった。そんな現実を前にして、死にもの狂いで食い下がるような根性もなかった自分はすんなりと音楽の道を諦めてしまい、あくまでも趣味として自由なスタンスで音楽を楽しもうと割り切ることにしたのであった。その後入学した専門学校では軽音楽部という活動の場を得て、バンド仲間との練習、遊びの毎日に明け暮れたのであった。
しかしそれは後に大きな不安を生み出すことになった。何も考えないままに2年間の専門学校生活を過ごし、周囲が就職活動に奔走し始めた頃、すでに音楽という目標を失っている自分は将来設計など展望できるはずもなく、すっかり途方に暮れてしまったのだ。バンド活動を始めてすでに8年、これまでドラム一筋に生活を送ってきた。その結果、ようやく自分が思うような表現が出来るまでの自信はついた。しかし、それは将来的に仕事に結びつくものではない。自分からドラムを取ってしまったら、何が残るのだろう、自分は、他に何の才能を持ちあわせているのだろうか…。青い鳥を追いつづけ真っ当に就職することなど考えていなかった自分はここで大きな壁にぶつかってしまった。

そこでもう一度、自分は自身の可能性を探った。自分は何が出来るのか。ドラムと同様にどんな才能を開花させ、実力を発揮することができるのか。そして、それを職業として勝負していけるのか…。
もともと目立ちたがりな自分である。専門学校では音響芸術を専攻していたこともあり、頻繁に授業で行われるスタジオ録音実習では原稿を読んだりする必要があれば自ら進んでマイクの前に立つこともしばしばであり、声を使った職業=声優に自らの可能性を意識し始めていた頃だった。
思い当たるのはそれだけと判ったが早いか、早速当時東京・渋谷にあった東京演劇学院へ出向き、入学手続きを取っていた。この学校を選んだのは、たまたま「ぴあ」で広告を見つけたということと、著名な養成学校と比べて地味な印象があり、手探り状態の自分が初歩の初歩から演技を勉強するには好都合だと考えたというだけの理由からであった。
こうして、自分は期せずして声優を目指すべく演劇の世界に飛びこむこととなり、ここにその第一歩を踏み出したのである。
ちぢぃー、専門学校2年生の秋であった…。

●果てしなき挑戦への道程がスタート!

声優スクールでの面接はごく簡単な質問だけで済み、にわかに漢字練習帳などを買い込み実技試験に臨むべく身構えていた自分は多少面食らった印象はあったものの、1991年10月、正式に東京演劇学院声優科(第2期生)への入学が決まった。かくして週1回のレッスンを受けるためにちぢぃーの渋谷のアトリエへの通学が始まり、毎週火曜日は八王子にある専門学校の授業が終わると同時にスクールバスにあわただしく駆け込むというのが習慣となった(ほどなくしてレッスンは週2回になる)。演劇学院での面接を担当したのは実際にレッスンにあたるベテラン声優の方であったが、質疑応答で自らの意気込みを伝えた自分は「半年間レッスンを受けて適性がないと判断されたらこの道をすぐに諦めます。可能性があるのであれば続けたいと思いますので、半年後にそれを教えてください。」と話したことを記憶している。今にして思えば打算的で生意気な発言をしたものだと思うが、当人にとっては真剣であった。若さというものは向こう見ずなことをするものだ。演劇を始めたキッカケというものは、自分に限らず案外こういった他愛もないことであるという人は多いはずだ。
レッスンの初日はクラスメートが30人近くもいたであろうか、明るく賑やかな雰囲気でスタートした。初心者を対象としたカリキュラムではまず身体のエクササイズ、発声の基礎、腹式呼吸、簡単なエチュードなどを行うことが中心となり、まともに台詞を読むような機会はほとんど与えられなかった(もっとも、あえてそれに挑戦したところで誰一人としてロクな演技ができるはずもない)。以後3〜4人の講師陣が入れ替わるという変則的な形で授業が行われ、演技に対するアプローチにも様々な方法論があるのだと身をもって知ることとなった。レッスンを始めて3週間もしたところで、アニメがただ好きだといった類のことを自己紹介で話していた者は早くも脱落をしはじめ、その後も生徒は減少の一途を辿っていくことになる。マイクを前にしての華やかなアフレコレッスンを期待していた者は地味な基礎練習に嫌気がさして、すぐにでもプロへの道が拓けると思い込んでいた者は気の遠くなるような下積みを重ねることに抵抗を感じて、先生に指名されても何一つ言葉を発することができない者は自分の適性に合致しない世界であると諦めて…。時代が変わっても、現実を目の当たりにしてそれぞれの事情で教室を去っていく者は絶えない。これはどの養成機関においても今なお日常茶飯事の風景だ。しかし勉強を続ける者にとってはただライバルが減るだけのこと、「負け組」の人間に対して同情もなければ引き留めをすることもない。歯を喰いしばって本気で生き残ろうとするならば、脇目もふらず自分の道を突き進むしかないのだ。そして自分が同じ運命をたどらないよう気を引き締めるだけだ。努力の末に事務所に所属する目前までに至っても、辞めてしまえばそれまでのこと。自分はそうした人間に対しては後々連絡を取り合うことも一切しない。当人にとっては身を切るような思いで決断したことだ、すべてを覚悟してのことだと思えばこそ、立場の違う人間がとやかくその後の生活に立ち入る必要はないはずだ。自分のスタンスは一見冷徹なように見られるかもしれないが、これはいわば相手に対する精一杯の気遣いでもあるのだ。
半年があっという間に過ぎ、クラスメートは5人程度にまで減ってしまった。基礎科から本科への進級を果たすと同時に第1期生と合流し(それでも10名程度)、この世界で自らの可能性を試していくことに方向を見定めたちぢぃーはアルバイトをしながらレッスンを続けた。特別講義としてキートン山田氏、野沢雅子氏の話を聞いたり、劇場用映画のアフレコにガヤ(群集の台詞)で参加したことにも大いに刺激を受け、アトリエでの本科卒業公演に出演後も準専科、専科と順調にコマを進めて演技を磨いた。わけても北浜晴子氏と音響監督の山田太平氏には特に目をかけていただき、最終的に自分がただ一人の男子生徒になってしまったことも手伝って、先生方の期待を一身に受けていることをひしひしと感じていた。「君ならきっと現場で通用するよ」と持ち上げられて自分も何とかそれに応えたいと思うものの、すぐに結果など出せるはずもなくただ身悶えするばかり。ましてや演技の勉強を始めて日も浅く、業界のシステムや仕組みといったものをまるで理解していなかったし、自分の身の振り方を的確に判断できうる知識は皆無に等しかった。2年半のカリキュラムを終えて卒業となったものの、その後の進路は全くの白紙状態。オーディションによってある番組制作会社にナレーターとして採用されたものの不安は大きく、ちぢぃーの本当の試練は、ようやくここに始まったのであった。

