洋々youyouのブログ

アセンションをキーワードとした日々の気づきを綴るブログです。

2008年12月

プロジェクトX(その5)

e666413b.JPG今回は「住」に関するプロジェクトの一部をご紹介します。

ソローの「森の生活」というのはご存知でしょうか?

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
(Henry David Thoreau、1817年7月12日 - 1862年5月6日)


ソローは、アメリカ合衆国マサチューセッツ州生まれの作家・思想家・詩人・博物学者です。

およそ200年前のアメリカに生まれた彼は、自由に生きるために簡素に暮らし、定職につかず、生活を小さくすることを提案しました。

最近、「ロハス(Lifestyle of health and sustainabilityの略)」という言葉がはやっていますが、この言葉はまさにソローの森の生活にふさわしいと思います。

シンプルライフ、エコライフが生活スタイルとして流行している現在、ソローの生き方は大きなヒントになると思います。

ソローは生涯定職を持ちませんでした。教師になってもみましたが、わずか二週間でやめました。自宅で開いていた私塾も、「お金にはなるけれど自分の為にならない」という単純明快な理由で辞めてしまいました。

彼は「森の家」というミニマムハウスを建て、そこに住みました。すべて手作りです。

ソローの「森の家」:
http://www.bepal.net/b_choi/0405forestlife/kikou.html

この家は歴史的な遺跡として復元されています。

当時の物価を現在に換算すると、なんと84000円程度で手づくりの一軒屋を建てています。

現在は景気の先行きが危ぶまれ、不動産の世界でも値下がりが顕著になっています。米国発のサブプライムローン問題で全世界同時株安が起こると、政府は景気が「悪化」したと発表し、TVやマスコミでも「不況」をさかんに報道します。

よく「景気が悪い」という言い方をしますが、最近、どうもその「悪い」という形容詞が不自然に感じられてならないのです。

そもそも、景気とは、「売買や取引などの経済活動全般の動向のこと」を意味します。地球規模で考えると、経済活動が高まれば高まるほど、自然破壊が進みます。原油を掘り出し、たくさんの製品や食糧を生産し、二酸化炭素を排出し、大量のゴミを生み出し、海や河川や陸地だけでなく、大気も汚染します。

要するに、私の眼には

景気が良くなること=地球環境の破壊

としか見えないのです。

ですから、逆に

景気が悪くなること=地球環境の破壊ストップ

であれば、これは地球全体で考えれば、きわめて好ましいことです(「人間中心」に考えれば「悪い」ことになります)

すべての物事は、ミクロで見た善悪だけが絶対的なものでなく、よりマクロで見れば善悪が逆転したり、さらにマクロで見れば善も悪もなかったりするのだと思います。

ところで、もし全員があくせく働かなくても衣食住に足りる社会であれば、「景気が悪い=環境破壊が少ない=ロスの少ない」ということになり、「世界同時不況」は地球環境にとっては非常に好ましい、ある意味で理想的な状況という見方もできます。

冷静に考えて、世界有数の衣食住が豊かな現代の日本に生まれて、会社でのストレスに苦しめられ、なおかつ過労死に至るほど働く必要があるでしょうか?

私の答えは断じて「ノー」です。もし世界中の人が先進国と同じ生活をしようとすれば、宇宙船地球号のタイムリミットは秒読みになってしまうでしょう。

自然界の気持ちになって考えて見れば、経済活動を一時的に収縮してでも、地球環境の破壊活動を一刻も早くやめるのが最優先だと思います。

数ヶ月前、ガソリンが1リットル160円代に高騰したときは、道路を走る車がずいぶん減りました。そのせいか、とても空が高くて、今まで見たこともない美しい青い空が広がりました。

ほんのわずかに車を乗るのを減らしただけで、都心でも格段に空気が綺麗になるのです。自然の再生力の偉大さをつくづく痛感しました。

本来、「自然を復活させる」というのは、とても人間本位の傲慢な発想だと思います。自然はもともと驚異的な復活力を備えているからです。人間がいちいち樹木などを植えなくても、人類が破壊活動さえしなければ、50年も経たないうちに豊かな森林が完全に復活します。

人が何かすることによって、自然が再生するわけではありません。むしろ余計なことを何もしないのが自然にとっては一番好ましいのです。

同様に、「絶滅しそうな動植物を保護する」と言い方も、動物から見れば人間本位の考え方です。たとえて見れば、駅のホームで他人を線路上に突き落としておいて、列車に引かれる寸前に「じゃあ救ってあげよう」という感じです。

動植物たちは、人間に自分たちの生殺与奪権を与えて何も言いませんが、彼らも同じ地球の仲間であることを考えれば、絶滅の危機になるようなロスのある活動を最初からしないように配慮したほうがよいと思います。

こうした本末転倒な発想は、自然環境や動植物に対してだけではありません。人間に対しても、同じような扱いをしています。

例えば、現代の日本には、路上生活者、フリーター、ニート、日雇い労働者、生活保護家庭、住所不定無職など、さまざまな労働階層を表す言葉があります。そして、彼らの存在が社会的な底辺であるかのように言われることが少なくありません。

その背後には、「社会人の義務として、朝から夕方まで休みなく働かなければ世間は認めない」という集合意識が見え隠れする感じがします。

ですが、自然を破壊し、地球を破壊し、自殺者が死因の第三位となり、年間3万種も他の生物まで大絶滅に追い込みながら、私たちはいったいどこへ行きたいのでしょうか。

もしもニートの方が悪の集団であるならば、一生懸命働いて経済は発展したけれど、その結果として現在の地球の状況をどう説明すればよいのでしょうか?

答えは誰の目にも明らかだと思います。そろそろ今までの利益中心の資本主義システムというOSを入れ替える時期が来ているのだと思います。

皆なが疲れ果てています。経済成長という神話(=夢や幻)の時代から、そろそろ卒業してもいい時代になっていると思います。

というわけで、当初の構想は、ニート向け、そして疲れたサラリーマン向けに300万円住宅または500万円住宅を提供することでした。

現在、999万円の2階建て一戸建てが販売されていますが、私が企画したのは土地付きの注文住宅です。一戸建てが土地付きで300万円〜500万円の価格帯で購入できれば、月々5〜7万円程度で10年ローンが完済します。これなら普通の家庭が普通に働いても無理なく住宅を購入できます。

早速、いくつかの注文建築メーカーに見積もりを出し、また建売ハウスメーカーの社長にコスト的な実現可能性についていろいろご意見を聞いてみました。

結論から言えば、シンプルな間取りの設計を工夫し、材料費や工賃を徹底的に削り、ユーザー(=施主)の手作りなどを加味すれば、一棟500万円以内の戸建ても可能だということが分かりました。

