洋々youyouのブログ

アセンションをキーワードとした日々の気づきを綴るブログです。

2009年03月

因果律の逆転(後編)

前記事では、「原因=結果」であり「手段=目的」であるのがロスのない統合意識であると述べました。

これについて、もう少し詳しく説明してみたいと思います。

そもそも、人は何かの意図をもって行動しているわけではありません。

本当は行動がすべてであり、意図=行動であり、両者の間に分離はないのが自然です。

赤ちゃんは、お腹が空いたから泣くのであり、目の前に母乳やミルクがあるからそれを飲むわけです。

お腹が空いた=泣く
目の前の母乳やミルク=それを飲む


赤ちゃんの場合、等号(=)で結ばれた左右の関係は、かぎりなく一致しています。タイムラグがあったとしても、せいぜい数秒です。

ところが、大人はそれを複雑にしてしまいます。わざと遠回りするといってよいかもしれません。

目の前の食べ物をお腹いっぱい食べればいいだけなのに、それには目を向けず、わざわざ何十年もガマンして、一生懸命働いて、お金を稼いでからお腹いっぱい食べようと思うわけです。

目の前の食事をおあずけして、その食事に「目的」「目標」「夢」「将来の展望」などと名前を付けるわけです。

そうしている間に、せっかくの美味しい食事も鮮度が悪くなり、冷めてまずくなってしまいます。

世の中の多くのシステムは、これに近いことを行なっています。

また、因果律が成立するためには、「時系列(=時間的な順序)」という考え方が必須になります。

ところが、本来は物事には絶対的な時間や順序は存在しないのです。

時間という物理的な存在があって、それに合わせて物事が進行しているわけではありません。

時間を測定するのは、物事の変化や順序を観察するときだけです。

たとえば、目の前に10品目のおかずがあったとします。それを食べる順序は自由です。

また、自分が実際に食べ終わるまでが食事にかかった時間であり、その長短には意味はありません。

自分が食事をした時間と、地球が太陽の周囲を一周する時間(=時計時間)はほとんど関係ないといってよいからです。

何かが順番に起こっていて、その順序に意味があるということ自体が不自然な場面が圧倒的に多いのです。

ですから、物事の順序にもあまり意味はないし、地球の公転周期(=1年間)と日常の動作を比較するための時計時間もあまり意味はないのです。

すべては自分で決められる行動です。

ですから時間は存在しません。リアルで存在し、コントロールできるのは自分の「行動」だけです。

これに気づくのが、時間の幻想から脱出する鍵です。

その瞬間、時間が消失します。時計の時間が意味を失うわけです。

残るプロセスは「変化」だけです。

すべての生物には、月日の経過とともに生物学的な「老い」が訪れます。これは変化の一種です。

変化のバロメータとして「老い」は使えますが、時計時間は絶対的なバロメータとはなりえません。

これは老化の個人差を見れば明らかです。

この世のすべての物質は崩壊の方向に向かいます。建築も、人間の身体も、だんだん壊れていきます。

これらもすべて変化です。

そこには因果律はほとんど存在しません。単に変化のプロセスがあるだけです。

寄せては返す波のように、四季折々のうつろいのように、人の呼吸や生死のように、そこには変化しつづけるという宇宙のプロセスがあるだけです。

変化だけが変わらないもの

本当は因果律も、時間も存在しません。これに気がつけばあとは簡単です。

変化のプロセスを唯ひたすら楽しむ

これが統合意識です。

そこでは光も闇も同じ仲間です。すべてはおおいなるプロセスの一部です。

明暗がやがて色を生み出し、かぎりない変化を生み出す…それが宇宙の成り立ちでもあります。

変化の波に身をまかせてすべてを楽しみ、味わい、経験し、自由自在に現実を創造すること…それが「ほけらかん意識」にほけなりません。

現在、さまざまな社会現象や個人の出来事として「因果律の逆転」が見られますが、さまざまな「幻」から脱してリアルを思い出すという一連の大きな流れに気づくことが大切だと思います。

因果律の逆転(中編)

因果の流れは川の流れのようなものです。

上流に水源があり、最初は小さな清流だったのが、下流になるにつれてしだいに広い川となり、最終的に海に注ぎ込みます。

ミクロで見れば、水源(原因)から海(結果)が生じたように見えます。次のような関係です。

水源(原因)⇒海(結果)

