洋々youyouのブログ

アセンションをキーワードとした日々の気づきを綴るブログです。

ブログ閉鎖のご挨拶


おひさしぶりです。4ヶ月間ぶりの更新です。私のほうは超元気です。身辺多忙のためなかなかブログの更新が出来ませんでした。

おかげさまで「プロジェクトX」は私の手を離れて巣立ちすることになりました。先日、事業認可が降り、来年度から本格稼動することになりました。すでに日経新聞などでこっそり報道されているので、カンの良い方はお気づきかもしれませんね。

同プロジェクトの中心となる某ハウスメーカーの事業計画書によると、今年度の売上は0円で、2012年には3億6千万円(=ミロク)の売上を目指すそうです。

プロジェクトXが営利事業としてスタートした時点で私が思い描いていた当初の理念とはやや違ってきましたが、それもまた大きな流れの1つと感じます。結果的に、私はアイデアと基本理念を提供しただけで、一切の報酬を受け取ることなく身を引くことになりました。

一方、9月から別の新規プロジェクトを開始することになりました。これまでの執筆業の延長ですが、うまくいけば新しい世を築くためのシステム作りに貢献できる可能性があります。すでにパートナー企業とともに情報収集に当たっていますが、大手出版社から予算がつき、来年4月くらいまではこのプロジェクトに専念することになりそうです。

というわけで、相変わらず体がいくつあっても足りない日々を送っています。

ブログをしばらく休載してまた再開することも検討しましたが、どうも中途半端に放置プレーしておくのが落ち着かず、今月一杯でいったん当ブログを閉鎖し、また書きたくなったときに再開したいと思います。

長い間、ご愛読ありがとうございました。

またどこかでお目にかかれることを楽しみにしています。

2009年8月23日  前途洋々 yo(^○^)yo



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ついちん yo(^○^)yo: 2009年8月29日

綾華さん、ぽめママさん、まさべえさん、そら色のテリアさん、☆TSU☆さん、ていこ*さん、白くまさん、めっちぇさん、ローズアリスさん、多喜さん、秋桜☆さん、ちゃこ(@▽@)さん、コメントありがとうございました。これまでの記事は賞味期限切れですので、いったん削除し、また気が向いたら同じURLで再開したいと思います。またいつかお会いしませう^ ^

ムックリ演奏3-跳躍


ムックリの即興演奏第三弾です。

カエルのような跳躍のエネルギー を表現してみたいと思いました。

竹のしなりとバネを感じる不思議な響きが出ていると思います。

個人的には一番気に入っている作品です。

以下の洋ツベでご覧いただけます。





または以下のリンクをクリックすればYouTubeに行けます:

http://www.youtube.com/watch?v=jjB-ZVKMd9E


以上、ムックリ即興演奏三部作でした。

ムックリ演奏2-雨だれ


ムックリ即興演奏第二弾です。

雨だれの音をイメージしてみました。

自然の音というのはとても軽快でダイナミックです。

水はあらゆるものを浄化する効果があります。

ムックリの共振する倍音の音が水の流れを連想させてくれます。

以下の洋ツベでご覧いただけます。





または以下のリンクをクリックすればYouTubeに行けます:

http://www.youtube.com/watch?v=uooggRMlaP0

ムックリ演奏1-縄文のリズム

ムッコリ全体





アイヌの民族楽器であるムックリを即興演奏してみました。

ムックリ=69理=3・6・9次元の倍音共鳴

というわけで、縄文人のパワーを感じ取っていただければ幸いです。

以下の洋ツベでご覧いただけます。




または以下のリンクをクリックすればYouTubeに行けます:

http://www.youtube.com/watch?v=fIhIjcl4bmU

創造エネルギーの解放(その3)

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三部作のまとめです。

最初の記事では割れたマグカップの話を紹介しました。

割れたマグカップは世界にたった1つだけです。

割れてしまえば、それは「死」を意味します。ですが、物理的に機能も色もデザインもまったく同じものを100円ショップで買えば、一種の「再生(=蘇えり)」になるわけです。

