【日蓮正宗 VS 創価学会専用】
破 折 法 論 館 《U》 全記録
法論テーマ<衆生が主(本)、仏が従(迹)なのか?>
[
前編 ]
平成17年5月30日〜平成17年8月31日
〜蓮盛抄『仏は一切衆生に於て主師親の徳有り』 から〜
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《管理人=やまさん40@山下
(法華講員)》
*当館は、日蓮正宗信徒である一法華講員が個人として管理・運営するサイトです*
*このHPは日蓮正宗総本山及び法華講連合会・所属寺院とは、運営・責任上一切関連はありません*
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*表記について*
・法華講側の投稿者名、法華講側投稿の引用を、 緑文字 で表記
・学会側の投稿者名、学会側投稿の引用を、 緑文字 で表記
・他の宗旨の投稿者、また、信仰不明示の投稿者は、名前と投稿の引用を、紫文字 で表記
・編集時に加えた管理人注記は、(燈文字)で表記
・資料引用は 茶文字 または 網掛け で表記
・相手側の考え方や主張を推論した部分、また、引用資料の要旨や意図を提示した部分は、 灰太文字 で表記
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こんばんわ。日蓮正宗法華講員の、やまさん40です。
私は、[日蓮正宗の教義] と [創価学会の教義] の違いを、
平成4年発行の創価学会版勤行要典で御観念文からどの文言を削除したのか?を分析することによって明らかにすることができると考えています。
現在の創価学会は池田没後の体勢への変動期であり、教義的にも過渡期にあるようです。
例えば、「現在の創価学会の三宝は公式には何なのでしょうか?」と、学会員に問いただしても一貫した回答を得られない現状は、
創価学会が教義上の過渡期にある一つの現象だと推測できます。
更に、創価学会は宗旨の根本である三大秘法が不明であり、戒定慧の三学が備わらず宗教と呼ぶことができない。
宗祖日蓮大聖人様は聖密房御書に[宗教の定義]を述べられています。
曰く『宗と申すは戒定慧の三学を備へたる物なり』と。
「創価学会は何宗なのですか?」
・ ・・創価学会は何宗でもありません。
それは創価学会が宗教とは呼べない存在だからです。
まずは法の正邪を論ずる前に、創価学会が「宗教」であるとするならば、
創価学会の三大秘法<本門の本尊と戒壇と題目>を明らかにして頂きたいと思います。
今夜より開館いたしました。よろしくお願いします。 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 5月30日(月)22時37分32秒
破邪顕正<http://hajyakensyo.hp.infoseek.co.jp/>サイト管理人・鶴太郎様より、新BBS開設にあたり、管理人のご指名を頂きました。
今夜より開館させていただきます。
沖浦様、宜しければ樋田TV-BBSの続きを拙板でやりましょうか? (注*樋田氏は長野・妙相寺所属の法華講員http://toyoda.tv/)
1
・ 創価学会の教義
2・「聖人御難事」に曰く『余は二十七年なり』についての解釈
3・>仏が迹、衆生が本
4・>お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹
のうちから、どれか一つに絞って始めたいと思いますが、いかがでしょうか?
また、皆様のご来館も楽しみにしております。まずは、開館に先立ちまして、投稿@記載のご案内をお読みくださいませ。
どれから始めましょうか? 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 5月30日(月)23時11分10秒
>仏が迹、衆生が本
への反証とする御文
『法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候』(曾谷殿御返事)
>お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹
への反証とする御文
『本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』(就註法華経口伝)
「聖人御難事」に曰く『余は二十七年なり』の解釈は、樋田TV-BBS<http://toyoda.tv/>にて私達の議論の途中でしたね。
3つとも沖浦様が樋田TV-BBSで私に提示したテーマです。それぞれに反証とする御聖訓を挙げさせていただきました。
このBBSでは、まず、どれか一つに絞って始めたいと思いますが、いかがでしょうか?
宜しくお願いいたします 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月30日(月)23時23分7秒
それでは最初に対話の前段として前提に付いて話し合いを始めましょう。
私は全ての宗教は人間のためにあると思っています。
この点はいかがお考えでしょうか?
管理人様 投稿者:蘭太郎 投稿日: 5月30日(月)23時34分47秒
新BBSの開設、おめでとうございます。邪教撲滅に力を合わせて行きましょう。
沖浦さん、此処にて待機しています。申し遅れました。法華講員、蘭太郎と申します。今後とも宜しくお願いいたします。
蘭太郎 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月30日(月)23時56分31秒
>邪教撲滅 ですか。
私とは相当スタンスが違いますね。 それでは宜しくお願いいたします。
ところで管理人さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月30日(月)23時59分25秒
>・創価学会員の方には貴会の永遠の師「世界桂冠詩人」の弟子として
この様な決め付けは当方にとって迷惑でしかありません。決め付けをお止めになら無いのでしたら会話は不可能です。検討くださいませ。
沖浦さん。 投稿者:terry 投稿日: 5月31日(火)00時04分41秒
ようこそいらっしゃいました。思う存分沖浦さんの主張を述べて下さい。
私も此処にて待機しています。茶々は入れませんのでおかまいなく。
この様なテーマは、ご身内だけでおやり下さい。 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)00時08分14秒
>平成4年発行の創価学会版勤行要典で御観念文からどの文言を削除したのか?を分析することによって明らかにすることができると考えています。
あなたがたが真言を唱えようと、念仏に走ろうと別に私はかまいません。
勤行にしても、十座でも二十座でもおやりになって結構です。ご自由におやり下さい。私とは全く別の宗教団体のすることに興味はありません。
ですから創価学会の勤行の内容のご批判はどうぞお仲間でおやり下さい。私はそのようなテーマを、他宗のあなたがたと論じる必要を感ません。
>現在の創価学会の三宝は公式には何なのでしょうか?
これは私共内部での問題ですので、あなたがたが盛り上がる必要はありません。これも身内のみで研究してください。
私の立場です 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)00時13分50秒
創価学会員です。創価学会の公式見解には、全く束縛をされません。私は私、創価学会の見解は見解。以上の立場です。
従いまして、全ての問題で創価学会としての公式な見解をお知りになられたい方は、創価学会の広報等にお問い合わせ下さい。
私は、昭和54年にすでに日蓮正宗は邪教である。との結論に至り、以来宗門との関係を絶っております。当時は創価学会内では異端児でした。現在も私は私です。当方と対話を望まれる方は、この点をくれぐれも前提としてお願いいたします。
最初に明らかにしておきます 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)00時27分11秒
日蓮正宗の御本尊。この様なものは私は一切認めておりません。また法主が認める認めないは貴宗の内部規定に過ぎませんので、
当方はそのような他宗の内部規定には当然束縛をされません。
法主の権限につきましてはそちら様でご自由にご検討くださいませ。たとえば顕師はあなたがたの法主で、私にとりましては無関係の他宗の代表にすぎません。
このあたりは、ソニーの社内規定や社長の権能が、東芝の社員になんら効力を持たないことと同様にお考え下さい。
御本尊は蓮祖御図顕の御本尊のみにお力があります。当然の事ながら、日寛上人の御本尊。なるものも存在いたしませんし、あればそんなものは邪儀です。
寛師書写の蓮祖御図顕の御本尊。これ以外の本尊には興味がありません。ご本尊様は書写したお方がどなたであれ同じお力をお持ちです。
次に創価学会で新たに御本尊を書写せよ。とか、自分で書け。とか、身延の御真筆を拝め等々のご意見は、迷惑ですのでお止め下さい。
創価学会が独自の本尊を立てるべきだ。と、お考えなら創価学会本部に直接ご提案をして下さい。
決してお止めはいたしません。ご自由におやり下さいませ。
それでは最初の設問に戻ります 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)00時29分9秒
それでは最初に対話の前段として前提に付いて話し合いを始めましょう。
私は全ての宗教は人間のためにあると思っています。
この点はいかがお考えでしょうか?
先程は失礼をいたしました 投稿者:やまさん40 投稿日: 5月31日(火)00時39分45秒
先程は樋田TV-BBSへのリンクがエラーとなってしまいまして、投稿・閲覧の皆様には失礼をいたしました。 (注*リンク修正済み)
>全ての宗教は人間のためにあると思っています。
そうですね。四弘誓願の第一にも衆生無辺誓願度とあり、法華経方便品に
『諸仏の本誓願は 我が所行の仏道 普く衆生をして 亦同じく此の道を得せしめんと欲す』
とある通りですね。
また宗祖日蓮大聖人曰く
『所詮四弘誓願の中には衆生無辺誓願度肝要なり。今日蓮等の類は南無妙法蓮華経を以て衆生を度する、是より外には所詮無きなり』(御講聞書)
と。それから、日蓮正宗勤行要典・五座の御観念文に
「乃至法界平等利益 自他倶安同帰寂光」
とある通り、人間のみにとどまらず、全ての有情無常の生命のためのものですね。
本迹 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)00時47分41秒
>人間のみにとどまらず、全ての有情無常の生命のためのものですね。
私と同意見です。
この観点から仏教を捉えれば仏は迹、衆生は本でしょう。
仏は衆生のために出現し衆生ために法を説きます。
このとき仏と説かれる法は手段であり、衆生の救済が目的となります。
簡潔に表現しますと、衆生のための仏。となります。
AのためのBならば,Aは手段,Bは目的。となります。
手段が迹、目的が本。 仏が迹、衆生が本。
簡潔な理論です。これが仏法の大前提です。
世界桂冠詩人の件 投稿者:やまさん40 投稿日: 5月31日(火)00時55分8秒
本題とは少々、横道にそれますが・・・・
創価学会員の皆さんは、池田SGI会長が世界桂冠詩人の称号を頂戴したことを誇りに思っておられるのでしょう?
どうして沖浦様は「迷惑だ」などとおっしゃるのでしょうか?興味本位ですいません。
(注*池田SGI会長は1995年・世界詩歌協会から世界桂冠詩人の称号を贈られた。
公式HP http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/information/ikeda_04.html を参照)
それから
>ご本尊様は書写したお方がどなたであれ同じお力をお持ちです。
御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものであるから、あなたや私が書写したとしても同じ力があると言うことなのでしょうか?
仏法の大前提?? 投稿者:やまさん40 投稿日: 5月31日(火)01時08分23秒
>衆生のための仏。仏が迹、衆生が本。
では
『法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候』
(曾谷殿御返事)
の御文は、どのように読むのでしょうか?
沖浦説では、田んぼが<本>で、種を植えて収穫して食べる人間が<迹>になってしまいますね。
また、「蓮盛抄」に曰く
『夫仏は一切衆生に於て主師親の徳有り』
と。仏は主師親の三徳を具えておられますが、沖浦説では、【衆生が<主>で仏が<従>】と立てられるのでしょうか?
お答えします 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)01時09分54秒
>どうして沖浦様は「迷惑だ」などとおっしゃるのでしょうか?興味本位ですいません。
池田先生が、多くの顕彰をお受けになられている事は、私にとって大変嬉しいことです。ですから、私もたとえ一つでも二つでも世界のトップに上りたいと切望をしております。それで初めて先生の弟子でしょう。先生が顕彰を受けておられる、だから何のとりえも無くとも弟子も偉いのだ。こんな考えは邪道です。ですから
>創価学会員の方には貴会の永遠の師「世界桂冠詩人」の弟子として法の正邪を追究し。
等とはお笑い種でしょう。別にそんなに力むほどの事ですか。馬鹿げています。
>御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものであるから、あなたや私が書写したとしても同じ力があると言うことなのでしょうか?
私は字が下手です。書写は不可能です。あなたが書道に長けておられるなら、ご自分で試せばいいでしょが、別に強制はいたしません。
結論から言えば、どなたが書写しても同じと思います。
お答えします 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)01時29分24秒
御書の文はその時々で表現が事なります。当然反対の表現も多くあります。
たとえば、
『観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」』(種種御振舞御書)
『月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。』(聖人御難事)
以上の二つのご文は正反対のことを述べられておられます。
御書のある部分だけで判断をす事は危険な行為です。全体に流れる蓮祖の法の精神を大前提にして御書を拝さねばなりません。それが依義判文といわれる拝読方法です。
結論から言えば貴方の引用されたご文は蓮祖の精神から拝すれば、当然、仏は迹、衆生は本と拝すべきです。法の精神がご文によって変化する事はありません。一旦仏が迹、衆生が本。と決めれば、それは動かすべき事項ではありません。一切の法の大前提になるべき考え方です。大前提が崩れるならば、単に無秩序な教えでしかありません。
最初のテーマが決まりましたね 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 5月31日(火)01時46分18秒
ではお聞きしましょう。
『仏はうへての如く、衆生は田の如くなり』・・・・・田んぼである我々衆生が<本>で、仏種を植えてくださる仏様が<迹>
『仏は一切衆生に於て主師親の徳有り』・・・・・・・衆生が<主・師・親>で、仏が<従・弟師・親>
との解釈で宜しいのでしょうか?
そうであれば、その根拠とする依文を教えて下さい。
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*ここで最初のテーマを<仏が迹、衆生が本なのか?>としましょう。
他の皆さんから(双方ともに)の投稿もお待ちしておりますのでご参加くださいませ。*
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間違った御書の解釈ですね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)06時19分
三徳は、衆生を化道するために仏が備えているのです。
衆生の化道が本、三徳具備の仏が迹。
明確な事です。貴方が我見を持って、このご文が[仏が本、衆生が迹]の依文と思い込んでいるだけですよ。
学校の先生が、生徒を教えるために教員免許証を持っている。ように、仏は衆生を化道するために、三徳を備えているのです。お百姓さんがお米を収穫するために種を植えれば、その行為に限って言えば、お米の収穫が本(目的)です。これも簡潔な理屈です。
質問いたします 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)06時23分1秒
仏法は人間の為の教えです。
手段である仏は迹、目的である衆生は本。
何処に疑問の余地がありますか?
馬鹿げていますよ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)08時21分20秒
>沖浦説では、衆生が<主>で仏が<従>と立てられるのでしょうか?
私が言うのではありません。人間のために説かれた法でなければ人間には受け入れられない。この簡単な理屈が理解できませんか?
依文でしたね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)08時38分7秒
本来、依文がどうこうというような問題ではありませんが、数多くの中から一つあげておきます。
『法華経に法譬因縁と云う事あり法説の段に至つて諸仏出世の本懐一切衆生成仏の直道と定む、
我のみならず一切衆生直至道場の因縁なりと定め給いしは題目なり、』 (一念三千法門)
仏は民衆の成仏の直道としての法を出世の本懐とし、民衆救済の手段として説く。蓮祖はそれがお題目である。と、明快に仰せです。
出世の本懐自体が民衆の幸福のためにあるわけです。
当然このご文からも、仏の出世の本懐は迹(手段)、衆生の成道が本(目的)です。疑義を挟む余地はありません。
それでは、 投稿者:蘭太郎 投稿日: 5月31日(火)16時40分13秒
管理人さんから待機解除の許しが出ましたので私も参加させて頂きます。
沖浦さん、およそ文字には其所に使われる意味と言うものがあると思うのですが。恐れ入りますが、『発迹顕本』の意味を説明下さいませんか?
あのね蘭太郎さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)17時41分57秒
私が何時貴方に教学を教えると言いましたか?自分でお調べなさい!依頼心が強すぎますよ。
人間のための宗教です、宗教のための人間ではありません 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)17時52分53秒
仏法は人間のために説かれる。大原則です。これを否定するのならば、人間に布教は出来ません。蓮祖は、自ら末法の民衆を幸福にするために出現している。との意味のお言葉を、度々仰せです。
もし、人類が日蓮正宗のために存在している。と、お考えなら、その人はこれで私との対話は打ち切ってください。時間の無駄です。
ん? 投稿者:通りすがり 投稿日: 5月31日(火)18時00分38秒
>ここで最初のテーマを<仏が迹、衆生が本なのか?>としましょう。
諸法実相抄
『されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、
如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、
其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号なり」と判じ給へり、
此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依つて倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、
さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ』
終了 かな?
私もこのテーマは終了したと思います 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)18時05分47秒
次に行きましょうか?
異議はありますか? 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)18時09分15秒
すでに仏が迹、衆生が本。が、世法の上からも仏法の道理からも結論付けられたと思います。
次のテーマはこれですが、異議ががございますか?
>お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹
なァ〜るホド 投稿者:蘭太郎 投稿日: 5月31日(火)20時58分32秒
通りすがりさん、沖浦さんの説にその御文は当てはまりません、尚、冒頭に『妙法蓮華軽こそ本仏』とお示しであります、彼の記述を初めからご覧下さい。
仮の姿を払って本地の身を顕す事を発迹顕本と言うんですよね。日蓮大聖人は龍ノ口の御法難で発迹顕本されましたが、沖浦さんの主張を当てると、
日蓮大聖人は龍ノ口に於いて
久遠名字の本仏の姿を払い、衆生凡夫の本地を顕された。
・・と なりませんか?
文字は深い意味を含みます。言葉よりもね。
蘭太郎さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)21時32分33秒
相当幼稚な理論ですね。蓮祖が本地を明かされようと、明かされまいと、蓮祖は蓮祖です。釈迦が菩提樹の下で明星が光るのを見て悟りを開いたあとでも先でも、釈迦は釈迦です。
貴方の理論は、仏と衆生の本迹とは関係を持ちません。他の話題を、他の方とおやりなさい。
>久遠名字の本仏の姿を払い、衆生凡夫の本地を顕す。
私は一度もこの様なことは書き込んでおりません。発言をしていない事を私の説。などとデマ宣伝しないように。非常に迷惑です。決めつけがご趣味ならば、ご身内とおやりなさい。お気の毒なので一度だけ解説をしてあげます。
蓮祖は龍ノ口で迹をはらい、本を顕されました。(と言うことになっていますね)迹のお姿であれ、本のお姿であれ、民衆の救済を目的とされるのですから、目的である民衆の救済が本、お立場は迹です。蓮祖が迹、衆生が本。これには何の影響もありません。発迹顕本されるされないとは無関係です。
蓮祖お一人のお立場を本迹で論じるならば、発迹顕本以前が迹、以後が本ですが、これはあくまでも蓮祖ご自身のお立場に於ける本迹の立て分けです。衆生と仏の関係における本迹の立て分けとは無関係な事項です。
貴方が学校の先生を目指し、試験に合格し教員になったとします。教員として教壇に立つ貴方は本、教育者となるべく勉強をしている姿が迹。です。しかし教育を主体とし考えれば、生徒はあなた自身のの本迹とは無関係に常に本です。なぜならば、教育とは常に誰かに何かを教える行為だからです。教える側は迹(手段)教わる側が本(目的)です。教師の資格の有無に関わらずこの関係は同じです。
少しレベルを上げて再度書き込んでください。今の貴方には私との論議は無理だと存じます。これにてこの話題を貴方と論議する事は終了させて頂きます。 また次の話題でお相手をいたします。ご苦労様でした。
あらゆる事に 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)21時43分19秒
それぞれの本迹、勝劣があるのですよ。
『又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。』(百六箇抄)
次のテーマです 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)21時54分13秒
蘭太郎 さんの引用を拝借いたします。
蘭太郎 さんもこのテーマでご意見があればどうぞ。
但し勝手な決め付けはいけませんよ。
>尚、冒頭に『妙法蓮華軽こそ本仏』とお示しであります
諸法実相抄のご文ですね。
ここで蓮祖は御本尊の相貌を述べられ御自分以外には書き顕した人はいない。と明言されておられます。そして
妙法蓮華経の法こそが本であり、相貌を説明されている御本尊が迹。
とおのべです。
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 5月31日(火)22時29分19秒
少し先に進んでしまいましましたが、前のテーマで新しいご意見がおありでしたら、どうぞお書き込みくださいませ。お待ちいたします。
おはようございます 投稿者:蘭太郎 投稿日: 6月 1日(水)10時29分41秒
学会員の沖浦さんが 衆生を本としたいのは解りますがね、単に 【仏が迹・衆生が本】とするなら、仏の存在意義が無くなります。仏に勝る衆生であれば仏様など要らない、創価学会も日蓮正宗も不必要となります。
そうじゃ無いでしょう、迷いの衆生を救済する為に仏様が出現され法を説き その正義を信受実践する所に衆生の成仏得道が在るのです。その正義在る処こそ
我が日蓮正宗只一つであります。言わずとも本迹の次第は明らかです。
今日から暫く出張ですが、またの機会に宜しく。これにて 一件落着。
蘭太郎さん いい加減にしなさい 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 1日(水)17時23分5秒
>学会員の沖浦さんが 衆生を本としたいのは解りますがね、
決め付けはやめる事。最初に言っております。私ではなく蓮祖の仰せです。 蓮祖に従えないのなら念仏でも唱えなさい。
今度この様な愚論を撒き散らすのであれば、相手にしませんのでそのつもりで。貴方の思い込みなどはどうでもよろしい。
>迷いの衆生を救済する為に仏様が出現され法を説き
・「迷いの衆生の救済」 が目的(本)
・「仏様が出現され」 が手段(迹)
簡潔な道理です。
貴方はどうして同じ事を何度も言わせるのですか。理解能力が無いのなら私にレスをつけないこと。レベルを上げて出直しなさい。
この問題はすでに終わっています。この件でのレスはご自分のお仲間とどうぞ。
必ず 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 1日(水)17時28分40秒
>その正義在る処こそ 我が日蓮正宗只一つであります。
御書を引いて証明しなさい。
管理人様 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 1日(水)17時31分56秒
いまだ開設より三日しかたたないのですが、すでにルールを守れない人がおられます。
蘭太郎氏をご指導下さい。個人的な思い込みを押し付けられる事は迷惑でしかありません。善処をお願いいたします。
沖浦克治拝
ちゃんと読もう 投稿者:通りすがり 投稿日: 6月 1日(水)17時37分17秒
そこに書いてあるのになぜ目に入らないのでしょうね
>単に 仏が迹衆生が本 とするなら、仏の存在意義が無くなります。仏に勝る衆生であれば仏様など要らない
『然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依つて倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ』
依文は分かるでしょうから示しませんが、大聖人は曇った鏡をきれいにするにはこうやって磨けばいいよと教えてくださった。磨き方を教えてくれた存在(または磨く手段が)主か、鏡が主か、どちらなのでしょうね。
ちなみに続き
『さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり諸法は妙法蓮華経と云う事なり、
地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、
万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり』
かの愚人は 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 1日(水)17時38分19秒
本迹と、勝劣を同一視の孤儀を唱えております。
>単に 仏が迹衆生が本 とするなら、仏の存在意義が無くなります。仏に勝る衆生であれば仏様など要らない、
私は一度も衆生が仏に優れるから本。などとは発言をしておりません。これは彼の孤儀です。この様な低劣な理屈を押付けられる事は迷惑この上ありません。厳重に抗議をいたします。
己義でなく孤儀です 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 1日(水)17時53分17秒
孤儀〜孤独で狐のような邪儀
沖浦氏へ。 投稿者:terry 投稿日: 6月 1日(水)18時07分1秒
貴殿はここで対論をしているのだから、樋田氏に要らぬ誹謗中傷等を投げかけるものではない。およそ自己のルールでしか試合が出来ない者が、他人をどうのこうの言うものではない。あまりの貴殿の自己中心的な考えには辟易する。今後気をつけられよ。
(注*沖浦氏が樋田氏に対する個人中傷をBBShttp://toyoda.tv/に繰り返し書き込んでいたことを指摘したもの)
terry 氏 ここでのご意見はここで 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 1日(水)19時02分46秒
あちらでのご意見はあちらでお願いをいたします。私はあの管理人(樋田昌志)なるものを心の底から軽蔑いたしております。自らの生活のために法論を挑み,DVDにして販売をし金銭を得るような卑劣漢を軽蔑するに、何の遠慮が要りましょうか。が、ここはそのような彼の低劣極まりない人格に付いて討論をする場所ではありません。あのような卑劣漢について論じる場所は、それなりのところが適当かと存じます。
貴方があの、大馬鹿者の低劣極まりない卑劣な軟弱金儲け一途人間。に関し、私と義論をお望みであれば、その件につきましてのみ、あちらの板にてお話をするとには異存がありません。
この続きはあちらの掲示板でいたしましょう。
terry 氏 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 1日(水)19時06分6秒
>あまりの貴殿の自己中心的な考えには辟易する。今後気をつけられよ。
いらざるおせっかいです。この様な決め付けはご身内でおやりなさいませ。
terry 氏 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 1日(水)19時09分9秒
早速あちらに書き込みましたのでどうぞ。
管理人様 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 1日(水)21時08分39秒
私の6月 1日(水)19時02分46秒 の書き込みが、この掲示場に支障がある場合は削除くださいませ。
沖浦様へ。 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月 2日(木)00時05分50秒
樋田氏は法論DVDを生計の足しになどなさらずとも、自行化他の信心の大功徳によって、善知識の眷属にも恵まれ、物心ともに悠々自適の生活を満喫されておりますので、生活のご心配には及びません。DVDの売り上げは主に、御供養やREAL折伏(⇔VIRTUAL)の交通費などの一部に使われていると推察しております。
『日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。』
と。私は約20年前に樋田氏らの折伏により入信した経緯があり、樋田氏の学会当時の生活と現在の生活の両方を、この2つの目で見て知っています。
人には一人ひとりに様々な宿業や因縁があるものですが、私もいつか境界を開いて自由に護法の為に飛び回れる生活が出来ることを念願して精進している次第です。樋田氏個人に関する見解は、ここまでで終了いたしましょう。
*ところで、私と沖浦さんと欄太郎さん以外の投稿者の方は、まだご自身の宗旨を記入されていませんね。
投稿@の注意事項を再読して下さいませ。*
少し整理しますね 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月 2日(木)00時14分沖浦説の「仏が迹、衆生が本」とは、
「三毒強盛の荒凡夫である衆生が本」「衆生が主で、仏が従」という意味ではなく、丁寧に言うと、
「衆生の化導が本、三徳具備の仏が迹」という意味でしたか?
読み違いをしておりました。失礼いたしました。
いいえ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 2日(木)00時47分48秒
>衆生が主で、仏が従
紛れも無くその通りです。
はい 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 2日(木)00時49分12秒
>樋田氏個人に関する見解は、ここまでで終了いたしましょう。
それで結構です。私もあのような愚人の話をここでする必要は感じません。
諸法実相抄の御文について 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月 2日(木)01時36分54秒
通りすがりさん のあげられた、諸法実相抄の『凡夫』とは?
御義口伝に曰く
『末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。法とは題目なり。僧とは我等行者なり。仏共云はれ、又は凡夫僧共云はるゝなり』
また顕仏未来記に曰く
『日蓮は名字の凡夫なり』
これらの御文にかかってくるのです。
同じ御義口伝に
『三十二相八十種好を具足せず、是繕はざるなり。本有常住の仏なれば本の儘なり。』
と仰せのように、本有無作三身の大聖人様が、釈尊の色相荘厳の仏と相対されて仰せになっている『凡夫』の意ですね。
したがって、『返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』
また、『此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』の御文は
[本仏とは日蓮であり、迹仏は釈尊である]の意であり、[本仏は救済される側の凡夫、迹仏は衆生を利益する側の仏]との文ではございません。
衆生が主で、仏が従ですか? 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月 2日(木)01時47分2秒
>衆生が主で、仏が従。紛れも無くその通りです。
それでは、『夫仏は一切衆生に於て主師親の徳有り』(蓮盛抄)
『仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり』(法門申さるべき様の事)
衆生が主で仏が従ならば、この御文をどう解釈されるのでしょうか?
主従と三徳 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 2日(木)07時31分2秒
主、従とはあくまで手段、目的の立て分けです。上下の関係ではありません。 さきに申しました通り、仏は三徳を備えております。
それは衆生の化導に必要だからです。教師が教員免許を所有する事と同意でしょう。
生徒がいなければ先生は不必要ですね。先生になるためには、生徒の存在が絶対条件です。衆生がいなければ仏は絶対に出現されません。
仏が存在するために、衆生は決して欠かせないのです。衆生がいないところに、どのようなな仏が出ても何のいみもありません。法を広める対象がいないからです。
ところが、衆生はほとけがいなくてもいくらでも出現します。衆生の存在に仏は絶対条件ではないのです。
立ち場から言えば、衆生の存在あっての仏。です。
衆生が主、仏が従。そしてその時、民衆救済のために、仏は三徳を備えなければ資格が無いのです。ご理解できましたでしょうか?
諸法実相抄の御文について 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 2日(木)07時33分
蓮祖は、以上の私の書き込みを、あの部分でお述べになられているとも拝せると思います。
自己紹介がまだでしたね。 投稿者:terry 投稿日: 6月 2日(木)17時14分52秒
これは失礼を致しました。当BBSの管理補を勤めさせて頂いておりますterryです。私は日蓮正宗法華講に所属させて頂いております。
一幅でも多くの「大魔性プリントぺらぺら勝手に模刻改竄ニセ本尊」を学会員に捨てさせる為に、日々活動をさせて頂いております。よろしくお見知りおきをお願いする次第です。
管理人様 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 2日(木)18時25分32秒
>一幅でも多くの「大魔性プリントぺらぺら勝手に模刻改竄ニセ本尊」を学会員に捨てさせる為に日々活動をさせて頂いております。
この様な悪意にあふれる決め付けを平気でするのであれば、私はここでの対話を打ち切ります。
創価学会員が真面目にお題目を唱える御本尊様を誹謗するのでしたら、御書を引いて自説を証明すべきです。
泥仕合は向こうの板でいくらでもお相手をいたします。少し人間としての礼節をわきまえねばなりません。
terry氏 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 2日(木)18時29分2秒
泥仕合はあちらでやりましょう。望むところです。ここでは礼節を重んじてください。
日蓮は今此三界の主なり 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月 2日(木)19時46分
開目抄に曰く
『 夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。』
と。主従・師弟・親子は元来、上下の関係であり、手段・目的の立て分けとは別の問題です。世間にも「主なくして栄えることなし。師なくして学ぶことなし。親なくして生るることなし。」と申します。
大聖人様は御自らが一切衆生の<主>であり<師>であり<親>であることを
『日蓮天上天下一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり。』
『日蓮は今此三界の主なり。』(産湯相承事)
とお示しあそばされております。
>衆生はほとけがいなくてもいくらでも出現します。衆生の存在に仏は絶対条件ではないのです。
立ち場から言えば、衆生の存在あっての仏。です。衆生が主、仏が従。
ということでしたが、これを私どもの立場から言い替えましょう。
衆生は仏に出逢わなくても六道輪廻を繰り返しながら生死を繰り返しますが、衆生の成仏には仏様に逢い、信じ奉り、仏種を植えていただくことが絶対条件であります。衆生は仏様に逢わずして成仏を遂げることはできません。仏様あってこその衆生の成仏です。仏が主・師・親、衆生が従・弟子・仏子。
『濁悪の衆生、此の大士に遇って仏種を殖うること、例せば水精の月に向かって水を生じ、孔雀の雷の声を聞いて懐妊するが如し。
天台云はく「猶百川の海に潮すべきが如し。縁に牽かれて応生するも亦復是くの如し」云云』 (曾谷入道殿許御書)
そうですよ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 2日(木)20時05分29秒
その通りです。私も何時も同じことを言っていますよ。仏は三徳を備え衆生を救済する。その通りです。仏は衆生の救済が目的で出現します。
目的が本、手段が迹。何の問題もありません。
つまり 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 2日(木)20時06分43秒
仏が衆生のために存在し、衆生は仏のために存在しない。簡単でしょう。
説明をしますね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 2日(木)23時24分47秒
>衆生の成仏には仏様に逢い、信じ奉り、仏種を植えていただくことが絶対条件であります。
そうではありませんよ。仏種は衆生に本来備わっているのです。釈迦仏法までは仏に下種をされると説かれていました。蓮祖の法は違います。一切衆生は、宇宙の始まり(久遠元初)ですでに下種を受けているのです。
>衆生は仏様に逢わずして成仏を遂げることはできません。仏様あってこその衆生の成仏です。仏が主・師・親、衆生が従・弟子・仏子。
仏と衆生を上下関係で捉えてはいけません。両者は平等ですよ。
宗教の堕落は 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 3日(金)00時18分34秒
宗教者の堕落は聖職者を置くところから始まります。
仏が衆生の主人であり、民衆の上位に立つ。との考えは、民衆と仏の間に立つ僧侶を特権階級に容易にしてしまう危険性があるのです。
たとえば他の掲示板での法華講の方の書き込みに >ある御能化様のお言葉 というものがありました。御能化様、ご住職様、このような言葉使いを容認すること自体、すでに日蓮正宗の僧侶が特権階級化している事実を物語っています。
蓮祖は明確に、仏法は民衆のためにあると仰せです。現在の宗門はこの蓮祖の精神に違背しております。仏法は民衆のためにあるのです、民衆が日蓮正宗のために存在するのではありません。仏ですら、民衆のために出現する。と、仏法は説いております。法主や能化が信徒の上位に位置する。との考えは邪道でしかありません。僧は信徒に仕えてこその僧侶です。
私は、創価学会にあっても幹部が特権化しないように、この点を強調していかなければならないと思っております。
大地は厚けれども不孝の者をば載せず 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月 3日(金)01時42分11秒
『夫以れば持戒は父母・師僧・国王・主君・一切衆生・三宝の恩を報ぜんが為なり。父母は養育の恩深し。一切衆生は互ひに相助くる恩重し。
国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり。此に依って善を修すれば恩重し。主君も亦彼の恩を蒙りて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養ふ。
設ひ爾らずと雖も一身を顧みる等の恩是重し。師は亦邪道を閉じ正道に趣かしむる等の恩是深し。仏恩は言ふに及ばず。』(十法界明因果抄)
と。残念ながら沖浦様の説は「主人と所従」「師匠と弟子」「親と子」の関係に転倒した不知恩の悪義、傍若無人の説であります。撰時抄に曰く
『大海は広けれども死骸をとゞめず。大地は厚けれども不孝の者をば載せず。』
と。沖浦様が久遠下種を誤解して平等の偏にとらわれ、ご本尊様を「唱題の的として題目を書いたもの」としか拝せない原因が判ってきました。
行き着く先は「未得謂得未証謂証」の慢心から「一代聖教は月を指す指なり」の魔説外道義に陥る堕地獄の道であります。
開目抄の冒頭に
『夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり。
儒家には三皇・五帝・三王、此等を天尊と号す。諸臣の頭目、万民の橋梁なり。三皇已前は父をしらず、人皆禽獣に同ず。
五帝已後は父母を弁へて孝をいたす。』
とあります。大聖人様が<人本尊開顕の書>の冒頭で、このように仰せになられている御意(みこころ)を考えたことがありますか?
やまさん40 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 3日(金)01時53分58秒
決め付けはいけません。どうも貴方方法華講の癖のようですな。
蓮祖は間違いなく末法のご本仏です。その蓮祖自らがしばしば仰せです。仏は衆生のために出現すると。貴方は御本仏を不知恩と決め付けるのですか? おかしいではありませんか。仏法は民衆の為ではなかったのですか?それとも貴方にとって人間は日蓮正宗のために存在するのですか。
すでに御書を引き、世間の道理を引用し仏が迹、衆生が本を証明いたしました。現在の貴方のご主張は御書を断片的に解釈した我見にすぎません。何のために、誰のために、仏法が存在するのか?今一度お考えになるべきでしょう。
追伸:私が一度でも三徳を否定したことがありますか?又私が一度でも蓮祖興師を批判したことがありますか?私が不知恩な書き込みをしましたか?
私が一度でもご本尊様を軽んじましたか?貴方は少なからずおかしいですよ。
貴方の感情論を押し付けないで下さい 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 3日(金)02時09分16秒
>沖浦様が久遠下種を誤解して平等の偏にとらわれ、
本当に平等がいけないと思うのでしたら、蓮祖門下を辞める以外にはないでしょう。
>ご本尊様を「唱題の的として題目を書いたもの」としか拝せない原因が判ってきました。
そんなことは言っていませんよ。決め付けが多すぎますね。ここは決め付けの掲示板ですか?対話の掲示板ですか?はっきりしてください。
御本尊様は祈りの目標です。蓮祖の仮のお姿ですよ。私は自分の命と思って大切にしております。貴方の勝手な理屈を私に押し付けないで下さい。
御本尊を御安置すると言う事は、蓮祖が其処に端座しておられる事なのです。 故に蓮祖は『魂を墨に染め流して書きてそうろう』(趣意)と仰せなのです。この程度は理解をしてからレスをお願いいたします。安っぽい貴方の感情論はご無用に願います。貴方が蓮祖の仰せを信じず、理解が出来ないなら、蓮祖の法について語るべきではありません。
蓮祖は全人類のために法を説かれたのです。動かしがたい事実ですよ。人類が日蓮正宗のために存在する。と、お思いなら、貴方は仏法者ではありません。 情けない限りです。蓮祖ですら自らを衆生のために法を説く。と、しばしば仰せです。少し蓮祖のご精神を学ばれるべきでしょう。
世の中にはね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 3日(金)02時14分33秒
絶対なものが二つだけあるのですよ。御書と御本尊様です。これぐらいはわきまえてくださいね。
残念ながら・・・ 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月 3日(金)02時15分35秒
>すでに御書を引き、世間の道理を引用し仏が迹、衆生が本を証明いたしました。
残念ながら証明になっていません。
また沖浦様の説明は「諸従のための主人」「弟子のための師匠」「子供のための親」という世間の道理にも適っていない、身勝手な思想、下克上の基となるものです。
>仏と衆生を上下関係で捉えてはいけません。両者は平等ですよ。
平等面のみに偏ってとらわれ、<主・師・親たる大聖人様>に対する<信者・仏弟子・仏子>という信心がないからこのような言葉が出るのです。これが既に慢心のあらわれなのです。
『南無と申すは敬ふ心なり、随ふ心なり。』(内房女房御返事)
皆様方に質問をいたします。 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 3日(金)06時29分11秒
管理人殿、宜しくお取り計らいをお願いいたします。
仏法は衆生のために説かれる。故に創価学会は会員のためにある。創価学会では、私の入会以来44年間一貫してこの様な指導が貫かれております。
それでは皆様方に質問をいたします。
法華講の皆様方は、仏法が衆生のためにあるのか、又は衆生が仏法のためにあるのか。どちらだとお考えですか?
日蓮正宗としての公式見解ではなくても結構です。
やまさん40さん 貴方はまちがっていますよ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 3日(金)06時54分13秒
>世間の道理にも適っていない、身勝手な思想、下克上の基となるものです。
世間は下克上が基本原則です。下克上とは言い換えると、弱肉強食と、言う事です。全ての生命は、弱肉強食。の上に成り立っています。
貴方は何を食べていますか?野菜、魚、肉、お米、これらは全て私達以外の生命体です。貴方の生活自体が、弱肉強食ではありませんか。自らが生活の基盤である食を下克上(弱肉強食)に頼り、弱肉強食を否定する。間違った理論です。
蓮祖は『有情は食によって住す』(趣意)と、全ての命は食によって生きていると仰せです。あなた自身が弱肉強食で命をながらえながら、他人の意見を下克上だからよくない。と、否定される事は大きな間違いでしょう。世の中は下克上です。弱ければ生きてはいけません。蓮祖門下は強くなる責務があるのです。弱ければ世界広布などは夢の夢です。御書は、弟子に強くなれ、強くなれ。と、いい励ます蓮祖のお姿で溢れんばかりです。
私ども蓮祖門下は、この御本仏のお振る舞いに人間として共感を持たねばなりません。蓮祖の卓越した人間性と、その民衆救済のため,自らのお命をも惜しまないお振る舞いに共感し、それぞれの立場で世界広布を目指す事が蓮祖門下の唯一の資格でしょう。
世間が下克上である以上、我々もそのルールに従って生き、そのルールで布教をせねばなりません。
『智者とは世間の法より外に仏法を行ぜづ』(趣意)
下克上。蓮祖門下として、望むところです。
時代は人間中心主義です 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 3日(金)07時50分
人を敬うとか、尊敬の念の土壌には、平等主義が不可欠です。封建的に上下関係が決まっている縦社会では、他者に対する尊敬の念や感謝の心は育ちにくいのです。蓮祖の世界一である凄さは、あの封建主義の真っ只中で、人類は平等である事を宣言された唯一のお方である事からも理解が出来ます。
蓮祖以来700年間続いた身分社会は、太平洋戦争の敗戦とともに終了をいたしました。日本に民主主義が発生するや否や創価学会が見る見る布教を開始し、あっという間に現在世界中の190の国、地域に広がる大発展を見たのです。蓮祖の法が民主主義に最もなじむ現実の証拠です。
『仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり、』(新尼御前御返事)
もし、創価学会の幹部や日蓮正宗の僧侶が自らの位を持って信徒や会員を従えようとするならば、すでにその人は蓮祖の法から違背をしております。
創価学会では、私のように創価学会の公式見解に束縛をされず、あらゆるところにあらゆる意見を述べることが可能です。私は選挙活動はやりませんし、聖教新聞の推進も致しません。が、そのことで創価学会内部でなんら不利益を蒙ってはおりません。
現実に創価学会では、十月十二日は大御本尊様御図顕の日。と、捉え、各地の会館で記念の会合がもたれております。然しながら私は、この日に戒壇様が御図顕なされた事に疑問を持っており、参加はいたしませんし、組織にもその旨を伝えてありますが、一度として創価学会より注意を受けた事はありません。
かくのごとく創価学会は大変開かれている自由な組織です。貴方がた法華講では、この点如何ですか?もし貴方方のどなたかが、戒壇本尊御図顕に関して疑義があるのでお寺での会合に参加を拒否しても問題はないのですか?
ネットで法華講の方々と接し始めてから、私は日蓮正宗はかってのマルキシズムと重複して感じるのです。法主絶対主義、能化には従え、信徒は自由に法を論じるな、ご住職様にご指導を受けよ。これらの何処に蓮祖の平等思想が脈付いていますか?私には権威主義の塊に見えます。
再度お伺いいたします。あなたがた法華講の皆様方には、私のように戒壇の御本尊様の真偽を含めて、皆様方の間で自由に議論が出来るのでしょうか?
(注*創価学会の年間主要行事計画には平成19年度も 〜「大御本尊御図顕の日」の意義をとどめ、勤行会を開催する。(10月12日)〜 とされている。
公式HP http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/information/event.html を参照)
本従たがへずして成仏せしめ給ふべし 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月 3日(金)20時58分18秒
>法華講の皆様方は、仏法が衆生のためにあるのか、又は衆生が仏法のためにあるのか。どちらだとお考えですか?
私は「仏様は一切衆生救済の為に仏法をお説きになられた。仏法を信じ修行する衆生にとっては、仏様に対して<教主>であり<師匠>であり<父母>の三徳をこうむりし大恩がある。したがって、仏様によって救われた衆生が仏恩を報ずるのは当然である。」と考えています。
仏が師匠であり、衆生が弟子であることには、沖浦様にも異論がないと思いますが、[衆生が本、仏が従である]との主張の上からは、宗祖日蓮大聖人様が曾谷殿御返事の御教示の
『経に云はく「在々諸仏の土に常に師と倶に生ぜん」と。又云はく若し法師に親近せば速やかに菩薩の道を得、是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」と。釈に云はく「本此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」と。又云はく「初め此の仏菩薩に従ひて結縁し、還此の仏菩薩に於て成就す」云云。
返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』
との御文を、どう解釈なされるのでしょうか?
お知らせ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月 3日(金)21時08分19秒
*法華講員の皆さんに、創価学会員・沖浦様からの質問です。*
>法華講の皆様方は、仏法が衆生のためにあるのか、又は衆生が仏法のためにあるのか。どちらだとお考えですか?
日蓮正宗としての公式見解ではなくても結構です。
との質問がありましたので、宜しければご返答をお願いします。*
(なお、沖浦氏はHNではなく実名投稿なので「様」と敬称させていただいております)
『人間主義』 投稿者:突撃男 投稿日: 6月 3日(金)21時12分22秒
破邪鉄槌
創価学会の『人間主義』の正体は?