ところが、ここで大きな問題に直面しました。最近は20代、30代での就職浪人が増えています。その多くは独身です。独身で親元に住んでいればいいのですが、そうでない場合で無職時代が長いと、月々5〜7万円程度でも経済的には苦しい可能性があります。そう考えると、300万円でも、500万円でも、住宅としては高すぎることになります。

そこで次に考えたのが、最初に紹介した「ソローの家」の日本版ミニマムハウスを開発することでした。目標としては、原価20万円、販売セット30万円の手づくりキットを開発することでした。

そうしたミニマムハウスとして、さまざまな工法(在来工法、2×4など)を検討した結果、高温多湿にも対応する一方で、北海道のような寒冷地にも適しているタイプのものは「ドームハウス」(一番上の写真)であるということが分かりました。

私は初めて知ったのですが、上記の写真を見たときに本当に驚きました。私が以前にビジョンで見た近未来の日本のドーム型の集落にそっくりだったからです。よくよく見ると、全体的な雰囲気も縄文時代の竪穴式住居にそっくりです。

上記の写真は岡崎工芸(http://www.okazakikougei.co.jp/domehouse.html)から引用させていただきましたが、直径7mのタイプで480万円です。重さ80kgのユニットを手作業で組み立てるので、大人が二人もいれば、手づくりでも完成します。そこで、実際にこのドームハウスに住んでいる人の家に訪問してもらい、住み心地を聞いてきました。以下、その要約です。

1)四角形の部屋よりも空間が広い
2)直線ではなく曲線なのでストレスが少ない
3)冷暖房効率がよい(中央に小さなストーブ1つで部屋全体が隅々まで温まる)
4)部屋が球体なので、人が住むと自然な空気の流れ(対流)が生じる
5)音の響きがよく、オーディオルームとしても最適
6)人の声が明瞭かつ綺麗に聞こえて心地よい
7)球体なので頑丈で地震や台風などの揺れに強い。
8)施工や撤去費用が安いので引越しが楽

問題は価格です。販売価格480万円では高すぎます。いろいろ調べているうちに、材料セットだけで30万円のものもあることが分かりました。ただし、そのタイプでは水周り(風呂、トイレ、水道)などが別予算なので、やはり100万円近くかかります。バスやトイレのユニットは既存のものを購入するからです。

例えば、阪神大震災時の仮設住宅の建設コストは200万円。新潟中越震災時の仮設住宅の建設コストは400万円です。

これらに比べると、100万円のドームハウスというのはかなり安いコストですが、実際は整地、建設、撤去、解体、運搬、廃棄までのトータルの環境コストを考える必要があります。

それらを全部含めると、100万円のドームハウスでも、およそ4倍のコストがかかることが分かりました。そうなるとトータル400万円。もちろん、整地は1回行なえば済むし、移動しなければ撤去、解体、運搬、廃棄のコストはゼロになります。したがって、一棟あたり100万円〜400万円という計算になります。

本当は、縄文時代の竪穴式住居(ゴミゼロの自然素材)を開発したいところですが、それでは均一の素材を確保することが難しいので、建築素材に関しては、枯れ枝や産業廃棄物でドーム材が作れないかを検討してもらっています。

現在は、安い土地を確保する調査も同時進行で進めています。たとえば、山林などは土地としては安いのですが、そこに建築する許可を得るのがかなり難しいことが分かりました。

また、山林の中に家を建てるには、傾斜地などの基礎(地盤)をしっかり固めるのに膨大なコストがかかります。また、丸太を使ったログハウスなどは、材木自体がもともと高く、大幅なコストダウンを図ることができないのですが、既存の別荘地などをリフォームして再利用する方法も検討しています。

こうした一連のプロジェクトは「ミニマムハウス」という名称で、現在もさらなるコストダウンを目指し、引き続き建築メーカーの協力を経て研究中です。最終的には販売価格10万円台で提供できる現代版「ソローの家」も開発したいと思っています。

なお、現時点では、ドーム型ハウスも候補の1つにすぎません。現在は、日本中のさまざまな立地条件を考慮して、どのような形状、立地、大きさのミニマムハウスを提供すればよいか、引き続き調査を実施中です。

次回は、いよいよ本プロジェクトの中枢部となる新しいOS(=新経済システム)の一端をご紹介したいと思います。

プロジェクトX(その4)

ナウシカ←(C)スタジオジブリ
『風の谷のナウシカ』


今回は「プロジェクトX」の具体策をいくつかご紹介したいと思います。


本プロジェクトの基本理念は

「すべての人が安心して暮らせるシステムの確立」

です。

まず、安心して暮らすためには「衣食住の心配がない」ことが最低条件となります。

そこで、「安心」という観点から、「衣」「食」「住」を個別に検討してみました。

「衣」に関しては、とりあえず「着るものに困る」という状況は、現代の日本にはほとんどいないと考えてよいと思います。素材の安全性などの問題もありますが、緊急度という観点から見て、本プロジェクトでは「衣」の問題は扱わないことにしました。

「食」に関しては、食糧自給率、食品添加物、異物混入などの問題が指摘されています。

このうち、食糧自給率に関しては私はあまり心配していません。たしかに現在の食料自給率は販売ベース40%程度ですが、生産段階では55%以上となり、これに賞味期限切れや食べ残しのムダ分を加えると食糧自給率は実質70%程度となります。

さらに、国内の農産物は、平常時でも30-40%が規格外や生産過剰などの問題で大量に破棄されています。ちょっと豊作になると、半分どころか9割近くを廃棄処分する農作物もあるようです。これらを加えると、現状で食糧自給率は100%を軽く超える見込みです。

実際は、食肉などを減らして農産物を増やしたり、減反政策を解除すれば、輸出できるほどの豊富な食材が国内で容易に調達できると思います。

世の中の情報の多くは、統計や数字のマジックで出来ているので、「先進国で最低レベルの食糧自給率!」などというニュースの見出しに惑わされずに問題の本質を見抜く必要があると思います。

ただし、食品添加物の問題は深刻です。日本人の死因の上位をガンが占めていますが、ガンはもともと病気ではありません。簡単にいえば、毒物摂取による中毒なのです。ナチスの有名なガス室では、毒ガスを吸い込んだ人は全身にガン細胞が発生して亡くなることがよく知られています。

本来、ガン細胞というのは、健康な状態でも体内に毎日数百個、発生しているものです。ガン細胞はとても強靭な細胞で、体内に猛毒が取り込まれた場合、「ガン毒」という形で自身の中に毒を取り込んで、他の細胞が傷つかないように必死に守ってくれているのです。要するに、ガン細胞は敵ではなく、自らが犠牲になってでも健康な細胞を守ってくれる最後の砦であり、頼もしい味方なのです。

ですから私は個人的に、ガン細胞とは「風の谷のナウシカ」に出てくる「腐海の木々」(猛毒を出す森)だと思っています。

あなたたちだって、井戸の水を飲むでしょう? その水を、誰がきれいにしていると思うの? 湖も河も、人間が毒水にしてしまったものを、腐海の木々がきれいにしているのよ…それを焼こうというの!?」(ナウシカ・談)

