【特別号】 陸軍史あちらこちら−(25) 『明治の外圧と日本−上−』
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【特別号】 陸軍史あちらこちら−(25) 荒木肇
『明治の外圧と日本−上−』
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□ご挨拶−めぐりきた「終戦」記念日
今年もまた、8月15日の「敗戦」の日がめぐってきました。新聞、テレビなどのマスコミばかりではなく、さまざまな場所で話題になります。
そうした中で、旧軍に関しての記憶が薄れていき、軍隊について語られ、戦争の記憶が伝承されてきました。昨日も若いタレントが番組で、「戦争体験者」の話を聞き、戦争の悲惨さをまとめています。
しかし、何度もお話しするように、正確な知見がないままに対象を語るのは危ない。しかも、歴史的事実について知ろうというときに、過去の実態を、いまの常識ではかるのは最も危険なことです。
西欧のある歴史学者は『100年前のことを知ろうとするとき、善と悪はほとんど逆だと思え』という言葉を恩師から教えられたと書いています。
今から100年前といえば、わが国では1909(明治42)年のことです。日露戦後の不況がわが国をおおっていました。
人々の精神はゆるんでしまった。個人主義や社会主義が広まろうとしている。そうした焦りから政府は前年(1908年)、戊申詔書(ぼしん・しょうしょ)を出しました。戊申とは、この年が「つちのえ・さる」にあたることからです。
内容は、日露戦争の結果、わが国が極東で重要な地位をしめるようになったこと。今後、さらに国運を発展させるためには、『上下心ヲ一ニシ、忠実業ニ服シ、勤倹産ヲ治メ』、『醇厚俗ヲ成シ、華ヲ去リ実ニ就キ、荒怠相誡(いまし)メ自彊息(やす)マサルヘシ』という教えでした。
ということは、当時のわが国世間は、「金持ちと貧乏人」の心が一つになっておらず、仕事に熱意をもつ人が少なく、生活は華美になり、風俗が乱れているというわけです。
新聞記事を見ると、1月には東京の帝国ホテルで『独身者舞踏大会』が開かれて、内外人が徹夜で踊り抜いたとあります。今で言えば、「コンカツ」でしょうか。
大阪では「貸自動車」が流行し、1時間で5円。運転手がついて1日50円から60円。奈良、京都へ走って帰るというのが流行でした。大工の給料が日給、恵まれているほうで1円20銭という頃です。
ひるがえって、貧しい人たちはどうか。前年末に「窮民に対しての国費救助」が廃止されたために、長崎市では「窮民救済規定」を出し、年間で米1石8斗分を1人に金給するといった調子です。また、「効き目のない売薬」がふえて、内務省衛生局は取り締まりをする。作家、田山花袋が「田舎教師」を発表、教師の結核罹患の多さが問題になる。トラホームの流行と、天然痘による死亡者が4,000人あまり出る。
「人は平等だ」というのが現在の常識なら、「人は格差があって当然」というのが当時の当たり前でした。もし、100年前に「人は平等だ、誰しも文化的で豊かな生活を営むのが当然だ」と叫んだら、それは社会主義思想です。とんでもない悪とみなされたことでしょう。
▼海からきた外圧「長崎事件」と「定遠・鎮遠」
『泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん)』(ペリーの来航)がわが国の歴史を変えたなら、日清戦争前の清国艦隊の親善巡航(1891年)は、どんな影響を与えたのでしょう。
弱小だったわが日本海軍。それに対して清国はすでに外洋艦隊(ブルー・ウォーター・ネービー)をもっていました。4つの艦隊に分かれ(北洋、南洋、福建、広東)、軍艦82隻、水雷艇25隻、総排水量85,000トンあまりでした。
清国が海軍を増強し始めたのは1880(明治13)年頃からです。そして90年頃には、大連、旅順、太沽(ターク)、威海衛、膠州湾などの黄海沿岸の各港を建設したり、要塞化をおえたりしています。