実際は、同じものをいくつでも生産できるので、マグカップには「死」は存在しないことになります。

ダーウィンの進化論によれば、人は「自然淘汰」を経て偶然の積み重ねによって進化して登場した生き物ということになります。

もし人が死んで終わりであれば、人はマグカップ以下のはかない存在ということになってしまいます。

どちらかといえば、ダーウィンのような考え方よりも、仏教などで見られる「転生」(生まれ変わり)という考え方を導入したくなるのは、人としての自然な感情だと思います。

ところで、マグカップは、自然淘汰によって偶然に出来たものではありません。人が泥をこねくりまわしていたら、自然にできたわけでもありません。明らかにある「意図」を持って人が「創造」したものです。

ここに創造の本質が垣間見えます。

創造とは、ある意図をもって何かを生み出す力です。さらにいえば、その意図の根源となるエネルギーは人のもつ自由意思であり、「自立と選択」であり、生命がよりよく生きようとする根源的な力(フォース)です。

どのような存在でも(たとえ天地の創造主たる「神」でも)、人の自由意思をコントロールすることはできません。すなわち、自由な精神を与えられているということは、神と同等の創造エネルギーを持つ存在であることを意味します。

地球という三次元世界は、「時間」というトリックを使って、人の自由意思(=創造性)を徹底的に封じ込めることを可能にした奇跡の実験場でした。

そして、ある意味で、それは大成功でした。

多くの人は、「時間」という幻想に見事につかまり、本当はあらゆる意味ですでに自由なのに、「不自由である(何かが足りない)」という幻想を持つことが出来たのです。

そうして、「今は出来ないけどあとでやろう」とか「将来の幸せのために今はガマンしてがんばろう」とか「いつか自由になったらこんなことをしたいな」などという幻想のゲームを楽しんできたわけです。

最初の質問を思い出してください。

もしも三次元の現実社会のあらゆる制限や束縛から離れ、完全に自由になったときに、あなたは何を一番したいですか? 

「いま」がその時なのです。

これまでの三次元の抑圧期間とは、「時間」という幻によって徹底的に抑圧され、埋没してきた個人の創造エネルギーを一気に解放するための楽しい準備期間だったともいえます。

その集合意識を一気に解放するイベントこそが、多次元的なガイアアセンションの一側面です。

完全に自由になったとき=いま=すでに完全に自由になっている

「いま」という存在のしかたに徹底的にフォーカスすることによって、初めて「創造」のスパークが生じます。その仕組みは、太陽の光を一点に集める虫メガネにも似ています。

したがって、創造エネルギーの解放には「時間の消失」という意識状態が伴うことを知っておいて損はないと思います。

もっと簡単な例を挙げます。

爆笑している瞬間、
美味しいものを味わっている瞬間、
音楽を聴いたり演奏している瞬間、
何かの制作に没頭している瞬間、
恋人や気の合う仲間と楽しいひとときを過ごす瞬間、
…etc

これらすべてが創造の「瞬間」です。

上記のようなさまざまな「瞬間」には、時間の経つのを忘れ、意識の中では時間が存在しなくなっています。

その瞬間の中に「永遠」があるわけです。

瞬間=永遠

「瞬間」の中に「永遠」を感じるというのは、実質的な寿命が延びるのと同じ理屈になります。

もう少し具体的に言いましょう。

時間の幻想から解放されたとき、初めて創造エネルギーの片鱗が自分の中に生まれてくるのを感じるようになります。

それは、物理的には「一瞬」であっても、何十年、何百年という年月に匹敵するような情報を処理している自分の存在を感じることになります。

芸術は長く人生は短い

これはいくつもの意味があって、人が死んだあとでも芸術作品は生き続ける、という意味合いも含まれています。

本人の生物学的な寿命の限界を超えて、作者の意思が何百年も生き続けるわけです。

一方で、「老いない人々」というのが存在します。日本人女性の中には、生物年齢が50代であっても、まるで10代の少女のような外観、性格の人もいます。こういう人がこれからますます増えると思います。

