前記事では、「原因=結果」であり「手段=目的」であるのがロスのない統合意識であると述べました。
これについて、もう少し詳しく説明してみたいと思います。
そもそも、人は何かの意図をもって行動しているわけではありません。
本当は行動がすべてであり、意図=行動であり、両者の間に分離はないのが自然です。
赤ちゃんは、お腹が空いたから泣くのであり、目の前に母乳やミルクがあるからそれを飲むわけです。
お腹が空いた=泣く
目の前の母乳やミルク=それを飲む
赤ちゃんの場合、等号(=)で結ばれた左右の関係は、かぎりなく一致しています。タイムラグがあったとしても、せいぜい数秒です。
ところが、大人はそれを複雑にしてしまいます。わざと遠回りするといってよいかもしれません。
目の前の食べ物をお腹いっぱい食べればいいだけなのに、それには目を向けず、わざわざ何十年もガマンして、一生懸命働いて、お金を稼いでからお腹いっぱい食べようと思うわけです。
目の前の食事をおあずけして、その食事に「目的」「目標」「夢」「将来の展望」などと名前を付けるわけです。
そうしている間に、せっかくの美味しい食事も鮮度が悪くなり、冷めてまずくなってしまいます。
世の中の多くのシステムは、これに近いことを行なっています。
また、因果律が成立するためには、「時系列(=時間的な順序)」という考え方が必須になります。
ところが、本来は物事には絶対的な時間や順序は存在しないのです。
時間という物理的な存在があって、それに合わせて物事が進行しているわけではありません。
時間を測定するのは、物事の変化や順序を観察するときだけです。
たとえば、目の前に10品目のおかずがあったとします。それを食べる順序は自由です。
また、自分が実際に食べ終わるまでが食事にかかった時間であり、その長短には意味はありません。
自分が食事をした時間と、地球が太陽の周囲を一周する時間(=時計時間)はほとんど関係ないといってよいからです。
何かが順番に起こっていて、その順序に意味があるということ自体が不自然な場面が圧倒的に多いのです。
ですから、物事の順序にもあまり意味はないし、地球の公転周期(=1年間)と日常の動作を比較するための時計時間もあまり意味はないのです。
すべては自分で決められる行動です。
ですから時間は存在しません。リアルで存在し、コントロールできるのは自分の「行動」だけです。
これに気づくのが、時間の幻想から脱出する鍵です。
その瞬間、時間が消失します。時計の時間が意味を失うわけです。
残るプロセスは「変化」だけです。
すべての生物には、月日の経過とともに生物学的な「老い」が訪れます。これは変化の一種です。
変化のバロメータとして「老い」は使えますが、時計時間は絶対的なバロメータとはなりえません。
これは老化の個人差を見れば明らかです。
この世のすべての物質は崩壊の方向に向かいます。建築も、人間の身体も、だんだん壊れていきます。
これらもすべて変化です。
そこには因果律はほとんど存在しません。単に変化のプロセスがあるだけです。
寄せては返す波のように、四季折々のうつろいのように、人の呼吸や生死のように、そこには変化しつづけるという宇宙のプロセスがあるだけです。
変化だけが変わらないもの
本当は因果律も、時間も存在しません。これに気がつけばあとは簡単です。
変化のプロセスを唯ひたすら楽しむ
これが統合意識です。
そこでは光も闇も同じ仲間です。すべてはおおいなるプロセスの一部です。
明暗がやがて色を生み出し、かぎりない変化を生み出す…それが宇宙の成り立ちでもあります。
変化の波に身をまかせてすべてを楽しみ、味わい、経験し、自由自在に現実を創造すること…それが「ほけらかん意識」にほけなりません。
現在、さまざまな社会現象や個人の出来事として「因果律の逆転」が見られますが、さまざまな「幻」から脱してリアルを思い出すという一連の大きな流れに気づくことが大切だと思います。
これについて、もう少し詳しく説明してみたいと思います。
そもそも、人は何かの意図をもって行動しているわけではありません。
本当は行動がすべてであり、意図=行動であり、両者の間に分離はないのが自然です。
赤ちゃんは、お腹が空いたから泣くのであり、目の前に母乳やミルクがあるからそれを飲むわけです。
お腹が空いた=泣く
目の前の母乳やミルク=それを飲む
赤ちゃんの場合、等号(=)で結ばれた左右の関係は、かぎりなく一致しています。タイムラグがあったとしても、せいぜい数秒です。
ところが、大人はそれを複雑にしてしまいます。わざと遠回りするといってよいかもしれません。
目の前の食べ物をお腹いっぱい食べればいいだけなのに、それには目を向けず、わざわざ何十年もガマンして、一生懸命働いて、お金を稼いでからお腹いっぱい食べようと思うわけです。
目の前の食事をおあずけして、その食事に「目的」「目標」「夢」「将来の展望」などと名前を付けるわけです。
そうしている間に、せっかくの美味しい食事も鮮度が悪くなり、冷めてまずくなってしまいます。
世の中の多くのシステムは、これに近いことを行なっています。
また、因果律が成立するためには、「時系列(=時間的な順序)」という考え方が必須になります。
ところが、本来は物事には絶対的な時間や順序は存在しないのです。
時間という物理的な存在があって、それに合わせて物事が進行しているわけではありません。
時間を測定するのは、物事の変化や順序を観察するときだけです。
たとえば、目の前に10品目のおかずがあったとします。それを食べる順序は自由です。
また、自分が実際に食べ終わるまでが食事にかかった時間であり、その長短には意味はありません。
自分が食事をした時間と、地球が太陽の周囲を一周する時間(=時計時間)はほとんど関係ないといってよいからです。
何かが順番に起こっていて、その順序に意味があるということ自体が不自然な場面が圧倒的に多いのです。
ですから、物事の順序にもあまり意味はないし、地球の公転周期(=1年間)と日常の動作を比較するための時計時間もあまり意味はないのです。
すべては自分で決められる行動です。
ですから時間は存在しません。リアルで存在し、コントロールできるのは自分の「行動」だけです。
これに気づくのが、時間の幻想から脱出する鍵です。
その瞬間、時間が消失します。時計の時間が意味を失うわけです。
残るプロセスは「変化」だけです。
すべての生物には、月日の経過とともに生物学的な「老い」が訪れます。これは変化の一種です。
変化のバロメータとして「老い」は使えますが、時計時間は絶対的なバロメータとはなりえません。
これは老化の個人差を見れば明らかです。
この世のすべての物質は崩壊の方向に向かいます。建築も、人間の身体も、だんだん壊れていきます。
これらもすべて変化です。
そこには因果律はほとんど存在しません。単に変化のプロセスがあるだけです。
寄せては返す波のように、四季折々のうつろいのように、人の呼吸や生死のように、そこには変化しつづけるという宇宙のプロセスがあるだけです。
変化だけが変わらないもの
本当は因果律も、時間も存在しません。これに気がつけばあとは簡単です。
変化のプロセスを唯ひたすら楽しむ
これが統合意識です。
そこでは光も闇も同じ仲間です。すべてはおおいなるプロセスの一部です。
明暗がやがて色を生み出し、かぎりない変化を生み出す…それが宇宙の成り立ちでもあります。
変化の波に身をまかせてすべてを楽しみ、味わい、経験し、自由自在に現実を創造すること…それが「ほけらかん意識」にほけなりません。
現在、さまざまな社会現象や個人の出来事として「因果律の逆転」が見られますが、さまざまな「幻」から脱してリアルを思い出すという一連の大きな流れに気づくことが大切だと思います。