とりわけ4つの艦隊のうち、北洋艦隊には「定遠・鎮遠」という巨艦がありました。
1891(明治24)年7月5日、定遠を旗艦とした6隻の清国艦隊は品川湾に入港しました。この目的は、明らかにデモンストレーションです。
定遠と鎮遠は1884(明治17)年にドイツ、ステッセンのフルカン造船所で竣工した、当時、世界でも最新鋭の甲鉄艦でした。排水量は7,335トン、主砲は30.5センチ4門、副砲として15センチ2門、ほかに7.5センチ砲4門をもっていました。
提督丁汝昌は長崎、呉、神戸、東京と各都市を巡航し、艦内を公開します。政界人や財界人、軍人などをまねき、訓練なども見せて、日本側の度肝をぬきました。舷側に張られたドイツ製の鋼板は30センチ、主砲の動力砲塔の鋼板の厚さは35センチもあったのです。
当時のわが国には甲鉄砲塔艦など1隻もありませんでした。主砲の口径でも、浪速・高千穂の2隻の同型艦(1886年、イギリスで竣工、排水量3,650トン)が26センチでしかなかったのです。
以下の事実は、日本の教科書には載らないし、学者もとりあげることはありません。
実は、清国海軍の訪問は2回目でした。1回目のできごとには、日本中が震え上がりました。
1886(明治19)年のことでした。8月1日、長崎港に入港した清国海軍の水兵たちは、久しぶりの上陸、しかも相手は弱小国の日本人。はねを伸ばして暴れ回りました。士官たちも、多少の行きすぎはあっていい。日本人に恐ろしさを教えてやれとそそのかした者もいたらしい。乱暴狼藉はたいへんなものでした。無銭飲食をとがめれば乱暴をする。家は壊す。婦女暴行もあたりまえ、ついに出動した日本警官隊と乱闘し、逮捕者をだすといった状態でした。
すると翌々日、報復のためにといって、清国水兵たちは数百名で武器をもって上陸。警官隊と抜刀ざたの市街戦を演じました。清国海軍の士官たちもそれを止めなかった。双方の死傷者は80名余りといわれますが、正確なところは記録に残っていません。清国にとっても不名誉な事件であり、清国を恐れる日本政府も及び腰だったからです。このとき、政府はようやく清国と、互いの法律にしたがって処罰をおこなう。おたがいに死傷者に賠償金をはらうといった解決をしました。これが8月15日のことでした。
「長崎事件」といわれた当時としては、日本中が震えあがった事件でした。
▼海軍増強は侵略のためだったのか?
清国艦隊の巡航は、わが国民に恐ろしいショックを与えました。今度は水兵たちも暴行を慎んでいましたが、艦隊の機械力には圧倒されます。
そして、この年、ほんの2カ月前に、もう1つの衝撃的な事件がありました。ロシア皇太子の訪日と、その遭難です(5月11日)。
皇太子(のちのニコライ2世)は、シベリア鉄道起工式に列席する途中、わが国の視察に訪れました。ロシアを恐れる気分の中で、心のバランスを崩した警察官が、ロシア皇太子にサーベルで斬りつけるといった事件でした。
明治の軍人、石光真清(いしみつ・まきよ:1868年熊本生まれ)は、その著作『城下の人』の中で、当時の気分を次のように書いています。
『人口3,500万、陸軍6個師団、海軍はほとんどないに等しい状態であって、彼らの従えてきた軍艦7隻だけでも日本の大脅威だったのである』
朝鮮を通して対立中の清国。定遠と鎮遠にどう対抗するか。喫水線より上には手は出せない。砲弾はぜんぶはじき返されることだろう。ならば、水面下の水雷攻撃だ、いや、体当たりでラム(衝角)攻撃しかないなどと海軍部内でも大騒ぎになりました。
8月のことです。海軍兵器製造所では、輸入して国産化したシュワルツコップ型魚形水雷の発射実験に成功しています。ラムというのは軍艦のへさきに取りつけられた突起です。敵艦の横腹にぶちあてて、穴を開けて沈めてしまおうという工夫でした。のちにラム攻撃は砲術の発達で現実性がなくなってしまいます。
結局、実現化したのは「甲鉄艦建造優先」という常識的なものでした。