創価学会で言う「人間主義」について考察する。この「人間主義」という言葉は抽象的で、その意味が判りづらいが、人間の生命や人格性・創造力など、人間性に根ざしたあらゆる価値を尊重するような意味合いを感じ、耳に触れる語感も心地よい。とはいえ、一般的な意味合いはともかく、実際に池田大作らが、いかなる意図をもって「人間主義」なる書葉を使用しているかが問題であり、それを検証しなければならない。
<創価学会至上主義>
前回、凡夫本仏論という新たな教義の上に、池田大作の教祖としての絶対的立場を築かんとしていることを紹介したが、創価学会が『池田大作絶対主義』であることは衆目の一致するところである。たとえ自らの「規則」や「会則」で会長の権限を高らかに謳おうとも、すべてが大作の手のひらの上にあることは、社会周知の事実と言える。
さらに、もう一つの特徴として『創価学会至上主義』とも言うべき、危険きわまる思想を持つことが挙げられる。本当に書いてあるのかどうか真偽のほどは疑わしいが、既に昭和32年7月の日記に、「学会は強い。学会は正しい。学会こそ、美しき団体哉」(平成14年7月17日付聖教新聞の社説)と書き記したという池田大作は、かつて、「2001年5月3日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい(中略)宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい」(平成6年9月2日付聖教新聞)と述べて会員を煽動したことがある。憎悪の念を植えつけるだけでなく、反学会・反池田を唱える者に対しては、人間としての尊厳をも認めないという、非人道的な体質をあらわにした発言と言えよう。
もっとも、このような悪指導は日常茶飯事で、聖教新聞の各紙面にごろごろしている。したがって、わざわざ挙げる価値もないところではあるが、大作はこのような悪言を繰り返し述べて、判断力のない無智な会員を洗脳しているのである。
<「人間」とは学会員だけ?>
実際、数を頼んで日蓮正宗の寺院や法華講員宅に押し掛けては恫喝を繰り返してきたことや、機関紙などで連日のように誹謗の限りを尽くしている現実を見れば、池田大作らの言う「人間主義」が、ただの見せかけに過ぎず、創価学会至上主義を意味することが容易に見抜けるところである。
つまり、大作らの言う「人間主義」とは、人間という言葉を使いつつも、けっしてすべての人間を指すのではなく、あくまで創価学会員だけを人間とするのであり、自分たちの思想や意見に従わない者は人間として見なさないのである。
<組織拡大の「旗印」>
しかし創価学会は、そうした「池田大作絶対主義」・「創価学会至上主義」体質を、なるべく世間にさとられないようにしながら、平和運動や文化連動なるものを機軸として、さらなる組織拡大を図っている。その旗印として「人間主義」という、いかにも耳に聞こえのいい言葉を多用し、危険性のない、善良なイメージを演出しているのである。
<学会の本質を糾明していこう!>
創価学会の言う「人間主義」は、法義的には凡夫本仏論を立てて戒壇の大御本尊と血脈相伝の仏法を否定するものであり、布教的には破邪顕正の折伏精神を忘れて振興の政治団体と化したことを象徴するものである。
我らは「人間主義」の美名に隠れた、創価学会と池田大作の本質を断固として糾明し、徹底した破折を加えていかなければならない。
〜大白法 平成14年8月1日号より〜
仏法が衆生のためにあるのか 投稿者:突撃男 投稿日: 6月 3日(金)21時34分
>法華講の皆様方は、仏法が衆生のためにあるのか、又は衆生が仏法のためにあるのか。
衆生のためだろう(笑)
>蓮祖の世界一である凄さは、あの封建主義の真っ只中で、人類は平等である事を宣言された唯一のお方である事からも理解が出来ます。
平等?? 御書のどこに書いてあるの?(笑)九界の衆生である我らと仏界とは平等ではない。平等とは、正法を正しく信仰して仏様から受ける功徳は平等である。即ち謗法の者と正法を御持する者とは差別はある。平等とは民主主義者や共産主義や外道の永遠のテーマだろう。(笑)
破折(笑) 投稿者:突撃男 投稿日: 6月 3日(金)21時38分42秒
>法主絶対主義、能化には従え、信徒は自由に法を論じるな、ご住職様にご指導を受けよ。
以前、貴殿は法太郎氏に破折されなかったか。学会の言う「僧俗師弟義」の批判だろう(笑)
「僧俗師弟義」は、宗祖日蓮大聖人以来の宗是であって、何ら今日の宗門で作り上げたものではない。まず、僧俗の関係について、日蓮大聖人は次のように御教示されている。
『よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。よき師とは、指したる世間の失無くして、聊のへつらふことなく、少欲知足にして慈悲あらん僧の、経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をぱ、仏は一切の僧の中に吉き第一の法師なりと讃められたり。吉き檀那とは、貴人にもよらず賎人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用ひずして、一切経の中に法華経を持たん人をぱ、一切の人の中に吉き人なりと仏は説き給へり。』(法華初心成仏抄・平成新編御書1314頁)
つまり、僧侶は師であり、信徒は檀那であることを示されているのである。
次に、この両者の関係はどうあるべきか、といえば、
『況んや我等衆生少分の法門を心得たりとも、信心なくは仏にならんことおばつかなし。末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。今は仏ましまきず、解悟の智識を仏と敬ふべし、争でか徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是正しく経文なり』(新池御書・同1461頁)
と、「師」たる僧侶を尊敬申し上げ、その教導を受けてこそ、仏道を成就できる旨を御教示されている。この御教示は、御僧侶と信徒の間に師弟関係があることを、明確に示すものではないか。そもそも、大聖人の御書中には、
『此の法華経をば学乗房に常に開かさせ給ふべし』(一谷入道女房御書・同830頁)
『日蓮がこいしくをはせん時は学乗房によませて御ちゃうもんあるべし』(千日尼御前御返事・同1253頁)
『覚乗房はわき房に度々よませてきこしめせ、きこしめせ」(高橋入道殿御返事・同891頁)
『委しくは此の御房に均し合めて候』(上野殿御書・同902頁)
『返す返すははき殿読み聞かせまいらせ給へ』(南条殿御返事・同954頁)
『又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給ひては、此の御房にあづけさせ給ひてつねに御聴聞候へ』(報恩抄送文・同1038頁)
『さてはえち後房・しもつけ房と申す僧を、いよどのにつけて候ぞ。しばらくふびんにあたらせ給へと、とき殿には申させ給へ。(中略)いよ房は学生になりて候ぞ。つねに法門きかせ給ひ候へ』(富城入道殿御返事・同1429頁)
『此の僧によませまひらせて聴聞あるべし。此の僧を解悟の智識と愚(たの)み給ひてつねに法門御たづね候べし。聞かずんば争でか迷闇(めいあん)の雲を払はん。足なくして争でか千里の道を行かんや。返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし』(新池御書・同1461頁)
『又をもいわするゝ事もやと、いよ房に申しつけて候ぞ。たのもしとをぼしめせ』(富木殿御返事・同1578頁)
等々とあって、在俗の信徒に対し、大聖人の御弟子である御僧侶を師として、正しい法門の研讃(けんさん)や信行に励むよう、仰せられているのである。
されば、「僧俗師弟義」は、日蓮大聖人以来、まったく変わることのない、日蓮正宗僧俗の関係であることが明らかであろう。また、見落としてはならないのが、この師弟義を「僧侶による信徒支配を正当化するための論理」とする創価学会の意図的なスリカエである。「僧俗師弟義」は仏法を信仰する上での守るべき筋道であって、世法上の支配関係などではない。
この筋道を守るところに、僧俗・師弟共に、祈りが成就し、即身成仏の大功徳を得ることができるのである。
(注*法太郎氏は札幌・日正寺所属の法華講員 HP風塵舎 http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/index2.html/ )
投稿ありがとうございます 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月 3日(金)21時41分40秒
突撃男さん、早速の投稿ありがとうございます。
ところで、当館では1stコンタクトにて皆様の宗旨を記入していただいております。投稿@の注意事項を再読して下さいませ。
突撃男 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 3日(金)21時44分56秒
>大白法より
ご自分のお言葉で書き込みをすべきでしょう。これではご自分の向上には結びつきません。自らが御書を学び、世間に広く知識を求め、研鑽にいそしみ、さらにそれらを実生活に生かして実験証明をして、はじめて御書も教学も自分の血肉となるのです。組織や宗門発表の受け売りでは何にもなりませんよ。
私は貴方と対話を行うにやぶさかではありませんが、現在の硬直した原理主義のままでは、貴方との対話は何も生まないでしょう。ご一考くださいませ。
自分の宗旨 投稿者:突撃男 投稿日: 6月 3日(金)21時49分29秒
筋金入りの法華講員であり親父は元バリバリの戸田門下生だ!
沖浦克治さんよ、そんなの勝手だろう!思ったことと同等の内容があれば十分だ!それとも何か!破折できんか!(笑)
大聖人様のお言葉も自分の言葉でないだろう!聖教も新報の破折になってないしな(笑)同胞の学会員もよく創価新報を持ってくるよ!
では、やまさんへバトンタッチです。これから、登山の準備があるので
突撃男 さん 稚拙な理論ですよ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 3日(金)23時59分43秒
>既に昭和32年7月の日記に、「学会は強い。学会は正しい。学会こそ、美しき団体哉」(平成14年7月17日付聖教新聞の社説)と書き記したという池田大作は、かつて、「2001年5月3日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい(中略)宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい」(平成6年9月2日付聖教新聞)と述べて会員を煽動したことがある。
当然の発言ですよ。あなたがた日蓮正宗は、創価学会に対して攻撃的な発言をしていませんか?事実この掲示板での書き込みも、貴方は礼節を重んじているとはとても思えませんよ。
>もっとも、このような悪指導は日常茶飯事で、聖教新聞の各紙面にごろごろしている。したがって、わざわざ挙げる価値もないところではあるが、
あなたがたの機関紙は、創価学会に礼節を持った書き込みをしていますか?
><「人間」とは学会員だけ?>
そのような思想は創価学会にはありません。日蓮正宗にはそのような思想が明確にありますね。
>創価学会の言う「人間主義」は、法義的には凡夫本仏論を立てて戒壇の大御本尊と血脈相伝の仏法を否定するものであり、
戒壇様を創価学会は否定してはおりません。法主に相伝のある事は、他所の宗教団体の内部規定ですので、私は関知いたしません。この点はご自由にしてください。
>布教的には破邪顕正の折伏精神を忘れて振興の政治団体と化したことを象徴するものである。
折伏精神も何も、あなたがたは布教すら出来ないでしょう。先ず500万世帯ほどおやりなさい。れから他団体の布教活動を云々すべきです。政治団体云々は大きなお世話です。気に入らなければご自分達で政党をお作りなさい。
益々稚拙なご意見ですよ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)00時11分19秒
>以前、貴殿は法太郎氏に破折されなかったか
彼は私の問いに答えられず、逃げてしまいましたよ。貴方が彼をよく知っているならば、回教をどう化導するかを聞いてみなさい。全く答えは返らないでしょう。是非、試してください。
・僧について・
蓮祖の時代の僧侶は妻帯せず、家庭も持たず、文字通り出家です。日蓮正宗に、蓮祖興師のような、妻帯もせず、粗食に甘んじ、ひたすら布教のみに励む能化や法主がいるのですか?現在の日蓮正宗に出家などいませんよ。御書に説かれているままの僧侶が何処におりますか。家庭を持ち、妻帯をし、肉食をし、諸戒を保たず、何処に出家がおりますか?
都合のいいときだけ都合のいい御書を引くべきではありません。先ず全ての僧侶に蓮祖興師のごとく、妻帯をやめさせなさい。僧を名乗るならば当然の条件です。
>等々とあって、在俗の信徒に対し、大聖人の御弟子である御僧侶を師として、正しい法門の研讃や信行に励むよう、仰せられているのである
残念ながらこのような僧侶は現在皆無です。無いものねだりはお止めなさい。
決め付けで、論理的な構築が皆無ですからね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)00時16分29秒
>沖浦克治さんよ そんなの勝手だろう!
当然かってですよ。
>思ったことと同等の内容があれば十分だ!
それでは貴方の向上には役立ちませんね。
>それとも何か! 破折できんか!(笑)
エエート、破折も何も一方的なご意見ですから、どうぞお好きに。と、言う程度のレベルです。支離滅裂ですから、とてものこと破折には値しません。
今少し、レベルを上げてからにして下さい。決めつけと、愚論の羅列にお付き合いは致しかねます。
管理人・やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)00時19分
どうも皆様方、まともな会話が無理なレベルですね。自説を主張をされるのは結構ですが、御書と世間の実態を引用し、持論を証明する努力が必要です。 少しレベル的に低すぎるのではないかと感じております。いま少し対話が成立するよう、ご努力をお願いいたします。
管理人殿 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)00時41分56秒
突撃男氏に、このような馬鹿げた質問をやめさせていただけませんか?創価学会では末端の会員でもこの程度は常識として心得ております。例を挙げますので今後は注意を促してくださいませ。これほど基本的な仏法の知識に欠けていては会話が前に進みません。いま少し研鑽をさせて後、登場させて頂きたいと存じます。
>平等?? 御書のどこに書いてあるの?(笑)
一切衆生 〜全ての衆生は平等であるとの大前提に立った表現〜日蓮等の類〜全ての弟子をご自分のご境涯に等しくさせようとする。仏の慈悲の表現であり、衆生と仏が本来平等であるとの概念が無ければこの様な表現は出てまいりません。その他数多く出てまいります。
>平等とは民主主義者や共産主義や外道の永遠のテーマだろう。(笑)
この(笑)などの書き込み、は持論の証明にはなんら役にはたたない余分な揶揄です。他人と会話をする際に用いるべきではありません。この程度の一般常識もわきまえない人間が、他宗の批判などをするべきでは無いでしょう。先ず礼節を身につけさせてください。蓮祖は御書に於いて、
『弘決に云く「礼楽前に駈せて真道後に啓く』
と、仰せです。この方は、蓮祖門下の資格にかけると存知ます。
また、書き込み内容を見るに、現代社会の基本的な権利である民主主義を否定する内容になっております。こともあろうに、民主主義と正反対である共産主義を同一視し、その全てを外道。と、蔑んだ発言をしております。これ程社会の一般知識にかける御仁の発言を野放しにする事は、如何かと存じます。
今後の世界広布の実現には、内外相対が最も重要な課題であることは論を待ちません。この様な知識の偏ったお方では布教すらおぼつかないでしょう。当方もこの様な御仁のお相手を致す事は本意ではありません。善処をお願いいたします。
管理人殿、二つ目の公開質問です 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)00時56分53秒
再度お伺いいたします。
あなたがた法華講の皆様方には、私のように戒壇の御本尊様の真偽を含めて、皆様方の間 で自由に議論が出来るのでしょうか?
沖浦様 投稿者:虚空老人 投稿日: 6月 4日(土)02時17分57秒
沖浦様(こちらの掲示板では初めてでございますね。)よろしくお願いいたします。私は昭和33年に札幌日正寺で御受戒を受け、昭和52前後のあの流れの最中に法華講に所属したものです。
こちらは真摯な掲示板と心得ておりますのでその礼節を持ってお話しをさせていただきます。「問うて曰く…」「答えて曰く…」時間がゆったりと流れるような中で、真摯な対話を行うというものが(私個人としては)法論であり、対者に下種を施しつつも(おこがましいのですが)、対者から知識を得ることが大切であると私は考えております。対者は私にとっての善智識であり、私は対者にとっての善智識でありたいと願っております(これもおこがましいですね)。
それでは、
>あなたがた法華講の皆様方には、私のように戒壇の御本尊様の真偽を含めて、皆様方の間で自由に議論が出来るのでしょうか?
私は議論を行っておりますよ。当然、講内部の人たちによるサークル的な活動ですが、私の指導教師もこの点はご承知済みです。例の犀角独歩氏の著作も存じておりますし、
この著作の内容でご住職と意見交換もしています。
但し、私の場合はあくまでも信ずるものは戒壇のご本尊様であり、石山教学です。この点は揺るぎ無いものです。その上で、自分の疑問を解決するために行動する。これが私のスタンスです。何しろ、齢この年になっても疑問だらけですので…。信じることは大切である、但し盲追することは真実の信ではない。
自分の信を高めるために、疑問は正したい。これが私の現在のスタンスです。
(無題) 投稿者:コウ 投稿日: 6月 4日(土)02時20分14秒
はじめまして。法華講員のコウと申します。横槍のようで申し訳ありませんが、ひとつ気になったことがありました。沖浦さんの説明で
>御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものであるから、あなたや私が書写したとしても同じ力があると言うことなのでしょうか?
>私は字が下手です。書写は不可能です。あなたが書道に長けておられるなら、ご自分で試せばいいでしょが、別に強制はいたしません。
結論から言えば、どなたが書写しても同じと思います。
というのがありました。大変興味深い話だったので親戚の学会員に聞いてみたところ「完全なる邪説だ」とはっきりいわれました。沖浦さんは自称されるよう、学会では異端の存在とはいえ、学会員を堂々と名乗り、本名も明かしているので気になりました。沖浦さんのいう
>どなたが書写しても同じ
という考えは学会側のスタンスとして、正しいのでしょうか。間違っているのでしょうか。どうもその辺の統一感に欠けた感があります。もし沖浦さんが独自の邪説をかまえているのであれば、学会側は徹底破折する必要がありますね。それともやはり沖浦説は正しいと、学会でも考えられているのでしょうか?
このへんをせひ学会の方に質問してみたいのですが。
沖浦さん、こんにちは。ご活躍ですね。こちらではずいぶんと紳士的なので驚いています。学会の異端児とは頼もしいですね。期待していますよ。異端児さん。
(無題) 投稿者:突撃男 投稿日: 6月 4日(土)03時53分52秒
>突撃男氏に、このような馬鹿げた質問をやめさせていただけませんか?
>創価学会では末端の会員でもこの程度は常識として心得ております。
じゃー学会員が非常識集団であることを証明したな!(笑)
>日蓮等の類〜全ての弟子をご自分のご境涯に等しくさせようとする。仏の慈悲の表現であり、衆生と仏が本来平等であるとの概念が無ければこの様な表現は出てまい りません。
平等とはあくまでも正法を護持しているものだけが、平等に功徳を受ける事が出来る。その上で平等だよ!だから、笑ってしまった!馬鹿げた書き込みするから笑うのだよ!
>このような馬鹿げた質問をやめさせていただけませんか?
はそっくりそのままお返しするよ!
では、問うが創価学会の三宝は?まさかこれも馬鹿げた質問かい?
虚空老人 さん、コウさん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)08時12分
宜しくお願いいたします。
私は、様付けで貴方がたをお呼びいたしませんが、ご容赦下さいませ。
又、私のこともどうぞ、さん付けでお呼び下さいませ。
双方が様付けでは、現実生活の対話とは別世界の話のような気がいたします。
それで、少しでも現実の対話に近づけるべく、常に、さん。を使用しております。ご理解いただけましたらば、幸いに存じます。
おはようございます。 投稿者:コウ 投稿日: 6月 4日(土)08時24分7秒
いえいえ、こちらこそです沖浦さん。
「様」だなんてとんでもない。こちらも「さん」でいかせてもらいますよ。
ところで沖浦さんの仰る、
>結論から言えば、どなたが書写しても同じと思います。
というのは、私の知り合いの学会員によると「完全なる邪儀」だそうです。どちらのいい分が正しいのでしょうね?
このへんに創価仏法の乱れを感じるんですが、どうでしょう。「このあたりの解釈は自由でよい」ということになっているんですか?あまりにも重要なことを学会は適当にしている気がしますが…
いかがなものでしょう?
すでに貴殿は仏法者ではありません 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)08時43分1秒
>平等とはあくまでも正法を護持しているものだけが、平等に功徳を受ける事が出来る。その上で平等だよ!
現在の世界情勢を見るに、飢餓と貧困は民衆を覆いつくさんばかりです。フィリピンのスモーキーマウンテン、ミンダナオ島のゲリラ戦による被害、イランでの民衆の被害、北朝鮮に於ける人民の不幸。枚挙に暇がありません。天災の被害も顕著です。先年のインドネシアでの大地震では、30万人を超える尊い人命が一瞬にして失われました。立正安国論で、蓮祖がお嘆きになられ警告をなされた世相が、現在は世界中に拡大し広がっているのです。
天災は宗教の乱れから、と、蓮祖は喝破をされておられます。昨日も、2085年に彗星が地球に衝突する可能性がある。と、発表されております。世界を覆う貧困と飢餓は、国家や団体の思想、宗教の対立から発生をし、その対立ゆえに有効な対策を実施する事も困難な状態です。
天災と、人間の思想による対立から起こる天災を凌ぐ被害。これらを解決できる唯一の方策は、蓮祖の法を世界に流布する以外にはありません。
現在、世界の主だった思想と宗教は、お互いに我のみ正しい。と、対立と抗争を繰り返し、その延長線上に武力による抗争や戦争が発生し、民衆を途端の苦しみに落とし込んでおります。
我のみ仏法者である。我々のみが平等の権利を持つ。
これらの考えの何処に、民衆を苦しめる外道との違いがありますか?貴方の考えが宗門を代表するものであるならば、宗門に未来はないでしょう。あなたの説はすでに仏法者のものではありません。蓮祖が、『身に世間の咎なし』(趣意)と、仰せながら、なを全人類救済の為、『一切衆生の異の苦は、自らが同一苦』(趣意)と、宣言をされ、『今だ懲りず候』(趣意)と、獅子吼をなされたのか?一度深くお考えになられるべきでしょう。
蓮祖は「一切衆生の救済」とのご表現をしばしばご使用です。貴方の「一切衆生」には、日蓮正宗関係者以外は含まれてはおりません。とんでもない邪義です!
しばしば法華講の方が同様の表現をされますね。全人類が日蓮正宗のために存在する。こんな邪義を許してはならないと思います。
管理人殿 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)08時47分15秒
>では、問う が創価学会の三宝は?まさかこれも馬鹿げた質問かい?
最初にお断りをしております。対話に参加する以前に、相手の立場や意見をわきまえていない証拠です。大変迷惑ですので、ご注意をお願いいたします。当方も、この様な愚問に時間を割くことはわずらわしく感じます。善処くださいませ。
尚、創価学会の公式見解は、創価学会の広報等にお問い合わせ下さい。
虚空老人さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)08時55分17秒
>但し、私の場合はあくまでも信ずるものは戒壇のご本尊様であり、石山教学です。この点は揺るぎ無いものです。
戒壇様のお力を疑った事は一度もありません。
蓮祖の御真筆か否か? 後世の作か否か?
後世の作であれば、書写は出家か在家か?
今後の研究を待ちます。
それらに無関係に、戒壇様は紛れも無く蓮祖御図顕の大御本尊様であり、一切のお力を備えておられます。
石山教学。完全に時代遅れです。すでに時代は世界広布に移っております。寛師の教学は、世界広布の武器としては無力です。今後は研究の対象となるべきでしょう。
コウ さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)09時05分2秒
>結論から言えば、どなたが書写しても同じと思います。
というのは、私の知り合いの学会員によると「完全なる邪儀」だそうです。
どちらのいい分が正しいのでしょうね?
わかりません。私はこう思い、貴方のお知り合いは違う思いをもつ。双方の信念の問題です。
現在、私もそのお方も、寛氏書写の御形木様で満足を致しております。ことさら新しい御形木様の書写は不必要です。この件はご質問に答え私見を披露したものです。現実にどうこう言うべき問題ではないでしょう。
理論的には、蓮祖の御本尊は相貌にお力がある。書写の資格は蓮祖が明確にされてはいない。故に、相貌が間違っていなければ、どなたの書写でも問題が無い。
以上のように考えたまでです。当然、コピーでも同様のお力があると考えますが、どの程度の精度が要求されるかは、今後の研究課題だと思います。
創価学会は巨大組織です。それぞれが自由に考え、自由に信心をしております。色々な意見が会員間であって当然。と、思っています。
コウさん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)09時13分18秒
私見です
創価学会は現在御本尊に関する研究を進めているでしょう。宗門と完全に離れるために、避けては通れないからです。十年以内に何らかの方向転換をすると思います。巨大組織ですから時間がかかるのですね。
現在、すでに創価学会会則には、戒壇の大御本尊様根本。との言葉は削除をされており、御書根本。に変わっております。
個人的には喜ばしい変更だと感じております。今後創価学会の中から日蓮正宗の影は、益々薄くなるでしょう。おそらく二十年後には、「おじいさんの若かったころ、創価学会は日蓮正宗だったんだよ。」「エッ〜ありえない〜〜!!」 こうなっているでしょう。これが現実です。
(注*宗教法人 創価学会会則は平成14年に変更されている。公式HP http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/information/rules01.html を参照。
なお旧会則の「目的」には
「この法人は、日蓮大聖人御建立の本門戒壇の大御本尊を本尊とし、日蓮正宗の教義に基づき、弘教及び儀式行事を行い、
会員の信心の深化、確立をはかり、もってこれを基調とする世界平和の実現と人類文化の向上に貢献することを目的とし、
これに必要な公益事業、出版事業および教育文化活動を行うものとする」
とされていた)
これではお話になりませんよ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)09時20分30秒
突撃男さん(以下Tと記します)と、私(以下Oと記します)のこの掲示板での会話です。
数回の書き込みですでにT氏には自己矛盾があります。何とかして下さいね。
T:「人間」とは学会員だけ?
O:そのような思想は創価学会にはありません。
日蓮正宗にはそのような思想が明確にありますね。
T:平等とはあくまでも正法を護持しているものだけが、平等に功徳を受ける事ができる。その上で平等だよ!だから、笑ってしまった!
ご回答ありがとうございます 投稿者:コウ 投稿日: 6月 4日(土)09時34分52
>「おじいさんの若かったころ、創価学会は日蓮正宗だったんだよ。」
「エッ〜ありえない〜〜!!」
こうなっているでしょう。これが現実です。
でしょうねえ。その意見には賛成ですよ(笑)しかし本尊に関する最重要問題を私見(我見)で話せるとは、ずいぶんと教義のゆるいことですね。教学もなにもあったもんじゃないですね。私は沖浦さんがバッサリと私の親戚を「謗法だ」と切ってくれるのだと楽しみにしていましたが、残念ですね。
しかし学会が沖浦説を取るのであれば正信会、顕正会の本尊も功徳が出ることになってしまいませんかね?もちろん身延にある御真筆にもね。「形だけは」同じ本尊なんですから。あくまでも「形だけ」はね。
しかし、となると学会が今まで散々「謗法」であると攻めていた正信会etcを否定することはできなくなりますねえ。身延、正信会、顕正会を「謗法」だと責める根拠がなくなってきますから。
いかがでしょう?顕正会、正信会は「同じ本尊」なんだから謗法ではないわけですか?学会と同じ「功徳溢れる本尊」だということですか?
ところで沖浦さんは字が不得意とのことですが、では習字の先生に「書写」してもらった本尊も当然有効であり、「功徳が溢れる」とお考えですか?
愚問かもしれませんが、あえて問います。
たびたび失礼します。 投稿者:コウ 投稿日: 6月 4日(土)10時26分56秒
同じ内容を学会の方たちにも質問します。
よかったらこたえてくださいませ。
>創価学会は巨大組織です。それぞれが自由に考え、自由に信心をしております。色々な意見が会員間であって当然。と、思っています。
らしいので学会は各自の本尊観はバラバラでもよく、でたらめでもいいとのことでしょうか。
>(御本尊は)どなたが書写しても同じ
この沖浦さんの意見は「邪」であるのか、「正」であるのか?
学会員の率直なご意見を、ぜひ伺ってみたいですね。
沖浦さん 投稿者:虚空老人 投稿日: 6月 4日(土)11時43分0秒
沖浦さん。それでは私も”さん”付けで呼ばせていただきますので宜しくお願いいたします。
>戒壇様のお力を疑った事は一度もありません。
はい、沖浦さんがご本尊様を疑っていらっしゃらないことは承知しております。私の言葉が不足していたのでしょうが、これは私のスタンスを表したものであり、決して沖浦さんのことを指したわけではございません。不快の念を感じられたのでしたら深謝いたします。
>石山教学。 完全に時代遅れです。
これは沖浦さんと私ではスタンスが違いますので、いたしかたの無いところであろうかと思います。私は御書、相伝書が顕された時代と、現代ではあまりにも世の中が違いすぎると考えており、現代に合わせた解釈は必要であろうという認識です。
つまり、私は「時代遅れ、という認識ではなく、現代に合わせた解釈」があっても良いのではないかと考えています。但し、大聖人様の御心を逸脱してはならないことは心得ております。
でしゃばってスミマセン 投稿者:コウ 投稿日: 6月 4日(土)14時48分18秒
愚問でしたか(笑)当然そうなるでしょうね。まさか決め付けとはいえますまい。
しかし学会にも習字が得意な人は大勢いるでしょう。その人たちに「本尊書写」を頼んでみてはいかがですか?まさかそれが「謗法」ということはないでしょう。これだけはっきりと断言されているのですから。いっそ学会本尊は、三色に塗りつぶしてみてもオシャレかもですね(笑)
>理論的には。蓮祖の御本尊は相貌にお力がある。書写の資格は蓮祖が明確にされてはいない。故に、相貌が間違っていなければ、どなたの書写でも問題が無い。
沖浦本尊理論によれば理論上ソレは充分可能なわけですね。早速これを持って親戚の学会員を破折してみましょうか?彼が一体何をいいだすやら。今から楽しみですよ(笑)ありがとうございました。
さてさて沖浦説が学会でも有効であるならば、ワザワザお守り本尊など買う必要などないことになりますね。旅行や出張に行くならば学会本尊をコンビニでコピーしていけばいいだけですから。それで充分ということになりますね。
必要であれば[自分で書写した本尊]を持っても功徳が溢れるようですから。
なんでもアリですね。
頭のイイ沖浦さんなら理解していただけると思いますが…
こんにちは 投稿者:コウ 投稿日: 6月 4日(土)14時51分52秒
アッ、となれば本尊下付も必要ないじゃないですかあ。だれかの学会本尊をコピーすればいいんだから。アッ、やっぱだめだ。それじゃ学会にお金が落ちないですもんねえ(笑)だめですよ沖浦さん。学会の商売の邪魔しちゃ。いくらあなたが異端とはいえ、学会の集金システムを妨害するような邪説を流しては、学会員全員がコピーですましてしまいますよ。センセイに怒られちゃいますよ。
しかしずいぶんとズサンででたらめな教義になっていますねエ。創価学会は。
まるっきりの異流儀丸出しじゃないですか。恐ろしいことですね。異流儀である正信会も顕正会も、同じ本尊ですよ(みかけだけはね)どう違うんですか?
「どなたが書写しても同じ」であるにも関わらず、学会本尊コンビニコピーがいけない理由がありましたら、根拠を述べてください。どうぞ。
コウさんに 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)16時39分27秒
つまらない揶揄がご趣味でしたら、他の人とどうぞ。
貴方が、蓮祖御図顕のご本尊創価学会揶揄の対象とし持て遊ぶ様は見苦しいと思います。
創価学会員は、これまで何処の団体より蓮祖のご本尊様にお題目を唱え、何処の団体よりも折伏弘教励み、何処の団体よりも御書を学び、何処の団体の会員よりも自らの宿命転換に取り組んできたのです。
その信仰の対象である御本尊様を揶揄の対称にする事は、謗法の極みであると断言をしておきます。
お断りです コウさん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)16時42分49秒
>だめですよ沖浦さん。学会の商売の邪魔しちゃ。いくらあなたが異端とはいえ、学会の集金システムを妨害するような邪説を流しては。
学会員全員がコピーですましてしまいますよ。センセイに怒られちゃいますよ。
このような書き込みは法門と無関係です。泥仕合がお望みなら、他所でお相手をいたします。
今回、貴方のご質問にはお答えを致しかねます。法門の大事をご質問であれば、それなりの礼儀を尽くすべきです。
虚空老人 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)16時50分20秒
現在の石山教学は寛氏の教学です。
現在にあわせた解釈は、御書に付いてのみ行うべきです。
寛氏は時代相にあわせ蓮祖の法を解釈し、石山にはびこる要法寺系の邪義を駆逐されました。
その時点での成果でしょう。
現時点で、寛氏の教学体系はすでに時代にそぐいません。
法門を見直すならば、蓮祖の御書から始めるべきです。
寛氏の教学から始めることは過ちでしょう。
何故ならば、私どもの信奉する法は蓮祖の法であるからです。
寛氏の教学を焼きなおしても何の力も持たないでしょう。
皆様方に 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)16時51分37秒
揶揄合戦や、泥仕合をお望みならばそれなりの場所をご用意下さい。ここではお断りをいたします。
虚空老人 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)16時54分32秒
質問をいたします。
紙幅の御本尊様と、板の御本尊様。御形木様と、常住様。
これらの御本尊には、それぞれお力の違いがあるのでしょうか?
それとも全く同じでしょうか?
他のお方も回答がおありでしたらお願いをいたします。
虚空老人の意見 投稿者:虚空老人 投稿日: 6月 4日(土)18時12分45秒
>紙幅の御本尊様と、板の御本尊様。御形木様と、常住様。
これらの御本尊には、それぞれお力の違いがあるのでしょうか?
それとも全く同じでしょうか?
以下は私の個人的な考えです。
妙法蓮華経こそが大聖人の御魂であり、それを目に見えるお姿で示されたのがご本尊様と考えております。従いまして各家庭に安置奉るご本尊様、寺院に安置奉るご本尊様、紙幅で御図顕のご本尊様、板に謹刻されたご本尊様、お力は同じだと思います。これが私の回答でございます。
恐れ入ります 投稿者:コウ 投稿日: 6月 4日(土)18時19分46秒
揶揄ですか。それは大変失礼いたしました。それでは沖浦さんの敬愛してやまない「永遠の指導者」の言葉を引用しましょう。
もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶(しゃびょう)の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。 (広布と人生を語る 8巻−228頁)
いかがでしょう。この言葉は邪義ですか?「永遠の指導者」のお言葉ですよ。ツバを吐けますか?
法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり功徳はないのである
この「池田大作発言」は邪であるか、正であるか。正か邪かで結構です。お答えくださいませ。
コウさんに 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)18時44分15秒
ご自分でお考えなさい
皆様方に 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)18時54分48秒
創宗が緊密な時代の双方の指導者の言は、現在意味をなしません。そのあたりの時代にノスタルジーを感じることはご自由ですが、当方はそのような感情を持ちません。その辺の話題は、ご身内にてご検討を願います。
たとえば顕師の人間性に関しは、以下のような事実があります。『大白蓮華』(平成三年一月号)に掲載された、日顕法主の新年の辞、「C作戦」という創価学会解体の陰謀を裏では勧めながら、表面では創価学会にごまをすっている。
創価学会創立六十一年の出発に当たり、私ども宗門においても、心からその功績を賛嘆いたします。
戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しいところであります。
特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います。
また、戸田先生のころより始まった総本山への諸供養や末寺寄進は、池田先生によって本格的に行われ、先師日達上人の数々の賞辞が残っております。
更に平成11年12月19日、喜寿祝賀会での挨拶
私が、あの平成2年において、ある決断をしました。そして、その第一歩として行ったことが宗会を招集して『宗規』のなかの法華講本部の規約を改正するということでした。これがたいへん大きな意味を持っていたわけでもあり、ここが根本的なところでした」「もし、下手なことをやっていたならば、例えば裁判等になった場合、泥沼に足を突っ込んだように、にっちもさっちもいかないような状況も出てきたと思います。
この法主は、平成二年にすでに創価学会破門をたくらみながら何食わぬ顔をし、平成三年の大白新年号に、あのような創価学会と池田先生を誉める言葉を寄稿している、卑劣極まりない男である。
以上のように、あなたがたの法主である顕師が、自らの発言とその時期にて卑劣極まりない人間であること世間に証明し、物笑いになった事は記憶に新しい事実ですが、皆様方信徒の人間性や法の正邪とは無関係の事でしょう。
ここであなたがたに、この顕師の卑劣な発言と卑怯未練な人間性の評価を求めるべきではない。と、考えます。ここでは双方がなじりあいの泥合戦を演じるべきではありません。以上今後はご注意をお願いいたします。
虚空老人さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)18時55分59秒
それでは何故御本尊に常住様、御形木様の区別があるのですか?
多くの 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)19時09分25秒
無意味な投稿が多すぎます。
コウ氏 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)19時11分3秒
今一度同様の内容を繰り返されれば、その時点で貴方のお相手は中止をいたします。ご注意下さいませ。
勉強不足です 投稿者:虚空老人 投稿日: 6月 4日(土)19時17分13秒
>それでは何故御本尊に常住様、御形木様の区別があるのですか?
正直に申し上げれば、”私自身の考え、私自身の言葉”でご返答するには勉強不足です。申し訳ございません。
お聞きいたします。 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)19時38分15秒
本来御形木様は仮に下げ渡しをする御本尊ですね。その後この人は本物と認めれば、その人を願主として常住様がお下げ渡しになるのです。この常住様は印刷ではなく法主自らが書写する法主の直筆です。
この点は間違いが無いのでしょうか?
虚空老人 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 4日(土)21時07分19秒
とんでもございません。お互いに研鑽をいたしましょう。宜しくお願いいたします。
私見を述べます。
本来、蓮祖御図顕の御本尊は全て事の一念三千のご当体であり、サイズや材質でお力に差があるわけは無いでしょう。
創価学会下付の御形木様は、カレンダー御本尊。などと誹謗中傷をされておりますが、戒壇本尊と同等のお力をお備えです。
座談会では、毎回のようにこの御本尊様の、仏力、法力、広宣流布に戦う創価学会員の信力、行力による功徳の体験が満ち溢れております。先日座談会に出席しましたところ、生来のリューマチを克服した体験と、その人を入会に導いた紹介者が、思わぬ昇給に恵まれた体験をリレーでされておられました。
その前回の座談回では、住宅の狭い中、座談会場に提供されていたブロック長さんご夫婦が、大きな一軒家を無料でいただき、今月末で引越しを致します。大きな思い出をありがとうございました。と、笑顔でご挨拶をされておられました。
私も、先日あるところより、長野に一軒家を購入してはどうか、費用は無条件で提供致します。との、夢のようなお話を頂きました。かくのごとく、私どもの御本尊様と、布教活動による功徳は渦のごとく創価学会員の間に湧き上がっております。『道理証文より現証』(趣意)との蓮祖のご指導そのままの創価学会の現在の姿です。
これらを勘案しますに、御本尊とは宗門内にいたころの私どもの認識とはかなり違った存在である。と結論付けずを得ません。
以前、宗門にいましたころは、御本尊様は法主の認可が無ければ血脈が通わず、お力は無い。と、しばしば言われておりました。然るに創宗別離より14年、法主とは無関係の団体となった私どもの、寛氏書写の御形木様。の、現実のお力を目の当たりにし、法主の認可と御本尊様のお力は無関係。と言う事実を私どもは実感をしております。これまでの御本尊様に関する、迷信のような秘密主義。を、改める時期では無いかと考えるこのごろです。
沖浦さん。 投稿者:terry 投稿日: 6月 5日(日)11時50分16秒
ずっと拝見しておりましたが、沖浦さんの見解はあくまでも一個人の見解ですよね?では、私の見解です。
「由来法門上の異説異見は何によって起こるかといえば、機根が猶お未だ熟さないうちに御書の一文一義に執して妄断するからである。妄りに断ずるからである。即ち我見に任せて己義を立つるからである。古来仏法に於いて相丞を尊び師伝を重んずるのは一に此の弊をなからしむるためである。聖祖は『法華経は相伝に非ずんば知り難し』と仰せられている。蓋し仏法の奥底は相伝によって正しく理解することが出来るからである。」(日蓮正宗聖典「序」)
つまり学会には相伝が無い訳ですね。幾ら御書を引用しようが、御本尊に関しての意見を述べようが、はっきりと『相伝に非ずんば知り難し』と仰せなのですから相伝の無い学会に正当性は全く無いと断言します。
学会下付の御形木御本尊は、今は戒壇の大御本尊様と同等の力どころか、全く意味を成さなくなっています。功徳があるように見えたとしても、それは「魔の小功徳」であるに過ぎないと断じます。
正宗に於いて言わせて頂ければ、御本尊には総別・能所の差別はあります。沖浦さんの言われる「御本尊の功徳は皆一緒である」との意見は正宗に於いては言えますが、それでも総別・能所の差別はあって当然でしょう。一機一縁の御本尊様と三大秘法の本門戒壇に安置し建て奉る御本尊様では別しての差別があるのは当然でしょう。
はっきり言いまして、沖浦さんの意見は「我見に任せて己義を立つる」そのままではありませんか?如何でしょうか?沖浦さん。
terry氏 ルールを守ってください 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 5日(日)12時20分31秒
現在衆生が本、仏が迹、の問題提起と、それに付随する、仏法は民衆のためにあるのか、民衆が仏法のために存在するか。の点で今だ御貴殿より回答を頂いておりません。また、御形木様と常住様の件も今だ未回答になったままです。
当方が設問を行い、満足な回答が無いまま次の設問をする。大変迷惑な行為です。まして御貴殿は副管理人のお立場です。この様な抜け駆けは固くお慎み下さいませ。
先ず、仏法が民衆のために説かれるのか、または、民衆が仏法のために存在するのか?この設問にお答えになり、更に常住様と御形木様のお力の違い、紙幅と板での相違。を、明確にしてからテーマを論じるべきです。それではご回答をお願いいたします。
他の方々にもお願いをしておきます。管理人のやまさん40氏は、仏法は民衆のために説かれる。と、明快なお答えをされましたが、他の人は無視をしそれぞれ勝手なご意見を書き込むのみです。もし貴方方がの他のテーマで私と論議をお望みならば、専用の板をご用意くださいませ。何時なりとお邪魔致し、正々堂々の論を致すに異存はありません。
ここでは、いまだ私の設問にお答えのない方が大部分です。速やかなる回答をお待ちいたします。
沖浦克治拝
これは大変失礼を致しました。 投稿者:terry 投稿日: 6月 5日(日)12時46分25秒
沖浦さん、これは大変失礼を致しました。貴殿の言われる通りですね。改めて書き込みを致します。今回の意見は次の機会でお願い致します。それではよろしくお願い致します。お互い御書を引きながら、じっくり研鑽いたしましょう。
仏法は一切衆生救済の為に説かれたものである。 投稿者:terry 投稿日: 6月 5日(日)14時21分24秒
仏法は一切衆生救済の為に説かれたものである。これには同意見です。異論はありません。
私達衆生にとっては、仏法を御説きあそばされた仏様、即ち宗祖日蓮大聖人様に対しましては三徳兼備の仏様でありますから、家来として、弟子として、子供として仕え、尊敬申し上げて行くところにこそ仏の加護をこうむり、絶対幸福の境涯を獲得出来ると思っております。
こんにちは 投稿者:コウ 投稿日: 6月 5日(日)17時24分27秒
法論館にお邪魔しちゃってすいませんでした。でもおかげで学会の本尊観がクリアに氷解したので参考になり、大変ありがたかったです。予想以上に学会の本尊に関する考えかたはでたらめなので、今後の破折の参考にできそうです。
学会が「本尊はすべて同じ」というありがたいぐらいに脇の甘いでたらめな指導をしてくれたおかげで、逆に助かってます(笑)それをさらに強引にしたのが沖浦説なのでしょうが、彼の本尊観も、学会内部では受け入れにくいものになっているようです(まあ、当たり前かア。あまりにムチャクチャだもんなア。
本人はその矛盾すら理解できないらしいけど…)
学会の教義はまったく足並みの揃っていない状態で、矛盾だらけです。今後も次々とでたらめな解釈が出てくるでしょう。正直いって期待しています!てか、楽しみです!どんどん破折がラクになっていくので(笑)
しばらくはリアル折伏でがんばってきます。色々お邪魔しちゃってすみません。
管理人さんを含め、法華講の皆様の今後の健闘を期待しています。ありがとうございました。
沖浦さん。ありがとね!あなたの七つの頭に、戸田先生の指導をお送りしますよ。まあ、まったくの無意味でしょうが(笑)
ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。
だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」 (戸田城聖氏の講演から 大白蓮華 昭和三十四年七月号掲載)
結局コウさんも 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 5日(日)23時15分56秒
私の質問には回答できずに、一方的に自説を述べただけですね。これを遁走と申します。
この掲示板のことは多くの方々に連絡をしてあります。大勢の創価学会員がロム中です。多くの方がメモリーに納めておられるでしょう。
法華講の方々が討論を投げ出せば、創価学会員にどのような質問をされれば回答に窮するかを証明してしまいますよ。いま少しの間、他の人から私の設問に回答を頂くまでお待ちいたします。
投稿諸氏の皆様へ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月 5日(日)23時29分
当板は一対一の討論場ではないので、宗旨を明かした上でテーマに関連した、さまざまな方の、さまざまな意見を投稿していただくことによって討議が活性化され、各人の御金言の理解の深化、また双方の教義上の相違点が明らかになれば破折の要点も明確になれば管理人の意図するところでもあります。
また、テーマに関した論議の道筋からサブテーマが派生することは容認いたしましょう。暴言・口論でなければ、真剣に法の正邪を追求するあまりに討議がヒートすることもあるでしょう。
あまりにメインテーマから外れてしまった場合には、管理人が軌道修正をいたしますので、自由闊達な投稿をいたして下さいませ。
管理人殿 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 5日(日)23時37分16秒
>沖浦さん。ありがとね! あなたの七つの頭に、戸田先生の指導をお送りしますよ。まあ、まったくの無意味でしょうが(笑)
この書き込みは E*悪戯に見苦しい書き込みや口論の類は、おやめ下さい。の、規定に反してると思います。善処をお願いいたします。
本意ではありませんが 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 5日(日)23時45分46秒
コウ氏の低劣な書き逃げに対して一言資料を引用し破折を致します。
コウ氏は戸田先生の指導を引用され自説の根拠としております。然しながら、私はすでに創宗蜜月時代の双方の指導者の言を引用すべきではないと書き込んでおります。たとえば、
創価学会創立六十一年の出発に当たり、私ども宗門においても、心からその功績を賛嘆いたします。
戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しいところであります。
特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います。
また、戸田先生のころより始まった総本山への諸供養や末寺寄進は、池田先生によって本格的に行われ、先師日達上人の数々の賞辞が残っております」
『大白蓮華』(平成三年一月号)に掲載された、日顕法主の新年の辞
この内容を貴方がた法華講の皆様方は、法主の言として今も尊重をされますか?かくのごとく、過去の双方の指導を引用することは意味を持ちません。今後はお気を付け下さいませ。
沖浦様へ 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月 5日(日)23時48分49秒
>世の中にはね 絶対なものが二つだけあるのですよ。 御書と御本尊様です。
よろしいでしょう。それではあらためてお伺いしましょう。
【仏が師匠であり、衆生が弟子である】ことには、沖浦様にも異論がないと思います。
また【仏が親であり、衆生が仏子である】ことにも異論はないと思いますが、いかがでしょうか?
残る相違点、【衆生が本、仏が従である】との主張の上からは、曽谷殿御返事に御教示の
『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。
此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。
法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』
との御文を、どう解釈なさいますでしょうか?
この「本従」のとらえ方が、【御本尊様を御本仏日蓮大聖人様の御当体として帰命の対境とするのか?】
【題目が元で御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものなのか?】との大きな教義解釈の相違点の根本であります。
これは沖浦氏の私論ではなく多くの創価学会員や幹部指導、学会の教義解説書にも則った意見ですから、沖浦様以外の創価学会諸氏、また法華講諸氏の投稿(解釈・意見)も宜しくお願いしたいと思います。
ご回答をお願いいたします 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 5日(日)23時52分
>学会が「本尊はすべて同じ」というありがたいぐらいに脇の甘いでたらめな指導をしてくれたおかげで、逆に助かってます(笑)
御本尊の種類によりお力にどのような相違あるか?以上の私の設問にまともに答えず、いい逃げのようにこの様な書き込みをすることは、すでに敗北の証拠です。
多くの創価学会員が快哉を叫んでいるでしょう。
それはさて置き、この設問には今だ虚空老人さんのみがお答えになられておられます。他の方々もご回答をお願いいたします。
やまさん40さん、terry さん、その他の方々、返答をお願いいたします。
沖浦様、他の皆様へ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月 6日(月)00時09分57秒
>御本尊の種類によりお力にどのような相違あるか?
