コスプレ研究ページ


過去のコスプレについての研究ページ。
(2009_9/3 70年代ページ色々更新 )

5100HIT感謝!!


最初はプチ日記のページに書いたのですが、
文字数が重いのでやっぱりこのページを作る事にしました(汗
私的研究としてのメモなのでその辺よろしく。
個人の記憶と経験と手持ち資料などによる研究なので、
抜けてる所があってもあまり突っ込まないで下さい
(むしろwikiなどの方が記載が抜けてるか;でも重複はできるだけ避ける方向)

※ヤフーとgoogleで「コスプレ 研究」で検索すると
現在このページが1位みたいです。感謝。

某2chにこのスレッドを立てたのは、マジで僕じゃ無いので。
スレッドを見るくらいならこのページを読んで欲しいです。

また、最大規模同人誌即売会と各コスプレ関係イベント等の、暴力スタッフに注意してください。
自らの問題性を棚上げ、散弾銃所持予告、アーチェリーや居合い所持や格闘術をひけらかし、
デマや中傷を2ch上でしたあげく、ブログで「老害を始末」「殺」などと
脅しや加害予告までするようなスタッフらが、最近首都圏を中心に
某遊園地、公園、会館系のイベント等で勢力を増しつつあるようです。注意です。
(このスレッド等の内容参照。僕への悪口も書かれているので注意。)

更にその人物は、当方の住む近くの地域でサバイバルゲーム場設置計画に反対していた住人に対し、
ブログで来訪の意思を告知し「見敵必殺」と書かれた短刀を画像UPするなどの恫喝をしていました。(コチラ にて解説)
そのような人物が最大規模即売会のコスプレ広場で権力を握るのであれば、
コスプレ界の今後に暗雲が垂れ込める事になります。

こちら にも当方に対するデマ悪口について書いてます。


とりあえずスタート!!


1980〜89年頃 コチラ に移動しました。





◎ ハロウィンって事で「コスプレイヤー向けのページ」でも作ってみようかと思ってたんだけど、
  あんまりにも例の連中の攻撃が過ぎるので、ページまで作るとろくな事がないかもしれない。
  ていうか昔からファッションは好き。リカちゃんやジェニーのページだって、そうじゃなくちゃ作らないし。コスプレとリカやジェニーとは違うんだけど、実は共通点もあったりする。
  ただ、一応wikiや各コスプレ評論や各サイトなんかですっぽかされている事もあると思っているし、
  自分のコスプレ観というのは興味の経緯がオタはじまりとは言え普通の人と違うので、そこの所を遊び半分でちょっと列記してみる。個人の覚書ですが。



1960年代以前〜1980年ごろまで


 ●ハロウィンなどで特に昔のホラー映画などに出てくる吸血鬼や指輪物語に見られる耳の長い妖精などの扮装を子供たちがしたのが、コミックやSF映画のコスプレに移行したのがキャラクターコスプレに移行した始まりかもしれない。これは多分日本も同じだと思う。
 ただ、仮装行列の原点としてはリオのカーニバルに見られるようなものの方が古いわけで、カーニバルなどと仮装行列やコスプレとの違いは、神や超自然的存在への祈りの有無の差である。
(少なくとも表面的には宗教とは関係ない。実際にアニメキャラがファンにとって神仏に等しい存在としても)


 ●今でいう架空のキャラクターへの扮装と言う意味で、海外でスーパーマンより早期にファンが扮装を行なっていた例としては、20世紀においては明らかにシャーロックホームズや怪盗ルパンなどのキャラクターであると思われる。
  シャーロックホームズのファン=シャーロキアンの最初の団体(ベイカーストリートイレギュラーズ)は1934年にスタートしている。日本に江戸川乱歩氏らによるバリツ支部というのが存在していたらしい。
  江戸川乱歩といえば「怪人20面相と明智小五郎、少年探偵団」シリーズだが、当然これらの探偵もの作品は学生の文化祭や学級演劇のネタにもなっていたようです。当然これら探偵小説系のキャラクターは、仮装ネタのキャラとしても魅力があった。(怪盗ルパンも世をしのぶ仮の職業は、探偵。)


 ●ちなみにアメリカヒーローとしては(もっと古いものもあるかもしれないが)少年向けに Batman Halloween costumeというライセンスコスチュームが1965年に出ている。(某資料によると、こんなのらしい→)
  耳つきバットマンの頭巾と服とマントなどのフルセットで、これが66年になると頭巾が目まで隠すテレビに近い形の頭巾にバージョンアップして、バットマン、ロビン、スーパーマンが出るようになる。この辺がヒーローキャラのなりきりグッズの黎明期に近いと思われる。世界SF大会でのコスプレブームもこれを受けた形かも、しれない。
 ●これは、アメリカのSFドラマ「スタートレック(邦題:宇宙大作戦)」1966年9月の開始より若干早い時期という事になる。この後スタートレックのファン=トレッキーたちによるムーブメント(&コスプレブーム)が来る。
 (補:スタトレは放送直後にファンクラブが出来、2クール打ち切り発表と同時にファンはデモや投書で1クール延長決定させた。)
 ●ちなみにモンスター系では「大アマゾンの半魚人」などのセルロイド製のお面のついたハロウィンコスチュームセットが販売されていて、もしかするとそちらの方がバットマンなりきりセットより若干古いかもしれない。コスプレとハロウィンとは切り離せない。(某誌写真→)
  

 ●仮装行列はこの頃既に存在している。(※ネットで「昔 仮装行列 昭和」などで調べてもかなり古くからある。例えば月光仮面や、大村昆さんのTVコメディーの仮装など。)
  町内会や各学校など、様々な地域で行なわれた仮装行列が、日本におけるコスプレの原点と言える。仮装行列はいわば祭りと同じなのでカメラ撮影などはおそらくどこも基本的には自由だった。(写真を撮られると魂が抜かれるから嫌だ・・・という風潮はまだ残ってたかもしれないけど、肖像権云々の問題は今ほどきつくなかったと思われる)