『いま本邦には製造中のものを合せば、十余隻の効力ある非甲鉄艦あれど、甲鉄艦に至っては老朽に近き扶桑(ふそう)の他に歴史上東(あずま)艦の名を存するのみ。嗚呼我が海軍将校たるものにして、平時、我が近海にある諸外国の艦隊を見るごとに特殊の感情を惹起(じゃっき)せざるはあらざるべし』(海軍参謀部出仕齋藤実海軍大尉による海軍大臣への報答)
この1891(明治24)年、議会と陸海軍は初めて対決します。議会は民力休養、経費節減を主張し、それに莫大な軍事費は国を滅ぼすと主張しました。もっとも、代議士たちは国防の重要性を否定するわけではない。海軍部内の藩閥、とりわけ薩摩閥の人事に反対しているのだと言いました。
しかし、明治天皇の「内廷費」の毎年30万円を下賜する、文武官の俸給を1割削減するといった詔勅によって事態は解決します。26年度から32年度まで、建艦費として18,082,500円を支出することを議会は認めます。「富士」、「八島」の2戦艦を32年度に、巡洋艦「明石」、通報艦「宮古」の2隻を31年度に完成させることにめどがつきました。
富士と八島は日清戦争には間に合いませんでした。その代わり、「三景艦」といわれた主力艦と巡洋艦吉野の完成が急がれました。三景艦とは、厳島(いつくしま)、松島、天橋立(あまのはしだて)で知られる日本三景から取られた名前です。厳島と松島は1891(明治24)年にフランスで完成、94年には橋立が横須賀造船所で竣工しました。快速巡洋艦吉野(よしの)は、93年9月にイギリスで完成。
三景艦というのは、なかなかに工夫がされていました。定遠・鎮遠に対して主砲の大きさは32.5センチで、より大きい。その代わり、1門しかのせていません。その巨砲を約4,000トンの排水量にのせようというのですから、実際に戦場で使ってみると無理がでました。でも、軍事技術というのはそういうものでしょう。まさか、1発を撃つと、その反動で艦じたいが傾いてしまうとは。
それまで、多くの日本人は、清に対して「文治国家」というイメージをもっていました。軍事では欧米に負けても、自分たちにも同じこと(武力による脅し)をしかけてくるとは思っていなかったのです。まさか、露骨な武力を見せてやってくるとは。これに対して、軍艦を増やし、海岸砲台を建設し、対馬に警備隊をおいたのは、わが国が侵略的だったからでしょうか。
▼陸軍の外征型師団の建設は侵略的だったか?
1882(明治15)年、陸軍は軍備拡充計画を立案、明治18年から実施する計画でした。それを早めさせたのは朝鮮をめぐる情勢です。この年、82年には「壬午(じんご)の変」といわれる武力衝突が起こりました。朝鮮の国内事情、新しい国家を日本にならってつくろうという改革派と、これまでどおり清に頼ろうという保守派の対決が原因でした。清はただちに兵力を送り、保守派を助けます。わが国は軍事顧問だった陸軍将校を殺されたり、領事館員も脱出中に命を失ったりしましたが、当時の清の武力にはかないませんでした。
つづいて1884(明治17)年には「甲申(こうしん)の変」が起こります。これは親清派の政権打倒を目指した独立党といわれる人たちが立ちあがったのが発端でした。清国軍は、またしても介入、日本人の命が失われました。
明治18年には天津条約を結んで、ようやく朝鮮における日清両国の地位は平等になったのです。その翌年に、定遠・鎮遠ほかの2隻は長崎にやってきたのでした。明らかに脅しです。のちにいう「砲艦外交」といっていいでしょう。
陸軍は計画を1年早めて(明治17年から)、いわゆる地域張り付きユニットの鎮台制を廃止して、10カ年計画で師団制度を整備するようにします。
これを後世の学者は評して「外征型陸軍」、「大陸侵略型軍隊」といいます。しかし、外征型とはいえ、当時の陸軍軍人に侵略の気分はなかったと思えるのです。
ドイツ式の装備でかため、訓練された大兵力の清国陸軍。アジア最大の海軍ももっていました。「眠れる獅子」と欧米列国も恐れていた大清帝国の軍隊に攻めてこられたらどうするか? これまでのような、地域防御を目的にした鎮台でどう対処するのか?