現在のテーマは<衆生が主(本)、仏が従(迹)なのか?>です。
たとえ重要なテーマであっても、メインテーマと関連のないサブテーマとなりますので法華講側・学会側・双方ともこの議論は他の板で討議して下さい。
>*E悪戯に見苦しい書き込みや口論の類は・・・・・の件
同一人物が繰り返し抵触する書き込みをした場合には、管理人権限でイエローカードを出します。また討議中のテーマから大きく脱線する場合にも軌道修正をさせていただきます。
法華講員・学会員の双方が管理運営するBBSの多くに、荒しによる限りない脱線や、低劣な口論・不毛の論議の繰り返しによって、一時的にでも本来の法論ができなくなった状態を皆さんも見たことがあるでしょう。
BBSはバーチャルの折伏場であり、いうなれば権(かり)のものです。私どもは実際の日々の仏道修行の合間を縫ってBBS投稿の時間を割いております。
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 6日(月)00時46分3秒
先ず時代背景が封建時代です。
「仏が迹、衆生が本」なかなか言えないでしょう。
「仏が主人、衆生が家来」この様な解釈が常識の世の中です。
蓮祖は封建時代に生きたお方です。当然ご発言には封建社会の影響が強く出ておられます。現在は民主主義、主権在民の世です。現代社会から御書を拝読せねばなりません。蓮祖はしばしば、仏法は衆生のために説かれる。と、明言をされておられます。この精神が蓮祖の法を貫く以上、御書の文句もこの立場で拝すべきでしょう。
たとえば、蓮祖が自らが上行菩薩である。と明確に宣言しておられる御書は何処にありますか?自分は上行菩薩ではない。との表現は多くあります。
『而るに日蓮上行菩薩にはあらねどもほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す、』(新尼御前御返事)
それでは蓮祖は上行菩薩ではないのでしょうか?そんな事はないでしょう。
当時、地涌の菩薩は釈迦でさえかすむほどの威儀を備える。と、思われていました。その上首の上行菩薩はどれほど立派な姿か。と、当時の人は思っていたのです。もし蓮祖が我上行菩薩也。と、宣言をされれば、多くの民衆の気持ちは離れてしまったと思われます。
現代の社会と知識の上から御書を拝するべきです。蓮祖が仏法は民衆のためにある。と、度々仰せであり、法の精神がそうである以上、仏は迹、衆生は本。
この認識が正しいのですよ。
こんばんは 投稿者:コウ 投稿日: 6月 6日(月)01時04分55秒
沖浦さん、投げ出したわけではないのでご心配なく。リアル折伏に移行させていただくだけですよ。勉強させていただきました。揶揄した表現ととられたのならそれは謝罪しましょう。
ただあなたの場合、矛盾を指摘すると「きめつけ」「揶揄」だの騒ぎすぎですよ。耳障りのいい言葉しか聴きたくないからそうなるんでしょうが。{矛盾}という言葉の意味をよくお考えになったほうがいいですよ。
>御本尊の種類によりお力にどのような相違あるか?
体裁が整っていればなんでも本尊だとありがたがるのは違うだろってことだけですよ。それがアリなら学会本尊だけをワザワザ拝む必然性もないでしょ?
まあとにかくあなたの意見は大変参考になったので、どんどん活用させていただきますよ。書き逃げする気はないっす。また質問が出てくると思うのでその時は丁重に沖浦節を聞かせてもらいにきますよ。
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 6日(月)01時09分21秒
>御本尊の種類によりお力にどのような相違あるか?
>現在のテーマは衆生が主(本)、仏が従(迹)なのか?です。たとえ重要なテーマであっても、メインテーマと関連のないサブテーマとなりますので法華講側・学会側、双方ともこの議論は他の板で討議して下さい。
と、貴方は言われていますが、最初に貴方が私に以下の質問されたのです。それから
>ご本尊様は書写したお方がどなたであれ同じお力をお持ちです。
>御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものであるから、あなたや私が書写したとしても同じ力があると言うことなのでしょうか?
都合が悪くなると自らの質問を置き去りにされるのすでか?おかしな話ですね。私は貴方の質問に答えました、貴方が今度は私の御本尊様に関する質問に答える事は当然でしょう。
又、仏と衆生の本迹に関してはすでに世法、仏法の両面からお話をしており
ます。くどくどと同じ事を何時まで繰り返さねばならないのでしょうね。蓮祖が自らの法が民衆に為にある。と、仰せである以上、他の解釈はありえません。これ以上の説明は無駄と存じます。先ず御本尊の種類によるお力の差について、あるなきかをお答え下さい。
コウさん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 6日(月)01時13分7秒
貴方とのこれ以上の対話は致しません。
>色々お邪魔しちゃってすみません。管理人さんを含め、法華講の皆様の今後の健闘を期待しています。ありがとうございました。
貴方がこの様に書き込んで去っていったのです。どなたか他の人とおやり下さい。私はお相手を致しかねます。
(無題) 投稿者:コウ 投稿日: 6月 6日(月)01時31分18秒
管理人さん以下他のかたに迷惑をおかけしてしまったのであれば謹んで謝罪させていただきます。表現法はまずかったかもですね。なにしろ「七つの頭」ですからねエ。私の不徳のいたすところであります。反省も込めてリアル折伏に走りたいと思っていますので、まあ、おおめに見ていただけると助かります。
ただやっぱり個人的な感想としては学会のいってることって、つじつまあってないなアと思います。組織なんだし、矛盾が多少あっても別にいいけど、矛盾をムリに解消しようとして結果どんどん大きな矛盾になってきて、泥沼状態。どうしていいのかわからなくなってんだろなア。とは感じました。矛盾連鎖ってことですかね。
リアル折伏で、そのあたりの「矛盾の正体」を、もっとしっかり見極めてこようと今は思ってます。ではでは、ごきげんよう
(注*「七つの頭」は当館管理人が当館開設以前に[新・創価学会からの脱会を考える会]http://groups.msn.com/t6dfjvoddibb0g38d1gj9eipf7 への投稿の中で、宗門に誹謗をなす宿坊・浜春なる投稿者に対して「若悩乱者頭破七分」から「七つの顔を持つ男ならぬ、七つの頭を持つ男」と呼んだもので、コウさんに悪意はない。)
沖浦様。 投稿者:terry 投稿日: 6月 6日(月)01時47分5秒
御本尊様には「総別、能所の差別」がありますね。これは先程の書き込みを御覧下さい。
一機一縁の御本尊様と三大秘法の本門戒壇に安置し建て奉る御本尊様では別しての差別があるのは当然でしょう。分身散体ならば、必ず本体があります。
義とは道という意味であります。国道は日本橋を基点として日本中に広がり、県道、市道、私道へと枝葉を伸ばしています。
木は、根から水分や養分をを吸い上げ、幹、枝、葉へと水分・養分を供給していきます。
題目についての御指南で、『松野殿御返事』には
『聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。
其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。
但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。』
とあります。これが総じての立場です。
しかし、『諸法実相抄』には
『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。』
と、別して大聖人様が「唱導の師」であることを示されています。
総別の二義のうち、別してのお立場(随自意)からの御指南を故意に無視して、平等(随他意)の一面のみを取るのは、如何なものかと思いますが、沖浦氏は如何お考えでしょうか?
また、私はまだ「衆生が主、仏が迹なのか?」のテーマには回答致しておりません。然し乍ら、沖浦氏の言われる解釈は、全く持ってこの随自意を無視し、随他意の一面のみを取っているとは言えませんでしょうか?こちらも併せて御回答頂きたいと思います。
コウさんへ。 投稿者:terry 投稿日: 6月 6日(月)01時49分10秒
御活躍いつも拝見していますよ。なかなか御挨拶も出来ずにすいません。
いつでもお越し下さい。お待ちしておりますね。
http://groups.msn.com/t6dfjvoddibb0g38d1gj9eipf7
terry さん 投稿者:コウ 投稿日: 6月 6日(月)02時51分57秒
ご親切にどうもです。御活躍だなんてとんでもないです。私はスチャラカ法華講員なので、みなさんにいつも勉強させていただいています。
矛盾だらけの話ばかり聞かされていると、こっちの頭までやられそうになるかと思いますが、もってかれないよう、くれぐれも御注意を。
私も唱題根本で、リアル折伏をやらせていただこうと思っています。
今後とも、よろしくです。
terryさん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 6日(月)08時27分24秒
>御本尊様には「 総別、能所の差別」がありますね。これは先程の書き込みを御覧下さい。一機一縁の御本尊様と三大秘法の本門戒壇に安置し建て奉る御本尊様では別しての差別があるのは当然でしょう。
御書に、戒壇様と一機一縁の御本尊様とがお力が違う。と、お述べである箇所を提示してください。
『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』
(経王殿御返事)
ここで蓮祖は佐渡より経王殿に御本尊を授与され、この御本尊は蓮祖の魂である。と明言されておられます。当然この御本尊様は一機一縁の御本尊です。 然しながらこの時点で、蓮祖はすでに発迹顕本をなされておられます。 蓮祖が御本仏のお立場で御図顕なされた御本尊に、対告衆の違いによってお力に変化があるとは思えません。しかもこのご文の前段で蓮祖は、
『夫について経王御前の事二六時中に日月天に祈り申し候、先日のまほり暫時も身をはなさずたもち給へ、
其の本尊は正法像法二時には習へる人だにもなしましてかき顕し奉る事たえたり、師子王は前三後一と申してありの子を取らんとするにも
又たけきものを取らんとする時もいきをひを出す事はただをなじき事なり、』
と、自らの渾身のお力でしたためた。と明言をされているのです。相手により、御本仏の渾身のお力が変化するとは思えません。戒壇様はさて置きましょう。常住様と御形木様のお力の差、板と紙幅のお力の差について、御書を引用し明示をして下さい。
>分身散体ならば、必ず本体があります。義とは道という意味であります。国道は日本橋を基点として日本中に広がり、県道、市 道、私道へと枝葉を伸ばしています。 木は、根から水分や養分をを吸い上げ、幹、枝、葉へと水分・養分を供給していきます。
先ず、本体は蓮祖そのものです。御本尊様は全て分身です。創価学会はすでに法主の認可の御本尊を用いてはおりません。あなたがたの理論では、戒壇様との血脈が無いのです。ところが、創宗分離よりすでに14年、先日書き込みましたように、私どもの間では功徳が渦のごとく湧き出しております。
この現証は、私どもの蓮祖の御本尊がお力をお持ちである証拠です。戒壇様が本体、他の御本尊様が分身であり、本体につながらなければお力が無い。との、あなたがたの理論はこの14年間の創価学会員による実験証明ですでに否定をされました。
蓮祖は『百日、一年、三年,七年の坂を越えず』(趣意)と仰せです。14年はすでのこの二倍の年月です。もし戒壇様が本体であり、法主の支配下にあるのならば、この創価学会員の功徳の現証は起こりえません。これらの事実は、創価学会員の御形木様が蓮祖直結の分身であること。を、如実に示しております。
以上が私の所感です。
* 戒壇様と他の常住様のお力の違い。
* 板と紙幅の御本尊様のお力の違い。
* 常住様と御形木様のお力の違い。
以上三点につき、御書を引用しご説明くださいませ。
貴殿引用の総別の二義は、次の機会に論議を致したいと思います。
始めまして。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月 6日(月)10時31分19秒
初めまして学会の卞氏です。
***
下記の点について、申し上げます。
a:>【御本尊様を御本仏日蓮大聖人様の御当体として帰命の対境とするのか?】
b:>【題目が元で御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものなのか?】
bは大聖人の仰せのことと矛盾がなくわかりやすのですが、aのばあい、【帰命の対境】という表現が引っかかります。「帰命の対象」では明らかにbとは反対の意味になりますが、「帰命する為の対境」と言う意味であれば、bにも通ずる表現になりえてしまう微妙な表現なのです。
しかし、その場合、「大聖人=御本尊」ということを十分に説明しなくてはならないでしょう。それが前提だというのは、不足です。
下記を確認して、どちらが大聖人の真意を伝えているのか読んでいただきたいと思います。
***
大聖人は末法の時と衆生の機根についての判定をして、
『戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る』『慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮となす』(四信五品抄)
と仰せで、三学に則して言えば、題目が主。本尊、戒壇が従の関係にあることを明かされています。
法華講さんの勉強するための資料の中から、下記のものを見つけました。
***
・・・ともかく仏教を修行して得道しようと思うものは、この戒定慧の三学、経律論の三蔵を全部修めなければならない意味が、在世や正法・像法時代には大前提として存在しているわけですがこれは大変な事なんですね。だから何回も生まれ変わって(歴劫修行)修行する必要もあるのです。
ところが、大聖人様は末法の時と衆生の機根という判定から『四信五品抄』(平成新編御書1112)に
『戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る』
とご教示です。つまり戒律や禅定の修行は末法には必要ない、差し置いて、慧の一分・一行によって成仏するのだと。そして更に続けて、
『慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮となす』
とご指南されています。
***
結論として、題目をあげる側に主を置くべきであるとなります。そうでなければ、歴劫修行に陥ってしまうというふうに、法華講では教えているわけです。
(注*引用資料は、蒼蠅さん(法華講員)による私稿“「戒法門」拝考1”から。http://www.geocities.jp/the_woman_jp/back_keiziban11.htm にログあり。)
沖浦さん。 投稿者:terry 投稿日: 6月 6日(月)11時48分4秒
能開・所開は明らかに義に於いて大聖人の仏法に在します。先に述べました
が、まず「根源」とは「本門戒壇の大御本尊」です。さておく事は出来ません。大御本尊が「能開」であることは、
『仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。
先々に申すがごとし。余は二十七年なり。』
聖人御難事で、明確に仰せです。
『根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり』(文底秘沈抄・聖典855)
『当流の心は事を事に顕わす』(同抄)
と仰せの如く、戒壇の大御本尊に全てが備わっています。
戒壇の大御本尊が根本。末寺の御本尊、または家庭の御形木御本尊を拝する事がそのまま本門戒壇の大御本尊を拝する義理が成り立つから功徳が生ずるのです。
御歴代御法主上人は、「戒壇の大御本尊」を「御書写」された訳ですから、ここに「仏法と申すは道理なり」であるが故に、明らかなる「能所の立て分け」があり、「戒壇の大御本尊」が「能開」の御本尊であり、御歴代後法主上人御書写の御本尊は「所開」の御本尊であると言えます。
宗祖大聖人様を上行菩薩の後身、または再誕として認める各派門流は多いですが、その上行の後身の大聖人様が末法に出現して必然的に顕わされるべき深義として、宗祖大聖人様こそ所顕の大曼荼羅本尊の当対であり、久遠の本仏であると信ずるものは日蓮正宗のみであります。これこそ本門仏法の真髄に外ならないでしょう。
沖浦さんの御質問である所の「御本尊様によりお力が違うのか?」は、以上の点を含めて、総じては同じですが、別しては違う、総別の二義・能所の差別がある故にと言えると思います。
次に、学会会員が現在所持する所の御本尊の功徳云々でありますが、血脈の切れた現在に於いて、学会所持の御本尊には功徳等はないと断言します。
先に書きましたが、どんな邪宗教でも「魔の小功徳」はあります。その時は良く見えても後に堕獄行きは必定。ましてや現在の御相貌を勝手に改竄し、何の許可も無く印刷をしたプリント本尊等には絶対に功徳は生じないのは理の赴く所です。
『血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相丞の稟丞唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ。秘すべし伝ふべし』
(本因妙抄)
御法主上人以外の何人も御本尊の御相貌について云々出来る立場ではないでしょう。
結論としては、全ての御本尊は本門の大御本尊の御内証の御書写であります。本尊と言う限りは『法体の御内証』が無くてはならないのです。過去は学会もそういう御本尊を押し頂いていたはずでしょう。しかし現在は勝手に印刷して配布している。そこには『法体の伝持・血脈』は存在しませんね。これでは「成仏」は叶わない事になりますが如何でしょうか?
やまさん40管理人様 投稿者:大勝利 投稿日: 6月 6日(月)18時42分17秒
諸兄の皆様はじめまして。大勝利と申します。学会員です。
やまさん40管理人様の御質問と最初のテーマについての所感を述べます。
<衆生が主(本)、仏が従(迹)なのか?>
>【御本尊様を御本仏日蓮大聖人様の御当体として帰命の対境とするのか?】
>【題目が元で御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものなのか?】
御提示のテーマに対して、曽谷殿御返事での「本従」を引用して「本地垂迹」との混同した、誤解を招くテーマ作りはいかがなものかと拝見いたしました。
本迹と本従は同義でございましょうか?若し結論的に同義であるとの主張と致しましても、現段階に於いてのテーマの掲示としましては早計と映じます。
個人的見解ですが、「本従たがへずして」の本とは、一往、教主釈尊であると読みます。
***
『本従此土仏初発道心。亦従此仏住不退地。乃至猶如百川応須潮海縁牽応生亦復如是。
問て曰く 法華経は誰人の為に之を説くや。
答て曰く 方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り。上より下に向ひて次第に之を読めば、第一は菩薩、第二は二乗、第三は凡夫也。
安楽行品より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば、滅後の衆生を以て本と為す。』 (法華取要抄)
***
さて此の真跡を、どう解釈なさいますでしょうか?
terry さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 6日(月)23時06分14秒
引用の文証に根拠がありません。本因妙抄の引用部分は、後世の加筆である事が定説です。このあたりは卞氏さんがお詳しいのでお聞きください。卞氏さん、お願いをいたします。
文底秘沈抄は蓮祖の作ではありません。法主の説等は、あなたがたの内部規定にすぎません。私達、他宗には無力です。
聖人御難事の引用部分は、蓮祖がすでに出世の御本懐を遂げたと仰せです。戒壇本尊の御図顕はこの文より12日後です。時系列からして、戒壇本尊を指さないのは明白です。以上引用の文証に根拠が全くありません。
紙幅の御本尊と板の御本尊のお力の差。についてお答えがありません。御形木様と、常住様のお力の差もまだです。貴方は戒壇本尊が能開、その他は所開と述べただけです。お答えをお待ちします。この部分は御書を引用しお願いいたします。法主等の言は宗門の内部規定です。引用はお控え下さい。
次ですね。
〜法主が認めなければ御本尊にお力が出ない。〜
以上をご真筆から引用してください。引用不可能ならば邪義です。
創価学会員安置の御形木様にお力がある事は、体験で証明されています。否定するならば証拠の提出が必要ですよ。貴方は、一時的な小功徳と言われました。何処まで小功徳かを御書に基づき証明してください。ご自分のご発言ですから責任を持ってご証明を願います。
次にプリント本尊云々の件です。
御本尊のサイズ、材質でお力に差がある。とのご文を蓮祖の御書から引用してください。この件を証明する為には、
*御本尊は貴方のところの法主の支配下にある。
*材質等でお力に差がある。
以上の二点を蓮祖の御真筆を引用の上証明してください。出来なければ邪義と認定されます。創価学会員が多くロムし、宗門破折の一助にせんとしています。
慎重に言葉を選び、御書を引用し証明をする必要があります。それでは材質と、御形木様、常住様のお力の差を明確にして下さい。非常に単純な質問です、くれぐれもすり替えはお止めくださいませ。
法華講の皆様方に 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 6日(月)23時18分38秒
近年、法華講の方々より、創価学会下付の御形木様がぺらぺらの御本尊でありお力がない。との、誹謗が散見されます。ところがこの件で、御書の引用は皆無です。
御本尊を批判なさる事はご自由ですが、御本尊が本物の蓮祖の御図顕である場合は、大きな謗法になります。
まして、創価学会は宗門と離縁以来この御形木様を下付し、会員は蓮祖御図顕の御本尊様として我が命のごとく大切にご安置しお守りをいたしております。
すでに功徳の現証は会内に溢れ、この御本尊様のお力を証明して余りあります。お説のごとく、法主の認可も無く材質に難があるならば、すでに離縁より14年、功徳の出るはずが無い事は、御書に基づいて明白です。
蓮祖の御図顕の御本尊様を誹謗中傷することは、皆様方の人生のためにもお止めになられるべきでしょう。
沖浦克治 へ 投稿者:突撃男 投稿日: 6月 7日(火)00時43分35秒
>近年、法華講の方々より、創価学会下付の御形木様がぺらぺらの御本尊でありお力がない。との、誹謗が散見されます。
誹謗ではないよ!偽本尊破折だよ!(笑)謗法だろう!(笑)
日寛上人の本尊をカラーコピーしたもんだろう!(笑)魔札だろう(笑)
管理人殿 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 7日(火)00時45分59秒
ここは理路整然とした、議論を交わす場所です。 突撃男@斉藤氏の感情的な書き込みは削除して下さい。
H*現状、双方に様々な掲示板が運営されておりますが、皆様もご承知のように マニアックに過ぎると思われる書き込みを見て、参加を躊躇されている方が双方ともに 少なからずおられます。初信者からでも参加ができるような掲示板にして参りたいと思いますので、 ネット法論の門戸を広く開くためのご理解のほど宜しくお願い申し上げます。
このまま放置すれば板が荒れます。他の法華講の方の板のように罵りあいはやめるべきです。この板は創価学会員と法華講員が真面目に討論できる板に育つ可能性があります。このまま荒れていくことはもったいないでしょう。
突撃男@斉藤氏も、罵り合いからは何も生まれない事を知るべきです。自制して下さいませ。もし非難合戦がお望みなら、私は何処にでも出かけていきますから、板を指定してください。折角管理人どのの御行為でようやくこのような板が立ちました。大事にすべきでしょう。
突撃男@斉藤氏 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 7日(火)00時56分46秒
>魔札だろう(笑)
日蓮大聖人様御図顕の御本尊様を、この様に誹謗する事はお止めなさい。貴方の書き込みは、このの他の法華講の方々とは違い、知性のひらめきが感じ取れません。感情論は迷惑です。他所でおやり下さい。
沖浦克治 氏へ 投稿者:突撃男 投稿日: 6月 7日(火)00時57分56秒
>まして、創価学会は宗門と離縁以来この御形木様を下付し、会員は蓮祖御図顕の御本尊様として我が命のごとく大切にご安置しお守りをいたしております。すでに功徳の現証は会内に溢れ、この御本尊様のお力を証明して余りあります。
ふぁーはははははっはははははははーーー
功徳だねーー人殺して、数々の事件を起こして、幹部はつきから次へへと非業の死を遂げて!法華講の皆さん!沖浦克治氏 へ座布団100枚!(笑)
「悩乱する者は頭(こうべ)破れて七分となる」 とありますように、大切な御本尊を手放して御不敬され、替わって悪鬼魔神のニセ本尊を祀(まつ)っているような人は、頭破七分・堕地獄(だじごく)は疑いない
>日蓮大聖人様御図顕の御本尊様を、この様に誹謗する事はお止めなさい。
学会の偽本尊が大聖人御図顕だと!どういう根拠ですか?
日寛上人の書写でしょうが!元は!それをカラーコピーしたら魔札だろう!血脈を否定し猊下様の許可なく作った者は魔札だよ!(笑)
突撃男@斉藤氏 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 7日(火)01時19分22秒
それでは、御本尊様が貴方ののところの法主の支配下にある事を、蓮祖の文を引用し証明してください。貴方が証明をされるならば、私は創価学会を退会し、貴方の所属する法華講に入講致します。
御書は、現在ご真筆の現存するもののみを引用してください。法主の書は日蓮正宗の内部規定です。他宗には無力ですので引用は謹んで下さい。
突撃男@斉藤氏 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 7日(火)01時28分44秒
>ふぁーはははははっはははははははーーー
功徳だねーー人殺して、数々の事件を起こして、幹部はつきから次へへと非業の死を遂げて!
先日、妙本寺住職の長谷部師が末期癌のためお亡くなりになられました。私は各掲示板にて、追悼の意を表しました。人として当然だと思います。
河辺師のときもそういたしました。私も貴方も仏法者であり蓮祖門下を名乗る身です。
『一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし。』(諌暁八幡抄)
蓮祖の仰せです。門下を名乗る身であれば、他人の不幸を悲しみ、幸福を素直に喜べる境涯になるべきです。宗門であれ、創価学会員であれ、天理教であれ、同じ人間ですよ。一切衆生の恩が仏法では最も重い恩です。そろそろ境涯を開かれるべきでしょう。
管理人様へ 投稿者:虚空老人 投稿日: 6月 7日(火)10時38分3秒
管理人様、真摯な掲示板を立ち上げられましたことに対して敬意を感じております。
この掲示板は他の掲示板とは異なり礼節を持った掲示板である旨を強調する為に、掲示板の先頭にその旨を利用規則として明示されては如何でしょうか。
管理人様の理想と異なる方向にこの掲示板が向かうのではないかと危惧を感じております。
沖浦さん。 投稿者:terry 投稿日: 6月 7日(火)16時53分31秒
少々強引なやり取りだとは言えませんかね?沖浦さん。
引用の文証に根拠が無いとは、「出世の本懐」が「本門の大御本尊様」では無いと言う事ですね?前に他の板でも少しお話をさせて貰いましたが、これも当然納得いきません。ここは今回のテーマから少し離れてしまうので、今回のテーマの次ではどうでしょうか?
そして、御歴代上人様の文献の引用は不可。理由として学会は他宗だから引用されるのはおかしいと。そうなりますと、現在学会が許可無く改竄、印刷配布する所の御本尊はどう説明を付けられますか?
私は「日蓮正宗」の信徒であります故に御歴代の御法主様の文献を引用するのは当たり前の道理ではないでしょうか?御歴代上人様の引用が不可というのは少々納得致しかねますが、如何でしょうか?ここでのルールにはそのような「規定」は無いと思いますが、御自分のルールを強要されるのはお止め下さい。
私は沖浦さんが過去の学会発言、また学会発行の文献を引用されても結構だと思っております。その方が正邪もはっきりいたしますし、皆さんにも解りやすいのではと思います。
さて、沖浦さんの言われる「紙幅の御本尊と板の御本尊の違い」の問いなんですが、ここの意図が少々解りかねます。私の質問、投稿事項の中に「紙幅の御本尊と板の御本尊」に対しての事項がありましたら、お手数ですが再度引用願えますか?再度私の引用を述べます。
まず、御本尊様の功徳に差があるか?との問いには、総じては同じですが、別しては違うと思います。何故なら、「能所の差別、総別の二義」が義に於いて存するからです。ここは先に述べました。義とは道と言う意味であります。国道は日本橋を基点とし日本中に広がり、県道、市道、私道へと枝葉を伸ばします。また木は根から水分や養分を吸い上げ、幹、枝、葉へと水分、養分を供給しています。結果的に、全ての御本尊は戒壇の大御本尊様の御内証の御書写であります。
『血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相丞の稟丞唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ。秘すべし伝ふべし』(本因妙抄)
に明確に仰せですね。私達の分際で御本尊の御書写の事をあれこれとは言えません。『松野殿御返事』に曰く、
『聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。
其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。
但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。』
『諸法実相抄』に曰く、
『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。』
つまり、解りやすく言いますと、常在様も御形木様も本門の大御本尊様の分身散体であると思います。総じては功徳は同じですが、別しては違うと思います。理の赴く所。総別の二義のうち、別してのお立場(随自意)からの御指南を故意に無視して、平等(随他意)の一面のみを取るのは、如何なものでしょう?と以前お伺い致しました。
御法主上人様がお認めでなければ御本尊にお力が出ない。これは至極当然でしょう。御書以前の問題ではないでしょうか?では身延の御真筆にはお力はあるのでしょうか?あるでもないでも御説明できますか?
宗祖大聖人曰く、
『法華を心得たる人、木絵を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し』(平成新編御書638頁)
第三十一世日因上人曰く、
「木絵の二像は本草木にてあり。しかるを生身の妙覚の仏と開眼したもうことは、大事至極の秘曲なり。
日蓮聖人乃至日因に至るまで三十一代、累も乱れず相伝これなり」
これ以上の明確な文証はないでしょう。ですから学会の配布する御本尊と言われる物は、相貌は日蓮正宗の御本尊に似て、中身は鬼神の入った魔性物と申しているのです。何をどういっても偽物は偽物。ですから私は、『大魔性勝手に模刻勝手に相貌改竄プリントぺらぺらニセ本尊』と申しているのですよ。多分沖浦さんは、この「ぺらぺら」の解釈を「紙と木では云々」の問いに置き換えて御質問されたのではないでしょうか?ちなみに「ぺらぺら」の語源は、学会が配布し出した当時の「ニセ本尊」はそれこそ上からしたまでカレンダー用紙みたいなぺらぺらな紙に一発プリントした様な物でしたので、こう述べています。異論がありますか?
学会の御本尊にお力がある事。これは上記に述べた通り、また先に述べた通りの「魔の功徳」でしょうね。邪宗の功徳です。どこからどこまででは無く、『全て』と言い換えましょう。証拠の提示は上記で致しました。では、沖浦さんの論理で行きますと、「学会の御本尊には功徳がある」と言う事ですね。身延は御真筆がありますが、その御本尊と学会の御本尊は功徳に差がありますか?具体的に御提示下さいますか?また、学会の御本尊に功徳があるとすれば、その根拠があるはずです。これを御書で御証明下さい。
沖浦さんの問いにあります、「御本尊は日蓮正宗の御法主上人の支配下にある」とはどこから出て来た質問でしょう?理解に苦しみます。私達が「御貸し下げ頂いている所の」御本尊様のお話でしょうか?私の発言の中で、「御本尊様は御法主上人様の支配下にある」と言われる箇所を御明示くださいませ。これは沖浦さんが勝手に思っている事ではありませんか?如何でしょう?
「材質等でお力に差がある」これもさきの「ぺらぺら」に端を発した質問でしょう。材質云々ではなく、「ぺらぺら」に対しての沖浦さんの反証でしょう?上記で見解は述べました。
さて、沖浦さん。少しテーマからそれて来ています。話を本題に戻して行きませんか?それと、書き込み内でも触れましたが、貴方がルールを決めてはいけません。私は実名を名乗る貴方に最大限の敬意を持ってお話をしているつもりです。お互いにルールの中で論じ合い研鑽して行きましょう。
再々度お伺いいたします 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月 7日(火)20時14分49秒
まだご回答いただけていないので再々度お伺いいたします。
・・・・・・・・・・
【仏が師匠であり、衆生が弟子である】ことには、沖浦様にも異論がないと思います。
また【仏が
親 であり、衆生が仏子である】ことにも異論はないと思いますが、いかがでしょうか?
残る相違点、<衆生が本、仏が従である>との主張の上からは、曽谷殿御返事の御教示の
『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従 の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。
此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。
法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』
との御文を、どう解釈なさいますでしょうか?
・・・・・・・・・・
沖浦様が自義に適った解釈にお詰まりのようでしたら、代わりに大勝利さんから一往・再往の両義でご説明いただいても結構です。
テーマに沿った討論を進めるためにも宜しくお願いします。
虚空老人さんへ。投稿者の皆様へ。 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月 7日(火)20時21分13秒
虚空老人さんへ
改善提案をいただきまして有難うございます。冒頭に当板の方針を掲載させていただきました。
投稿者の皆様へ
・投稿<1>に基本ルールを掲げてありますので、ご覧になって下さいませ。
*現在、創価学会による印刷および配布の曼荼羅についての討論は、現在の討論テーマではありません。
<テーマ不問の法論BBS>として外野席の用意を検討しておりますので、しばらくお待ち下さいませ。*
管理人・やまさん40
terry さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 7日(火)21時59分15秒
>そして、御歴代上人様の文献の引用は不可。理由として学会は他宗だから引用されるのはおかしいと。
当然ですよ、法主はあなたがたの法主です。私は法主の言葉などに影響を受けません。同じく、私どもの三代にわたる会長の指導を、私はここで引用は致しません。私どもの会長で、あなたがたの会長ではないからです。もしこの板が、創価学会員の研鑽のみの板であれば、参加者は当然創価学会員です。そのときは当然ながら、牧口先生、戸田先生、池田先生のご指導を引用いたします。
ここは、創価学会員、法華講員、双方が論議をする場所です。蓮祖のお言葉と、社会の常識等を持って持説を述べるべきであり、法主の言や、歴代会長の指導は引用すべきではありません。
>そうなりますと、現在学会が許可無く改竄、印刷配布する所の御本尊はどう説明を付けられますか?
許可は蓮祖から頂いております。何故ならば、私どもの御形木様は首題に、南無妙法蓮華経 日蓮。としたためられております。南無妙法蓮華経 日顕。 ではありません。顕師の本尊ではなく、蓮祖の御本尊様です。蓮祖は一切衆生の為にこの御本尊を顕す。と仰せです。一切衆生の中に、当然私どもも含まれております。
『一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、』(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)
この、末代幼稚。の中に、私どもも含まれておりますので、今更蓮祖以外のどなたかの許可などは必要ありません。
>さて、沖浦さんの言われる「紙幅の御本尊と板の御本尊の違い」の問いなんですが、ここの意図が少々解りかねます。私の質問、投稿事項の中に「紙幅の御本尊と板の御本尊」に対しての事項がありましたら、お手数ですが再度引用願えますか?再度私の引用を述べます。
貴方は、すでに私共創価学会員御安置の御形木様を、
>何の許可も無く印刷をしたプリント本尊等には絶対に功徳は生じないのは理の赴く所です。
以上のように誹謗されました。この言葉は、御形木様の材質とサイズ、書写方法に決まりがある事を前提とした発言です。プリントが何故いけないか? 印刷がいいのか?電子コピーはどうなるか?素材は何であれば許されるのか? 御書を引用しお答え下さい。
>結果的に、全ての御本尊は戒壇の大御本尊様の御内証の御書写であります。
違いますよ。仏滅後に10年の差があります。
>御法主上人様がお認めでなければ御本尊にお力が出ない。これは至極当然でしょう。御書以前の問題ではないでしょうか?では身延の御真筆にはお力はあるのでしょ うか?あるでもないでも御説明できますか?
南無妙法蓮華経 日顕。ならその通りです。身延でも何処でも、蓮祖御図顕の御本尊様であればお力は同じです。こんな事は当然だと思います。
>第三十一世日因上人曰く、云々
法華講の会合でどうぞ。
>では、沖浦さんの論理で行きますと、「学会の御本尊には功徳がある」と言う事ですね。身延は御真筆がありますが、その御本尊と学会の御本尊は功徳に差がありま すか?
差があるはずがないでしょう。身延では御真筆に問題があるのではなく、信じる側に、信力、行力がないだけです。
>また、学会の御本尊に功徳があるとすれば、その根拠が あるはずです。これを御書で御証明下さい。
すでに(経王殿御返事)を引用し、蓮祖の御本尊様のお力について述べております。
>沖浦さんの問いにあります、>御本尊は日蓮正宗の御法主上人の支配下にある とはどこから出て来た質問でしょう?理解に苦しみます。
おかしなことを言われますね。法主が認めなければ蓮祖の御図顕の御本尊と言えども無力と、言っているのはあなた方ですよ。法主が御本尊様のお力の有無を決定しているのでしょう。これを世間では、「支配をする」と、言うのです。
>書き込み内でも触れましたが、貴方がルールを決めてはいけません。私は実名を名乗る 貴方に最大限の敬意を持ってお話をしているつもりです。お互いにルールの 中で論じ合い研鑽して行きましょう。
私も皆様方に敬意を持って書き込んでおります。
ルールに、つきましては、私は歴代会長の指導を引き合いに出さない。私と対論する人は、歴代法主の文言を出さない。これでお願いをいたします。
このルールがお嫌でしたら私にレスをつけないで下さい。双方の内部指導者の言を引用することは手前味噌でしかありません。御書と一般常識の範囲で自説を証明不可能であるならば、世間を説得できるはずがありません。
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治
投稿日: 6月
7日(火)22時10分55秒
本迹で論ずれば、仏は迹(手段)衆生は本(目的)です。勝劣で論ずれば、仏は勝、衆生は劣。
本が優れているとの意味ではありません。仏と衆生、どちらの為に法が説かれるか?を、肝心としているのです。生徒より先生は優れているから教育が可能です。
生徒より劣れば教師にはなれませんね。先生が勝、生徒が劣。これが当たりまえです。然しながら、教育は生徒の為に行う行為です。
その行為から論ずれば、生徒が本、先生が迹。こう言う関係になります。
要約すれば、仏は衆生より優れているが、衆生の為に法を説く。この様になります。優れた仏を益々優れさすために、衆生が存在するのではない。
以上ですよ。
宗門の本尊観 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 8日(水)00時08分13秒
宗門の御本尊様に関する説は非常に複雑です。
そもそも順縁広布の時代に常住様では無理でしょう。1000万人が入信すれば、一千万帯の直筆での書写が必要です。 一日に30帯書写をしても、913年かかってしまいます。これでは布教は不可能ですね。そこで御形木様が必要です。印刷が出来るので布教には最適です。
ところが日蓮正宗は、この御本尊様に関する規定があいまいです。御形木様は常住様と同お力が違うのか?お力に差が無ければ、何故二種類の御本尊があるのか?御安置の方法は双方相違はありません。後、未来本尊とか、導師曼荼羅とか、御書に無い本尊が何種類もあります。
極めつけは、法主が認めなければたとえ蓮祖の直筆でも駄目。邪義の極みです。法主が蓮祖を凌いでどうしますか?
法主は管理人の立場です。言明した法主もいましたね。御本尊様を複雑にしてはいけませんね。
本従の義 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月 8日(水)00時42分19秒
沖浦様のお答えは「主徳」についてではなく「師徳」についての説明であると思います。私がお聞きしたいのは
『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。
此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。
法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』
この御文を通釈して「主師親三徳に存する本従の義」をどうとらえるのかを説明して欲しいのですが?
仏は衆生より勝れている(聖)がゆえに、衆生(愚)を不憫に思い、利益するために仏の種を植えてくださる。
衆生は植えられた仏種により内在する仏性が薫発され、仏の恩を知り、仏恩に報いる。
主師親三徳に対する報恩の心(教主⇔信徒・師匠⇔弟子・親⇔仏子・それぞれに主従がある)が生ずるがゆえに、三悪趣から離れることができる(開目抄の冒頭)のではありませんか?
また >優れた仏を益々優れさすために、衆生が存在するのではない。
というこの言葉に沖浦様の「仏と衆生」観が現れているような気がいたします。
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 8日(水)07時17分9秒
これは釈迦仏法のお立場での表現でしょう。又、対告衆の曾谷入道は迹門不読等の己義をしばしば構えた人です。 蓮祖は釈迦仏法の立場をもって、諄々と諭されておられるのでしょう。この時代は蓮祖が本音を言い難い時代です。 同じ御書には、貴方の引用されたご文の前段に、
『然るに上行菩薩等末法の始の五百年に出生して此の境智の二法たる五字を弘めさせ給うべしと見えたり経文赫赫たり明明たり誰か是を論ぜん、
日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、』
と、お述べです。貴方のようにご文を現代の立場から読まず、文上だけを拝すれば、蓮祖は上行菩薩では無い。と、いう事になります。
すでに何度か述べておりますね。蓮祖が『邪宗の僧侶の頸を刎ねよ』(趣意)と仰せならば、あなたがたは他宗の指導者の頸を刎ねますか?蓮祖の御書を拝するに、教条主義ではいけないことは明白でしょう。何度も言っておりますが、御書に現実を当てはめる行為は間違いです。
現実の立場より御書を拝し、生活に正しく反映する。肝要ですね。困難な作業です。
仏は衆生の為に出現し、法は衆生の救済を目的として説かれる。大原則です。
法は手段、衆生の救済が大目的。
蓮祖は
『第二成就大願愍衆生故生於悪世広演此経の事
御義口伝に云く大願とは法華弘通なり愍衆生故とは日本国の一切衆生なり生於悪世の人とは日蓮等の類いなり
広とは南閻浮提なり此経とは題目なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり。』 (御義口伝巻上)
と、法の弘通により民衆を救済することが最も大きな目的。と、明言をされておられます。蓮祖ですら民衆救済の為に御出現です。蓮祖の御行動は、一生を通してこの一点から外れてはおられません。私はこれが仏法の真髄と思っています。御書を拝するとき、この精神を忘れれば読み方を誤るでしょう。
>仏は衆生より勝れている(聖)がゆえに、衆生(愚)を不憫に思い、利益するために仏の種を植えてくださる。
不憫に思う、植えてくださる、よくない表現ですね。仏とはそのための存在です。私は仏を敬うべきだと思います。しかし盲従はいけません。貴方のような表現は、必ず体制に利用をされるでしょう。いいですか、蓮祖の法では三宝の恩よりも、一切衆生の恩、が第一の恩ですよ。
『四恩とは心地観経に云く一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し、
又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき、』 (四恩抄)
これに比して三宝の恩は第四番目にあげておられます。
『四には三宝の恩、釈迦如来無量劫の間菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、』(同)
これらの御書を総体して読み、現実の立場から拝すべく努力をされるべきでしょう。
>>優れた仏を益々優れさすために、衆生が存在するのではない。
この言葉に沖浦様の「仏と衆生」観が現れているような気がいたします。
そう感じることはご自由でしょう。
が、法華講では、衆生は仏を益々優れさせるための存在と教えるのですか?もしそうであれば、すでに蓮祖の仏法ではありません。
主師親の三徳を仏が備え、衆生がその仏の法に従って成仏をなす。当然の事です。一度として否定をしてはおりません。この事実からも、仏が迹、衆生が本である事が容易に連想できるのです。
仏が、出世の本懐である衆生の救済を実行するためには、自身が三徳を備えることが絶対条件なのです。そのために大変な思いをし、命をかけて悟りを開くのでしょう。自己満足の為に悟りを開いた仏。など、聞いたこともありません。故に蓮祖は
『身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ』(注*開目抄)
と、自己完成の為にのみ修行をすることを、固く戒めておられると思います。
蓮祖ですら民衆救済を大願とし、自らの命を削るご修行をなされたのです。 仏が民衆の為に存在する事は明白です。
貴方の書き込みを拝見いたしますと、失礼ながら現実の立場から御書を拝する努力のあとが見受けられません。法華講の方々の癖のように感じます。これでは布教が出来ないはずです。創価学会の教学には太刀打ちが出来ないでしょう。
沖浦さん。 投稿者:terry 投稿日: 6月 8日(水)16時52分52秒
現在のテーマに則してのお話、管理人と筋を立ててお話をされておりますが、私個人的には沖浦さんの言われる事の御自身のスタンス、また「御本尊」に関しての事項が全くと言って良い位に納得出来かねますし、間違っていると断言致します。ここの板は「テーマに則した討論」なので、新しく板を御用意致します。<外野席>となっておりますが、ここで発生した色々な事項に付いて対論致したく思います。
よって、新しい板が出来るまでの間は、少々本来のテーマからは逸れますが、このまま貴殿の書き込みに対し反論して行きたく思います。
1)まず、沖浦さんのスタンスは本当に学会員のスタンスと解釈してよろしいのでしょうか?今までの発言等を拝見しておりますと、少々学会のスタンスと言うよりは 「我見・己義」の解釈が強い様に思われます。
貴殿がこの板を他の学会員にお勧めし、皆さんが閲覧しているのでしょう?まして記録も残して頂いている様なので、はっきりと御答え頂きたい物です。また、内 容によって学会員のスタンスを取ったり、個人だけの意見を述べるのは一貫性が無く、個人個人で意見が分かれる事になります。これは全く持って主張に一貫性を 欠く物であり、やはり創価学会の矛盾性、間違った宗教観と言わざるを得ないと思います。貴殿の引用、主張は「創価学会の公式見解」に則っているのでしょうか ?もしそうでなければ、沖浦さんは何故に創価学会員なのでしょうか?
2)当方の「現在学会が許可無く改竄、印刷配布する所の御本尊なるものはどう説明つけるか?に対して、貴殿は >許可は蓮祖よりいただいております。
こうありますが、これは御証明不能でしょう。私の御書には見当たりませんが、どこに載っておりますか?
蓮祖の許可を得たと言われるなら、客観的証拠を御提示下さい。
3)>首題に南妙法蓮華経 日蓮と認められております。云々〜
では、その御本尊はどなたの書写でしょうか?書写された方は度外視してもよろしいのでしょうか?
4)>末代幼稚 の中に私どもが含まれている事が、どうして今更蓮祖以外のどなたかの許可等も必要ないと言えるのか、ここも客観的証拠、文証を明示して下さい。
5)>この言葉は、御形木様の材質とサイズ、書写方法に決まりがある事を前提とした発言です。
>プリントが何故いけないか?印刷がいいのか?電子コピーはどうなるのか?素材は何であれば許されるのか?
ここは、全く持って論外です。ただの難癖でしょうが。いいですか?沖浦さん。私は先に述べましたし、過去からの諸先輩方の破折、また破門前の学会でも散々こ のような擬難は破してきたはずです。
結論から言えば、私達信徒の分際で御本尊書写に関しては、口を出してはいけないのです。ここは文証を引いてお答え致しました。が、貴殿は引用不可だと言わ れる。まして法華講内でやりなさいと。こんな逃げ口上はないでしょうが。それでは自身に取って都合の悪い証拠は引用を制限し、あくまで我見で判断するのです か?そ の場合、物の正邪はどうやって判断するのでしょう。まさに貴殿の論法は我見で物を言っているに過ぎないのです。
6)>違いますよ。仏滅後に10年の差があります。
それでは、これも客観的証拠を明示下さい。
7)>南妙法蓮華経 日蓮。ならその通りです。身延でも何処でも、蓮祖御図顕の御本尊様であればお力は同じです。こんな事は当然だと思います。
ここは、およそ学会員とは思えない御発言ですね。では、沖浦さんは邪宗でも成仏が可能と仰るのですね?蓮祖御図顕ならお力は同じと。過去破門前の学会ではお よそそんな邪義は構えてはいませんでしたが、破門されてからそのような解釈になったと理解してよろしいのですね?
8)>学会と身延の御本尊には功徳、お力に差がある筈が無い。身延では御真筆に問題がある訳でなく、信力・行力がないだけ。
これもおかしな事を言われますね。沖浦さん。では、その信力・行力はどの位なら功徳が出たり出なかったりするのでしょうか?池田さんは出る?秋谷さんも出る ?はたまた地方幹部はどうでしょう?信心してどれ位なら功徳が出るのでしょうか?身延ではどれ位でしょうか?明快に客観的証拠を明示下さい。
9)>すでに経王殿御返事を引用し、蓮祖の御本尊様のお力について述べております。
貴殿が引用した文証は相伝のある正宗信徒が引く文証です。もはや相伝の無い貴殿等が引かれても何ら意味を持たないのは当然の事。
由来法門上の異説異見は何によって起こるかといえば、機根が猶お未だ熟さないうちに御書の一文一義に執して妄断するからである。妄りに断ずるからである。 即ち我見に任せて己義を立つるからである。古来仏法に於いて相丞を尊び師伝を重んずるのは一に此の弊をなからしむるためである。
聖祖は『法華経は相伝に非ずんば知り難し』と仰せられている。蓋し仏法の奥底は相伝によって正しく理解することが出来るからである。
(日蓮正宗聖典「序」)
つまり学会には相伝が無い訳ですね。幾ら御書を引用しようが、御本尊に関しての意見を述べようが、はっきりと『相伝に非ずんば知り難し』と仰せなのですから 相伝の無い学会に正当性は全く無いと断言します。
(注*聖典序分は、総本山64世 日昇上人様の御執筆)
10)>御法主が認めなければ、蓮祖御図顕の御本尊と言えども無力。と言っているのはあなた方ですよ。
全くその通りですよ。沖浦さん。何回も他で引用しましたが、当たり前ではないですか。
当方引用の文証を否定されるのなら、文証を引いて反論して下さい。自論ではなく。
何回も言わせて頂きますと、『相伝に非ずんば知り難し』ですよ。沖浦さん。学会員が幾ら文献を引いた所で、相伝が無いので意味をなさないのです。
異論がありますか?
terry さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 8日(水)21時14分30秒
>貴殿の引用、主張は「創価学会の公式見解」に則っているのでしょうか?