私がわざわざ記事にするまでもなく、「個人の創造エネルギーの解放」は、すでに大きなトレンドになりつつあると思います。

これまでは、マスコミや巨大企業や政治や資本主義経済という「システム」による個人エネルギーの抑圧がありました。

ですが、世界においても日本においても、すでに多くの人は、マスコミや巨大企業や政治の洗脳から脱出しつつあります。

ただし、そうした洗脳システムが「悪」だったわけではありません。

そうした洗脳やマインドコントロール(=創造性の抑圧)こそが、人類および個人の巨大な創造エネルギーの解放のための準備期間であり、ジャンプの前に身をかがめて跳躍の力を溜めているのと同じ状態であったという認識が大切だと思います。

これまでどおりに楽しいマイコンゲームに遊ぶのもよし、マイコンから脱して日常生活から「自立と選択」を開始するのもよし、何もするのも個人の自由です。

特にがんばって何かする必要もないし、何かいまの自分と違うものになる必要もありません。

いましていること、感じていること、考えていること、それらが人生のすべてです。

「時間」という幻のルールを楽しむのもよいでしょう。
「時間」という幻のルールから脱却した生活を楽しむのもよいでしょう。

すべては自分の自由意思しだいです。ただし、1点だけ注意すべき点があります。

心の深いところの自由意思は、通常は意識できない部分にあります。心の深いところで手放したくないと思っている幻は手放すことはできません。

そうした意識の深いところにある純粋な部分に触れ、感じるには、ある程度の「浄化」が必要です。浄化とは、この三次元の垢(ノイズのようなもの)をそぎ落としていく作業です。どんな汚れでも、洗えば簡単に落ちます。

もともと、すべての人々は完璧な存在です。ですから、一時的にどんな状態であっても、すべては完璧に進行しています。

ミクロで見れば、痛みも、病も、貧困も、不幸も存在します。それを否定したり、忘れたり、逃避することはできません。

ですが、マクロでみればそうしたものは「幻」のように感じる一瞬があるはずです。

それが時間の消失点(=ほけらかん意識)です。

そこが創造エネルギーの着火点であり、発光寸前の意識状態です。

多くの人は発光寸前のダイオードのような意識を構築しつつあります。私の眼には、点火まで秒読みの段階に入っているように見えます。

今回の記事でお伝えしたかったこと、それは時代の大きな流れが「個人の創造エネルギーの解放」に向かいつつあるという事実です。それは至るところに見られます。

それをどう受け止め、どのように生きるかは、一人ひとりの個人の完全な自由意思にまかされると思います。

いろいろな意味でこれから楽しみな時代です。

創造エネルギーの解放(その2)

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これからの時代は、個人の創造エネルギーの解放だと述べました。