 ● ただ、昭和34年には某地方新聞に「危険な遊び」というタイトルでコスプレが記事にされた事があったらしい(事故があったらしい)。この折、月光仮面の仮装をした子供の写真が記事の参考用に載っている。事故についての詳細は不明(80年代マイアニメ誌の太古コスプレコーナーに当時写真が掲載。写真のコスプレ自体は事故とは関係なし)
   ごっこ遊びが扮装に繋がるに従って、危険度が生じる問題が取り沙汰された初期の例かもしれない。(2/25)


 ●日本での一番最初のキャラクター(なりきり)トイは少年ジェットのジェットガンである(北原照久氏談)。なりきり系もその頃からライセンスつきのお面などが増えてきたと思われる。
  一番なりきりしやすかったのはおそらく「月光仮面」で、長袖シャツと白いももひき(タイツ?)とサングラスと銀玉鉄砲2個(当時銀玉あったっけか)とシーツで作ったマントで誰でもなりきりできた。ターバンを作るのが面倒くさければお面か紅白帽+予防マスクに月の飾りを切って貼るだけなので一番コスプレしやすかった。
  また、「まぼろし探偵」もかなりなりきりやすいキャラクターだった。上下黒のジャージなどであの特徴的なマスクを紙にマジックで書いて、家族にベレー帽を借りればなんとかまぼろし探偵になる。

 ●そういう自作的観点からいうと一番子供に作りやすいのはオバQかロボタンだったのではと思う。シーツかボール箱の切り貼りで出来る。パーマンも同じで野球帽を前後変えして紙に書いた目と耳を貼ればいいだけ。ボロット(丸出だめ夫)は凹凸多いので難度が高かったかもしれない。

 ●で、この手の仮装(コスプレではなく)は、日常の遊びでも行なわれたけど、幼稚園や学校のたまの演劇でもしていた所があったのかも。漫画のキャラを教室劇などで推奨するかという問題はあるか。

 ●でも、これはあくまで男の子向けなどのキャラの話で、女の子はそういうのではなくちゃんとした衣類を好むので、
  中原淳一や内藤ルネなどが携わった「ジュニアそれいゆ」「ひまわり」などの少女向け雑誌を見て、お裁縫や衣類作りに挑戦してみる、という感じだった。
  イラスト紹介された衣類を作るのであれば、いってみればそれも掲載イラストキャラへのなりきりと言えなくもない、のかもしれないよね。

 ●お面でなりきるという意味ではウルトラマンもそうですが、初期は意外と変身アイテムをみない。ウルトラアイ(無版権あり)は有名だが、当時品でベータカプセルの玩具ってあっただろうか?みんな懐中電灯で代用してたと思う(スカイドン回のスプーンは子供たちの行為を逆にギャグにしたのだと思う)。逆にアラシのスパイダーガンの玩具や科学特捜隊のヘルメットの方が有名。

 ●ネット検索したところ、当時のウルトラマンの版権ものお面の目の形がセブンの目に似ているらしく(ウルトラマン「怪獣殿下」の回に登場)、お面からセブンの目の形が決まった可能性がもしあるとすれば、セブンのデザインもなりきりを意識していた可能性はある。定かではないけどね。

 ●多分日本で一番最初にコスプレ法の解説として有名になったのは、大伴昌司氏編の『カラー版 怪獣ウルトラ図鑑』(秋田書店刊 1968年)が一番有名です。3歳で千葉に引越してくる直前にこの本(当然重版もの)を買って夢中で読んだ(ルビふってあるので全部僕でも読めました。大体2歳年上向け本を当時は読んでたので)記憶があります。
  初期の版がスペル星人入りで有名な本だけど、この本にはザルを2枚あわせた頭と雑巾?で作った胸でカネゴンの着ぐるみを作ったり、シーツを切り合わせてペスターの着ぐるみを作る方法、頭部をハリボテで作ったケムール人の服の作り方が書いてあって、本当に作れればかなりリアルなコスチュームになる。4歳ごろの自分は真似して作りました。カネゴンもペスターも形はできたけど挫折した・・・理由は絵の具がまだ使えないのでクレヨンでは大きい面積の色塗りができなかったからです・・・。
  ていうかシーツなんてどう塗装すんの。途中で疲れてダウンした。でも相当この着ぐるみにチャレンジした人々は多かっただろうと思う。
  (2009_6/11追:右のようなページでした。当時手に入りやすい品物を使った仮装コスプレ方法で、かなり子供のイメージをくすぐるものがあります。4月放送の「探偵ナイトスクープ」で、このページの仮装に実際挑戦するという企画があったそうです^^;(拡大画像はこんな感じ→ 画像1画像2


 ●1969年のアポロ月面着陸を中心とした各国の宇宙開発競争で、その前後の期間、児童誌各誌にも宇宙関係の特集が多く組まれている。
  その為、宇宙服を着て宇宙に行く事を夢見る少年少女も激増し、その60年代SF的リアル指向が後のヤマト、ガンダムブーム→コスプレブームを支えた部分はあると考えられる。
  (今の子供たちは子供用図鑑や雑誌の特集よりは「ガンダム」自体で宇宙服の存在を知る子も多いので、昔とは真逆となっている。)


 ●69年の初代リカちゃんトリオ用ドレスにグループサウンズ(GS)のコスプレドレスが登場した。(タイガース・カーナビーツ・スパイダース・テンプターズ・ヴィレッジシンガーなど)リカいづみ用の女の子服と、わたる用の男の子服。人形という形ではあるが、女子のいないバンドにおいてはこの時点で服の「男性→女性へのアレンジ」が成立している。
  後に、ピンキーハットルックシリーズが展開される。これは当然ピンキーとキラーズの今陽子的なコスチュームをリカちゃんに着せたもの。GSのドレスは子供がなりきるにも作りづらいものだったので人形はヒットした。ピンキーハットを欲しがる子供は実際多かったと思われる(子供向けは少ないだろうけどね)。この辺から学生による芸能人ルックが活性化してくる。
  (追: カタログ画像→。左からスパイダース、カーナビーツ、テンプターズ、ヴィレッジシンガース、モンキーズ。沢田研二達で人気絶頂だったタイガースはカタログでも最初の方に紹介されていた。画像
  このカタログは浴玩「ちっちゃなおもちゃやさん」付属のミニサイズレプリカなので、グループ名が抜けてます。
   年代訂正。「beans+」誌では69年枠で紹介されてます。その頃のアイテムのようです。2009_6/28)


