洋々youyouのブログ

アセンションをキーワードとした日々の気づきを綴るブログです。

2008年07月

声の力

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近所に小さな中華料理屋があります。

知る人ぞ知る有名店です。


「週間朝日」や「女性自身」など多数の雑誌で紹介され、いつも大勢の行列です。

ところが、味も値段も量も、どちらかというと普通なのです。店内はこぎれいですが、けっして立派な建物ではありません。

店はご主人とおかみさん、若い店員さん2人の合計4人で切り盛りしています。

なぜこんなに繁盛するのだろう? 以前から不思議でなりませんでした。

味はたしかにいいのですが、それほどまでに大繁盛する理由が見つからないのです。

数日前、初めてその秘密の一端が判明しました。

おかみさんはたぶん50代だと思うのですが、その声の響きがものすごくいいのです。見た目は普通のおかみさんなので、なかなか気づきませんでした。

文字通り、鈴をころがすようなツヤと輝きのある声なのです。それでいて深い味わいを感じさせるような声です。

若い頃の島田須美さん(ナウシカの声優です)の声に、温かみを加えたような感じです。

「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」「ラーメン一丁!」

おかみさんの通りの良い声が店内に響き渡るたびに、さわやかな風が吹き抜ける感じです。

金色の鈴をコロコロと鳴らすような、なんとも気持ちのよい声です。

おかみさんは、炎天下の外で待っている人に冷たいタオルを配ったり、店内の客にお冷を注いだり、ものすごく気配りが行き届いてます。

たった4人で大繁盛店を切り盛りしているので、ものすごく忙しそうなのですが、いつもにこやかな笑顔です。だから、どんなに店内が混雑していても、とても居心地がいいのです。

この方が大繁盛店の幸運の女神さまなんだ…そんな気がしました。

こういう小さなところから、弥勒の世が始まっているのかもしれませんね。


追伸:
いつもお越しいただきありがとうございます。次回は週末にアップします。

アセンションした友人

「今まで最も印象に残った人間を一人だけ挙げろ」と言われたら、迷うことなく小学生からの親友だったT君を挙げます。

どんな学校でも、何かの分野の才能で目立つ奴がいますよね。ケンカが強いとか、スポーツで抜きん出ているとか…。

彼の場合、そうしたスケールをはるかに超えていました。生まれながらに持っているもののレベルの高さがぜんぜん違ったのです。

そもそも、見た目が普通の人と違いました。

中学生のときの印象としては、小泉孝太郎君とかウエンツ君に感じが似ていたのですが、もっとはるかに高貴な感じがありました。

スタイルは長身で、かなり細身です。肩幅が広く、手足が細く長く、天然のウェーブのかかった長い髪、彫りの深い目鼻立ち、高くまっすぐな鼻、色白の小さな瓜実型の顔など、外人モデルのような雰囲気がありました。もちろん、ハーフなどではなく、純粋な日本人です。優しい聖者のようでもあり、威厳のある貴族的な風貌でもありました。

もちろん、勉強もダントツトップです。ガリ勉などとは無縁です。エリートらしい嫌味な感じは微塵もなく、いつも皆なを笑わせていました。

学年を超えて、全校生徒が男女を問わず、誰もがあこがれる存在でした。先生も一目を置く存在で、指導力も抜群。中学校では生徒会長をつとめていました。

陸上も、水泳も、球技も、あらゆる競技を易々とこなし、スポーツ万能でした。何もトレーニングしていないのに、細身の筋肉はものすごいパワーで、誰も腕ずもうでは勝てませんでした。

歌を歌えば、プロのような美声で朗々と歌いました。ものすごく情感豊かで、いつまでも聞いていたい感じでした。

英語を朗読すればネイティブ顔負けの発音で、英語の先生もびっくりです。彼の家はあまり裕福ではなかったので、塾や家庭教師などとは無縁で、ネイティブ発音は映画やTVで聞いただけでマスターしたそうです。

要するに、運動も、音楽も、あらゆる芸術も、努力しなくても、最初から楽々と何でもできたのです。そして、どれも素人の域を超えていました。しかも、単に勉強ができるだけでなく、誰に対しても優しく、強いものに対して一歩も引かず、勇気と優しさと心配りを兼ね備えていました。

一度、手をじっくり見せてもらったのですが、明らかに男性の手なのにもかかわらず、指がものすごく長く、今まで一度も見たこともないような美しい手でした。

まるで映画の主人公のように、歩き方も優雅で、小学生の頃から、まるでハリウッドの大スターのような雰囲気がありました。

中学生の頃、彼のルックスと歌唱力に目をつけた大手芸能プロダクションから何度も誘いがありました。もちろん、すべて断っていましたが…。

ともかく、彼のことをぜんぜん知らない人でも、道を歩けば思わず振り返ってしまうような、人を魅了するオーラが漂っていたのです。こうしていくら言葉で表現しても、彼のことをうまく伝えることはできない気がします。

世の中にはこんな人間がいるんだ〜とため息が出るばかりでした。最初からレベルが違うので、嫉妬や羨望の対象にすらなりません。

彼の行く末は、世界的な大学者、政治家、それとも大スター?将来は一体どんなすごい人間になるのだろう?同級生の誰もが彼の将来を楽しみにしていました。

中学卒業後は、有名な進学校に入り、大学も東大に匹敵する一流大学に入りました。大学を卒業すると、日本を代表する大企業に就職しました。

そこまでは周囲の期待通りでした。

ところが…


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彼はいま、天国にいます。
急性白血病…まだ24歳の若さでした。


あまりにも神々に愛でられたので、人よりも早く天国に召されたのかもしれません。

思えば、ずっと彼にあこがれ、彼を目標としてきました。足の速さが互角だったこと以外、何1つ彼には勝てませんでした。

ですが、1つだけ、彼に勝っている点があることに気がつきました。

それは、彼よりも長く生きている、ということです。

今週は彼の命日でした。父と同じ寺に眠っています。今日、父と彼の両方の墓参りをしてきました。

彼の墓前に行くと、すでに火のついた線香が供えられていて、綺麗な花が飾ってありました。たぶん家族でしょうが、10年以上経っても、まだ彼を忘れない人がいることに感銘を受けました。