もしそうでな ければ、沖浦さんは何故に創価学会員なのでしょうか?
最初にお断りをしておりますよ。再度掲示をします。
>創価学会員です。創価学会の公式見解には、全く束縛をされません。私は私、創価学会の見解は見解。以上の立場です。
従いまして、全ての問題で創価学会としての公式な見解をお知りになられたい方は、創価学会の広報等にお問い合わせ下さい。
>>許可は蓮祖よりいただいております。
>こうありますが、これは御証明不能でしょう。私の御書には見当たりませんが、どこに載っておりますか?
すでに掲示いたしました。
>では、その御本尊はどなたの書写でしょうか?書写された方は度外視してもよろしいのでしょうか?
寛氏です。私は寛氏の書写に文句はありませんよ。
(注*「寛氏」は「寛師」のミスタイプであろうか?あえて沖浦氏が「氏」としているのか?は不明)
>>末代幼稚 の中に私どもが含まれている事が、どうして今更蓮祖以外のどなたかの許可等も必要ないと言えるのか、ここも客観的証拠、文証を明示して下さい。
すでに示しました。蓮祖が末代幼稚の頸にかける。と仰せになられたのです。末法の一切衆生の為に。と、拝せます。
蓮祖の一切衆生の中には私も、貴方も、天理教員も、全て含まれます。全人類という意味です。
>ここは、全く持って論外です。ただの難癖でしょうが。
難癖は貴方です。創価学会の下付の御形木様が、安物のプリントであるが故お力が無い。と、言い出したのは貴方です。
>ここは文証を引いてお答え致しました。
文証にはなりません。私にとっては他宗の代表であった人です。真言宗の何代目かの座主がどう言ったこう言った。と、全く同じです。
貴方がたの内部規定を私に押し付けないで下さい。内部の問題は内部でおやり下さい。
最初にはっきりとお断りをしております。再掲示いたしますのでよくお読みくださいませ。
>また法主が認める認めないは貴宗の内部規定に過ぎませんので、当方はそのような他宗の内部規定には当然束縛をされません。
法主の権限につきましてはそちら様でご自由にご検討くださいませ。たとえば顕師はあなたがたの法主で、私にとりましては無関係の他宗の代表にすぎません。
このあたりは、ソニーの社内規定や社長の権能が、東芝の社員になんら効力を持たないことと同様にお考え下さい。
terry さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 8日(水)21時30分15秒
>およそ学会員とは思えない御発言ですね。では、沖浦さんは邪宗でも成仏が可能と仰るのですね?
邪宗では成仏は不可能です。創価学会以外は全て駄目です。
>これもおかしな事を言われますね。沖浦さん。では、その信力・行力はどの位なら功徳 が出たり出なかったりするのでしょうか?
創価学会に入会し蓮祖の御本尊様にお題目を唱えれば、大なり小なり功徳はあるでしょう。当然個人個人で信心の厚薄がありますので、線引きは不可能でしょうね。
>身延ではどれ位でしょうか?明快に客観的証拠を明示下さい。
身延では無理ですよ。明快な客観的な最低限の条件は、創価学会員である事。ですね。
>貴殿が引用した文証は相伝のある正宗信徒が引く文証です。
もはや相伝の無い貴殿等が 引かれても何ら意味を持たないのは当然の事。
相伝は創価学会にのみあります。貴方方にはありません。
>由来法門上の異説異見は 云々
内部のお話は内部でおやり下さい。
>>御法主が認めなければ、蓮祖御図顕の御本尊と言えども無力。と言っているのはあなた方ですよ。
全くその通りですよ。沖浦さん。何回も他で引用しましたが、当たり前ではないですか。
当方引用の文証を否定されるのなら、文証を引いて反論して下さい。自論ではなく。
ですから、貴方が貴方方の法主がご本尊様を支配している。と、お考えになる事は全くのご自由です。しかし私はそんな余事に頓着いたしません。私は拙宅に御安置 の蓮祖の御本尊様に満足を致しております。余計な干渉はご無用に願います。
貴方方はしばしば、御本尊様のことは信徒が云々すべきではない。と、言われます。これもご自由でしょう。私はそんな考えを持ちません。これも私の自由です。
お互いに内部規定を押し付ける必要などはありません。
やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月 8日(水)23時31分19秒
>沖浦様が自義に適った解釈にお詰まりのようでしたら、代わりに大勝利さんから一往・再往の両義でご説明いただいても結構です。
小生は、沖浦様、又、創価学会の代弁者では御座いませんので、御理解願います。
小生は、貴殿に<本>と<従>を対に立て、差を別けるのはいかがなものか?と申し上げたいので御座います。
貴殿の掲載した
『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。
此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。
法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』
から、本従と師を配当すれば、明確に、本従⇔衆生であり、師⇔教主釈尊、であることは『釈尊は一切衆生の本従の師にて』とそこに書いてあるその儘でしょう。
<主従>という表現は主君家来の関係を連想させるので小生はあまり馴染まないと感想を持っています。而も主従という語句は真筆遺文中には見られず、祖師大聖人も好んで使用したとは思えないのです。
然し敢えて貴殿が此の御書から<主>と<従>を別するのであれば、やはり主⇔釈尊、従⇔衆生でしょう。発迹顕本、本仏論から、どう拝するかは言うまでもありません。
沖浦様の提案に則り敢えて引用致しませんが小生は、本従り迹を垂れる、竹の節に上下の差別はありますが、総じて同じ竹と見るのです。大石寺に住する達師と出張講演する達師とではどちらが<主>で<従>でありましょうか?
<主従>に囚われていると、<本迹>を見失う事になるのではと、申し上げておきます。
沖浦様・大勝利さんへ 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月 9日(木)05時43分
「仏」と一言にいっても、そこには「已成の仏」と「当成の仏」の差別が厳然としてあります。
・「已成の仏」・・・自解仏乗。能開。仏種を所持される植え手。
・「当成の仏」・・・已成の仏の教化され仏種を受け修行して己心中の仏性を開花させ仏果を成ずる衆生。所開。
大聖人様は開目抄に
『日蓮は日本国の諸人に主師父母なり』
と仰せです。
大聖人様と私達の間に<主・師・親><従・弟・子>の尊敬の関係があるのは当然であり、なんら時代背景に影響されるものではありません。
唱法華題目抄に曰く
『謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順の義なり』
富木入道殿御返事に曰く
『人の心は禽獣に同じく、主師親を知らず。何に況んや仏法の邪正、師の善悪は思ひもよらざるをや』と。
学会員も「御書は絶対」と言う、その通りではありませんか?
それから、私は今夕から土曜の夕方まで、夏期講習会で総本山へ登山するために留守にします。
この<本従>のとらえ方こそ、日蓮正宗と創価学会の違いを端的に表すものでありますから下山後に更に継続していきましょう。
その間、投稿者(双方)のみなさまにて、議論を進めていただければ幸いに存じます。
原理主義はいけませんね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 9日(木)06時19分
>大聖人様は開目抄に『日蓮は日本国の諸人に主師父母なり』と仰せです。大聖人様と私達の間に<主・師・親><従・弟・子>の尊敬の関係があるのは当然であり、
開目抄のご文を否定した事はありません。然しながら現代社会ではすでに、主と従。の概念が、蓮祖の時代とは全く異なっております。封建主義で身分社会における主従との概念を、民主主義の主権在民の現在に無理やり当てあめることは間違いです。原理主義からはなにも生まれませんよ。
三徳の中の主の徳というものは、現在日本では法治国家である社会そのものが備えている、国民の人権を守る社会の性格のことを示すのです。蓮祖の時代の主従関係は、従者は主人の命令があれば命をも差し出す関係でした。
現代の主従関係は主に雇用関係です。雇用主と従業員の法の下での平等は憲法で保証をされています。貴方は社長が信心をやめろ。といえば、やめますか? やめないでしょう。それで命をとられますか?とられないでしょう。自由な世の中です。
主従の関係が蓮祖の時代とは180度違うのです。現代社会で、蓮祖の時代の価値観を振りかざすことを私は致しません。無論、貴方が他がこれを大上段に振りかざす事はご自由です。
学会員も「御書は絶対」と言う、その通りではありませんか? 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 9日(木)06時30分59秒
絶対である御書を現代社会の立場から読み、あやまたず解釈をする事は至難の業です。蓮祖とご同様のご境涯のお方にのみ可能です。蓮祖滅後、この様にして御書の文々句々を社会に正しくお開きになられたお方は戸田先生お一人です。だから創価学会は広まったのです。日蓮正宗にはこの読み方が出来ません。故に現代に至るも布教が出来ないのです。
現実に、ここでの法華講の方の書き込みを見るに、自分の言葉や独自のものの捉え方は皆無に等しいと感じますし、論に詰まれば決め付け、それでも駄目なら感情的になって書き逃げに走っています。原理主義に陥っている証拠ですね。
日蓮正宗の歴代法主の言 投稿者:沖浦克治 投稿日:6月 9日(木)06時46分10秒
日蓮正宗の信徒には有効でしょう。他宗には全く無力です。
創価学会、日蓮正宗、正信会、顕正会。蓮祖本仏論を用い、蓮祖御図顕の御本尊様を御安置する宗教団体は、主にこの4つでしょう。
正信会、顕正会は知らず。創価学会は、現在歴代法主の言葉を重要視してはおりません。寛氏の書を学ぶ事もなくなりました。
創価学会と日蓮正宗の共通点は、蓮祖ご本仏、御書を用いている、蓮祖の御図顕の御本尊をご安置する。以上の三つです。
双方論議の際は、この範囲と社会の一般常識にて自らの意見を述べねばなりません。共通語はこの三つだけですよ。
法主の言葉は、双方の共通語からはすでに外れているのです。私と対話するお方は法主の言葉を引用しないで下さい。
他宗の代表者であっただけの人の言を、蓮祖の金言とごちゃ混ぜにして引用される事は、蓮祖門下として非常に不愉快です。
更に個人的に私は、仏法は蓮祖以来何者も介さず〜戸田先生。と、信じる身です。私にとって、法主の言などは全く意味をなしません。
引用は固くお断りをしますので、くれぐれもお願いを致します。
やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月 9日(木)10時05分52秒
> <主・師・親><従・弟・子>の尊敬の関係があるのは当然
尊敬とは、関係性に依るのですか?違うでしょう。
尊敬する側と尊敬を受ける側が上下関係により既定していると御考えですか?
貴殿の引用の「曾谷殿御返事」の前段
『但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり、
末世の僧等は仏法の道理をばしらずして我慢に著して師をいやしみ檀那をへつらふなり、
但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ』
御一考をお願いしたいと思います。
曽谷殿御返事より 1 投稿者:卞氏 投稿日: 6月 9日(木)10時15分26秒
曽谷殿ご返事より、もう少し前後を参考に、「本」の意味の違いを見てください。皆さんのお手伝いをしたいのです。
***
下記、A、B、Cは同じ事を言葉を変えて表現しているものです。
文底でいえば、法師=此の仏=此の仏菩薩であり、久遠元初の自受用報身如来(末法の御本仏)でよいのですが、曽谷殿という対告衆へのその意味を考える時には、文上での解釈も必要になります。
A: 『経に云く「在在諸の仏土に、常に師と倶に生ぜん」。
又云く「若し法師に親近せば、速かに菩薩の道を得ん、是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」。
』
⇒経典にはこうある。「在在諸々の仏の地に、常に師とともに生まれてくる」
また、「もし、法師に親近すれば、速やかに菩薩の道を得るだろう。この師に随順して学ぶならば、幾多の仏を見ることができるだろう。」と。
☆ここでは、法師とは坊主のことではない。
B: 『釈に云く「本此の仏に従て初めて道心を発し、亦此の仏に従て不退地に住す」。』
⇒天台の釈にはこうある。「本(もと)より、この仏に従って初めて道心を起こして、また、この仏に従って不退転の位になった。」と。
☆ここの【本】は、本従の本ではなく、「最初に」という意味です。混同してはいけません。
C: 『又云く「初め此の仏菩薩に従て結縁し還此の仏菩薩に於て成就す」云云。』
⇒また、「始めは仏や菩薩に従って縁を結び、はたまた、この仏菩薩において成就された云々。」と。
☆これらABCに共通することとして、このように「初発心」のときの仏も「成就させるため」の仏も同一の仏であり、
それに従っていくことが成仏の要諦になることを示唆しています。
ここで、先ほどの
『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。』
『釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。』
を続けて読めば、
⇒本従を間違えずに成仏せしめなさい。釈尊は一切衆生に「本従(という成仏の要諦)を明かされる」師で、しかも主親の徳を備えています。
となります。
☆曽谷殿は、入道(武士を含め僧体でありながら、在俗の立場がある)という立場から、単純な信徒ではありません。人を化導するがわの立場にあったのです。
そのことを誤解していると、この御書をして「信徒は僧俗の身分を弁えよ」みたいな解釈が生まれてしまいます。それではいくら読んでも理解不可能です。
ここでは、教えを聞く人に対して「釈尊の教えの要諦である、本従を間違えないようにして、成仏させるように教えていくのですよ。」との強調をしているわけです。「釈尊の教えの本従ということを弁えて、教えるように」との意味と。たびたび己義を言ってしまう曽谷殿への戒めの意味として、「己義を構えて釈尊の教えのように言ってはならない。あくまでも釈尊の教えの本従を弁えて、教えるように。」との意がこめられているものと拝せます。
そして、成仏の要諦は、あくまでも「教主釈尊」(文底では御本尊)へ向かうことであり、入道殿もまたその回りの人たちも、そういうふうになるようにとの配慮から、この3つの文を出してこられたのでしょう。
☆ここでの本従は、『釈迦が本、一切衆生が従』という位置付けを言っているものでは有りません。本従をたがえて教えてはならないのであって、
仮にこの文のあとに、「本が衆生であって、従が仏であるということ」をキチンと教えなさい、と言っても問題(矛盾)は生じませんが、
特段その「本が衆生、従が仏」ということわざわざ曽谷殿に言う必要もないとお考えがあってのことと思います。
最後に、注目していただきたい部分はここです。
『此法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆ふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然どもいまだこりず候。』
⇒日蓮は此法門<=教主釈尊(法華経を立てる師)が本来の師であり、法華経を根本(法師・仏)とすべきで悪い坊主(法然等)がいう法華経を捨てる教えは
間違いということ>を言ってきたから、忠言が耳に痛いという道理のゆえに、流罪にさせられ・・・)
☆このように一連の解釈がなされれば、このお手紙が一貫性を持つ指導になり、なんら「本=衆生、迹=仏」という沖浦氏の解説や
諸法実相抄『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』ともなんら矛盾は生じません。
以上。
曽谷殿御返事より 2 投稿者:卞氏 投稿日: 6月 9日(木)11時34分7秒
『法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。』
⇒ 法華経は種のようなものである。仏は植手のようなものである。衆生は田のようなものである。
☆ここでは、まとめとして「仏、法華経、衆生」の関係性について述べられています。
仏は法華経という種を、衆生という田に植える役割を担うのである。衆生が目的であり、仏は法華経を植える役割と言っているのです。
(これは沖浦氏の説明と合致します)
「田」という表現で思い出すのは、伝統的に使われる「心田」という表現ですね。田んぼとは稲が育っていくという本然的性質があります。それを成仏する様 に例えて「田」としたわけで、「仏が上、衆生が下」「仏が主、衆生が従」という関係では有りません。
もともと成仏の本因は衆生の側に存在するのです。ほんのちょっと、種を植えるだけ。それが仏の役割です。
曽谷殿には、法華経の敵を責めねばならないということで、【但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ
】と僧のあり方を述べておられます。 あくまでも衆生を的にされているという大聖人の御心を拝していきましょう。
『若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』
☆曽谷殿に釘を指している部分です。やはり曽谷殿には、チョッとした悪い癖がおありのようでした。
横レスのようですが、ちょっと気になりましたので。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月 9日(木)13時40分47秒
>貴殿がこの板を他の学会員にお勧めし、皆さんが閲覧しているのでしょう?まして記録も残して頂いている様なので、はっきりと御答え頂きたい物です。
また、内容によって学会員のスタンスを取ったり、個人だけの意見を述べるのは一貫性が無く、個人個人で意見が分かれる事になります。
ご心配頂いているようですので、参加に際して学会員は立場表明と共に、この件についての是非も答えるべきでしょうか。
(注*前日のterryさん → 沖浦さんへの質問@に対して)
当方は、一向に構いません。公式見解を聞きたいのでしたら学会へどうぞ。
学会は掲示板で公式見解を発表することはありませんから、それしか方法は無いと思います。学会か法華講かとの立場を必ず示すようにとの提案は、そちらの案分です。
もとより、テーマに沿って意見を交わすのに本来的立場は、沖浦氏の言うように「大聖人の門下」という共通基盤に立つ以外にないとおもいます。そのうえで、学会か法華講かという立場は、その議論にあたってどちらが大聖人の門下として相応しいのか、どちらの団体が仏法を正しく伝えているだろうかを、総合的に第三者が判定する最終的な立場にあたるものであって、議論の方向性を考えるための手段にするべきものではないと考えます。
沖浦さんの意見は沖浦さんの意見として拝聴いたします。私の意見は私の意見として書かせてもらいます。また、意見が異なるからといって瓦解するような創価学会ではありませんから、全くご心配には及びません。もしそのような書き込みスタイルが、そちらを混乱させてしまい、困るというのであれば言ってください。できうるかぎり解説に努めましょう。
それでも嫌なら、法華講さんの掲示板ですから、こちらが出て行くしかないでしょう。意見について間違いがあれば「御書」を通して指摘していただければと思います。
terry さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 9日(木)21時22分27秒
何故私が貴方の理想とする創価学会員のパターンで無ければならないか?
理由が理解不能です。貴方が創価学会員はこうあるべき。と、思う事はご勝手ですが、私に押し付けないで下さいね。
法主を貴方が尊敬する事はご自由ですが、私に押し付けないで下さいね。創価学会の御形木様がお嫌いならそれで結構です。私は気に入っているのです。女房を私が気に入っているのと同じです。貴方の御本尊に関する決め事は貴方のもので、私には違う思いがあるのですよ。
創価学会の公式見解を私に求めないで下さいませ。何の為に創価学会に広報があるのでしょうか?
日蓮正宗の歴代法主の評価 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 9日(木)21時29分25秒
基本的には興師以外の法主を評価いたしません。寛氏はそれなりに、亨師は戸田先生を助けた面を、淳氏は、創価学会を支えた部分を評価いたしております。
お題目も 御本尊様も全人類のものです 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月 9日(木)21時49分26秒
仏法は一切衆生の為にとかれます。当然、御本尊様は末法の一切衆生の為に顕されたのです。
『一切衆生開会の文は「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」、』 (一代聖教大意)
蓮祖の仰せです。蓮祖は、御本尊様を末法の一切衆生の為に顕しおかれました。このご文証に文句があるのでしたら、文句は蓮祖に言ってください。蓮祖が、我が法は一切衆生のため。と言われればその件はそれでおしまいです。
もし法華講の方々で、お題目と御本尊様はご自分達の為にのみ存在する。と、お思いでしたら、私に蓮祖の法を語らないで下さい。その人は蓮祖門下ではありません。私にとって、そのようなお方と蓮祖の法を語ることは無駄な行為です。他の方とおやりくださいませ。
お題目も 御本尊様も全人類のものです 投稿者:突撃男 投稿日: 6月10日(金)06時02分17秒
そりゃそうだ!学会のような謗法がこの世から消えて、真の正法が広宣流布した暁はな!
日達上人も「間違った法が広まってもそれは広宣流布とはいえない」と御指南されたし、同じ題目でも学会の題目、身延の題目、佼成会の題目とたくさんある。
このような謗法の題目が消えて、正法の題目が残った時だよ!(笑)
>創価学会の御形木様
偽御形木だろう!嫌いに決まっているだろう!(笑) 地獄に堕ちたくないもん!(大笑い)
突撃男 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月10日(金)06時51分26秒
ここで決め付けはお止め下さい。御書を引用し、自説を述べてください。でなければ会話の場とはなりません。
私は、現法主の日顕氏を全く評価を致しません。が、ネットで何処の掲示板に書き込むときも、顕師。と、師号でお呼び致します。私が、くそ日顕(失礼)と呼び貴方が阿保大作と返せば、会話はそれで終わりになります。宗教の使命は布教にあります。双方罵り合って布教が出来るとは思えません。ご一考くださいませ。
特にご本尊は根本尊敬の略語であり、信者である我々会員にとって最も大切に思うものです。私共はこの御形木様を、日蓮大聖人様の御魂。と、して、大切に御安置を申し上げております。貴方に、他人の大切なご本尊様をゆえなく誹謗する権利があるとは思えません。又、蓮祖御図顕のご本尊を誹謗すれば地獄に落ちる。と、言われております。気をつけられるべきでしょう。
もし、創価学会下付の御形木様に疑義のあるお方は、御書を引用し慎重にお話下さい。事は御本尊様に関する話題です。軽々に偽もの扱いが出来る道理がありません。
全然ダメですね、沖浦さん。 投稿者:terry 投稿日: 6月10日(金)16時59分
貴殿の解答は全く持って論外、己義・我見の極みと言う他はありませんね。最初からのスタンスがまずおかしいでしょう。
いいですか?「創価学会の公式見解に左右されない学会員」とは一体何なんでしょう?おかしいですね。沖浦さん。
学会員それぞれが「創価学会と言う自称宗教団体」の宗義を個別に構えていると言う事ですよ?やはり「創価学会と言う名の文化団体」であって、およそ宗教とは呼べない事がはっきり解りましたよ。やはりこれはニセ本尊の害毒なんでしょうか?もしくは生来の業によるものでしょうか?
前者ならば即刻廃棄すべきでしょう。後者なら全く人間革命なんぞは出来てはいないって事になりますね。やはり即刻廃棄するべきでしょう。
如何ですか?学会広報で教えて頂けますかねぇ?
>許可は蓮祖より頂いております。
>すでに提示致しました。
これは全然ダメです。テストなら0点ですよ、沖浦さん。まさか夢でも見たんでしょうか?
私は、「学会が勝手に御本尊を改竄・模刻し、勝手に印刷配布するのは如何なものか?」と聞いています。
貴殿は「許可は蓮祖より頂いております」と言いましたね。
ですから「客観的な証拠・文献・文証」を明示してくださいといっております。速やかに明示して下さい。沖浦さんの感想文は結構です。
>私は寛氏の書写に文句はありませんよ。
およそ貴殿の慢心・僑慢ぶりには閉口致します。現在の学会の姿を如実に顕わす一言ですね。では、どなたなら満足でどなたは不満足なんでしょうか?
客観的証拠を明示して下さい。
>末代幼稚の云々〜
ここも全くダメでしょう。ですから、それが何故に蓮祖以外のどなたの許可も必要ないと言えるのですか?貴殿の「妄想話」ではダメでしょう。
もし仮に貴殿の意見が正論だとしたら、創価学会なんて物は最初からいらないでしょう。皆さん勝手に「許可を得た」と言えばいいのです。
貴殿の言われる様に「勝手に模刻、勝手に改竄、勝手に印刷配布」が問題無しなら、何故「御本尊」は存在するのですかね?
また、貴殿は何故御本尊を拝むのでしょうか?全く理解不能です。客観的証拠を引用して御覧なさい。0点どころかマイナスですよ、沖浦さん。
>創価学会の下付の御形木様が、安物のプリントであるが故にお力が無い。と言い出したのは貴方です。
そうですよ。全く持ってその通りでしょう。ただし大事な所が抜けていますよ、沖浦さん。
再度述べましょうか?『大魔性勝手に改竄模刻プリントぺらぺらニセ本尊』たる所以を。
1)御法体を相丞される猊下様の許可無く、
2)勿論、唯授一人の深秘である草木成仏の御開眼も無く、
3)授与書きを削り、
4)勝手に文字に変造を加え、
5)随分安っぽい紙に、ベタ印刷
(昔はカレンダー紙だった様な気がしますが、今は普通紙の様ですねぇ。しかも、裏打ち紙が妙に粗末なので直ぐにシワが出て痛みやすい物ですね。
随分とローコストで仕上げた物だそうです。・・・内装屋さん曰く。)
まさに戸田先生が言う所の「偽札本尊」に間違いないでしょう。自慢の教学で正当化されますか?沖浦さん。何をどう言った所で『偽物は偽物』ですよ。
それ以上も以下も無い。ただの偽物です。しかも魔仏です。ですから、『大魔性勝手に改竄模刻プリントぺらぺらニセ本尊』と言ってるのです。その通りでしょう?
>文証にはなりません。私に取っては他宗の代表であった人です。
そうですか。なら宗祖大聖人様以下、御歴代の御上人様方は日蓮正宗の代々の御法主様ですので、学会での引用は一切お止めになられるがよろしいかと。
特に沖浦さんは学会公式見解に左右されないと明言されているのですから、今後勤行の際も一切お名前も拝するのはお止めなさい。自語相違なさりません様。
ますますダメです、沖浦さん。 投稿者:terry 投稿日: 6月10日(金)17時17分6秒
>邪宗では成仏は不可能です。創価学会以外は全て駄目です。
おかしいですねぇ、沖浦さん。だって貴殿は御真筆ならお力は一緒だって言われましたよ。では、身延の信力・行力のある坊さんは学会が出来た時から成仏は不可能になったのですか?これは珍説ですねぇ。貴殿が言われる創価学会以外では成仏しないと言う「客観的証拠」を御提示下さい。感想文は不可です。
おかしいと言えば、学会に入会し題目を唱えれば大なり小なりの功徳はあると言いますが、勤行0分の池田さんはどんなもんでしょうか?参考までに沖浦さんの意見をお聞かせ願えますかねぇ?果たして池田さんは成仏可能なんでしょうか?私は池田さんは頭から真っ逆さまに堕獄行きは必定だと思いますがねぇ。
>身延では無理ですよ。明快な客観的な最低限の条件は、創価学会員である事。ですね。
あれあれ、自語相違ですね。沖浦さん。では、創価学会員で無ければいけないとの文証を拝見しましょうか。是非「全文記載」してみて下さい。
>相伝は創価学会にのみあります。貴方方にはありません。
では、沖浦さんには相伝はあるのでしょうか?創価学会の何処に相伝があるのでしょうか?本部ですか?それとも会員にあるのですか?全員ですか?明確に御提示下さい。
さて、沖浦さん。明快なる文証・文献の提示をお待ち致します。
(無題) 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月10日(金)20時37分42秒
>学会員それぞれが「創価学会と言う自称宗教団体」の宗義を個別に構えていると言う事ですよ?
>やはり「創価学会と言う名の文化団体」であって、およそ宗教とは呼べない事がはっきり解りましたよ。
貴方がそう思うことは結構ですが、創価学会には本尊と信者がおりますので、宗教団体です。国も世間も認めておりますよ。
>やはり即刻廃棄するべきでしょう。如何ですか?学会広報で教えて頂けますかねぇ?
どうぞご自分で広報にお尋ね下さい。貴方の行いに、私は異存がありません。
>貴殿は「許可は蓮祖より頂いております」と言いましたね。ですから「客観的な証拠・文献・文証」を明示して・・・
すでに二度御書を引用致しましたが、日蓮正宗には相伝が無い為理解がおできにならないのでしょう。私は別にに正宗の理解などは求めません。理解能力の不足はそちらの責任です。
>>私は寛氏の書写に文句はありませんよ。
私が拙宅の御本尊に満足している事は、私自身の問題で貴方の問題ではありません。寛氏書写の本尊で満足しているのです。以前、実家に達師の書写した特別御形木様がご安置されておられました。双方同じに感じます。
>ここも全くダメでしょう。ですから、それが何故に蓮祖以外のどなたの許可も必要ないと言えるのですか?
仏法は蓮祖から直接戸田先生です。戸田先生がこれで良いといわれたのです。
法主程度の許可などは不要です。貴方が法主の許可が要るとお思いでしたらそれで結構です。私は創価学会員ですので、他宗の法主など歯牙にもかけません。
双方の立場の差ですね。
>何故「御本尊」は存在するのですかね?また、貴殿は何故御本尊を拝むのでしょうか?全く理解不能です。客観的証拠を引用して御覧なさい。0点どころかマイナス ですよ、沖浦さん。
蓮祖が御図鑑になられ戸田先生が認められたのです。そのほかの一体どなたの許可がいるものですか。不必要です。
>再度述べましょうか?『大魔性勝手に改竄模刻プリントぺらぺらニセ本尊』たる所以を。
御書の引用がありませんので貴方の邪義です。一応軽く破折をしておきます。
>1)御法体を相丞される猊下様の許可無く、
→ 他所の宗教の人間の許可は要りません。
>2)勿論、唯授一人の深秘である草木成仏の御開眼も無く、
→ 唯授一人などは日蓮正宗の邪義です。私は法主などは認めません。いらざる人間です。
>3)授与書きを削り、
→ 宗門に[願主 池田大作]を削り取った板曼荼羅があります。同じ行為です。
>4)勝手に文字に変造を加え、
→ 大きなお世話です。貴方方は拝まねばいいのです。それで私には何の不自由もありません。お好きにしてください。
>5)随分安っぽい紙に、ベタ印刷(昔はカレンダー紙だった様な気がしますが今は普通紙の様ですねぇ
→ 蓮祖の御書の何処に安っぽい印刷は不可。と、ありますか。そんな邪義を唱えるから布教が出来ないのです。
>ですから、『大魔性勝手に改竄模刻プリントぺらぺらニセ本尊』と言ってるのです。その通りでしょう?
御書に基づかない説は全て邪義です。貴方が創価学会の本尊を誹謗する事は、蓮祖敵対の行為です。お止めになるべきですが別に強制は致しません。
>学会での引用は一切お止めになられるがよろしいかと。特に沖浦さんは学会公式見解に左右されないと明言されているのですから、今後勤行の際も一切お名前も拝す るのはお止めなさい。自語相違なさりません様。
興師は蓮祖の後継者です。目師はそれほど重要ではありませんが、創価学会の勤行に入っております。ことさら名前を削る必要を感じません。
貴方がお嫌でしたら名前を削除されれば如何でしょう。私は今のままで良いと思っております。
terry さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月10日(金)20時47分42秒
>おかしいですねぇ、沖浦さん。だって貴殿は御真筆ならお力は一緒だって言われましたよ。では、身延の信力・行力のある坊さんは学会が出来た時から成仏は不可能 になったのですか?これは珍説ですねぇ。
面白いお方ですね。珍説が飛び出しました。ロムの創価学会員がみていますよ。ご真筆は同じですが貴方ね、御真筆に念仏を唱えてお力があると思いますか?あるわけは無いでしょう。
同じく、いくらお題目を御真筆を唱えても、日蓮大菩薩ではね〜。蓮祖が御本仏だと信じていなければ駄目でしょう。そろそろ日蓮正宗も身延と同様になりつつあります。ご用心、ご用心。
>おかしいと言えば、学会に入会し題目を唱えれば大なり小なりの功徳はあると言いますが、勤行0分の池田さんはどんなもんでしょうか?
それより阿部さんの勤行サボり癖をご心配なさいませ。池田先生の事は創価学会員に任せておきなさい。
>沖浦さん。では、創価学会員で無ければいけないとの文証を拝見しましょうか。是非「全文記載」してみて下さい。
長くなりますのでやめておきます。結論から言えば戸田先生と直結しなければ蓮祖門下ではありません。私共は直結し、宗門は脱落をいたしました。法主に血脈のある文証をどうぞ。本当に血脈があれば神札など拒否しますよ。焼け死んだりするものですか。
>それとも会員にあるのですか?全員ですか?明確に御提示下さい。
全員ですよ。
terry さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月10日(金)21時40分19秒
少なからずテーマから外れていますよ。
terry さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月10日(金)22時58分53秒
>最初からのスタンスがまずおかしいでしょう。いいですか?「創価学会の公式見解に左右されない学会員」とは一体何なんでしょう?おかしいですね。沖浦さん。
貴方は私のスタンスがお気に召さない。私はスタンスを変えるつもりは無い。
貴方との会話はこれで打ち切ります。スタンスを変えてまでお話をしていただく義理はありません。御世話になりました。
法華講の方に 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月10日(金)23時14分59秒
法華講の方は、現在の創価学会が何時までも、自分の創価学会員であった時の創価学会員だと思い込んでいる。
私には三人の子供がおります。長男は隣に住んでいます。32歳になりますが、宗門の事はほとんど知りません。子供のころ二度大石寺に私が連れて行きました。現在山門をおぼろげに覚えているようです。下の2人は宗門の記憶すらありません。三人とも法主などには当然興味もありませんし、六巻抄は読んだこともありません。時代は確実に変化をしています。貴方方が創価学会員であったときの宗門の重みは、現在の創価学会員には通用いたしません。
先日長男が大きな契約を取りました。御本尊様に祈ると契約が取れた。と喜んでおりました。仕事に行き詰ると仏壇の前で懸命にお題目を唱えます。祈りの力をよく知っております。この掲示板の創価学会の本尊が偽物との書き込みを見て、お父さん、余計なお世話だね。と、鼻先で笑っておりました。本人が御本尊様のお力を実感しております。馬鹿げた誹謗が効果をあげる道理がありません。
貴方方は新撰組のようですね。まわる時代に背中を向けて、日蓮正宗何処に行く。現実を見つめなさい。
いくら誹謗しても無駄ですよ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月10日(金)23時41分24秒
長男が小学生のころ、私は男子部の部長をしておりました。あるとき学会活動から帰宅中、急に雪が降り数センチ見る見るうちに積もりました。家に帰ると、長男が少し前に御本尊様に雪を降らしてもらうと題目をあげた事をしりました。
又ある時は、おもちゃを買いに行き、手ぶらで帰ると仏壇の前で唱題し始めました。どうした?と聞くと、五百円を落したので御本尊様に出してもらう。と、言いました。30分唱題し、これで大丈夫とお金も持たずに意気揚々と出かけました。どうなる事やらと心配をいたしましたが、ちゃんとおもちゃを買って帰ってきました。どうした。と、聞くと。おもちゃやさんが、ボクの落としたお金が陳列の下から出てきたよ。と、百円玉を五枚探し出してくれたそうです。しかし持っていったのは五百円札でした。
この様に、創価学会員の子供は御本尊様とともに育っているのです。今更引き裂く事は出来ませんよ。
沖浦さん。 投稿者:terry 投稿日: 6月10日(金)23時43分37秒
前に記載致しましたが、別館が出来るまではテーマから少し外れますとお伝え致しましたよ。別に沖浦さんがここで会話を打ち切るのなら、それでもいいでしょう。ここを閲覧の学会員さん達も、さぞがっかりでしょうね(笑)私は外野館の方でしばらく拝見させて頂きますよ。
ここでのテーマを外れて御回答頂きました事には、感謝致しております。
私は外野館の方で、沖浦さんの「邪義」を破折致したく思います。いつでもおいで下さいませ。一日も早く、沖浦さんが正宗に戻られるのを楽しみにしております。
法論館<U>別館[外野館]管理人:terry
********** **********
【注*テーマ以外の法論場として、平成17年6月11日00:00より法論館<U>別館[外野館]を開館。
以後、テーマ以外の法論は別館[外野館]に移動し、当館はテーマ集中法論の場となる。
なお別館[外野館]は現在の法論館<V> http://6238.teacup.com/tsurutaro33/bbs *】
********** **********
どちらが邪教か? 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月11日(土)07時09分52秒
先日のJRの現場に、長男と友人で慰霊に行きました。現場の近くの創価学会員に方にお聞きしましたが、あの時とっさの判断で対抗の快速列車を止めたのは創価学会の婦人部の方でした。現場を見るや否や、この時間はすぐに後続が来る。と踏み切りに走り非常停止のボタンを押したそうです。
あの行為が数百名の人命を救いました。同じ創価学会員として誇らしく思います。顕師は あの事故で法華講員は一人も死ななかった。と、自慢をしたそうですね。
えらい違いだと思います。とっさの機転で多くの人命を救った創価学会の末端会員。俺のところは一人も死ななかった。と、嘯く宗門のトップ。
どちらが正しい宗教かは歴然です。
terry さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月11日(土)07時35分42秒
決め付けをお止めになれば、会話をすることは望むところです。
私が創価学会員である事は紛れも無い事実です。公式見解に束縛されないのには理由があります。
昭和54年、私は宗門は邪教との結論に達し、個人的に宗門と縁を切りました。その前後の数年、私と正反対の判断をし創価学会を退会し宗門に走った方もかなりおられました。私は宗門を切り、その方々は創価学会を見切り、大部分の創価学会員は創価学会に残り僧俗和合を目指したのです。三者三様の判断でした。
五年ほどたって壮年部にいったころ、幹部の方が登山推進に拙宅にこられました。私は、あのような謗法の地には行きません。と、お断りいたしました。大きな問題となったようです。その時の創価学会の公式見解は、本山に至誠を尽くせというものでした。私は退転者扱いをされていたようです。
現在は、その時の私の見解が創価学会の公式見解になっております。
戒壇本尊が蓮祖の出世の本懐ではない。との考えも当時から持っており、しばしば表明をしておりました。[御書]が根本で御書に書かれた蓮祖の生き様を学び同じ人間として共鳴出来ないなら、蓮祖門下ではない。との考えも当時から持っておりました。そのころ蓮祖を同じ人間の視点で捉える事は異端の極みとされており、私がその意見を述べると誰もいなくなったものです。
当時の創価学会規則には、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊様を根本とする。と明記されておりました。現在の会則にはこの表現はありません。御書根本に改められています。
蓮祖を人間の視点で捉え、その人間性に共感せよ。最近の池田先生のご指導です。創価学会の公式見解はこの様に変化をしています。近い将来大きな変更があるでしょう。日本の創価学会から世界の創価学会へ。当然変化をせねばなりません。公式見解にとらわれないのはこの様な理由からです。
御本尊様のこと。蓮祖の人間としての側面。これらが自由に語り合い出来なければ、ただの日蓮原理主義者の集団です。
そんなものには三文の値打ちもありませんよ。
御書 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月11日(土)08時35分39秒
御書は、現在社会の立場から拝読せねばなりません。依義判文と言い、非常に困難な行為です。戸田先生お一人のみがなされました。法華経を漢訳した羅十三蔵のように、御書を現代社会に正しく開かれました。故に創価学会は広まったのです。戸田先生以前、日蓮系の行く道は二つでした。教条主義で玉砕。現実に負けて堕落。戸田先生だけが何処とも妥協せず、玉砕もされなかったのです。蓮祖とご境涯を等しくされる所以です。創価学会は戸田先生直結の組織です。御書もそのように研鑽をしております。
創宗分離より14年。すでに宗門法華講は御書が読めません。御書の講義は住職の専任事項のようです。これではどうしようもないですね。法華講の方と論議をすると、ご自分の言葉がありませんね。何代目の法主がああ言ったこう言った。御本尊様のことを信徒が論じてはいけない。法主は御本尊様を支配する。ところがこれらに対する御書の引用は皆無です。自分で考えない。住職の話しの受け売りのみです。自らが思索せずして法の研鑽は不可能ですよ。
対して、創価学会は現在御書を益々現実社会に開き、蓮祖の法は世界の190の国と地域に拡大いたしました。会員間の自由な研鑽の故です。淵源は戸田先生です。ここを外れて御書の研鑽は不可能ですよ。
創価学会にのみ、蓮祖の血脈が流れる理由 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月11日(土)08時49分31秒
『日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや』
この、『未来も又しかるべし』(諸法実相抄)のご文を身で読まれたのが戸田先生です。蓮祖はお題目の広宣流布をただお一人からおはじめになられ、戸田先生もまた御本尊様の広宣流布をお一人からおはじめになられました。
蓮祖は自ら法をお悟りになられ、戸田先生も又ご同様です。蓮祖は自らを上行菩薩になぞらえられ、戸田先生も、「我地涌の菩薩の棟梁なり。」と、宣言をなさいました。蓮祖は、将来必ずご自分と同様のお方が出現をされ広宣流布をする。と、この御書で明言をされておられます。戸田先生はお一人で荒野に立たれ、「広宣流布は戸田が致します。」と、獅子吼をなさいました。お言葉通り其処から広宣流布がはじまったのです。
このお二人共通点を見るにつけ、創価学会にのみ蓮祖の血脈が流れる事を確信致します。創価学会は戸田先生直結だからです。
さてと。 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月12日(日)01時25分16秒
さて、外野席も出来た事ですし、おちついてテーマ討論ができますね。
>もともと成仏の本因は衆生の側に存在するのです。ほんのちょっと、種を植えるだけ。それが仏の役割です。
これは沖浦様、卞氏のみの私観ではなく、創価仏法というものの観心なのでしょう。
私も学会当時に池田会長の御義口伝講義また開目抄講義(戸田〜池田)に感化されてこのような考え方に傾倒したことがあるので言い分としてはわかります。
簡単に言ってしまえば、創価仏法の成仏義は以下のようなものであります。
人間に限らず、一切法界の全ての有情無情の命の中には、等しく正因仏性が具わっております。
その本有として具わるところの正因仏性を開花させるための縁として仏の教化があり、
妙法を唱えて己心中の仏性を薫発させる我々も、元からの尊い仏の生命を内在した地涌の菩薩である。
元からの仏であることを思い出し、了因仏性を開いた衆生にとっては、本仏の流類であり、
妙法の題目を教えてくれた仏に対してはそれ相応の恩義をもって報いるのである。
と・・・・・。たしかに学会員程度の教学であれば、このあたりで納得させるのが疑問を持たせない為の妥当な線でもあるのでしょう。
また、これを証する依文として一生成仏抄の
『夫無始の生死を留めて、此の度決定して無上菩提を証せんと思はゞ、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。
衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。』
等の御文を挙げて『衆生本有の妙理』を便利に使っていましたね。
しかしこの近視眼的仏法解釈には、本仏大聖人が当体義抄にお示しの
『至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。
此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。』
との自解仏乗の義、また妙法は本仏の所有し給うところであるとの義が見落とされているのであります。
迹仏である釈尊、また我等衆生は修行によって成仏を遂げる弟子分であります。
『衆生本有の妙理』とは衆生が本然として備えている、開発すべき仏性<理>であり、
仏様の仏性は『本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』(御義口伝)と、妙法のお悟りの実体を覚悟され所持されている<事>であります。
衆生の仏性と、仏の仏性には差別が存するのであります。
またこの『之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。』を短絡的に解釈して、
「一たび妙法を唱えたならば既に仏なのである。」と結論付けてしまうのが創価仏法の極めて幼稚な落とし穴でもありましょう。
結論をいえば創価仏法の仏性観は、浅見によって生じた我見から、『仏はうへての如く』の三徳を、
『禅宗等の人云はく「一代聖教は月を指す指なり」』程度にしか拝せぬ「我慢心充満、未得謂為得」に陥った天魔破仏法の思想に過ぎません。
木を見て森を見ず 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月12日(日)06時06分42秒
>たしかに学会員程度の教学であれば、このあたりで納得させるのが疑問を持たせない為の妥当な線でもあるのでしょう。
いくら御文証を羅列しても、布教が出来無いと言うことは、民衆に受け入れられていない読み方。と、言う事です。三文の値打ちもありません。仏法は民衆の為。大原則です。民衆から遊離すれば、只の葬式屋ですよ。高邁なお説などは結構です。
法は迹、人は本。いかに人を育てるかが肝要です。日蓮正宗に人はいますか? 青年は活き活きと育っていますか?信徒は激増していますか?もしそうでなければ、仏は本、衆生は迹、の解釈があやまっている事に気付くべきです。
布教が出来ないと言うことは、蓮祖の法ではない。と言う事です。
Re:木を見て森を見ず 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月13日(月)00時23分41秒
法華玄義に
「前の経は是已説、随他意なり。彼には此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し。
無量義は是今説、亦是随他意なれば亦信じ易く解し易し。
涅槃は是当説、先に已に聞くが故に亦信じ易く解し易し。」
とある。衆生の理解レベルにあわせた随他意の法は易信易解であり、仏の真実・随自意の教法は難信難解なのである。
木を見て森を見ずとは、「難易だから」と言って御書の全体から大聖人様の御心を深く拝することを避け、自説に都合の良い言葉を切り文として枉(ま)げて”習いそこなう”創価教学のことであろう。
宗祖日蓮大聖人、聖愚問答抄に曰く
『摩尼は空しく名のみ聞く、麟鳳誰か実を見たるや。世間・出世善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり。
然れば何ぞ強ちに少なきをおろかにして多きを詮とするや。土沙は多けれども米穀は希なり。木皮は充満すれども布絹は些少なり。
汝只正理を以て前とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ』
と。邪法でも広まれば正法だとでもいうのか?まさに外道の言い分である。
創価学会が日蓮正宗から破門され「魂の独立記念日」を宣言した日から12年の年月がたつ。
その間に、公明党は与党となり、大衆芸能一つを例にとっても学会員の社会進出は著しいものがある。
創価学会の思想影響が強まった12年間であることには私も異論はないし、表層面のみを見れば、これが「創価文化の花開く」の様相なのであろう。
しかし現実社会に目を向ければ、その12年の間に日本国民の心の荒廃、治安の乱れは目をそむけたくなるほどに悪化したことは否定できない。
創価文化の流布した結果は三毒強盛・五濁乱漫の平成時代ではないか?
個々人に目を向けても、自殺者の数は年々増加し3万5000人に及ぶ。未遂者も10万人を越えているのである。凶悪犯罪の増加の深層を探れば、主師親三徳に対する不知恩の思想が根源にあることは明らかである。
『国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。』と。立正安国論の[邪法乱国、正法治国]の原理に照らして、これが正法が広まった現証なのであろうか?残念ながらこれが「生命の世紀創価ルネッサンス全盛」の現実相である。
重書たる開目抄の冒頭に、
『夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき物三つあり。
所謂、儒・外・内これなり。儒家には三皇・五帝・三王、此等を天尊と号す。諸臣の頭目、万民の橋梁なり。
三皇已前は父をしらず、人皆禽獣に同ず。五帝已後は父母を弁へて孝をいたす。』
と仰せになられた大聖人様の御心を思うべきである。
本題ですが、もうやめますか? 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月13日(月)06時51分52秒
仏は衆生の救済のために出現される。仏の出現が従。衆生の救済が主。
やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月13日(月)14時07分37秒
>法華玄義
それならば、玄義から、蓮祖と代々法主との、聖凡の位の差別(しゃべつ)を、説明して頂けますか?