 ●個人的には関西に住んでた3歳頃、近くのバイク屋(兼自転車屋)のおじいさんが、自転車の部品を使って子供向けの変身忍者嵐のコスチューム(剛性ありすぎ)を作っていて、僕より年上の子供たちが着て遊びまくっていたのだが、僕は小さかったのでそれらは重くて着る事ができず、自分の分を作ってほしいとお願いする前に引越しになってしまった。
  ちなみにそのおじいさんは自転車のバネを使って、巨人の星の「大リーグボール養成ギプス」も作っていたはず。怖くて付けれなかった。有用とは思えないので、ある意味コスプレ以外のなんでもない。
  自分も幼稚園頃にお菓子の箱を改造して、風雲ライオン丸の弾獅子丸用のロケット変身ランドセルを作って遊んだ記憶がある。
  ビデオも無かったのでランドセル内部を作っては変え作っては変えで放送の度に3回くらい作り直した。コスプレとは違うか。さすがに花火は怖いので仕込まなかった。



 ●ニューリカちゃん期(72年以降の2代目リカちゃん)にリカちゃんと同じデザインの子供向けドレスが販売され、その頃から女児向けなりきり?も加速してくる。このドレスはなりきり目的だけでなく、完全に生活衣類としての利用が可能な本格派だった。子供が着せ替え人形になりきるという完全に逆転の発想ですが、最近でも撫松庵ジェニーエクセリーナ(買いましたv)の子供サイズの振袖が本物の撫松庵で販売される(この辺)、などのタイアップがあり、この路線は健在。
 (※追: 当時ブックレットによるとこんな感じ(画像→)。女の子用の子供服と、ニューリカちゃん用の同デザインの服と、ニューリカちゃんの髪のバラピン(バラ型のピン)を真似たバレッタのセット販売だった。3歳4歳6歳8歳向けの各4サイズ。
  取扱いは全国有名デパート・スーパー・ブティックなどで、「ズーゼット・リカちゃんランド」という所が問合せ先になっているけれど、ブックレットの時期によって問合せ先に違いがあります。
  (※ていうかリカちゃん服と子供服とセット販売だったのかも微妙。1年近く商品に付属じていたカタログに載っているので、リカちゃん購入者への認知度はかなりなのだが)
  当時のリカちゃん服やサイボーグ服(少年サイボーグのスペーシー系布スーツ等)にはオンワードが縫製していたものもあるんだけど、ズーゼットとオンワード系に関係あるかは判らないですね。
  この服はリカちゃんの既存服をモチーフにした物ではなくて、リカちゃんの服と子供服を同時販売した品物と言った方がいいかもしれないんだけど、バレッタがついているのでやっぱりリカコスプレには違いがないと思う。この子供服バージョンのニューリカ服は、多分2代目ではかなりレア服の部類だよね。  2009_6/28)

 ●仮面ライダー辺りからお面に加え変身ベルトなどや少年ライダー隊ヘルメットなどができて、なりきり玩具が充実してくる。


NEW● 昭和40年代で有名なヒーローもののアトラクションと言えば、後楽園遊園地の仮面ライダーショーで、大体ライダーカードが流行った時期と同じ頃に流行っていた。
   自分も後楽園遊園地には母や祖父母とライダー(多分新1号)見たさに行った記憶があるんだけど、戦闘員が子供たちを壇上にさらって訓練を受けさせる(これは当時からそうだった)のにさらいに来るのが怖くて、初回はどうしてもそこにいる事ができず、家族がさらわれても困るので「みんなで逃げた」記憶がある(^^);;;。おかげでライダーショーでライダーを見損ねたというひどい話。
  で、コスプレパフォーマンスでもっとも活動的なものをアトラクションとするならば、それに多大な影響を与えたヒーローや怪獣のショー自体は、第1期ウルトラ前後頃から(もっと前から?)デパート屋上などでされていたようで、それをパロディにして、ウルトラマンの再生ピグモンのデパート出現描写や、ウルトラセブンのチブル星人のデパート戦描写があったりするようです。
  アニメキャラクターのマスクをかぶった着ぐるみによるショーも、既に昭和40年代前半には存在していて、初代リカの頃から等身大リカちゃんがデパートなどで販促ショーに出ていたりしました。当時なのでマスクは今から考えるととんでもないんですが、子供はみんなそれでも夢を見ていたようです。(2009_9/3)


 NEW● NTV系のヒーロー作品「突撃!ヒューマン」のキャラクターショー『ヒューマンとチビッコ大合唱』で、悪の宇宙戦闘員=フラッシャーたちのバンド「フラッシャーバンド」によるバンド+ヒューマンの、児童参加型ショーが行なわれた。「ヒューマン」は初代ウルトラマンやセブン、怪獣宇宙人マシン美術を手がけた成田亨氏の作品で、「8時だヨ!全員集合」のような、舞台上演劇の形式を取ったヒーロー番組。
  このショーの場合、舞台上にドラムやギターを持ったフラッシャー隊員がいて、音楽を演奏しながら、子供たちが歌うという風景は、ある意味スターウォーズ第1作(今でいうエピソード4)宇宙人たちのバンドのさきがけと言える。キャラクタースーツと音楽の共存イベントとしても、本当に初期のもので、最初期のコスプレバンドと言える。
  (ただ、プロの人たちのショーなのでアマチュアリズムをモットーを考えるなら本当のコスプレバンドはもっと後、になるかもしれない)
  バンドのフラッシャーには、TV版ヒューマンの擬斗(スーツアクション)を担当していたビン・プロモーション(社長は初代ウルトラマンスーツアクターのアマギ隊員=古谷敏氏が社長)の、新見清一氏(TVのヒューマンのスーツアクター)らが入っていました。
  その後コスプレスーツとバンドが共存したイベントは、80年代には劇場版イデオンのイベントなどで行なわれるようになっていきます。最近は生バンド系のイベントは殆どないようですが。 (2009_9/3 右は某特撮誌のページ画像)