闘病のことは家族以外、誰も知りませんでした。おそらく同級生に心配かけたくなかったのだと思います。最後まで彼らしかったと思います。

そういえば、彼の生前の夢を聞いたことがありませんでした。

「おまえは生きていたら、何をしたかったんだ?」

墓前で彼に尋ねてみました。

答えはありませんでした。

彼の遺志を聞いても、彼の代わりになれるわけではありません。

「そんなこと、自分で考えろよ!」

一瞬、白い歯を見せて笑う彼の顔が浮かんだ気がしました。

彼の分まで、1分1秒を一生懸命に生きることを誓って帰ってきました。


追伸:
いつもお越しいただきありがとうございます。今回は少し重い話だったので、続けてもう1本、記事をアップしたいと思います。

高い叡智とは

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半年ほど前の話です。

今年の冬は、大雪が何度か降りました。

発芽したばかりの小松菜の新芽が痛まないように、庭のプランターの雪を手で取り除いていたときのことです。

近くにスズメがやたら寄ってくるのです。それも一羽や二羽ではありません。

スズメはとても知能が高い鳥です。いろいろな言葉をしゃべるし、野鳥の中でも特に感情の豊かな鳥です。人の顔をしっかり区別するし、とてもよく考えた行動をします。

ちなみに、スズメの顔は1匹1匹、ぜんぶ顔が違います。あごの下にある墨汁をたらしたような黒い模様で区別できるのです。だから何ヶ月経っても、一度でも見たスズメはすぐわかります。気の強いスズメ、優しいスズメ、おとなしいけど頭のよいスズメ…それぞれ違った表情をもっていて、ものすごく個性豊かです。

話しが脱線しました。最初の話に戻ります。

庭でプランターの雪を取り除いていると、周囲にスズメが寄ってきて、庭先の花壇をつつくようなしぐさをするのです。最初、冬場のエサ不足で、何か食べ物でも探しているのかと思いました。よくよく見ると、庭に数匹のスズメが降り立ち、そこに積もった雪をほじくるような仕草をしきりにしています。

ところが、それはものすごく奇妙な行動なのです。

本来、スズメは非常に警戒心が強い野鳥です。こんなに人間の近くに寄ってくるはずはないのです。うっかりすると足元で踏みつけてしまいそうなほど、近くの雪の上をしきりにつつく動作をしては、こちらを見るのです。

まるで「ここの雪をどけてよー」と訴えているような感じでした。

ちょっと気になったので、何も植えていないはずの庭の土にかぶっていた雪を素手でそっとどけて見ました。

なんと、そこには発芽したばかりの小松菜の芽がたくさんあったのです!

数週間前、プランターに種をまいたときに、余った種を庭にも蒔いたことをすっかり忘れていました。

そうか、これを教えたかったのか!!

あわてて周囲を見ると、先ほどのスズメたちは近くの枝や電線に止まってじっとこちらを見ています。そこで、急いで雪を全部どけて、すだれで即席の雪よけを作ると、スズメたちは安心したようにどこかに飛び去っていきました。

実は、今年の冬は特に食べ物が不足していたらしく、庭のプランターに生い茂った小松菜が、スズメたちにほとんど食べ尽くされてしまいました。

小松菜は冬場の味噌汁の具として毎年楽しみにしていたのですが、今年は冬場のエサが少なかったんだろうな、と思っていました。

スズメは、絶対に小松菜の新芽は食べません。どんなにお腹が空いても、成長するまでじっと見守っています。そして、新芽は、まだ赤ちゃんの葉っぱであり、雪に埋もれたままにしておくと、数日で枯れてしまうということをきちんと理解しているようです。

また、成長した小松菜を食べるときも、かならず古くて大きい葉から食べます。それはもう、本当に感心するほど計算しつくされています。

プランターの小松菜は、スズメにほとんどの葉が食べられてしまいましたが、植物全体が完全に枯れてしまうことはありませんでした。

スズメは、植物が死なないように、最小限の葉をちゃんと残して食べるんですね。ですから、スズメが葉を食べた冬の小松菜は、春になるとちゃんと花が咲き、実をつけます。

人間は、自然を破壊し、食物を取り尽くし、原油も使い放題で、食料不足になってから大騒ぎします。スズメとは大違いです。

ですから、賢いスズメたちは私がプランターの雪をどけているのを見て、「こっちにも新芽が出てるよー、早くここの雪もどけないと枯れちゃうよー」と親切にも教えてくれたんだと思います。こういう行動を見ると、スズメたちも、人間に負けないくらい高い叡智があると思います。

人類は「万物の霊長」と呼ばれていますが、そうしたスズメのほうこそ「万物の霊鳥」と呼ぶのにふさわしく感じます。

もちろん、人は、スズメに限らず、自然の動植物や万物の事象から学べることは多いと思います。ですから、本当は「万物の霊長は万物である」が正しいのではないかと考えています。

その後、スズメが教えてくれた新芽が無事に育って、3月には小松菜の花が開花しました。

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ご覧の通り、とても可愛い花です。いわゆる菜の花ですね。


菜の花のつぼみは「菜の花のカラシあえ」にしたりして、例年なら春の食材として重宝します。すごく美味しそうなつぼみだったのですが、今年は花を見たかったので、食べずにガマンしました。やはり、花は食べるよりも愛でるほうがいいものです。

ところで、春は黄色い花が多いのですが、その理由をご存知ですか?

答えは、「春の虫の多くは黄色しか色を識別できない」からです。春の太陽光線には、黄色の成分が多く含まれているそうです。ですから、自然に黄色系の花が多くなるわけです。

初夏や秋にかけて、太陽光線の成分も赤色系が増えてきて、しだいに赤い花が多くなります。それに伴い、虫も赤い色を区別できるようになってきます。

本当に、花も虫も、見事に計算しつくされた行動をしています。自然界には、花の色1つとって見ても無意味なものは1つもなく、すべてに深い意味があります。自然界の生き物たちの行動や生態は、まさに叡智のかたまりです。ですから、私の考える叡智とは「自然界の理にかなった行動」です。

そうした花や虫を見ていて、最近、思うことがあります。

それは、

「自分の行動をしっかり説明できるかどうか?」

ということです。

人は、知性があるようでいて、意外に自分のことを自分で説明できません。

もう少し話を単純化して、

「今日一日の自分の行動をしっかり説明できるかどうか?」

ということを考えるだけでも、いろいろ分かってくるのではないのか、と思います。

なんとなく、朝起きる。
なんとなく、食事をする。
なんとなく、働く。
なんとなく、遊ぶ。
なんとなく、ネットにアクセスする。
なんとなく、TVを見る。
なんとなく、寝る。
なんとなく、その一日が終わる。

この延長線上には

「なんとなく過ごし、なんとなく老い、なんとなく終える人生」

が待っている気がします。

それで満足し、幸福な人生なら、それはそれですばらしいと思います。

ですが、時々ふと立ち止まって、

「今の自分の行動をしっかり説明できるかどうか?」

を考えてみるのもいいのではないかと思います。

それが私の考える「自己凝視」のテクニックでもあります。

それに、今はなんとなく過ごせる時代ではありません。

明治維新のときよりも、イタリアルネサンスや産業革命のときよりも、おそらくもっともっと激動の時代だと思います。

「なんとなく生きて」いるだけでは、もったいない時代という気がしてなりません。

相変わらず、なんとなく過ごしたくても、なんとなく過ごせない、多忙な日々です。


追伸:
野鳥に関する不思議なエピソードは、子供の頃から数多くありました。子供の頃は、それが当たり前だと思っていたのですが、大人になってからはこういった話はあまりしなくなりました。いきなり「スズメは知能が高い」と言っても、やはり変人扱いされることが多いからです。ですが、叡智を持つのは人間だけではないという事実を知っていただきたいと思い今回の記事をアップしました。