これには2つの意味があります。


1つは、社会、国家、集団ではなく、「個人」という単位がこれまで以上に大きくなるということです。

もう1つは、これまで抑圧されてきたエネルギーを「解放」するということです。

それには、この三次元世界の特性を知ることが大切です。

この三次元世界はパラドックス(=二極性)によって構成されています。

この宇宙はビッグバン以来、様々な次元の世界を創造し続けて、最後に三次元の物質世界を生み出しました。

三次元の物質世界とは、簡単に言えば「陰」(negative)と「陽」(positive)の織り成す、らせん構造の世界です。

その陰と陽が出会うとき、光のスパークが生じて、さまざまな現象界の「色」が生まれます。

P型半導体とN型半導体を組み合わせた発光ダイオードは、その様子を模したものです。

大切なことは、この三次元とは、意図的に大きな制約(=陰と陽の分離)を設定することによって、初めて成立する世界だったということです。

ここ数年、「善(陽)と悪(陰)の統合」のようなスピリチュアル系のトレンドがありますが、そもそも、この三次元は「善と悪の分離」によって構成された世界です。

ですから、それらを統合するということは三次元世界の消滅を意味することであり、そもそもそれ自体が壮大なパラドックスなのです。

善と悪を統合してしまえば、プラスマイナスゼロとなり、二極性は存在しなくなります。その瞬間、そこに三次元世界は存在しなくなってしまうという理屈になります。

プラス(陽)+マイナス(陰)=0=空=無

実際には、多少の統合意識を確立しても、完全な「無」になるわけではありません。

単に、「より二極性の弱い世界」へと移行するだけです。本来、こうした移行段階は、究極の高次元(=極点=ゼロポイント)に至るまで無数にあります。

したがって、ある世界や惑星が丸ごと高い次元に移行したとしても、そこでも二極性は存在します。ただし、三次元の物質世界ほどに極端でないというだけの話です。

三次元から上の次元へと統合していくプロセスは、本来は連続的な移行でありながら、非連続的に見えるような一種の「ギャップ」があるように見えるという特徴があるようです。

本来は連続的な周波数の波動である光を肉眼で見ると、あたかも3色とか7色のように見えるのと同じです。

本当は境界など何もなく、色の区別もないのですが、ある視覚的な脳内ルールを設定して光という波動を眺めると、美しい虹色に見えるわけです。

アセンションも同じです。そうした移り変わる波長の境目を境目として認識するにすぎません。本当はそうした境目などは存在しないのですが、それを境目として認識することによって、とても美しく壮大な宇宙のドラマが浮かび上がってきます。それが今回のガイアアセンションの本質でもあります。

少し話しがそれました。個人の創造エネルギーの解放の話に戻ります。

エネルギーを解放するということは、これまで抑圧されていたということを意味します。

小さな抑圧は気がつきますが、大きな(=社会的な)抑圧はなかなか気づかないものです。

その1つが現代の社会システムです。

現在の社会システムは大きな「ロス」のもとに成り立っています。

たとえば、ある人がAという地点からBという地点に行きたいとします。

以下を比較してください。

(縄文時代)A地点からB地点まで徒歩で30分

これで終わりです。これがロスのない時代です。今度はこれを現代文明社会に当てはめてみます。

(現代の日本)A地点からB地点まで車で3分
⇒そのために新車を購入する
⇒そのために車を誰かが製造する
⇒そのために燃料のガソリンをどこかの国で採掘する
⇒そのために世界中の輸送網や製造業などが発展する
⇒そのために地球温暖化が進む
⇒そのために地球の各地に様々な被害が出る
⇒そのためにそれらの被害の対策が必要になる
⇒そのために温暖化防止策が真剣に討議される
⇒そのために解決策の1つとしてエコカーの開発に力を注ぐ
⇒そのためにたくさんのエネルギーと労力が投入される
⇒そのためにたくさんの人々が忙しく働くようになる
⇒そのためにいろいろなストレスのためにたくさんの人が病気になる
⇒そのために次々と新薬が開発される

etc.

きりがないのでこの辺にしておきます。

三次元の社会とは、こういうエンドレスのロスの連鎖で成り立っているわけです。

ある意味で、三次元とは、ロスを楽しむゲームをするために成立したような次元ともいえます。

その中には、多くのマインドコントロールのアイテム(=幻)がたくさんあります。

現在、そうした三次元の仕組みを正しく見抜き、三次元の幻に振り回されない意識を確立する人々が増えてきています。

それにより、現在よりもロスの少ない社会が構築されつつあります。それが新しい世界の始まりです。そしてそれはすでに至るところに見られます。

創造エネルギーの解放(その1)

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これからの時代のキーワードは、「個人の創造エネルギーの解放」だと思います。