もう少し大きな視点で見れば、水源から海まではすでにつながっており、上空から見えのは「水源ー河川ー海」というラインだけです。

このラインは、空から見ればほとんど変化しないように見えるはずです。変化するのは水の流れだけです。

さらにいえば、海の水が蒸発し、大気中の水蒸気となり、それが雲になり、雲が雨を降らし、降った雨が地面にしみこんで、山の水源となります。

こうしてみると、水源と海はどちらが原因なのかよくわからなくなってきます。

これをまとめてみると

水源(原因)⇒海(結果)=海(原因)⇒水源(結果)

ここから分かるのは、本来は次のような関係だということです。

水源(原因)=海(結果) であり かつ 海(原因)=水源(結果)

ここから導かれるのは次の結論です。

原因=結果

これが因果律の正体です。ここにすべての鍵があります。

本来、原因と結果の間には分離はないと考えるのが自然なのです。これは人の統合意識と同じです。

手段=目的

このような行動には分離が生じません。「やりたいこと=すでにしていること」だからです。

こうした行動には、まったくといってよいほどロスがありません。

スピリチュアル的な表現を借りればカルマや業が発生しないのです。

したがって、「原因=結果」であり「手段=目的」である行動こそが最高の統合意識であり、因果律から解放された自由な精神の発露が可能になると考えられます。

そのような意識状態では、「やりたいこと」「ほしいもの」「なりたいもの」という概念が存在しません。

やりたいこと=すでにしていること=すでにしたこと=これからすること

ほしいもの=すでに手に入れているもの=過去に手にしたもの=これから手に入れるもの

なりたいもの=すでになっているもの=過去になったもの=これからなるもの


こういう意識では、いわゆる「目標」「目的」「課題」などというものは存在しなくなります。

同時に、1)やりたいことはすべてできるし、2)ほしいものはすべて手にはいり、3)なりたいものすべてになれます。

そして、1)から3)が「すでにぜんぶ起きている」状態のまま、それが永続するのが統合意識です。

そこに因果律は作用しません。原因と結果が同時に起こるので、両者の区別はありません。

それが「ほけらかん意識」の真髄でもあります。子供の頃の純粋な意識にも似ています。

「因果律の逆転」が起こるように見えるのは、過去の「原因⇒結果」というエネルギーを中和してプラスマイナスゼロにするための働きだと考えています。

現代では、「結果⇒原因」というエネルギー場が発生することによって、これまでのようなロスの大きな「カルマの清算」を回避できる道が開けているようにも感じます。

その背後では、本来の「原因=結果」というニュートラル状態(=ゼロポイント意識)への変容が進行しているようです。

「因果律の逆転」の本質は、「原因=結果」の統合、すなわち「因果律の消滅」に向かうための中間プロセスであると感じます。

ここで大事なことがあります。「因果律の逆転」には、かならずといってよいほど「時間」という概念の消滅が伴うことです。

これまでの人類の集合意識は、主に時間的な順序関係によって構築されていました。

現在、その制限(=枠)が外れかけていると感じます。

これについては次の記事でまとめてたいと思います。

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因果律の逆転(前編)

通常、物事の流れは次のような順序となっています。

「原因⇒結果」

これを因果律(=因果の法則、因果関係)といいます。

「苦労は報われる」「努力した分だけ幸せになる」「善因善果」「因果応報」「願いは実現する」「引き寄せの法則」「親の因果が子に報い」などは、すべて因果律です。

要するに、まず原因があり、次に結果が生じるという考え方です。

上記の因果律においては、「原因と結果の順序は逆転しない」という暗黙の了解がありました。

たとえば、大人になって社会で出世して、高収入になり、多くの人に認められて、幸せな家庭を築くためには、子供の頃から一生懸命がんばって努力しなければならないわけです。

努力(「原因」の種まき)⇒その「結果」としての「幸せ」

この場合、「努力した結果として幸せになる」という簡単な因果律です。

地球という星は、ある意味で因果律の実験場でした。

因果律は、これまでの社会で非常にうまく機能してきました。「原因」があって、「結果」が生じるまでに、ある程度のタイムラグ(時間のずれ)があったためです。

こうした時間的な余裕があったため、人は「どのような原因を作ればどのような結果が生じるか?」をじっくり考え、いろいろな原因をわざと作ることによって、自分の行動がもたらす結果を検証することができました。

