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トップページ > 私の通ってきた道
> 3話
大学卒業、そして就職
●勉強とは無縁だった野球一色の大学生活
私は、昭和34年に東大の文科一類に入学しました。大学では、最初の2年間を教養学部で学びます。しかし教養学部の授業は一般教養科目―――つまり、高校の延長のような内容のものばかりなので、少しも面白くないのです。かなりの期待を持って入学しただけに正直言ってがっかりしました。
そこで、しばらく大学は"自主休学" することにして、ふだんは"独学"と称し、寮の部屋にこもっての読書三昧。とはいえ、ある程度の成績を残さなければ法学部へ進めませんから、試験前になると突如、集中的に勉強して帳尻を合わせるのが常でした。
入学した年の秋のことです。ちょうど試験が終わったばかりで、私がいつものように大学を"自主休学"していると、友人から連絡がありました。聞くと、英語の奥教授から預かりものがあるといいます。何だろうと受け取ってみると、コンサイスの『オックスフォード辞書』でした。
この奥教授という方は、毎回、試験の最優秀者にご褒美として英語の辞書を与えておられたようなのです。後々になって、このことを通産省の事務次官の杉山さんにお話したところ、彼も奥教授に教わった一人で、やはり一番優秀だった学生には辞書を贈るならわしだったと伺いました。
それがどうしたことか、授業をサボりつづけていた私にその栄誉が輝くという結果になってしまったわけです。
この一件以来、クラスメートの間では「与謝野はもしかしたら秀才かもしれない」という噂が立ちはじめ、今に至るまでそのことを覚えていてくれる旧友もいます。これは私にとって、ちょっとした財産です。
それからしばらくして、私は硬式野球部に入部しました。親しかったクラスメートが野球部に在籍しており、他のクラブより興味を持ちやすかったせいもあるかもしれません。ちなみにその友人は内田君といって、現在は新日鉄に勤務しています。
また、父の影響もかなりあったと思います。私の父は、一高時代にはハイジャンプの高校記録保持者で、インターハイで優勝したこともあるスポーツマン。東大に入ってからも、ラグビーのシーズンにはラグビー部の選手として、野球シーズンには野球部の選手として活躍しました。
私が入部した昭和34年当時、東大の野球部長は医学部教授の清水健太郎先生でしたが、先生はかつて父と一緒に野球をした仲間の一人でもありました。
こうした縁もあって、野球部に入部したわけです。
ところで、東大野球部といえば、六大学で一番弱いチームとして知られています。創立以来、60年間にわずか199勝しかしていないのですから、OBとしても認めざるをえません。
しかし、私に言わせれば、東大野球部は本郷には立派な専用球場を所有しており、六大学中、練習時間も一番多いのではないかと思います。ただ、なにしろ入部してはじめて本格的に野球に取り組む連中が多いので、なかなか強くはなれないわけです。
それでも私がいたころは、なかなかの健闘ぶりを発揮していました。たとえば二年先輩だった岡村投手は、在学中に17勝をあげていますし、また二年後輩の新治投手は、プロ野球第1号の選手として大洋ホエールズにスカウトされています。彼らの活躍もあって、私の在籍中の成績はそこそこ満足すべきものでした。
野球部では選手を志望したのですが、遅れて入部したこともあって、マネージャーをすることになりました。
おかげで、卒業するまでの3年間、文字通り選手の世話に明け暮れ、また、乏しい部の財政をやりくりするために先輩の間をかけめぐる日々が続いたのです。4年生のときには、東大が六大学運営の当番校に当たり、学生代表の責任者にも任命されました。
そんなわけで、マネージャーになったころからは、学業などに一切時間を割けなくなりました。大学の様子を知るにも、友人のわずかな情報だけが頼りでした。
試験勉強が近づくと、友人―――たとえば今、大蔵省にいる中平幸典君などに野球部の合宿所まで出向いて もらい、1科目当たり約30分ずつレクチャーしてもらい、試験に臨んだものです。
4年生になってからは、仲間の就職の世話もしました。新聞社に行きたい者、メーカーに行きたい者・・・・・・それぞれの希望を聞いて、先輩などにお願いする―――。これもマネージャーの大事な仕事の一つだったのです。
●中曽根さんの紹介で日本原子力発電へ
部員の就職を世話する一方で、私自身も、そこに就職しようか非常に迷っていました。
前にも述べたような状態で、ろくろく勉強もしていませんから、役所はとても無理でした。しかし、ちょうど高度成長期の真っ最中で、民間会社ならどこにでも受入れ口はあったのです。
そうなるとまた迷うのが悪い癖で、家に帰った折、母にそう話したところ、
「私が入っている大正会の集まりに、中曽根さんという議員がよく来る。あの人の話は面白そうだから、一度聞いてみたらどう」
といいます。
そこで、夏休みに中曽根さんの事務所を訪ねました。今から26年前の話ですから、まだ中曽根さんも42、3歳の国会議員。しかし若手ではかなりの有望株で、すでに大臣も経験されていました。
中曽根さんの事務所を訪ねてお話を伺ったところ、「これからは原子力が面白い。ぜひそちらのほうに進んだらどうだ。場合によったら俺が紹介してもいい」
と言って下さいました。日本原子力発電というパイオニアの会社があって、これからなかなか面白い仕事をしていくところだ、と言うのです。
しかし、そのころの私は鼻っ柱が強く、なにも就職を頼みに来たんじゃない、ご意見をうけたまわりにきたのだ、という生意気な態度だったと思います。
ほぼ時を同じくして、三菱商事の面接も受けました。
面接では、最初は、いろいろな質問にまじめに答えていましたが、なかなかいやみな試験官がいて、