創造エネルギーの本質とは、生命エネルギーそのものです。


過去、地球上で何度も生物の大絶滅がありましたが、それでも生命を根絶するに至りませんでした。

たとえ滅んだように見えても、何度でもたくましく蘇ってくるのが生命エネルギーの本質なのです。

もっと簡単な例を挙げましょう。

お気に入りのマグカップがあったとします。100円ショップで買ったものです。何年も愛用し、とうとう割れてしまいました。生き物であれば、壊れてしまうことは「死」に相当します。ですが、同じマグカップを100円ショップで買ってくれば、今までと同じようにお気に入りのマグカップを再び使うことができます。

ここから何が分かるかというと、「カタチ」には生命の本質はないということです。

生命の本質とは、生と死の繰り返しです。すなわち、いったん滅んだように見えても(=壊れても)、ほぼ同じ三次元的な形状を再生するという、限りなき循環があるだけです。その背後には、三次元の物質にイノチを吹き込む、次元の違う世界の法則があるわけです。

簡単に言えば、「生と死のプロセスの循環」こそが生命(=創造)の本質なんですね。

人の創造エネルギーは、万物を生み出す自然界のエネルギーと同じです。鳥や虫や樹木も同種のエネルギーを持っていますが、人間ほどの自由度はありません。どちらかといえば、環境に適応するための創造エネルギーです。人の場合、あらゆるものを創造できるのが最大の特徴です。

日本語は不思議な言語で、音節(=音の種類)が少ないこともあって、同音異義語が非常に多い言語です。

創造=想像

このように、同音異義語が物事の本質を表していることがとても多いのです。

今後の時代のキーワードは、一言で言えば次のコトバに集約されます。

個人の創造エネルギーの解放

これは人に与えられた無限の想像力に気づくことにほかなりません。

ここで、想像(=創造)してみてください。

もしも三次元の現実社会のあらゆる制限や束縛から離れ、完全に自由になったときに、あなたは何を一番したいですか? 

お金は無尽蔵に使えるとします。
「衣食住」の不自由も一切ありません。
その気になれば、世界中のどこにでも行けます。
どんな人にも会うことができます。
自由な時間は無限にあります。
自分の好きな人間関係だけを選択できます。
あらゆる制限、義務、拘束はありません。
何をしても、誰からも非難されません。
etc....

このようになったとき、あなたは何をしたいですか。そこで「本当にしたいと思えること」が創造エネルギーの解放の手段となるのです。

私が見たところ、現代人は「衣食住」を満たすという人としての最低条件をかろうじてクリアしているに過ぎません。現代人は、自由な時間もほとんどなく、いろんな道徳や固定観念に縛られて、とても不自由な生活を過ごしています。1万年以上前の縄文人のほうが、はるかに豊かな生活を営み、自由な時間もエネルギーもたっぷりありました。

これからの時代は、自由度がどんどん増えていきます、良いことでも、悪いことでも思いのままです。そうなったとき、あなたは本当に何をしたいですか?

縄文人は、平和で日々感謝し、短い生涯を楽しく暮らすことを選択しました、だからこそ、数万年に渡って戦争や犯罪とも無縁の社会でした。性に対してもとてもおおらかで、子供を生み育てるという女性に対する畏敬の念の強い社会でした。

ある意味で、犯罪や戦争とは、不自由から脱出するための心の叫びです。ですから、完全に自由で豊かで満ち足りた社会であれば、犯罪や戦争など起こりようがないのです。

現代の日本は世界に先がけて、そうした方向に向かいつつあります。

もう一度、自分の心に問いかけてみてください。

本当の意味で自由になったとき、あなたは何を一番したいですか?

