与謝野馨 私の通ってきた道
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落選後も地道に活動を続け、二度目の挑戦へ

●まさか次の選挙まで、4年も待つことになろうとは・・・・・・


昭和47年12月の総選挙に初出馬した私は、残念ながら落選しました。しかし、4万票の票を取ったということと、自民党の公認で選挙ができたということは、敗れたとはいえ、私に大きな財産を残してくれました。
それは、地元の方々が本気で与謝野馨という人間を認めてくださるようになったこと。そして、私自身も「ここまでやれた」という自信に基づいて、次の準備に取りかかることができたからです。
四谷の小さな事務所を拠点に秘書何人かと黙々と地元を歩き、地元のあらゆる会合には必ず顔を出しました。また、区議や都議の方たちにいろんな方を紹介していただいて、私の選挙基盤は少しずつ広がっていったのです。
しかし、よもや次の選挙まで4年間も待つことになるとは、予想もしませんでした。というのも、衆議院の任期は4年ですが、平均すると3年目には選挙が行なわれていたからです。その4年間は過ぎ去ってみれば短かったのですが、準備をしている間は途方もなく長く感じられました。


●ロッキード事件発生でますます苦しい立場に・・・・・・

当時、東京一区には田中栄一さん(元警視総監/故人)という方が自民党の現職におられて、強固な地盤を持っていました。東京一区は3人区でしたから、自民党の強力な現職が1人と、共産党、社会党がそれぞれ当選しているという現状の中で、新人の私が議席を得ることは大変難しいというのは誰しもが認めるところでした。
しかし、私は昭和48年、49年、50年と地道に地元を歩き続け、そして衆院議員の任期が切れる昭和51年を迎えることになったのですが、昭和51年という年は、私にとっては最悪の年となりました。
ロッキード事件が発生したからです。アメリカの資料に基づいて事件が明らかにされ、ついに昭和51年7月、司法当局は元首相の田中角栄(故人)逮捕というところまで司直の手を伸ばしたのです。
この事件によって、「自民党の地盤沈下は避けられない」と思いましたが、一方では「自分は新人だから、少なくとも旧来の自民党とは深い関係はない」と主張できる立場にもありました。しかし、いずれにしても、私にとっては大変不利な選挙になるという感じは否めませんでした。
さらに追い打ちをかけたのが、真夏のある暑い日に秘書と2人でポスター貼りをしていた私のもとに届いたある知らせでした。それは「現職の田中栄一氏が勇退を発表し、後継者は港区の都議会議員の大塚雄司氏に決まった」というものです。これでいよいよ再び激戦になったと思いましたが、私はいままで通り黙々と活動を続けるしか手はなかったのです。


●選挙戦の最終日、党内抗争の凄まじさを実感!

そのころ中央政界では、昭和51年6月に河野洋平氏ら6名の若手議員が、自民党を離党して新自由クラブを結成したほか、自民党内ではロッキード事件の処理を巡って政争が相次いでいました。
それは田中角栄逮捕に踏み切った三木内閣に対するもので、いわゆる”三木おろし”の党内抗争が始まっていたのです。三木首相も頑固に抵抗はしていましたが、結局は解散権を振るうことができずに、任期いっぱいの選挙となったわけです。
特に、福田赳夫さん(故人)と三木武夫さん(故人)の争いは凄まじく、党内が福田、三木の勢力に二分されて、選挙戦はいわば二つの政党が選挙をやっているような様相を呈していました。
しかし、それでは世間に対してもみっともないということで、選挙戦の最終日、新宿の東口で三木さんと福田さんが、私と大塚雄司候補の応援に駆けつけて宣伝カーの上で和解をするという演出がなされたのです。
最初に福田さんが到着し、自民党に対する支持と、東京一区の2人の候補者に対する支持を訴えていたところに、三木総理が到着。福田さんは愛想良く「それでは皆さんに内閣総理大臣・三木武夫自民党総裁とご紹介します」と、マイクを手渡しました。
三木さんの挨拶は「ご紹介されるまでもなく、私が自民党総裁の三木武夫です」というところから始まり、そのとき私は党内抗争の凄まじさを実感した、という思い出があります。


●自民党に逆風が吹く中、見事2位で初当選を果たす!

