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1話
祖父母の事・疎開・留学
私が生まれたのは、昭和13年8月22日です。当時、両親は現在の九段四丁目にあった借家に住んでおり、私はそこで誕生しました。先ごろ、私は、この生家を訪ねてみましたが、すでに跡かたもなくなっていました。
父・秀は外務省の役人で、与謝野鉄幹・晶子の次男です。鉄幹は幼少時を養子として、鹿児島、大阪、岡山、徳山などと転居して、さんざん世の辛酸をなめた人で、23歳で詩歌集『東西南北』により文壇に登場しております。
晶子は、22歳のとき、『明星』2号から短歌を投稿しはじめ、この年の夏、鉄幹と出会いました。そして、翌年上京し、歌集『みだれ髪』を刊行、大きな反響を集め、この年の秋、鉄幹と結婚しています。2人は協力して『明星』を経営し、健筆をふるいました。
しかし、当時の芸術家の生活など、まことに貧しいものでした。おまけに鉄幹・晶子は11人の子供をもうけており、その生活苦は今日の文学者とは比較にならないものだったそうです。私は父からそうした貧しい生活について、さんざん聞かされてきました。
鉄幹は、息子たちのうち一人はどうしても外交官にしたくて、私の父が選ばれたものと聞いております。
一方、母・道子の方の実家は坂内(ばんない)という家でした。母は6歳のとき実母をなくし、その後継母が3人変わったといってよく笑っておりました。『私の継母と菅原通斉さんの継母とは同じ人なのよ」と話してくれたこともあります。
父は明治37年生まれ、母は大正4年生まれ、11歳違いの夫婦です。その当時のことですから、もちろん見合い結婚でした。そして、私も含めて5人の子どもをもうけています。私はその長男です。
私が生まれたころの日本は、満州事変、支那事変、太平洋戦争と、坂道を転げ落ちるように、暗い運命に突入しているまっ只中でありました。生まれてまもなく、父が北京へ赴任したため、私は零歳で北京へ行き、そのため最初に耳にした言葉は中国語でした。
日本に帰ってきて、荻窪の、すでに未亡人になっていた祖母・与謝野晶子の家に同居することになりました。よく人から祖父母のことを知っているかと聞かれますが、鉄幹は私が生まれる4年前の昭和9年に亡くなっていますので、知っている道理がありません。晶子も昭和17年、私が4歳のとき亡くなったのですから、覚えていることといえば病床に伏している姿くらいです。あとは、晶子の葬儀のとき、荻窪の家にずいぶん人が集まって、心がはずんだという記憶があるばかりです。もっとも、父や母からは何かにつけ祖父母のことは聞かされていますから、生活者としての祖父母の雰囲気はなんとなくつかんでいるような気もします。
昭和18年、その荻窪の家も整理され、六本木へ移りました。当時新竜土町といいましたが、そこの借家へ入ったわけです。 戦争の激化とともに、父の外交官としての仕事も忙しくなります。そして、父がドイツのベルリンにある日本大使館に赴任したため、私たちは母と子の生活になりました。
その後、沓掛の奥の千ガ滝というところに疎開し、親戚の家を借りて住むことになります。もののない時代なので、母が子どもたちの食料を確保するために涙ぐましい努力をしていました。こうしたことは、今でも私のつらい思い出のひとつとして残っています。
多分昭和19年頃のことでしょう。母に連れられて沓掛から汽車に乗って買い出しに出かけました。母はついあれも必要、これも必要ということで買い過ぎてしまったようです。帰りの切符を買えないまま、沓掛まで子どもの私は無賃乗車で帰って来ました。改札口で駅員につかまり、そのあと交番に連れて行かれて、荷物を全部調べられたりしたのです。
私はひどく怖く悲しい思いがしましたが、母の心はいかばかりだったでしょう。こうした痛ましい、悲惨な思い出も、過ぎ去れば思い出としてさりげなく語られるものです。ただ、そうした生きることが精一杯という時代であったことは、生々しい実感として残っています。
そのように大変な状況の中で、昭和20年4月、軽井沢小学校千ガ滝分校という、疎開者のための急づくりの、堀立小屋のような校舎の学校へ入学しました。