ところが、大きな歴史の流れにおいて、1つの問題が生じました。

ある人が作った「原因」によってもたらされる「結果」が生じる前に、人の寿命が尽きてしまうという事態が生じたのです。

そのため、人はもう一度肉体をもってこの星に生まれ、受け取っていない「結果」を受け取るという形になりました。仏教などでは、それを「業(ごう)」や「カルマ」などと表現しているようです。

問題はそれだけではありません。もっと大きな民族的、国家的な「原因」も大量に生み出されてしまったのです。

以下、私の受け取った多くの民族的ビジョンの1つです。

およそ8000年前のエジプトで農耕牧畜が開始され、およそ4000年前に壮大なエジプト文明が花開きました。ご存知のように、エジプトはアフリカ大陸にあり、エジプト人は黒人です。当時のヨーロッパは不毛の地であり、文明国であるエジプト人にとって、ヨーロッパに住む白人は「野蛮で未開な人種」でした。

そこで、エジプト人は、白人奴隷を大量にエジプトに連れ込み、労働資源として利用しました。ナイル川のかんがい事業をはじめとする多くの土木・建築事業は、当時の白人奴隷を数千年に渡って使役した結果です。

文明の絶頂にあったエジプト文明においてはいろいろな人種のるつぼとなりましたが、そうなっても「有色人種以外は人間にあらず」という扱いでした。白人は家畜以下の存在であり、家畜と同様に売買されていたのです。

エジプト文明がしだいに衰退し、中東やエーゲ文明に引き継がれるまで、長い間、「黒人」は文明の最先端に君臨していました。

黒人が白人を差別し、奴隷化したという集合意識は巨大な「原因」を生み出しました。それは一種のエネルギーなのですが、そのエネルギーが解消されるには、数千年を経て、「アメリカ」という国家の誕生が必要でした。

新大陸を発見した白人たちは、まずインディアン(有色人種)を大虐殺し、さらにアフリカから数千万人もの「黒人奴隷」を北米大陸に連れ込み、リンカーンが「奴隷解放宣言」をするまで、徹底的に白人が黒人を差別する必要がありました。

アメリカという黒人奴隷の国家が誕生したことによって、およそ6千年前から生じた「黒人による白人差別」のカルマがやっと解消したと感じます。

ここで分かることは、最初の「原因」(黒人による白人差別)と、「結果」(白人による黒人の差別)までに、およそ6千年もの年月を要したということです。

これではあまりにもロスが大きく、因果律の当初の目的がうまく機能しているとはいえません。

もともとは、人が「原因」と「結果」の関係を知りたいがために、因果律を存在させていたといっても過言ではないからです。

20世紀の末から今世紀にかけて、人類の集合意識が大きく変化しました。

結論から言えば、これまでの「因果律」が機能しない世界へとシフトしつつあります。

そのことは、社会のあらゆる場面で因果律の逆転が見られ始めていることからも明らかです。

次回の記事では、「因果律の逆転」についてさらに詳しく見ていきたいと思います。

「プロジェクトX」のエピソード

今回は、プロジェクトXのエピソードを紹介したいと思います。

「ソローの森の家」の日本版を開発中のことです。

日本版の「森の家」は、ユニットで組み立てるドームハウスとは異なり、通常の木造建築ですので、いったん建築すれば最低でも100年は持つようなものにしたいと思っていました。

そこで問題になったのは、材料となる木材をどこで調達するかでした。国産の木材は原価が高く、しかも良質で均一のものを大量に仕入れることが意外にむずかしいのです。

取引先の経営者と話していたときのことです。不思議なことに、私が何も話していないのに急に「洋々さん、ヒノキのご入用はありませんか」と尋ねてきたのです。

よくよく聞くと、知り合いの木材卸業者からヒノキをまとめて調達すれば安くなるとのことでした。

ヒノキは日本では最高の建築用木材として知られています。正しく使われたヒノキの建築は1000年以上の風雪に耐えます。

奈良の法隆寺は、世界最古の木造建築物として、今日までその見事な姿を保っています。法隆寺が現存するのは、ヒノキを建材としたことによるといっても過言ではありません。

また、日本最高の神域とされる伊勢神宮では、20年に1度、社を新しく建て替える式年遷宮と呼ばれる行事が行われています。

伊勢神宮は、総ヒノキ作りです。そこでは、なんと1万8千本もの大量のヒノキ材が必要となり、20年に一度のヒノキ調達のために計画的に日本各地で植林が行なわれているそうです。