●迷走と絶望の時期を経て〜再び演技の道へ

声優教室を卒業してからの自分は、すっかり路頭に迷ってしまう格好になった。ナレーターとして番組制作会社に登録はしてもらえたものの、仕事の声は一向にかからない。だからといって積極的に自分を売り込もうと事務所に足しげく通うこともしなかったし、第一そんな考え自体思い浮かばなかった。声優教室での2年間、業界についての情報を何一つ集めることなく、自分が将来プロとして生き抜いていくためにどう動いていいかの知識も持ちえていなかったし、気軽に相談できる相手も皆無だった。出身学校については尻すぼみ的に卒業させられたことに対し憤りと反抗心を持っていたしで、八方塞がりになってしまった。年齢も若く当時の自分はまだ家族と同居しており、精神的にも金銭的にも何ら追い込まれていた所はなく、人生のすべてをこれに賭けようという気迫に欠けていたのだ。つまり、これからプロを目指そうという自覚があまりにも低かったのだ。声優になりたいという夢を追いかけている自分の姿が、どこか他人事のように感じることすらあった。そして何もしないまま1年が過ぎた。数年間勤めたアルバイト先をクビになり、それを機に自分の将来の展望をもう一度真剣に見つめ直した。そうだ、俺にはこれしかない、改めてもう一度頑張ってみよう、やはりこの道で成功したい…!そんな思いを新たにして、また勉強し直そう、そのための貯金をしようとの考えに思い至った。そしてかつての同窓生4人に手紙を書き、自身の近況と新たな挑戦の意思を伝えるべく連絡を取ってみた。するとあろうことか、4人は一部の講師の方々とともに劇団を旗揚げして活動を開始し、すでに二度の公演を行っているというのだ。つまり、自分一人を除くメンバー全員で舞台活動を行っていたのだ。自分はそれについて一切を知らされていなかったし、公演の知らせすらも受けていなかった。それよりも第一に、旗揚げにあたって自分が誘われていなかった…!
お手々をつないだ馴れ合いの仲良し同士とまではいかないにせよ、ずっと彼女たちとは仲間だと思って疑うところがなかった。それが先生方と劇団を作ったというのに、よりによって自分一人だけがその蚊帳の外に置かれ無視されていたことが信じられなかった。悔しくて悔しくて、何日も眠れなかった。やり場のない怒りもあったし、役者として人間として必要と思われなかった自分が情けなくもあったが、何よりも寂しかった。悲しかった。その年の夏、一人の先生が直々に公演のお誘いをしてくれてからは何度か劇場に足を運んだが、その先生から「ぜひ劇団に入ってほしい、あなたと連絡が取れないと聞いてずっと心配していた」と聞くに及んで、この顛末にはある人物による何らかの思惑が深い影を落としていたのだ…ということを初めて悟った。出る杭は打たれると言うが、他人に疎(うと)まれるというのは、当事者にとっては栄誉でも何でもない。この世界で生きていく中では、こんなくだらないことで人生の歯車を狂わされることが往々にして起こり得る。要は、それに負けてはいけなということだ。成功して見返せばいい。愚かな画策を講じたことを一生後悔させてやればいい。演技を磨くことよりも、他人を蹴落とすことばかりに執着しているのは、自分の芸に自信のない人間のすることだ。結局自分はこの劇団に参加せず、ほどなくして劇団そのものが解散してしまった。