ですから、ガンを病気と思って戦うのは見当違いです。誰でも青酸カリを飲めば全身にガン細胞が出来て即死します。同様に、青酸カリの数倍の毒性を持つ亜硝酸ナトリウムを数万倍に薄めて添加したハム・ソーセージを食べ続ければ、数分後ではなくて、数十年後にガンになって死に至ります。早いか遅いかの違いだけです。ただし、何十年後には、メーカーも「健康被害はなかった」と責任回避するでしょう。

青酸カリも、亜硝酸ナトリウムも、毒が回るのが早いか遅いかの違いだけです。どちらにしてもガンは病気ではありません。猛毒から最後まで体を守ろうとして必死に細胞たちが働いているけなげな姿なのです。

「病気」の原因になる毒物が体内に入る要因としては、空気や水の汚染、電磁波やストレスなどがありますが、最大の要因はなんと言っても食品添加物です。

青酸カリも、ハム・ソーセージも、私の目には殺人の道具にしか見えません。大手食肉メーカーに就職した友人は、「防毒マスク」をつけてハム・ソーセージに添加物(発色剤、防腐剤、保存料)を混入する仕事をしていたそうです。「会社から余った製品をもらえるけど、家族には絶対に食べさせたくない」と言っていました。彼の部署では、良心の呵責に耐えかねてノイローゼ気味になる社員もいるそうです。

今まで安全だと思って、発色剤入りのハム・ソーセージを食べていたり、家族に食べさせていた人は、いきなりこういうことを言われて「ああ、そうですね」と同意するのは難しいと思います。

私がこうしたさまざまな食の安全性の問題を知ったのは大学のときです。ガンの末期患者に対する新薬の治験の研究レポートを作成するアルバイトをしていたのですが、そこでガンの本当の原因と、食品業界、製薬メーカーが一体となったガンビジネスの巨大マーケットを知りました。そこでは、「産・官・学」が連携した巨大な情報操作がされていました。

もう時効だと思うものを選んで、あえていくつかをここで公開してみましょう。

ある大手製薬メーカーのある部門では、民間の研究所がガンの特効薬を研究している場合、「ガンを治してしまう安くて安全な新薬をうっかり開発させない」ための妨害工作を専門としていました。

要するに、民間研究所がガンの特効薬を見つけようとすると、大手製薬会社がすかさずそこを買収して、安くて安全な新薬が世の中に出ないようにするわけです。かつて丸山ワクチンが同じような迫害に逢いましたが、私が担当した治験レポートでもさらに良好な結果が出ていたので、その新薬は表に出さずに抹殺されることになりました。

ガンの新薬だけでも、これだけ大掛かりにもみ消されているのですから、世の中にはまだ表面に出ていないハイテク(フリーエネルギー含めて)が星の数ほどあることは子供でも容易に想像がつきます。

治験では、たまたま小児ガンの患者さんが多かったので、治験の対象となっている1歳とか2歳とか小さいお子さんがどんどん亡くなるのを見て、本当に胸がつぶれる思いでいっぱいになりました。

そういうお子さんを持つご両親は、出産直前までファーストフードやコンビニ弁当などのジャンクフードを多く食べている方が統計的に多かったのです。食品添加物で汚染された母体は、出産のときに体内に蓄積した毒素を新生児に受け渡してしまうので、逆に母体のほうは健全になります。そのせいか、第二子のほうが、第一子よりも小児ガンの発生率は大幅に減少するのです。

日本は、世界有数の食品添加物大国です。もし日本中の食品添加物をすべて禁止すれば、おそらく小児ガンも含めて、大半のガンは撲滅できるはずです。もちろん、大気汚染や排気ガス、電磁波、ストレスなどによる様々なガン要因はありますが、食品ほどではありません。

私が食の安全性に疑問を持ったのは、大学生の頃からだったのですが、このことを家族や周囲の友人にいくら訴えても、なかなか理解してもらえませんでした。最近では、食品添加物に関する書籍が多数出版されていますので、お子様をもつ親御さんは、ぜひそうした食の安全に配慮されることをお勧めします。

というわけで、「食」に関しては、食糧自給率よりも、食品の安全性の問題のほうがはるかに大きいと思います。

問題の本質は、人命よりも利益を追求する現在の社会システムです。食の安全に関する根本的原因を解消するには、やはり国、メーカー、消費者など、社会全体の意識改革が必要だと思います。

ですが、やはり個人一人ひとりの意識を変えていくほうが先決であると思います。

社会や政治や大企業が悪いのではありません。すでに出来上がったシステムをすぐに消すことも不可能です。そうしたものは、これまでの人々の集合意識が生み出した産物だからです。

一番大切なことは、「悪いものを抹殺する(=悪と戦う)」という発想を捨てることだと思っています。このような発想のままでは、「平和を勝ち取るために戦争しよう」という旧世界と同じ考え方になってしまいます。

この世に悪いもの、不要なもの、間違ったもの、不完全なものは何1つとしてありません。もしあるとすれば、「手段≠目的」というエネルギーのロスだけです。エネルギーのロスやムダが生じることはあっても、それは解決すべき問題というより、手段と目的の一時的な分離だけです。

「問題を解決しよう」という発想では、永遠に問題が次々と生じてくるだけです。

そうした発想からは、そろそろ卒業してもよいのではないかと思います。

本当は、「本当は問題など何もない」という発想がすべての出発点になります。

それこそが「手段=目的」というほけらかん意識にほかなりません。無理やムダのない意識であり、人間が本来だれもが備えている、あるがままの叡智を解放する意識でもあります。本当の変革はそこから始まります。

我が家ではこの10年間、野草、どんぐり、自家栽培の野菜、海で釣ってきた魚など、かなり以前から「自然から採れる一次食材」を中心に利用してきました。最近では、外食、コンビニなどの弁当など、出来あいのものをうっかり食べると、その日のうちに口内炎や体のあちこちに不調が起こります。また、「有機無農薬」と書いてあっても、実際にそうでないものを食べると味がヘンだったり、体調が変わるのですぐ分かります。

ですから、人は専門家やネットに頼らなくても、自分の眼、鼻、舌、食感、触覚などをフル活用すれば、安全な食材をはるかに正確に自分で見つけることができるのだと思っています。

このあたりが、「高度な文明ほど文字や道具に頼らない」という私の長年の仮説にもシンクロしてきます。このテーマについては、いつかまたじっくり書きたいと思っています。

「プロジェクトX」では、安価で安全な「ドングリバーガー」チェーン店なども提供する予定ですが、これはあくまでも対症療法的なミニプロジェクトにすぎません。

ドングリ料理はその気になれば材料費タダで、誰でも自宅で簡単に作れます。そこで将来はドングリレシピを無料公開しようと考えています。また、無料でドングリを採取できる山林も確保しようと考えています。多くの人が都市部の一極集中から地方へ分散していくことを選択すれば、初めて当プロジェクトが本領を発揮するわけです。

