≪特別寄稿≫私の政治哲学〜祖父に学んだ「友愛」の旗印(1)/鳩山由紀夫(民主党代表)Voice8月31日(月) 15時26分配信 / 国内 - 政治
現代の日本人に好まれている言葉の一つが「愛」だが、これは普通〈love〉のことだ。そのため、私が「友愛」を語るのを聞いてなんとなく柔弱な印象を受ける人が多いようだ。しかし私の言う「友愛」はこれとは異なる概念である。それはフランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」の「博愛=フラタナティ(fraternite)」のことを指す。 祖父鳩山一郎が、クーデンホフ・カレルギーの著書を翻訳して出版したとき、このフラタナティを博愛ではなくて友愛と訳した。それは柔弱どころか、革命の旗印ともなった戦闘的概念なのである。 クーデンホフ・カレルギーは、いまから86年前の大正12年(1923年)『汎ヨーロッパ』という著書を刊行し、今日のEUにつながる汎ヨーロッパ運動の提唱者となった。彼は日本公使をしていたオーストリア貴族と麻布の骨董商の娘青山光子の次男として生まれ、栄次郎という日本名ももっていた。 カレルギーは昭和10年(1935年)『Totalitarian State Against Man(全体主義国家対人間)』と題する著書を出版した。それはソ連共産主義とナチス国家社会主義に対する激しい批判と、彼らの侵出を許した資本主義の放恣に対する深刻な反省に満ちている。 カレルギーは、「自由」こそ人間の尊厳の基礎であり、至上の価値と考えていた。そして、それを保障するものとして私有財産制度を擁護した。その一方で、資本主義が深刻な社会的不平等を生み出し、それを温床とする「平等」への希求が共産主義を生み、さらに資本主義と共産主義の双方に対抗するものとして国家社会主義を生み出したことを、彼は深く憂いた。 「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」 ひたすら平等を追う全体主義も、放縦に堕した資本主義も、結果として人間の尊厳を冒し、本来目的であるはずの人間を手段と化してしまう。人間にとって重要でありながら自由も平等もそれが原理主義に陥るとき、それがもたらす惨禍は計り知れない。それらが人間の尊厳を冒すことがないよう均衡を図る理念が必要であり、カレルギーはそれを「友愛」に求めたのである。 「人間は目的であって手段ではない。国家は手段であって目的ではない」 彼の『全体主義国家対人間』は、こういう書き出しで始まる。 カレルギーがこの書物を構想しているころ、二つの全体主義がヨーロッパを席巻し、祖国オーストリアはヒットラーによる併合の危機に晒されていた。彼はヨーロッパ中を駆け巡って、汎ヨーロッパを説き、反ヒットラー、反スターリンを鼓吹した。しかし、その奮闘もむなしくオーストリアはナチスのものとなり、彼は、やがて失意のうちにアメリカに亡命することとなる。映画『カサブランカ』は、カレルギーの逃避行をモデルにしたものだという。 カレルギーが「友愛革命」を説くとき、それは彼が同時代において直面した、左右の全体主義との激しい戦いを支える戦闘の理論だったのである。 戦後、首相の地位を目前にして公職追放となった鳩山一郎は、浪々の徒然にカレルギーの書物を読み、とりわけ共感を覚えた『全体主義国家対人間』を自ら翻訳し、『自由と人生』という書名で出版した。鋭い共産主義批判者であり、かつ軍部主導の計画経済(統制経済)に対抗した鳩山一郎にとって、この書は、戦後日本に吹き荒れるマルクス主義勢力(社会、共産両党や労働運動)の攻勢に抗し、健全な議会制民主主義を作り上げるうえで、最も共感できる理論体系に見えたのだろう。 鳩山一郎は、一方で勢いを増す社共両党に対抗しつつ、他方で官僚派吉田政権を打ち倒し、党人派鳩山政権を打ち立てる旗印として「友愛」を掲げたのである。彼の筆になる『友愛青年同志会綱領』(昭和28年)はその端的な表明だった。 「われわれは自由主義の旗のもとに友愛革命に挺身し、左右両翼の極端なる思想を排除して、健全明朗なる民主社会の実現と自主独立の文化国家の建設に邁進する」 彼の「友愛」の理念は、戦後保守政党の底流に脈々として生きつづけた。60年安保を経て、自民党は労使協調政策に大きく舵を切り、それが日本の高度経済成長を支える基礎となった。その象徴が昭和40年(1965年)に綱領的文書として作成された『自民党基本憲章』である。 その第1章は「人間の尊重」と題され、「人間はその存在が尊いのであり、つねにそれ自体が目的であり、決して手段であってはならない」と記されている。労働運動との融和を謳った『自民党労働憲章』にも同様の表現がある。