 ● お面やヘルメットメインのなりきりグッズについにフルフェイスのライダーマスクが登場したのは、「仮面ライダーX」(74年ポピー製)のXマスクから。ヘルメットに口部分のパーフェクターをとりつけた形のマスクで、それまでのお面に比べて圧倒的にリアルだった。(※右画像参照。某玩具系書籍の表紙より。表紙には載っているのになぜか中には掲載されてない;)

 ●女子のコスプレ願望の起源を永井豪氏の「キューティーハニー」(73年)に取る人がいて、それは多分間違っていないと思いますが、ハニーの胸のダイヤ型に近いカットのされた、タカラの着せ替え人形リカちゃん初代の、レザーシリーズドレス「ダイヤ」(71年。私物画像)が存在していて、もしかしたらそれがハニーデザインに影響あたえた所もあるのかなと自分は思っていたりする。レザーは結構フェティッシュでもあるし。
  これはまんざらでたらめを言っているのではなく、ワニブックス社の「永井豪ヴィンテージ漫画館」(P74)によると、ハニーは当初から男の子向けの女の子人形を作ってもらいたいという意図での企画だったらしく、けれど玩具会社が男の子向けの女の子人形は売れない、と判断したためハニー人形を作ってもらえなかったのが、永井氏は今でも本当に悔しいそうです(^^);
    ※放送当時人形立体化はパトラ製ペンダントと、ハリケーンハニーのバイクに乗ったハニーライダーのみ。(ポピニカ記載はないけれどその扱い)

 ●この間、変身ブーム、魔女っ子ブームが来ているが、女子玩具であるリカちゃんの職業ドレスは71年位から存在している。同変身パットちゃんが72年ごろ。
  また男子変身玩具でもっとも有名な変身サイボーグ1号(1体の素体で40以上ものヒーロー服を着まわす)もこの時期に存在していた。
  つまり男女児童の変身願望を玩具でかなえるものは既にあり、コスプレはその時期に育成された変身願望が、現実にリバウンドしてきたものともいえるかも。逆に人形にはまらなかった人がコスプレにはまったという考え方もありますね。


 ● もう一つの考え方として当時はやったスパイもの(もう少し前だと多羅男伴内のような七変化もの)の「スパイ大作戦」や「チャーリーズエンジェルズ」で、主人公達が各職業に華麗に変装する姿に感化された人々が、コスプレしてみたい、という扮装欲につながっていったのかもしれない。ミラーニューロンを刺激された、とするべきなのだろうか?この辺結構コスプレを考える上で重要かもしれない。もともとコスプレイヤーはミラーニューロン過多な人々なのかもしれない。同人の人々も別の意味でミラーニューロンが多いのかもしれないのだが。
  とりあえず、「そういう人生を演じてみたい」が「演技してみたい」になってアクションを起こすのが役者で、「姿だけでもトレスしてみたい」がコスプレなのかとも思う。
  むしろ昔は演じること(actもしくはパフォーマンス)とコスプレは非常に密接だったわけなんだけど、パフォーマンス禁止になってそうもいかなくなってるようである(この件は80年代項にて)。


 ● この研究ページではあえて風俗世界における「コスプレ」を、対象から外そうと思っているのだが、
  一応書いておくと、スチュワーデスや看護婦、セーラー服を着用した風俗嬢がサービスをするトルコ風呂店がはじめて出来たのは北海道札幌市のススキノで、1971年の事だそうです。
  通常のコスプレ評論や2chコスプレ論だとこの風俗の方が早いことになってしまう。一応こう書いておけば、コスプレというジャンルでは風俗の方が早い、という誤思想でコスプレイヤーが劣等感持つこともないと思うので、一応書いておきます。しかしこのススキノの店って先見の明ありすぎ;


 ●このページを作ってからコスプレ=風俗起源説の人々による叩きが激しいんですが、
  風俗の場合のコスプレは「コスプレ=奇装」ではないよね。
  現実自分とは違う職種や女学生の制服を着ることが、風俗の場合のコスプレ。自分と同じだったらコスプレじゃあない。花魁が花魁の服を着てもコスプレではありません、確かに。
  また、演劇やレビューショーなどの舞台上での衣装がコスプレかというとそれも違うわけで、だから上の段で「シャーロキアンの集会に招かれたホームズ俳優のウィリアムジレット氏」のくだりを引用するかしないか迷った。役者がホームズの服を着てもコスプレではないですから。
  つまり、演劇でいうCostumePlayが、どう演劇と切り離されていったか、という事が、イコール 現代のコスプレの歴史 だと思うんだけど、それはつまり「コスプレは本質的にアマチュアのみの文化でプロは成立しないジャンルだ」ということかもしれない。ここ重要。
  もしくはアマチュア演劇→パフォーマンス→撮影会モデル(イベントでも実際撮影会と化している)、それ以前にアニメコミックゲーム小説のように、コスプレは何かのジャンルに依存して(もしくは依存対象を変えつつ)存在しているのであって、現状単一で存在しているジャンルではない。
  実は自分はそれが不思議だったりする。コスプレはもともと服飾なのだから、なんで服飾に依存しようとしないのか?????(これ、後で書きますが・・・簡単に書けば、服飾にとってのアウトサイダーだからである)
  けれどやっぱりアニメコミックのコスプレと、風俗でのコスプレには明らかに異なった点があるわけで、「他の職業を演じる」という要素とはまた別の目的がコスプレにはある、って事でこの先書いて行こうと思います。