そして数年経ってのち、自分はもう一度同じ経験を味わうことになる…。

●自分は「なる族」―執念でつかんだプロダクション入所

その翌年6月、NTV映像センターに映像編集オペレーターの見習いで就職した。麹町の日本テレビ社屋にある報道局での仕事である。ナレーターとして登録をした制作会社からは相変わらず仕事の声はかからず、前年の劇団にまつわるショックもまだ癒えぬ状態にあった。そんな矢先、アルバイト先を探しているうちに条件のいい職場が見つかり、躊躇なく社員として働くことを決めた。つまり、その時点で実質的に声優の道を諦めたのだ。…しかし、働き出して間もなく、例の制作会社から突然電話が入った。「そろそろ仕事を入れたい」との声がかかったのだ。登録して以来、2年半もの月日が流れており、音信不通の状態のまま自分の存在など忘れ去られているものだと思い込んでいた。人生とは、何が起こるかわからないものだ。全く予想もしていなかった状況に動転しながらも、昨年味わったあの屈辱が脳裡をよぎった。かつての仲間を見返すには、まだチャンスはある。

「声優になりたいんです。辞めさせて下さい。」

運命の歯車が、またゆっくり動き始めた。再び仕事をアルバイトに戻し、翌年にCMの仕事を4本、ナレーションの仕事を3本こなすことになる。またその翌年の4月に登録が解消されると、すぐさまその10月に東京アナウンスアカデミーに入学する。レッスンに通うと決めた時点で1年間の授業そのものはすでに心になく、卒業後に声優事務所に所属するために通うのだ、そのための辛抱の1年なのだ、という思い上がりにも似た気持ちを胸に恵比寿へ通い続けた。自分は「なりたい族」ではなく「なる族」なのだ。きっと声優になるんだ!という思い込みだけを支えに生きていたので、今にして思えば当時の自分は肩を怒らして物凄い形相をしていたのだろうと思う。クラスメートに誘われても喫茶店やカラオケには一切付き合うことはしなかったし、集団の中に入ることもしなかった(もともと群れること自体が嫌いだったし)。進級オーディションで合格した時も、卒業時のプレゼンテーションに合格し声優事務所から声がかかった時でさえも、ひとつひとつ課題をクリアしている段階にすぎないとの思いが強かった。まだ先は長い、目指しているのはもっと高い所なのだという認識が常にある。チャンスは、必ずものにしないといけない。

オーディションによって声優事務所にジュニアの預かり扱いとして入所して、週一回その事務所の社長から直接演技指導を受けることになった。題材は昭和初期の古典文学作品の戯曲やラジオドラマ脚本などが中心で、かなりレベルの高い授業内容だった。ひとつひとつの演技に対し具体的に細かい指導が入るわけではなく、役者自身が題材の内容を的確に把握し充分に咀嚼して、自らの「気付き」によって体得していく指導方法だった。社長氏はそのヒントを与える役目である。一つの題材をじっくりと時間をかけて完成させていくやり方は、自分に合っていると思った。若いうちはアフレコの口合わせばかりに気をとられ、「考えて、的確に表現する」という本来あるべき作業を忘れがちである。それを徹底的に叩き込まれることは、自分の技量を飛躍させるための大きな力となった。毎週の指導は厳しくおいそれと自分の演技が認めてもらえるような言葉はもらえない。教室を共にする諸先輩方のプレッシャーもあり、時には壁にぶつかり挫折感を味わうこともあった。しかしそれに負けることなく勉強を続け、入所2年後になって初めて仕事の声がかかった時は本当に嬉しかった。アフレコではなく顔出し(TV番組の映り)のオーディションであったが、いつ声がかかるのだろうかと待ちわびていた自分は一も二もなく飛びついた。オーディションは先輩二人とともに受けることになったが、当日は臆することなく(絶対に自分が受かってやる…!)という意気込みで臨んだ。その熱意が通じたのか、「多分俺が受かるから」と自信満々に話していた先輩の予想を見事なまでに覆し、教育番組の先生役を実力で掴んだ。この時ばかりはしてやったりという気持ちで、とにかく嬉しかった。この仕事をしたご縁から派生して、のちにナレーションの仕事をいただく幸運にも恵まれた。「チャンスは絶対に逃さない」という思いが実った結果であった。

