洋々youyouのブログ

アセンションをキーワードとした日々の気づきを綴るブログです。

2009年02月

ミクロから見たアセンション



大宇宙や自然がマクロだとすれば、ミクロは私たち一人一人です。

今回の記事では、個人のアセンション(≒意識変容、次元上昇)について感じる点をまとめてみたいと思います。

昨年の9月9日以来、それぞれの月のぞろ目が重要な転換点であったことにお気づきでしょうか。

9月9日、10月10日、11月11日、12月12日、1月11日などです。

今月は、2月3日の節分の日から2月11の建国記念日にも、重要な節目を迎えていました。

本日は2月22日です。本日も非常に重要な節目です。

なぜそういうことが分かるかというと、波動という観点から周囲の世界を感じるように意識すると、世界が日によってモードチェンジしていることが明瞭に分かるようになるからです。

上記のぞろ目デーには、いずれも大きなモードチェンジがありました。その1つ1つに特別な意味があり、それらをここで解説することもできますが、多くの人も同じようなことを無意識下に感じていたようです。

多くの子供は、そういうことを本能的に知っています。ですから、日によってわけもなく陽気になったり、沈んだり、おびえたり、さまざまなものを感じとっているのです。

本日のぞろ目デーは、今までとは質的に異なる変容であると感じます。

これまでのぞろ目デーがアセンションの浄化プロセスの節目であったのに対して、本日は、今までになかった新しい多次元世界が開かれた感じがします。

具体的には、目にするもの、耳にするもの、肌で感じるものも含めて、五感で感じるすべてのものがつながる先が変容しています。

「五感のつながる先」とは、少し分かりにくい表現かもしれませんが、簡単に言えば物質界のさまざまなものを通して向こう側に見える世界のことです。

例えば、私は多いときには同時に30人以上の担当者と打ち合わせや連絡を取り合ったりしながら仕事を進めます。会議や打ち合わせではたくさんの約束や予定を取り決めます。

ですが、私は一切メモを取りません。

記憶力に自信があるわけではありません。むしろ逆です。メモをとっても、そのメモを見るのを忘れてしまうほど多忙であったり、もの忘れが多いのです。

もともと記憶力に自信がないので、メモを取るのをあきらめて、自分の記憶をそこらへんにある周囲の「物質」や「風景」にくっつけておきます。たいていの場合は担当者の顔をメモ代わりにします。

ですから、打ち合わせの内容を丸ごと覚えておきたいときは、その内容を「相手の顔」の中に全部記録しておくわけです。

すると、不思議なことに次回に相手に会ったときに、まるでビデオの早送りのように、すべての打ち合わせの内容を自動的に思い出せるのです。

担当者から離れているときは、打ち合わせの内容は完全に忘れています。どんなに思い出そうとしても思い出せません。

ところが、何年経っても、その担当者に会った瞬間、まるでついさっきの出来事のように、前回の打ち合わせの内容を思い出すのです。

「記憶を物質にくっつける」というのは、「五感のつながる先」の一例に過ぎません。実際には無限ともいえる応用テクニックがあり、いま紹介したのはごく基本中の基本です。おそらく有能なビジネスマンなら、誰でも使っていると思いますが、その本質は今後主流となる「波動エネルギー」を現実に応用したものです。

話しを元に戻します。本日2月22日というぞろ目の意味は、あえて言語化すれば「祝福、再会、誕生、スタート、ドアが開く」といったものです。

その証拠に、周囲で目にするもの、耳に聞こえるもの、出会う人、風や太陽や生き物たちのすべてが「祝福、再会、誕生、スタート、ドアが開く」といったコトバで象徴されるメロディーをかなでています。また、ハートチャクラ(胸の部分)に流れ込むエネルギーが急激に増大しています(主に関東を中心とする首都圏で確認)。

もちろん、こうしたさまざまなメロディーは、私自身の意識が現実界に投影されたホログラムの一部にすぎません。

ですが、意識的にせよ、無意識下にせよ、おそらく私と同じように「今日はどこか違う」と感じる方も増えてきていることと思います。

ミクロで見たアセンションは、一人一人の意識の変容状態です。私の見るところ、それはかなりの個人差があります。

世界全体は、定期的に自らをモードチェンジすることによって、個人個人の意識変容を加速したり、変容を修正もしくは固定したり、場合によっては多次元的な浄化を行なったりしているようです。