その木材業者は、その伊勢神宮の式年遷宮のために納めるヒノキを植林している業者の1つだったのです。

本来ならば、神社になるようなご神木として育てられた木材です。「そんな貴重なヒノキを卸してもらえるのですか?」と私は聞きました。

「その用途によります」

知人によると、もともとは「神社」や「仏閣」などの建築材としてヒノキを植林していたそうですが、正規の神社では使わないような規格外のヒノキの木材が大量に余り、その用途を探していたそうなのです。

接着剤で張り合わせて合板にするという方法もありますが、そうなると、せっかくのヒノキの自然の香りが接着剤のにおいで損なわれてしまいます。また、檜風呂として販売するという方法もありますが、現代の家庭では、ぜいたくな檜風呂を購入できる世帯数は限られています。

早速、「プロジェクトX」の企画書をその木材業者に送って見てもらいました。すると、先方の社長が一目見て「この森の家は「神社」そのものですね」と言ってくれたそうです。

もちろんOKで、民間業者としては異例の扱いで、神社のご神木として大切に植林されたヒノキ材を好きなだけ卸してもらえることになりました。

つまり、日本版の「森の家」は、伊勢神宮と同じご神木で建てられるわけです。

そもそも、神社のルーツは、縄文時代に大きな岩や樹木を神域として崇めた素朴な自然崇拝です。日本の緑被率(国土に対する森林の割合)が先進国として異例の高さなのも、神社の存在が大きいといわれています。

「プロジェクトX」も、自然との共生がテーマですので、よくよく考えれば「森の家」は神社と同じです。

そう気がついたとき、子供の頃のある「予言」を思い出しました。

私の生家の近くに小さな神社がありました。その神社はある大きな神社の末社なのですが、山岳信仰をルーツとするもので、本社は紀元前90年に崇神天皇の時代に創建されたと伝えられるものです。

5歳くらいまでは、毎日のように神社で遊んでおり、そこの神主さんや巫女さんとずっと遊んでいました。

その神主さんは手塚治虫さんの大ファンで、「火の鳥」の話をよく聞かせてくれました。子供だったのでよく分からないのですが、その神主さんはかなり高い霊能力があったらしく、神社にはたくさんの相談客が訪れていました。

神主さんが相談客の話を聞いている横で、私はまるでその神主さんの子供のように、つかまえたセミをTシャツにいっぱい止まらせたりしながら、じっと話を聞いていたものです。

その神主さんには、5歳くらいのときに、「キミは将来、神社を作る人なんだね」と言われていたのです。

当時は、まったく意味がわかりませんでした。

どうやら、30年以上も経って、その「予言」が成就することになりそうです。

プロジェクトXでは、ほかにも不思議なエピソードが数え切れないほどあります。

しかも、そのすべてが、不思議な偶然やご縁によって、何か目に見えない力が作用しているような感じがします。

日本版の「森の家」の第一号は、関東近郊の山の中に建築する予定です。そして、1つの「森の家」を中心として、周囲に同心円状に3の倍数で緑の「ドームハウス」が設置される予定です。

ドームハウスは多目的な用途なので、いわば民家にもなり、ホールにもなり、レストランにもなり、商店にもなります。「森の家」に近いほど山奥になり、そこから離れるにしたがって市街地となります。

そう考えると、「森の家」は鎮守の森を司る「神社」のような気もしてきます。

最初に「森の家」に入居する人は、もしかすると神主さんのような人かもしれないな、と思う今日このごろです。


追伸:
プロジェクトXは一切宣伝いたしませんが、どうやらご縁のある方が自然に引き寄せられてくるようです。すでにかなり多くの人を巻き込んで、いろいろな方面で静かに動き始めています。プロジェクトの本格始動までカウントダウンが始まった感じがしています。本ブログでは、不定期に進捗状況をご報告したいと思います。