有事になると、各地からかき集めた兵力を臨時に「旅団」に編成する。後方補給能力もほとんどない。1885年の日本陸軍に、輜重兵は6個小隊しかいなかったのです。西南戦争(1877年)のときのように、民間から人力車や人夫を雇わなければなりません。
そうした陸軍が、制海権をおさえ、近代的装備をもつ清国に対して通用するか?
鉄道幹線も海岸線近くにつくられている。東京と京都を結ぶ鉄道路線を山中タイプ(現在の中央本線)か海岸並行のそれ(東海道本線)にするか揉めたことがあったくらいです。陸軍は艦砲射撃による被害を恐れたのです。
日本の海岸線は長く、上陸に適当な所はいくらでもあります。制海権をもつ清国はすぐに好きなところに陸兵を送りこむことができる。現地の鎮台はすぐに応戦はできても、まるで鎌倉時代の元寇と同じことが起きたでしょう。壱岐、対馬、博多の悲劇は、すぐに思い出されます。600年余りが経ってはいても、「むくり・こくり」、大陸の兵士たち、すなわち蒙古・高句麗(高麗)の残虐な仕打ちの記憶はながく伝えられていました。
国内では戦えない。なんとか戦場は海外へという気持ちが外征型陸軍をつくった動機でしょう。それが身勝手であるとか、戦場になった朝鮮の人々の気持ちを考えろといった、自分が安全地帯に身を置いた人の主張は歴史を学ぶ意味を考えていません。
当時の、国内では戦えないという常識は今からいえば悪です。しかし、結果からだけをみての現在の批判は当時としては現実味のない空論でしかありません。
▼やっと間に合った戦時動員
清国との衝突を前にして、政府はあわてていました。話し合って解決できるような事態ではない。当時のわが国は、さまざまな改革を急ぐしかありませんでした。
陸軍の平時総兵力は1885(明治18)年で、43,826人でしかありません。歩兵は13個旅団と1個連隊、騎兵は2個大隊、砲兵7個連隊と1個砲隊、工兵は3個大隊と4個中隊、輜重兵は6個小隊、そして屯田兵が1個大隊と1個中隊というところです。
1888(明治21)年には、なんとか7個師団ほかの編制ができあがり、平時総兵力で53,945人にしました(23%増)。そして、日清戦争直前には63,368人となっています。実に8年間で44.6%の増員をみました。
それを達成できた事情の1つは、徴兵令の改正でした。明治6(1873)年、同12年、同16年と改正が続きました。ねらいとしたのは、平等化、公平化です。発足当初から、徴兵令は抜け道だらけの「ザル法」でした。庶民は『徴兵懲役一字のちがい、腰にサーベル、鉄鎖』とうたったように、誰も喜びはしなかったのです。
近代国家を急いでつくり上げなければならない。そうした中で、学校歴のある者、留学生、一家の戸主、独子、独孫、官吏などは兵役を免除されました。豊かな家に生まれ、代人料を払えば兵役につかなくても良いなどといった不公平さがあったのです。
現在でも、どうにも評判が悪い陸軍ですが、フランスの思想の影響を受けていた組織でした。国民国家をつくるためには、公平で平等な国民軍をつくることが必須だったのです。そして1889(明治22)年の改正で、どうやらこうした「欠陥」がなくなりました。ところが、準備できていない制度がもう1つあったのです。それは、戦時編制をとった軍隊が必要とする予備役、後備役の幹部(将校・下士)でした。
戦時になれば、予備役、後備役の人が召集され、軍隊は戦時編制をとります。近代的な軍隊では、戦時動員される将校の数は、現役将校の2倍が常識でした。そうであるのに、陸軍はそうした準備を何もしていなかったのです。これまでも一年志願兵という学校歴のある人たちへの特権的な制度はありましたが、形式的なものでした。