「食」の究極の目標は自給自足です。そのための安全な食材も、環境も、方法も、人材も、資金も、いまの日本社会にはすべて揃っています。あとは多くの人がそれを選択するのを待つだけの時間の問題だという気がしています。

現在、最も力を注いでいるのは「住」に関するプロジェクトです。

実を言うと、「住」のテーマこそが、「プロジェクトX」の中枢部分でもあります。

現在考えているアイデアが実現すれば、社会問題となっている「ホームレス」や「就職浪人」などの問題も一気に解決するのではないかと考えています。

次回は、その内容について詳しくご紹介したいと思います。

プロジェクトX(その3)

365043aa.jpg今回は「プロジェクトX」の具体的な構想についてご紹介したいと思います。

当初の構想はとてもシンプルなものでした。

衣食住の心配がなく暮らせるシステムの構築」

これはある意味で、人として生きる為の最低条件です。

ですが、現代日本の実情はほど遠いものです。都心の公園にはホームレスがあふれ、心不全、ガンに続いて、死因の第三位が自殺を占めています。しかも、その大半が経済的な困窮によるものです。一見すると、「衣食住」の安心感が得られる社会とはほど遠いようにみえます。

この21世紀のハイテク社会になっても、いまだに「衣食住」という基本的な条件が満たされていない人々がいるという事実を直視する必要があると思います。

子供の頃、ある空想をしていました。一種の童話です。

       *       *      *   

むかしむかし、宇宙のある場所に「ちきゅう」というとても美しい場所がありました。その地球は、空気と水と植物がとてもバランスよく調和し、奇跡のような豊かな場所でした。そこでは、いろいろな生き物が生まれて繁栄していました。動植物はどんどん進化し、何度かの大絶滅を繰り返したのち、最終的に「ひと」という素晴らしい生き物を生み出しました。それは、地球の分身ともいうべき大切な存在で、自由意思を与えられ、地球上の鉱物から動植物まで、あらゆる存在を自らの意思のままに扱う超巨大な自由を与えられました。

「ひと」が「自由意思」を与えられたとき、周囲を見渡すと、「ちきゅう」という星はとてつもなく豊かな場所であることに気づきました。食物はちょっと手を伸ばせばどこにでもあり、豊富な水は清浄で、空気がとても澄んでいて、気候も温暖で住むのにちょうどよく、世界はとても美しく輝いていました。

古代の縄文人たちは、ジュラ紀の恐竜たちと同じような原始の澄んだ空を眺めながら、きっと次のように思ったことでしょう。

「これほどまでに美しい世界に生まれ、豊かな自然の恵みを与えられ、自分たちはなんてラッキーなんだろう…この星の一員として、素晴らしい自然を崇敬し、大切にし、子供たちの世代に残したい」

       *       *      *

このような感覚が縄文人の素朴な自然信仰、山岳信仰につながったのだと思います。現在に至るまで、ほぼあらゆる市町村の中に「神社」という形で樹木が大切に保存されているのは、先進国では日本だけです。

そうした自然を大切にする縄文人のDNAは、我々日本人の血に脈々と流れ続けています。

当初のプロジェクトの構想も同じようなものです。誰のためでもありません。まして、世のため人のためでもありません。私も小学生の子供がいますが、子供たちのためでもありません。

次のような感覚です。

「同じ地球に生きるすべての仲間のために、いま自分が出来ることをする」

私の中ではごく当たり前の感覚なのですが、語弊があることをあえて承知のうえで書けば、私の意識の中では「人類」の比率は1%未満です。残りの99%の意識は、地球の仲間たち、すなわち動植物や鉱物やさまざまな循環ネットワーク(=これらも意識をもった生き物)に向かっているという感じです。

まして、「国家」や「民族」や「日本」や「組織」や「会社」というカテゴリはほとんど意識の中にはありません。たとえば、「日本の国益のためにプロジェクトXを成功させよう」などという意識は0.1%もないと断言できます。さらに言えば、家族や子供たちのためでもなければ、自分のためでもありません。

「プロジェクトX」の基本構想としては、地球の仲間たちのためにいま出来ることをする、というのが近いと思います。人間のためだけではありません。どちらかというと、人間以外のすべての存在に対して自分ができることをする感覚です。

ここで書きたいこと、お伝えしたいことは奔流のように湧き上がってくるのですが、それをここにすべて書き切ることはできません。もしそんな時間があったら、現実のプロジェクトを1分でも1秒でも早く進めたいと思う気持ちのほうが強いからです。

「プロジェクトX」の進捗状況については、9月から現在に至るまで、膨大な経緯があります。わずか4ヶ月余りの間に、何十年も経ったような濃密な経験がありました。

多くの関連資料・情報を収集しました。各分野の多くの人に会いました。資金調達から事業計画、さまざまな実地調査、研究などを含めると、金銭には換算できないほどの膨大な時間と労力とエネルギーを費やしてきました。

そして、そのすべては無償で行なってきました。本業とは別に自分のプライベートな時間を削り、不眠不休で、ごく少数の仲間とともにいろいろな可能性を模索してきました。

今月になると、平日の平均睡眠時間は4時間も確保できなくなっています。連続で休みなく24時間、ずっとプロジェクトの企画書を書き続けたこともあります。今のところ、「プロジェクトX」は営利事業ではありません。また、利益を追求することが目的でもありません。文字通り、私財を費やし、骨身を削って一文にもならないことに時間を費やしているわけです。

では、なぜこんな自分の得にもならない活動に没頭するのか? ときどき、自分でも不思議に思うことがあります。私は表舞台には出ないつもりなので、有名になりたいわけでもありません。宗教的な趣味はないし、善行を積むのが目的でもありません。動植物はつねに自分の仲間であり、人間よりもはるかに身近に感じますが、彼らから「そうしてくれ」と頼まれたわけでもありません。

そう考えると、自分の家まで担保に入れて資金を作り、本業以上にこのプロジェクトに傾注している理由が自分でもなぜか思い当たらないのです。

「すでにしていること」=「したいこと」

この数ヶ月で1つの大発見がありました。それが上記の関係です。

順序が逆だったのです。「したいこと」を「しようとしている」のは分離があります。一方、「すでにしていること」=「したいこと」と考える意識には分離はなく、統合意識しかありません。

要するに、「したいこと」を「しようとしている」うちはロスが大きく、「すでにしていること」=「したいこと」と考える意識にはロスがなく、両者には無限に近い大きなギャップがあるということです。

例えば、土日などの休日には私もたまに休みたくなります。それが「したいこと」です。ですが、実際はどんぐり料理の研究をしたり、さまざまなコンパクトハウスの設計をしたり、自給自足型の循環システムの構想を練ったり、多くの資料に目を通したり、朝から晩まで全力疾走で忙しく動き回っています。