明らかに、カレルギーの著書からの引用であり、鳩山一郎の友愛論に影響を受けたものだろう。この二つの憲章は、鳩山、石橋内閣の樹立に貢献し、池田内閣労相として日本に労使協調路線を確立した石田博英によって起草されたものである。 ◇自民党一党支配の終焉と民主党立党宣言◇ 戦後、自民党が内外の社会主義陣営に対峙し、日本の復興と高度経済成長の達成に尽くしたことは大きな功績であり、歴史的評価に値する。しかし、冷戦終焉後も経済成長自体が国家目標であるかのような惰性の政治に陥り、変化する時代環境のなかで国民生活の質的向上をめざす政策に転換できない事態が続いた。その一方で政官業の癒着がもたらす政治腐敗が自民党の宿痾となった観があった。 私は、冷戦が終わったとき、高度成長を支えた自民党の歴史的役割も終わり、新たな責任勢力が求められていると痛感した。そして祖父が創設した自民党を離党し、新党さきがけの結党に参加し、やがて自ら党首となって民主党を設立するに至った。 平成8年9月11日「(旧)民主党」結党。その「立党宣言」にいう。 「私たちがこれから社会の根底に据えたいと思っているのは『友愛』の精神である。自由は弱肉強食の放埒に陥りやすく、平等は『出る釘は打たれる』式の悪平等に堕落しかねない。その両者のゆきすぎを克服するのが友愛であるけれども、それはこれまでの100年間はあまりに軽視されてきた。20世紀までの近代国家は、人々を国民として動員するのに急で、そのために人間を一山いくらで計れるような大衆(マス)としてしか扱わなかったからである。(中略) 私たちは、一人ひとりの人間は限りなく多様な個性をもった、かけがえのない存在であり、だからこそ自らの運命を自ら決定する権利をもち、またその選択の結果に責任を負う義務があるという『個の自立』の原理と同時に、そのようなお互いの自立性と異質性をお互いに尊重しあったうえで、なおかつ共感しあい一致点を求めて協働するという『他との共生』の原理を重視したい。そのような自立と共生の原理は、日本社会の中での人間と人間の関係だけでなく、日本と世界の関係、人間と自然の関係にも同じように貫かれなくてはならない」 武者小路実篤は「君は君、我は我也、されど仲良き」という有名な言葉を残している。「友愛」とは、まさにこのような姿勢で臨むことなのだ。 「自由」や「平等」が時代環境とともにその表現と内容を進化させていくように、人間の尊厳を希求する「友愛」もまた時代環境とともに進化していく。私は、カレルギーや祖父一郎が対峙した全体主義国家の終焉を見た当時、「友愛」を「自立と共生の原理」と再定義したのである。 そしてこの日から13年が経過した。この間、冷戦後の日本は、アメリカ発のグローバリズムという名の市場原理主義に翻弄されつづけた。至上の価値であるはずの「自由」、その「自由の経済的形式」である資本主義が原理的に追求されていくとき、人間は目的ではなく手段におとしめられ、その尊厳を失う。金融危機後の世界で、われわれはこのことにあらためて気が付いた。道義と節度を喪失した金融資本主義、市場至上主義にいかにして歯止めをかけ、国民経済と国民生活を守っていくか。それがいまわれわれに突き付けられている課題である。 この時にあたって、私は、かつてカレルギーが自由の本質に内在する危険を抑止する役割を担うものとして「友愛」を位置づけたことをあらためて想起し、再び「友愛の旗印」を掲げて立とうと決意した。平成21年5月16日、民主党代表選挙に臨んで、私はこう言った。 「自ら先頭に立って、同志の皆さんとともに、一丸となって難局を打開し、共に生きる社会『友愛社会』をつくるために、必ず政権交代を成し遂げたい」 私にとって「友愛」とは何か。それは政治の方向を見極める羅針盤であり、政策を決定するときの判断基準である。そして、われわれがめざす「自立と共生の時代」を支える精神たるべきものと信じている。 ◇衰弱した「公」の領域を復興◇ 現時点においては、「友愛」は、グローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統のなかで培われてきた国民経済との調整をめざす理念といえよう。それは、市場至上主義から国民の生活や安全を守る政策に転換し、共生の経済社会を建設することを意味する。 いうまでもなく、今回の世界経済危機は、冷戦終焉後アメリカが推し進めてきた市場原理主義、金融資本主義の破綻によってもたらされたものである。米国のこうした市場原理主義や金融資本主義は、グローバルエコノミーとかグローバリゼーションとかグローバリズムとか呼ばれた。 米国的な自由市場経済が、普遍的で理想的な経済秩序であり、諸国はそれぞれの国民経済の伝統や規制を改め、経済社会の構造をグローバルスタンダード(じつはアメリカンスタンダード)に合わせて改革していくべきだという思潮だった。 