お金も、時間も、衣食住も、ありあまるほどの豊かな環境だったと想像し、一切の制限がない状態で、何を一番したいかと想像してみてください、

それが創造エネルギーの解放の第一歩です。


追伸:
今回は全3回のシリーズ連載です。

因果律の逆転(後編)

前記事では、「原因=結果」であり「手段=目的」であるのがロスのない統合意識であると述べました。

これについて、もう少し詳しく説明してみたいと思います。

そもそも、人は何かの意図をもって行動しているわけではありません。

本当は行動がすべてであり、意図=行動であり、両者の間に分離はないのが自然です。

赤ちゃんは、お腹が空いたから泣くのであり、目の前に母乳やミルクがあるからそれを飲むわけです。

お腹が空いた=泣く
目の前の母乳やミルク=それを飲む


赤ちゃんの場合、等号(=)で結ばれた左右の関係は、かぎりなく一致しています。タイムラグがあったとしても、せいぜい数秒です。

ところが、大人はそれを複雑にしてしまいます。わざと遠回りするといってよいかもしれません。

目の前の食べ物をお腹いっぱい食べればいいだけなのに、それには目を向けず、わざわざ何十年もガマンして、一生懸命働いて、お金を稼いでからお腹いっぱい食べようと思うわけです。

目の前の食事をおあずけして、その食事に「目的」「目標」「夢」「将来の展望」などと名前を付けるわけです。

そうしている間に、せっかくの美味しい食事も鮮度が悪くなり、冷めてまずくなってしまいます。

世の中の多くのシステムは、これに近いことを行なっています。

また、因果律が成立するためには、「時系列(=時間的な順序)」という考え方が必須になります。

ところが、本来は物事には絶対的な時間や順序は存在しないのです。

時間という物理的な存在があって、それに合わせて物事が進行しているわけではありません。

時間を測定するのは、物事の変化や順序を観察するときだけです。

たとえば、目の前に10品目のおかずがあったとします。それを食べる順序は自由です。

また、自分が実際に食べ終わるまでが食事にかかった時間であり、その長短には意味はありません。

自分が食事をした時間と、地球が太陽の周囲を一周する時間(=時計時間)はほとんど関係ないといってよいからです。

何かが順番に起こっていて、その順序に意味があるということ自体が不自然な場面が圧倒的に多いのです。

ですから、物事の順序にもあまり意味はないし、地球の公転周期(=1年間)と日常の動作を比較するための時計時間もあまり意味はないのです。

すべては自分で決められる行動です。

ですから時間は存在しません。リアルで存在し、コントロールできるのは自分の「行動」だけです。

これに気づくのが、時間の幻想から脱出する鍵です。

その瞬間、時間が消失します。時計の時間が意味を失うわけです。

残るプロセスは「変化」だけです。

すべての生物には、月日の経過とともに生物学的な「老い」が訪れます。これは変化の一種です。

変化のバロメータとして「老い」は使えますが、時計時間は絶対的なバロメータとはなりえません。

これは老化の個人差を見れば明らかです。

この世のすべての物質は崩壊の方向に向かいます。建築も、人間の身体も、だんだん壊れていきます。

これらもすべて変化です。

そこには因果律はほとんど存在しません。単に変化のプロセスがあるだけです。

寄せては返す波のように、四季折々のうつろいのように、人の呼吸や生死のように、そこには変化しつづけるという宇宙のプロセスがあるだけです。

変化だけが変わらないもの

本当は因果律も、時間も存在しません。これに気がつけばあとは簡単です。

変化のプロセスを唯ひたすら楽しむ

これが統合意識です。

そこでは光も闇も同じ仲間です。すべてはおおいなるプロセスの一部です。

明暗がやがて色を生み出し、かぎりない変化を生み出す…それが宇宙の成り立ちでもあります。

変化の波に身をまかせてすべてを楽しみ、味わい、経験し、自由自在に現実を創造すること…それが「ほけらかん意識」にほけなりません。

現在、さまざまな社会現象や個人の出来事として「因果律の逆転」が見られますが、さまざまな「幻」から脱してリアルを思い出すという一連の大きな流れに気づくことが大切だと思います。