 ●スタートレックのイベント、STコンベンションの開始は1972年から。
 ●この頃日本SF大会などのイベントで仮装がスタートするが、定着するまでには時間がかかったようだ。例の同人イベントの初回もこの74年。2回目は1年空けて76年。
  つまりは「仮装行列」的なものをイベント内でやってみようという事である。したがって撮影ルールなども仮装行列に準じていたと考えられ、現在のものに近くなるのは実に90年代のことである。



 ●少年少女から青年が増えてきたアニメファンにはヤマトブーム頃からコスプレが浸透したわけですが、
  「さらば宇宙戦艦ヤマト」でプロデザイナーの花井幸子さんが衣装デザイン協力したためにアニメキャラの服飾デザインの地位は飛躍的に上昇しました。(当時書籍による紹介はこんな感じ→)
  デザインされたのはテレサの服などだけど、テレサはほぼフルヌードのイメージが強いし(ヤマト2ではドレス着用だが透けているのを除けばイメージは違う)、森雪のジャンプスーツは実はワンピースなのでお手洗いに行く時には全部脱がなきゃいけない・・・のようなデザイン優先的な服(^^);
  古代進の艦内服もデザイン違い、森雪の艦内服準備稿はピンク色だった。
  けれどもそれらのファッションを着て作ってみたいという気持ちも当時のコスプレイヤーが増えた理由にはあったらしい。実際には劇中通りの艦内服や戦闘服着用の人が多いのだけれど。
  ※花井幸子さんデザインの古代進たちの私服Tシャツは、劇場公開時販売もされた(右写真上)。赤・紺・緑の三色で、各2800円(一応デザイン画もO●Tの78年9月号に載っていた)。
  (11/11補追:この辺がC●SPAが今やってるようなキャラクターアパレルの原点。厳密にはアメリカのスーパーマンシャツが最初なのだろうが。)

  ヤマトのコスプレ自体は試みる人が多かったのだが、ヤマトブームの火付けを担ったのはそれまでカルト系記事の多かった「O●T」誌が、ヤマト特集を行なったのがきっかけで(別冊は「ランデブー」誌)、1977年9月号には「貴方にもできるヤマトファッション」(P134)という特集が掲載され(こんな感じ→)、その後読者ページにコスプレ写真投稿兼仲間募集があいついだ。
  内容は古代進、森雪、島大介、真田、デスラー、ヒスやビーメラ星女王や看護夫Bらのヘアアレンジ法解説で、森雪コスチュームの縮小型紙図まで付いていた(男服は作るのが楽なのでつかなかったようだ)。当然ヤマトファンはこれを参考にコスチュームを自作して、それでヤマトコスプレが広まった、という事もできます。
  ちなみに今でも某ロードで有名な某氏の第1号のハリボテアナライザー(製作76年)がヤマト映画第1作公開当時に各地デパートで開かれたヤマト展を巡業していたらしい(77年夏)。直接は見なかったけど、テレビのニュースで見てカッコいい!と思った記憶はあります。


 ●「ベルサイユのばら」(連載は1972~73)は連載後に宝塚ミュージカルや海外映画やアニメまでできるほどの大ブームとなったわけですが、
  そのブームの原点には少女漫画のお姫様ものがあったと思います。あとはポーズ人形やリカちゃんドレスとかね。
  男装の麗人オスカルはつまり、リボンの騎士=サファイア姫と同じく「少女は必ずお姫様を夢見るもの」という既成概念を覆す存在です。けれどもやっぱり少女漫画のお姫様コミックというベースがあって、ベルばらのリアリズムが生きたのではないか、と個人的には思います。
  宝塚歌劇団のミュージカル版は大ヒットしたわけですが、それでも74年の初演時、コアな原作ファンにはミュージカル版を認めない人もいたらしいです。けれども後にはベルばらといえば宝塚歌劇となり、欠かせない存在となっていきました。
 (※右の写真は76年4月の雪組パンフ。オスカル:汀夏子。アンドレ:麻美れい。キレイです!!ここまでの時点で3つの組がベルばらを演じていて、シナリオ的にも中心人物の差があるらしい。)
  そのブームから、ベルばらは後年かなりの一般中学高校大学などの文化祭や演劇部などで上演されたようで、コスプレよりもむしろファンの演技欲とか舞台欲を直接刺激されていた。
  しかしやっぱり人数がいないと演劇はできないし、演技の上手い下手の問題もあるし。つまりイベントではコスチュームを作って着た時点で我慢しなくてはならない。パフォーマンスはともかく演劇は難しい。
  また、アニメのキャラクターやその作者に心酔し崇拝するファンにとっては、コスプレをするというのは元作品への冒涜(&宝塚スターへの冒涜)とも言われかねない時代で、相当に努力して衣装を作り、似合っていないと認められづらかったらしい。この辺は今の子にも判ると思いますが・・・
  従って70年代にベルばらの衣装を着ていたのは、コミックのファンではあっても同人系というより、学生の演劇同好会的な人々が多かったのではないかと考えられます。
  ベルばらのコスプレをアニメ誌などで見かけるようになったのはかなり後の時期だと思います。(2009_1/21)


●ピンクレディーの奇抜な衣装や、さらに輪をかけたのは沢田研二がTOKIOを歌うパラシュート+電飾の姿で・・・僕が子供の頃のクラスでも学習発表会だか何かでみんなで作ったパラシュート背負ったクラスメートがいたなぁ、確か。
  子供の世界でそんなのがあった位だから、大人はもっと凝ったものを学祭などでやっていたわけで、ただ、芸能人は一般的衣装を着る人も多いので、よほどの特殊な舞台ドレスのコピーでない限りは単なる「●●ルック」であり、コスプレとは呼べない。

