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トップページ > 私の通ってきた道
> 4話
政界入り前夜
●忙中閑アリの楽しい官費旅行
日本原子力発電株式会社という会社は、実に自由な気風にあふれた会社でした。
その会社が原子力発電所の国内第二号炉を建設しようということで福井県の敦賀に用地を取得、アメリカのGEの沸騰水型原子炉を輸入することに決定しました。前号でもご紹介したように、私はその資金調達の仕事を与えられ、アメリカのワシントン輸出入銀行からの借款を担当しました。何しろ誰もやったことのない仕事でしたからまったくの手探りで、契約書の調印をしたときには本当に嬉しかったことを覚えています。その後も度々アメリカ出張は続き、ある日、経理部長から、「アメリカの銀行に行って日本開発銀行の保証の手形を担保に入れてこい。ついては、梅野常務をわが社の代表として出すから関係者に十分表敬するように。」という命令を受けました。
梅野さんも退職が予定されていましたから、なるべく楽しい旅にしようというので、まずサンフランシスコでうまいものを食べ、野外劇場でメル・トーメという有名な歌手のスタンダードを聴きました。ニューヨークでは世界一流のフラメンコを聴いたり、ギターを聴いたりしました。それから目的地のワシントンに行き、銀行に手形を渡し、副総裁にお目にかかりましたが、それに要した時間はわずかに15分。たった15分のために、延々と楽しい旅を続けてきたわけです。当時は今のように1,000万近くの人が海外に出るという時代ではなかったので、すごい贅沢をしたような気持でした。
旅の計画にはさらにメキシコも含まれていました。メキシコシティーのホテルではきちんと予約券を持っていたのに予約がないと言われ、激怒して30分交渉しましたが埒が明かず、はっと気がついて少々のチップを渡したら、あっさりと部屋が空いていたと言われました。信じられない気持でしたが、少し知恵がついた思いでした。旅程には、さらにアカプルコも入っていましたが、梅野さんが、「あんまり遊んでいると叱られるよ」と言うので、旅程を一日繰りあげてロサンゼルスに戻ってきました。
ロサンゼルスで東京に電話したら、常務は東京に帰せ、お前はニューヨークで仕事しろという命令でした。しかし所持金は200ドル、お金を送ってくれなきゃ行けないとダダをこねたら、ニューヨークに送っておくから早く行け、でした。
ニューヨークに行くまで四日ほどありましたので、梅野常務を空港に送り、さて、手持ちのお金の範囲内で何かできないかと思案をしているうちに、自動車の免許証を取ろうと思い立ちました。早速実行に移し、個人教授の教官と街の喫茶店のようなところで会いました。学科試験はと聞きましたら、準備された60問の問題のうち20問が出る、それに受かれば実技ができると言うので、その60問を30分間で暗記、試験を受けたところ、満点で学科試験を通りました。そこで、その日5時間、翌日3時間、実技を路上で教わり、その足でカルフォルニア・デパートメント・オブ・モーター・ビフィクルという事務所で試験官同乗の試験を受け、ただちに合格しました。その免許証はそれから数ヶ月後に日本に送られ、私の現在の免許証のもとになっています。日本に比べると簡便簡易、実に実用的なやり方で、うちの女房は、「だからあなたは、自動車の構造も知らないインチキドライバーなのよ」といつも言っています。ただし彼女は、結婚以来一度も運転をしたことがないペーパードライバーですが……。
ロスでそんな生活を終えた私はニューヨークに戻り、今度はマニファクチャラー・ハノバートラスト銀行という名門銀行と輸出信用状の文案づくりをやり、その仕事を終えて日本に帰ってきました。
●思わぬことから政界へのファースト・コンタクト
しばらく東京で日常業務をやっていました。私は原子力保険という非常に特殊な分野の保険を任せられていましたので、保険会社相手にその料率の交渉などをやっていたわけです。
そんなある日、大神さんという秘書室長から呼ばれて、「君、ヨーロッパに行ってくれ」
ヨーロッパには仕事がないはずだ、と言いましたら、実は今度、民社党が核拡散防止条約の調査ミッションをヨーロッパに出す。原子力の専門家も必要だし、通訳も必要だ。君も勉強になるから、ぜひそれに同行してくれたまえとのこと。これが実は、私の政治とのかかわりの第一歩となったわけです。