冬のスズメ
いつもお越しいただき、ありがとうございます。今週末にもう1回、記事をアップしたいと思います。

「弥勒の世」とは

シジュウカラ
前記事の後日談です。

魔女先生、実はこの方は大変な名医だったそうです。

戦後すぐに女医として日本中を回り、戦争で被災した子供たちのヤケドなどをずいぶん治療されたそうです。

また、私財をほとんど発展途上国の子供たちに寄付し、病院にお金をかけない主義だそうです。

だから病院もボロボロ、一見するとお化け屋敷だったわけです。

以下、「名医先生」と「魔女先生」のプロフィールです。

-「名医先生」は働き盛りの中年男性。
-「魔女先生」は一線を引退した70代〜80代女性。

-「名医先生」は立派な体格、よく響く明るく大きな声、経営者のような風貌。
-「魔女先生」はよぼよぼの体格、しわがれた声、見るからに怖そうな風貌。

-「名医先生」は愛想がよくて、頼もしく、自信に満ちた言葉で安心させてくれた。
-「魔女先生」は愛想はゼロ、挨拶もせず、乱暴な言葉使いだった。

-「名医先生」に支払った医療費は数万円(電車代含む)。
-「魔女先生」に支払った医療費は数百円。

-「名医先生」に通った期間は1ヶ月、通院に要する時間は1回7時間(待ち時間3時間)。
-「魔女先生」に通った期間は30分(待ち時間ゼロ)。

-「名医先生」の病院は豪華な建物、たくさんの綺麗な看護婦さん、患者さんであふれていた。
-「魔女先生」の病院はお化け屋敷、看護婦さんは娘さん先生が兼業、患者さんはゼロ。

-「名医先生」の評判は折り紙つき。紹介状がないと、なかなか診察してもらえない。
-「魔女先生」の評判はわずかな口コミのみ。地元でもほとんど知られていない。

ここまで見て、皆さんだったら、どちらの病院に行きたいと思いますか?

結果は明らかですよね。病院の繁盛ぶりが雄弁に物語っています。

このことからも分かるように、「心眼」で人や物事の本質を見抜くというのはなかなか難しいと思います。

治療の結果は以下の通りです。

-「名医先生」に1ヶ月通った結果、子供の症状は悪化し、手遅れ寸前になった。
-「魔女先生」による診察は数分、すぐに適切な救急治療を手配し、ギリギリ間に合った。

子供が大学病院を退院し、しばらくしてから両先生にお礼参りに行きました。

「名医先生」は、謝礼金のみ受付で嬉しそうに受け取り、「じゃ、患者さんが待っているから♪」と子供を一度も見ずに診察室に戻りました。

「魔女先生」は、頑として謝礼金を受け取らず、「息子さんに何か買ってあげな!」とつき返し、その代わり、「元気になってよかったね、いい子だ、いい子だ」と、子供にたくさん話しかけてくれました。

-「名医先生」の治療方針は「治療を長引かせ、通院回数や投薬を増やすこと」
-「魔女先生」の治療方針は「治療は最短で済まし、通院や投薬よりも生活習慣を改善すること」

「名医先生」と「魔女先生」、たぶんどちらも世の中に必要な方です。どちらが善いとか悪いとか、判断はできません。

ですが、今までの世の中において、成功し、評価され、尊敬され、経済的にも豊かになり、多くの患者さんに必要とされてきたのは明らかに「名医先生」のほうでした。

「魔女先生」の場合、腕が良いのと、食事療法や生活習慣などをしっかりアドバイスするので、患者さんの通院が最小限ですみます。だから、患者さんは少ないほどよい、という考え方です。でも、それでは病院としての経営は成り立たないはずです。

そのことを伝えると、魔女先生は「私は棺おけに片足つっこんでるから、趣味でやってるのさ」と笑い飛ばしていました。でも、どこか寂しげな感じもしました。

私の考える「弥勒の世」とは、「魔女先生」のような人格・技術ともに素晴らしい方が、もっともっと正しく評価され、多くの患者さんに必要とされ、人々から敬愛され、その腕が認められ、魔女先生個人も幸せになれるような社会です。

こうしたことは、医療の現場に限らず、この日本社会のあらゆる場面に当てはまるのではないでしょうか。

別に「魔女先生」に億万長者になって欲しいというわけではありません。

「魔女先生」のご主人は戦地でなくなったそうです。日本国の平和を願って戦った新婚のご主人を失い、女手1つで娘さんを育ててきたわけです。ですから、おそらく娘さん先生は50歳すぎ、院長先生は80歳近くのはずです。お二人とも独り身でした。

こういう世に埋もれた素晴らしい方々が、きちんと多くの人に認められ、報われるような世の中こそが、私にとっての「弥勒の世」です。

それは、上のものが下になるような、ある意味で、今とはまったく正反対の世の中といえるのかもしれません。

では、具体的にどのように世の中を変えてゆけばよいのでしょうか?

それこそが、今の私の最大の課題です。たくさんの具体的なプランがあります。どれもが時間と体力の戦いばかりです。

いずれにしても、人類史においてもまれに見るような、とてつもない大変化(破壊と創造)が必要だということは、誰でも容易に想像できると思います。

弥勒の世は、人類の心の奥底に潜んでいる共通の夢だと思います。ですが、ただ座って待っているだけではやって来ません。書籍の中にも、PCの中にもないと思います。もちろん、私のブログの中にもありません。現実を変えて生み出していく努力を始めないかぎり、永遠に夢は夢のままで終わってしまうと思います。

私にとっての「弥勒の世」は、現実世界を意図的に変えてゆくことしか考えられません。最近になって、人は三次元だけでなく、意識のうえでは同時に多次元にも生きている存在だと感じるようになりました。ですから、現実生活を高めれば高めるほど、同時により高い次元に意識が同調していくような気がします。

だとすれば、「意識だけ高次元」というのは本来は不自然な状態で、「魔女先生」のように、現実の行動が素晴らしいことこそが本当の意味で次元の高い在り方ではないかと思います。