  ( 追:同じ意味で、本来ミリタリーコスプレも、コスプレと呼べるかどうかは判らない。特に当時のアニメがヤマト等に見られるように「人類愛」や「平和」をテーマにした作品が多かった風潮上、
  軍装なんて単に自分で作りもせず、店から買うだけじゃないか(もしくは悪ふざけだろう)、という考え方が基本的に存在し、また、アニメ系と軍装系が両方同じ場所にいるという機会も少なかったため、両者の価値観の対立はしばらく続く。(自分は結果的にこの価値観対立時代からのオタクなので、今でも軍装をアニメコスプレと同列に考える事は変だと思っています)
  ただ、ア●メージュは78年の創刊号(7月号)から米軍の放出ミリタリー服を売っている販売店の広告を掲載している(ナチス系は多くはないが)。
  したがって軍服コレクターの存在自体は初期からアニメファンも知っていたと思われるが、軍「装」自体は、上記風潮からひんしゅく以外の何でもないという時代が続いた。
  軍装そのものはアメリカ戦争映画やGIジョーの流行った時代に「戦争ごっこ」があったので、その延長。それまでミリタリーコレクターはいてもその服を実際に着てくる人間はいなかったし、沢田研二の「サムライ」における親衛隊服があまりにカッコよかったために、その姿の真似をする学生たちも出たりして問題になり、沢田氏の服のハーケンクロイツが×印になったりもした。ちなみに沢田氏は「さらば宇宙戦艦ヤマト」のエンディングも歌っている。
  しかし何かと複合して表現されない限りは軍服自体はその時代の各政府軍の思想の体現でしかない。その辺が自分が軍装をいいと思わない理由でもあります。)


  ● 以下、コスプレにはあまり関係ないですが・・・
    1978年にロマンアルバムシリーズ(徳間書店)が開始されるが、先のO●Tのヤマト特集までは一般雑誌がキャラクターの設定資料を掲載することは非常に少なく、それもロマンアルバム開始のきっかけになった。それらの研究はそれまで同人誌やファンクラブがやっていて、当時ロマンアルバムは「ファンクラブ殺し」と呼ばれていたらしい(AM81年7月号)。
  しかし、徳間書店側がアニメファンの動向に目をつけるのもかなり早く、78年内発売分の各書籍でも既にファンクラブ会誌などが紹介されている。
  例としてロマンアルバムの「UFOロボグレンダイザー」(78 年末発売)では、グレンダイザーFCの「スペイザー」が2ページ丸々使ってスペイザー号外を掲載している(ぼけてるけど右画像→)。FC主催の時松さんは、同書の原作永井氏を加えた座談会にも同席している。
  このスペイザー誌の方々は現在でも充分通用するほど絵のレベルが高く、FCでは他に「スライドアニメ」(イラスト+セルなどを写真撮影してプロジェクターで上映するもの)のパロディ(既にパロディという単語が使われている)「幻の向こうに死神を見た!」という作品を作って、上映会なども開いていた。(画像、本のページの左上カット=ベガ獣の幻覚光線でマリアのヌード幻覚が甲児を襲うなどかなり楽しい内容!♪)スライド製作は当時の中高生にも結構知られている手法なので、それを応用するアニメファンもこの後増える。自主実写SF作品のスライド上映なども増える。
  また会誌スペイザーでは、「続・UFOロボグレンダイザー/ゴッドマジンガー」という連載漫画もあったらしい(画像、本のページの右下カット=ゴッドマジンガーのデザインも非常にかっこいい)。「ゴッドマジンガー」はグレートマジンガーの時の没タイトルだそうです。(この件については教えてくれて感謝)。東映動画のPDの勝田稔男氏らがこのファンクラブのバックアップをしていたらしい。
  80年代になると自主制作アニメもけして珍しくはなくなるのだが、8mmなどは画質の問題や金銭問題も手間もかかるので、このようなセルイラストのプロジェクター上映が増えたらしい(プロジェクターなら学校にも公民館にもある)。それを原作者も公認していたというのは、本当にいい時代だったんだろうなぁと思います。(2009_2/8)
  

 ● 個人的な当時の話。僕は小学校4〜6年の3学期(の始業式)までの間、北陸のT山県在住でした。で、転校先の学校が改築されたばかりの所で、T山県は教育にお金をかける所なので、かなり設備的に最新のものが揃っていた。
  自分は放送部でアナウンサーとかもやったんだけど、既に大型のカラーテレビカメラ(僕の背より高い)や放送ブースがあったりして、それを使って週一で校内クイズ番組(給食中に流す)もやったりした。問題考えたり編成したり撮影したりしていた。70年代としてはかなり先進的だったと思う。自分の撮影体験は、たまにしか使わせてもらえなかった父のフィルムカメラより、この小学校のテレビ放送用大型カメラの方が早い。
  クイズ番組ではワイプ機能も使ったけど、子供には判らないスイッチを先生がいじってしまって、視聴覚室の廊下側の窓からパネルをぶらさげて得点表示した事がある(爆笑)
  あとは4学年の合唱劇で「泣いた赤鬼」の赤鬼やったりしました。ソプラノソロもやった。 これは全体でよかったという事で、地元新聞なんかにも載ったけど、今にして思うともっと地元の子で赤鬼にふさわしい子がいたと思うし、邪魔をした感が強かった。いい思い出だったけど、自分はやっぱよそものだったと思う。
  いじめもあったけど、生徒会副会長もやった。結構、頑張ってました(会長というのは包容力がある地元の子じゃないと務まらないと思う。僕は昔から包容力がないから。学級委員位なら高3までやりました。僕以上に包容力のないのが今は同人やコスプレ界を仕切ってたりするけど。
  いずれにせよ小学校の備品にテレビカメラが入るというのは、子供の意識をかなり変えたと思う。    2/12)  
  

 ●「欽ちゃんの仮装大賞」の第1回は79年。当然初回からアニメ系などの仮装は存在していた。
 ●この頃、神戸で開催された『ミニコミフェスティバル』などのイベントで、「アニメ・コスチューム大会」が催される(79年の場合、5月5日神戸市立長田勤労市民センター)。
  このイベントは同人誌販売のコミックフェアーと、アニメ・コスチューム大会などの参加者募集をしていたようなので、形式としてはかなり先駆的だったと言っていい(アニメ・チャリティー上映会もしていたようだ。気持ち的に「24時間テレビ愛は地球を救う」の手塚アニメからの流れだろうか?手作り玩具小物バザールもしていたらしい)。
  同様のアニメコミックファンイベントが日本各地に複数表れ始める。(2009_1/21)
 