ネット上には多くのチャネリング情報やアセンション系ブログがありますが、現時点で私が参考にしているサイトはありません。それらは、それぞれのチャネラーまたはブロガーの方が創造した現実もしくは情報であって、「文字」というとてつもなく制限されたツールによって表現された断片であると感じるからです。部分的に参考にできる点はあっても、それらの情報を不特定多数の個人にそのまま当てはまることはできないと感じます。

もちろん、私のブログ記事の情報も同様です。本記事の内容が、すべての人にとって当てはまるわけではありません。ミクロで見たアセンションは、一人一人まったく異なる意識の変容プロセスですので、個人差が大きすぎて一般論としてまとめるのは困難に感じます。

ですが、自分自身を取り巻く波動を感じる習慣を身につけると、ある特定の個人を見ても、それぞれがとてつもない速さと広大なスケールで変容が生じていることがわかります。

全体としてのアセンションプロセスは、現在も水面下で着実に進行中です。

個人のアセンションプロセスの進行状況を判断する基準はいろいろありますが、現時点では次の3点が最も重要だと感じられます。

1)現実社会の自由自在な創造(修正・浄化含む)
2)因果律の逆転
3)多次元的な波動との共鳴

これらの3点を明確に自覚、もしくは無意識下で認識していると感じるようであれば、時代の変容の波に乗っていると判断できると考えています。



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マクロから見たアセンション


「最近、あなた、ますます色が白くなったわね♪」

こう言われれば、たいていの女性は喜ぶのではないでしょうか。次の一言がなければ。

「髪の毛(=しらが)のことなんですけどね」

これでカチンとくる人は多いと思います。あらためて自分の髪を見てガッカリしたり、悲しい気持ちになる人もいるかもしれません。

こうして、わずか数秒で、人は他人の言葉に振り回され、喜んだり、怒ったり、悲しんだりするわけです。

こうした心の世界こそが、三次元が生み出すバーチャル世界(=幻の世界)です。

ところで、つややかな髪は光を反射します。一見すると、白髪と見分けがつかないのです。特に頭の上のほうは自分ではよく分かりません。

そのため、光で反射している髪を白髪とカン違いして、「最近ますます白髪が増えてきた…」とカン違いしている人もいるようです。

実を言うと、最近までの家内がそうでした。「自分は白髪が増えてきている」と信じて疑わなかったのです。ところが、鏡で頭頂部を見せると「ホントだ♪ほとんどないわ♪」と大喜びでした。私はずっと以前から何百回も言っていたのですが…。

真実をありのままに見て、ありのままに受け取る人は、心の曇り(おそれなど)がない人です。心の中に曇りがあると、フィルターを通して世界を見てしまいます。そうなると、世界の姿はどのようにでも変わって見えてしまいます。

戦乱の時代に生まれても、平和で心豊かに暮らす人もいれば、平和で豊かな時代に生まれても、悩みや争いごとの絶えない人もいます。

すべてはその人が選択している世界です。

「次元」とはその人が住んでいる世界のことです。ですから、すべての人は自分が選択した次元に住んでいるわけです。私はそれを「次元の住み分け」と呼んでいます。

アセンションは「次元上昇」と訳されています。ですが、もともと次元に高低はありません。単に周波数の違い、色の違い、音程の違い、波動の違いといった感じです。

ただし、それぞれの次元における「浄化」のレベルは人それぞれ異なります。

浄化が進み、心が澄んだ人は、美しい音色を奏で、クリアな色彩のハーモニーを波紋のように広げていきます。波動は共鳴を呼び起こします。その人の波動が、その波動にふさわしい世界を引き寄せるのです。

では、美しく、調和が取れ、争いごとや不安も悲しみも怒りもない、静謐そのもののような世界がアセンション後の世界なのでしょうか?

私にはそうは思えません。

まだうまく言語化できないのですが、私の見ているアセンション後の世界のビジョンは、悩みや苦しみのない天国のような世界ではありません。もっとダイナミックな、自由な創造エネルギーあふれる世界です。

当然、二極性(善と悪、陽と陰、ポジティブとネガティブ)の対立も存在します。

しいていえば、そうした二極性をそのまま活かし、自立と選択、自由な精神に基づいて、両者を積極的に融合していく世界です。ハイテクを維持したまま、自然との共存が進むネオ縄文的な社会でもあります。

自然は調和の取れた世界です。地球上の生態系も絶妙のバランスから成り立っています。人(ヒト)だけがその調和を乱すことができる存在です。

地球を破壊できるほどの「超巨大な自由」を与えられたヒト

私はこのことの意味をずっと考えてきました。

ヒトが自然から生まれたとすれば、その人もまた自然の意思にほかならない…言い換えれば、自然すなわち宇宙こそがヒトという「調和を乱すもの」を望んだのではないか?!