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月13日(月)22時02分44秒
御書を学問として覚えても意味が無いですよ。
何故対話が出来ませんか? 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月14日(火)12時52分41秒
別館の内容はひどいものです。創価学会に対する悪意と偏見、決め付けに満ちております。当方も、それなりの対応であしらっておりますが本意ではありません。先ほど御本尊の件で真面目な会話ならOKの書き込みを致しました。
法華講の方々の書き込みは、何故あのように悪意に満ちているのでしょう? とてものこと仏法者とは思えません。創価学会員の死亡をあげつらう。情けないかぎりですね。私は宗門関係者の死に関しては、鈴木法主以外は問題にしたことがありません。彼は法主であり、戦時中に宗門の堕落を招いた張本人です。責任の重さが違います。
少し冷静になってください。真面目な対話を望みます。
学会員の死亡をあげつらう? 投稿者:突撃男
投稿日: 6月14日(火)13時11分10秒
沖浦克治 は大笑いだ!自分で御法主上人の死を調べもしないで誹謗して、悪意だと!(笑)
貴方のような学会こそ悪意だろう(笑)本末転倒だよ! 少し冷静になってください。
>真面目な対話を望みます。
沖浦克治よいたって真面目だよ!貴方こそ真面目??(笑)
>とてものこと仏法者とは思えません
貴方こそ!仏法者??外道者だろう!(笑)創価新報やフェイク等で、事実無根の誹謗記事を平然と報道しとても仏法者とは思えないねー
大聖人様は仏法者じゃなのかい?念仏の開祖の死も現証論として書いておるが、どうなのかい?(笑)
学会員もバタバタ死んでいるではないか!これも功徳かい?犯罪者も多いが、これも功徳かい?脳乱しているとしか思えません 貴方は!
沖浦克治氏へ 投稿者:突撃男 投稿日: 6月14日(火)13時19分41秒
少し冷静になってください。真面目な対話を望みます。
突撃男@斉藤 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月14日(火)13時21分42秒
貴方との会話はお断りいたします。 もし会話をお望みでしたら、それなりの礼儀をお願いいたします。
本因妙抄について(参考) 投稿者:卞氏 投稿日: 6月14日(火)13時50分47秒
『此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり』
の部分ですが、これは後加文とされています。
本題とそれていたので特に求められなければと思っていましたが、富士宗学要集では、その部分に一本線(加筆された部分という意味)が引かれているとのことでしたので、そちらに有りましたらご確認ください。
以上。
同じく、参考に 投稿者:法華講のおばちゃん 投稿日: 6月14日(火)14時12分
***他の本からの切り張りですが、参考にしてください。
(注*日蓮正宗法義研鑚委員会編「ニセ本尊破折100問100答」からの引用)
質問:『本因妙抄』の抄末にある「唯授一人の血脈」の語は、後人の加筆であり、大聖人の教えではないと聞きましたが、本当ですか。
答え:そんなことはありません。「唯授一人の血脈」こそ、大聖人の仏法を正しく末法万年に伝えるための教えであり、大聖人御自らが定められたものです。
『身延相承書』に『血脈の次第 日蓮日興』(新編 1675頁)とあり、日蓮大聖人から日興上人お一人に血脈を相承されたことが明らかです。これが「唯授 一人の血脈」でなくてなんでありましょう。
『本因妙抄』の御文については、重須の第二代学頭であった三位(さんみ)日順師が、『本因妙抄』を解釈して「本因妙口決」を著わし、そこに「唯授一人の一 人は日興上人にて御座候」(富要
2−84頁)と注記しました。
これについて、第六十五世日淳上人は、
「上掲の御文は本抄(本因妙抄)末尾に『日蓮嫡々座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり』との御文につき唯授一人とは日興上人であらせられ ると、念釈をなされたのである」(淳全 1449頁)と仰せられています。
このことからも明らかなように、「唯授一人の血脈」という教えは、日興上人にお仕えした三位日順師が明言しているのですから、「『本因妙抄』は大聖人の御 書ではない」などといって、「唯授一人の血脈」を否定する学会の主張は全くの妄説というべきです。
また学会では、御書全集を編纂(へんさん)された日亨上人が、『本因妙抄』の末尾部分が大聖人の教えでないために小さい活字にしたといっています。それでは 日亨上人が大聖人の教えでないものを、わざわざ御書に載せたことになるではありませんか。それこそ日亨上人に対する冒涜といえましょう。
管理人殿 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月14日(火)14時57分14秒
もうやめましょうか?誰一人まともなお答えがありませんね。
仏は衆生の救済のために出現される。仏の出現が従。衆生の救済が主。
(無題) 投稿者:突撃男@斉藤 投稿日: 6月14日(火)18時43分5秒
>誰一人まともなお答えがありませんね。
返答しているではないかい!笑!
では、学会の三宝論と学会に偽本尊についてのテーマは!
(注*別館[外野館]で討論されていた創価学会の三宝と偽本尊についての法論について触れたもの。)
まあ 投稿者:突撃男@斉藤 投稿日: 6月14日(火)18時45分14秒
都合が悪くなると逃げる沖浦克治 もたいしたことないね!笑!
返答しなくてもいいですよ!勝手に書いているから!(笑)
突撃男@斉藤 氏 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月14日(火)20時28分43秒
泥仕合がお望みなら別館でお相手を致しましょう。ふっふっふっふっふ。
無題 投稿者:大月天 投稿日: 6月14日(火)22時06分38秒
誰だ! 創価学会は戸田先生直結の組織だ。などと戯論を言う奴は!
小生は過日、大石寺登山にて御開扉を終えた後、在家の鏡であった戸田大講頭の御墓を訪ねた。何としたことであろう。供えられていた樒は久しく萎え、墓石もくすんでいるではないか。
学会員たちよ。わが宗門は邪教の徒輩であっても参詣を許している。速やかに池田博士に連絡を取り、恩師の墓石に参らせ、忘恩の滅罪を祈らせると共に、墓前の清掃を成すよう進言せよ!
すべてはそれからだ! 仏法の何たるかなど百年早いわ!!
大月天さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月14日(火)23時00分11秒
それはご苦労さまでした。
私どもは朝夕勤行をし、そのとき戸田先生に感謝のご観念文を唱えて追善供養を致しております。そちらはそちらでご自由にご供養をして下さいませ。
ところで、この掲示板はそのような話題を述べる場所ではありません。どこか他所でおやり下さい。
管理人様 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月14日(火)23時02分52秒
少し掲示板が荒れてきています。私への誹謗中傷をそのままにされるのでしたら、名誉毀損が成立いたします。書き込みを削除してください。
法華講のおばちゃん殿 投稿者:大勝利 投稿日: 6月14日(火)23時04分56秒
何処の本からの切り文か存じませんが、全く論証になっていませんね。
そのような駄文を恥ずかしげもなく貼り付ける貴殿の宣伝行為は、管理人さんにとっても甚だ迷惑でしょう。
何故、沖浦さんが、蓮興以降を論拠としないかを真面目に考えてみたらいかがでしょう。血脈は日順師に流れていたのですか(大笑
テーマ以外は別館へどうぞ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月14日(火)23時44分12秒
現在のテーマ<衆生が主(本)、仏が従(迹)なのか?>として、主師親三徳のとらえ方と本従を中心に討論中です。
・本因妙抄の後加文の件(なお宗学要集は私も所蔵しています)
・蓮祖と代々法主との聖凡の位の差別
・僧宝論に関してのテーマ
は、現在のテーマには直接関連がないので今は扱いません。別館でどうぞ。
・学会製寛師曼荼羅掛軸
・罰論
についてのテーマも別館へどうぞ。
突撃男@斉藤さんへ
投稿日: 6月14日(火)18時41分19秒は個人中傷と判断して削除しました
沖浦様へ。投稿者の皆様へ。 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月14日(火)23時53分56秒
>御書を学問として覚えても意味が無いですよ。
絶対なものは御本尊と御書であると・・・・言ったのは沖浦様でしたね?「真劣利勝」のは牧口価値論の影響でありましょうか。
>仏は衆生の救済のために出現される。仏の出現が従。衆生の救済が主。
という、この学会側説の正否を御金言によって論証しようというのが現在のテーマの発端ですので、双方からの投稿をお待ちしております。
また創価学会が日寛上人御筆の曼荼羅掛軸を印刷販売している限りは、日興上人〜日寛上人の御歴代猊下の論文も双方に有効とします。
それでは、やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月15日(水)00時03分
>法華玄義に「前の経は是已説、随他意なり。彼には此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し。無量義は是今説、亦是随他意なれば亦信じ易く解し易し。
涅槃は是当説、先に已に聞くが故に亦信じ易く解し易し。」とある。
貴殿のこの引用は、法華玄義の何処でしょうか?御示し頂きたく思います。
管理人様 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月15日(水)00時13分17秒
ご配慮を頂きまして感謝申し上げます。
管理人様 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月15日(水)00時25分54秒
>御書を学問として覚えても意味が無いですよ。
>絶対なものは御本尊と御書であると・・・・言ったのは沖浦様でしたね?
>「真劣利勝」のは牧口価値論の影響でありましょうか。
私は牧口先生の価値論は読んだ事がありません。また聞きで概念を知るのみです。
戸田先生のご指導です。
「四条金吾が一人の人間か、2人いたのかなどは、畑毛の猊下の領分です。御書を拝読し、大聖人様の人間にふれ、人間として共感し大聖人様の感情を共有することが大事なのです。でなければ拝読をして何の意味もありません。学問では無いのですぞ。」(趣意)
このご指導は最近知リましたが、私は以前から同じく思っておりました。嬉しかったですね。
>また創価学会が日寛上人御筆の曼荼羅掛軸を印刷販売している限りは
日興上人〜日寛上人の御歴代猊下の論文も双方に有効とします。
それはご自由です。が、私はその議論には参加を致しません。この掲示板で私と対話をお望みのお方がおられましたら、興師以外の法主の言は引用をしないで下さい。無論、他のお方との会話まで干渉は致しません。私は法主は本尊書写が仕事、と、思っています。本尊を書写したからと言って、蓮祖興師と同列に扱われては迷惑この上もありません。この様な玉石混同はお断りいたします。私と対話をされるお方は、その程度の常識をわきまえてください。
やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月15日(水)00時28分4秒
貴殿は、「仏性には夫々に違いがある」と仰られる。亦、「御法主は、大聖人と全く同じ御内証」とも仰られている。(記憶違いであれば御免)
小生は、ここに矛盾を感じます。
それでは、蓮祖大聖人と日顕師とでは、どちらが<主>でどちらが<従>でありましょうか?是非、屈託無い御意見を御聞きしたいと思います。
管理人様。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月15日(水)13時16分11秒
>本因妙抄の後加文の件(なお宗学要集は私も所蔵しています)
ここの掲示板の趣旨として、門戸を広く開くつもりがあるのでしたら、1本線の件だけでも、どうなっているのかご確認いただけないでしょうか。
「法華講のおばちゃん」なる者の、あての外した投稿もあって、もっていない人が見ると、私の発言自体の真偽を判別しかねるとおもいます。ここで他の引用を切り文とし、本文の前後を出して「法華講のおばちゃん」に反論するのが本意ではありません。ここでは御書において、その部分がどう扱われているかを示すためだけのものです。
公平な措置として、よろしくお願いいたします。
管理人様。テーマへの思考 投稿者:大月天 投稿日: 6月16日(木)06時50分
結論 → 仏の出現と衆生の救済は、一体にして不二である。仏は衆生を救済するために出現されるのであり、
衆生は仏に度されんがために今世に生を受けるのである。
仏が、度すべき衆生を先んじて待ってみたり、時に感じて生を受けた衆生の世界に、遣使遣告たる仏が皆無だったりすることはないのである。
ただし、その一体不二なる基本を、知識として学ばんとするならば、衆生無辺誓願度を中心とする四弘誓願(四弘能所)を探究すべきである。
→ 大聖人様は、四弘の能化たる仏様であります。
結論が出たと思いますが 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月16日(木)07時19分
すでに仏の出現は迹、衆生の救済が本、が証明されたと思います。
これは仏が衆生より優れた存在であり、衆生の尊敬を受ける事実とは矛盾をしません。この二つの考えで、仏法は独裁主義を防止しているのです。前者の思考方式が大前提にある仏教団体は堕落をいたしません。後者のみがある団体は、聖職者が仏の代理人と化し、必ず堕落を致します。前者が創価学会、後者が日蓮正宗と結論付けます。
ご意見のあるお方は、明日中に意見を書き込んでください。但し証明方法は、社会における自らの団体の活動の事実、構成員の世間での実証、蓮祖の御書、でお願いをいたします。歴代法主や歴代会長の言は、双方の内部でご議論くださいませ。
それではお待ちいたしております。
(無題) 投稿者:コウ 投稿日: 6月16日(木)12時24分2秒
次々と「なかったこと」にされている、以前の学会指導。
破門以前の発言は「無効」とまでされていく以前の学会指導。
「記憶の隅」へと追いやられていく、以前の学会指導。
現創価仏法と「矛盾をおこす」以前の学会指導。
では、学会の以前の指導はそんなに間違っていたのでしょうか?
あわてて否定しなければいけないほどの内容なのでしょうか?
実際に御書と照らし合わせてみると一体どうなるのでしょう?
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1:直結信心は正しいのか?本尊はすべて一緒なのか?
『案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これらの人、謗法にて候なり』(日興上人・歴全1−184頁)
『此の経は相伝に有らざれば知り難し』(一代聖教大意 新編御書92頁)
『この法門は、師弟子をただして仏になり候。師弟子だにも違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候なり』
(日興上人・歴全1−183頁)
「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」 戸田城聖(大白蓮華 昭和三十四年七月号九頁)
「もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」 池田大作(広布と人生を語る8−228頁)
2:在家は僧に勝るのか?血脈は本当にいらないのか?
『仏宝・法宝は必ず僧によって住す』(四恩抄 新編御書268頁)
「日蓮正宗の僧俗であるならば、絶対に御法主上人猊下に随順すべきである。それに反して、随順せず、いな、弓を引く行為をする僧や俗は、もはや日蓮正宗とはいえない。私どもは無数の讒言や画策をうけながらも、一貫して総本山を外護したてまつり、御法主上人猊下に随順してまいった。これが真実の信心であるからだ。それを、増上慢と権威とエゴと野望のために踏みにじっていく僧俗は、まったく信心の二字なき徒輩であり、もはやそれは、日蓮大聖人の『広宣流布をせよ』との御遺命に反した邪信の徒と断ずるほかないのである」 (広布と人生を語る 2-
37頁)
「法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つとも無益であり、功徳はないのである」 (広布と人生を語る 8-228頁)
『末代の衆生は法門を少分こころえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべし』(新池御書 新編御書1461頁)
3: 唯授一人の血脈相承はウソなのか?
『釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり』
(『身延山付嘱書』新編御書1675頁)
『但し直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり』(『百六箇抄』御書1702頁)
「この法、すなわち末法の大白法は、唯授一人、血脈付法の御歴代の御法主上人御一人が、お伝えあそばされているのであり、そのうえからわれわれ信徒のために御本尊をお認めくださっているのである。ここに、令法久住があることを知らねばならない。したがって、われわれは総本山を外護申し上げ、御法主日顕上人猊下の御指南のもと、僧俗和合の道を歩みゆくことが正しいのである」 (広布と人生を語る4-67頁)
4: 日顕猊下を僧宝として敬うのは間違っているのか?
『南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師』
総本山第二十六世日寛上人 (六巻抄225頁)
「第六十七世御法主日顕上人猊下に、この絶対なる血脈は、厳然と承継されているのである。だれ人がいかなる非難をいたそうが、これは侵しがたき、明確なる事実なのである」 池田大作(『広布と人生を語る』第二巻一二三頁)
「そして、御法主上人猊下に対しては、御法主上人猊下こそ経文に説かれている遣使還告のお立場で、すなわち大聖人様と拝してお仕え申し上げていくことでありました。これが唯一の学会精神であります」
池田大作(『会長講演集』第四巻145頁)
**********
これでもまだ「狂った指導者」悪鬼天魔の大増上慢池田大作と一緒に「未来永劫堕地獄」に行きますか?
現世など一瞬のことですよ?破綻している「狂った創価仏法」に、いつまでもしがみつきますか?
『小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ』 (『光日房御書』御書962頁)
コウ様へ。 投稿者:大月天 投稿日: 6月16日(木)19時01分53秒
全くその通りでございます。なぜ、あの博士の仲間達は、コウ様の言われていることが理解出来ないのでしょうか。もう歯がゆいというか、何と言うか呆れてモノも言えません。しかし、言わなければ【仏法中怨】として、ご本尊様からお叱りを被ります。だから忍耐強く、心底には慈剣の心をもって、彼等を救っていかなければならないと思います。
現実主義に陥った池田博士の仲間達に、今から拝する御聖訓の意を理解しろと言うほうが無理かも知れませんが、敢えてここに御提示させていただきます。
◎ 『恐れても恐るべきは後世、慎みても慎むべきは来世なり。而るを是非を論ぜず親の命に随ひ、邪正を簡(えら)ばず主の仰せに順はんと云う事、
愚癡の前には忠孝に似たれども、賢人の意には不忠不孝に過ぐべからず。』聖愚問答抄
『死んだ後の事など関係ない!』などと胸を張る学会員も多いとか…。あなた方、ホントに仏教徒ですか? と尋ねたくもなるのですが、よく考えてみれば、彼等は創価教徒なので、それも致し方無いかな、と思う昨今なのでございます。
コウ様。すみません。何か長くなってしまいました。それでは失礼致します。
大勝利さんへ 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月16日(木)21時06分21秒
@
法華玄義に「前の経は是已説、随他意なり。彼には此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し。無量義は是今説、亦是随他意なれば亦信じ易く解し易し。
涅槃は是当説、先に已に聞くが故に亦信じ易く解し易し。」とは、
三種教相事に大聖人様が『玄の十、四に云はく』として引用されております。
また観心本尊抄には
『所説の法門も亦天地の如し。十界久遠の上に国土世間既に顕はれ一念三千殆ど竹膜を隔つ。
又迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意・易信易解、本門は三説の外の難信難解・随自意なり。』
と、法華経の三説超過、難信難解・随自意を示され、更に本迹相対に言及されております。
A >仏性には夫々に違いがある >御法主は大聖人と全く同じ御内証
これは私の言ではありませんし文章の前後関係がわからないので推測に過ぎませんが、おそらく「仏性と一言に言っても三因仏性がある」との意味か、
「御本仏大聖人様の仏性と、仏に導かれる我々の仏性には平等の中にも差別が有る」との意味でなのでしょう。
また
>御法主は大聖人と全く同じ御内証
は、言いたいことは分りますが、<自解仏乗の御本仏の御内証>と<弟子である法水写瓶を受継ぐ御法主の内証>の差別・総別はあるべきと私は思います。
B>蓮祖大聖人と日顕師とでは、どちらが<主>でどちらが<従>でありましょうか?是非、屈託無い御意見を御聞きしたいと思います。
大聖人様の御出現・御化導、また宗祖よりの御相伝がなければ日蓮正宗もありませんから、仏宝たる大聖人様が<主>。
僧宝である猊下が<従>は当然でありましょう。
また僧宝の中にも随一の日興上人が<本>。日目上人以下御歴代法主上人様は<従>であると拝しております。
また僧俗の筋道としては
『比丘の信行は俗の修学に勝る。又比丘の信行は俗の終信に同じ。俗の修学解行は信行の比丘の始信に同ず。』
と得受職人功徳法門抄にあるが如く、僧俗に本従の筋目を尊信していくのが法華講の信心であります。
管理人・やまさん40 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月16日(木)21時21分
テーマと関係ない愚論を何とかしてください。
沖浦君へ 投稿者:sinn 投稿日: 6月16日(木)23時02分54秒
『夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり(乃至)日蓮は日本国の諸人に主師父母なり』 開目抄
この御文より、尊形するべき対象(仏・日蓮大聖人)が迹であり、日蓮大聖人を尊敬申し上げる衆生が本である。という、論を、
この引用の御文と整合性ある回答(もちろん御書を引用して)をしてください。
私は御書でお尋ねしていますよ。
卞氏さん&法華講のおばちゃん へ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月16日(木)23時10分55秒
富士宗学要集掲載の「本因妙抄」の後加文 『又日文字の口伝・・・』について。
富士宗学要集(第一巻)掲載の「本因妙抄」の最後部『又日文字の口伝・・・・』には、編者の第59世・堀日亨上人によって一重線が引かれております。
宗学要集の線引きについては堀上人自らが
<後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて、読者の注意を促す便とせり。>(富要集・第一巻25頁)と定義付けておられます。
御書として伝えられている御文のうち、
・一線を引いた部分は、後加文と推察されるが相伝の上から教義的に判断して誤りではないと判断する箇所。
・二線部分は教義的に疑義ありとする箇所であると、読者の研鑽の便宜上区別する。ということであります。
つまり、
・一線部は後加文ではあろうが、大聖人様の御意には適っておるので用いる。
ということです。
なお、富士宗学要集(全10巻)は創価学会が版権を持っている書籍ではありますが研鑽のために有用なので、古書店などで入手できる機会があればお持ちになられると宜しいかと思います。
私は創価脱会前の昭和61年〜平成2年に全巻揃えましたが、現在でも創価学会から販売されているのでしょうか?
富士宗学要集について 投稿者:sinn 投稿日: 6月16日(木)23時22分24秒
現在、聖教新聞社で販売しているのかは知りませんが、古本屋さんにはたくさん在庫があります。有名所では、東京・神保町の「玉英堂」さん。電話番号はネットで調べてください。
あと、数年前(えっと、10年近くなるかなぁ)法華講富士会館でも扱っていましたよ。私は、そこで購入しました。でも、安価で入手するなら、古本屋さんですかね。ヤフーショッピングで古本を扱っているので、探してみるといいと思います。後は、「スーパー源氏」という古本のHP。こういうのもあります。
テーマに無関係の書き込み、失礼しました。
Re:結論が出たと思いますが 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月17日(金)00時11分54秒
沖浦様へ
>すでに仏の出現は迹、衆生の共済が本、が証明されたと思います。
とは、どのように証明されたのでしょうか?sinnさんの言うように、御書による論証はまだでしょうか?
また、すでに現証としても(Re:木を見て森を見ず 6/13・00:23)に
平成3年以降の14年間に、創価学会が大衆文化に影響を拡大し、公明党が政権与党になり創価文化が広く流布された時相と時を同じくしてこの国が三毒強盛の様相を更に深めている邪法乱国の事例をあげましたが、私はこの事についての創価学会員からの冷静な説明を聞いたことがありません。
「仏の出現は衆生の救済が目的である」ことと、「出現が迹で、救済するという行為が本」また「救済される衆生が本で、救済するために出現した仏が従」というのは、違う次元のお話です。どうやったらそのように結論付けられるのか論証して下さいませ。
・現実にこの娑婆世界に出現しなければ、どうやって仏様は衆生を救済するというのですか?
・現実に娑婆に出現すること自体が仏様の衆生救済の具体的行為の第一歩ではありませんか?
それとも末法の仏は法身仏なのでしょうか?
管理人・やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日:6月17日(金)00時28分20秒
A、Bにて御返答頂きましてありがとうございます。少し安堵いたしました。
詰り、日顕師が<従>であるという事ならば、「法主本仏」は明確に否定なさるという事でよろしいのでしょうか?
>玄義の十
「判教」の「大意」の部分ですね。
『当に知るべし。仏意は深遠にして、弥勒も為す所の因縁を識らず。況や下地の二乗・凡夫等をや。
文に云わく、唯だ我れのみ此の相を知る。十方の仏も亦た然りと。
又た、己今当の説には、最も難信難解と為す。前の経は是れ己説にして、随他意なり。彼れは此の意を明かさざるが故に、信じ易く解し易し。
無量義は是れ今説にして、亦た是れ随他意なり。亦た信じ易く解し易し。涅槃は是れ当説なり。先に已に聞くが故に、亦た信じ易く解し易し。
将に此の教を説かんとするに、疑請重畳なり。具さには迹本の二文の如し。請を受けて説く時、ただ是れ教の意を説くのみ。教の意は是れ仏意なり。
仏意は是れ仏知なり。仏知は至って深し。』
>真言見聞(1272年)
(注*文末の “>真言見聞(1272年)” は同御書中の『凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。』の御文から学会側の主張するいわゆる法主本仏論なるものに言及しようとしたものか?と思われるが詳細は不明。なお、引用御書『当に知るべし。仏意は深遠にして・・』は「三種教相事」の御妙判。)
それでは 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月17日(金)06時44分55秒
少し冷静になりましょうね。
・AのためのBなら,Aが目的,Bが手段。
・民衆のための仏法なら、民衆が目的、仏法が手段。
この点は如何かな?
sinn さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月17日(金)06時46分14秒
まず、世法で実証してから法について語りなさい。
管理人様 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月17日(金)06時48分58秒
創価学会破門と日本の国の乱れは日蓮正宗の責任ですが、現テーマとは無関係です。
その件でのお話をする場所をご提供になれば、参加をする創価学会員がいると思います。
管理人様 投稿者:卞氏 投稿日: 6月17日(金)08時54分13秒
>後加文と推察されるが相伝の上から教義的・・・
詳細な引用を頂き、ありがとうございます。正宗では教義として用いますが、学会では用いません。以降の発言は貴方の取捨判断の範疇と存じます。
沖浦氏の指摘にもあるように、後加文である以上、義を判定するうえでは対象外ということでよろしいかと思います。
なお、書籍として学会では一般には販売していないみたいですが、詳しくは知りません。
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月18日(土)07時45分56秒
>現実にこの娑婆世界に出現しなければ、どうやって仏様は衆生を救済するというのですか?
現実に娑婆に出現すること自体が仏様の衆生救済の具体的行為の第一歩ではありませんか?
その通りです。最初からそのように言っております。
仏の出現の目的は衆生の救済にあります。目的が本です。文法上、そうなるのですよ。もし衆生が仏の出現を目的として出現するのであれば、衆生が迹になります。
貴方が、仏が本、衆生が迹。の証明を試みられるなら、御書の中から、衆生は仏の為に出現する。とのご文を探し引用せねばなりません。
その場合は、現実に衆生の救済を目的として、仏が出現をする。とのご文が多くありますので、何箇所か御真筆の中から引用が出来れば、そう言う見方もあるな。
程度の証明にはなるでしょう。今しばらくお待ちしてもいいですよ。
富士宗学要集について 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月18日(土)09時06分15秒
ここに少しありますよ。http://nakanihon.net/nb/yousyuu/mokuji.htm
管理人様へ。テーマ・主従(本迹)論に問う 投稿者:大月天 投稿日: 6月18日(土)11時00分23秒
2日間に亘り出張、先ほど帰宅……まぁ、それは、さて置いて…。
この【破折法論館U】のページを開けさせて頂く度に、何かとテーマの内容が気になります。新参者ゆえ、テーマの決定がどう成されたのかは判りませんが、どうしてもテーマの内容が気になるのです。
⇒仏は衆生の救済のために出現される→仏の出現が従 衆生の救済が主。
⇒仏が迹・衆生が本。
過日、このテーマについて、多少なりは触れましたが、何者かによる対論の誘導によって恐れ多くも、我らの立場にして大聖人様が主・御法主上人が従との対比にまで論が及び、剰え、私教の徒輩らが大法を護持する聖僧に対し奉り『仏の代理人』などと毀損するに至っては、興門正統の一員として、これ以上の放置は忍び難く、以って此に我が論説を述べて議題への結論と成し、併せて、私教徒らが吹聴する摧尊入卑なる言動を、此に於いて大いに破折したいと思った次第でございます。
まずもって述べたいことは、世々番々に出現する仏と、その国土に住する衆生との関係を、(主)と(従)に分別し、そのことをもって本迹を決するというテーマ自体に問題があるのではないか…と思うのであります。
それは何故かと申しますと、第一義、つまり仏の出現に関する一番重要な点から言いますと、仏は必ず衆生の機根に応じて出現する、ということなのであります。四義、つまり【時・応・機・法】をもって、仏と衆生の関係を考えなければならない、ということであります。時とは仏の出現及び出世を指し、応とは衆生の機根に応じて仏が出現し法を説くを指し、機は衆生の機根を指し、法は出現した仏が弘通せしめる法体を指すのであります。まず、これら四義によって考えますれば、仏と衆生との関係は、主と従ではなく、それは縁と因であり、しかもその両者は倶時一体のものではないかと思うのであります。
就註法華経口伝(御義口伝)上に曰く
『衆生に此の機有って仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す』
と。この御聖訓を受けて、上記の四義を現時に当てはめてみるならば、時とは末法であり、応とは御本仏・日蓮大聖人様の御出現であり、機とは我ら末法の衆生であり法とは本門戒壇の大御本尊を基とした三大秘法を指すのであります。
また、重ねてこの四義を如来寿量品第十六の長行中、法説の部位に合わしてみるならば、
『爾時世尊。知諸菩薩。三請不止。而告之言。如等諦聴。如来秘密。神通之力』
つまり「爾の時」が時、「仏告げて云く」が応、「諸の菩薩」が機、そして「如来秘密神通力」が法となるのであります。
続いて如来滅後五五百歳始観心本尊抄に曰く
『此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以って幼稚に服せしむ』
この文意を明かさば、「此の時」が時、「地涌の菩薩始めて世に出現し」が応、「但妙法蓮華経の五字を以って」が法、「幼稚に」が機、となるのであります。仏は必ず衆生の機根に応じて出現すると、小生が冒頭に申し上げましたが、これを衆生の機根に絞って考えてみるならば、先ほどの観心本尊抄の御文中「幼稚に服せしむ」に注目したいのであります。
ここで言うところの「幼稚」とは、当然のことながら本未有善たる我ら末法の衆生を指し、「服せしむ」は仏の立場を指しております。過日の記述で小生は、「大聖人様は四弘の能化たる仏様である」と申し上げました。能化とは教化する人師を指し、対比する所化は教化される人を意味します。つまり、総じて言うならば、能化たる仏に対して、一切衆生はすべて所化なのである。ということであります。
もう、お解かりでありましょうか…。つまりは、小生が思うに【仏が従・衆生が主】【仏が迹・衆生が本】という問いかけは、どう考えて見ても頷けないのであります。むしろ我が宗門の解釈には無い、何か、附仏法といか、在家中心主義たる学仏法の匂いがプンプンするのであります。もし、そうであるならば、当テーマの終結を急がなければならない。理由はただひとつ。「狂人走れば、不狂人も走る」…つまりは、法を下げてしまうからである。我ら日蓮正宗こそが法華折伏・破権門理を為す立場なのであり、それ以外の邪宗教は、我ら宗門に対して、批判こそすれ破折する立場には仏法上なり得ないのである。
さて、いよいよここに、当テーマに隠された御聖訓を披露致し、正しき解釈を以て述べ奉り、最後に開目抄の御文を明示して、異流義への警鐘と為し、完記にしたいと思います。
諸法実相抄に曰く
『されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ。経に云はく「如来秘密神通之力」是なり。如来秘密は体の三身 にして本仏なり。神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり』
どうでしょうか。当テーマの【衆生が主⇒本 仏が従⇒迹】……ありましたね。この御文を以って論理を展開させ、仏法の真実義は実は民衆にあり、民衆こそが主体なのだ! と今にも叫びたい御仁もいるのでは…。
しかし、この御文の意は、その様な軽薄な心では読むことが出来ないのです。
まずもって『されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり』 ⇒ ここで用の仏とは、法身を体とするのみにて、実体に対する作用・働きをいい、次の『妙法蓮華経こそ本仏にて御坐し候へ』の本仏に作用を受けるが故に『用の仏』というのであります。
次に『経に云はく「如来秘密神通之力」是なり。如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし』 ⇒ 基本的というか本源的というか、この全宇宙法界は、すべてこの【如来秘密神通之力】によって動いております。当然、我々の内にも命の力用として内在しておりますが、具現が大変なのであります。実感としての体得も、正境に帰命しなければ不可能です。【如来】とは別しては御本仏・日蓮大聖人様の御ことであり、【秘密】とは別して本有無作の南妙法蓮華経を指し、【神通之力】とは同じく別して我々が総本山から頂いている、ご本尊様の偉大な御力を指していると思うのであります。
よって文脈を整理するならば、如来秘密は体(本体)の三身であり、神通之力は用(働き)の三身となるのであります。続いて『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり』 ⇒ さて、重要なポイント【文上だけの解釈によって歪曲され、在家至上主義の依文とされやすい】。ここは間違いなく、大聖人様の示同凡夫なる御姿を理解しなければ読み違います。
『凡夫は体の三身』⇒大聖人様の御ことであります。
『仏は用の三身』⇒釈迦・多宝・十方三世の諸仏を指します。
ところがここに、本仏も迹仏も入るのです。しかも、ここでいう【本仏】も凡夫のことをいい、【迹仏】も仏を指しています。一体どういうことなのでしょうか。それは次の御文にあります。
『然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依って、倶体倶用の三身と云う事をば衆生しらざるなり』
どうでしょう……【倶体倶用の三身】これこそがポイントでなのであります。倶体倶用とは、寿量品文底の本仏が【体】と【用】を共に具えていることをいいます。しかも倶体倶用の三身は、必ず無作なのであります。これら実体と作用をして、その本源こそ人法一箇の無作三身如来なのであります。したがって結論を言いますれば、仏と衆生は一体不二であり、その連結はすべて三因仏性であり、倶体倶用であり、総別に於ける生死一大事因縁の血脈なのであります。仏と衆生の間に隔たりはありません。あるとすれば、それは衆生の方に起因します。そうです、謗法という身口意に於ける反作用が、仏との融和を遠ざけてしまうのです。正境に対していても、それなのですから……まして【但体無用】なる邪境に帰命するならば、如来の秘密なる神通の力によって、その色心は必ず鬼魅に食されていくのであります。
さて! 最後に附仏法・学仏法を標榜する諸君らに、五大部たる開目抄(上)の一節を送る故、胸に手を充てて、悔悟の念を起こし、もって正境に就かれんことを、ここに強く願うものである。曰く
『即ち在家の身を以て仏法を破壊す。此の人正教を偸竊して邪典に助添す。高きを押して等とは、道士の心を以て二教の概と為し、
邪正をして等しからしむ。義是の理なし。會て仏法に入って正を偸んで邪を助け、八万・十二の高きを押して五千・二篇の下(ひく)きに就け、
用て彼の典の邪鄙の教へを釈するを摧尊入卑と名づく』
やまさん40様へ 投稿者:大月天 投稿日: 6月18日(土)11時53分56秒
何か、突然入り込んでしまった様な。先日は、ご丁寧なメッセージ、誠にありがとうございました。今後とも宜しくお願い申し上げます。
大月天さんへ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月18日(土)15時21分53秒
大月天さん、テーマの核心を突いた投稿ありがとうございます。
現在のテーマは当板開設以前(5月末)にtoyoda.tv http://toyoda.tv/ のBBSで私と沖浦様が、聖人御難事・出世の本懐についての討論をしていた際に、沖浦様から
>仏が迹、衆生が本
>お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹
との内容の投稿があり、それを引き継いだものです。
【仏が従・衆生が主】【仏が迹・衆生が本】という問いかけは学会側(沖浦様)から出てきたものなので、タイトルを不適切に思われるかもしれませんが、そのまま「お題」とした次第です。
大月天さんご指摘の諸法実相抄の御文に関しても、一度は学会側から同文をあげての投稿がありました。それに対しましては6/2に私から簡単に反証を投げかけましたが、学会側からの反論は今のところありません。当板は1対1の対論ではないので、大月天さんの説明を、双方の投稿者やギャラリーに、もう少し丁寧に説明をいただけると、テーマの核心に更に突っ込んだ展開となっていけることと思いますので宜しくお願いします。
また『法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候』(曾谷殿御返事)の御文についても、卞氏から6/9に創価仏法の立場から「文上の」解説があったのに止まっております。
私が結論を急がず現在のテーマにもう少し時間をかけたいと思う理由は、創価仏法の誤りが、已成の仏と当成の仏の差別を知らぬがゆえに総別二義や本従の筋道に迷い[己心仏性]のみにとらわれて、境智冥合・四力合一の功徳を忘れ
口に妙法さえ唱えれば御本尊様を離れても衆生本来の仏界涌現があると錯覚するにおちいる、主師親三徳の仏様に対する不知恩にあると考えるからなのです。
実は創価学会員だけでなく、私を含む創価脱会組の法華講員にも、この創価思想の残滓はしつこく残っており、宗祖日蓮大聖人様を正しく拝することの妨げ、破門に前後して学会が削除した御観念文(人法一箇、一身即三身・三身即一身など)を正しく信解する妨げとなっていることを日々感じています。私には、創価学会の僧宝に対する軽視は、実はこの御本仏(仏宝・法宝)に対する不知恩・軽視が根源にあると感じられて仕方がありません。また法華講員にあっても今年は「僧俗前進の年」であり、この本従の筋目、主師親三徳に対する尊崇を丁寧にきちんと見直す次期でもあると思います。
・・・なお当板管理人として実名投稿者には「様」の敬称で呼ばせていただいております。
やまさん40様へ 投稿者:大月天 投稿日: 6月18日(土)16時20分7秒
了解致しました。
やはりそうでございましたか…。どう見ても、頭の中が逆さまになる様な議題だったものですから…。失礼の段、平に。
それにしても御宗門や御歴代に対する、こまごまとした悪口雑言は凄まじい。さしもの墨平三郎もビックリするんじゃないですか。以後、お見知りおきを…。
(注*墨平三郎とは
・・・ 日有上人御物語聴聞抄に、
「上代にも事のほか不信なる人有り、高祖聖人
身延御住の御時、
本は京都の人なり 四条の中務と云う人とともに 墨平三郎と云う人
御前にて憚りなく一座の口論有り、
本より中務は信心も有り当面の道理もありけるや
墨平三郎を座を立て給ふ、
墨平三郎腹を立てて申す様は『日蓮聖人は昼は諸宗無間と折伏し、夜は念仏を被れと申し候』と讒言を申す」
とある。)
やまさん40さんへ 投稿者:大勝利 投稿日: 6月18日(土)18時23分50秒
>創価脱会組の法華講員
学会では、「脱講組の学会員」との呼び方は一切致しません。私は、貴殿の其の<差別感>に対しては厳しく批難しておきます。
法華講ではね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月18日(土)19時24分19秒
創価学会を退転して宗門に走った人を、学会崩れ。と呼んで馬鹿にしているのですよ。
終了です 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月19日(日)10時37分4秒
法論館[別館]での法論は、私の勝利を持って終了を致しました。ご苦労様でした。
(注*何を以っての[別館]での勝利宣言なのかは不明)
なるほど 投稿者:sinn 投稿日: 6月19日(日)11時55分42秒
こうやって、自分の恥をさらしていくんですね。道理でだれも、援護に来ないわけだ。
ふっふっふ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月19日(日)12時32分45秒
青年よ一人立て。ですよ。
管理人殿 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月19日(日)20時59分41秒
衆生が仏の出現を目的とする存在。との、御文証の引用がありませんが、これで終了と致しますか?
次はこのテーマですが如何ですか? 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月19日(日)21時01分46秒
お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹
以下の条件を守れるお方を法華講から募集いたします。 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月19日(日)21時58分32秒
引用は蓮祖ご真筆に限る。世間の知恵、知識、常識は用いてもよい。
創宗離反以前の双方の指導や講義に引用は控える。(双方がこれを持ち出すと泥仕合になるのみです。)
所感 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月19日(日)22時29分28秒
敦煌。今見終わりました。
仏教の伝来が出家在家の犠牲の上にあったことを生々しく感じ、中でも死期を悟った僧侶が一人洞窟に入り、静かに死を待った事に感動をいたしました。現在では及びも付きません。やはり現代社会で出家制度は、もはや意味をなさないのでしょう。
(注*NHKスペシャルで放映された 新シルクロード 第6集 ”敦煌”〜石窟に死す〜 http://www.nhk.or.jp/special/onair/050619.html のこと)
沖浦氏へ 投稿者:大月天 投稿日: 6月20日(月)06時09分27秒
御仁の目はいったいどこに付いておるのだ! ページを戻して刮目したまえ!
結論はとっくに出ているんだよ。文上ばかりをペロペロ舐めて、悦に入るのはよしたまえ!御仁の質問たるは「般若より華厳が優れたるを、阿含をもって証明せよ」という愚問と同類である。
次っ! 題目が本で御図顕が何だって? 質問が違うだろう。本門の題目と本門の本尊との関係を教えて下さい。これでよい!テーマにするほどでもないわ!一大秘法も知らないんじゃ話しにならん。いつも思うことだが、御仁のそれは全く動執生疑になっておらん!
次の次っ! 詭弁はやめたまえ。御仁は小生に言った「嘘でした…」と。幾百万の在家の長が、保身のために二枚舌を使ったというかっ! そのこと戸田先生の御前で申せるかっ!歴代の会長をはじめ、学会の大幹部達は、法戦を展開する学会員に対し、日蓮正宗を基とする異体同心をもって、正しき指導をしてきたのである。それに引き換え、今の学会は何だ! 指導が全然違うではないか!我々はその事を言っているのである。それを「以前の指導は引用しない」だと? ふざけるでない!それから【蓮祖】という呼び方はやめろ!御歴代さえも憚る誠に無礼な言い方である!一邪教徒が御本仏に対し、一介の宗祖と見るが如き大言!身の程を弁えよ!我は言う。御仁の命には天魔が住みついているのである。
そして最後っ! 出家は制度ではない! 三宝の一つである。法義と世法をごちゃごちゃにするなっ!断食する小乗の僧などを見て感動する奴がいるかっ!御開山・日興上人曰く『若し爾前迹門の尸羅(※戒律のこと)を論ずれば一向に制禁すべし』所詮、我らが所持奉るところの超八独一たる大法門に、御仁らが作り上げた俄か教義など旭日に消え行く星のかけらにも及ばないのである。
さてこそ問う!一大秘法とは何か!重ねて問う!文底秘沈はいずこの御文に沈められたるや!
この二つ答えてみよ!
困ったお方ですな 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月20日(月)07時43分38秒
大月天 さん
仏は民衆の救済を目的としてこの世に出現する。と、御書には随所に説かれてあります。誕生の究極の目的を仏法では、出世の本懐。と申します。あらゆる仏の出世の本懐は衆生(民衆)の救済ですね。この点は仏法者としては常識です。少し詳しく説明いたしますと、出世が手段であり迹、本懐が目的であり本です。目的が本、手段が迹。文法上こうなるのですよ。それとも貴方は、日本語の文法までを否定するのでしょうか?
尚この本迹の立て分けは勝劣とは別の概念です。貴方はこれを同一にお考えなので、混乱して仏法の真髄に迫れないのです。今後の世界広布の推進には、この本迹の立て分けが最大の理論的な武器になります。
すでに創価学会内では常識化しつつあるこの概念が理解できなければ、宗門に世界広布の可能性は皆無でしょう。
>本門の題目と本門の本尊との関係を教えて下さい。これでよい!テーマにするほどでもないわ!
凄く大柄な物言いですね。この様な表現をなさるのでしたら、今後のお相手はお断りいたします。このテーマは管理人さんが決定されたものですよ。如何に法華講員同士とは言え、他人の主催する掲示板に踏み込み、無理やりテーマを押し付けるとはあきれます。少し世の中の常識をわきまえてくださいね。貴方が貴方のテーマで掲示板をお立てになれば、ルールを決めてそちらにお伺いいたします。貴方のテーマはそちらでお願いいたします。
ここの管理人さんと私達は一つの約束をしております。ここでは感情的な表現を創価学会員、法華講員双方が慎むと言うことになっております。お守りになれないようでしたらこないで下さいませ。
それでは 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月20日(月)07時46分54秒
>さてこそ問う! 一大秘法とは何か!重ねて問う! 文底秘沈はいずこの御文に沈められたるや!
この二つ答えてみよ!
以上のテーマで掲示板をお立て下さい。お伺いいたします。
管理人殿 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月20日(月)07時48分17秒
どうも協調性に欠けるお方の乱入です。この掲示板が荒れては何にもならないと存じます。善処を下さいませ。
それともね、大月天さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月20日(月)07時53分7秒
http://fboybbs.dip.jp/index.php こちらでやりましょうか?
(注*リンク先は創価学会員が運営するサイト“富士宮ボーイ掲示板”)
こんにちは。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月20日(月)09時49分27秒
応援がどうのこうのという話が出ていますが、こちらとしましては、基本的に沖浦さん一人で「十分」と思っています。
衆生と仏の本迹は、沖浦氏言説への反論者が、内容を「理解できるか否か」だけの問題とお見受けします。
沖浦氏へ 投稿者:大月天 投稿日: 6月20日(月)21時40分40秒
場外でと言うことか? それもよかろう。しかし考えても見よ。御仁のような平成2年以前の記憶が、魔の通力によって封鎖されている現状に於いて、果たして真面(まとも)な論議が出来得るのであろうか。先に急ぐことでもあるまい。第一、小生からの詰問に御仁は答えておらん。
■一大秘法とは何か!
■文底秘沈はいずこの御文に沈められたるや!
御仁は「テーマ! テーマ!」と叫ぶが、上記の2問こそ、当該テーマの核心に迫り得るキーワードではないのか? 特に【一大秘法】は、すべての論議の枝葉を払拭する、誠に重要な論点である。見逃す手はあるまいに。
それから今ひとつ、今朝、御仁から送られた文言。
>尚この本迹の立て分けは勝劣とは別の概念です。貴方はこれを同一にお考えなので、混乱して仏法の真髄に迫れないのです。
一体、別の概念とは何か! それは単なる御仁の概念であろう!いい加減なことを言うものではない!
仏法に於いて、本迹の立て分けは、必ず勝劣に及ぶのである!