 
 NEW● 1970年代後半にはキャラクターショーも完全に定着して、日本全国のデパート・スーパー前や遊園地など、色々な所で催されるようになっている。
   写真は70年代末期の東映アニメ系のキャラクターショーの場合。「キャプテンフューチャー」「キャプテンハーロック」「キャンディキャンディ」「銀河鉄道999」「長靴をはいた猫」のペロなど。なぜか「キャ」音始まりが多い♪
   マスクをつけている以外は完全にコスプレとして出来上がっていると言える。そういう意味では初期のコスプレイヤーのコスチューム製作上の目標は、とりあえずこれらのキャラクター着ぐるみのスーツの作りだっただろうとも言える。999ショーの筈なのに、何故か脇にマグネロボガ・キーンやジャンクーゴがいてボーダーレスだったりするのがお茶目。まぁどれも松本零士系ではあるか(^^);;;  (2009_9/3)


 NEW● 79年〜80年ごろにかけて、西武園ゆうえんちで「SSW」(西武園宇宙秘密基地の略)というテーマ館が出来る。監修は石森章太郎氏で、海外SF映画的なセットを使って宇宙アクションを演出したテーマ館( 画像 )だったのだが、その後、右画像のようなオリジナルヒーローが誕生し、園内各所でアトラクションを繰り広げるようになる(右は80年東映アニメの会社パンフ画像)。この企画はどちらも東映アニメが行なっている。ヒーローのマスクは、初代仮面ライダーの企画段階のデザイン「クロスファイアー(十字仮面)」の流れをくんでいる。
  単独の遊園地オリジナルのヒーローであり、80年代から始まる初期アトラクブームに影響を与えたものといえるかもしれない。後のご当地ヒーローの走りとも言える。コスプレ周縁に影響を与えた事という事で一応。 (2009_9/3)


 NEW● 70年代後半には、日本のロボットアニメや特撮などが、アジアやヨーロッパ、アメリカのTVで放映されるようになって行き、キャラクター商品も海外で売られるようになる。
   右は海外版のマジンガーZの子供用変身セット(ショーグンウォリアーズのシリーズ)。お面とロケットパンチと衣類らしきものがセットにされている。
   こうして海外の子供にも日本のアニメ特撮キャラクターは認知され、外国人の日本アニメコスプレイヤーが生まれてくる基盤が出来た事になる。(まぁ、海外の方がキャラコスプレは古いので、作品さえ入ってくれば玩具がなくてもコスプレやっちゃう大人は多かったのかもしれないですが。  2009_9/3)


 ● ジョントラボルタ主演の「サタデーナイトフィーバー」(77年)が78年7月に日本でも公開されたり、日本でもディスコが再ブームになった。当時はアースウインドアンドファイアーの「宇宙のファンタジー」などが流行ったりした。子供の頃からこの辺の曲はどこかで聞いていて、自分も好きだったような気がする。
   (ディスコ自体はもっと昔からある。初代リカちゃん前後の時期はゴーゴーやモンキーダンスが流行ったし、ウルトラセブン37話「盗まれたウルトラアイ」(68年)でもゴーゴークラブ「NOA」が登場している(こちらのサイトを参照)。ある意味あのゴーゴークラブ内で催眠下の人々が全員ウルトラアイのコピーをかけて出てくる光景は、後のコスプレダンパを予見しているとも言える(いや、催眠云々関係無く;)。
   ポールモーリアの楽曲も70年代には日本のディスコでヘビーローテーションされていた。)
   ディスコブーム期とアニメブーム期が重なったので、ヒットしたアニメや特撮の曲がディスコアレンジされてレコード発売されはじめたのもこの頃。ディスコ的な需要があったのかどうかは判らないけれど、とりあえず79年4月には右写真の本で広告されているように「ディスコ・ウルトラマン」などのレコードが発売されている。もう片面はアニメ「ザ・ウルトラマン」のディスコアレンジ。ともにロサンゼルス録音。この広告は児童誌にも載ったので僕も覚えている。
   ていうかO●Tやア●メージュなどの雑誌は小学当時から立ち読みしてた←おこづかい600円じゃ買えませんでした;)
   ・・・他にも「不滅の宇宙戦艦ヤマト ニューディスコアレンジ」や「ルパン三世79 ディスコバージョン」などのレコードが販売されたりしている。(2009_2/5)


 ● アニメの曲がディスコ化されたのは・・・多分最初はニーズと同時に一発ネタ目的だったのかもしれないが、それが80年代にディスコ・一般・アニメファンに伝わるにしたがって、アニソンでダンスをしたがる層が増えたり、ディスコパーティーのようなものに発展し、アニソンダンパ → コスプレダンパなどに発展していく。ただ、間違いないのは当時のディスコやDJがアニメファンを許容しなければ後のアニソンダンパブームはなかったという事。
   コスプレダンパも私服を着たダンス客に対して排他的な空気になったのは、90年代末期の事である。この辺は順を追って。
   80年を過ぎたころから各人気アニメの曲は他にシンセやクラシックアレンジも増えるようになり、コロンビアのデジタルトリップ・シンセサイザーファンタジーシリーズなども発売されるようになる。が、80年代になるとその内全てのアニメの曲がディスコ調のロックやポップスやテクノ的音楽になった為、わざわざディスコアレンジと称されることは少なくなっていった。逆にオーケストラ的なアニメ主題歌は少なくなってくる。
   (2009_2/5)