開票の結果、TOPは前回落選をしていた麻生良方さん(無所属/故人)。この方はロッキード事件の評論家として大いにテレビで活躍されていたため、圧倒的な人気でトップ当選されました。
そして、2位が私。3位は最後の最後まで決まりませんでしたが、369票差で大塚雄司さんが当選。次点は公明党の木内良明さんということになり、共産党と社会党は敗れ去りました。
ロッキード事件があったにも関わらず、東京一区で3名中、自民党が2名当選したというのは、私にとっては驚きでした。そのとき同じ選挙で、鳩山邦夫さん、島村宜伸さんなどの新人も、東京で当選されました。
また、このとき中曽根さんの秘書をしていた人が、私以外にも3人当選しています。1人は島村宜伸さんで、もう1人が自民党公認で当選した新潟3区の渡辺秀央さん(現在は自由党の参院議員)。あと1人は、もう引退されましたが、新自由クラブで当選した依田実さんです。
6年の努力の結果、初当選した私は衆議院議員になれたことを喜び、かつ私を支えてくださったすべての方々に感謝しました。このときの経験からいうと、いまの小選挙区制というのは新人が出にくい制度だと思っています。
私は無名の新人で、自分が生まれ、小・中・高と学校に通った地区で、何もわからずにやってきて当選した者にしてみれば、あらゆる選挙区であとに続く者が出やすい中選挙区制の方が、自民党としての活力が維持できるのではないかと、私はいまでもそう考えています。


●福田新総裁の演説が、意外に平易で少々ガッカリ

さて、何もわからず国会議員になった私は、割り当てられた地方行政委員会に所属し、もっぱら地方自治の勉強をしていました。と同時に、自分の得意分野であった科学技術分野でも科学技術特別委員会に属して、国会議員としての活動を開始しました。
初当選直後、三木総裁が勇退することになり、福田新総裁が誕生することになったのですが、自民党本部の8階のホールで新総裁の演説を聞いた私は、「総裁というのはひどく格調の高い言葉で演説するのかな」と思っていたところ、平易な言葉で話される福田さんを見て、自分の予想が外れたことに少々ガッカリしたことを覚えています。
そのとき思い出したのは、私が東大を卒業するときの茅誠司東大総長(故人)の演説です。このときも格調高い演説を期待していた私にとって、茅総長の「小さな親切を全国に展開しよう」という演説は予想外であり、福田新総裁の演説で聞いたときも、このときとほとんど同じ思いでした。
これは余談ですが、初当選の直後、私が初出馬したときの自民党総裁で総理大臣だった田中角栄さんのところにも、一応挨拶に行きました。田中さんはおもしろい人で、そのとき私に「石原慎太郎が閣僚にしろと言ってるんだけれど、新入社員をいきなり常務にできないよ」と言われたことを、いまでも思い出します。


●派の事情と選挙区事情の間で気持ちが揺れた総裁選

昭和51年12月、福田内閣は順調にスタートしました。このとき党内の体制は福田総裁、大平正芳幹事長(故人)で、「福田さんがまず一期目をやったあと、大平さんにバトンタッチするという密約ができていた」という人もいますが、それは全くの噂話かもしれません。
その後、昭和53年11月に行なわれた自民党総裁選では、福田さんと大平幹事長が立候補したため、全国で党員投票が行なわれました。
結果は、当初の福田優勢から一転、党員の支持は大平さんに傾きました。そのため福田総裁は議員の投票を待たずに記者会見し、「天の声にもときには変な声がある」という有名なセリフを残して本選挙を回避されたのです。
このとき、私が属していた中曽根派は福田支持ということになっていたのですが、私としては自分の選挙区に福田派の議員がいたため、派の指示通りに福田さんを支持することにはためらいがあり、むしろ大平さんを支持したいというのが、私の選挙区事情からくる正直な気持ちでした。
しかし、「最後にはやはり派の意向に従わざるを得ないな」という気持ちも一方ではあり、総裁選と選挙区事情というのは、実際直面してみると意外に絡み合っているということがわかったのです。