「君は学部の試験をまだ3科目しか受けていないね。成績も良ばかりじゃないか。卒業するまでにひとつくらい優を取れるのかな」
などと聞いてきます。
若気のいたりでカッとなった私は、
「試験などというものは受けてみないとわかりません」
思わずこう答えました。
「そうはいっても一つくらいは取れるだろう」
と、ほかの試験官が助け舟を出してくれたのですが、若い時はそのような人さまの善意がなかなかわからないものです。あくまでも受けてみないとわからない、の1点張りでその場を押し通してしまいました。
試験場を出るときは、私は、これで駄目だなと思いました。あとになって三菱商事の先輩に聞いたところによると、人事の関係者は大騒ぎ。あんな生意気な奴は入れるなという派と、あそこまで頑張る奴も珍しい、見込みがありそうじゃないかという派の二手に分かれて侃侃諤諤の論争になったとか。
結局は、父の一高時代の仲間だった重役がとりなしてくれ、採用ということになったらしいのです。数日後、その重役の方が電話でこう言って下さいました。
「君が卒業までに優を一つ取れるとここで約束してくれたら、君を採用しよう」
ありがたいご厚意でした。けれども、あれほど生意気な口を利いたあとですし、ここでおめおめと妥協するのも厭だったので、あくまでも前回通りに答えてしまいました。若いと言われれば確かにその通りかもしれませんが、それでも若いなりに、行動の美学というものに少しは気を使っていたのではないかと思います。
これが、わが人生の転機のひとつだったのではないでしょうか。私は、中曽根さんの推薦する日本原子力発電に入社することを決意しました。
ところが会社に伺ってみると、今年は技術系だけで、事務系の採用予定はない、と言います。そこをなんとかとお願いしたら、中曽根さんの紹介があればいいということになりました。あわてて紹介を取りつけて当時社長だった安川第五郎さんにお目にかかり、形どおりの試験を受けました。
こうして私は、ようやくにして就職することができたのです。
●専門外のフィールドでひたすら奮闘
日本原子力発電は、東京電力をはじめとする9つの電力会社が共同出資して設立された新しい会社です。設立当初から、東海村に日本で初めて原子力発電所を建設するという大仕事を抱えていました。
かつて、日本で初めて汽車を走らせたときも外国から技術を導入したわけですが、日本の原子力発電の場合も、イギリスの技術を導入してはじめられています。
さて、できたてホヤホヤの会社に入った私は、事務系だけではなく、意外にも技術部研究課に配属されました。そして今井隆吉係長のもとで、燃料関係の仕事に当たることになったのです。
しばらくの間、私は悩みました。周囲は技術系の人ばかりですし、私自身、原子力の技術に関してはまったくの専門外。うまくやっていく自信など起きるはずもありません。入社早々にして、早くも壁に突き当たってしまったのです。
私は思わず母に、会社を辞めようと思うんだけどどうかな、と弱音を吐きました。
「そんなこと言ったって、これからどうするつもりなの?」
「カレーライス屋でもやろうかと思ってるんだけど・・・・・・」
なかば 本気でそう考えていたのです。しかし、母はまるで相手にしてくれず、大笑いされてしまいました。
結局、私はそのまま勤めることにしたのですが、あの時に思いきってカレーライス屋に転業していれば、今ごろは大金持ちになっていたに違いないと思うと、少しばかり残念な(?)気もします。
私が思いとどまったのは、この会社特有の自由な雰囲気のせいもあったでしょう。新会社ならではのおおらかさがみなぎっていて、新入社員の私でも重役と議論できたし、社長に直接話にいくこともできたのです。
また、私を指導していただいた今井隆吉さんの影響もかなりありました。
彼は私の知るかぎり、この世でもっとも頭のいい人ではなかったかと思います。東大の数学科を卒業後、ハーバード大学で政治学をおさめ、朝日新聞の水戸支局でサツ回りをしていたという経歴の持ち主です。しかも記憶力は抜群。文章もよくこなしたし、英語力も頭のよさに裏打ちされてすばらしいものがありあました。
のちのちの話ですが、今井さんが外務省の原子力に関する対外交渉のブレーンとして活躍した際、あまりに頭が切れるので、外務省は彼を原子力発電の技術部長からクウェート大使を経て、現在はメキシコ大使として活躍しておられます。
話が少しそれてしまいました。日本の原子力発電時代の話に戻りましょう。
1年目は畑違いの研究課に配属された私も、翌年からは調査室に勤務を命じられました。調査室は上から与えられた任務をこなすのではなく、自分で研究するのが仕事。つまりいかに自己啓発できるかという自分の意思にかかわってくるわけで、私にはあまり向いてないのでは、と思っていました。
ただし、何を勉強するのも自由でしたから、そういう意味では私に向いていたのかもしれません。
私は世界中のウラン鉱山とウラン鉱石の資料をひそかに収集し、調べました。恐らく当時では、ウラン鉱山については日本で一番の知識を持っていたのではないかと自負しています。
ちなみにそれから3年後、電力会社がウランを長期的に確保するために調査団を編成したとき、その調査室時代の知識を買われ、私は日本原子力発電の代表に選ばれました。
調査室に入ってしばらくしたころ、東海村につづく2番目の原子力発電所の建設計画が立てられ、その資金をアメリカから導入することになりました。当時の経理部次長の穐山通太郎さんの目にとまり、私はこの担当を仰せつかりました。
またまた専門外の任務です。経理のことなど日本語でもわからないのに、しかもそれを英語で説明しなければなりません。
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