1980〜89年頃について → コチラ






 ※コスチュームプレイという呼び名は80年頃までは使われていない。某ろーどの創刊号にもコスプレの文字は見当たらず、扮装と書かれている。(「欽ちゃんの仮装大賞」の第1回は79年)
  狭い場所でやっているので撮影許可などは取れれば取るわけだが、今のように「イベント風景すら絶対に撮影してはならない」と、現在のコスプレ広場以外では撮影できない形式になったのは90年代前半の事である。   (それまでにサークルブースへの撮影禁止、などの段階を経ている。理由は同人誌も著作権を侵害している要素があるので、作者と同人誌がまとめて撮影されるとやっかいだから)
  仮装行列というのは60年代の昔から自己アピールであって、元は「祭り」と同じ地域行事なので、祭りである以上絶対に人には撮られるし、それを避ける事はできない。僕が「撮られたくなければコスプレをしない方がいい」というのは、つまり仮装行列時代から考えればそういう事だからです(僕自身は基本的にコスプレの無断撮影はした事ないですが。80年代なら風景くらいは撮ってたですが)。
  僕は昔から写真文化には興味あったし、過去の「日本カメラ」や「アサヒカメラ」の昔の投稿基準が殊更問題あったとは思っていない。ことに祭りの行列に肖像権が関わるなんて実際考えられない事である。アサカメなどの投稿基準が変わったのも2000年を過ぎてからだと思う。
  それらが問題にされるようになったのは93〜4年ごろに雑誌メディアにコスプレの存在がおおっぴらにされることが起こって、それで大量に多くのカメラ小僧がイベントに流入し、性的盗撮で小遣い稼ぎをするようになった為です。
  自分はそういうのが嫌いなので、今でもカメコと呼ばれると蔑称のように感じる。実際カメラ小僧なんて言葉は昔からアマチュアカメラマンから投稿グラビア誌マニアへの蔑称です。
  肖像権というのは写真を被写体に無断で、大量メディアに流されたり、金儲けされると困るという事で、人権擁護と個人利益保護の観点から重要ではある。が、撮影された写真が雑誌やネットに流出しない限りは、普通の風景撮影自体は本来問題ないはず(肖像権侵害を申し立てるには申告が必要)である。
  そして彼らカメラ小僧の存在が、現在の風景撮影禁止、破ればフィルム等記録メディア没収、持ち越み禁止機材を使用すればカメラ機材やケースごと即没収、というイベントスタッフ側の不当没収の正当化にも利用されてしまっているのが現状。何度も書いてきたので詳しくは書きませんが。




     
 ●日記に最初更新してから「仮面をつけて行う宗教祭祀がいつから発生したと思っているんだ」と書かれたりしているし、その辺もコスプレの起源のひとつだろうかとは思いますが、
  一応、それらの「神仏もしくは超自然の存在と合一化」するという祭りにおける行為と、キャラクターコスプレというのは、なりきる対象が存在を信じられているか、人間による被造物(作品キャラか)という点で違うと思うし、ミクラスの顔のモデルになったインカの仮面にしろ、吸血鬼や妖精や半魚人にしろ伝説の存在なのであって、
  「キャラクター」とは違うと思っています。
  ていうか自分は「名前の意味」の研究で、どこの神話伝説のどの存在やetcが・・・(以下略)も研究してきたわけなので(周知の通り)、
  その辺を突っ込まれると僕のポンコツ頭ではわやになってしまうと思うわけです。極力ライトに書かせてください。僕は神々や魔物や各種カリスマとの合一化だけがコスプレイヤーの目的ではないと思ってるので。


一応11月7日分はここまで。次に書く時はこの下に書きます。
● このカラーは11月8日追記。
● このカラーは11月9日追記。
  11月10日、各説明用画像更新
● このカラーは11月12日追記。
● このカラーは1月12日追記。

アサヒ玩具のママミシンなどについては詳しいサイトを見てください。



当ホームページはコ*ケット準備会スタッフおよび関連企業による
ナチスコスプレ着装・ 販売 行為に反対しています。

※ ナチス軍服や猟奇書籍等販売を行なっていた、同関連企業の直営店については、
  土地の更地化が原因ですが、2009年6月30日で閉店となったようです。
  元々同店舗は同人誌と一緒に売られていた軍服やモンドアイテムだけを別店に移したものなので、
  それらの品物が同人店で、ともに再度売られる等の可能性もなくはないのですが、
  (自分も同人店のレジ脇にナチス服が置かれていたのを過去みています)とりあえず
  しばらくの間、直営店による「販売」の点においては、批判を見合わせる事にします。
  ただし、同イベントコスプレ広場のスタッフ(出禁如何の決定権はあっても直接の後任ではないらしい)のT氏のブログによると、
  コスプレ広場でのナチス軍服着装はスタッフ参加者ともにやはり許可され続けるらしいので、
  その点においてはやはり反対です。( この辺 参照)


>
(かなり過去から反対しています。同人サイト参照)

◎ 自分が受けてきた被害や、自分を攻撃してる側の情報については この辺 とか この辺 に比較的上手く説明されているみたいです。ほとんど原文ありのコピペ文だし、相変わらず叩きによる雑音が多いけれども。



◎ 愛知の世界規模コスプレイベントの件ですが、イベント運営のテレビ局側に確認を取った所(イタ電禁止)、
  某新聞の記事の内容にはテレビ局としても不満があるそうで、既に某新聞側にクレームをしているそうです。
  例の審査員が今回審査依頼されなかった理由は、単純に審査形式の変更に伴うものだそうで、封書や電話が直接の理由ではないそうです。
  また、封書や電話が「事実無根であるという事をイベント幹部が確認した」と記事では書かれていますが (以下、日記にて)
◎ 現時点(2008年7月20日AM4:44)までの時点では、自分は外務省や愛知県内の議員やテレビ愛知や件のコスプレイベントなどに、
  封書やメールや電話をした事は生まれてから一切ありません。
  また、自分が封書を送るのであれば資料コピーも送ると思うので、ぞんざいに事実無根と言われる内容にはしないと思います。(続きを読む
 
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by Kohji_molimoto(れくと)

(※ 最近首都圏でカメコしている、森本ま●と=頂●禿氏 とは 別 人 です。)