そう考えたとき、私の中にある結論が稲妻のようにひらめきました。

それは1つのビジョンでした。

以下は、単なる夢物語の1つとしてお聞きください。

この宇宙は、膨張・収縮を繰り返しています。時間は存在しません。すべては一瞬のうちに同時に起きています。

ビッグバンによって宇宙が誕生し、最終的にはブラックホールに飲み込まれて「無」に帰する。。。

ところが、ブラックホールの先には反物質でできた反宇宙があり、そこで新たな宇宙が誕生している。

永遠に循環するらせん…。

すべてはらせんのように、メビウスの輪のように循環する。

その中で、ヒトの存在とは何を意味するものか? 

以下、私の結論です。

ヒト=この宇宙自身を超える可能性を秘めた唯一の存在

ヒトに意思があるように、宇宙にも願いや夢があると思います。

宇宙はその夢を「ヒト」という種族に託しているのではないかと感じます。

親(=大宇宙)は、その分身である我が子(=ヒト)が自分を超えることを望んでいる…それが宇宙が望んでいる夢だと。。私にはそう伝わってきました。

だからこそ、地球を汚染し、動植物を1日110種、年間4万種も大絶滅に追い込むようなヒトという野蛮な種族を滅ぼしもせず、「超巨大な自由」を与えたまま、宇宙(=自然=神々)はヒトをずっと見守っているのです。

大宇宙を「神」と考えれば、アセンションプロセスとは、ヒトが神を超えるための進化の1プロセスといえるかもしれません。

大宇宙(=神)は、これからヒトがどのような選択をするか、その判断を地球上に住むわれわれ人間にすべて委ねています。

マクロから見たアセンションとはそういうものだと考えています。



青い光







追記:
アオウエイさんから以下のようなコメントを頂きました。
こちらのほうが私が伝えたかったニュアンスに近いです。

> ヒトが神を超える。。。ちょっと付言すると
> 神=親=大宇宙もそのことによって進化する。
> 親と子がてをつないだ、壮大な生成進化の旅。。。
> そんなように感じます。
> 子を見守りながら、親も日々成長している。

子と親は一心同体の関係でもあるわけですね。そして、親は子を全面信頼し、生成進化の役割を子に託している…それこそが親子の絆だと思います。

視覚的なビジョンを言語化したので、コトバが不完全でどこか足りないと思っていた一片をアオウエイさんが的確にお伝えしてくださいました。

また、Luceことじゅごんさんも、本記事をさらに一歩進めた記事をまとめてくださいました。

http://plaza.rakuten.co.jp/sunluce/diary/200902200000/

お二方も含めて、いつもたくさんの方々に含蓄のある素晴らしいコメントを頂き、私もたくさんの気づきを頂いています。あらためて感謝申し上げます。

「悟り」とは(後編)

水








今回は、「カタチ」を超えた悟りについてお話ししたいと思います。

結論からいいます。

与えられた環境を100%活かしきること

たったこれだけです。

環境の部分を時代、社会、国、仕事、容姿、性別などの外面的な要素(カタチ)に置き換えるとさらに分かりやすいでしょう。

与えられた環境を100%活かしきることができれば、それがその人にとっての最高の悟りとなります。

例えば、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサであっても、名も無い主婦であっても、その人に与えられた環境や役割を100%全うしたとすれば、両者の本質的な価値はまったく変わりません。

実際、マザー・テレサ級の主婦は日本にゴロゴロいます。

育児や家事は大変な重労働です。しかも誰かに褒められるわけでもなく、収入が得られるわけでもありません。それどころか、「三食昼寝付き」のような気楽な稼業だと思われています。旦那は「俺様が働いて食わせてやってるんだ」ぐらいにしか思っていなかったりします。

さらに、子供には愛情を注ぎ、近所づきあいもこなし、大きな子供である旦那のお守りまでするわけです。まさにスーパーウーマンの働きをしています。それでも不平不満1つ言わず、朗らかに毎日を過ごしているのが日本の多くの主婦なのです。