この改正以来、予備役幹部の養成ということが真剣なものになったことは確かです。
▼薄氷の上の勝利
日清戦争は、やはり、ほんとうのところ、相手側の事情による「ぎりぎりの勝利」といっていいでしょう。当時の世界中の観測どおり、どう考えてもわが国が勝ったのは奇跡に近いものです。
歴史をみるときに、偶然とか運とかに大きな意味があったいうと、必ず批判がされます。ある種の歴史観をもつ人から見ると、非科学的で価値がないといわれがちですが、私はそうは思いません。むしろ、決まり切った結果から逆算したような解釈では、表面的で、つまらない歴史物語が生まれるばかりです。
歴史を知る楽しみは、過去と現在を比較し、相対化することです。前にも書きましたように、過去の人との対話ほど楽しいものはありません。
日清戦争に歩兵小隊長として参加した福島泰蔵少佐は、その経験から防寒装備の研究の必要性と、兵器の精妙さの重要性について語っています。
黄海海戦に第一遊撃隊参謀として参加した海軍大尉は、昭和の初めに次のように語っています。
『佐世保に集合した軍艦は幾十隻という数でしたが、悲しいことには、当時信号の何なりやを知らないといっては少し過言でありますが、全く艦隊運動について熟練した将校が極めて少なくて信号をしても艦隊の整備はまことに遅々たるもので、今日から考えますと、ほとんどなっておらないのであります』
では、どんな工夫をし、どうして黄海の海戦では、清国側の単横陣に対して、単縦陣をとったのでしょうか? 当時、汽走艦隊の戦術や、その運動については、世界中が手探りでした。誰も経験しない戦いを、日清の両海軍は経験したのです。
『甲乙両隊に分けて対抗運動を行い、戦争の真似をやってみた結果は、巧みなことをやった艦隊はいつでも負け、之に反して何でもかでも単縦陣で『先頭艦の後を続け』でグルグル廻って信号なしにでも行動する陣形が勝を制することが確実に判ったので、今度の戦争は単縦陣ということに決せられたのであります(佐藤鉄太郎中将談)』
こうした努力は清国の方でもやっていたことでしょう。清国海軍のレベルが決して低いものでなかった証拠は、海戦の状況を調べてもわかります。わが死傷者は298名にのぼり、赤城では艦長が戦死しました。
三景艦の一隻松島は鎮遠から撃たれ、主砲弾2発の命中がありました。1発は上甲板を破っただけで飛び去りましたが、もう1発が12センチ速射砲の楯にあたって爆発。12センチ砲弾の薬莢が誘爆、一瞬で90名の死傷者を出しました。主砲はおかげで発射不能におちいり、旗艦は交代するしかありませんでした。
松島の水雷長だった大尉の証言。
『この時、自分は艦橋にいたが、艦橋のすぐ前方で敵弾の命中とともにひどい衝撃を受け、目前の昇降口から物凄い火柱が立ちのぼり、艦体が大きく傾斜したので、もう駄目だと覚悟した』
もし、この1発がちょっと上にそれ艦橋に命中していたら、伊東司令長官はじめ、幕僚たちも全滅していたに違いありません。
戦争は互いに懸命な努力をします。それでも、運命や偶然ということを考えなくては、どうにもその結果について正しい解釈もできないのではありませんか。
▼朝鮮と中国と日本
状況は変わっています。現代と日清戦争は歴史上の段階では、ずいぶんステージが異なっているのは確かです。しかし、現代の中国海軍の増強ぶり、時に示す示威活動、それらに対してのわが国の対応はいかがなものでしょうか?