かといって、そうしたことを「特にしたいと思っている」わけではないのです。気がつくと、歯を磨いたり、顔を洗ったり、呼吸するのと同じような感覚で、いつのまにか「プロジェクトX」の活動に没頭しているのです。

それでいて、ストレスや疲れがほとんどなく、あとで振り返るとほとんど何もしていないような軽い感じなのです。

どうやらそれが「手段=目的」の意識状態らしいと気がついたのは、ごく最近になってからのことです。

過去記事でも少し触れましたが、自分が「手段=目的」の意識状態であるかどうかを知るのは簡単です。以下の3点がすべて満たされていれば、「手段=目的」の意識状態であると断言できます。

1)特に好きでもないのにいつのまにか没頭してしまうこと
2)何もしていないかのような感覚で疲れやストレスがないこと
3)現実社会で「副作用ゼロ」の波及効果や成果が現れること

この中で一番大事なのはおそらく3)です。現在進めている「プロジェクトX」には、あらゆる面で偶然とは思えない幸運な波及効果や成果に満ちているからです。これらのエピソードについては、また後日、記事としてアップしたいと思います。

ここで、1つ考えてみてください。たとえば、不眠不休でがんばって、家族や自分の健康を犠牲にして、血のにじむような努力の末にプロジェクトの「成功」を勝ち取ったとしたらどうでしょう。

それではあまりにも「副作用」が大きく、「手段=目的」の分離状態が大きなものとなってしまうのではないでしょうか。そうした分離状態はもともとロスが大きく、地球全体としてみればよくてプラスマイナスゼロ、通常は大幅なマイナスになります。

実を言うと、これまでの資本主義経済のシステムの弊害の本質は、こうした「手段≠目的」の分離状態、すなわち「副作用」(=エネルギーロス)が大きかった点にあると考えています。そうしたロスが地球環境の破壊や汚染につながったのだと思います。

資本主義経済には素晴らしい面もたくさんあります。ですが、その限界に直面しているのが現状の混迷する世界なのではないかと思っています。

そこから脱皮するには、「手段=目的」の意識状態をそのまま現実社会に投影した社会システムを構築すればよいというきわめて簡単な理屈になります。

その具体的な手段について、次回の記事でさらに詳しくご紹介したいと思います。

プロジェクトX(その2)

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今回は「プロジェクトX」の基本理念についてご紹介したいと思います。

20世紀後半、欧米ではちょっとした縄文ブームが起こりました。


1万年2千以上前から日本列島に住んでいた縄文人は、高度なテクノロジーと高い精神性を持ちながらも、人と自然が共生する道を選んだ種族でした。

「太陽の塔」で有名な岡本太郎氏は、「世界で通用するのは縄文土器だけだ」とまで言い切っています。縄文土器の現代的なスタイル、斬新なデザインには感心するばかりです。縄文文化の素晴らしさを一番知らないのは日本人かもしれません。

縄文土器は、欧米各地の有名美術館にも展示してあります。しかも、ピカソやヘンリームーアといった世界的な巨匠の作品と同等の扱いで展示してあるのです。

高い芸術性は、文明のバロメータともいえます。いまや縄文文化は、ブームを通り越して世界に受け入れられています。

縄文土器の素晴らしさは、そのデザインが曲線的で左右非対称であるところです。表面には直線や直角が少なく、曲線中心の複雑な模様がほどこされています。こういうデザインは自然界にはよく見られますが、直線や直角が中心の現代の人工的なデザインにはほとんどみられないものです。しかも、縄文土器は美術品ではありません。当時の人々のありふれた日用品でした。

一見単純そうに見えるデザインですが、左右非対称のデザインを生活に取り入れるというのは、芸術性な感性にすぐれ、当時の人々が高い精神性をもつ文化を築いていたことを示唆しています。

また、私たちが使っている食器や器などのデザインのほとんどは、すでに縄文時代に完成されていたのはご存知でしょうか。最近になって発見された三内丸遺跡の発掘調査などにより、縄文時代の人々は、非常にファッショナブルで色とりどりの装身具を身に付け、豊かな食生活を営んでおり、日本全土で活発な交易があっただけでなく、海外との貿易まで行っていたことが判明しています。

また、巨大建築物の跡からも分かるように、高度な建築テクノロジーを持っていたと考えられます。「経済的豊かさと精神的豊かさ」を両立していた縄文時代の人々の暮らしぶりがさまざまな遺跡からうかがえるのです。

縄文時は狩猟、採取が中心でした。中でもドングリは主食級の食材でした。彼らが農耕をしなかったのは、農業技術がなかったからではありません。なぜなら、高度な植林を行って、栗やドングリの林などを人工的に造成していたからです。

植林はするけれど、水田や畑は作らない…そこに彼らの農業に対する深い洞察を感じます。

シイやカシなどのドングリの実がなる樹木は、根が地中深くまでまっすぐ伸びます。通常の木よりも何倍も深く大地に根を深くはるのです。森林は「天然の貯水湖」と呼ばれるほど、土地の水分を固定するのに役立ちます。つまり、土地が砂漠化するのを防ぎ、多くの動植物を養う土壌を育むのです。

ドングリ系の紅葉樹木は、多くの樹木の中でも別格であり、「食物連鎖の底辺」という異名があるほどです。すなわち、あらゆる生き物の住める環境を作り出す担い手なのです。現在の緑豊かな日本の自然環境は、ドングリの木によって何千万年もかけて生み出されたといっても過言ではありません。

ドングリなどの紅葉樹林が食物連鎖の底辺だとすれば、食物連鎖の頂点にあるのが人間です。もちろん、ライオンや猛禽類なども食物連鎖の頂点ですが、人間には及びません。

食物連鎖の底辺(ドングリ等の広葉樹林)
  =地球の生物に恵みを与え、地球環境を育んできた
食物連鎖の頂点(人間)
  =地球の生物を絶滅の危機に追い込み、地球環境を破壊する

現在、年間4万種以上もの動植物が地球上から姿を消し続けています。このペースは、恐竜大絶滅のペースよりもはるかに早いペースです。そして、その原因の大半を生み出しているのが人間による熱帯雨林の伐採です。残念ながら、これが現実なのです。

世界の熱帯林は1950年代より10年ごとに5%の割合で消滅しています。熱帯林の森林破壊こそが、現在の地球上の動植物の大絶滅の直接的な原因でもあり、二酸化炭素による温室効果の悪化の要因ともなっています。

たとえば、アマゾンの森林を1ヘクタール伐採して得る牧草地の価値は300ドル(日本円で3万円弱)となります。当然のことながら、熱帯雨林のままでは1円にもなりません。