さらに、そうした次元の高い人や物事を正しく評価できる心眼が多くの人に備わって、初めて「弥勒の世」と呼ぶのにふさわしい社会が成立するのではないかと考えています。

それを検証・実践していくのが、私の今後のアセンションの旅です。

次回以降の記事では、そうした旅の一端をお伝えできればと思っています。



追伸:
いつもお越しいただきありがとうございます。次回記事は来週末にアップします。

「心眼」とは

以前、楽天ブログにも書きましたが、小学生の長男は先天性の難病を患っています。現代医学では完治しない病なので、一生つきあっていかなければなりません。

3歳のとき発病し、あやうく一命をとりとめました。ですが、そこに至るまでは数々の奇跡のドラマがありました。

もともとは足に出来た、たった1つのおできでした。蚊に刺された感じだったのですが、それがままたくまに直径10cm以上に腫れあがったのです。最初、毒虫にでも刺されたのかと思い、私立病院の皮膚科に行き、薬をもらい、毎日塗りましたが、悪くなる一方でした。

それが両足に広がり、手にも広がり、さすがに「これはおかしい」と感じたとき、タイミングよく母が紹介してくれた「評判の名医」のところに紹介状を持って行きました。

電車で片道2時間かけて、3時間待たされました。診察時間は5分。「キズが化膿しているから、ステロイド剤を塗って、抗生物質を飲めば治る。心配いらない」といわれました。病院の建物はすごく立派で、押し出しのよい、愛想のいい中年の男性医師でした。たしかに安心感はありました。

翌週も往復7時間かけて、「評判の名医」のところに子供を連れていきました。相変わらず診察時間は5分。子供は、毎晩「痛い、痛い」と夜中の間ずっと泣き叫んでいました。手足の腫れと出血がひどく、私も家内も毎夜、包帯を取り替えるために寝るヒマもありません。確実に1週間前よりもひどくなっていました。

「このままで本当に大丈夫ですか?」と私が名医先生に聞きました。

「心配いらないといっただろう。私を信用できないのか!」

そのときの名医先生は、「忙しいのに、素人判断でそんなこと聞くな!」といわんばかりの強い口調でした。これには私も家内もちょっと驚きました。

帰る途中、家内がいいました。「本当にあの先生でいいのかしら…」

ですが、私もどうすればよいかわかりません。「ほかにいい先生も心あたりがないし、信じるしかないよ」

そのうち1ヶ月が経ちました。子供の症状は一向によくなりません。

特に痛みのひどかった翌日、家内が1枚の地図を持ってきました。子供が通っている保育園のママに「ここに行ってみたらどうかしら、いい女医さんよ」と近所の病院を教えてもらったのです。

行ってみると、お化け屋敷のような古い病院でした。病院を見たとたん、そのまま帰ろうかと思ったほどです。70歳過ぎの初代の女医さんが院長先生で、40代の娘さんと二人でやっているそうです。院長先生は第一線からしりぞき、ほとんど診察はしていないとのことでした。

最初に診てくださったのは、娘さん先生でした。包帯を外すと、「イタイ、イタイ」と子供が泣き叫びます。「キズがこんなに化膿している! ステロイド剤と抗生物質を1ヶ月飲んでも治らないなら、私の手に負えない」と奥にいる院長先生を呼んでくれました。

出てきた院長先生は、すごく怖そうな魔女のようなおばあさんでした。挨拶もせず、何も言わず、すごい形相で子供を診察し始めました。

「すぐ救急車へ電話して! ○○大学病院の○○先生に連絡して、そこに運んでもらうように!!」

いきなり、娘さん先生に大声でそう指示したのです。

びっくりしている私と家内のほうに振り向くと、魔女のような院長先生が初めて口を開きました。

「あんたたち、大変だったね。この子は運が強い。あと1日遅かったらたぶん手遅れだったよ。今なら命は取り止めるだろう。だけど、足の指は切断することになるかもしれないね。覚悟しときな。ほら、もうこんなに骨が見えてるよ」

これまで何件もの病院で見てもらったことを告げると、

「ふん、『名医』だなんていわれている医者にろくなもんはいない。金儲けばかり考えている連中だよ!」と吐き捨てるようにいいます。

そして、子供に向かって

「よくがんばったね、つらかっただろう。もう少しの辛抱だよ」

と優しく声をかけてくださいました。

私と家内は思わず涙ぐんでしまいました。

人は見かけやうわべの言葉だけで判断してはいけない、とそのとき初めて知りました。

口は悪いし、見ためは怖いけど、とてもよい先生に出会えたことに今でも感謝しています。どこかの「評判の名医」さんとは大違いです。

そのあとは、本当に、本当に、言葉では表せないほど大変な1年間でした。

大学病院ではすぐICUに入れられました。子供の体はすでにボロボロでした。

心臓の周囲に水がたまっていて、全身に炎症反応があり、両足は緊急手術、そのあとは「ピコンピコン」という心電音が響く24時間体制です。昼夜の別なく、家内と24時間の付き添いです。私も家内もフラフラでした。

かろうじて一命を取りとめ、ようやく退院したのは3週間後でした。

病名は聞いたこともない名前でした。先天性の免疫異常で、ステロイドも抗生物質もきかない体質だったのです。全国の患者数は5千人未満で、その半数が子供。原因は不明で、現代医学では治療不可能とされています。

あとで聞いたのですが、あと1日遅れていたら、足の指数本を切断しなければならなかったそうです。また、あと1週間遅れていたら、命の保証すらできなかったそうです。

魔女先生が紹介してくれた大学病院は、その難病で日本一の実績を誇る大学病院だったのです。ですから、もし他の大病院に救急車で連れていかれたら、おそらく原因不明で治療に時間がかかり、やはり手遅れになっていただろうとのことでした。

もし偶然、家内が保育園の同級生のママに相談しなかったら、そしてそのママが偶然、その女医さんを紹介してくれなかったら、もし偶然、その日に院長先生がいなかったら、そして、もし院長先生がその難病のことを知らなかったら…。

たくさんの偶然が重なって、手遅れ寸前になるところで、ギリギリのところで奇跡が生まれたわけです。

その奇跡を引き起こしたのは、やはり家内の機転だと思います。

あとで聞くと、保育園の同級生のママとは、ふだんめったに話しなどせず、たまたま道で偶然出会ったそうです。

そのとき、「どこかいい皮膚科の先生がいないかしら」と家内が相談しなければ、近所の魔女先生の存在も知らないままだったわけです。

それは、家内が「評判の名医」などといった肩書き、立派な建物、愛想のよい言葉、名声などの表面的なものに惑わされず、子供を思う純粋な愛情から生まれた行動だと思います。

