戦後初の「理系脳」専門は問題解決学
2009年9月1日 AERA
政治の世界にもっと科学的な意思決定をしたい──。「政治を科学する」が口グセである鳩山由紀夫の発想の原点は、
アメリカ留学時代に学んだ、数学的「問題解決学」だった。
「10人の女性と順番にお見合いする。その中で一番すばらしい人にプロポーズする確率を最大にしたい。どうしたらいいか」
鳩山由紀夫が、客員教授を務める同志社大学の特別講義でよくする話だ。答えは、
「3人目までは見送って4人目以後これが一番という人にプロポーズすればいい」
というもの。最初の人で決めれば1割、最後の人まで待つとするとやはり1割の確率でしか、最高の人と出会えない。実はその間に「行動に踏み切る最少の人数」があって、この場合、3人見送れば、ほぼ4割の確率で10人中1番の人に結婚を申し込める、という。
これは、由紀夫の思考法の原点である、OR(オペレーションズ・リサーチ)、いわゆる「問題解決学」的思考法だ。
日本の政治史上、由紀夫ほどの「理系脳」が首相を務めたことはない。中央工学校卒の田中角栄、水産講習所卒の鈴木善幸も理・技術系といえないことはないが、その政治思考は由紀夫ほど「数学的」ではない。それはこんなエピソードでもわかる。
「新幹線も数学のおかげ」
大蔵省の官僚だった鳩山由紀夫の父、威一郎は大学で応用数学を学んだ由紀夫を捕まえて、こんな議論をしたという。威一郎「数学って世の中のためになったためしがあるのかい?」
由紀夫「冗談じゃないよ、新幹線が走るのも(数学のおかげだし)、この世の中で数学なしでまともに動いているものはない」
(2005年7月、同志社大学での特別講演「生活の中における情報と意思決定」より)
由紀夫はこのとき、まだ政治の世界に入っていない。幼少時から政治家を目指した弟の邦夫と異なり、「政治家は嫌いだ、学者になりたい」と思っていたという。しかし政治家への転身。1986年、総選挙に初当選したころから「政治を科学する」というフレーズを口にするようになる。
由紀夫は、都立小石川高校から東京大学に入学、工学部計数工学科数理工学コースで学んだ。あまり耳慣れない「数理工学」というのはなにか。由紀夫の卒論を指導した甘利俊一(当時東大助教授、現・理化学研究所脳科学総合研究センターチームリーダー)は、
「数学の方法を使って実際に起こっている工学的問題を解く、というのがねらいの学科。当時の先駆的な変わった人材が入ってきた」
と説明する。甘利によれば「礼儀正しくおとなしい紳士だった」という由紀夫は、卒論として「ホメオステイシスの工学的研究」80ページを仕上げた。
生体が外界の変化にもかかわらず安定な状態を保つ「恒常性(ホメオスタシス)」という生物学的概念を工学的に応用し、安定して働く機械が作れないかを理論的に探ることがテーマ。適応系、自己組織系、超安定系……などの専門用語や数式が散らばるが、由紀夫は論文を、
「(使っている)概念の区別が書いているうちにわからなくなってしまった」
と反省の弁で結んでおり、決して成功作とはいえそうもない。
由紀夫は東大の大学院には進まず、国外留学を選んだ。米国カリフォルニア州の名門スタンフォード大で、当初は、電気工学を学んでいたというが、そこでめぐり合ったのが、当時、新しい分野だったORだ。
もとは軍隊の作戦研究
ORは、その言葉の通り、もともとは英米の軍隊の「作戦研究」から始まった。軍をどう進ませるかという研究もあるが、もっと広くいろいろな行動すべてにわたって「筋道を通して最適な答えを得る」ためにはどうしたらいいか、数学的論理で帰納・演繹するという研究である。たとえば、こんな例がある。戦場の食事のシーン。食べたあとの食器を一人ひとり洗わなければならないが、洗い桶は四つしかない。本洗い用二つ、すすぎ用二つにしたら、行列が長く延びた。そこで、時間のかかる本洗い用の桶を三つ、すすぎ用の桶を一つだけにしたら、行列は解消し、洗う時間は大幅に短縮された……。
ORは日本でも戦後50年代以降、企業を中心に広まっていく。
当時、同じスタンフォード大学に留学、土日にはタッチフットボールにともに興じたという村上征勝(現・同志社大学文化情報学部教授)は、
「電気工学なんかで回路を扱うより、人間を対象にするオペレーションズ・リサーチの方が彼に合っていたんじゃないだろうか。政治というのも国の中で最適解を求めることだしね」
と話す。しかし、当時も由紀夫は物静かな紳士そのままで、政治への興味はおくびにもだしていなかった。
学者か政治家か迷う