そこで、「わずかでもお金になる」という理由だけで、何億年も地球環境を育んできたアマゾンの熱帯雨林が、わずか3万円弱のお金のために現地の人によって焼却され、伐採され、牧草地や畑に作りかえられているのです。その過程で、名前も知られずに多くの動植物が絶滅しているのは言うまでもありません。

京都議定書では、植林は認定しているものの、森林破壊の禁止(熱帯雨林の伐採禁止)は特に盛り込んでいません。これでは片手落ちです。

縄文人は、おそらく自然を人工的に作り変える水田や畑のもたらすものの危険性を熟知していたと考えられます。それは自給自足を超えて、「富の蓄積」と「自然破壊」を同時にもたらすからです。

「富の蓄積」=「自然破壊」

両者は同義語といってよいかもしれません。なぜなら、ここでいう「富」とは、自然を破壊し、自然界から人間が搾取する資源をベースとしているからです。

誤解がないように言いますが、「水田」や「畑」自体が悪いわけではありません。それらがもたらす二次的なものの弊害が大きいのです。ここでは、農業の本質を明確に意識する必要があります。

自給自足を超える農業の本質とは、余剰食物を生産することにあります。そこに「富」が発生します。余った富は容易に「権力」に結びつきます。権力によって、「土地の所有」という概念が生まれます。それが領地制度です。領地制度によって、原始的な「国」が生まれ、やがてそれは成長して「国家」となります。そうした国家が乱立し、経済活動が活発になり、やがて世界は分裂と混沌、戦乱、富の奪い合いの絶えない世界が誕生します。これが現代です。

縄文人は、そのことを極めて明瞭に洞察していたと考えられます。縄文の人々は、人と自然は分かちがたく、「人=自然」であり、同時に人が自然の一部であることを知っていました。

だからこそ、自然を人工的に作り変える畑や水田を避け、食物連鎖の底辺となるドングリや栗などの植林を積極的に行い、日本全土に育まれる豊かな広葉樹林の恵みを享受したと考えられます。

縄文時代の人々の間には、身分差別がなかったこともよく知られています。族長と思われる身分の高い人々と、普通の人々がまったく区別なく埋葬されている様子からもそれがうかがえます。それどころか、狩りの獲物と思われる動物までもが丁寧に埋葬されています。その中には、幼獣の骨が一片もなく、乱獲によって動物が絶滅しないように、計画的に狩りをしていたことが分かります。

縄文文化の高度な叡智から学ぶこと…これこそが「プロジェクトX」の基本理念なのです。

次回は「プロジェクトX」の具体的な構想についてご紹介したいと思います。

プロジェクトX(その1)

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以前に紹介した「プロジェクトX」の続報です。

そもそもの発端は、私が見た近未来のビジョンに基づくものでした。

ある日、うたた寝していると、とても不思議な夢を見たのです。それは、資本主義経済が破綻し、人々が都会から地方に分散して自給自足経済が主流となっている近未来の日本の姿でした。

そこでは、稲作を中心とする「弥生派」と、ドングリなどの狩猟・採取を中心とする「縄文派」に分かれていました。それだけでなく、高度なハイテク文明を維持した自然との共生文明を実現していたのです。

豊かな自然の中、ドーム型の曲線の多いコンパクトな住宅で、人々は仲良く暮らしていました。そこでは、衣食住の心配がまったくなく、特に食材に関しては、だれもが無料で自由に入手できるマーケットが存在していました。特に、衣食住に関する物資(一部は有料)の豊富さに驚きました。フリーエネルギー(無料のエネルギー)技術がすでに実用化しているようです。

1日の労働時間は3〜4時間、しかも皆なが働くことを楽しんでいました。もちろん、物が豊かなので、まったく働かなくても誰も文句をいいません。むしろ、働くこと自体が楽しいようで、田植えなどの仕事を奪い合うほどなのです。

一部の稀少品の交換を除いて、通貨はほとんど使用しません。基本的にはすべての物やサービスのやりとりについて、「交換の記録」を残すだけです。その記録を見れば、誰が何を入手したかがすぐに明らかになるので、だれも必要以上に物を独占しようとしたりはしません。また、物を盗んでも、売る相手がいないので、窃盗などの犯罪も起こりようがないようです。

江戸時代の1日の平均労働時間は4時間余り。。。それでいて世界一のリサイクル都市である江戸が完全に機能していました。一方、現代のサラリーマンは朝から晩まで8時間以上働いても、都心で小さな一戸建てがやっと1つ買えるかどうかです…基本的な衣食住すら満足に満たされていない。。。21世紀になって、こうした貧しさはどこから来るのでしょうか?

「あんな豊かな世界がほんとうに実現したら…」

最初は単なる楽しい夢物語でした。ですが、あれこれ空想しているうちに、どんどんアイデアが膨らみ、何人かの親しくしている経営者に話してみました。

すると、「それは面白そうだ、ぜひやってみよう!」ということになり、現在に至るまで約3ヶ月間、さまざまな調査、研究、準備、計画、資金調達などを進めてきました。実際に声をかけたのは少数でしたが、しだいに波紋が広がり、各方面で関心を寄せてくださる方々が増えてきました。

今回の一連の記事は、そうした一連のプロジェクトのごく一部をご紹介するものです。プロジェクトが軌道に乗るまで公開できない情報も多いのですが、今回は10回シリーズで連載したいと思います。

次回は「プロジェクトX」の基本理念についてご紹介したいと思います。


追伸:
一番上の写真は高さ約4.5m、重さ5tの世界最大の縄文式土器です。

「自分」とは

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この1週間、たくさんの人に会いました。

大半がビジネス関係です。


そうした中で、あることに気づきました。

「自分は本当に何者なのか」について悩んでいる人が意外に多かったのです。

景気が悪化し、いつリストラされてもおかしくない会社において、多くの人は自分の人生と真剣に向き合い始めているようです。それは経営する側の人たちも同じでした。

「会社の肩書きを失ったら自分は一体何者なのか?」

このところ出会った多くの人に共通しているのは、こういう素朴な疑問でした。

ビジネス社会において、初対面ではまず名刺交換から始まります。挨拶をして、名刺の肩書きと社名を見る。。。これで相手の80%以上は分かったような気になります。次に相手の顔を見て、話し方や身なり、年格好を見る。。。これでほぼ100%分かったような気になります。

ですが実際は、相手の1%も理解できていないのです。なぜなら、所属する組織、肩書き、風貌、身なり、年齢、性別、体格などはすべて「レッテル」であり、本人の本質のごくごく一部にすぎないからです。

例えば、床に脱ぎ捨てた服を見て、「○○さんが落ちている」とは誰もいいません。また、破けた名刺を見て、「○○さんが破けている」ともいいません。お見合い写真を見たときに、「あ、初めまして」と頭を下げて写真に挨拶する人もいません。それらはすべて本人の影のようなものであり、幻の形にすぎず、本人そのものではないからです。

