祖父与謝野鉄幹は、明治6年に京都の寺の息子として生まれました。祖母晶子は、明治11年に堺の町の菓子屋の娘として生まれて育ち、鉄幹が主催する文芸結社東京新詩社に加入し『明星』に登場しました。その後、鉄幹に師事するために上京し、明治34年に結婚しました。鉄幹・晶子が落ち着いた先は北多摩郡渋谷村大和田というところで、今は渋谷の繁華街の中心となっています。妻を捨て、親の反対を押し切っての駆け落ちだったのだと思います。文学を志すものはその時代貧しい生活を強いられていたようですが、鉄幹・晶子も例外ではなく借家を転々としていたようです。
四谷に一番近いところに住んでいたのは千駄ヶ谷です。与謝野晶子は、そこからよく歩いて四谷のまちに買い物に来ていたといわれています。晶子の歌には恋を歌ったものが多いといわれていますが、故郷を想う歌も数多く残されており、商人の町堺を思い起こさせる四谷の街を愛していたのではないでしょうか。与謝野晶子は生涯にわたって十万を超える和歌を詠んでいますから多分探せば四谷にゆかりのある歌を発見できるはずです。全国で、今は150以上の場所に与謝野鉄幹・晶子ゆかりの歌碑が建てられていて、村おこしや観光の名所になっています。伯父の光は長い間四谷の鍼灸学院の学長を務めていました。私は、浪人時代に駿河台予備校で学びました。
ここでは、あまり人に知られていない与謝野という名前の由来を書いてみたいと思います。与謝野鉄幹の父親の礼厳という人は京都府与謝郡与謝村出身の人で、もともとの名前を細見といいます。明治維新の前に故郷を捨て京都の街に出たのですが、身分制度のやかましかった時代でどこにも行き先がなく、結局はお寺に奉職することになりますが、細見という俗名を捨て僧名を名乗っていました。しかし、明治維新がきてすべての人が役場に自分の名前を届けることになり、細見と届ければ自然であったはずですが、自分の故郷の与謝という字を取って、与謝野≠ニしたのです。私も今から15年ほど前に子供たちを連れて与謝郡のルーツを訪ねてきましたが、丹後ちりめんを織っている貧しかった村が想像されました。従って与謝野という名前は古いものではなく、明治維新以降のもので、すべての親戚をたどることが出来ます。
晩年の晶子は、病に臥していましたが、子供たちにこんな言葉を残したそうです。「ごめんなさい、教育しか残せなくて・・・なんにも財産など残すことは出来なかったけど、せめて学校の教育だけはさせたから、それで勘弁して」。
鉄幹・晶子夫婦は、渋谷川(新宿御苑の湧水と玉川上水の余水を水源とし、内藤町・大京町・霞岳町を通り、古川に流れていた)のほとりを散策しながら、苦しい文学者生活の中で子供たちに何か人並みに与えられるものはないかと話し合っていたのかもしれません。
四谷 第52号 2002年3月発行 四谷地域センター運営委員会広報部「四谷編集委員会」
『文化のまち四谷 祖父母を語る/与謝野 馨
(編集委員注訳)
与謝野鉄幹は日本近代浪漫主義運動の中心的存在で、北原白秋・吉井勇・石川啄木ら多くの秀才を育てた。(編集委員 坂部 健)
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