因果律の逆転(中編)

因果の流れは川の流れのようなものです。

上流に水源があり、最初は小さな清流だったのが、下流になるにつれてしだいに広い川となり、最終的に海に注ぎ込みます。

ミクロで見れば、水源(原因)から海(結果)が生じたように見えます。次のような関係です。

水源(原因)⇒海(結果)

もう少し大きな視点で見れば、水源から海まではすでにつながっており、上空から見えのは「水源ー河川ー海」というラインだけです。

このラインは、空から見ればほとんど変化しないように見えるはずです。変化するのは水の流れだけです。

さらにいえば、海の水が蒸発し、大気中の水蒸気となり、それが雲になり、雲が雨を降らし、降った雨が地面にしみこんで、山の水源となります。

こうしてみると、水源と海はどちらが原因なのかよくわからなくなってきます。

これをまとめてみると

水源(原因)⇒海(結果)=海(原因)⇒水源(結果)

ここから分かるのは、本来は次のような関係だということです。

水源(原因)=海(結果) であり かつ 海(原因)=水源(結果)

ここから導かれるのは次の結論です。

原因=結果

これが因果律の正体です。ここにすべての鍵があります。

本来、原因と結果の間には分離はないと考えるのが自然なのです。これは人の統合意識と同じです。

手段=目的

このような行動には分離が生じません。「やりたいこと=すでにしていること」だからです。

こうした行動には、まったくといってよいほどロスがありません。

スピリチュアル的な表現を借りればカルマや業が発生しないのです。

したがって、「原因=結果」であり「手段=目的」である行動こそが最高の統合意識であり、因果律から解放された自由な精神の発露が可能になると考えられます。

そのような意識状態では、「やりたいこと」「ほしいもの」「なりたいもの」という概念が存在しません。

やりたいこと=すでにしていること=すでにしたこと=これからすること

ほしいもの=すでに手に入れているもの=過去に手にしたもの=これから手に入れるもの

なりたいもの=すでになっているもの=過去になったもの=これからなるもの


こういう意識では、いわゆる「目標」「目的」「課題」などというものは存在しなくなります。

同時に、1)やりたいことはすべてできるし、2)ほしいものはすべて手にはいり、3)なりたいものすべてになれます。

そして、1)から3)が「すでにぜんぶ起きている」状態のまま、それが永続するのが統合意識です。

そこに因果律は作用しません。原因と結果が同時に起こるので、両者の区別はありません。

それが「ほけらかん意識」の真髄でもあります。子供の頃の純粋な意識にも似ています。

「因果律の逆転」が起こるように見えるのは、過去の「原因⇒結果」というエネルギーを中和してプラスマイナスゼロにするための働きだと考えています。

現代では、「結果⇒原因」というエネルギー場が発生することによって、これまでのようなロスの大きな「カルマの清算」を回避できる道が開けているようにも感じます。

その背後では、本来の「原因=結果」というニュートラル状態(=ゼロポイント意識)への変容が進行しているようです。

「因果律の逆転」の本質は、「原因=結果」の統合、すなわち「因果律の消滅」に向かうための中間プロセスであると感じます。

ここで大事なことがあります。「因果律の逆転」には、かならずといってよいほど「時間」という概念の消滅が伴うことです。

これまでの人類の集合意識は、主に時間的な順序関係によって構築されていました。

現在、その制限(=枠)が外れかけていると感じます。

これについては次の記事でまとめてたいと思います。

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因果律の逆転(前編)

通常、物事の流れは次のような順序となっています。

「原因⇒結果」

これを因果律(=因果の法則、因果関係)といいます。

「苦労は報われる」「努力した分だけ幸せになる」「善因善果」「因果応報」「願いは実現する」「引き寄せの法則」「親の因果が子に報い」などは、すべて因果律です。

要するに、まず原因があり、次に結果が生じるという考え方です。

上記の因果律においては、「原因と結果の順序は逆転しない」という暗黙の了解がありました。

たとえば、大人になって社会で出世して、高収入になり、多くの人に認められて、幸せな家庭を築くためには、子供の頃から一生懸命がんばって努力しなければならないわけです。