私はそこに「心眼」を感じます。

それは、母親の子供に対する愛情に根ざした「心眼」です。

私の考える「心眼」とは、霊感のようなスピリチュアルな能力ではありません。

母であれば、子供を守るための本能に根ざしたカンです。

医師であれば、患者の顔や患部を見ただけで悪いところを察知する能力です。

母であれば、子供を守るためにあらゆる機転をきかせる力、医師であれば患者の容態を素早く見抜く力、そういったものが「心眼」だと思っています。

霊が見えるようなスピリチュアルな能力だけが「心眼」なのではないと思います。

現実的な能力の延長にある、物事の本質を見抜く力はすべて「心眼」だと思います。

会社経営者であれば、会社の危機を事前に察知したり、ビジネスチャンスを的確に嗅ぎ分ける力。

教師であれば、生徒の得意分野を見抜き、それを伸ばす力。

運動選手であれば、勝負どころを見抜き、ここぞというときに100%の能力を発揮する力。

音楽家であれば、自然や人生からメロディーをつみぎだし、多くの人を感動させる力。

妻であれば、子供や夫が食べたいものを察して、「美味しいね」と喜ばれる献立を選ぶ力。

このように現実世界の智恵として、その人の専門とする分野で、大きな物事から日常の小さなことまで、さまざまな形で現れてくるのが「心眼」の本質だと思います。

その後も治療のために大学病院に通い続け、早くも5年が過ぎました。

子供の容態は、少しずつ薄皮をはぐように好転し、今では普通の子供と同じように小学校に通っています。

思えば、私も家内も、とてもいい経験をさせてもらいました。

いま、子供が平穏無事に日々を生きてくれるだけで、おそらく普通の親御さんよりも何十倍もの幸福を感じさせてもらっているからです。

「心眼」をテーマにするつもりだったのが、私事を長々と書いてしまいました。

拙い文をここまでお読みいただき、ありがとうございました。 

心身の浄化

アセンションには、心身の浄化が不可欠と言われています。

そこで、現時点で実践している心身の浄化法をまとめてみました。

「身体編」と「意識編」の2部構成です。


[身体編]

PCから離れる
電磁波過敏症もあるが、最大の弊害はネット依存症気味になること。自分の記事への反応や、他人の記事が気になり、ついつい長時間のブログめぐりになりがち。「出来るだけネットから離れる」ことが(私にとっての)最大の浄化法の1つ。

部屋の掃除を定期的に行う
これこそ浄化の王道。部屋の汚れは自分の心身の汚れにつながる。心身を清めるためには、まずは住まいの環境の浄化が不可欠。自分の部屋がちらかったままでも気にしない、という意識こそが環境破壊の根本的原因と思われる。自然環境の破壊を食い止める第一歩は「地球全体を我が家」と考える意識が大切。

菜食中心の食事・料理をする
有機無農薬の玄米と野菜が中心(たまに魚と乳製品)。食品添加物の入ったものは一切摂らない。これは10年前から家族ぐるみで実践。基本的に外食はしない。食材は、可能なかぎり自家栽培および野草や木の実(ドングリ料理含む)を利用。最近はスーパーの惣菜もほとんど買わずに自分で一次素材を料理する。週に最低2日は家族のために料理を担当する。

整理整頓して持ち物を減らす
新しく買うものを極力吟味し、不用品を処分またはリサイクルして、持ち物の絶対量を減らすこと。減らせば減らすほど快適になり、気持ちも軽くなる。

電化製品・自動車に依存しない
必要最小限に利用する。近所の移動には徒歩。少し遠いところは自転車を利用する。TV・電子レンジ・携帯電話は今後も永久に所有しない。

水行+フロ掃除+雨水利用
地球環境に配慮してシャワーの水、ガス、電気を節約するため、温度を一番低くしておき、お湯になるまでの冷水を頭から水シャワー。その水は、足元に洗面器を置いて出来るかぎり回収する。お湯になったらすぐにシャワーを止め、ガスも止める。身体を洗ったら、足元の水ですすぐ。続いて、ガスを止めた状態で水シャワーで洗い流す。その間も足元の洗面器で水を出来るかぎり回収する。ぬるま湯からだんだん水になり、完全に水になった時点でシャワーをストップする。最後に、足元の水(=洗面器で回収したぬるま湯)で風呂場をざっと掃除する。また生活用水の一部に雨水を最大利用する。

太陽凝視+早朝ウォーキング
太陽凝視は、早朝散歩(朝5時起床)のときに日の出を見る程度。最近は太陽光線が非常に強いので、歩きながら時々見る程度。長時間の太陽凝視はしない。

子供と遊ぶ
自然の中で身体を動かす、動植物のメッセージに耳を傾ける、日の出や日没・雲の動き・月を見る、科学実験や自然観察を行う。

家族とよく話し・よく笑う
笑いは気持ちの浄化作用No.1。世の中の第一歩は自分、第二歩は家族、第三歩は周囲の友人・知人。人類や地球へ光を流すなどと大きなことを考えず、まずは周囲に小さな明るさをともすことから始める。

日常に音楽を取り入れる
笑いと同様に、音楽も浄化作用が高い。ピアノ曲を中心に聴く。たまに自分で弾く。一種の瞑想のような感じで、自然に出てくる即興のメロディーを口ずさんだり、演奏する。


[意識編]

自分に正直になる
自分にだけはゼッタイにウソをつけない。自分が何をしたいか、何を望んでいるかは自分しか知ることができない。これがアセンション(意識の進化)の出発点。

社会生活を大切にする
仕事を通して、人間関係を通して、家事や育児を通して、あるいは病気やトラブルを通して、自分に与えられた環境を精一杯生きて、そこから卒業して自由になることが、すべての浄化の基本。

実践・行動を最優先にする
本当に必要なことは、自ら行動を起こすこと。単に「意識する」だけでなく、実践して初めて「本物の意図」となる。特に地球環境や貧困問題については、何が出来るかをつねに考え続けるだけでなく、それを具体的な形にしていくこと。

精神(魂)の自由を目標にする
自立した個人として、何物にもとらわれず、ありのままに物事を見て、自分の魂の声に忠実に生き、自分にとっての真実を追究する。

1分1秒を大切にする
「今この瞬間」に集中して生きること。大事なことは、過去を振り返ることでもなく、未来に想いをめぐらせることでもなく、現在に集中して生きること。それによって、過去・現在・未来の意識を統合し、時間軸の意識が拡大する。

現状(ありのまま)を受け入れる
自分に対する基準が高すぎても、低すぎても、問題が起こりがち。現状の自分をそのまま受け入れられないと、3次元的な欲望(=「がんばろう」という意識)にとらわれすぎて、キリのない目標や課題を生み出し、それを達成するためにさらなる3次元的な時間と体力が必要となる。そうした際限のない循環から脱出する。

「自分の魂」以外の一切に依存しない
ここでいう「自分の魂」とは、心の奥底から聞こえてくる内面的な声のこと。依存の対象は、アセンション系のブログや書籍、人、グループ、情報、財産、物質、成功や名誉など、物心両面のあらゆるものに及ぶ。何かに依存していないかつねに内省すること。