私の目には、そうした主婦たちは、マザー・テレサ以上の慈愛の塊に見えます。

おそらく、彼女たちがマザー・テレサと同じ環境で同じような役割を与えられれば、マザー・テレサと同じかそれ以上の献身的な働きができると思います。

語弊を恐れずに言えば、ノーベル賞という「カタチ」を受賞した人だけが偉いわけではありません。そういう「カタチ」にとらわれないのが本当の悟りなのです。

ですから、どのような環境でも、そこで100%自分らしい個性を開花し、自分の役割を存分に働かせることができれば、それが最高の悟りにほかならないと思います。

ですから、何かが「できる」とか「できない」といった能力や社会的成功は一切関係ありません。三次元的な能力は、もって生まれたレベルが人によって異なるからです。ライオンと人間の腕力の強さを比較するのが無意味なのと同じです。

たとえば、100の能力に恵まれた人が20しか発揮せずに生涯を終えてしまった場合は、悟りとはほど遠い人生といえます。

ですが、1の能力を与えられた人が1の能力を発揮するだけにとどまらず、与えられた環境をフル活用して2の能力を発揮したとすれば、最高の悟りを得た大成功の人生となります。

一見すると、100の能力に恵まれた人が20を発揮したほうが、1の能力を与えられた人が2の能力を発揮するよりも10倍も素晴らしい人生のように見えるかもしれません。

ですが、他人と自分を比較するのは無意味です。

本当の悟りにいたると、自分がもって生まれた能力をはるかに凌駕する智慧を伴うからです。

それは自分の限界を大きく超えて神聖なるものにつながる瞬間でもあります。言い換えると無尽蔵の智慧にアクセスする瞬間です。

それに比べれば、現実社会での能力の差などはとるに足らないものです。

人は、生まれた時点でのスタートラインには差があります。そうしたものに目を向けると、ついつい能力や容姿など、「カタチ」で自分と他人を比較したくなります。

気持ちはよく分かります。ですが、自分に与えられた環境、時代、性別、身体を100%使い切ることが出来れば、その人にとっての最高の人生となるだけでなく、それ以上のものが得られるのです。

他人との比較は無用です。ライオンと人を比較できないように、それぞれの人を比較するのは無意味であるばかりでなく、表面的な「カタチ」に振り回される人生となりがちです。

「自分らしさ」の100%追求こそが悟りの本質なのです。子供はそのことを生まれながらによく知っています。ところが大人になると忘れてしまいます。

忘れたことを再び思い出す…それが悟りの本質でもあります。

主婦であれば家族を大切にし、家事に精を出し、与えられた環境の中で日々の幸せを見つけ、心身を一点の曇りのない状態に保ち、最善を尽くしたうえで、朗らかに生きていくことです(=「ほけらかん」意識の実践)。

与えられた役割がサラリーマンであれ、大統領であれ、学生であれ、経営者であれ、その他であれ、本質的にはまったく同じです。

与えられた環境を100%活かしきること

たったこれだけです。財産、年齢、地位、身分、家柄、能力、性別、職業などは一切関係ありません。

さらにいえば

「自分らしさ」の100%追求

これこそが「カタチ」を超えた悟りです。



追伸:
前記事へのコメントありがとうございます。お返事はもうしばらくお待ちください。


追記:
「悟り」の次に来るもの、それが「アセンション」だと考えています。次回の記事では私の考えるアセンションについてまとめたいと思います。



2/19追記:
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ぽめママさま、神ngさま
いつもコメントありがとうございます。
なぜかコメント欄に投稿ができなくなっておりましたので、
以下のコメント内にレスさせていただきました。
現在、他の方は投稿できるのでしょうか。。
システムトラブルかもしれませんので、
しばらく様子を見たいと思います。
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「悟り」とは(前編)

皇居





一般的な悟りの定義は次のようなものです(Wikipediaより引用)。

悟りは知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い「覚り」とも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言う。悟りは段階的な手順を得て起きるとする場合と、悟りは瞬時に起きるとする場合がある。それぞれの立場の人達によりどちらが本当かの議論がされてきている。しかし、これはどちらもあり、その方法により悟りの起き方が異るとする立場もある。悟りは仏教の究極目的であり、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践される。仏教の悟りは智慧を主体とするものである。

私が考える「悟り」とは簡単です。

迷いのないこと

たったのこれだけです。「迷い」を「悩み」「不安」「恐れ」と言い換えてもよいでしょう。

人はわずかな間だけ生き、そして肉体の死を迎えます。そんな短い間にあれこれ悩んでいるのはもったいない。。。だから迷っているヒマなどない。そのことに気がつくのが私の考える悟りです。

ですから、悟るのは簡単です。ですが、簡単なようでいて、むずかしく感じる人もいると思います。

私に言わせれば「悟った人」などはごまんといます。ごくありふれた日常の中で、あらゆる人が悟りの境地に至っています。以下、その一例を挙げます。

1日の仕事を終えて寝床に入るリラックスした時間
爆笑している瞬間
我を忘れて好きなことに熱中している時間
音楽や映画などを鑑賞して感動している瞬間
美味しいものを食べてコトバを失う瞬間
喜びや祝福に包まれた至福の瞬間
感謝や愛の気持ちで満たされているとき
恋人や愛する家族(ペット含む)と過ごす時間
…etc.