核拡散防止条約は、その当時は一般にはあまり重要とは思われなかった問題ですが、わが社にとってはプルトニウムの管理などがからみ、すでに深刻に考えていたわけですから、民社党がそのようなミッションを出すというのであれば、喜んで見聞を広める必要があったわけです。早速、後に民社党の委員長になられた調査ミッションの団長である佐々木良作さんに紹介され、団の概要や予定を伺いました。団の構成は、やはり後に民社党の委員長を務められた曾根益さん、衆議院議員の岡沢寛治さん(故人)の三人の議員と、事務局として民社党国際局から渡辺朗さん(後に衆議院議員また沼津市長・故人)、そして私の五人でした。
旅立ってみますと核防条約もさることながら、政治家の人たちと旅をするというのははじめての体験で、会社員とはまったく別の新しい世界が開けました。
スイスでは社会主義インターナショナルの会議に出席をしました。ユーゴスラビアに行ったら、共産国に政府の証明書を持った売春婦がいるということでびっくりしました。ルーマニアではチャウセスク大統領―その当時は若くて素晴らしい美男子でしたが―と1時間以上対談をし、ソ連の路線と自分がいかに違うかという話も聞きました。それからイギリスに飛びイギリス労働党大会に出席しました。会場となった場所は定かではないのですが、その田舎の町のホテルは部屋がなく、佐々木さんと一つの部屋に泊まることになり、その部屋で佐々木さんがしみじみした口調で、自分と労働組合運動をした連中はみんないなくなってしまったなぁ、と感慨深げに言われたことを今でも覚えています。
佐々木さんは、日発という国策会社の労組の書記長をされ、共産系の労組と戦ってきた人でした。また一緒に行った曾根益さんは外務省で私の父の一年先輩でした。父がはじめてパリに外交官補として行ったときに、隣の部屋にいた方で、私を息子のように扱ってくれました。岡沢寛治さんは大阪出身の良心と良識のかたまりのような方でしたが、早く亡くなられて残念です。渡辺朗さんは民社党の国際局を長く担当されてきた方で、その後、静岡県から衆議院に当選され、私が議員になってからも肝胆相照らす仲となりました。乞われてその後沼津市長に当選されましたが、病に倒れ、亡くなられました。今でも事務局員だった渡辺朗さんと二人で、ロンドンで三人の議員の目を盗んでカジノに行って損をしたのを覚えています。
そこから先は佐々木さんと二人きりになり、ミラノに行こうということになり、ミラノに行って「舞踏会の手帖」の舞台になったコモ湖という美しい湖を訪ね、またその帰りにウィーンを訪れました。旅行の最後はドイツのボンでした。そこでキーニスホフというホテルに入った途端、ロビーで中曽根康弘氏と偶然に出会いました。中曽根さんと佐々木さんは、「今晩、予定があるのかい」となり、近くのお城の上のレストランで食事を共にされることになり、私もお供をしました。中曽根さんは超音速旅客機コンコルドをフランスに見に行った帰りで、お二人は沖縄返還のことやら、いろんなことを話しておられました。偶然の邂逅でしたが、実はこの偶然が、私の政界入りのきっかけとなったわけです。
会社員であった私は人に誘われて中曽根さんが主催するファイアー・サイド・グループという若手の会に入っていました。今の読売新聞の渡辺社長も、日本テレビの氏家さんもメンバーでした。ですから就職のときから、またファイアー・サイド・グループを通じて、中曽根康弘氏とは何度もお目にかかっていたわけですが、中曽根氏にとっては与謝野がなぜ、民社党の佐々木良作さんと一緒に旅行しているのか、不思議であったようです。
●運命の糸に操られるように・・・・・・
そんな旅行を終えて帰ってきた私にやってきた話が、中曽根さんの秘書になれというお誘いでした。その話を直接されたのは、今の読売新聞の渡辺社長と中曽根事務所の所長をされていた小林克巳さんです。私は、会社もあるしと言ってお断りをしましたが、小林克巳さんが、中曽根さんが海外と文通をしたり海外の要人の名簿を整理したりしなければならないので、その部分だけでも手伝ってくれとおっしゃるので、その部分を会社の時間外でお引き受けすることにしました。
実は偶然なのですが、中曽根さんの従弟である(母親同士が姉妹である)岩場進司さんは私と同じ契約課の一課員であったのです。そういう偶然の出会いを経て、私は運命の糸に引き寄せられるように、政治の世界へ一歩ずつ近付いていきました。会社を辞めて中曽根先生の秘書になるのはまだ半年も先の話になるわけですが、恐らくそのときに、自分の運命がそうした方向に進みはじめたのだと思っています。
私がのちに議員になって一番喜んでくれたのは、与謝野鉄幹・晶子の長男であり、私の伯父貴である与謝野光です。これはあまり話したことのない話ですが、与謝野鉄幹も大正時代に立候補し、見事落選したことがあったからです。
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