他者をコントロールしない
他人の「自立と選択」を尊重する。「自分にとって正しいことと、他者にとって正しいことは異なる」ということを理解する。人それぞれのアセンションプロセスを認めること。自分をコントロールするのはあくまでも自分。

人を裁かない(特に家族に対して)
相手の行為が「明らかに間違っている」と感じる場合でも、相手を心の中で裁かない。相手の間違いを「許す」という意識も裁きの一種なので注意する。「許す」という意識の背後には「自分が正しい」という意識があり、その心の奥で人を裁いている。特に相手が自分の子供の場合に注意する。例えば、子供が道路に飛び出しそうになったら、「許す」「許さない」といった裁きの問題ではなく、その行為を制止し、飛び出しの危険を伝え、次回から飛び出さないように「正しい情報」をしっかり伝えることが大切。そこに「おまえは悪い子!」のような「善悪」の裁きは一切必要ない。たとえ相手が子供であっても、「悪い子」「おまえは間違っている」といった自分の目線での決めつけは禁物。

感情を誤用しない
感情は、他人に想いや情報を的確に伝えるために非常に効果的なツール。感情は自己保身や自己弁護に使うのではなく、他人に気持ちを正しく伝えるため、そしてすべての第三者との友好関係を維持するために活用すること。(正しい情報を子供に効果的に伝えるツールとして「喜怒哀楽」の感情を必要最小限に用いるのは非常に効果的)

人と自分を比較しない
優劣や競争の意識が強くなりすぎると、不安や嫉妬を生み、意識の進化(アセンション)の妨げとなる。ただし、他人の優れている点を自分の判断で取り入れるのはOK。適度な羨望は向上心につながる。

「自己凝視」を心がける
自分の意識をつねに客観的に観察するだけでなく、周囲の森羅万象から学ぶように心がける。すると万物が教科書となり、自然に意識が拡大し、次に何をすべきか自然に分かるようになる。

変化(脱皮)を受け入れる
アセンションプロセスは変化もしくは脱皮のプロセスであり、痛みや苦しみを伴ったり。既存の快適さが破壊される可能性もある。変化を恐れず、これまでの自分から脱皮できるかどうかがアセンションプロセスの重要な分岐点になる。


アセンションプロセスは人によって千差万別だと思います。

ですから、上記の心身の浄化法は、絶対的なものではありません。

アセンションプロセスとは、たゆみなく変化・成長・発展しつづけるプロセスだと思います。



追伸:
今回の記事はもともと楽天ブログ用にだいぶ前に書いたものを加筆修正しました。現在やっている浄化法もほぼ同じです。ご参考になれば幸いです。

新しい記事は、今週末にアップします。


意識と身体

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つい先日、人間ドッグの結果が出ました。

今回の血液検査では、きっと(良い意味で)何か変わった数字が出ると予想していました。というのは、現在の心身の状態はかつて経験したことのないほど良好だからです。

結果は予想以上のものでした。驚くべきことに、1年前と比べると、善玉コレステロール(HDL)の値が3倍近くになり、また悪玉コレステロール(LDL)の値が半減していたのです。昨年まではいずれも標準値で、過去5年間の人間ドッグでほとんど変化がない数値でしたので、担当医師も不思議がっていました。ちなみに、家内も私ほどではないのですが、HDLだけが標準値の2倍以上になっていました。

HDLは「長寿コレステロール」ともいわれ、沖縄で長生きするお年寄りに多く見られるものです。標準値は34mg/dlですが、70mg/dl以上あると動脈硬化や心臓の病気が大幅に減少し、長生きの因子となるそうです。私の場合は102mg/dlでしたので標準値のちょうど3倍の数値となりました。

もともと健康体でしたが、この3ヶ月、肉食やアルコールを控え、玄米、菜食、大豆製品(たまに魚や乳製品)を中心とする食生活が良かったのかもしれません。今は、心身ともに健康な状態をかみしめつつ、元気で仕事に打ち込める日々に感謝しています。

それにしても、過去5年間まったく変わらなかった数値が、わずか1年で(正確には3ヶ月で)これだけ変化したという事実に驚きます。

アセンション用語として「意識変容」という表現がよく用いられますが、私にとっては目に見えない意識よりも、こうして数値ではっきり分かる体調の良さのほうが重要な意味があるように感じられます。なぜなら、意識は体調によって大きく影響を受けるからです。

私の場合、1ヶ月ほど心身の浄化を続けた時点で、あふれるようなエネルギーが体の中から湧き上がってくる感覚をおぼえました。

ともかくじっとしていられず、頭脳や手足を猛烈に使いたくなりました。短時間で墨絵の100連作を描いたのもこの頃です。一人で静かにしていると幸福感がじわりじわりと現われてくるので、宴会などで盛り上がるようないわゆる「ハイ」な気分とは異なります。見るもの聞くものが新鮮で、やりたいことが多くてしかたない感じでした。

3ヶ月経った今ではだいぶ落ち着いてきましたが、相変わらず活動的な日々で、疲労の回復が早く、睡眠不足にも強く、仕事の効率もめったなことでは下がりません。

最近は週末になると、物理、数学、生物などの専門書や科学雑誌を図書館で片っ端から読んでいます。なぜか難解な本を読みたくてしかたないのです。

今は最先端の科学技術の知識を吸収したり、世界の現状や自然や動植物についての理解を深めたり、自分で実験・検証してみることに強い興味をおぼえます。休日は、子供と一緒にいろいろな科学実験や観察を行っています。

心身の浄化においては「頭で考えない」のが大事といわれていますが、それは常識や固定観念で物事を考えたり、雑念妄想にとらわれない、という意味だと思います。つまり、脳も正しく使えば、身体と同じように鍛えられて健康になるという考え方です。

本来は、心身の浄化によって精神も思考も自由になり、余計な感情エネルギーを使わなくなる分、頭脳も明晰になるものだと思います。ですから、何事も自分の頭でしっかり考えるのは非常に大切なことだと思います。もともと頭脳を使うのは人間本来の活動だからです。

現代人は、周囲を飛び交う情報量はすごいのですが、本当の意味で「自分の心で感じ、自分の頭でしっかり考えること」を見失いがちなのではないかと感じます。

大事なことは、

1)自分の心でありのままに感じ、
2)自分の頭でしっかり物事を考え、
3)五感と身体をフルに使って物事をしっかり体験すること


だと思います。これらはいずれも「自己凝視」のエッセンスでもあります。

それによって、心身が浄化されるばかりでなく、純度の高い感動が生まれ、より豊かな感情が育まれるのではないかと思います。

そう考えると、私の考える意識と身体の関係は、やはり以下の言葉に集約されます。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」

