芥川賞

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』


最後の受賞者となった二名。

芥川賞(あくたがわしょう)とは石原慎太郎が選考する文学賞の名前で、通称石原賞と呼ばれている。ユダヤの豚が作ったノーベル文学賞を超える賛美が、とある東洋の島国では贈られる。

目次

[編集] 概要

不定期で発表され、選考委員は10名、石原慎太郎立川談志手塚治虫古今亭志ん朝三島由紀夫高倉健松下幸之助勝新太郎松田優作田河水泡が各10点を持った合計100点満点で採点されるというシステムだが、実際は石原の独断と偏見による選定であった。予選を通過し見事栄冠に輝くと、『新潮』『群像』『文學界』『文藝』『すばる』の五誌から絶賛されるというピンポイントな賞である。副賞はハッピーターンの粉と直木賞


[編集] 歴代受賞者

過去の受賞者の一覧及び全容である。

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氏名及び作品名年号特徴
井原西鶴、『一代男』1682年阿蘭陀人。
福澤諭吉、『学問のすゝめ』1872年學問よ進め。
坪内逍遥、『小説神髄』1885年文章の書き方。
二葉亭四迷、『浮雲』1887年露西亞小說である。
森鴎外、『舞姫』1890年獨逸における不倫小説である。
樋口一葉、『十三夜』1895年おまんこ文學。
国木田独歩、『婦人画報』1905年婦人雜誌の編輯。
夏目漱石、『倫敦塔』1905年英蘭小説である。
島崎藤村、『破戒』1906年部落人の戀物語。
志賀直哉、『暗夜航路』1914年女の乳房を觸りながら「豐年だ!豐年だ!」と叫ぶ。
芥川龍之介、『鼻』1916年自分自身のドッペルゲンガーと鬪ふ。
川端康成、『伊豆の踊り子』1926年醇朴な少年時代の話。
太宰治、『斜陽』1947年沒落してゆく貴族。
三島由紀夫、『金閣寺』1956年気違いによつて燒かれた寺の話。
大江健三郎、『死者の奢り』1957年屍體を洗ふ職業。
遠藤周作、『沈黙』1966年佛蘭西小説である。
石原慎太郎、『亡国の徒に問う』1996年母國の徒に問ふ。

[編集] 続・芥川賞

命長ければ恥多し。1935年に3歳で芥川賞の選考を始めた石原慎太郎は、齢70を超えてなお意気盛んであったが、その感覚は明らかに時代とずれてきていた。そしてついに2003年、新人を蹴落とす喜びを独り占めしたい石原の猛烈な抗議をよそに、若手からベテランまで10人あまりの作家が新しい選考委員として加わり、石原の罵詈雑言を聞き流し、受賞作をできる限り毎年、無理にでも選定する役割を担うこととなった。石原が「こんなの芥川賞じゃない。もう知らない。おうちに帰る」と、選考の途中に声を限りに叫んだため、新メンバーでの初の選考が行われた第129回からは、今までのものと区別すべく、「続」をつけて呼ばれることが奨励された。より時代にあった、新しい感覚を持った作家を発見できるメリットがある一方で、前述の「無理にでも誰かに取らせよう」という傾向がときに選考委員会を暴走させることがあり、実際、「続・芥川賞」第一回の選考は大いにもめた挙句、史上最低のクソまみれ小説を選定してしまう結果となった。討議の途中に石原は本当に帰ってしまうし、ストレスが極限に達した宮本輝高樹のぶ子は会議そっちのけでそれぞれ勝手にサワガニとカエルを弄び、河野多恵子が不思議な音楽を奏で、村上龍は異様なまでの興奮の中性器を露出し、しまいに宮本が火をつけて放したカニが応募作の束に体当たりした結果ボヤがおきるという凄まじい有様で、マスコミが賞の廃止を危惧するほどであったが、結局その後も毎年二回の選考は行われ、石原が彼のわがままに耐えかねた元SM嬢に撲殺される20××年まで続いた。石原の死は、霊媒である川上弘美が呼び出した菊池寛の霊魂によるものとする説もあるが、定かではない。石原の自我が目覚めたときに始まり、石原の死によって本当に終わった芥川賞は、長きにわたり多くの新人作家の希望となり、また、その息の根を止めた、日本が誇る素晴らしい文学賞であった。

[編集] 関連項目


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