努力(「原因」の種まき)⇒その「結果」としての「幸せ」

この場合、「努力した結果として幸せになる」という簡単な因果律です。

地球という星は、ある意味で因果律の実験場でした。

因果律は、これまでの社会で非常にうまく機能してきました。「原因」があって、「結果」が生じるまでに、ある程度のタイムラグ(時間のずれ)があったためです。

こうした時間的な余裕があったため、人は「どのような原因を作ればどのような結果が生じるか?」をじっくり考え、いろいろな原因をわざと作ることによって、自分の行動がもたらす結果を検証することができました。

ところが、大きな歴史の流れにおいて、1つの問題が生じました。

ある人が作った「原因」によってもたらされる「結果」が生じる前に、人の寿命が尽きてしまうという事態が生じたのです。

そのため、人はもう一度肉体をもってこの星に生まれ、受け取っていない「結果」を受け取るという形になりました。仏教などでは、それを「業(ごう)」や「カルマ」などと表現しているようです。

問題はそれだけではありません。もっと大きな民族的、国家的な「原因」も大量に生み出されてしまったのです。

以下、私の受け取った多くの民族的ビジョンの1つです。

およそ8000年前のエジプトで農耕牧畜が開始され、およそ4000年前に壮大なエジプト文明が花開きました。ご存知のように、エジプトはアフリカ大陸にあり、エジプト人は黒人です。当時のヨーロッパは不毛の地であり、文明国であるエジプト人にとって、ヨーロッパに住む白人は「野蛮で未開な人種」でした。

そこで、エジプト人は、白人奴隷を大量にエジプトに連れ込み、労働資源として利用しました。ナイル川のかんがい事業をはじめとする多くの土木・建築事業は、当時の白人奴隷を数千年に渡って使役した結果です。

文明の絶頂にあったエジプト文明においてはいろいろな人種のるつぼとなりましたが、そうなっても「有色人種以外は人間にあらず」という扱いでした。白人は家畜以下の存在であり、家畜と同様に売買されていたのです。

エジプト文明がしだいに衰退し、中東やエーゲ文明に引き継がれるまで、長い間、「黒人」は文明の最先端に君臨していました。

黒人が白人を差別し、奴隷化したという集合意識は巨大な「原因」を生み出しました。それは一種のエネルギーなのですが、そのエネルギーが解消されるには、数千年を経て、「アメリカ」という国家の誕生が必要でした。

新大陸を発見した白人たちは、まずインディアン(有色人種)を大虐殺し、さらにアフリカから数千万人もの「黒人奴隷」を北米大陸に連れ込み、リンカーンが「奴隷解放宣言」をするまで、徹底的に白人が黒人を差別する必要がありました。

アメリカという黒人奴隷の国家が誕生したことによって、およそ6千年前から生じた「黒人による白人差別」のカルマがやっと解消したと感じます。

ここで分かることは、最初の「原因」(黒人による白人差別)と、「結果」(白人による黒人の差別)までに、およそ6千年もの年月を要したということです。

これではあまりにもロスが大きく、因果律の当初の目的がうまく機能しているとはいえません。

もともとは、人が「原因」と「結果」の関係を知りたいがために、因果律を存在させていたといっても過言ではないからです。

20世紀の末から今世紀にかけて、人類の集合意識が大きく変化しました。

結論から言えば、これまでの「因果律」が機能しない世界へとシフトしつつあります。

そのことは、社会のあらゆる場面で因果律の逆転が見られ始めていることからも明らかです。

次回の記事では、「因果律の逆転」についてさらに詳しく見ていきたいと思います。
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