今でも覚えているのは、入学していきなり「海行かば」を歌わされたことです。私はこの歌の本当の意味がずっと後になるまでわからずに、海にいるカバのことを歌ったものだと思い込んでいました。
夏休みには山にゲンノショウコを採りに行くなどというノルマがありました。都会育ちの自分には、このように山村で生活する機会があったということだけは、人生にとって何らかのプラスになっていると思います。小川や草花や山や滝など、都会では体験できない自然とふれあったことは、心の財産になっているようです。
戦争中、たまたま東京に帰って来たとき、東京大空襲に会いました。焼夷弾が落ちたり、サーチライトが照らされたり、機関砲や高射砲が射たれたりしているのをこの目で見たのです。子ども心には、それは実に異様な光景と目に映るばかりでした。
ただし、私にとって本当の戦争体験は、「ひもじい」ということでした。東京に帰ってからも、白米を食べるということが一家の最大の贅沢だったくらいです。今、全国に米が余って大騒ぎしています。余ることを嘆いたり、それによって苦しめられているのです。こうしたことの解決策は、足りないことの解決策を考えることに比べればまことに簡単な話のように思えます。
戦争が終わると、父が交換船でヨーロッパから帰って来ました。昭和21年4月、私たち一家は、以前住んでいた六本木の家に戻り、再び一緒に暮らし始めるようになったのです。
私は港区立麻布小学校に入学しました。小学校では担任の先生からずいぶん往復ビンタを食らったほどの悪い生徒でした。勉強のほうは全く興味がなく、缶蹴りや模型づくりなど、遊んでばかりいたような気がします。
小学校を何とか無事卒業し、麻布中学校へ進学しました。中学生になっても、1年生のころは遊んでばかりで赤点の連続です。担任の先生から呼び出されて、「君は一体一日何時間勉強しているか」と聞かれたとき、「学校でしているから家ではしません」と答えたところ、先生は、「せめて15分ぐらいは勉強してくれよ」とおっしゃったのを覚えております。この先生は現在もご健在で、私の演説会に姿を見せてくださいます。
このように私はよい友達はつくりましたが、学業のほうはさっぱりという中学生だったのです。2年生のとき、父は日本の外交再開とともにベルギーへ赴任しました。私は婆やと2人きりで、一年間を親なしで過ごしています。
中学2年生が終わるころ、父がエジプトに移ることになり、そちらへ来いと言って来ました。私は麻布中学を退学してカイロへと向かいました。
カイロは私の第二の故郷ともいうべきすばらしいところでした。私はその年の9月から、カイロの郊外のヘリオポリスにある、イングリッシュ・スクールへ編入学しました。
私の両親は、英語のまったくできない私をその学校の寄宿舎へ放りこんでしまったのです。そこは、外出許可も出ない、悪いことをすればイギリス流のケーンというムチ打ちの刑を受けるという非常に厳しい制度が待ちうけていました。
その学校で3年間を過ごした結果、勉強というのは英語でやるといかにやさしいか、ということを理解しました。私はそれまで数学ができなかったのに、英語で数学をするといつも一番をとれるようになったのです。これは意外な発見でした。
その後、父がスペインに移ったので、3年3ヶ月を過ごしたエジプトをあとにして、私もスペインへ行き、ここで夏休みを過ごしています。それからイギリスの大学へ入ろうと思い、17歳の私は単身ロンドンへ向かいます。私はオックスフォードの第一次試験をパスし、二次試験を目指して勉強し始めました。
そうこうするうち、私の頭の中には疑問が芽生えて来たのです。考えて見れば、イギリスの大学なんかに入学しても手間がかかるばかりだし、帰国しても就職できるかわかりません。そこで私は、日本の年齢でいえば高校3年生の2月という時期に東京へ帰って来ました。その年の4月から、私は1年落第するかっこうで、麻布高校に編入学させてもらったのです。その翌々年、1年間の浪人を経て、私は東京大学法学部へ入学しました。
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