ギリシャ時代から言い古された言葉ですが、現代でも通用する味わい深い言葉だと思います。

時間の加速

アセンション関係の用語として、「時間の加速」という言葉をよく見かけます。それは1日の時間が短く感じられる現象で、多くの場合、強い眠気を伴うと言われています。

たとえば、1日の時間が流れる速さが倍になれば、体感時間は1日12時間となります。すると、今まで7時間寝ていた人は、実際は3時間半しか寝ていない体感となり、なかなか眠気が取れないという状態になります。また、今まで1時間で出来ていた仕事が2時間かかる計算になり、日常の仕事の効率が落ちるという現象も起きるといわれています。

個人のアセンションプロセスの1つが「意識変容」であるとすれば、それは確実に存在します。私の場合、心身の浄化が進むにつれて、「内側から沸き起こってくる力強いエネルギー」という形で現れてきました。それは中途半端なネガを吹きとばしてしまうような感覚であり、眠気などはまったくありませんでした。

別の言い方をすれば、それは「心身が極めて健康になった状態」にも近い感じでした。ですが、単なる健康体とは本質的に違う何かがあるようにも感じられました。

現在でも日々の意識は刻々と変化しています。もちろん、今の心身の状態が、アセンションの最終到達点であるとは思えません。ただ、うまくは言えないのですが、意識の面でこれまでにない大きな変化が起きつつあることは確かです。

ともかく、個人の意識変容については、いくら抽象的な言葉で書き並べても、なかなか第三者には伝わりにくいと思います。

そこで、今回は「時間」という客観的なパラメータを利用して、私の場合の意識変容を「時間の加速」という観点からまとめてみたいと思います。

1)睡眠時間は以前の7〜8時間から1日平均5時間強に減った。これは主にプチ断食や菜食の効果だと思われる。
2)日によっては、3時間弱の睡眠を2回に分けて取れば十分な日もある。
3)日中の眠気やだるさはまったくない。
4)仕事の効率がアップした。同じ作業を以前よりも30-40%早い時間でこなせるようになった。
5)自然や芸術に対する感動や畏敬の念は、以前の数倍から数十倍も強くなった。それは感動が持続する時間で測定できる。同じ絵画を見ても、以前は数秒から数分の感動だったものが、今では数十分から数時間の間、強い感動が持続する。
6)心拍数や呼吸数は以前と変わらないか、逆に少し早くなった。
7)本を読む速度が以前より50%ほど早くなった。
8)難解な本の理解力が増した。結果的に以前の半分以下の時間で必要な情報が得られるようになった。
9)何かしようと考えてから行動に移すまでの時間が以前の2〜3倍は早くなった。
10)寝つきも目覚めも非常によい。眠りが深い良質な睡眠の感じで、6時間以上寝つづけるのは難しい。

以上、結論として言えることは、私の場合、時間の加速化現象は全くないということです。

それどころか、上記のあらゆるデータは、逆に「時間の減速化」現象が起きていることを示しています。

要するに、1日が短く感じるのではなく、子供の頃のように長く感じるのです。

最近は、何時間も仕事に集中していたつもりだったのが、ふと時計を見ると、まだ15分くらいしか経っていなかったりします。

現在の私の1日の体感時間は36時間くらいです。つまり、以前よりも1.5倍くらい1日が長く感じるのです。

人は齢を重ねると、時間が早く経つように感じると言われています。5歳の子供が感じる1年は、50歳の大人が感じる10年に相当するといわれています。大人になると、どんどん時間が加速します。つまり子供の1年は長く、お年寄りの1年は短いのです。

私は、1分1秒を大切に味わい、「一瞬一瞬」を集中して生きるのが大切だと思っていました。今もその思いに変わりはありません。単純に考えても、二度とない時間が飛ぶように過ぎ去ってしまうとしたら、「もったいない!」と思うのは私だけではないと思います。

ですから、私は「時間の加速」ではなく、「時間の減速」(=自身の活動力のアップ)を無意識のうちに選択していたのかもしれません。

仮に「地球時間の加速」という現象があるとしても、私は自身の生きる速度をさらにアップさせて、地球の加速に追いつき追いこしたいと考えます。そうすれば、相対的に自分から見れば時間が減速し、貴重な人生を何倍にも濃密に生きることができると思うからです。

人は想像以上に豊かな可能性を秘めた生き物だと思います。一瞬の間に永遠の時間を感じ、無限の豊かさを実感できる存在です。

私は、時間が加速して「あっ」という間に過ぎ去ってしまう日々よりも、当面は1分1秒をいつくしむような体感時間の長い日々を送りたいと願っています。

ちなみに一般的には、アセンションプロセスが進むにつれて、体感時間はしだいに「0時間」に近づくと言われています。

ですが、アセンションプロセスは個人差があると思います。現時点の私にとっては、「時間の減速」(=自分の活動力のアップ)のほうが心地よく感じられます。

もちろん、人によっては、「時間の加速」のほうがアセンションプロセスの方向としては正しいのかもしれません。

ですから、本記事は、あくまでも1つの事例として皆様のご参考にしていただければ幸いです。


↓ホームセンターで見かけたマルチーズの赤ちゃん
(よろしければクリックして拡大してご覧ください)

マルチーズ






あまりの愛らしさに家内とともに思わず見とれてしまいました。
一瞬、体感時間が「0時間」になった気がしたほどです。


言霊の研究


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およそ2週間かけて、言霊(ことだま)に関する科学的研究を行いました。


同じ水を入れたコップにさまざまな文字を書いたラベルを貼ったり、声をかけたりして、植物の葉(ミカンの葉)がどれだけ長持ちするかを確かめるという実験です。

江本勝氏の著書『水からの伝言』によると、水に「ありがとう」や「愛している」などの美しい言葉をかけたり、文字を書いたラベルをコップに貼ると、非常に美しい氷の結晶の形が出来るそうです。逆に都会の水道水などを使った氷の結晶は、形の崩れたものとなるそうです。

氷の結晶はマイナス20℃からマイナス5℃の間で生成されるので、江本氏の実験結果にも意外とバラつきがあり、顕微鏡写真を撮影するタイミングなどが人によって異なり、再現性が難しいという指摘がされています。そこで、今回の実験では、植物の葉の枯れ具合を基準として実験を行ってみました。

そもそも言葉や文字に霊力が宿るという考え方(言霊信仰)は、古来からあったものです。同様に、文字にも霊力が宿るという考え方は、古今東西で見られます。護符や神社のお札などもその一種です。

私は、言霊がそれほどまでに有効なツールならば、必ず何かしら科学的なデータで実証できると以前から考えていました。

今回は、次の2通りの方法で実験してみました。

1)文字を書いたラベルを貼る方法
2)毎日10回ずつ声をかける方法

1)と2)は、同じ水(=南アルプス天然水)を使いました。1)は私が手書きで文字を書いたラベルを貼りました。2)は小学生の長男が毎日10回ずつ声をかけました。

前回の実験によると、南アルプス天然水に入れたミカンの葉は1週間以上も青々とした状態を保つのが分かりました。そこで、今回は2週間かけて実験を行い、2週間経った時点でそれぞれの葉の枯れ具合を観察しました。