■大聖人様曰く 『今日の本果は従因至果なれば本の本果には劣るなり。寿量の脱益、在世一段の一品二半は、舎利弗等の声聞の為の観心なり。
我等が為には教相なり。情(こころ)は迹は劣り本は勝るとなり』
しっかりと刮目されよ。そして後に、次の御文を心して拝せ! 特に、御仁の為に選んだ御聖訓である。
大聖人様、重ねて曰く『世間の罪に依って悪道に堕ちん者は爪上の土、仏法に依って悪道に堕ちんは十方の土の如し。
其の故は信心の根本は本迹勝劣、余の信心は枝葉なり』
百六箇抄を読まれよ。
追記・・・小生は至って冷静である。がしかし、邪論と誹謗に対しては、法華の慢により文面に於いて、烈火の如く破折す。御仁もお解かりであろうが、これは折伏なのである。申し訳ないが、私用のため外出するにより、ご返答はご随意に任せる。 失敬
大月天さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月20日(月)21時57分12秒
貴方の我見を論破するなどは非常に容易です。が、今はテーマが違うのです。 それぞれがそれぞれの設問をし、それぞれがばらばらに返答をすれば終止がつきません。それで焦点がぼやけないようにテーマを絞る事で、創価学会法華講双方が合意をしております。
貴方が掲示板を建てないならば、若鷹か、富士宮ボーイで如何ですか?無論、貴方のご指定の掲示板でも結構です。
皆様へ。沖浦様へ。 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月21日(火)00時30分57秒
* 皆様へ / 最初のテーマが終結しておりませんので、次のテーマへの移行は暫くお待ちください。 *
次のテーマ、私は「一大秘法」「本門の題目と、本門の本尊との関係」でもよろしいかと思います。これは最初のテーマ候補にもありました。
>お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹(沖浦様の投稿から)
とも重なるテーマでもあります。これこそ日蓮正宗の教義と、以外の日蓮系教団(創価学会を含む)の教義の根本的相違点なのですから。
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* NHKの新シルクロード「敦煌 石窟に死す」 *
私も見ましたが、相変わらずNHK(に限らずTVで仏教をとりあげる場合全般に)には無常観に偏った念仏系の影響が強いですね。
5月放送分の「天山南路」での羅什三蔵も、公営放送で「法華経が釈尊出世の本懐である」と言うわけにはいかないのでしょうが、
法華経訳よりも「色即是空
空即是色」に偏重した構成で物足りなさが残りました。
・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・
* 沖浦様には勝利宣言の前に、法華講側から問われている<御書による論証>をお願いします。 *
>衆生が仏の出現を目的とする存在。との、御文証の引用がありませんが・・・
田である衆生は、仏の出現・化導を信受することなしに、内在する正因仏性を開花させて自ら成仏を遂げることが出来るのでしょうか?
『法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。』(曾谷殿御返事)
『うへて』(植え手)は種の持ち主であり能動の主体であり、『田』は種を受ける従の立場である。これが「常識的な」説明であろう。
仏様に仏種を下して頂かなければ、田はどんなに手入れをしても実りの秋を迎えることはないのである。種を蒔かずとも、耕して引水さえしていれば何かを収穫できるのであろうか?たとえ生えたとしても雑草の類であろう。それでは信力行力のみで利益を得ようとしているようなものではないかと思うがいかがなものか?どんなに丹精込めて耕しても、仏種を植えていない心田では
『若し心外に道を求めて万行万善を修せんは、譬へば貧窮の人、日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきが如し。』
と一生成仏抄に仰せの通りではないか?
仏様の出世の目的は、衆生に仏の種を植えて化導し、衆生を成仏の境界へ導くことであり、
我等衆生は仏に導かれて仏果を成就することをを目的として娑婆世界に生まれる存在である。
衆生の信力行力は、仏様(御本尊様)の仏力法力と感応し境智冥合する、四力合一の果報によって功徳を成ずるのではないのか?
『今此の妙法蓮華経とは諸仏出世の本意、衆生成仏の直道なり。』(聖愚問答抄)
と。また法華経寿量品に『衆生所遊楽』とはこの事ではないか。
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* 大月天さんへ *
> ■一大秘法とは何か!
■文底秘沈はいずこの御文に沈められたるや!
・・・・上記の2問こそ、当該テーマの核心に迫り得るキーワードではないのか?
特に【一大秘法】は、すべての論議の枝葉を払拭する、誠に重要な論点である。
私もこの意見に同感です。だからこそ当板開館時最初の投稿に
>創価学会は宗旨の根本である三大秘法が不明であり戒定慧の三学が備わらず宗教と呼ぶことができない。
宗祖日蓮大聖人様は聖密房御書に[宗教の定義]を述べられています。
曰く『宗と申すは戒定慧の三学を備へたる物なり』と。
「創価学会は何宗なのですか?」創価学会は何宗でもありません。
それは創価学会が宗教とは呼べない存在だからです。
まずは法の正邪を論ずる前に、創価学会が「宗教」であるとするならば、創価学会の三大秘法<本門の本尊と戒壇と題目>を明らかにして頂きたいと思います。
として、こけらを落とさせていただいたのです。しかし、最初のテーマが終結しておりませんので、次のテーマへの移行は暫くお待ちください。
・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・
大勝利さんへ 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月21日(火)02時03分47秒
ちょっと横道にそれますが、 >創価脱会組の法華講員 という言い方について、一度書かせていただきますね。
これは誰に言われるでもなく私自身が肝に銘じていることなのです。宗内や法華講内に差別体制があるとかという話ではございません。今回のテーマについても、私自身、創価学会当時に池田会長の御義口伝講義や、戸田〜池田版の開目抄・観心本尊抄講義を読んで、現在の学会員の方達の考えと同じ落とし穴に嵌り、地獄に堕ちた経験があります。
家系代々の日蓮宗から19歳で日蓮正宗に入信し創価学会員として信心修行をした時にも感じましたが、邪宗教から正法に改宗したからといって、その日から邪宗の害毒が全て消えて清浄になるわけではありませんから、代々宗門を外護してきた先輩達や、私が平成3年に創価脱会して後に入信した親兄弟や次世代の眷属、また日蓮正宗信信徒の家に生まれた子供達とは、無視できない機根・因縁・宿業の違いを感じざるをえません。
当体義抄に
『法性の妙理に染浄の二法有り。染法は薫じて迷ひと成り、浄法は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。』
との御聖訓があります。創価学会当時に染み込んだ信行学にわたる習気(じっけ)が、脱会後の信心修行にどれほどの妨げになっているか。これは太陽が昇って陽光に照らされ、初めて自身のみすぼらしさに気付くようなもので、創価脱会して法華講員になった者にしか解らないものでしょう。
私は自らの命を浄化していくためにも、自分の己心中の邪宗教の害毒を見つめていこうと思い、あえて自分をこのように呼ぶことがあるということです。
(しかし、学会崩れなどという自らの仏性を卑しむ言い方は今はしません)
すでに 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月21日(火)06時44分14秒
決着はついています。貴方方の理解力が、蓮祖の法についていけないのです。
それとね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月21日(火)06時45分20秒
>創価学会当時に染み込んだ信行学にわたる習気(じっけ)が、脱会後の信心修行にどれほどの妨げになっているか。
これ自体が日蓮正宗の害毒ですよ。
理解をしてくださいね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月21日(火)07時25分19秒
>沖浦様には勝利宣言の前に、法華講側から問われている[御書による論証]をお願います。
何度も御書を引用していますよ。貴方方に理解能力が無いのです。御書を理解できず、読めないことは、相伝の無い日蓮正宗の邪義によるのです。
これは私の責任ではありません。
>田である衆生は、仏の出現・化導を信受することなしに、内在する正因仏性を開花させて自ら成仏を遂げることが出来るのでしょうか?
出来ませんよ。何故そのようなことを聞かれるのですか?私は一度も否定をしていません。
>仏様の出世の目的は衆生に仏の種を植えて化導し、衆生を成仏の境界へ導くことであり、
ですから迹なのですよ。
>我等衆生は仏に導かれて仏果を成就することをを目的として娑婆世界に生まれる存在である。
これは明らかに違いますね。衆生が、仏に出会い正しい法を聞き、それを信じ、行じ、成仏に至る可能性は限りなく小さいのですよ。一眼の亀のたとえはご存知で しょう。衆生は、仏の出現とは無関係に生死を繰り替えし、その無量の人生の中で仏を本当に必要とする機根が衆生全体に訪れた時、衆生がその力で仏を呼び出すの です。それが感応妙です。衆生が仏の必要を感じ、仏はその衆生の要求に応して出現をするのです。仏の出現自体が衆生の要請に応じる行為であり、ここでも衆生が 本、仏が迹なのです。
文証の挙げ方について。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月21日(火)08時53分51秒
>『うへて』は種の持ち主であり能動の主体であり、『田』は種を受ける従の立場である。これが「常識的な」説明であろう。
これが、テーマ「本、迹」を指していることになっていません。やまさん40さんは今だ「主従」「能所」の話ばかりをしております。よろしくお願いします。
管理人さんへ 投稿者:大勝利 投稿日: 6月21日(火)12時03分32秒
大月天さんの読応えある御投稿と思いますし、多々頷けました。
しかし、大月天さんはログを最初から読んでないのではないでしょうか?現テーマは本迹ではなく、主従または本従について思いますが如何でしょうか?しかし、本迹を離れて本従を理解できるのかとの疑問も残りますが。敢えて浮き彫りにする為には面白いと思います。
管理人さんへ重ねて確認です。本迹と本従を立て分けますか?小生としては、大月天さんの言うように結論的に本迹一致だとしても、其の前に本勝迹劣があるが故に不思議一。と観じます。その前段部分の理解を話しているつもりでしたが。
>代々宗門を外護してきた先輩達や、私が平成3年に創価脱会して後に入信した親兄弟や次世代の眷属、また日蓮正宗信信徒の家に生まれた子供達とは、無視できない 機根・因縁・宿業の違いを感じざるをえません。
又、小生は正宗信徒ではありませんので、実際そちらの指導につては知り得なません。故に直接関係ないと言えば其の通りなのですが、当方では「法華講内では、代々の法華溝員と入信の法華講員とは根本的に差別される」と囁かれています。実際、貴殿の発言には、その卑屈感がありありと読み取れます。元学会員ならそれはそれで堂々とすればよいではないか。と言いたくなるのです。テーマにそれてしまったので、この件はこれで。
他にもに、疑問に思ったので確認させて頂きたい。誘導するつもりはありません。重ねて問うようですが、大月天さんの御意見だと「本迹一致」の結論になるように読めますが、正宗教学として是は如何なのですか?
又、凡夫についても<体>を見ているようですが、そちらは<位>と見るのが本筋と思っていましたが如何ですか?
管理人様 投稿者:大月天 投稿日: 6月21日(火)20時55分0秒
管理人様の御意に従います。また、数々のご配慮、痛み入っております。
大勝利様へ……お初でございます。お問い合わせの件ですが、お答え致します。
テーマの内容が⇒<衆生が主(本)、仏が従(迹)なのか?>とありますので、このタイトルに関して言えば、本と迹は一致します。倶体倶用・一大事因縁・凡夫即極。つまり、仏の出現と、我々に内在する仏性との関係を、本迹や主従などで分別させようとすること自体が無理なのです。したがって、当テーマへの答えとしては、本迹一致つまり、仏と衆生は一体不二の関係である。ということになるのです。しかし、仏説・仏典・翻訳・教義等については必ず根底に於いて本と迹があり、それらは必ず勝劣に至るのであります。
「在在諸仏土常与師倶生」。師弟不二を説いた教えです。ありとあらゆる仏土に於いて、常に師と倶に生まれる、と説かれています。つまり、仏と衆生の関係は、本門・迹門などではなく、その因と縁こそが重要なのであり、そのことを信心の上から、しっかりと学んでいくことが、とても大切なこであると思うのであります。仏法の教義体系は、あまりにも深甚広大であり、それ故に、法理を説く上に於いては、本義の掛け合わせには、十分注意しなくてはなりません。よろしいでしようか。
再度お伺いしましょう 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月22日(水)00時03分3秒
焦点を合わせなおす意味で、6月2日に沖浦様にお尋ねした問いを再度お伺いしましょう。
>衆生が主で、仏が従紛れも無くその通りです。
それでは、『夫仏は一切衆生に於て主師親の徳有り』(蓮盛抄)
『仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり』(法門申さるべき様の事)
衆生が主で仏が従ならば、この御文をどう解釈されるのでしょうか?
「仏様の<主師親三徳>に対して、仏恩を被る我ら衆生の立場は何なのか?」ということを私は尋ねているのですが?
やまさん40 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月22日(水)00時09分6秒
弟子であり、生徒であり、化導を受ける側ですよ。
簡単に言えば、学校で、先生が仏、生徒が衆生。
ここで、 ・先生は生徒を教え導くことが目的の存在ですから迹。
・生徒は先生にとって目的ですから本。
簡単でしょう。主、従も同じです。
沖浦さまへ 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月22日(水)00時37分52秒
では・・・
@師徳 ・師匠(先生)は弟子(生徒)を教え導くことが目的の存在ですから迹。
・弟子(生徒)は師匠(先生)にとって目的ですから本。
A主徳 ・主人(賢王)は従者(国民)の営みを守ることが目的の存在ですから迹。
・従者(国民)は主人(賢王)にとって目的ですから本。
B親徳 ・親は子を生み育てることが目的の存在ですから迹。
・子は親にとって目的ですから本。
ということなのでしょうか?つまり、衆生は仏恩を被る立場である以前に、仏に恩を被らしむる立場なのであると?
また、『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。』とは、この意であると?
やまさん40 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月22日(水)07時21分41秒
釈迦は本来の師匠であり、従うべき仏だとの意味でしょう。釈迦を蓮祖と読めばいいのです。この御書の前段で蓮祖は『但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ、』と、僧侶の資格についておのべです。いまこんな僧侶はおりません。肉食妻帯をし、在家と同じ生活をし、すでに僧侶などではありません。この様なものどもは、本従とのお言葉とは無縁の存在です。
>つまり、衆生は仏恩を被る立場である以前に、仏に恩を被らしむる立場なのであると?
そう思います。
御意。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月22日(水)09時24分26秒
>また、『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。』とは、この意であると?
その通りと考えていただきたいです。
こういうことです。やまさんは後輩を教え導く時、「自分の考えを教えてやっている」というようなことを考えますでしょうか。後輩の成長を願い、自分ができることをさせてもらおうと、そう言う気持ちで接するのではないでしょうか。
このお手紙は、曽谷殿が己義を構えていたことが背景としてある御書です。
>「仏様の<主師親三徳>に対して、仏恩を被る我ら衆生の立場は何なのか?」
「我等」という方向から見るならば、その仏の徳(迹)に縁して、自らの仏としての境界を開いていくこと(本・徳を顕していくこと)です。それが仏恩に報いる立場ということです。
沖浦氏へ 投稿者:大月天 投稿日: 6月22日(水)22時54分7秒
まずは、次の語訳を読まれよ。
陀羅尼経巻三に説かれた『橋を問う』という故事である。
ある時、一人の有徳の信者が、貧しい修行僧に衣食や珍宝を施し与えるという大布施会を設けた。そこで、ある一人の僧珍宝を得ようと、その会所に行った。ところがその途中に大きな橋があって、大勢の人たちが往来していた。そこで、この僧は、ある一人の智者に尋ねた。 「この橋はどの様な人が造ったのか、この河の流れはどこからどこまで流れていくのか」等、次から次へと質問していった。「橋の材料はどのような木で、どんな象に運搬させたのか。さらには、この河の水は塩辛いか苦いか、河は深いか浅いか、どの様な用途のために橋を造ったのか」等々。 この様な質問を続けること七千八百回を数えたという。本来の目的を忘れ、枝葉末節にこだわったその僧が、質問を終えた時、智者はその僧に向かって、何の利益もない愚かな質問をやめ、早く自分の目的である会所に行って、悔いの残らないようにしなさい、と諭すのである。しかし、僧が会所に行き着いた時には、すでに衣食も珍宝もなくなっていたのである。
この故事の言わんとしている所は、文(橋)は理を伝えるための手段であるから、仏法を学ぶにあたっては、文の訓詁註釈に囚われ過ぎて、本来の目的を忘れてはならない、という意味なのである。
そのことを基として御仁に言う。甚深にて一義たる仏と衆生との関係を、目に映る現象のみで判断し、一木に多種なる枝葉を付けるが如く、上下・主従・先後・始終・本迹・勝劣に強いて分別す。これまさに、本義から遠ざかっていく『橋を問う』作業なのである。
>衆生は、仏の出現とは無関係に生死を繰り返し、その無量の人生の中で仏を本当に必要とする機根が衆生全体に訪れた時、衆生がその力で仏を呼び出すのです。
仏と無関係に、衆生が生死を繰り返すとは何事か! しかも、それが本来の底流であり、現世に在住する衆生が、力を発揮して初めて、仏がその現世に出現するというか!その様な邪論を言うから、小生から叱責されるのである!
大体、衆生の力とは、何を以って力というのか。もう一つ、衆生の要請とはなんじゃ!端的に申せ。たまには奇論を聞いてしんぜよう。
しかし、衆生が仏と無関係に生死を繰り返していると思ってるならば、最初から、この様なテーマを出すでないっ! 掲示板の方々に失礼とは思わぬか!
如来滅後五五百歳始観心本尊抄曰く
『今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以て同体なり』
能化の仏も本有常住、所化の衆生も本有常住なのだよ。この御聖訓は、仏と衆生が一体となった成道の姿を、御説きになったものなのである。自受用報身如来及び十界本有常住という、本源的な三世の生命観から凝視しなければ、この御文は拝せないのである。
【仏と衆生は本源的に一体不二である】…小生に於けるテーマへの答えである。功を焦って、あまり〔橋〕を問い過ぎぬ様に。帰宅は深夜。失敬。
大月天 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月23日(木)07時08分50秒
橋を問う。法華講の御書の読み方ですね。依文判義(原理主義)です。
これに対して現実の社会の立場から御書を拝する。依義判文といいます(現実主義の一つ)。戸田先生が始めて行われた読み方で、創価学会発展の肝要です。
私は、仏と衆生の関係を先生と生徒のたとえを用い、御書を引用して何度も説明を致しました。現実社会の立ち場から御書を読んでいます。が、貴方には、その努力が皆無です。レベルが違いすぎて相手にはなりません。いま少し、現実の立場から御書を読み引用してください。
>仏と無関係に、衆生が生死を繰り返すとは何事か!
しかも、それが本来の底流であり、現世に在住する衆生が、力を発揮して初めて、仏がその現世に出現するというか!
それでは貴方も衆生ですが、貴方は何時も仏のいるところに生まれているのですか? 衆生が仏を呼び出す事実は、仏法が他宗教に優れる卓越した思想です。仏と衆生の本迹と密接に関係があります。それ所以に、仏法は宿命を説き、外道は運命を説くのです。然しながら、貴方にはこの概念の差は理解が出来ないでしょうね。お気の毒に存じます。
>その様な邪論を言うから、小生から叱責されるのである!
貴方の矮小な我見等はどうでもいいですよ。牛の角にとまった蝿の話はご存知でしょう。蓮祖と、戸田先生のご叱責を恐れます。
理解が出来るでしょうかね? 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月23日(木)08時18分1秒
>如来滅後五五百歳始観心本尊抄曰く
『今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以て同体なり』
勝手な読み方をしてはいけませんね。衆生が出現し(人類に限っても500万年の歴史があります)、仏が出現するまでには大きな時間の経過があります。
この人類に限っても、わずか3000年前に出現した釈迦が最初です。それでは仏は以前はいなかったのでしょうか?宇宙の存在そのものが仏の当体です。
宝塔即宇宙ですよ。その観点からは仏は常に衆生とともに存在致します。
その仏が、現実社会に人間の姿で一つの人格として出現するためには、衆生の機根が整い。が、不可欠です。
『仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり、』(新尼御前御返事)
現実の衆生の側の社会から見れば、衆生が仏を要請して呼び出すのです。感応妙です。
捉え方の問題なのでしょうか? 投稿者:卞氏 投稿日: 6月23日(木)10時06分
>仏と無関係に、衆生が生死を繰り返すとは何事か!
ちがってますよ。
>仏の出現とは無関係に、 というのが沖浦氏からの発言です。
***
>現実社会に人間の姿で一つの人格として出現するためには、衆生の機根が整い。が、不可欠です。
若干視点が異なるかもしれませんが、視点を広げる意味で一つの意見として言わせて頂きます。
一切衆生皆仏です。有情非情問わずです。法華経などの一切経典。そのものも衆生が求め、作られてきました。それは、作る必要があったからです。経典そのものも「応身」として現されされた仏とみることが可能です。
鎌倉時代、白法隠滅の時、そのときの衆生の機根。他は省略しますが、「教機時国先後」と、これらの条件すべてが整って初めて、大聖人の出現があったのです。
***
>【仏と衆生は本源的に一体不二である】……小生に於けるテーマへの答えである。
この結論が先にあるのでは、「仏が出現する(滅する)」ということの意味が全く問えなくなります。現実論からの疎遠をもたらすように思います。大月天さんが、沖浦氏の発言を引用するときに、「出現」という文字が消えてしまったのは、そのためでしょうか。
本迹を問うのに、「現(顕)れる」という概念を外すことは出来ません。
はじめまして 投稿者:TAEKO 投稿日: 6月23日(木)14時38分44秒
はじめまして。私は3世の創価学会員です。私は難しい教学はわからないし、まだ家にインターネットがないのであまり参加できないかもしれませんがよろしくお願いします。
平成6年に亡くなった祖父母は熱心な学会員だったそうですが、お葬式はお寺でやりました。両親はあまり勤行もしていないし活動にもあまり出ていなくて、正直言って今は宗門にも最近の創価学会の行き方にも疑問を感じています。でも、今の自分自身や自分をとりまく環境を変えたいという気持ちと、ご本尊様だけは絶対にすごいという気持ちは子供のころから強いです。それから、ご本尊様は祖父が戸田先生時代にいただいた日寛上人様の古いご本尊様です。
やまさんが沖浦さんに質問したことで思ったことがあるので質問させてください。
>@師徳/師匠は弟子を教え導くことが目的の存在ですから迹。
弟子は師匠にとって目的ですから本。
A主徳/主人は従者の営みを守ることが目的の存在ですから迹。
従者は主人にとって目的ですから本。
B親徳/親は子を生み育てることが目的の存在ですから迹。
子は親にとって目的ですから本。
これでよろしいのでしょうか?
という、やまさんから学会側への質問でしたが、私はこれは衣正不二の関係だと思います。正法(自分)から見れば、周りは衣法(環境)になるので、自分の境涯を革命することによって周囲の人たちや環境までも変革できるというのが衣正不二の原理ですよね?
だから私たち<地湧の菩薩=大聖人様の眷属=法華経の行者>からすれば、大聖人様(仏様)は末法の南無妙法蓮華経の教主であり、信心の大師匠であり、仏子である私たちを大慈悲で見守ってくれる両親の三つの恩徳があるのでしょう。実際に信心をして仏の生命を開いていく正法である私たち自身からすれば、仏様は衣法ということになるのではないでしょうか?
難しい教学的なことは苦手なので皆さんに教えてもらいたいと思っていますのでよろしくお願いします。
TAEKOさん。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月23日(木)17時51分5秒
>実際に信心をして仏の生命を開いていく正法である私たち自身からすれば、仏様は衣法ということになるのではないでしょうか?
>難しい教学的なことは苦手なので皆さんに教えてもらいたいと思っていますのでよろしくお願いします。
ホウの字がちがいます。これからの説明にあたり意外と大事なポイントです。
正依でいうと、目に見えて仏として現されるものは、人であったり、御書とか経典とか、紙幅の御本尊。それが依報。ということはご理解いただけるとおもいます。私たちが信心に励み、その功徳を自ら示すことで、これらも仏の存在として現されます。たしかに深い関係のあるので不ニです。大聖人の仏法はすばらしいです。でも、そのすばらしい仏法を宣揚するもしないも、正報である「私達如何」に掛かっているということです。証明する人がだれもいなければ、仏の言説がウソとなるのです。ご本尊は素晴らしいです。でも、その御本尊の素晴らしさも、我々が題目をあげることによって、仏力・法力が引き出され、
功徳として顕現されるから、素晴らしいことが分かるのですよね。
ですから衆生である私たちが本で(本体)仏は迹(影)となりますね。ただし、さきに言った「依報」のときとは異なり、目に見えない仏をも含めることになります。「法体、応体、報体」、というのをご存知でしょうか、仏の場合、法身、応身、報身という三身(さんじん)という概念になります。ここはご自分でチェックしてみてください。
「本来常住の法身、仏の智慧たる報身、仏の身体である応身」です。
***
ここで、本迹をいうとちょっと疑問が湧くかもしれません。大聖人は御本仏であるという。これは不変なことなのでは?学会の教義としては「御本仏と仰ぐ」となっています。
では、大聖人が本なら、私たちは迹か?これは違います。我々は大聖人が作った人形ではありませんし、大聖人がすばらしいから、そのまま我々がすばらしいとはなりません。在世の時代において、三身をその身に備えた大聖人であるがゆえに「本」になるので、大聖人の御振舞いをして「御本仏」であると我々が仰ぐわけです。正依における「依報」は「正報」に映し出されるものを言います。『正報なくば依報なし』(瑞相御書)です。「依報」とはそのものの実体ではなく、対象物を正報が認識することではじめて「依報」となるのです。
「依報」には「三身」は具わりません。「報」そのものですから。先ず最初に「正報」である我々は、対象となる物体を「応」としての存在としてしか見ることはできません。そこに、「正報」である我々が、智慧を見出すことで「報」であるところの益を享受でき、そのなかに原則、法則という「法」を見出すことができるだけなのです。
コップで言えば、コップというものがある。でも、のどが渇いていなければ興味も湧かないし、目にもとまらないかもしれません。場合によっては邪魔者扱いですね。それは応だからです。コップは邪魔者になるために作られたのではないのです。そこで、智慧を見出すためには、のどが渇いて水が呑みたいという意識が無ければなりません。コップには水を汲み呑む事ができるという智慧(報として現されてくる)としての存在です。そして「コップを使えば水を汲みのどを潤すことができる」という法則が見出せるということになります。
御本尊でいえば、応として作られた紙幅の御本尊で、題目という智慧を発揮し、
功徳を得、そこに「題目最高!御本尊最高!」(信じて唱えれば必ず結果が出る)
という法則を見出すことができるということです。大聖人でいえば、応身である大聖人に会い、その中に仏としての智慧を目の当たりにし、同じように行動することで功徳を得、「大聖人に縁すれば成仏できる」という法則が見出せる。
といえばご理解いただけるでしょうか。
***
大聖人が本なら、一切経典は迹。です。立場(軸)を変えて見ることです。
法華経にも、本化の仏菩薩、迹化の仏菩薩が登場します。大聖人は、迹化の菩薩を信仰の対象とするのは間違えだとして、法華経に説かれる「本化上行・地湧の菩薩、教主釈尊」を仰ぐことこそ肝要とし、御本尊を智慧の当体として現したのです。末法における私たちは、大聖人を御本仏と仰ぎ、御本尊に題目を唱えることで、自らの生命にも大聖人と同じく、仏界の生命を現してゆくことが可能になるのです。
大月天さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月23日(木)19時09分48秒
概、異論ありません。
管理人さん。沖浦克治さん。卞氏さん。ここまでの議論から推察するに、
<本迹>「本地を離れて迹を垂れる。」 『この世界に出現された姿が<迹>』
ここまでは双方ともの共通認識で良いと思えますが如何でしょうか?
テーマについて、もう一度整理しますね。 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月23日(木)21時00分2秒
当板開館の発端として、toyoda tv http://toyoda.tv/ のBBSで
私と沖浦様が出世の本懐についての法論をしている時に次のようなやりとりがありました。
題:やまさん40 さん
投稿者:沖浦克治 投稿日:2005/05/30(Mon) 00:42 No.217
>出世の本懐は、衆生の機根が調って初めて顕されるのである。
これはその通りです。仏が迹、衆生が本。である所以です。
その点から言えば、釈迦が民衆が法華経を説かれて、なお後世に過たず伝える機根を備えた事を出世の本懐。と、したことはうなずけます。蓮祖も同様でしょう。
両者は出世の本懐である民衆の機根を整え終わった時をもって出世の本懐を遂げた。これは間違いないと思います。
釈迦はその結果として法華経を説き、蓮祖はその結果として何を残されたのでしょう?
私は自行化他にわたるお題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹。で、両者は一体不二の関係でしょう。
この点は、今後の創価学会教学の研究と展開に期待をしております。尚この場合は、戒壇本尊は数ある蓮祖の本尊の中の一つ。と、考えるべきです。
との意見・投稿がありました。その後、数回のやりとりがありまして、私から
題:それでは、お互いに御書を以って証明しましょう
投稿者:やまさん40 投稿日:2005/05/30(Mon) 01:50 No.224
それでは
>仏が迹、衆生が本
>お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹
を、お互いに御金言をもって論証していきましょうか?
という展開になり、当板へと移行し、まず最初のテーマをストレートに「仏が迹、衆生が本なのか?」としたのでは、「仏が迹仏・衆生が本仏なのか?」「衆生の迹(影)が仏なのか?」というような誤解をしやすいので、(このように考えている方もあるかもしれませんが・・・)
沖浦様の >衆生のための仏。仏が迹、衆生が本。 の言葉を「衆生が主体である」の意味と考えて、<衆生が主(本)、仏が従(迹)なのか?>のテーマ・タイトルとして始めたのが初端です。
ですから、はじめから「本迹」の語の本義と当テーマの「本迹」の語意には、双方のとらえかたのズレがあり、最後に疑問符<?>をつけているのです。
・・・・・・・
その確認の意味でテーマ開始後に当板内で沖浦様宛に
題:少し整理しますね
投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月 2日(木)00時14分17秒
沖浦説の >仏が迹、衆生が本 とは、
「三毒強盛の荒凡夫である衆生が本」「衆生が主で、仏が従」という意味ではなく、丁寧に言うと
「衆生の化道が本、三徳具備の仏が迹」という意味でしたか?
とお尋ねしたところ
題:いいえ
投稿者: 沖浦克治 投稿日: 6月 2日(木)00時47分48秒
「衆生が主で、仏が従。」 紛れも無くその通りです。
との回答がありました。
馬鹿 投稿者:学会派 投稿日: 6月23日(木) 20時44分59秒
日顕宗は地獄におちろ! ブヒヒヒ…?
沖浦氏へ 投稿者:大月天 投稿日: 6月23日(木)21時13分1秒
戸田大講頭の御名を出すでない! すでに御仁の身は、池田博士の陳腐な知識に染まっており、もやは、大聖人様の法義からズレ落ちた、単なる異流義の徒輩に過ぎないのである。
>法華講の読み方ですね
何を言う。法華講の読み方こそが本流である。日蓮正宗以外は総て邪宗である。異流義と言われるだけでも、有り難いと思え。〔邪宗〕よりは、聞こえがよかろうが。【橋を問う】の説話を以って、文は理を伝えるための手段と解釈したことが、何故、依文判義になるのだぁ? 理は義を指しているのだぞ。つまりは、依義判文ではないか!「法華講の読み方」などと揶揄するものではない。
日寛上人曰く
「明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る、苟くも糟糠(そうこう)を執し、橋を問う何の利益あらん」
小生は、この日寛上人の御文を以って、陀羅尼経にある説話を解釈したのである。それを御仁は「依文判義」だという。小生の解釈のどこが「依文判義」なのだ!許す。その異流義で染まった屁理屈頭で、上記、日寛上人の御文を解釈してみよ!
(注*「明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る・・・」日寛上人・依義判文抄]の中で天台・法華文句から引用されている一節)
次。 >現実社会から御書を読んでます
衆生世間から御書を読むということか?世間の義を以って、御書の御文を判ずるか。御仁は大したものだ。その増上慢たる頭破作の言は、一体、どこから来るのだ? 所持している魔札が言わせておるのか?
大聖人様が著わされた御書の御文の義を以って、衆生世間たる現実を読みきっていく!これこそが、御書の拝し方であり、興門正統たる我等が法華講員の姿勢なのである。少しは見習いたまえ!
次。御仁は仏の存在を肉眼で追っておる。久遠元初から仏は在します。我々が何処に居ようと、何時に生まれようと、仏の手中に在るのである。つまり仏の基たるは、久遠元初自受用報身如来の御当体であり、その時空概念は本有常住なのである。其の事を以って、仏は処処に自説し、名の不同を説き、法の年紀を説くのであって、それらは因縁を以って成るのである。
三世諸仏総勘文教相廃立に曰く
『三世の諸仏は此を一大事の因縁と思し食して世間に出現し給へり。一とは中道なり、大とは空諦なり、事とき仮諦なり。已上一代の総の三諦なり。
之を悟り知る時仏果を成ずるが故に、出世の本懐成仏の直道なり。因とは一切衆生の身中に総の三諦有りて常住不変なり。此を総じて因と云うなり。
縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。善知識の縁に値へば必ず顕はるるが故に縁と云ふなり』
仏法と 歴史考古学をゴチャゴチャにするなっ! 人類学も然り!
毎日、寿量品を略して読んでるから、大事たる本因本果が頭の中から欠落するのである!
(注*創価学会は平成16年9月10日・聖教新聞に「創価学会の勤行および御祈念文の制定」を掲載し、
朝夕の勤行を従来の五座三座から、国際部SGIで指導していた[方便品と寿量品(自我偈のみ)一回読誦と唱題]への大幅な省略を公表した。)
それから御仁に言いたい事がある!小生は御仁の言い分に対し、毎回、次々と返答しておる。がしかし、御仁は小生からの詰問に答えようとしない。一体何なのだ?急ぎ、小生からの破折を、さかのぼって読み返し、文中にある詰問に総て答えよ!
■追記 : 一大秘法にテーマが成った時は、逃げるでないぞ。
学会派 殿へ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月23日(木)21時23分55秒
題:馬鹿 投稿者: 学会派
proxy357.docomo.ne.jp(210.136.161.71)
投稿日: 6月23日(木)20時44分59秒
日顕宗は地獄におちろ! ブヒヒヒ…?
* 学会派を名乗る畜生からの上記投稿は、創価学会員と、創価学会の永遠の師・池田SGI会長の名誉を故意に辱めるものと判断して晒し者とした後、3日の後に削除します。(学会側投稿者からの削除要請があれば即削除します) *
大月天 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月23日(木)23時23分17秒
どうも対話には無理があります。理解力を養ってから又お話を致しましょう。
ご苦労様でした。
学会派さんの投稿は 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月23日(木)23時24分46秒
削除すべきです。
私も同感です 投稿者:虚空老人 投稿日: 6月23日(木)23時45分45秒
削除の件、私(法華講員です)も同感です。
この掲示板は、蓮祖の法門について真摯なる論を講じる場であると思います。
自己の所論無しに、一方的にまくし立てるのは真摯にこの掲示板に参画されている各位(学会、宗門それぞれ)を侮辱するものと見受けられます。さらし者にするという気持ちも判らないではありませんが、この掲示板を汚す書き込みを残す必要もないでしょう。立ち上がり時期にしっかりとした品位を保った掲示板はその後も品性の高い掲示板になると考えます。
沖浦氏へ 投稿者:大月天 投稿日: 6月24日(金)02時21分26秒
>どうも対話には無理があります。理解力を養ってから又お話を致しましょう。
ご苦労様でした。
このセリフ、このままそっちに返すよ。逃げるのウマイね!博士そっくりだよ!お主には、南無妙法蓮華経と唱える資格がございません! 何故かっ!
☆機根がないから!!
一大秘法が何たるかも判らずに、べらべら喋るものではないよ!徳一の二の舞になるでないぞ!
★今後も、御仁の三宝誹謗に対しては、所を問わず容赦なく呵責する!
言い訳はいらん!
大月天 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月24日(金)06時37分26秒
>お主には、南無妙法蓮華経と唱える資格がございません! 何故かっ! ☆機根がないから!!
ほらほら、やはり無理でしょう。
管理人殿 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月24日(金)07時21分11秒
どうも大月天 さん は私との対話は無理だと存じます。どなたか他の人とやっていただけないでしょうか?
レス。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月24日(金)13時30分6秒
大勝利さん<
> <本迹>「本地を離れて迹を垂れる。」
『この世界に出現された姿が<迹>』
私としては、コンセンサス(同意事項)として止めることに悩むところですが、大勝利さんと、他の法華講員さんらでよしとするならば、そのまま進めていただいても構いません。
***
>お主には、南無妙法蓮華経と唱える資格がございません! 何故かっ!
☆機根がないから!!
やはり無理とおもいます。悲しいくらいに。別館で遊んでおられるほうが良いかと思います。
「この世界に出現された姿が<迹>」 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月24日(金)14時44分13秒
私はそう思いません。
・ この世に出現した仏こそが本です。
・ 何処にいるわからない冥伏した状態は迹です。
これは衆生も同じです。この世に出てこそ、お題目も唱えられます。
意見。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月24日(金)17時43分55秒
ちょっと微妙になってきましたが、精一杯書きこします。
>『この世界に出現された姿が<迹>』においては、<迹>として表わされているものを、書物であるとか、書かれている内容であるとか、ある意味で定義されつくした仏とか、たとえ今現実に居る仏でも、実際のところ仏の本地というのはそうそう見えるものではありません。そういったことふくめ、<姿>という単語で表現されていると読みました。たしかに迹です。
となると、>この世に出現した仏こそが本です。 は、その否定にはならないのです。迹として垂れることができるのは、本という存在があるからに他ならない。久遠の法という本があったから、法華経という迹が生み出された。本仏という本地があってこそ、一代の化導、御書、史実、そういったものが生まれる。
われわれは、その迹を使うしか方法は無いのです。迹だけで本質を見出だし、自身が本地地湧菩薩として振舞うことができ、そこには、本地による垂迹がなされ、またその迹から本質を見出した者が自身の本地を顕現する。それが続いて新たな歴史を築いていく。この繰り返しに壮大な広宣流布のダイナミックな流れがあるのだと、このように考えています。
例えとして、ベーシストが日々練習に励み、新たな奏法(迹)を考え披露してみる。新奏法研究の大一人者とのうたい文句でプロデュースされ、輝かしいベーシストと皆に映ります。あるピアニストはそのベーシストの輝きを見て、自分も新しい奏法を試みようと研究を始めた。そのベーシストの奏法の解説なども研究した。だが、なかなか上手くいかない。
あるとき、ベーシストが何の気なしにこんなことをもらした。「こうしたら面白い音が出たから使ってみたのさ。」ピアニストは思います。「ああ、そうか、奏法ではなく面白さを追求していたんだ。」(彼の本)と。そこで新しい奏法にこだわらず、フレーズの組み合わせの面白さを発見(自の本)することができ、
それがその人の音楽の幅を広げていった。本質を見ることが出来たのです。上手くいかなかったのは今まで「奏法」というベーシストの迹に囚われていたからそうなったのです。
「本」が大事だとされる理由はそこにあります。そして「本(面白さの追求)」はピアニスト側が見出し、自分のものにしたわけであって、「迹(新奏法の追求)」はベーシスト側にあるものです。迹が本の影という意味もそこにあります。
ベーシストは、それまでの間「この奏法がどうのこうの」と玄人向けの受けのよいことばかりプロデュースされてきましたが、それよりも「こうやったら面白かった」とありのままに語ったとき、ピアニストにも良い影響があるのだということが分かり、そして、そのとき、これからは「随自意」で行こうと独立を決意したのでした。そして彼の周りにはあらゆる音楽家が「彼と演奏すると楽しい、意欲が湧く」との評価を得るようになっていったのです。
(ベーシストの発迹顕本の巻・・お粗末)
***
大聖人が一切経典から、南無妙法蓮華経を見出し(文底)ました。これも同じです。ふつう現代人でも何も知らなければ、南無妙法蓮華経ってなに?で終わってしまいます。本たる衆生は、その経験(実践)と学ぶこと(教学)によって、より信仰が深まるのです。この本質を掴んだ本(つまり確信を得た我々衆生のこと、または掴ませるべき目的である衆生)が、現実に存在する仏というのであれば、沖浦氏の発言>この世に出現した仏こそが本です。 こそが【是】となるのです。
我々は既に妙法を得、大聖人のこと、学んできました。そんな我々がするべきことは、一心に「衆生のため」だけを思えば良いのではないか。そう思います。
ちなみに、冥伏=迹ではないですよ。冥伏は、隠れて目に見えないが、縁により出て来るもののことです。対語は顕現です。迹は、垂迹という言葉があるように本から垂れ出されたものです。本体と影の関係に似ています。こちらは表面に現れるので見て取ることが可能です。
さきほどのように「正報・依報」とのほうが混同しやすいとおもいます。
沖浦さん 卞氏さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月24日(金)19時15分13秒
ええ、ですから、 <発迹顕本>「迹を払って本を顕す」
この世界に出現された姿が<迹>であるが、その本質は久遠<本地>の仏であると成るわけでしょう。
更に、「生命」から観心すれば、我々の生命は、そのままで「本仏」と捉えるわけです。しかし、「生命論」に関しては、ここの板では縁遠い話でしょうから、この件については沖浦さんとは別の板で研鑽しましょう。自由に意見をぶつけ合えるのも学会の良い処ですから(笑
管理人さんへ
横レス失礼致しました。議論の方向性を再度、修正御願い致します。
学会派は削除しました 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月24日(金)21時03分37秒
双方の投稿者から削除すべきとの意見がありましたので、
管理人権限で 学会派 を名乗る禽獣の投稿は削除しました。
(注*実際は投稿削除処置をとったが、編集時に一記録として残した。)
最後に一言 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月24日(金)21時48分56秒
『又衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、』
この世が衆生の心により穢土に浄土にもなる。と仰せです。全ては衆生が決定をするのです。
『衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、』
本質的には衆生も仏も同じ存在だと、仰せです。
『譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、
深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。』
このお題目を唱え、一念無明の迷信を磨くのは、この世に限ります。この世こそが衆生、仏、ともに仏法実践の道場です。故にこの世に出現した姿が双方とも本です。仏だから特別なはずがありません。仏も衆生も、双方同じ存在です。双方とも、この現実社会こそが本です。
(注*一生成仏抄の御妙判)
興味深く拝見しておりました 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月24日(金)22時10分46秒
学会側諸氏の「本迹」についての意見交換、興味深く拝見しておりました。
卞氏さんの解釈で大筋まとまったと見てよろしいのでしょうか?
私としては、大勝利さんの
>更に、「生命」から観心すれば、我々の生命は、そのままで「本仏」と捉えるわけです。
の意見には、総じてとしても「衆生本有の正因仏性そのままを”本仏”と観る」のは、どうなのかな?という疑問があります。また卞氏さんの
>我々は既に妙法を得、大聖人のこと、学んできました。そんな我々がするべきことは、一心に「衆生のため」だけを思えば良いのではないか。そう思います。
としても、その上で我々は仏道を修行するに於いて、仏恩に対する報謝をどのように考え、どう行うのか?ということに興味があります。
(これらは、甚だ法華講員らしい興味だと思われることでしょうが、学会と法華講の信仰心そのもののとらえかたの差異の本質ではないかと私は思っています。
当テーマを討議していく過程で、いずれは触れる話でもありましょう。)
*さて、次のテーマも待っていることですし、当テーマの討論を進めましょうか*
管理人は、日曜の晩まで総本山での夏期講習会受講登山のために留守にしますので、その間に双方の投稿者にテーマの発端の確認と、学会側投稿者内で認識の摺り合わせをしていただけると有難く思います。
まず、私の6/23投稿「テーマについて、もう一度整理しますね。」に再度、目を通してくださいませ。
・沖浦様に双方投稿者への確認の意味でお伺いしますが、
「仏が迹、衆生が本」とは、「衆生の化道が本、三徳具備の仏が迹」という意味ではなく、
「三毒強盛の荒凡夫である衆生が本で、化導を垂れる仏が迹」「衆生が主で、仏が従」という意味なのでしょうか?
・法華講側投稿者各位には、
6/22の私からの質問に対する、学会側(沖浦様・卞氏さん)の返答への、投稿から再開していただきたくお願いします。
管理人・やまさん40 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月24日(金)23時49分51秒
最初に、貴殿の公平な態度に敬意を払い、感謝申し上げます。
>「仏が迹、衆生が本」とは、「衆生の化道が本、三徳具備の仏が迹」という意味ではなく
「三毒強盛の荒凡夫である衆生が本で、化導を垂れる仏が迹」「衆生が主で、仏が従」という意味なのでしょうか?
少しご質問の意味が理解しにくいので、改めて箇条書きにいたします。
・仏の仕事は衆生の救済です。
・故に 仏も、仏の化導と言う行為も、ともに迹であり、従になります。
・そのために仏は三徳を、化導の資格(もしくは武器)として備える訳です。
・仏の存在と全ての行動は、迹です。
・対して、化導される側の衆生は、仏の目的ですので、本。です。
・救済される側ですので、行為の上から、主。です。
テーマへの一石になるかと思います。 投稿者:大月天 投稿日: 6月25日(土)01時53分0秒
■寿量品に曰く『我も亦為れ世の父、狂子を冶せんが為の故に』
※世の父とは仏を指します。狂子とは衆生を指します。狂子を冶せんが為
とありますので、法による治療と訳します。
・治療する側が【仏】 ・治療される側が【衆生】。
・治す側が【主】 ・治してもらう側が【従】
上記の答えに対して、「患者がいなければ医者はいらないではないか」は屁理屈。現実に患者がいる以上、この論理は変更出来ない。
⇒ 医者がいなければ患者の病は治らない。
■天台大師曰く
「本此の土の仏に従って初めて道心を発す、亦此の仏に従って不退の地に住す」
※此の土とは娑婆世界をいう。その娑婆世界の仏に出会い、そして従って初めて道心を発した。そして、その仏の教導に従って、不退の境地に達した。
仏に従って道心を発し、その仏に導かれて本因初住の境地に達した、とも読みます。
したがって、教導した仏が【主】 その教えに従った衆生が【従】
☆法華取要抄に曰く
『在世の衆生は傍なり。滅後を以て之を論ずれば正法一千年・像法一千年は傍なり。末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為すなり』
※寿量品の本意である、広開近顕遠を述べられた御文であります。三時から言えば正像は傍。それに対比して末法が正であると仰せであります。
在世の衆生、つまり釈迦在世及び 像法の衆生も傍とし、それに対比して、末法が正、つまり末法の衆生が正としても、
その末法在世の中に於いては、大聖人様が正の中の正であると仰せであります。
ここで言う【正】は明らかに【傍】に対比しております。傍とは、かたわら、わき、と読みます。正は、かみ、とも読み、一つに止めると書きます。
従いまして、末法今時に於いては、
◎仏(日蓮大聖人様)が【正】 末法の衆生が【傍】
◎仏(日蓮大聖人様)が【本】 末法の衆生が【迹】
しかして、その関係は、生死一大事の因縁にあるのであり、凡夫即極及び久遠名字即を以って、その関係は一体不二なのであります。
●沖浦天目は、読むだけでよろしい!
