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中曽根元総理の秘書を経て、いよいよ初出馬へ

●大きな無形財産を築くことができた中曽根元総理の秘書時代



私は昭和43年、妻・とも子と結婚しました。ちょうど29歳のときでした。そして、ほぼ同時に日本原子力発電(株)を退社し、今の読売新聞の渡辺社長と中曽根 事務所の所長をされていた小林克巳さんのお誘いをお受けすることにして、中曽根康弘代議士の秘書となりました。
ただ、秘書といっても、私がやっていたのは、代議士の行動日程を作ったり、支持者の方々などの住所を管理したりするという、いわばどこの事務所にでもあるような普通の秘書の仕事をしていたわけです。
中曽根先生のもとにいたのは約3年間で、そのころの中曽根先生は運輸大臣をやられたり、防衛庁長官をやられたり、党では総務会長をやられたりするなど、ちょうど政治家として上昇気流に乗っておられたときでした。その間、私は中曽根先生から多くのことを教えていただいたほか、たくさんの優れた友人を得ることができ、私にとっては大きな無形の財産を築くことができたと思つています。 選挙の組織すらない状態で、 東京一区から衆院選に立候補 中曽根先生の勧めで、選挙に立侯補する決意をしたのは、昭和46年のときでした。どこの選挙区から出るかはたいへん重要な選択でしたが、東京一区が私の生まれた場所であり、小・中・高・大学を通じて過ごした場所でもあったので、当然のこととして東京一区を自分の選挙区に選びました。
東京一区はたいへん優れた政治家を生み出した名門選挙区ですが、その当時は三人区で、すでに自民党の方が1名当選されていました。したがって、そこで立候補するということは容易なことではなかったわけです。
ましてや、東京一区の政治の世界の方とは一人も面識がありませんでしたし、私には選挙のための組織すらない状態。まさに”ゼロからの出発”だったわけで、まずは自分で組織を作ることから始めなければならなかったのです。
しかし、幸いなことに中村梅吉先生(法相・建設相・文相を歴任された政治家/故人)の紹介で、新宿区では小野田増太郎先生(都議会議員/故人)の応援を得ることができることになりました。
一方、千代田区では川俣光勝先生(都議会議/故人)の応援を得、港区では少数ながら何人かの区議会議員の先生方に応援していただくことができ、約1年半の準備期間の間に相当の選挙体制ができあがったのです。
それから一文無しの与謝野馨を応援してくださったのは、何人かの本当に善意の方々でした。


●新人候補の前に大きく立ちはだかった自民党公認の壁

こうして多くの方々の応援のおかげで、なんとか選挙を迎える体制は整ったのですが、まだ一つ大きな問題が残っていたのです。それは、自民党の公認を得られるかどうかという問題でした。
先にも述べましたが、当時はすでに東京一区に自民党の現職の方がいたわけで、その方の反対があって、新人の私が自民党の公認を得ることは、非常に難しい状況になっていたのです。
しかし、この問題についても、幸いなことに何人かの方々が真剣に私を助けてくださいました。一人は、高輪に住んでおられた三菱電機の会長・大久保謙さん(故人)でした。この方は、田中派の大番頭の西村英一さん(故人)の親友で、わざわざ西村さんのところへ私を自民党の公認にしてくれるように頼みに行ってくださったのです。
また、現在も衆議院議員であり、運輸大臣を務められたこともある佐藤信二さんは、当時副幹事長だった竹下登先生と、渡海元三郎さんのところへ私を連れて行ってくださり、「是非、公認を」と頼んでくださいました。
それから、実際に私の公認を決めるときの選対会議では、桜内義雄さんが全員を敵に回して奮闘してくださいました。
これらの方々のご尽力の結果、私は新人ながら選挙が始まってから4日後に、自民党の公認を獲得することができたのです。


●健闘むなしく、初陣を勝利で飾れず・・・

選挙戦は知名度も低く、組織もしっかりしていませんでしたが、中曽根先生が何回も選挙応援に来てくださいましたし、波辺美智雄先生(後に外相・副総理/故人)や宇野宗祐先生(後に首相)も応後に来てくださいました。
また、最終日には当時首相だった田中角栄先生(故人)までもが応援に駆けつけてくださり、新宿東口で田中栄一氏(故人)と私の両自民党侯補を宣伝カーの上に乗せて大演説をしてくださったのです。
残念ながら当選することはできなかつたものの、新人侯補の私がなんとか次点までいくことができたのも、これら大先生方の応援があったからだと思っています。   
実は、私はそのとき内心では「勝てるかもしれない」と思っていたのですが、千代田区から加藤清政さん(後に千代田区長/故人)という立派な方が出てこられて、その方に敗れてしまったのです。昭和47年12月の選挙のことでした。
それから4年間、私は黙々と選挙区を歩いたのですが、次点になったという実績は大きく、地元の方がようやくまともに私を相手にしてくださるようになりました。そして、二度目の挑戦のときを迎えることになるのです。



『POLICY21 Vol.1』 1996年5月執筆


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