スタンフォード大にはORの世界的権威の一人ジェラルド・リーバーマン教授がいた。由紀夫は彼について研究を始めた。問題は「機械システムの保全と修理」について。いろいろな機械の複合体である生産システムは、部分部分の劣化と故障でよく止まる。なるべく効率よくかつ低費用で全体を動かすには、どういう点検と修理の戦略を立てたらいいのか……ORの中心的な問題の一つだった。
由紀夫は、どういうタイミングで修理すればいいかの条件を確率論などの数学を駆使して導き、博士論文にした。ちょうど、米国が独立から200年たった1976年のことだった。長年の希望だった学者の世界の入り口に立った由紀夫は、このとき、実は学者か政治家かという二律背反の思いを抱えていた。
76年、博士号を得た由紀夫は日本へ帰り、東京工業大学工学部経営工学科(現・経営システム工学科)助手という地位を得た。80年代初めまで、ORを中心とする教育と研究に時間を費やす。主要なテーマは、米国にいたときと同じ、システムの信頼性であった。
たとえば、所属する日本オペレーションズ・リサーチ学会の和文論文誌「オペレーションズ・リサーチ:経営の科学」に「信頼性の数学」と題して連載をした。「役に立つOR」とはいいながら、中身は抽象的な数学を駆使したアカデミックなものだ。
79年、由紀夫はより現実に近い「人間の勝ち負け」にかかわる世界を科学する仕事に挑戦する。政治ではなく、スポーツの世界の分析である。
「野球のOR」と題された論文では、1死二、三塁という状況下の平均得点は1・23点であるとか、ヒットエンドランが功を奏するための不等式とか、投手起用の最適戦略とかを論じて見せている。
その翌年も、東工大の同僚の宮川雅巳(現・同大教授)と共同で、各種のスポーツにおいて強者がちゃんと弱者に勝つという仕組みがどう合理的にできているのか、について書いている。その中では「3セット先取で勝ち」としたときの卓球、テニスなどのルールでは「力の差が6対4なら99%強者が勝つ」という結論を導くなど、スポーツ好きを「へぇー」といわせる。
道路建設も計算可能
実はこのころから、由紀夫は論文を書かなくなる。留学最後の年、自分の国というものをとことん考えていた米国人を見た由紀夫は、日本人はどうなのだろう、と疑問を持ったのだった。「好き嫌いは別として、政治の世界に入らなければならない」 学問への思いを振り切るように、86年、由紀夫は現実の政治の世界に飛び込んだ。
しかし政界に入ってからも、由紀夫はOR的思考法から切れていない。先の同志社大の講義では、こんなこともいっている。
「何かを決めたいときには必ず目的がある。数学的にいうと『目的関数』、それを最大にするか、最小にするか……一般的にはそこに条件がたくさんついてくるわけです」「条件を満たす中で目的関数を最大にする、最小にするにはどうしたらよいのかという発想が、科学的意思決定の方法だと思います」
これはまさにORのエッセンスそのものだ。行政、政治にはもっと工学マインドが必要だと機会あるたびに力説し、その橋渡しがORという学問であると主張しているのだ。
たとえば、由紀夫はこんな例をあげる。1本10億円かかる道路を10本造る。しかし、年間予算は10億円しかない。それぞれに1億円ずつ出して10本同時に造り始めるか、10億円でまず1本完成させるか……道路が使える利益を考えれば、10年間1本も使えない同時建設よりは毎年1本ずつ完成させる方が「最適な意思決定」だろう。しかし、現実の政治では多くの「偉い人」の顔を立てるために10本同時建設が行われる……。
由紀夫の「政治を科学する」とは、政治の力学と官僚の計算に沿うことなく、政治家自らが合理的に意思決定したいという意気込みへのスローガンである。
ORは現実に応用されている。例をあげれば、救急車の効率的な配備/交通ネットワーク整備の最適化/選挙区割り問題/年金運営の重要度/雇用政策のシミュレーション/首都機能移転の評価……。同じ問題でも、視点や条件が違えば答えも異なってくる。しかし、その答えの出し方を、
「腹芸で決まってしまうような世界ではなく、分析して意思決定してやりたい」
と由紀夫はいう。
由紀夫の「理系脳」があるとすれば、それは数理というものが持つ客観性、合理性だ。ただ、由紀夫の結婚は、よく知られている大恋愛で、冒頭のプロポーズ理論とはかけ離れていた。なかなか、理屈通りにはいかないのが人間である。(文中敬称略)
※各媒体に掲載された記事を原文のまま掲載しています。
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