これらはいずれも「迷いがない」という至福の状態であり、すべて悟りの境地です。ですから、「悟り」とは、けっして特殊な状態でもなければ、仏陀のような聖人だけのものではありません。

もう一度繰り返します。悟った人は世の中にごまんといます。それどころか、生まれてから一度も悟ったことのない人は、この世に一人もいないと思っています。ですから、悟ること自体は、それほどたいしたことではないのです。

「悟った」というのは意識の状態です。悩みや苦しみや迷いがなく、安定した自我と幸福感を維持できる状態です。そのこと自体は素晴らしいと思います。

ですが、私はそこで満足していては、あまりにももったいないと思います。

何かを悟ったら、それを現実の行動として実践し、自分の身体を通して目に見える「カタチ」にすれば、さらに味わい深いものになると感じます。

「カタチ」とは、無形の世界(=悟りの世界)の影に過ぎませんが、「カタチ」にすることによって、この三次元世界の住民である我々は悟りの「智慧」を表現し、堪能し、じっくり味わうことができるのです。

同時に、無形の悟りから発するエネルギーを用いて、有形のカタチを創り上げていくことによって、大きな創造の喜びを得ることができます。創造の喜びとは、瞬間瞬間を100%生き切り、すべての時間を心ゆくまで味わうことと同じです。

人は内面が満たされると、自然に外面に現れます。仏教的なイメージでは、アルカイックスマイルのような「微笑」として表情に現れてくるものです。ですから、悟り(内面)を得ると、現実界でのカタチ(外面)として現れるのが自然なのです。

悟り(内面)=カタチ(外面)

このメカニズムを知れば、悟りが単なる意識の状態ではなく、カタチとして表現されて完成するものでもあり、本質的には両者の区別のないことが分かるのではないかと思います。

したがって、当然、「カタチ」から入る悟りというものも存在するわけです。日本の茶道や禅や武道などは、その典型ではないかと思っています。

多くの場合、「カタチ」とは、現実の行動です。サラリーマンならサラリーマンとしての行動として表現され、主婦なら家事や子育てを通して、学者は学問を通して、芸術家は作品を通じて、スポーツ選手はプレーを通して悟りの内容を表現するわけです。

ですから、悟りのレベルや内容はさまざまです。悟りは一つだけではありません。その多くは段階的ですが、ある段階を飛び越して一気に高い悟りに至るケースもあります。それはある種のエクスタシーを伴う体験であり、性的な快楽以上の恍惚感を伴うものです。おそらくどんな人でも一度でも味わうと、それは強烈な体験として忘れられないものとなります。

ですが、そうした悟りはあくまでも個人の体験にすぎず、コトバでいくら表現してもその経験をダイレクトに伝えることはできません。ですから実際にそれを味わってもらうしかないわけです。

悟りとは

迷いのないこと

いかがでしょう。たったいま死んでも悔いはない、という心境です。

ピンときた方は、すでに悟りを何度も経験している方です。悟りは智慧を伴います。それは、悟った分だけの智慧です。ですから、人によってその智慧の分量はすべて異なります。小さな悟りを繰り返す人もいれば、大きな悟りで一気に高い境地に引き上げられる人もいます。

最初は想像でもよいのですが、一切の悩みも不安も苦しみもなく、何もかも執着を捨て去った状態を想像してもよいと思います。「もうどうにでもしてくれ!」といった開きなおりの心境でもいいでしょう。ともかく、心を明るく軽く「空っぽ」の状態にしているうちに、こうした「悟り」の状態を何度も経験できるようになります。

最後にもう一度繰り返します。世の中に「悟った人」はごまんといます。「悟り」自体はそれほど珍しいことではありません。本当に大切なのは、悟った後に何をするかです。



追記:
今回の記事は悟りの入門編です。より高度な悟りの段階は「カタチ」を超えた悟りです。これについては次の記事でまとめたいと思います。
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