石どころか 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月25日(土)06時37分51秒
砂にもならないね。
大月天さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月25日(土)16時59分45秒
そこまでだと、一往勝劣再往一致に読めますよね。
結局<迹>は必要でしょうか?不必要でしょうか?
若し、<迹>を不必要で捨てたとすれば、何が残るでしょうか?
(この質問は法論とか問答ではありません。考えをお聞きしたいのです。)
大勝利様 投稿者:大月天 投稿日: 6月25日(土)21時40分1秒
お答え致します。
妙法即本迹、本迹即妙法にして、不可思議の理を述べたものであり、絶待妙の立場からして、迹も本も必要であります。
よろしいでしょうか。
大月天さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月26日(日)01時02分37秒
なるほど。正宗信徒からそのような返答が戻ってくるとは、正直、予想外でした。
「迹の中に、大教既に起こらば、本地の大教は興ることを得ず。今、本地の教興らば、迹の中の大教即ち絶す。」
「衆生がいなかったならば仏はなく、仏がなかったなれば衆生もなかった」無理矢理ですが、此の様な大意での配当になりますかね。
大勝利様 投稿者:大月天 投稿日: 6月26日(日)04時31分0秒
私用にて先程帰宅し、ご質問拝見しました。お答え致します。
「迹の中に、大教既に起こらば、本地の大教は興ることを得ず。今、本地の教興らば、迹の中の大教即ち絶す」
この御文は、法華玄義にある御文にて、四重の興廃を意味しております。
つまり、教相の判別を意味するものであり、大聖人様の仏法、つまり日蓮正宗の法義から観れば、上記の御文は、明らかに五重の相対と同じ意味を指しておるのでございます。
したがって、仏の本地と衆生の本地との関係を述べられたものではありません。この御文の続き、いわゆる
「本の大教若し興れば、観心の妙起こることを得ず。今、観に入って妙寂なれば、言語道断にして本教即ち絶す」
とありますから、この御文の本意は、観心の妙、つまり再往の意味に於いて、妙法こそ第一義と述べられているのであります。
観心の妙、つまりそれは妙法の事であり、所謂、文底下種の南無妙法蓮華経を指しますので、その時点に於いて、絶待妙となるのでございます。
>衆生がいなかったならば仏はなく、仏がなかったなれば衆生もなかった…
仏の本地は本有常住ですので、無いということは有り得ません。また、衆生の生命も、その本質に於いて、法界に遍満しますので、その基とするところは、やはり本有常住なのであります。つまり、久遠元初自受用報身如来たる、御本仏・日蓮大聖人様とともに我々の存在があるのです。
仏法の質疑に於いて「では、もしこうだったら」「もし、そうでなかったら」は、本源的に実在する【法理】が有る以上、私としては、あまり動執生疑にはならないと考えております。
よろしいでしょうか。 ……少し寝ます。
(注*「又迹中大教既起。本地大教不得興。今本地教興迹中大教即絶。」「又本大教若興。観心之妙不得起。今入観縁寂言語道断本教即絶。」とは、
天台大師が法華玄義に四重興廃を説いた文。
大聖人様は、「法門申さるべき様の事」に権実相対を判ぜられて
『塔をくむあししろは塔をくみあげては切りすつるなりなんど申すべし。此の譬へは玄義の第二の文に「今の大教若し起これば方便の教絶す」と申す釈の心なり。妙と申すは絶という事、絶と申す事は此の経起これば已前の経々を断ち止むると申す事なるべし。正直捨方便の捨の文字の心、又嘉祥の、日出でぬるは星かくるの心なるべし。』
と仰せになられており大勝利さんの言うような、「>衆生がいなかったならば仏はなく、仏がなかったなれば衆生もなかった」という配当とは関連がない。
*四重興廃とは ・・・ 釈尊一代説教の浅深の次第(法華迹門の大教が興れば爾前四十余年の教法が廃れ、法華本門の大教が興れば迹門の大教が廃れ、観心の大教が興れば本門の大教が廃れること)を説く天台大師の教判だが、大聖人様は五重相対に準じて用い、「観心の大教」を独一本門の仏法になぞらえ文底下種仏法が法華本門より勝れることを明している。)
大月天さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月26日(日)19時12分17秒
>したがって仏の本地と衆生の本地との関係を述べられたものではありません。
そう思います。<仏、衆生>を絶待妙から、無理矢理に本迹に配当してみた、小生のいわば勝手な試索です。一往勝劣・再往一致で、本も迹もどちらも大事ならば勝劣を考える必要などないわけです。
教学上は、やはり<迹>が劣、<本>が勝たなければならないと思います。(敢えて本因妙抄等の引用は扣えます。)
そうなれば、仏も<本>、衆生も<本>という関係になる「>仏の本地と衆生の本地」ここがポイントでしょう。「本迹殊なりと雖も不思議一なり」の「一」は「一致」ではなく「帰一」と捉えるわけですから。小生は、仏に衆生が帰一する視点ではなく、己心に仏が帰一する視点を選びたいと思います。
>動執生疑にはならない
そうかも知れません。今回のテーマに関しての貴殿との<本迹>は特別に異論ないのでこれで一旦終わりにしませう。
皆様へ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 6月26日(日)19時57分23秒
さきほど夏期講習会より下山して参りました。
御法主上人猊下様御講義(正助二行〜文底顕本の能詮・所詮)の復習と整理に時間をかけたいので、一週間程は板管理のみで、あまり投稿に割く時間がとれませんのでご了解くださいませ。
百六箇抄にみる本義。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月27日(月)10時02分19秒
>※寿量品の本意である、広開近顕遠を述べられた御文であります。三時から言えば正像は傍。それに対比して末法が正であると仰せであります。
在世の衆生、つまり釈迦在世及び 像法の衆生も傍とし、それに対比して、末法が正、つまり末法の衆生が正としても、その末法在世の中に於いては、大聖人様が正の中の正であると仰せであります。
ここで言う【正】は明らかに【傍】に対比しております。傍とは、かたわら、わき、と読みます。正は、かみ、とも読み、一つに止めると書きま
す。従いまして、末法今時に於いては、
◎仏(日蓮大聖人様)が【正】 末法の衆生が【傍】
◎仏(日蓮大聖人様)が【本】 末法の衆生が【迹】
>仏(日蓮大聖人様)が【本】 末法の衆生が【迹】・・・
☆この結論は間違いです。この展開にはどこかに見落としがあるはずです。
おそらく大聖人様が正であり唯一のものとしてしまい、教相での本迹から離れた本迹論に陥って、そのまま語句を転用したが為の混同かとおもわれます。
斯様な意見は己義として承りたく存じます。
***
百六箇抄は偽書の疑いがありますが、正宗でこの書を「正依」とするならば、参考にして下さい。末法の衆生が「迹」というものがありません。むしろ私や沖浦氏など学会のいう本迹と合致するものです。
☆『脱の上の本迹勝劣』では、日蓮に対して、それ以前のものを迹と位置付けています。
これは【日蓮=本】【釈尊天台等=迹】という位置付けを見ているものと考えれば分かりやすいと思います。
『八、 本果の妙法蓮華経の本迹、今日の本果は従因至果なれば本の本果には劣るなり。寿量の脱益、在世一段の一品二半は、舎利弗等の声聞の為の観心な り。我等が為には教相なり。情は迹劣本勝なり。又滅後・像法・相似・観行・解了の行益も以て是くの如し。南岳・天台・伝教の修行の如く末法に入て修行 せば、帯権隔歴の行と成て我等が為には虚戯の行と成るべきなり。日蓮は一向本、天台は一向迹、能く能く之を問ふべし。』
『十、 在世観心法華経の本迹、一品二半は在世一段の観心なり、天台の本門なり。日蓮が為には教相の迹門なり云云。』
(天台は本門と言っているが、日蓮から見ればとの断りがある。)
『十三、 脱益像法時尅弘経の本迹、天台の本迹は倶に日蓮が迹門なり。時尅亦天地の不同之在り。』
☆しかしながら<久遠の本迹>においては、日蓮の位置付けは、弟子檀那と同等で<迹>に位置付けられています。
「日蓮が本で末代(末法)衆生が迹」と対比したものがありません。
『五、 久成本門為事円の本迹、上行所伝の妙法は名字本有の妙法蓮華経なれば事理倶勝の本なり、日蓮並に弟子檀那等は迹なり。』
『九、 本因妙法蓮華経の本迹、全く余行に分たざりし妙法は本、唱ふる日蓮は迹なり。手本には不軽菩薩の二十四字是なり。又其の行儀是なり云云。』
『十一、 下種の法華経教主の本迹、自受用身は本、上行日蓮は迹なり、
我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』
『十四、 下種自解仏乗の本迹、名字の妙法を上行所伝と聞き得る方は自解仏乗の本なり。聞き得て後受持する我等は迹なり。故に伝教より日蓮は勝るなり 云云。』
報恩 投稿者:卞氏 投稿日: 6月27日(月)13時56分7秒
>その上で我々は仏道を修行するに於いて、仏恩に対する報謝をどのように考え、どう行うのか?ということに興味があります。
自らが社会に実証を示すことです。それに尽きます。
社会に実証を示せなければ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月27日(月)18時25分
『せんずるところは六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして日蓮に支へられてふらしかねあせをながしなんだのみ下して雨ふらざりし上
逆風ひまなくてありし事三度までつかひをつかわして一丈のほりをこへぬもの十丈二十丈のほりをこうべきか、いづみしきぶ(和泉式部)いろごのみの
身にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身としてうたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人人百千人
あつまりて七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ、これをもつて存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞとせめられて良観が
なきし事人人につきて讒せし事一一に申せしかば、』(種種御振舞御書)
この御書に恥じなさい。現世で証拠を示せないものが成仏するわけがない。と、おおせです。
卞氏殿 投稿者:大勝利 投稿日: 6月27日(月)22時38分28秒
百六箇抄から見れば、
『下種十妙実体の本迹 日蓮は本因妙を本と為し、余を迹と為すなり、是れ真実の本因本果の法門なり。』
と明確に、本因を<本>とするのが真実の法門と仰せです。
故に、・本因九界が<本>、 本果仏界が<迹>
となり、・仏界<仏>が迹、 九界<衆生>が本 ですね。
卞氏殿へ、お答え申す 投稿者:大月天 投稿日: 6月27日(月)22時43分3秒
先ず以って、卞氏殿に申しておきたい義がございます。
小生がこれから述べる内容及び回答について、特に本迹論に於きましては、五重三段の教判を基とし、且つ、その第五たる文底下種三段を以って、述べて参りたいと考えておりますので、どうか御解釈されます様お願い致します。
それでは、まず、小生が過日引用した【法華取要抄】の御文
『在世の衆生は傍なり。滅後を以て之を論ずれば正法一千年・像法一千年は傍なり。末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為すなり。』
について、小生が解説した
>この御文は、寿量品の本意であり、広開近顕遠を述べられたものである
併せて
>正法・像法の二時及び、それらの時に在した衆生も傍であり、末法に於いては、大聖人様こそが正中の正である
の言を基に
>◎仏(日蓮大聖人様)が【正・本】 末法の衆生が【傍・迹】
と述べた事に対し、
>☆この結論は間違いです。この展開には見落としがあるはずです
と断言され、加えて
>教相での本迹から離れた本迹論に陥って云々
とも言われました。また、小生からの回答の意について
>斯様な意見は己義として承る
とのこと。がしかし、小生は回答するにあたり、個人の意見ではなく、まして己義などではなく、唯日蓮正宗の法義に則ったうえでの回答をと、意を尽くしているのでございます。
まずは、 >間違い と >見落とし と言われましたが、どこが間違っておりますか。
日蓮大聖人様は、末法の御本仏であります。小生は、そのことを以って、本因本果を証したる広開近顕遠の意を以って、法華取要抄を解説したのであります。小生は当初から、仏と衆生との関係は、その本源的な意味に於いて【本迹】を優先するのではなく、その【因】と【縁】・【因】と【果】を以って測るべきである。と思っておりました。何故かと言えば、日蓮大聖人様の仏法こそが、末法に於ける文底下種本因妙の大法だからであります。それを踏まえての【本迹論】であり、広開近顕遠なのであります。
日寛上人曰く
「已脱当脱相対してこれを論ずれば、末法を以て正と為す。その故は、大段はこれ末法は一向に本未有善の機なれども、当本已前の余類あり。
多分為りとも、彼の正像已説の者に対して、末法当脱の機を以て正と為るなり。依って末法を以って正と為す」
日蓮大聖人様曰く
『有縁の仏と結縁の衆生とは誓へば天月の清水に浮かぶが如し。無縁の仏と衆生とは誓へば聾者の雷の声を聞き盲者の日月に向かふが如し』
亦曰く
『今の時は正には本門・傍には迹門』と云々。
どうであろう。仏と衆生との因縁も含めて、まず本迹を述べましたが、矛盾はしないでありましょう。
ところで卞氏殿は >大聖人様が正であり唯一のものとしてしまい、教相での本迹から離れた論理 と述べておりますが、果たして、大聖人様は末法に於ける正では無く、且つ唯一でも無いということですか。
大聖人曰く
『今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其の上身に一分のあやまりなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを
たすけんがために申す法門なり』
法華経の行者とは、久遠元初自受用報身如来。久遠下種本因妙の別号であり、末法の御本仏をいうのであります。
それが何故、唯一ではないのですか。ご証明願います。
次に >末法の衆生が迹というものがありません
>むしろ私や沖浦□□など学会のいう本迹と合致するものです
ところで何故に百六箇抄なのでしょう。この御抄は、迹仏・本仏の本地及び、仏と衆生との本因本果を主に記されたものであります。小生にとっては、仏との因果を探る上で、とても重要な御抄ではございますが、果たして、この御抄によって、卞氏殿が求めている【衆生が主・仏が従】にたどり着けるのでしょうか。小生が先程に引用した『在世の衆生は傍なり』と『傍には迹門』という御文の関連に於いて、一往は衆生の【迹】としての意味合いが明らかになったと思っております。がしかし、再往については、何度も申しますが、仏と衆生は、ともに本有であり常住なのであります。そこを理解されませんと、このテーマの終点はありますまい。
曰く
『仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず』
これこそ、仏の本有常住を述べられた御文なのであります。
さて、言っておきますが「百六箇抄は偽書の疑いがありますが……」は失言ですぞ。それこそ、五重三段の第五重・文底下種三段の流通分たるを理解していないということでありませんか。加えて【体内・体外】【大網・網目】を知らないといことにもなります。五重三段の流通分では、十方諸仏の一切経を体内の辺に加えているのです。まして百六箇抄(具騰本種正法実義本迹勝劣伝)の御本文は、正に真であり、前後の御文が、たとえ後人の加筆であっても、日蓮大聖人様の正意が、そこに伝わっておるのであれば、御正本として拝するのが、弟子と名乗るにふさわしい見識ではないでしょうか。
しかし、そう言いながらも、卞氏殿は御抄をいろいろと引かれて、末法の衆生が【迹】でない論拠を模索しているのであるから、まぁ、良しと致しましょう。百六箇抄、前段最後の御文『脱の上の本迹勝劣』について、卞氏殿は
>日蓮に対して、それ以前のものを迹と位置づけています。
(※呼び捨ては行かんよ!!!)
>【日蓮大聖人=本】【釈尊天台=迹】という位置づけを見ているものと考えれば分かりやすいと思います
と言われている。この前段八の
『従因至果云々から、情(こころ)は迹は劣り本は勝るとなり』
は、何時ぞや。仏と衆生との関係で、一体不二を述べた折、その考えは【本迹一致】では、との問いかけに引用した御文であります。
『今日の本果は従因至果す本の本果に劣る』
この解釈で上文は読めます。前段十についても、その意味に於いて
『脱は現に在りと雖も具に本種を謄ぐ』
また曰く
『脱益の法華経は本迹倶に迹なり』
つまり本抄の題たる【具騰本種】を以って、釈論の到達を見ます。
ところが、後段十一と十四は、意味合いが異なります。小生が、このテーマに関して、再三にわたり述べて来た事が記されているのです。
小生が今まで、テーマについて述べてきた事。つまり、
●仏は本有常住である。
●本源的に仏と衆生は一体不二である。
●仏の命と衆生の命は、その内在する因という意味に於いて同時である。
つまりは、凡夫即極・久遠名字即である。
長くなるので、ここで留め置きますが、この十一と十四の御文は、後段七にして関連付けられていることを知らねばなりません。つまり寿量文底たる下種本因妙を証し、真実の本門を明かすのであります。曰く
『本門は本因を以って元始と為す』
と。また曰く
『迹の本は本に非ざるなり。本因妙は我本行菩薩道、真実の本門なり。本の迹は迹に在非らず』
しかして両御文の意を、別して読むならば、本因こそが久遠元初であり、自受用報身如来なのであり、本因下種の南無妙法蓮華経なのであります。その本因から観るならば、上行も迹となり、天台・伝教も迹となり、一切衆生も迹となるのであります。がしかし
『本の迹は迹に非ず、我が内証の寿量品は迹化も知らず云々。重位秘蔵の義なり。
本迹と分別する上は、勝劣は冶定なれども、末代には知り難き故に云々』
の如く、下種本因妙たる久遠元初自受用報身如来・本因たる本因の存在を以って、総てが本になのであります。そして、大事たる事をここに加えるならば、この御抄に示された【上行日蓮】こそは、その地涌の菩薩たる誓願に対し、一往のお立場として御自らが示同凡夫のお姿をもって、今時末法にご出現なされたのであります。
御聖訓曰く
『因と云うは信心領納の事なり。此の経を持ち奉る時を本因とす。其の本因の侭成仏なりと云うを本果とは云うなり。
日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり。本因なくして本果は有るべからず』
※御本仏・日蓮大聖人様は、正の中の正であり、その人法に於いて唯一なのである。しかして、我等衆生も、その厳然たる法界に於いて、本を基としての本迹を表わすのである。
以上でございます。
(無題) 投稿者:大勝利 投稿日: 6月27日(月)22時58分7秒
・久遠本有名字即仏が<本>
・末法応現名字日蓮が<迹>
本因九界が<本>、本果仏界が<迹>?? 投稿者:やまさん40 投稿日: 6月28日(火)01時35分53秒
宗祖日蓮大聖人様は、百六箇抄の冒頭に曰く
『本因妙の教主本門の大師日蓮』
と。また
『十二、下種の今此三界の主の本迹、久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。久遠は本、今日は迹なり。三世常住の日蓮は名字の利生なり。』
と仰せであります。大勝利さんの言うように、
『四十九、下種の十妙実体の本迹 日蓮は本因妙を本と為し、余を迹と為るなり。是真実の本因本果の法門なり。』
の御文を、
>本因九界が<本>、本果仏界が<迹> となり、仏界<仏>が迹、九界<衆生>が本
と解釈するならば、因果各別の意義になってしまいますね?これは御義口伝の
『開仏知見の仏とは九界所具の仏界なり。知見とは妙法の二字、止観の二字、寂照の二徳、生死の二法なり、色心因果なり。
所詮知見とは妙法なり。九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり。爰を以て之を思ふに仏とは九界の衆生の事なり。』
の御文を、<衆生の九界所具の仏界を本>と短絡視して、「開く」の義を忘れて解釈するのと同じであります。
大聖人様は
『九界所具の仏心を法華経の知見にて開く事なり』
と、「九界の衆生所具の正因仏性を、心田に下種した(仏が植えた)妙法によって開くのである」と、仏と衆生の能所の差別を示されています。
能開である仏様が<主・師・親>であり、所開である衆生が<従・弟子檀那・仏子>であることは道理ではないか?
学会諸氏の意見を聞いていると、まるで
「仏には衆生を救済する義務があり、衆生には仏に救済される権利がある」
かのように聞こえる。御講聞書には
『所詮世尊とは孝養の人を云ふなり。其の故は不孝の人は世尊とは云はず。』
とあるが、この学会側の主張は、
・主人には所従に利益を与える義務があり、所従には主人から配当を受ける権利がある
・師匠には弟子を悟らせる義務があり、弟子には師匠に教導される権利がある
・親には子を生み育てる義務があり、子には親に育てられる権利がある
と、平等と対等を混同しているように聞こえる。
恩を知り、礼を尽くしてこその平等ではないのかと私は思うが如何に?
以前に、人本尊開顕の重書「開目抄」の冒頭の御文に込められた宗祖の思いはいかに?と問うたのは、この意である。
失礼ながら 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月28日(火)07時56分19秒
法華講の皆様方のご意見は、木を見て森を見ず。です。もっと簡単に考えましょう。御本尊の前で唱題するとき、決意をしたり、祈ったり、感動をしたりするのはお題目をあげている人間です。ご本尊様は別に喜んだり、悲しんだりされません。あくまでも感じているのは拝んでいる人間ですね。
ですから、喜んだり悲しんだりしている人間が当然本です。仏と衆生も同様です。衆生が仏を必要とし、仏が応じて出現します。あくまでも主体は衆生です。この考え方が仏法の真髄だと思います。以前も申しましたが、宿命論と運命論のわかれめです。内道と外道の差異でしょう。
単純なほうに 単純なほうに 投稿者:沖浦克治 投稿日:6月28日(火)09時11分
これが正解です。複雑にしては駄目ですよ。一切経がお題目に包含されるのです。だから広まったのでしょう。『広略を捨てて肝要を好む』(趣意)ですよ。
発想は単純に 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月28日(火)09時12分10秒
何故宿命で運命ではないのだろう?単純でしょう。
何故蓮祖は 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月28日(火)09時13分15秒
日本語をしゃべったのでしょう。
大月天さん< 投稿者:卞氏 投稿日: 6月28日(火)09時22分46秒
私の申し上げたかったことは、貴方の結論と大聖人の結論とが正反対であると言うことです。何故に逆さまになるのか?お尋ねしたいのはこちらのほうなのですよ。
二つほど「大勝利さん」からの投稿があります。本因本果、参考にしてください。
五重三段の義は、本迹を述べてはいるものの、「衆生の本、仏の迹」とに結びつける大聖人のお言葉は見当たりません。
五重三段では、文底南無妙法蓮華経が真実の事の一念三千であると言われてはいますが、「衆生が迹、仏が本」とは言ってません。それはあなたによる「論理思考」によって導かれたもののようです。
結果が大聖人と異なるもの、大聖人が仰せでないものは、「己義」として受け止めざるをえません。そういったことは法華講員らでも同じなのではないでしょうか。
大月天さん。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月28日(火)09時25分48秒
>果たして、大聖人様は末法に於ける正では無く、且つ唯一でも無いということですか。
そのようなことは申し上げておりません。いってもいないことを証明せよとは一体どういうことなのでしょうか?
衆生と仏の「本迹」という相対(本門迹門のことではありません)について話しているところですよ。
大月天さん< 投稿者:卞氏 投稿日: 6月28日(火)09時52分20秒
>>日蓮に対して、それ以前のものを迹と位置づけています。
(※呼び捨ては行かんよ!!!)
呼び捨てではありません、引用です。沖浦氏の「蓮祖」が気に入らないようですが、法華講員らでも伝統的な呼称と思っておりましたが、違うのですか?
ちょっと拘りすぎですよ。
斯様な三段論法ですね。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月28日(火)10時33分52秒
>何度も申しますが、仏と衆生は、ともに本有であり常住なのであります。
ここが間違いがあるはずとの指摘のキーポイントではないでしょうか?
これが間違いと言っているのではないですよ。本有常住は正しいです。誤解されませんように。
@衆生が本、仏が迹(大聖人の教相)であるかどうか。(テーマ)
Aだが、本と迹は、九界即仏界で本有常住なのだから一致するのである。
(大月天氏の論理展開で、本・迹を九界仏界にあてがっているので、法門としても正しいように見える。)
Bゆえに、仏が本、衆生が迹。(大月天氏の結論・大聖人は仰せではない)
***
変だと思いますよ。このような結論に持っていくことに、どこか間違いがあるはずで、
そうでなければ、大聖人すら顕されていなかったこと(本・迹一致)を、大月天氏が顕しているということになりはしませんか?
誤読の指摘 投稿者:卞氏 投稿日: 6月28日(火)12時55分39秒
>さて、言っておきますが >百六箇抄は偽書の疑いがありますが…… は失言ですぞ。
情況を指して言ったのみで私が断定したものではありません。失言でも何でもないです。
引用の理由について 投稿者:卞氏 投稿日: 6月28日(火)13時06分42秒
>ところで何故に百六箇抄なのでしょう。
>この御抄は、迹仏・本仏の本地及び、仏と衆生との本因本果を主に記されたものであります。
ええ、それゆえに、百六箇抄を引用したのです。他に本・迹の見地から、仏と衆生についてまとめたものは類を見ません。この書の中に、「仏が迹、衆生が本」との関係を示すものや、類するものは幾つか見られますが、逆のものが見当たりません。最初の私の投稿+大勝利さんの投稿にあるとおりです。
***
連続投稿失礼します。
あまりにも大月天さんが疑難と質問が多い文章なため、一つ一つ答えていきたいと思います。
もし、このような事態を憂慮されるのでしたら、テーマに沿って簡潔に要点のみお話くださるようおねがいします。
卞氏殿/及び諸氏へ 投稿者:大月天 投稿日: 6月28日(火)14時20分25秒
>大聖人が正であり、唯一のものとしてしまい…
⇒ この部分の論議については、【日蓮大聖人を絶対唯一と考えてしまい…したがって…】
⇒ 問題の趣旨がずれてしまうのではないか。
小生はこう読んだので、詰問したのであります。上の2つのセンテンスは、同じ意味で、しかも、共通の懸念に辿りつきませんか?
仏法に於いては、何を語るも、その根本の義は、日蓮大聖人様なのです。
ここに例題を出します。仏の存在と衆生との関係を、水と人間との関係を以って、解いてみたいと思います。 ○[仏=水] [衆生=人間] とします。
人間中心主義及び現実主義たる学会員諸氏をして、この例題が良いと思った次第であります。
水が無ければ人間は生きていけない。それは何故かといえば、人間の仕組みがそうなっているからである。これは宿命(運命と同意)とも言える。そしてある時、人間は思った。『この水≠ニいう存在は、我々のためにあるのだ』と『水は利用するためにあるのだ』と。そう思考することで、人間達は、生活圏に於ける自己の正当性を高め、この地上に冠たる存在として、道筋の良質的変化を求めたのである。
しかし、誰でも知っていることだが、水の力用・作用は人間に留まらない。この地球上すべてに及ぼしている。否、全宇宙といってよい。その起源を辿れば、人間の誕生歴など比にもならない。しかし、人間は、その存在起源を、現実の目からでしか見ようとしない。水は、本来から持っている、その力用と作用という意思を以って、人間の要求になどに縛られることなく、永延と自然世界に冥合し、この地球を潤している。
しかも、その本源力は、人間の意識するしないに関らず、一切に作用しているのである。しかして、その水の存在と人間との関係は、基本的に分離しているものなのか。それは違う。原点は同じなのである。つまり時間を超越したところに於いて、本源一体なのである。さて、考えてみよう。現実に水を飲むのは人間である。飲まれるのが水である。しかし、水という存在が無ければ、人間は飲むことが出来ずに衰える。たかが水である。仏の力用から見れば、ほんの一作用でしかない。運動面から見れば、たしかに飲むという行為が主で、その飲まれる水の存在が従である。しかし、本源的作用については、明らかに水の方が優位である。人間は水がなければ生きてはいけないが、水という存在は、人間の存続に関係なく継続するのである。つまり、運動面からではなく、力用面から判断した場合は、水が主となり、人間が従となるのである。
水の加工は、人間の作業(信心)によって変化(宿命)をもたらすが、その水の元素(自受用報身如来)は、何も変わらないのである。飲む≠ニいう行為も同じである。
つまりは、どちらが主で、どちらが従ではなく、それらが一体で在り得るか、否かを探ることの方が、仏と衆生との関係をより明確に出来るというものである。その上に立って考えれば、再三申している様に『本の迹は迹にあらず』なのである。迹は迹でも迹ではない。そのわけは、本を基とする迹だから迹ではないのである。しかし、偏狭な目でそれを見れば、それは迹としか映らないのである。
仏法は単なる行動指南書ではない。まして処世術でもない。この全宇宙法界に及ぼす力用を説いているのである。人間がそれを知る知らないの問題ではなく、それに気がつくか否かなのである。しかし、水≠スる仏は、その様な外界の対応に左右されることなく、その力用の本源は、久遠の当初から実在しているのである。そのことを以って【自受用報身如来】というのである。
人間が本だ!仏が迹だ!の次元ではないのである。
寿量品に曰く『無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非実非虚。非如非異。不如三界』
⇒ 生死の、若しは退、若しは出有ること無く、亦在世、及び滅度の者無し。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。
非生現生・非滅現滅の法門を説かれた箇所である。生に非ずして生を現じ、滅に非ずして滅を現ずるという法である。
仏の真の当体は、正に【非生現生・非滅現滅】なのである。
本来が、迹とか本とか、という見地ではないのである。木を見て森を見ず、ではなく、木と森の本質を見なくては意味がないということなのである。
現在、小生は敢えて、このテーマの狭義に参加させて戴いてはいるが、本心はそういうことなのである。
総勘文抄に曰く
『釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき』
この甚深なる御文を、創価学会員諸氏が、正しく訳した時、はじめて当テーマの目的が、いかに断常の二見に偏っているかが、そこに知解されるのである。
結。
方便品第二・世雄偈に曰く『諸仏世尊は、衆生をして、仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗是を諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと為づく』
大月天さん< 投稿者:卞氏 投稿日: 6月28日(火)14時38分30秒
>小生は敢えて、このテーマの狭義に参加させて戴いてはいるが、本心はそういうことなのである
でしたら、わざわざ長文の書き込みをされることなく、傍観されるのが良いとおもいます。
化導義でのあるべき姿を論じているというのが、この本迹論の本質と思います。
解説を請います。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月28日(火)14時56分19秒
>偏狭な目でそれを見れば、それは迹としか映らないのである。
良いじゃないですか。偏狭であろうがなかろうが。結果、衆生が気が付けばそれでよいのでしょ?それに、映るから「迹」って言うのですよ。
また、水を仏に例えた人は貴方が始めてですよ。その譬えが仏と衆生との関係うまく表現しているようには思えません。
法の実在の永遠性を説いているに過ぎません。
>力用面から判断した場合は、水が主となり、人間が従となるのである。
水がどうして私の行動規範を左右するのでしょうか!?
***
>水≠スる仏は、その様な外界の対応に左右されることなく、その力用の本源は、久遠の当初から実在しているのである。
そのことを以って【自受用報身如来】というのである。
全く意味不明です。
>人間が本だ!仏が迹だ!の次元ではないのである。
ですから、これがテーマなのですが?
卞氏殿 投稿者:大月天 投稿日: 6月28日(火)15時37分10秒
空仮中の三諦を勉学し、仏の本源たるを追求しなさい。目に見えるものだけが、真実ではないのですよ!
やまさん40さん 大月天さん 投稿者:大勝利 投稿日: 6月28日(火)16時50分2秒
>本因九界が<本>、本果仏界が<迹>
これは、百六箇抄を真とする正宗流、日寛教学の独自の説ですよ。確かに、他門流では逆でしょう。
(若し法論であれば「仏界<仏>が迹、九界<衆生>が本」にではなく「本因九界が<本>、本果仏界が<迹>」の方に???を振ったレスで貴殿の負けですよ。)
しかし、まぁ真偽を別に、寛師教学のすばらしさは実にここにあると思います。亦、本門の本尊論でなければならない理由もここにあったのかも知れません。
(ここは小生の所感ですが)
返答、不能とみなします。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月28日(火)17時08分59秒
>力用面から判断した場合は、水が主となり、人間が従となるのである。
水がどうして私の行動規範を左右するのでしょうか!?
***
卞氏殿 投稿者:
大月天 投稿日: 6月28日(火)15時37分10秒
空仮中の三諦を勉学し、仏の本源たるを追求しなさい。目に見えるものだけが、真実ではないのですよ!
寛師教学のすばらしさ 投稿者:卞氏 投稿日: 6月28日(火)17時33分49秒
寛師教学の厳密さも窺えますね。
九界が<本>、仏界が<迹>では、誤解も生じますが、
本因九界が<本>、本果仏界が<迹> といえば間違えようが無い。
>日寛教学の独自 だったのですね。(初耳です)色々と勉強になりますね。
卞氏殿 投稿者:大月天 投稿日: 6月28日(火)17時59分55秒
その言い回し、さてはお主、天目の太鼓持ちだな??何故、小生が、お主ごときの亜流に、返答が不能になるのだ??
少しは休ませろ! 後、一時間ぐらい経ったら、>水がどうして私の行動規範を左右するのでしょうか!? という文句=H? への返事≠煌ワめて、小生から一つ、お主に問う事があるから、ギャーギャー騒がずに待っていなさい。
※小生は、お主達のように、一日中、パソコンにへばり付いている訳にはいかんのだよ
(注*美濃阿闇梨天目は宗祖滅後に方便品不読誦の己義を構え、日興上人との問答に破れた後に離反した。
沖浦氏の主張が、日蓮正宗の教義とも創価学会の教義とも異なる独自解釈の展開であることから“天目”と呼称しているものと思われる。)
観心の本尊 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月28日(火)18時27分10秒
「の」の字を寛師は遺言とされました。
観心とは我が己心の仏界を観じる。との意です。信心とも訳します。
我々衆生が成仏をするために、信心(観心)が不可欠である。その為の本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。
と読むのです。
信心のための本尊だよ、本尊のための人間ではないよ。
大聖人様はありがたいと、心から思います。
故に本尊は迹、衆生は本です。
卞氏殿 投稿者:大月天 投稿日: 6月28日(火)19時47分25秒
ご返事申す!
それは、質問ではなく、文句であろう。小生は、解りやすい様に、恐れ多いことだが【仏】を水≠ノ喩え、【衆生】を人間≠ノ喩えたのである。
この自然に於いて、人間の存在作用が、水の本源的力用に対し、その存在たるを消滅させることが出来るか? 出来るわけがなかろう。しかし、水の本源的力用は、人間の生存権まで左右するのである。しかし、その絶大な水の本源的力用よりも尚、久遠元初自受用報身如来が優れるのである。と、申しておるのだよ。水がどうして私の行動規範を左右するのでしょうか???
お主の細胞には、水分が無いのか? お主は何で生きておる!行動規範≠煢スも、生きているからこそ、お主が選択した規範に、その身を委ねることが出来るのであろうが。何を言っとるか!仏と水の喩えを、もう一度読みたまえ。
お主に、2つの問いがある。少なからず、テーマに掠る事であるから、テーマと違う!!!! などとゴネらず、速やかに返答されよ。
一つ! 三大秘法の 一つたる、本門戒壇乃大御本尊は何処に在りや!
二つ! 富士大石寺御開山・日興上人に違背したる門下支流の寺院が所持したる、大聖人御真筆の本尊を、嬉々として拝むか否か!
三つ! 日寛上人は、現在、この日本国内に存在する、法律で認められた宗教団体の内、どこの宗の人であったか述べよ。
そして、第何代であったか、併せて述べよ。
■上記、三問、創価学会の教導に基づいて、速やかに答えられよ。お主にとっては簡単であろう。
注意事項⇒天目のように「そんなの、こっちの勝手じゃん!!!」
これだけは、やめてほしい。
□今夜9時30分〜10時頃、外出予定/帰宅・深夜 以上
沖浦天目殿 投稿者:大月天 投稿日: 6月28日(火)19時55分26秒
もうよい! 御仁の邪論は聞き飽きた。創価学会の『己心本仏論』には、小生も過食ぎみなのだよ。戸田大講頭の顔に泥を塗った御仁には、10000回破折しても、足らないぐらいである!この異端児めが!
アレレ、またまた 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月28日(火)21時04分33秒
雑魚がかかったね。
おいっ! 沖浦天目! 投稿者:大月天 投稿日: 6月28日(火)21時25分52秒
御仁は、何をそんなに喜んでおるのか???気持ち悪いのォ…。まるで御書に出てくる、屈歩虫ようである。お主の子分から返事が来ん!
まぁ、よい。今、この場で本人に伝える。
卞氏殿!あれから一時間半近く待ったが、どうしたのだ??速やかに、返答されよ!その回答は学会の教導として承る!小生は、外出の時間ではあるが、午前0時までに回答されよ。さもなければ、お主が異流を認めたと断ずる!
以上
ところでな 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月28日(火)21時57分34秒
大月天よ。義太夫が好きならな。小屋に行って聞いてこいや。なッ!
ぷっぷっぷっぷっぷ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月28日(火)22時00分55秒
やれ哀れ、月天手をする 足をする ほんにお前は 蝿のよう
管理人さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月28日(火)22時03分3秒
少し脱線をいたしました。ごめんなさい。
相手に、たまにはあわせて上げようと思ったまでです。他意はありませんので、双方とも削除していただいて結構です。
沖浦天目殿/卞氏殿 投稿者:大月天 投稿日: 6月29日(水)03時00分2秒
御歴代上人を揶揄し、御本尊様を迹と見なし(御仁の魔札は迹以下)、元より求道する意もなく、ただ、その両舌を以って、当掲示板のテーマに、仏が迹か、などという己心本仏論を基とした論戦に、我ら法華講員を引き込み、慇懃無礼な言動で邪論をばらまく。
しかも、自分が所属する組織の代々会長の言をも、平成2年以前は「ウソでした」などと平気で公言し、小生が叱責すると、小躍りして本性を表わす。
>少し脱線しました は、なかろうが。何回続けて書き込んでおる。本尊は迹だ!衆生が本だ!小生が何度、諭したか。それを理解出来ぬは、すべからく御仁らの、脳髄の中に、池田博士が唱えた、人間中心主義なる外道思想が、へばりついているからなのである。
>ごめんなさい ???
いい子ぶるでないぞ。御仁の本性は、見抜いておる。
※卞氏殿〜??? どうなされたか?回答の制限時間が過ぎておるぞ!
やはり無理であろう。当然のことなのである。
【告】
■創価学会員・卞氏殿は、当該テーマに関連した、当方からの質問、いわゆる
@三大秘法の一つたる、本門戒壇乃大御本尊様は何処に在りや!
A富士大石寺御開山・日興上人に違背したる門下支流の寺院が所持したる、大聖人御真筆の本尊を、嬉々として拝むか否か!
B 日寛上人は、現在、この日本国内に存在する、法律で認められた宗教団体の内、どこの宗の御方(訂正←人)であったか述べよ。
そして、第何代であったか、併せて述べよ。
に対し、本日午後八時から、午前零時まで、回答の時間を与えた。
しかも、付随事項として、回答なき場合は、本人にして異流義を認めるとの記載もおこなつた。
しかし、午前零時を過ぎ、また、その時点からも、約三時間を経過す。
よって、ここに、回答不能と判断し、卞氏殿は、創価学会員として、自己の異流義信仰を認めたと断じます。根拠は、対論の前後からして、約七時間の無言は在り得ない。尚、以後の言い訳は、無用とする。
以上
管理人様 投稿者:大月天 投稿日: 6月29日(水)03時12分7秒
多少、当該テーマから内容が外れましたが、どうか御容赦下さいませ。
創価学会員・卞氏殿は、当方からの質問に回答成らず、自己の信仰が異流義であることを、無言のうちに認めましたので、ここに御報告致します。
以下、御裁断は、随意、お任せ致します。それでは失礼致します。
尚、以後の言い訳は、無用とする。 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月29日(水)08時24分34秒
すごい!こんなにえらい人だったんだ。
管理人様 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月29日(水)08時27分9秒
私は最初、貴方に決め付けはお断り。と申しました。大月天氏は決め付けの塊です。
この様な人とは対話が出来ません。善処をいただけませんのでしたら、私はここを退出いたします。
おはようございます。 投稿者:卞氏 投稿日: 6月29日(水)09時15分11秒
>力用面から判断した場合は、水が主となり、人間が従となるのである。
>水がどうして私の行動規範を左右するのでしょうか!?
これが文句と決め付けられてしまったようですのが、行動規範に限らず、水が人間の生活を左右しているのかどうかを、説明してもらいたいだけです。その質問に対して下記の回答では、「私には返答することができませんので、そちらで勉強しなさい」と言っているようなものです。当然「返答不能」と受け止めて差し支えないと思います。
回答いただけるのでしたら、お待ちいたします。水の譬えで表現できなければ、その譬えを落として頂いて構いません。仏が我々の生活を左右している。その有り様を別の譬えでもよいですから、まだ専門用語にも浅いROMしている方々にも分かりやすいように、要点をまとめてお願いします。
***
卞氏殿
投稿者: 大月天 投稿日: 6月28日(火)15時37分10秒
空仮中の三諦を勉学し、仏の本源たるを追求しなさい。
目に見えるものだけが、真実ではないのですよ!
***
ところで勝手に時間を切って、何をしているのでしょうか、一人相撲を取られているみたいですよ。わたしは、あなた方のお手伝いをしたいのだとはじめに
申し上げたとおりです。
***
>約七時間の無言は在り得ない。
>回答不能と判断し、卞氏殿は、創価学会員として、自己の異流義信仰を認め
たと断じます。
そりゃ回答不能ですよ。あの投稿以来今初めて接続したのですからね。
大月天氏の決め付けについて 投稿者:卞氏 投稿日:6月29日(水)09時17分57秒
私も、ここが対話の場でないのであれば、退出します。
???? 投稿者:大月天 投稿日: 6月29日(水)16時26分21秒
誰だ!? お主は???おぉ!! 知っておるぞ! 本門戒壇の大御本尊様が何処にあるかも判らぬ御仁であった!!どうしたのだ?? 何をゴネておる!もしや、人間中心主義と己心本仏論という邪義を捨てる気になったのか???ならば許す!
おいっ!沖浦天目!子分思いもよいが、そちもゴネずに、はよ別館で法論せぃ!!小生は、もとより、管理人様の指示に従うつもりである。が!