実験に使った言葉は以下の10通りです

ありがとう、愛してる、好き、嫌い、がんばれ、がんばって、枯れないで、枯れろ、きれい、きたない

上記の10種類の言葉とは別に、何もラベルを貼らないコップ、および何も声をかけないコップも用意しました。

それぞれの結果は以下の通りです(葉の綺麗な順位):


[文字を書いたラベルを貼った実験結果]
1)がんばらないで
2)ありがとう
3)(ラベル無し)愛してる、好き、嫌い、きれい、きたない
4)枯れろ
5)枯れないで
6)がんばって


[毎日10回ずつ声をかけた実験結果]
1)がんばらないで
2)(声をかけない)ありがとう、愛してる、好き、嫌い、きれい、きたない
3)枯れろ
4)枯れないで
5)がんばって


また、「ラベル無し」と「声をかけない」ものは、いずれも同じく10日ほどで枯れが目立ってきました。

上記の実験結果はさまざまな解釈が可能だと思います。葉が枯れるまでの期間で比較すると、次のように明確な傾向がありました。


2週間経っても枯れが目立たないもの
     ⇒「がんばらないで」(ラベル/声)

2週間近くまで枯れが目立たなかったもの
     ⇒「ありがとう」(ラベル)

10日未満で枯れが目立ったもの
     ⇒「がんばって、枯れろ、枯れないで」(ラベル/声)

10日前後で枯れが目立ってきたもの
     ⇒残りすべて(=ラベル無し/声かけ無し)


要するに、ほとんどの文字や言葉では特に変化が認められず、変化があったものは「がんばって」「がんばらないで」「ありがとう」「枯れろ」「枯れないで」の5種類の言葉だけでした。

一番延命効果があったのは、文字と声の両方ともに「がんばらないで」という言葉です。

「ありがとう」とレベルに書いたものは、「がんばらないで」ほどではないのですが、ラベル無しのものよりも枯れが少なく見えました。

一番延命効果がなかったのは、文字と声ともに「がんばって」「枯れないで」という言葉です。

同様に、「枯れろ」もマイナスの効果がありましたが、「枯れないで」ほどには枯れなかったのが意外でした。

「ありがとう」や「愛してる」や「好き」のような美しい言葉を使っても、特に植物の葉の延命には目だった影響は見られませんでした。

以上をまとめると、次のような仮説が考えられます:

(1)「がんばらないで」という言葉は、「自然体」「あるがまま」「無理しない」「運命を受け入れる」のようなプラスの効果を植物に与えるのかもしれない。
(2)「がんばって」「枯れないで」という言葉は、「自然体でない」「あるがままでない」「無理する」「運命に逆らう」のようなマイナスの効果を植物に与えるのかもしれない。
(3)植物の葉の延命に関しては、「プラス効果のある言葉」、「マイナスの効果のある言葉」、「どちらの効果もない言葉」の3種類がある。

これらの仮説が正しいかどうかは、さらなる実験が必要だと考えています。

ここで、1つ重大な前提について考察する必要があります。

それは、今回の実験が

1)植物が人間の文字や言葉に対して反応しているのか?

それとも

2)言葉をかける人間が植物に対して影響を与えているのか?

という疑問です。

もし1)だとすれば、実験の再現性があるはずです(つまり毎回同じ実験結果が出る)。また、2)であれば、毎回の実験結果が人によって異なるはずです(人の言霊の力はそれぞれ異なると考えられるため)。

私の個人的な考えですが、言霊(コトダマ)は次の3種類のレベルがあると考えています。

1)言玉 ⇒単なる空気の振動としての言葉、機械音や雑音と同じレベル。
2)言霊 ⇒情感のこもった言葉、歌など。
3)言魂 ⇒魂からの叫び、祈りなど。

小学生の長男が機械的に文字を読み上げる声は、上記の1)に該当すると思われます。私が心をこめて書いた文字は2)あたりに該当すると思われます。実験にあたっては、そうした違いが結果に現れるかどうかにも注目したいと思っていました。

ところが、私と長男の両者の結果は大方が一致したのです。ですが、100%一致したわけではありません。

このことから分かるのは、植物が人間の文字や言葉に対して反応している可能性は高いものの、人が植物に影響している可能性も少なからずあり、今回の実験では明確に結論づけることはできない、というものでした。

また、今回の実験結果では、植物が言葉に直接反応したのか、それともまず水が言葉に反応し、それが植物に伝わったのかどうかも判断できません。

今回と同じような実験を、いろいろな人がいろいろな言葉で長期間に渡って行えば、さらに信頼性の高いデータが得られると思います。

今回の実験結果を通して、最も意外に感じたのは「がんばらないで」という言葉が植物に対してプラスの影響を与えたことです。

もしかすると、「好き」や「愛している」などの人間特有の重い感情を与えるよりも、自然の植物にとっては「自然のままに放置しておくこと」が一番ありがたいことなのかもしれないと思いました。

植物は、人類100万年よりもはるかに長い数十億年という歴史を生き抜いてきた種族です。人間は、植物の世話をしているつもりになっていても、実際は植物の生育をジャマしたり、意外とムダなことをしていて、本当は何もしないのが一番良かったりするのかもしれません。

私は、地球が次元上昇し、その後の世界で人類が地球の生物界全体のリーダーとなるのであれば、人類よりもはるかに長い歴史を持つ他の種族(特に植物や鳥類)に敬意を払い、彼らに関して理解を深めなければならないと以前から考えていました。

人間は「万物の霊長」などといった傲慢な存在ではなく、すべての生き物を平等に慈しむ存在であるのが本来の姿だと思います。

これまでの人類は、地球上の生物のリーダーとしての役割を果たしてきたとはお世辞にもいえません。ですから、今回の実験は、植物のことをより深く理解し、もし出来るものならば植物たちと意思疎通を図ってみたいと考えて行ったものです。

植物に関してはまだまだいろいろ検証してみたいテーマがあり、ほかにも同時進行でさまざまな実験を行う予定です。今後も折を見て実験結果をレポートしていきたいと思っています。

次回は、「時間の加速」をテーマにした検証レポートをまとめてみたいと思います。



↓標高1450mの南アルプスの麗峰から我が家にやって来た蓬(ヨモギ)です。「麗蓬」さんと呼んでいます。峠の駐車場の排気ガスにさらされ、枯れかけていたのを東京まで運んできました。見事に根づき、今では1m近くに成長しています。

麗蓬

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