朝鮮の動向にも目を離すことはできません。政治家の諸賢は今度の総選挙以後の政策をどう考えておられるのでしょうか?
次回は明治時代の外圧、米海軍のホワイト・フリート来航と陸海軍について。
(海軍の事情については、『日本の海軍』池田清著:1966年、至誠堂を参考とさせていただきました。)
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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。
◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/
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2009-08-25 00:20
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戦争 /
自衛隊 /
荒木 肇 先生 |
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黎明期の日本大帝国陸海軍の様子について、また日本中を震撼させたと言う長崎事件について、初めて知り、大変勉強になりました。どうもありがとうございます。次回も楽しみにしております。日本が単に侵略の為に富国強兵をスローガンとしたのではない事が判り、嬉しいです(私もクリスチャンですので、)。
戦争はしないに越した事は無いとは言え、向こうから攻められる、或いは立ち上がらざるを得ない状況に追い込まれると言った事はあるので、やはり普段から安全保障の意味で、誰がなるにせよ,政権を取る人々にはしっかり考えて欲しいです。
今も昔も、日本は内モンゴルの民族浄化、チベットの弾圧、ウイグルでの核実験と、非道の限りを尽くして来た支那帝国のすぐ隣に位置しているのだから、丸腰で平和憲法が守ってくれると思っているようでは心もとありません。
コメント有難うございます。
ブログ拝見させていただきました。
素晴らしいです
mb06081945さんの「望郷潭」:イザ!
http://mb06081945.iza.ne.jp/blog/
クリスチャンで私と同じ思いの方がいらっしゃること
本当にうれしく思います。
この記事を書いていらっしゃる荒木先生は自衛隊で
いつも講演をなさっておられて、また教育者でもあり
いつもその研究は素晴らしくて、
多くのファンがいらっしゃいます。
これらも荒木先生の記事を紹介していきますので
よろしくお願いいたします。
本日、次号が届いていますのでさっそく今らUPします
あたかも、朝日新聞のH記者による「中国の旅」の連載が始まり、皆が中国への「反省・お詫び」が流行していた頃でした。
さて、何より凄いのは、わが国民世論が「外国にひれ伏す」と、その反動でいつか「窮鼠猫を噛む」という諺のように一気に反撃に進んでしまうことです。そうしたことは、賢い他国の人はよく知っていると思えます。
防衛費が毎年のように減らされています。人員も2割を一律に減らしていくという。ああ、日本人は変わっていく、そんな不安もあります。
自衛隊への応援をよろしくお願いします。
暗殺実行者の日本人が子孫に、そのことを伝えていたから、
ずっとそのことが心の負担になっていたので、
涙ながらにお詫びするんだけど・・・
あれって、やらせのムード濃厚。
当時の韓国人の暗殺グループに協力した日本人が、殺傷したのか、
誰がとどめを刺したのかも定かではないのに・・・
娘に自分は殺人したと語り継ぐ???変でしょう!
閔妃ってどうしようもない悪女だったのに、
国母のように教えてる韓国の教育はどうしようもないと思いました。
韓国ねつ造歴史の巻!
韓国の民衆に重い税金を課して苦しめ、
清国やロシアに国を売り渡しかねない悪い王妃を、
暗殺しようと立ち上がった義勇の志士たちに
加勢をしたってことを語り継いだってことだったら理解はできるけど・・・
それで、たまたま子孫が反日?自虐史観の虜になって
テレ朝に利用された???かな
それだって、遺体を捨て置いた韓国人に、
死んだら罪はないと言って、手あつく葬るように諭したのも日本人
韓国人は「恨」ハン思想が強いから、死体でも憎い〜
皇后としての称号も日本人によるものらしい
日本人の精神性の高さは誇りです