追記:
次回の伊勢神宮の式年遷宮(第62回)は2013年です。したがって、大量のご神木の端切れを卸してもらえるのは2012年までとなります。次回は20年後になるのでちょうどピンポイントの偶然に恵まれた感じです。

日本のアセンション

世界的な不況とは対照的に、日本では昨年後半から国際的な賞の受賞が相次いでいます。

昨年は、ノーベル物理学賞の南部陽一郎先生、小林誠教授、益川敏英教授、そしてノーベル化学賞の下村脩教授と「日本人」が4人受賞となりました(南部先生はアメリカ国籍です)。

最近では、米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」や、短編アニメーション賞を受賞した「つみきのいえ」に注目が集まっています。

そうした中、やや地味なのですが、私はイスラエル最高の文学賞であるエルサレム賞を2月15日に受賞した作家の村上春樹氏(60)に注目していました。

エルサレム賞は1963年に始まり、「社会における個人の自由」に貢献した文学者に隔年で贈られるものです。

過去のエルサレム賞の受賞者には、英国の哲学者バートランド・ラッセル、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘス、チェコの作家ミラン・クンデラ各氏ら、そうそうたるメンバーが並んでいます。欧米言語以外の作家の受賞は村上氏が初めてです。

村上氏は、「エルサレム賞の授賞式に出席することを迷った」と述べています。

それも当然です。

エルサレムのあるイスラエルは、パレスチナ自治区ガザへ攻撃し、1300人以上を殺戮しました。死亡した大半は一般市民で、特に子どもや女性が多かったと伝えられています。

村上氏がそうしたイスラエルの最高賞を受けるのは、日本国内でも賛否両論があったそうです。

村上氏は、迷った末、同賞を受けることを決意し、エルサレムで歴史的な名講演を行ないました。

以下にその全訳が掲載されています。

http://www.47news.jp/47topics/e/93879.php

イスラエルがした行為は人道的には許されない行為です。ですが、村上氏は体制を「壁」にたとえ、個人を「卵」にたとえて次のように述べました。

「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵を思い浮かべた時、どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」

以下、村上氏の言葉を引用します。

私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。

今の世界で起こっていることは、簡単にいえば「古いシステムの崩壊」です。

古いシステムの崩壊の先には、私たち一人ひとりである「卵」(個人の自由な精神=叡智)の復権があり、その先に個人、社会、地球のアセンションがあります。

これについて、村上氏は次のように述べています。

私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。

個人の精神が持つ威厳さを表出させること…イタリアルネサンスの古代の精神の復興のように、個々の一人ひとりが持つ叡智を輝かせることが小説家としての自分の役割だと述べています。

彼もまた、時代のアセンションを加速化させる触媒としての役割を担った一人なのだと思います。

村上氏は続けて次のように述べています。

皆さんにお話ししたいことは一つだけです。私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。

村上氏は「国籍、人種を超越した人間」であるからこそ、あえて非難されることを承知のうえで、ガザ地区を攻撃したエルサレムの授賞式に出席しました。

私はそこに、彼のコトバと行動が高度に一致した自由な精神を見ます。

村上氏は最後に次のような言葉で結んでいます。

このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。「システム」はそういったものではありません。「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。これが、私がお話ししたいすべてです。

実際のところ、すでに「システム」と言われる体制の壁はいたるところで崩壊の兆しが現れています。

それは「資本主義」と呼ばれるバーチャル経済であったり、4次元と呼ばれる想念マトリックス世界であったり、マインドコントロールによって築き上げられた多くの固定観念や思い込みなどです。

古いシステムの殻を脱ぎ捨て、個人の一人ひとりの叡智が輝く新しい社会…それが私がイメージするアセンション後の世界です。

日本のアセンションは、村上氏のように、集団やグループ、体制やシステム、既存の情報や知識に依存せず、自分の頭で考え、自分の心で感じ、自分の意思で行動し、自ら現実を創造していく目覚めた個人からすでに始まっていると感じます。


追伸:
次回は「プロジェクトX」の途中経過のエピソードを紹介します。

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