●傲りと楽観から、二期目の挑戦に失敗・・・・・・

昭和53年12月に発足した大平内閣が、一番重点をおいたのは財政の再建でした。すなわち、いまの消費税にあたる付加価値税を導入しようと試みたのです。
私はこの問題について賛成の立場を取っていました。そのことが昭和54年9月の選挙で致命的になるということも知らずに・・・・・・
しかし、その後、消費税の導入が争点となった平成2年の総選挙で「消費税導入は必要だ」と訴えて選挙を戦ったのは、東京では新井将敬議員(故人)と私のたった2人だけでしたから、一応私としては意思は貫徹できたというひそかな誇りを持っています。
さて、昭和54年9月の選挙に話を戻しますと、東京一区では再び与謝野馨、大塚雄司、麻生良方、木内良明等が争うことになったのですが、この選挙は私にとって大失敗でした。 一つは、TOP当選を目指したいという傲りがあったことと、世論調査があまりによかったために楽観したことです。結果は、大雨で投票率が下がったこともあり、千数百票の差で次点となりました。
開票日の日のことは、いまでもよく覚えています。落選を報告しにきた秘書に、私は思わず「ところで島村さんと鳩山さんはどうなっている?」と聞いたのです。結果は2人も落選で、「東京の有権者は若手に厳しかったな」と思ったものでした。


●落選した私に、支持者の皆さんはとても温かかった・・・・・・

翌日、私は駒込にある鳩山さんの家を訪ね、「お互いこれからどうしようか」という相談をしました。2人とも3年近く、いろんな会合に出席し、演説会も開き、新聞も発行し、考えられるあらゆる努力をしたつもりでしたが、落選してみると、反省と同時に一瞬気力が失われたというのが2人の共通点でした。
鳩山さんは31歳、私は41歳ということで、「お互いに国会議員を辞めて、別の道を歩むのはどうかな」と、半ば冗談の様に話したこともあります。
落選後3週間くらいは力が出てこなかったのですが、1ヶ月もするともう一度挑戦しようという意欲が湧いてきて、再び選挙区を歩くことに。名刺はこれまでの「衆議院議員・与謝野馨」から、ただの「与謝野馨」となり、端の方に小さく「前衆議院議員」と書いたものになりましたが、その名刺を持って支持者の家を訪ねました。
しかし、支持者の皆さんは落選した与謝野馨にものすごく温かく、それを発見したことは、私のその後の人生にとって、大きな教訓になったと思っています。
70歳をすぎたご婦人が私を連れて、いろんな知り合いのところを歩いてくださったことは本当にありがたく、そのご婦人に連れられて毎日毎日100件〜150件も選挙区を歩き続けました。ただ、内心では「これから3年間これを続けていくのは辛いな」とも思っていました。


●「40日抗争」のおかげで落選期間は7ヶ月で済むことに

昭和54年9月の選挙は、大平総裁にとっては敗北ともいえる選挙であったため、いわゆる自民党史上に残る「40日抗争」という抗争が始まり、次の総理大臣が決まらないという状況が続きました。一応、大平内閣は新しくスタートしましたが、それは異常なスタートの仕方だったのです。
内閣発足後も、党内抗争は相変わらず続き、大平さんを支持するグループと、福田さんを支持するグループに党内が二分され、不安定な状況が昭和55年の春まで続いたわけです。
昭和55年5月、通常国会の終盤に野党は内閣不信任案を国会に提出しました。これに福田派が全員欠席したため、内閣不信任案が成立。そこで、大平総理は直ちに国会を解散し、史上初の衆参同日のダブル選挙という大きな賭けに出たのでした。したがって、幸運にも、私が落選していた期間はたったの7ヶ月間で済んだわけです。


●自民党圧勝の余波を受け、トップ当選でカムバック!

選挙戦の初日、私は新宿で大平首相を迎えて演説会を行ないました。そのときの大平さんの演説は力強かったのですが、横で見ていた私は直感的に「どこか変だな」と感じていました。
私の直感は正しく、大平さんはその日横浜で演説したあと、虎ノ門病院に入院され、その後、選挙の最中に急死されたのです。
そこから国民の流れが大きく変わり、自民党は圧勝。私も前回の票が嘘のようにたくさんの票をいただき、トップ当選でカムバックを果たすことができたのです。
ただ、7ヶ月間とはいえ現職からの落選を経験したことは、私にとってはすごく大きな勉強になったと思っていますし、スタッフにとっても、どの選挙も油断することがなくなったという意味で、非常に大きな教訓になったと思っています。

『POLICY21 Vol.2』 2000年3月執筆


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