与謝野馨 私の通ってきた道
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留学から帰って大学進学

私は、昭和34年、東京大学の教養学部に入学しました。今でも、私の妻や子供たちは「どうしてあなたが東大に入れたの」と不思議がるのですが、私にしてみれば全力をあげて努力した結果だと思っています。
実は、私が日本へ帰ってきたのは18歳の時でした。父が外交官であったため、中学2年生が終わった時点から、私もエジプト、スペインと外地で暮らし、帰国前はオックスフォード大学への入学を目指して、単身、ロンドンで生活していたのです。しかし、外国の大学を出ても日本での就職ができるかどうかが疑問になり、考え直して東京へ戻ってきました。 日本での教育が4年間もブランク。英語は相当上達していましたが、漢字はまるきり書けませんし、古文にいたってはチンプンカンプン。何が書いてあるのかさえ分からない状態でした。 当時は外国で生活している日本人も少なく、帰国子女≠ノ対する理解も低かったので、勉強が追いつくまでの苦労は並大抵のものではありませんでした。漢字の書き取りは中学1年の分からやり直しましたし、「徒然草」などは全部暗記してしまうという方法をとりました。数学も、外国の学校では常に一番の成績でしたが、日本の学校のほうがレベルが高く、微分積分などは全く独習で、日本のレベルまで到達したつもりです。
そのため、私の勉強に対する考え方は、今でも独学が基本だと思っています。難しい本を中途半端にかじるより、易しい本を最初から最後までキチンとマスターするほうがよいという考えに立っています。
とにかく、そうした帰国後一年間の勉強では東大に入れず、浪人することになりました。その頃の東京には路面電車が残っていました。私は、当時住んでいた天現寺から七番都電≠ノ乗り、四谷三丁目で乗り換え、四谷一丁目にある駿台予備校四谷分校に通い始めました。 ところで、その前にちょっとした失敗談があるのです。東大を受験して失敗し、それではと駿台予備校を受けてこれまた失敗。羞しい話ですが、私の親戚の口ききで帰国子女≠ナあることを特別に理解して頂き、駿台予備校に入学させてもらったわけです。後日、ウィスキーの角瓶を持ってお礼に行きました。ですから私の場合、ウィスキー一本で予備校に裏口入学したということになるかもしれません。
私は外務省が運営する「霞友学寮」で生活していました。親が外国にいる子供たちを収容する外務省の施設です。 六畳一間の部屋でしたが、寮ではいい友達が大勢できましたし、当時としては大変恵まれた境遇でした。予備校に入学して、私は一心不乱に勉強しました。少なくとも夏まではマジメに学校に通いました。
夏休みは軽井沢の掘建て小屋にこもって勉強。ところが秋からは、昼間寝て夜勉強という不規則な生活になりました。予備校に通うよりも、独習のほうがいいと判断したからです。ここでも私の独学癖≠ェ頭をもたげました。当時、一日16時間以上も勉強したのではないのでしょうか。 そうしたことを妻や子供たちに話して聞かせても、「………?」と、私の顔を見て信じてはくれないのですけれども。
再び東大を受験し、発表までの期間が「長いなア」と思ったことを憶えています。そして3月21日、駒場の東大教養学部で私は自分の受験番号を見つけました。
マドリッドにいる両親には、あらかじめ打合わせしてあったとおり、「シャンペン」という国際電報を打ちました。シャンペンを抜いて乾杯する・・・つまり例の「サクラサク」と同じような意味です。
すぐ父から、これまたあらかじめ約束してあったとおり、200ドル(当時のレートで72,000円)の「賞金」(?)が送られてきました。当時の入学金は1,000円、授業料が一ヶ月750円という時代でしたから、いかに大きな「賞金」を稼ぎ出したか、お分かり頂けるでしょう。
東大に入ればバラ色の学生生活が待っていると期待していたのですが、聞くと知るとは大違い。こんなつまらない大学かと、実はガッカリしました。教養学部の授業は高校のそれと同じようなものだからです。しかも出欠を取らない習慣にな っていましたので、当分、大学通学は自主的(?)に止めることにしました。
それでは何をしていたのか、稼いだ「賞金」の一部で岩波文庫を数百冊購入し、寮の部屋の枕元に積み上げ、片っぱしから読んでは、その本が低くなっていくことの愉快さを味わいながら生活していたのです。現在の若い人のように、酒を飲んだり、ディスコで遊んだりということはありません。こうした点だけ見ると、私はやや変わり者のようですが、しかしその時に読んだ文学書、哲学書などの古典は、その後の私のあり方に大きな影響を与えていると思っています。
そのような生活がニ、三ヶ月続いたある日のこと、私の弟の親友のお父様から、「家庭教師をやらないか」というお奨めを頂きました。父に送ってもらった「賞金」も残りが少なくなり、小遣いも不足しかけていたので、そのお奨めを受けることにしました。伺った先は、ブリジストンの社長(当時)石橋正二郎氏のお宅で、私は氏の長男で中学一年生の寛君の家庭教師になりました。
まもなく夏休みに入り、私は寛君たちと葉山へ同行しました。昼間は海岸で子供たちに危険がないよう見張り役。夜は勉強。夏休みの後半は、石橋氏の軽井沢別荘に移り、寛君の宿題である昆虫採集などを手伝いました。それでいて私自身は、「なかなか忙しいものだ」と思った記憶はありますが、家庭教師も悪くないという印象を持ちました。
家庭教師をして頂いた月謝は、月八回教えて3,500円。大変いい相場だったと思いますが、現在の物価と比べて今昔の感があります。
ところで、東大生の私がまるきり大学の勉強をしなかったわけではありません。怠け放題なら、単位がとれずに留年ですが、前にも触れたとおり教養学部は高校の授業の続きのようなもの。試験の前の日に何日か集中的に勉強すれば、単位は普通にとれたわけです。私は、昭和36年に法学部へ進み、38年に東大を卒業しました。


『馨 Vol.2』 1985年11月執筆



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