にもかかわらず、多くの人は、本人とはほとんど関係のない「レッテル」を見て、本人を分かったようなつもりになります。

例えば、私にもいろいろな肩書きがあります。社会的な「顔」もあります。それらを一部でも公開すれば、きっと私のことをより深く理解したような気がするかもしれません。ですが、私からすると、「ああ、ますます誤解が深まったな」と思うだけです。私のベンチャー経歴、著書、私が開発した商品などを知って、コロリと態度が豹変する人も少なくないからです。

「ああ、あの商品を開発したのが洋々さんだったんですか。。。」

こうして、私のことを何もかも理解したような顔をします。その瞬間、私の実態とはほど遠いイメージが先行しはじめます。。。いわば幻の人格像が誕生する瞬間です。

本当の私は、開発した商品でもないし、過去の肩書きでもありません。著書の中に私の痕跡があったとしても、それは私自身ではありません。

こういうブログは匿名です。「洋々」という名前も幻のようなものです。匿名であるということは、虚飾を剥ぎ取ったシンプルな在り方が可能ということでもあります。それが私にはとても心地よく感じます。レッテルのない、ありのままの状態で居られるからです。

私は自分のことを説明する言葉を持っていません。なぜなら、自分の中から何が出てくるか、これまでの半生でもまったく予想もつかず、毎回毎回、自分自身が一番驚いているくらいだからです。

あるときには予想外のアイデア商品が出てきてそれが大ヒットしたり、気が向くと作詞・作曲をしたり、油彩や水墨画を描いたりもします。10代のときには、ある競技種目で日本記録を持っていて、その気になればオリンピックに出場することも可能でした。

ですが、そのどれもが自分ではないと感じます。そうした過去の足跡は、ただの幻のようなものです。本当の私は空っぽの入れ物にすぎません。ただし、自分の肉体という乗り物を通して、いろいろなものをこの三次元の世界で表現したがっているのを感じます。私はそれをそのまま外界に流し出すだけです。

ほとんどの人は、そうした流れにブレーキをかけています。ブレーキをかけるだけでなく、パイプを最初からぴったり閉じています。何かが自分の中から流れ出そうとしても、「そんなのは自分らしくない!」「私にはできっこない!」「そんな才能があるはずがない!」と勝手に限定しています。中学生の頃から、私にはそれが奇妙な行為に感じられました。

「出来るところまでやってみたい」

子供の頃からブレーキをかけるのが苦手な体質でした。たとえば、中学校での長距離レースでも、最初から全力疾走でした。ペース配分などはゼロです。陸上部でもないのに、放課後には全力疾走のままどこまで走れるか、限界まで挑戦していました。なぜそんなことをしたのか、今でも理由ははっきり分かりません。しいていえば、単に「そうしたかった」からです。最初は50mしか全力疾走で走れなかったのが、100m、500m、1500mとしだいに距離が伸びて、いつしか中学記録を更新し、高一の頃には日本記録に迫っていました。

私は好きで走っていただけなので、周囲が「記録、記録」と騒ぎ始めたとたん、陸上をすぱっとやめてしまいました。何かが違うと感じたからです。運動をやめてしばらくすると、強い心臓の痛みに襲われました。そこで医者に行くと「極度の心臓肥大症(=スポーツ心臓)」と言われました。成長期に短期間で極端な練習をしたため、心臓が常人の倍くらいの大きさになっていたのです。私の場合、普通の人よりも痛みや苦しさに耐える限度が大きいらしく、心身のバランスを大幅に崩していたようです。そのまま続けていれば、きっと命を縮めていたと思います。

ともかく、どんなことでも必要以上に真剣に取り組む子供でした。「もういつ死んでもいいな」と思ったのは10代のはじめです。それは生に対するあきらめの気持ちではなく、その日のうちに、もういつ死んでも悔いがないほど100%燃焼しきるという感じです。その気持ちは今でもほとんど変わりはありません。

こういうことを書くと、私が生まれつき特別な人間だと思う人がいるかもしれませんが、その正反対です。もともとは運動神経が極端に鈍く、体格にも恵まれず、何をやっても人よりも不器用で、そのうえぎっちょで人並みに出来ることがほとんど何もありませんでした。小学校6年生になる直前まで算数の九九が出来なかっただけでなく、自転車にもまともに乗れないのは私くらいでした。

「人の3倍努力してやっと半人前」

両親からはよくそういわれました。なので、実感としては「人の十倍以上」は努力してきたつもりです。ですが、そうした(他人から見れば)血のにじむような努力の結果、何かが手に入りそうになると、たちまちやる気を失ってすべて手放してきました。「なにかが違う」と感じたからです。30歳の若さで、本来なら億単位の創業者利益を得てもいいところ、子供の難病があったとはいえ、二束三文でベンチャー会社を手放したのも、根底には何か大きな違和感があったからだと思います。

「なんて損な性格なんだ。。」

これまでずっと人から言われ続け、自分でもそう思っていました。努力と引き換えに何か恵まれた結果を手に入れるという違和感がぬぐえなかったのです。最近になって、その違和感の正体がわかりました。

「形への依存」

これをどこか本能的に嫌っていたのだと思います。自分を型にはめてしまうことへの違和感といってもいいかもしれません。普通の人は、「社長」と呼ばれると「社長」になり、しだいに「自分=社長」の顔になり、それで満足し、何も疑問もわかなくなります。自分の場合、それがひどく不自然に思われたのです。

長くなったので、そろそろ結論をまとめたいと思います。「本当の自分とは何か」という問いの答えです。

「(何かの)エネルギーを通すパイプのような自分」

これが自分の正体だという気がします。もっと簡単にいえば、空っぽの自分、何も中身がない自分です。知識も、肩書きも、能力も何もない、文字通り、「無能な自分」です。ですが、何か余計なものがパイプに詰まっていると、そこから何かを流し出すことが出来ません。ですから、空っぽのパイプになりきることができる自分が自分の正体でもある気がするのです。次のような感じです。

ニュートラルな状態(ゼロ状態、空っぽ)=自分

どんなときでも、プラスでもマイナスでもない、ニュートラルな状態に自分を持っていくことができれば、そこから自然に創造的なエネルギーがどこからか湧いてくる感じがします。もしそれが自分自身の心身のエネルギーを削っているのなら心身が消耗するはずなのですが、不思議なことに、そのエネルギーはどこか別のところからやってきて、体を通過する感じなのです。ですから、疲れやストレスはゼロで、静かな楽しさだけしか残りません。しかもそういうときの活動は、非常に質の高い、密度の濃い充実したものとなるのです。

この感覚をさらに端的に表現したのが次の言葉です。

ほけらかん意識♪

前記事にも述べたように、手段と目的の分離がなく、ストレスのほとんどない心地よい意識です。もちろん、日々生きていくうえで心地よい事ばかりとは限りませんが、肩の力を抜いて、現状の環境にあまり抵抗せず、ほけらかんと許容することから、ほからかん意識の第一歩が始まると感じます。