こうして自分は、ようやくプロの声優としてのキャリアを一歩一歩、歩み始めたのである…。


●The Seed And The Sower(種子と種を蒔く人)

ここまで振り返ってみると、自分が大きな挫折もなくここまで順調に声優への道を歩んできたように思われるかも知れない。しかし、道程は険しく行く手には常に大きな壁が立ちはだかっている。ただ「声優になりたい」といった漠然とした思い、もはや夢や憧れといったものだけでは到底打ち勝つことの出来ない現実が目の前にある。日夜レッスンを続け役者としての技量を高めていかなければならないのはもちろんのことだが、それ以前にアルバイトなどによる収入を得て毎日の生活を維持していかなければならない。いつまでも家族や親戚から暖かい応援を受け続けることなど到底叶わず、その風当たりは年月を重ねるにつれ強くなってくる。努力の結果が必ずしも仕事に結びつかないことへのジレンマに陥る。周囲の仲間が先に仕事を得たことに対しての焦りと動揺に責めさいなまれる…。それら様々の現実と対峙してついには力尽きて歩みを止めてしまった時、すべては終わってしまうのだ。積み重ねてきた努力もただの徒労に終わってしまうのだ。そんな中で、苦労を共にしてきた身近な先輩や後輩といった周囲の仲間が夢破れて一人、二人と去っていく。辛く悲しい別れだと感じても、歯を喰いしばってただ先の目標を見据えたままでいようとする。だが一方では、自分が「負けを認めたくない」という意地だけで現実から逃げているのではないかとも思えてくる。考えれば、きりがない。だから、努めて考えないようにする。
だがそれらの問題とは別に、時に先にも述べたような妬(うら)みや嫉(そね)みといったものに行く手を阻まれることがある。他人に先を越されまいとする第三者の醜い打算によって、どうしても抗えない壁がそびえていることに絶望してしまうことがある。しかし、この世界はそうした障害にさえも自らの力で打ち勝っていかなければ未来は拓けない。そこに居ることが自分にとって未来ある事ではないと感じたのであれば、場所そのものを変えるしか方法はない。経験したくはないが、これもまた現実なのである。たとえそれが、誤解であっても。

かくして2003年4月、ちぢぃーは株式会社マウスプロモーション付属俳優養成所に入所した。初心に帰って、ゼロからのスタートである。しかし、これまでに積み上げてきたものがある。誰にも負けないという自負がある。前の事務所を辞める時には、社長から何とか考え直すようにと強く言われた。チーフマネージャーには「今まで培ってきた君なりの経験というものがあるだろう。それらをすべて投げ出してもう一度最初からやり直すなど、そんな考え方しか思い浮かばない君の発想の貧しさが情けない。」とも言われた。お二方には在籍していた3年半の間、本当に可愛がっていただいたし、とても良く面倒を見ていただいた。その感謝の念は生涯忘れることはない。辞めてくれるなという厳しい言葉の中に、それぞれがいつも自分に対する深い愛情を持って接してくれていたことを感じ、とても悲しかった。しかし、もはやこうするしか方法はないと自分は心に決めていた。恩師の好意に背を向けることになってしまったことへの責任として、相応の結果は必ず出してやるぞと誓った。3年半の間に、充分に種は蒔かれている。あとは花を咲かせるのみだ。
養成所に入ってみるとなるほどクラスメートは自分よりもみな若く、そのキャリアも演技の内容も様々だ。その中でいかに自分の存在感を示していくかが課題である。養成期間は2年間。1年後には進級オーディションがあり、卒業時には所属オーディションがある(実力次第では飛び級もあるらしいと聞く)。平静を装ってはいても、難関を突破できるかを考えるとやはり恐い。しかし、それは今まですべての先輩達が通っていった試練の道である。自分に出来ないことはないはずだ。

何よりも結果で示すこと。演技で納得させること。そして、言い訳は絶対にしないこと。これが自分の、演技者を目指す上で心がけていることだ。いくら高邁な理想にもとづく演技論を操ったとしても、演技が人の心を動かさなければ意味はない。あれこれ言うよりもまず実践すること。何よりも、自分を信じること。すべては、これからなのだ。
そして今、ようやく種が芽が吹こうとしている…。