日本の国内でも、このグローバリズムの流れをどのように受け入れていくか、これを積極的に受け入れ、すべてを市場に委ねる行き方を良しとする人たちと、これに消極的に対応し、社会的な安全網(セーフティネット)の充実や国民経済的な伝統を守ろうという人たちに分かれた。小泉政権以来の自民党は前者であり、私たち民主党はどちらかというと後者の立場だった。 各国の経済秩序(国民経済)は年月をかけて出来上がってきたもので、その国の伝統、慣習、国民生活の実態を反映したものだ。したがって世界各国の国民経済は、歴史、伝統、慣習、経済規模や発展段階など、あまりにも多様なものなのである。グローバリズムは、そうした経済外的諸価値や環境問題や資源制約などをいっさい無視して進行した。小国のなかには、国民経済が大きな打撃を被り、伝統的な産業が壊滅した国さえあった。 資本や生産手段はいとも簡単に国境を越えて移動できる。しかし、人は簡単には移動できないものだ。市場の論理では「人」というものは「人件費」でしかないが、実際の世の中では、その「人」が地域共同体を支え、生活や伝統や文化を体現している。人間の尊厳は、そうした共同体のなかで、仕事や役割を得て家庭を営んでいくなかで保持される。 冷戦後の今日までの日本社会の変貌を顧みると、グローバルエコノミーが国民経済を破壊し、市場至上主義が社会を破壊してきた過程といっても過言ではないだろう。郵政民営化は、長い歴史をもつ郵便局とそれを支えてきた人々の地域社会での伝統的役割をあまりにも軽んじ、郵便局のもつ経済外的価値や共同体的価値を無視し、市場の論理によって一刀両断にしてしまったのだ。 農業や環境や医療など、われわれの生命と安全にかかわる分野の経済活動を、無造作にグローバリズムの奔流のなかに投げ出すような政策は、「友愛」の理念からは許されるところではない。また生命の安全や生活の安定にかかわるルールや規制はむしろ強化しなければならない。 グローバリズムが席巻するなかで切り捨てられてきた経済外的な諸価値に目を向け、人と人との絆の再生、自然や環境への配慮、福祉や医療制度の再構築、教育や子どもを育てる環境の充実、格差の是正などに取り組み、「国民一人ひとりが幸せを追求できる環境を整えていくこと」が、これからの政治の責任であろう。 この間、日本の伝統的な公共の領域は衰弱し、人々からお互いの絆が失われ、公共心も薄弱となった。現代の経済社会の活動には「官」「民」「公」「私」の別がある。官は行政、民は企業、私は個人や家庭だ。公はかつての町内会活動やいまのNPO活動のような相互扶助的な活動を指す。経済社会が高度化し、複雑化すればするほど、行政や企業や個人には手の届かない部分が大きくなっていく。経済先進国であるほど、NPOなどの非営利活動が大きな社会的役割を担っているのはそのためだといえる。それは「共生」の基盤でもある。それらの活動は、GDPに換算されないものだが、われわれが真に豊かな社会を築こうというとき、こうした公共領域の非営利的活動、市民活動、社会活動の層の厚さが問われる。 「友愛」の政治は、衰弱した日本の「公」の領域を復興し、また新たなる公の領域を創造し、それを担う人々を支援していく。そして人と人との絆を取り戻し、人と人が助け合い、人が人の役に立つことに生きがいを感じる社会、そうした「共生の社会」を創ることをめざす。 財政の危機はたしかに深刻だ。しかし「友愛」の政治は、財政の再建と福祉制度の再構築を両立させる道を、慎重かつ着実に歩むことをめざす。財政再建を、社会保障政策の一律的抑制や切り捨てによって達成しようという、また消費税増税によって短兵急に達成しようという財務省主導の財政再建論には与しない。 財政の危機は、長年の自民党政権の失政に帰するものである。それは、官僚主導の中央集権政治とその下でのバラマキ政治、無批判なグローバリズム信仰が生んだセーフティネットの破綻と格差の拡大、政官業癒着の政治がもたらした政府への信頼喪失など、日本の経済社会の危機の反映なのである。 したがって、財政危機の克服は、われわれがこの国のかたちを地域主権国家に変え、徹底的な行財政改革を断行し、年金はじめ社会保障制度の持続可能性についての国民の信頼を取り戻すこと、つまり政治の根本的な立て直しの努力を抜きにしてはなしえない課題なのである。 【関連記事】 ・ 『老人政党』を『若者政党』に変えるために 金坂 成通 ・ 郵政見直しが招く大損害 竹中平蔵 ・ 国民を無視した解散会見 上杉 隆 ・ グリーン革命の楽観論 伊藤元重 ・ グーグル情報革命の崩壊 山本一郎 |
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