ただし、ほけらかん意識は「怠惰意識」とは違います。

どちらかというと、私のほけらかん意識とは、毎日が全力疾走に近いほけらかん状態です。誰もいないところで替え歌を作って一人で爆笑しながら過ごす、といった1円にもならない活動にさえ、誰よりも真剣に取り組んでいます。

家族から見れば、しっかりほけらかんしている毎日です^ ^


追伸:
一番上の写真は私の仕事場です。高度なほけらかん意識にあふれるPC画面を見ていただければ、日々どんだけ真剣に「ほけらかん道」を実践しているかがお分かりになるかと思います^ ^


意識の変容(その3)


e3fb37a8.jpgこのシリーズでは最後の記事です。

9月から10月にかけて、これまでになく心地良い意識を何度か経験しました。


それは一瞬の連続でしたが、「何もかも分かった!」という感じにも似ていました。ただし、それは言語化しにくい感覚であり、また言語化する必要もないものでした。

今回の記事では、あえてそれを文字でお伝えしてみたいと思います。

今までの記事とは異なり、元となる波動を出来るだけ原型に近い形でそのまま書いてみたいと思います。文の読みやすさよりも、正確さを重視したいと思います。

結論から言えば、私がつかみとった感覚はたった1つです。


「手段=目的」という統合意識


これがすべてです。今回の記事はこれで終了です。

なぜなら、お伝えしたいことはこの言葉にすべて含まれているからです。正直、ほかに一切の言葉を付け足す必要はないと感じます。

ですが、これだけではさすがに分かりにくいと思いますので、言葉を少し書き添えてみたいと思います。

まず、この人間世界のありとあらゆる問題、すなわち人間関係のトラブル、環境問題、戦争、その他一切の人間が関与するトラブルはすべて「手段と目的の分離」から来ているものです。

このことを本当の意味で理解すれば、現実的な悩みはすべて消えます。また、あらゆる物事がすべて自然に無理なく流れ、運が良くなります。事実、9月にこの感覚を初めて意識してから12月の本日に至るまで、すべての物事が驚くべき順調さで流れ続けています。

「手段」と「目的」の分離がないということは、現在(=いま、この瞬間)やっていることがすべてであり、そこに別の目的が一切入り込まないということです。たとえば、「幸せになるために○○する」には分離があります。「幸せになる」が目的であり、「○○する」が手段です。

通常、「○○する」は好きでもないこと、本当にやりたいと思っていないことが多いものです。「○○する」の中身としては、具体的には「労働する」「勉強する」「結婚する」「金儲けする」「ダイエットする」「恋愛する」「浄化する」「アセンションする」…など無数にあると思います。

ですが、これらが目的ではなく、もしも別の目的を達成するための手段であるとすれば、それらはすべて不純な動機であり、そうした考え方にこそ、この世の中のあらゆる病根が潜んでいることに明確に気がつく必要があります。

「○○する」は心の底から好きでもないこと、いまこの瞬間に本当にやりたいと思っていないことであれば、本来は絶対にしてはならないのです。(「手段と目的」が統合されると「〜してはならない」意識すらも自然に消えます)

もし「幸せになる」ことが目的であれば、いまこの瞬間(=1秒単位で)で「幸せに」なればいいのです。それには、「手段」と「目的」を分離させないことが絶対条件となります。

例えば、緑の中のウォーキングは気持ちよいし、私も大好きです。だったら「ウォーキング」だけをただただ楽しめばよいのです。そこに「健康のため」「ダイエットのため」「浄化のため」などといった「不純な」動機があると、「手段」と「目的」の距離が離れてしまい、そこにエネルギーのロスが生まれます。

そうしたロスは最初は小さいのですが、しだいに「手段」と「目的」の分離が大きくなり、最終的には何トンもの石油や地球資源を使って色んな運動器具などを製造してしまい、人も地球もキズつけてしまいます。

ただ歩くだけならコストゼロです。ですが、手段と目的を分離してしまうと、そこにいろんな「手段」という名前のノイズがびっしりとついてしまいます。つまり、「手段」=「目的」でないからこそ、どんどんムダなエネルギーロスが拡大してしまうのです。環境汚染や自然破壊とは、いわばエネルギーロスの象徴でもあります。

そうした意識から生まれる行為のすべてが、結局は自分も他人もキズつけてしまい、最終的にはあらゆる地球上のトラブルの元凶ともなります。

いま、世の中の大きな流れは

「手段=目的」という統合意識

という方向に確実に流れていることを強く感じます。

おそらくこうしたことは私一人が感じているのではなく、圧倒的大多数の人々の共通意識なのだと思っています。

そして、その統合意識は現状の物質文明を否定するものではなく、現状のインフラやテクノロジーはそのままで、それらに向き合う意識をオセロのようにパタパタと反転するだけですべての問題が一瞬のうちに解決するような気がしてなりません。

最後に、「手段=目的」の主観的な感覚を以下にまとめてみます。

・仕事、人間関係、心身の健康が驚くほど順調に流れている感じ
・ストレスになる物事が何1つとしてない
・超長時間の労働や集中、面倒な物事の処理が楽に継続できる
・体力、意欲、創造性に満ち溢れている感じ
・エネルギーロスがゼロ、心身の消耗もゼロ
・疲労や飽きの感覚もゼロ
・トラブルゼロ意識(=ノープロブレン意識)
・結果にこだわらない
・成功しても失敗しても全く気にならない。
・考えられない幸運、奇跡的な出会い、絶妙のタイミングの連続
・どこまでも静かで穏やかな心境
・思考がどこまでも明瞭でクリア
・感情的には超安定
・24時間ずっと心地よさに包まれている感じ
・直観やカンが冴え渡っている感じ
・接する人すべてが心地よく感じる
・来客、電話、会いたいという人が激増
・何かに依存する感覚ゼロ、執着ゼロ、心地よさ増大
・何かを人に伝えたい、教えたいという気持ちゼロ
・やっていることすべてが楽しい
・すべての活動や感情が空気のような軽さ
・仕事と遊びの区別がない感じ
・すべての物事においてこだわりがない感じ
・感情エネルギーが翌日に全く残らない
・周囲から見ると努力や献身を惜しまないように見える(らしい)
・周囲のすべての人々を心地よく感じさせる(らしい)
・周囲から見ると圧倒的なエネルギー、オーラらしきものを感じる(らしい)

こうして書くとなんだかひどく特別な意識状態のようですが、まったくそんなことはありません。それは

ほけらかん意識

と言ってよいほどの、こだわりの少ない、超シンプルな心境です。

もちろん、一人ひとりの感覚や経験はすべて異なると思います。

言葉は限定的なツールであり、今回のように意識状態(=波動)をお伝えするには不完全かもしれません。

ですが、以上の記事が少しでも皆様の何かのご参考になれば幸いです。
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