しかし!! そちの子分の敗北は、小生の記憶として残しておく。
以上である。
このスタンスはもったいない 投稿者:虚空老人 投稿日:6月29日(水)18時39分
管理人様へ
上段の構えから思いっきり竹刀を振り下ろすような一方的な決め付けがまかり通るようでは法論にも対論にもならないと思うのですが(昔聞いた小樽法論の録音を思い出してしまいました。)
ここは他の法論板と違うことを明言されては如何でしょうか?。
(無題) 投稿者:大勝利 投稿日: 6月29日(水)23時51分45秒
大月天さん、少し感情的になっている様に見えます。ここはディベートの場でしょうか?ディスカッションの場でしょうか?肯定、否定に分かれてのディベートならば、お互いの信念大系の前提の違いがあるわけですから、結局、お互いの人間性を否定しあい平行線が続くだけで、何一つも得られるものはないと思います。
自己の信仰信念を批判される事は、人格、人生、存在さえも否定されるような錯覚を覚える事でしょう。あたりまえの事です。しかし其れに耐えれずに、冷静さを失い感情的になるようではそもそもディスカッションする以前の問題です。折角の御見識が勿体ないでしょう。
虚空老人さん、はじめまして。
>昔聞いた小樽法論の録音 小樽問答・・・若き日の池田先生と日達上人を小生も一度聞いてみたいものです。
(注*ディベート”Debate”とは、公開討論。特定のテーマについて複数グループの論者が賛成or反対の立場で、第三者を説得する形で議論を行うこと。
事実に基づいた合理的論証が求められる。
*ディスカッション” Discussion”とは、公衆議論。それぞれの立場で考えを自由に主張すること。一貫性は厳しく求められない。)
虚空老人様・大勝利様 投稿者:大月天 投稿日: 6月30日(木)11時27分2秒
類々のご指摘、誠に有り難く存じます。
双方に於ける応酬について、管理人様からのご裁断はまだ下ってはおりませんが、本日から明日の未明にかけて、当掲示板をお借り致しまして、私感を一言、申し上げたいと思っております。
大月天 君 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月30日(木)14時33分28秒
貴君が退出すれば解決!これ以上迷惑をかける事はやめよ!以上申し付ける。
尚、反論は不要。自らの非道を味わう事を命じる。
小樽… 投稿者:虚空老人 投稿日: 6月30日(木)23時03分34秒
>昔聞いた小樽法論の録音
>小樽問答・・・若き日の池田先生と日達上人を小生も一度聞いてみたいものです。
古い講員さん、学会員さんの中には、小樽法論を録音したレコード(アナログ・ディスク)をお持ちの方がいらっしゃるかも知れませんので、周囲に一声おかけになってみては如何でしょうか?聴く価値はとてもあります。
内容は(記憶の彼方の世界ですが)、野次、罵声、怒号の嵐で、おとなしい対論相手が反論不能の混乱状態に陥ってしまうまでヤジリ倒したまったという感じだったと記憶しています。
このあと、対論相手の日蓮宗では公開の場での法論・問答を禁止にしてしまいました。まあ、実際には録音を聞いてみるのが一番なのですが…。
私は、法論後10年程経ってから聞いたと記憶しています。当時はそれが正義だと感じていた自分は若かったのでしょうね。この歳になってしまっては、あれは法論なんて高尚なものではなかったと感じています。
虚空老人 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 6月30日(木)23時20分21秒
現代では法論は意味を持たないのです。本来は法論に負ければ改宗せねばなりません。そんなルールは今はありません。ですから法論などは無意味ですよ。
桶田氏が、法論で勝った勝ったと騒いでいるのは滑稽ですね。法論で勝って広宣流布が出来るなら、蓮祖の時代に出来ていますよ。
別館で、法華講の方々は私に歯が立ちません。でも認めもせず、屁理屈を並べています。馬鹿らしくなったきたので、おちょくっているのです。時間つぶしですね。法論など役にはたちません。勝った負けたは自己満足の世界ですな。 世間に実証を示す。勝負はこれしかありません。
沖浦様 投稿者:虚空老人 投稿日: 7月 1日(金)00時30分4秒
ネット上の法論は、ほぼ双方不毛な争いになり、結末のない状態で尻切れトンボになってしまいます。双方、貴重な時間の浪費であり、面白がるのは対論に参加していない傍観者ばかりでしょう。まさにこの点で小樽法論を思い出したということです。あんなもの法論でも何でもなく、勝った負けたと騒いだのみです。その後、一体何が変わったのか?、ということです。身延の邪義など小樽法論以前から判っていたことです。
ですが、対話研鑚は違います。相手の立場を尊重するという度量は必要ですが、自分の知識を増やすことができます。この場合相手は善智識であり、自分を成長させてくれます。知識を増やして、対話者を入信に導くもよし、別の御仁を入信に導くも良し。
私はここの掲示板は他所の掲示板と異なり、対論以前の罵倒、罵り合いのない静かな掲示板に発展する可能性をみています。そのような掲示板が一つくらい存在しても良いではありませんか。「相手の立場を尊重し、静かに対話研鑚を行う」そのような掲示板があってもよろしいし、ここの掲示板もそのように発展して欲しいということです。泥試合を行うのは他所で行えばよろしい。という私の思い入れが、この掲示板にはございます。
沖浦様は沖浦様の立場で福徳をお示しください。わたくしはわたくしの立場で福徳を示して行きます。あと、何十年かたって、学会の経験者が宗門から消え、宗門の経験者が学会から消えたときに、お互いどのように栄枯盛衰しているか、来世で見てみようではありませんか。
管理人様、この板の趣旨と異なる発言、申し訳ございませんでした。
鋭いご指摘です 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 1日(金)06時13分53秒
私はネットに参加して三年になります。多くを学びました。折伏もネットで二世帯いたしました。今後の布教はネットが重要な要素となるでしょう。
将来日蓮正宗から創価学会が消え、創価学会から日蓮正宗が消える。とのご指摘は、その通りだと感じます。私は創価学会破門は、身延離山と捉えます。
私が常々申しています、仏が迹、衆生が本。との考えは、日蓮正宗内に創価学会がとどまっていては、発表が不可能であったでしょう。
世界広布にはこの思考方法が不可欠です。他の世界宗教と蓮祖の法の最も異なる部分です。私は、ここに仏法の真髄があると思います。
小樽法論 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 1日(金)07時15分2秒
在家と出家のしたたかさの差が勝敗を分けたのです。創価学会は在家集団ですから、当然世渡りが上手です。身延は出家が出ました。世の中の苦労を知りません。
あの際、法会論の現場での議論の勝ち負けなどはどうでもいいのですよ。会場での雰囲気と、後の宣伝が大事です。身延は、一般紙に掲載された人生相談を持ち出しました。創価学会の活動で家事が行われなない。と、ご主人が人生相談欄に投稿し、担当者が回答をしたものです。得意になって出してきたのですね。ここで身延の負けが決まりました。会場から質問の手が上がり、貴方はそれを本人に確認したんでしょうね。と、問い詰めよられて身延の登壇者は、しどろもどろになったのです。当然、確認などはしていませんからね。その後はもう身延は雰囲気に呑まれ、創価学会は反対に勢いが出たのです。
事後処理にも差がありましたね。創価学会は機関紙等で、勝った、勝った。と、大宣伝をしたのですが、対して身延は沈黙しておりました。これが世間での勝敗を分けたのです。世間知らずの出家集団が、したたかな在家に勝てる道理が無いのです。勝負はやる前から決まっていました。
それとね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 1日(金)07時16分20秒
司会の能力の差も大きかったのです。
同感 投稿者:虚空老人 投稿日: 7月 1日(金)08時56分4秒
この件は私も同感です。
虚空老人さん< 投稿者:卞氏 投稿日: 7月 1日(金)11時43分4秒
>「相手の立場を尊重し、静かに対話研鑚を行う」そのような掲示板
そうなると良いですね。でも、在家同志の真面目な人同志で、それをやっていると、教学力の無い坊主は、現役出家としての面目が立たないのでは?と、すこしばかり心配しますが。
(無題) 投稿者:大勝利 投稿日: 7月 1日(金)12時00分30秒
日蓮宗 所報34号(平成12年3月)で、小樽問答について述べている部分がありますので参考まで。安直な例えを持ち出すと、切り返されてしまう見事な例です(笑
かつて小樽論争のとき、当時の教学部長、これは日蓮宗からの代表の長谷川義一師と、創価学会の方の原島教学部長だったと思いますが、そこで本迹論の論争をいたします。本迹を説明するときに長谷川義一師は、本迹論を建物に例えて「建物には枠組みが必要だ」と言います。そうすると原島氏は、国会議員をやった男ですから度胸もすわっていて喧嘩が得意です。「建物は出来上がったら枠組みなんていらないだろう」、これでもう終わってしまう。これは注意して当たらなければなりません。
破邪顕正と法論の有意 投稿者:大月天 投稿日: 7月 1日(金)20時03分42秒
ここに、一言、私感を述べたいと思っております。その前に、過日の折、虚空老人様、大勝利様には、ご指摘、誠に有難うございました。
さて、法論の義でございますが、先ず以って、当該掲示板は、法華講員たる管理人様が主催し、運営しているということであります。しかも、当該掲示板のタイトルは【日蓮正宗VS創価学会】とあり、それに続いて【破折法論館】と銘打っております。つまり、当該掲示板に於いては、日蓮正宗法華講の名の下に、異流義たる創価学会と、その会員達を、正義を以って諭し、その邪見に対しては、一刀両断のもと、断固破折せねばならない、ということなのであります。
まして彼らは、一般の未入信者ではなく、その大半に於いて、入会当時から日蓮正宗の各寺院に所属していた者達であり、その根拠に於いて、総本山に在します、本門戒壇の大御本尊様にお目通りしてきた者達なのであります。
しかし、宗門への画策が暗礁に乗り上げた事を機に、ついに日蓮正宗第六十七世・日顕上人猊下への誹謗と化し、その故を以って当宗から、破門されたのであります。
この経緯からしまして、彼ら創価学会員に対し「日蓮正宗への帰還」を促す、いわゆる【説得】なる文言は、充分なる意味を成さないのであります。まして、異流義たる創価学会員なる者たちと、板上に於いて枝葉に於ける【教学の研鑽】なる擬似行為は、まさに『法華経を讃むると雖も還って法華の心を殺す』に値するのであります。
我が日蓮正宗の本源は、日蓮大聖人様の御本懐たる、人法一箇独一本門戒壇の大御本尊様であり、法水瀉瓶、唯我与我たる唯受一人の別体血脈の付法を以ってしての、宗門存立なのである。しかして、彼らは、過去に於いて、それら大事たる御法門を信受していたにも関らず、現時に於いて口汚く誹謗しているのである。これら身口意の罪業は、仏法の法義からして、万死に値するのである。因って然る可し。迹の上の本迹は迹であり、本の上の本迹はすべて本なのである!何を隠そう、この論の最後に行き着く処は、言うまでも無く、一大秘法たる本門戒壇の大御本尊様なのである。しかし彼らは、その大聖人様出世の御本懐たる大御本尊様さえも、心底から罵っているのである。許さずに置かれようか!破折せずに居られようか!!毒気深入 失本心故。 まさに彼らの毒気を切り裂くに於いては、法華の慢による大剣が絶対に必要なのである。
御聖訓に曰く
『若し善比丘あって法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し拳処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり。
若し能く駈遣し呵責し拳処せば是我が弟子真の声聞なり』
また曰く
『仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親しむしは即ち是彼が怨なり。能く糾冶する者は彼が為に悪を除くは即ち是、彼が親なり』
御開山、重ねて曰く
『謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事』
まさしく、この御遺誡こそ、我ら日蓮正宗法華講に与えられた御聖文なのである。在らぬ枝葉を払拭し、本義たる独一本門を論ぜよ!そして、その尊体を心で観じよ!!正に、それこそが、今時の一凶を断ずる、貴き処方箋に成り得るのであります!
曰く
「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」
富士大石寺二十六世日寛謹んで記す
管理人様。
志向の相違により当掲示板を一旦離れ、以後は、本門戒壇の大御本尊を誹謗する者、法体血脈相承を否定する者、ご歴代上人を揶揄する者、就中、日恭猊下の御遷化に対し狂笑する者共に対して、その謗法行為たるを断固、呵責して参りたいと思っております。
創価を滅せねば、我らの広宣流布は無し!! 以上でございます。
大勝利さんへ 投稿者:やまさん40 投稿日: 7月 1日(金)20時57分52秒
私の質問はですね・・・・。大勝利さんの投稿にある
>百六箇抄から見れば、『下種十妙実体の本迹 日蓮は本因妙を本と為し、余を迹と為すなり、是れ真実の本因本果の法門なり。』
と明確に、本因を<本>とするのが真実の法門と仰せです。
までは、<本因下種を本とし、本果脱益を迹となす>の意で理解できるのですが、
続く
>故に、本因九界が<本>、本果仏界が<迹>となり、仏界<仏>が迹、九界<衆生>が本ですね。
の部分が、どうしてそう結論付けられるのか、よくわからないのですが?
これでは因果各別の意義になり、十界互具でなくなってしまうと思うのですけれども私にもわかるように学会側からご解説いただけませんでしょうか?
・・・・という趣旨なのです。
ウッップップップップップ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 1日(金)21時24分
>曰く「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」
富士大石寺二十六世日寛謹んで記す
駄目だ、こりゃ〜〜〜????
(無題) 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 7月 1日(金)22時36分1秒
>ウッップップップップップ
>駄目だ、こりゃ〜〜〜????
沖浦様、お行儀よくしていることに少々お疲れですか?
いいえ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 2日(土)05時55分55秒
この様な無礼な決め付け人に、まともに相手が出来ると思いますか?
>曰く「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」
富士大石寺二十六世日寛謹んで記す
寛師の時代は、蓮祖の法が長期間要法寺の邪義の影響を受けた時です。これを是正するには、相当協力な理論武装が必要でした。その最大の武器が、戒壇の御本尊です。これが蓮祖の出世の本懐である。と、宣伝をしたわけですね。それを持て、大石寺に特別性を持たしたのです。明治維新の以前、倒幕に攘夷を打ち上げたのと同様です。現代では何の役にもたちません。
本当はこの様な話を、皆様方と真面目にやりたかったんですがね。決め付けは議論の最大の敵です。
沖浦様へ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 7月 2日(土)08時54分26秒
本門戒壇の大御本尊様を宗祖出世の本懐と信解するかどうかは現在のテーマではございませんので、次回テーマを「一大秘法とは 〜お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹なのか?〜」としての機会に追求しましょう。
そもそも私と沖浦様との法論は、出世の本懐についての聖人御難事の御文の解釈から始まり、このテーマも「本門戒壇の大御本尊こそが宗祖出世の本懐」とする法華講側と「忍難弘通と民衆救済の行動それ自体が出世の本懐なのだ(要旨)」とする学会側との討論から派生したものですから。
*なお昨晩の私からの質問への、学会側諸氏よりの返答をいただいておりませんので、法論をそこに戻させていただきたいと思います。*
お題に戻します 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日:7月 2日(土)09時07分26秒
大勝利さんの投稿にある
>百六箇抄から見れば、『下種十妙実体の本迹 日蓮は本因妙を本と為し、余を迹と為すなり、是れ真実の本因本果の法門なり。』
と明確に、本因を<本>とするのが真実の法門と仰せです。
までは、<本因下種を本とし、本果脱益を迹となす>
の意で理解できるのですが、続く
>故に、本因九界が<本>、本果仏界が<迹>となり、仏界<仏>が迹、九界<衆生>が本ですね。
の部分が、どうしてそう結論付けられるのか、よくわからないのですが?
これでは因果各別の意義になり、十界互具でなくなってしまうと思うのですけれども。
また、学会側諸氏は、「久遠元初自受用報身仏が本仏」であり、
「末法ご出現の日蓮大聖人は垂迹仏」である。とお考えなのでしょうか?
やまさん40さん。 投稿者:卞氏 投稿日: 7月 2日(土)09時38分47秒
>故に、本因九界が<本>、本果仏界が<迹>となり、仏界<仏>が迹、九界<衆生>が本ですね。
>の部分が、どうしてそう結論付けられるのか、よくわからないのですが?
これでは因果各別の意義になり、十界互具でなくなってしまうと思うのですけれども
***
これは、貴方から見れば結論に見えてしまったのですね。舌足らずで申し訳ありませんでしたが、「沖浦氏のテーマに合致」と言うことを言いたかったのです。
沖浦氏により、「何故日本語を話したか?」という質問がありましたが、結論としていうならば、実践論として九界に働きかける以外に化導の方法は無いよということです。
***
別じゃないことをいうのは、こういうことでしょうか。
「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。
口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。
境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや」 (法華取要抄文段)
・信を言えば、仏界が九界に働きかける。それは本因(本)というもので、
・行を言えば、九界が仏界として顕れる。それは本果(迹)となる。
それらは元々別物では在りませんが、人間は別物として捉えておくしか、合理的に表現する方法はないのです。実践するのは「九界」しかありません。
ではどちらを「重要視するか」となれば、生きた本であり衆生であり衆生社会であり、それが的であって目的であって、
理論や結果(仏果)は後からついてくるもの。迹ですよ。
これが学会感覚ですね。過去や因習に囚われず前向きになれるのです。
***
御本尊を信じることは言うまでも無いことなのですが、すこし教学の話が出来る法華講員らとのやり取りで時々、「このひとは、ご本尊を信じていると言うようりも教学を信じているのでは?」という感覚を受けることがありますが、そうこちらに思われてしまうのは、沖浦さんの指摘のように、決め付けで対話の壁を作ることが原因でしょう。
***
沖浦氏の問への私の回答は「相手が日本語で理解するから」です。
難しいでしょうかね。 投稿者:卞氏 投稿日: 7月 2日(土)09時59分41秒
>「久遠元初自受用報身仏が本仏」であり、「末法ご出現の日蓮大聖人は垂迹仏」であるとお考えなのでしょうか?
いいえ、御本仏に間違いありません。まず、教学的に違いますよね。またその質問の対比の仕方が、変ですよ。
***
「久遠元初自受用報身仏が本仏」でもないですね。日蓮大聖人が御本仏。とするのですよ。
「末法ご出現の日蓮大聖人は垂迹仏」・・・大聖人に対して色々と形容詞が付いていますので、それが相互の誤解の元になりますがね。
称える意味でつけているのか、ちゃんと意味を含ませてあってそうつけているのか、そしてそれは一体どういう意味か、確認しながらの作業が必要と思いますよ。
***
・ 生身の日蓮大聖人そのものは応身仏。
・ 日蓮大聖人が我身南無妙法蓮華経と顕したところが法身仏。
・
日蓮大聖人の様々な教導が示すところ仏の智慧が報身仏。
報身ですから智慧の当体のことですよ。目には見えない御本尊のことです。
と見ることが出来、大聖人はこの三身が一身に備わる御本仏。と、こういうことでは無かったでしょうか。
私はそれを否定するつもりは全くありません。よろしいでしょうか。
やまさん40さんへ 投稿者:大勝利 投稿日: 7月 2日(土)11時20分5秒
六巻抄が因勝果劣種本脱迹論を説いていて、『本果仏界が<迹>、本因九界が<本>』まで共通認識であれば、今回のテーマに沿って、仏界に<仏>を、九界に<衆生>を配当出来るのか?は議論の余地あると思ってます。例えば、『本果は<能化>、本因は<所化>』なのか?其れとも『本果は<仏>、本因は<能化>』なのか?等です。
それとも、本勝迹劣に引っ掛っているのでしょうか?本因九界に本果仏界が帰着するので、本迹があるとの主張と読んでいますが。小生は、六巻抄は「素晴しい」と所感を述べましたが、信仰の全てとは考えていないので、其方へ引用するのは気が引けるのですが、参考まで。
本迹相対して一念三千を明かす(〜三重秘伝抄〜)
「問う、迹門の一念三千何んぞ本無今有ならんや。
答う、既に未だ発迹せざる故に今有なり、亦未だ顕本せず、豈本無にあらずや、仏界既に爾なり、九界も亦然なり。
故に十法界抄に云わく、迹門には但是れ始覚の十界互具を説き、未だ本覚本有の十界互具を顕わさず、
故に所化の大衆も能化の円仏も皆悉く始覚なり、若し爾れば本無今有の失、何んぞ脱るることを得んや等云云。」
「広くは玄文第七巻の如し、此の中に十界の因果とは是れ十界互具の因果には非ず、因は是れ九界、果は是れ仏界の故に十界の因果と云うなり」
卞氏へ 投稿者:やまさん40 投稿日: 7月 2日(土)11時46分9秒
大勝利さん、沖浦様の発言への補足ありがとうございました。
お二人も卞氏の補足された通りでよろしいでしょうか?「久遠元初自受用報身仏が本仏」であり「末法ご出現の日蓮大聖人は垂迹仏」とは、ある学会員がこのように話していたのを思い出して、現在の学会ではこのように教えているのかなと思い、お尋ねした次第です。
卞氏は(私は学会員に共通の感覚と受けとめていますが)
>ではどちらを「重要視するか」となれば、生きた本であり衆生であり衆生社会であり、それが的であって目的であって、理論や結果(仏果)は後からついてくるもの 。迹ですよ。これが学会感覚ですね。過去や因習に囚われず前向きになれるのです。
これは社会への実践としては理解できますが、重要なのは「どのような心をもって実践するか?」ではないでしょうか?私たちの広宣流布への活動は、正しい信仰による衆生救済と国土浄化であり、部分観の思想哲学による社会改革運動ではないのです。
衆生は仏様によって下種を受け教導され仏果を開くことができるのですから、あくまでも仏様が<本師>であって、
衆生・弟子檀那は<信じ奉りて教えを乞う、仏様に従う>立場ではありませんか?これが信仰する「心」のありかたの基本ではないのですか?
これを忘れて、何をもって衆生や衆生社会を浄化するというのでしょうか?
『信は道の源功徳の母と云へり』(念仏無間地獄抄)と。
『此の経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり。謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順の義なり。』(唱法華題目抄)と。
学会感覚では<帰命し奉る>という事や、<渇仰於仏 心懐恋慕>の心をどのようにお考えなのでしょうか?
大勝利さんへ 投稿者:やまさん40 投稿日: 7月 2日(土)11時52分49秒
因勝果劣 種本脱迹 とは、大勝利さんもご存知の通り、
「本因妙の仏が勝れ、本果妙の仏が劣る」
「下種仏が本で、脱益仏が迹」
ということであり、大聖人様とお釈迦様の勝劣・本迹を明かしたものです。
本果仏界に<御本仏日蓮大聖人様>を、本因九界に<衆生>を配するという意味ではありません。
やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 7月 2日(土)15時49分3秒
人法体一としてか、人の本尊としてか、前提での議論を進め方の擦りあわせが必要かも知れませんね。
>末法ご出現の日蓮大聖人は垂迹仏
これは、間違いではありません。法華溝も同じ筈です。(それ否定したら、法主本仏論が成り立たないでしょう)
本ノ本因<本>からみれば、今ノ本因は<迹>ですので、末法応現名字日蓮は<迹>となります。久遠本有名字即仏が<本>です。
余計な事かも知れませんが、法主本仏にも繋がる事ですので意見しておきす。
法主という「当住の聖人」も<今ノ本因>ですので、厳密に言えば本当は「法主迹仏論」です。「恐れ多い」とか言わないで御一考御願いします。
管理人さんへ訂正 投稿者:大勝利 投稿日: 7月 2日(土)17時38分33秒
・法華溝→法華講です。失礼しました。
それと、卞氏さんは「卞氏」までがHNの方と思いましたので、敬称の御配慮を御願いします。
卞氏さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 2日(土)21時04分37秒
>沖浦氏の問への私の回答は「相手が日本語で理解するから」です。
その通りです。故に仏法に随自意はありえないのです。常に民衆の機根に、仏は応じる事を強いられます。
御本仏が、法華講の説のごとく神秘な力をそなえているのなら、言葉などは不必要です。奇跡を起こしてみせ、テレパシーで意思を伝え、超絶の存在として衆生に君臨すればいいのです。蓮祖は御本仏であられながら、何故そのようにされ無かったのでしょう。仏は本、衆生は迹、ならばそうするべきです。反対だから出来なかったのです。と、言うより、そのようにはなっていないのです。仏は迹、衆生は本。簡単でしょう。
それとね。宿命と、運命の差も同様です。
違いますよ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 2日(土)21時21分45秒
>因勝果劣 種本脱迹 とは、大勝利さんもご存知の通り
「本因妙の仏が勝れ、本果妙の仏が劣る」「下種仏が本で、脱益仏が迹」ということであり
釈迦仏法の立場で蓮祖の法を説明しようとすれば、この様な考えにならざるを得ません。蓮祖の法の立場から仏法を論ずれば、全ての仏の悟りは同じです。 本因も本果もありませんよ。みな同じです。
蓮祖も、久遠の仏も、釈迦も、戸田先生も、全て同じお悟りと御境涯です。
沖浦様へ 投稿者:やまさん40 投稿日: 7月 2日(土)21時59分59秒
久遠実成までしか明かさない釈迦仏法の立場では、「本因妙の仏が勝れ、本果妙の仏が劣る」「下種仏が本で、脱益仏が迹」ということなどありえませんよ。
また、
>常に民衆の機根に、仏は応じる事を強いられます。
まるで仏様には衆生に借りがあるとでも言うような言い方をなさいますね?「帰命」とは仏様に、「命を帰せ」と強いることなのでしょうか?
仏様は衆生の請いによって慈悲を垂れ、救済の為に教えを説きますが、仏様には、衆生から説法を強要される筋合いなどございません。
仏が民衆に強いられる理由というか、事情というか・・・根拠とする文証をお示し下さい。
更に、沖浦説
>蓮祖も、久遠の仏も、釈迦も、戸田先生も、全て同じお悟りと御境涯です。
これは、下種の本仏=(大聖人様≠久遠元初の自受用身)=釈尊=戸田城聖氏であると仰るのでしょうか?戸田会長も当時の学会員に応じて指導する事を強いられていたのですか?
大勝利さんへ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 7月 2日(土)22時04分33秒
・HN「卞氏」さんの件、了解いたしました。卞氏さんも宜しいでしょうか?
・所用で外出中のため、手元に六巻抄がないので法論の続きは水曜日以降までお待ち下さいませ。
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 2日(土)22時39分57秒
>これは、下種の本仏=(大聖人様≠久遠元初の自受用身)=釈尊=戸田城聖氏であると 仰るのでしょうか
イコールではありませんが、お三人は同一の生命。と私は信じておりますが、別々の命で御境涯が同じ。との、考え方も否定はできなせん。今後の研究に待ちます。
>戸田会長も当時の学会員に応じて指導する事を強いられていたのですか?
当然です。病気の人に、お金持になれるから信じろ。と、言う人はおかしいでしょう。同じく貧乏で苦しむ人に、病気が治ると言っても信心はしません。
戸田先生は、私は言いたい時に言いたい事を言う。随自意だよ。(趣意)としばしば言われておられますが、その言いたいことがその場の機根にあっていたのです。それが仏の御境涯でしょう。機根を無視して、何でも好きな事をしゃべるのではありません。当然日本語を使用されましたしね。
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 2日(土)22時46分2秒
>まるで仏様には衆生に借りがあるとでも言うような言い方をなさいますね?
借りがあるのではなく、そう言うものなのですよ。伝教大師がある日比叡山を歩いていると、突然仏法の極意を悟りました。それですぐ法を説くのではなく、先ず中国に行き仏法を学び(振りをし)、箔をつけて帰国後法を広めました。 こう言うものなのです。
>「帰命」とは仏様に「命を帰せ」と強いることなのでしょうか?
いいえ、違うと思います。
仏法は常に衆生の機根に合わせるのです 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 3日(日)06時57分56秒
>戸田会長も当時の学会員に応じて指導する事を強いられていたのですか?
『仏法は摂受折伏時によるべし譬えば世間の文武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子薩・王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒無戒を毀り持戒正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教道教を以て釈教を制止せん日には道安法師慧遠法師法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師伝教大師等の如く大小権実顕密を強盛に分別すべし、』(佐渡御書)
やまさん40さん。 投稿者:卞氏 投稿日: 7月 4日(月)10時39分6秒
HNは「卞氏」で構いませんが、呼びやすいようにどうぞ。
最初にお断りしたとおり、百六箇抄引用の理由は、「末法(末代衆生)が迹」という配置を可能にする項目は在りません。むしろ、法華講員さんらが「?」と思うだろう「日蓮大聖人が迹」と言うものが出てきます。それが大聖人の仏法とは何を目指したものなのかを思索する幇助的役割を果すのではないかと思ってのことです。また、私が「三身」を中心に話しているのは、もっと現実的立場から物事を見る助けになるかとの考えからそうしています。三身については現代人にも容易く理解できるものです。
>学会感覚では<帰命し奉る>という事や、<渇仰於仏 心懐恋慕>の心をどのようにお考えなのでしょうか?
まあ、無茶を言わないで下さい。考える暇など在りません。その文字のとおりに受け止める以外にないですよ。「題目いいな!」それだけですよ。
***
>私たちの広宣流布への活動は、正しい信仰による衆生救済と国土浄化であり、部分観の思想哲学による社会改革運動ではないのです。
ええ、信がなければいけないのは、大前提ですよ。本門の題目は「信・行」に開けるんでしたよね。また、部分といえども全体に釈せられる、大法なのではありませんでしたか?部分を否定して全体もなにもないのです。
全体でなければならないのではなく、妙法を根幹にした場合は、その部分も生きてくる。「やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」ですよ。
貴方一人で全てが出来るわけでもないです。でも貴方も社会に参画することでその仏果を顕すことが可能で、その仏果をもって他の人の因となっていく。これこそ下種でしょう。
>衆生は仏様によって下種を受け教導され仏果を開くことができるのですから、あくまでも仏様が<本師>であって、
衆生・弟子檀那は<信じ奉りて教えを乞う、仏様に従う>立場ではありませんか?
立場ばかりを強調することで、なにか仏とかいう概念教条に縛られてしまっては居ないかと懸念します。「仏様」という呼称は、非常に広義です。百六箇抄、六巻抄などを引かれながらの使用に、少なからず違和感を憶えます。
人がありがたいと感じるそのものを「仏様」と呼ぶのですから、「仏様なのだからありがたい」などという感覚は不要なはずです。このような質問を受けたことは無いでしょうか?
@あなたは、御本仏に何かを命令される立場なのですか?
A大聖人が貴方に何をどうするべきかと教えてくれるというのですか?
B大聖人の法門は因果異時ですか?
>これが信仰する「心」のありかたの基本ではないのですか?これを忘れて、何をもって衆生や衆生社会を浄化するというのでしょうか?
信があることが前提です。それに変わりはありません。本門の題目は「信・行」でしたね。題目を唱え、「行」をなすところにはすでに「信」は具わっていると見ますよ。
***
議論が高次になるほど、大勝利さんの述べていらっしゃるとおり「前提」が必要かと思います。
こういうのもなんですが、そちら法華講員の側に学会側の掲示板では、そちら法華講員の側に「基礎的な教学」が不足しているとの指摘もあります。もともと沖浦氏も「御書・現実」のみに絞っての話が前提で、「他資料は単に参考にするだけに止めておくべきものと思います。
寛師教学について、おおよその私の考えでは「間違いではない」「参考になる」
くらいの認識で、現実的に何かの役に立つということは殆ど無いでしょう。私が何かにつけ信仰体験をしたときに、確かに大聖人も同じことを言っている。
寛師はそれを理解されこのように釈されている。やはり自分の信仰に誤りは無い。との確証を得るためにはそれなりに役に立っていると言うことです。
失礼。 投稿者:卞氏 投稿日: 7月 4日(月)12時53分36秒
文頭、意味不明になりましたが、先ずは、百六箇抄引用の理由を述べさせて頂くという趣旨です。
否定の由来と現在の見解について。 投稿者:卞氏 投稿日: 7月 4日(月)16時59分1秒
末法応現名字日蓮は<迹>
⇒「末法ご出現の日蓮大聖人は垂迹仏」(応身としての仏)
久遠本有名字即仏が<本>
⇒「久遠元初自受用報身仏が本仏」(報身としての本質)
***
以前私が否定的に答えたと思いますが、やまさんやROMの方々が混乱されないよう補釈いたします。
やまさん40さんは、「学会が日蓮大聖人が御本仏」ということを否定しているのだと受け止めていらっしゃったと思って、それは違うと申し上げました。
日蓮大聖人を御本仏とすることに間違いはないのです。そういう信じ方というか、言ってみればそれで十分だろうとも思っています。なぜかならば、大聖人はご存命ではないことぐらい、皆知っていることだからです。大聖人の智慧に御書を通じて帰伏することはあっても、大聖人自身は何も言ってくれません。それは分かりきったことなのです。
ただ、「日蓮が迹」というと(実はそれは間違っていないのですが)、ひどく学会を誤解されると思います。その点を心配しています。三身についても理解の助けになると思います。
ここに上記対比において依存なく、私の見解として補正をさせていただきます。
卞氏へ 投稿者:やまさん40 投稿日: 7月 4日(月)18時56分41秒
>末法応現名字日蓮は<迹>
⇒「末法ご出現の日蓮大聖人は垂迹仏」(応身としての仏)
久遠本有名字即仏が<本>
⇒「久遠元初自受用報身仏が本仏」(報身としての本質)
これは、
・・久遠元初自受用報身仏(ご本仏・智慧身)が本体であり、
末法のはじめ鎌倉時代には慈悲身・日蓮大聖人と垂迹示現した。
大聖人(応身)滅後には、本である久遠元初自受用報身仏を本師と仰ぐ
という意味なのでしょうか?
開目抄に曰く
『日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて』
と。大聖人様は、龍の口で発迹顕本され、上行再誕としての垂迹身を発って、久遠元初自受用報身仏即日蓮との本地を顕されたのですよね?
創価教学では、発迹顕本以後の日蓮大聖人様と、久遠本仏の間に本迹や能所の区別があるのでしょうか?
>題目を唱え、「行」をなすところにはすでに「信」は具わっていると見ますよ。
法蓮抄に曰く
『信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし。』
と。一分順縁ではあろうが、自行化他をなすところ全てに信が具わってるとは言い切れない。
>信がなければいけないのは、大前提ですよ。
そのとおりですね。一信・二行・三学ですから、まず[渇仰於仏 心懐恋慕]の心、[帰命し奉る]随順の信がなければ空題目でありましょう。
>立場ばかりを強調することで、なにか仏とかいう概念教条に縛られてしまっては居ないかと懸念します。・・・・
御義口伝に曰く
『随順とは信受なり』
曾谷殿御返事(成仏用心抄)に曰く
『「是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」と。
釈に云はく「本此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」と。
又云はく「初め此の仏菩薩に従ひて結縁し、還此の仏菩薩に於て成就す」云云。
返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。』
と。
[仏⇔弟子・檀那]の本従の義(=道)を違えれば成仏は叶わないと仰せでありましょう。
大勝利さんへ 投稿者:やまさん40 投稿日: 7月 4日(月)20時36分18秒
百六箇条に曰く
『八、本果の妙法蓮華経の本迹
今日の本果は従因至果なれば本の本果には劣るなり。』
日寛上人・末法相応抄
「問う、若し爾らば血脈抄の中に那んぞ勝劣を判じて今日本果従因至果は本の本果に劣ると云うや。
答う、此れは是れ同じく応仏昇進なりと雖も若し所顕に従えば則ち亦勝劣有り。・・・・」
この御文の ・「今日の本果」とは、印度応誕の釈尊、始成正覚の仏果。
・「本 の 本果」とは、久遠実成の仏果、更に本因の修行とその師・本仏を示す。
・「本
の 本因」とは、久遠元初の下種仏法。
と、種脱相対を示す言葉ですので、大勝利さんの言うように >末法応現名字日蓮は<迹>・久遠本有名字即仏が<本> として、
日蓮大聖人様と、久遠本仏の本迹勝劣を示す意味ではありません。
・ ・・・・・・
>人法体一としてか、人の本尊としてか、前提での議論を進め方の擦りあわせが必要かも知れませんね。
摺り合わせをする方向は、一大秘法の論議に入っていくことになりますので、次回テーマにゆずりましょう。
やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 7月 5日(火)00時36分31秒
貴殿は、切御文での教学力は認めますが、本仏論の全体的な構造的理解に欠けていると見えます。百六箇抄、文底秘沈抄、三重秘伝抄は全文読んでいますか?
>印度応誕の釈尊、始成正覚の仏果
種脱相対して一念三千を明かすとは、印度応誕の釈尊などと浅い種勝脱劣を論じているだけではありません。
それに、貴殿の引用の御文は、明らかに本迹勝劣があることを示す文ではありませんか?
同じく末法相応抄には、
「問う、久遠元初の自受用身と応仏昇進の自受用身と其の異なり如何。
答う、多くの異有りと雖も今一二を説かん。
一には謂わく本地と垂迹、
二には謂わく自行と化他、
三には謂わく名字凡身と色相荘厳、
四には謂わく人法体一と人法勝劣、
五には謂わく下種の教主と脱益の化主云云。」
とあります。
応仏昇進の自受用身とは、劣応の仏が次第に昇って自受用身と現れる<迹>であり、久遠元初の自受用身<本>とは勝劣があるとの意味でしょう。
因がなければ果はありえないですよね。末法に現れた日蓮は果ですよ。因が久遠元初である事を開顕したのです。
本迹を構造的に理解するには、例えば百六箇抄の
『本因妙の外に並に迹とて別して之無し故に一と釈する者なり、真実の勝劣の手本の義なり云云。』
の意味をよくよく考えてみることです。<根本>には相対する<迹>はありません。
やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 7月 5日(火)08時38分43秒
自己レス >末法に現れた日蓮は果ですよ
末法応現名字日蓮を<因>と言ったり、<果>と言ったりでは、ROMの皆様に誤解を与えるかもしれません。
やまさん40さんの7月 4日(月) 20時36分18秒の御投稿には、
<今の本因>が記示されておりません。何を配当させますか? <法>ではなく、<人>で御答願えますか?
やまさん40さん(少々長文) 投稿者:卞氏 投稿日: 7月 6日(水)09時15分
>末法応現名字日蓮は<迹>
⇒「末法ご出現の日蓮大聖人は垂迹仏」(応身としての仏)
久遠本有名字即仏が<本>
⇒「久遠元初自受用報身仏が本仏」(報身としての本質)
>・・・久遠元初自受用報身仏(ご本仏・智慧身)が本体であり、末法のはじめ鎌倉時代には慈悲身・日蓮大聖人と垂迹示現した。
大聖人(応身)滅後には、本である久遠元初自受用報身仏を本師と仰ぐという意味なのでしょうか?
「本師」という単語がでてくる所で、またこちらは再定義を余儀なくされます。ふつうなら「それで良いよ、貴方は御本尊を拝んでいるんでしょ」でおわってもよい位の話なのですが、掲示板ではなかなかそうは行かないみたいですね。一身即三身、三身即一身の日蓮大聖人です。毎日御観念されているでしょう?その基礎があるという前提だから、三身についても突っ込んだ話ができるのですよ。
生身の日蓮大聖人は、その御振舞いを御書に残されました。我々人間として具体的に理解できるのはこの「御書」だけです。また、大聖人はその智慧の当体として御本尊を御図顕されたのです。我々凡夫は、その智慧の当体を拝することで、自身に具わる仏界の生命を開かせることができる。これが基本です。文底で読む本師は人即法法即人の「南無妙法蓮華経・日蓮」です。その自身に湧き出た仏界の生命「それに従う」ということが、「本従を違えず」ということです。
>[仏⇔弟子・檀那]の本従の義(=道)を違えれば成仏は叶わないと仰せでありましょう。
との貴方の読み方は、本従の義を違えてしまう可能性を孕んでいます。可能性といった意味については後述します。
***
>『是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん』
>『本此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す』
>『初め此の仏菩薩に従ひて結縁し、還此の仏菩薩に於て成就す』
「本師」とは、この中の「是の師」「此の仏」「此の仏菩薩」を指して言っているのでしょうか。同時に引用していることから、一応肯定してみますと、
意は法華経、文底で南無妙法蓮華経のことです。
大聖人の御内証(=久遠元初自受用報身如来)の当体として御本尊を御図顕されたのですから、ずばりその「南無妙法蓮華経」を指しているのだと言ってよいでしょう。そして「日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぐ」ということでよいと思います。
末法であれば「南無妙法蓮華経」で良いのです。意味では教主釈尊の説く所の法華経ということになりますので、文底でよめば日蓮大聖人の御題目になりますね。
在世の時ならばいざ知らず、後世のためにおいては厳密にしておく必要があるのでしょう。こういった「教学」が生まれる必要があったということです。教学が大 聖人の教えなのではありません。教学とは大聖人の教えをより理解し確信を深めるための方途です。
***
>[仏⇔弟子・檀那]の本従の義(=道)を違えれば成仏は叶わないと仰せでありましょう。
ここででてくる「仏」ですが、先ほどの部分では「本師」と呼んでいたにもかかわらず、ここでは別の呼称を用いていますね。
私としては、そこを仏=「南無妙法蓮華経」に充てた場合にのみ、[弟子=仏弟子]と解釈できますが、その場合今度は「檀那」が余計なものに映ってしまいます。
非常に解釈に困るコメントなのです。可能性といったのはそのためです。御本尊と貴方との間になにか余計なものが入り混じっているように思えるのです。
先ほどの「本師」の人という意味合いに注目するならば、その眼目は「御書」です。御書根本です。御書には大聖人の御振る舞いがあります。師弟とはそういうものです。大聖人が仏の振舞い(法華経の行者)ゆえに、それを学び模倣する者は仏弟子といえるのです。また、形だけ真似てそれでよいのか?との意見があるかとおもいますが、たんなる物真似のことを言っているわけでもないのです。
***
>大聖人様は、龍の口で発迹顕本され、上行再誕としての垂迹身を発って、久遠元初自受用報身仏即日蓮との本地を顕されたのですよね?
創価教学では、発迹顕本以後の日蓮大聖人様と、久遠本仏の間に本迹や能所の区別があるのでしょうか?
創価教学と名称は私は知りませんが、まず、その質問の「>発迹顕本以後の日蓮大聖人様」と呼ばれた時点でまた、あなたのいう「本迹の区別」が困難になります。様をつけるとどうしても「人」として呼ぶような印象を受けますからね。あなたが、何を指して言っているのか、こちらが掴めないのです。すると、既出の「応現の日蓮」をどうしても想像してしまいますが、こういった呼び方というのは単なる法華講員さんらの癖なのでしょうか。
その上で配置を考えてみますと。発迹顕本以前以後に関わらず、日蓮大聖人の外用は迹で、日蓮大聖人の御内証が本でしょう。そして、発迹顕本以前は御内証は冥伏して現れず、以後はその御内証が顕現した。ということがあるだけです。
能所の区別に付いては聞いたことがありません。必要ないはずです。自受用報身ですから。懇々と湧き出てくるのです。誰かが与えるとか、誰かからもらうとか、そういう発想がどうしても出来ません。縁があれば湧き出てくるものなのです。縁がなければでてこないのです。
***
仏様は師だから尊敬すべきなのか、尊敬の対象だから仏様とよぶのかという点でのお話の続きです。
「行躰行儀の所は信心なり妙法蓮花経なり、爾るに高祖開山の内証も妙法蓮花経なり、爾るに行躰の人をば崇敬すべき事なり云云。」(化儀抄)
というのが在りました。「行躰の人」をこそ尊敬すべきという考え方は、創価の考え方に軌を一にするものです。
一方貴方には、「行があるけど、信があるとは限らない。」とのお考えがあるようですが、私はそうは見ません。「行があるところ尊敬すべき事」なのです。
大聖人様には行がありました。御書や史実からはそれだけしか見えませんが、その大聖人様に「信があるとは限らない」とあなたは見るのでしょうか?
「大聖人様だから無いわけが無い。」などという、呆けた答えでは無いはずです。「御書に見る御振舞いに大聖人の御確信を拝する」なのではないのですか?
卞氏へ、大勝利さんへ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 7月 6日(水)22時46分41秒
職場の工場設備のメンテナンスで多忙のため、詳細な返答は暫くお待ち下さいませ。
・・・・・・・・・・
>末法に現れた日蓮は果ですよ。因が久遠元初である事を開顕したのです。
>発迹顕本以前以後に関わらず、日蓮大聖人の外用は迹で、日蓮大聖人の御内証が本でしょう。
ということは、やはり[久遠元初自受用報身仏が本仏であり、末法ご出現の日蓮大聖人は久遠本仏の垂迹仏である]ということではないのですか?
または、久遠本仏は下種の教主で、日蓮大聖人は「末法下種の化主」とでも言ったらよいのでしょうか?
私も創価学会の当時には、似たようなとらえかたをしておりましたが、詰まるところ創価学会の教学は法勝人劣なのでしょうか?
・・・・・・・・・・
(追伸: 氏のあとに「さん」をつけるのも不自然な感がありますので「卞氏」で呼ばせていただきます。)
横レスですが 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 6日(水)23時18分27秒
>[久遠元初自受用報身仏が本仏であり、末法ご出現の日蓮大聖人は久遠本仏の垂迹仏である]ということではないのですか?
久遠を考える必要は無いと思います。蓮祖がご本仏。同様の御境涯が戸田先生。これで良いでしょう。見もしない久遠などはどうでもいいでしょう。
>または、久遠本仏は下種の教主で、日蓮大聖人は「末法下種の化主」とでも言ったらよいのでしょうか?
蓮祖即久遠本仏即戸田先生。これでいいと思います。悟りの内容とご境涯は同じです。ことさら分ける必要はありません。
やまさん40さん< 投稿者:卞氏 投稿日: 7月 7日(木)16時37分11秒
>(追伸: 氏のあとに「さん」をつけるのも不自然な感がありますので「卞氏」で呼ばせていただきます。)
そういうことでしたら、「卞さん」でも良いですよ。
***
>または、久遠本仏は下種の教主で、日蓮大聖人は「末法下種の化主」とでも言ったらよいのでしょうか?
私も創価学会の当時には、似たようなとらえかたをしておりましたが、詰まるところ創価学会の教学は法勝人劣なのでしょうか?
ええっとですね、それでは、まるで 「本仏=法」 みたいにおっしゃってませんか?一体なにが根拠なのでしょう。
この件はあらためて又書きますが、その前に大勝利さんの問いかけの答えは如何ですか?
↓これです。
>やまさん40さんの7月 4日(月) 20時36分18秒の御投稿には、
<今の本因>が記示されておりません。何を配当させますか? <法>ではなく、<人>で御答願えますか?
今日の因 投稿者:やまさん40 投稿日: 7月 9日(土)11時57分37秒
「若し今日の本果は迹の因門を開して本の果門を顕す、故に従因至果なり。」 (日寛上人・末法相応抄)
「今日」とは印度応誕の釈尊在世、通途の仏教の考えを指し、印度応誕の釈尊の、因に従って果に至ることを述べています。
十九出家(方便品「仏曾親近」)が因。三十成道(方便品「吾従成仏已来」)が果であります。
まず経相上は『仏曾て、百千万億無数の諸仏に親近し、尽く諸仏の無量の道法を行じ、・・・・』(寿量品)と、無数の諸仏を師として修行し、仏果を成じたと説かれています。
さらに日寛上人様が「所顕の本因は独一本門の故に、本の本果は勝るるなり。」と種脱相対を示されておられることは御存知の通りと思います。
いずれにしても、久遠元初自受用報身如来即日蓮。南無妙法蓮華経即日蓮でありますれば、
末法応現の日蓮は<迹>・久遠本仏が<本>として、日蓮大聖人様と久遠本仏の本迹勝劣を示すものではありません。
卞氏や大勝利さんの書込みからは、
・[本門の本尊]を法本尊と人本尊とに開いた時に、別しては法本尊が勝れる。
・現在(大聖人様の御入滅後)の私達は、妙法の御本尊を拝し、宗祖の遺された指南書として御書を師として修行していくのです。
・生死一大事血脈抄にあるように、妙法のもとには仏も僧も信徒も差別はなく平等の存在である。
といった解釈に感じるのですが、そういうことなのでしょうか?
広義に「御本尊様」「御本仏日蓮大聖人様」また「大聖人様の教えである御書」を師として、我々『日蓮が弟子檀那』は、師に従って仏道修行に精進してゆく。
という意味であれば、[本従]の義については大筋は了解されるのでしょうか?
あけぼの さんの投稿は 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 9日(土)14時15分27秒
無関係の内容です。削除すべきだと思います。
(注*7/9・12時台の法華講側“あけぼの”さんからの投稿1件は法論に無関係の投稿と判断して既に消去しました。)
沖浦様 投稿者:あけぼの 投稿日: 7月 9日(土)16時09分29秒
何ならその記事の内容ここに貼り付けましょうか。2時前ころコンテンツを見たら、別の記事が追加されたために当該記事はコンテンツからなくなってましたが、記事の内容はコピーして保存してあるので、お望みとあらばいくらでもお見せしますよ。それとも何か問題発言のある登校でもしましたか。問題発言したなら、その箇所をコピーして貼り付けてくださいな。時間が経過したのでコンテンツにはなかっただけ、別に問題を起こしたわけではありません。削除なら私がやりましょう。あまりかっかしなさんな。難波の心意気が台無しでっせ〜。難波っ子なら、もっとおおらかにいきましょや〜、境涯、境涯と日ごろから言われるくらいですからね。
それよりも、一つ聞きたいのですが、創価学会の「三宝」って何ですか。「宗派」って何ですか。仏宝は?法宝は?僧宝は?沖浦さん、教えてください。学会の人、誰も答えてくれないのですよ。あなたなら正しい学会の正しい三宝と宗派を答えられますよね。浄土宗でも、曹洞宗でも、坊さんに聞けば曲がりなりにも答えは返ってきますよ。「正しい日蓮門下」の創価学会なら、私たち「邪宗」である日蓮正宗の信徒にも納得のできる答えができますよね。ぜひお願いしますよ〜。
あと、今回の正本堂裁判の結果を学会はどのように報じますか。まさか「勝った」とは書かないでしょうね(笑)。
もうひとつ、一部の学会員が、今回の都議選での公明党のことを挙げて、「創価学会が正しいから公明党が勝利した」ようなことを書かれていますが、これって政教一致であり、政教分離の原則を記した日本国憲法第20条に抵触するのではないですか。政権握っている政党が憲法違反していいのですか。正しい団体である創価学会なら、正しい見解ができるものと確信しております。
ぜひお願いしますよ〜。
あけぼのさん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月 9日(土)19時10分42秒
ここはそのような内容を論じるところでは無いのですよ。判決がどうこうは余事なのです。
こんばんは 投稿者:あけぼの 投稿日: 7月10日(日)00時18分2秒
沖浦さん、いつ私が判決について「論じる」「論じよう」「論じなさい」と言いましたかねぇ〜。別に論じるつもりもないし、ただ、お望みなら記事をここに掲載しましょうかと述べただけですがねぇ〜
さて、私が聞きたいのは、学会の三宝は何か、宗派はどこか、公明党と学会の関係について、日本国憲法第20条に照らし合わせてどう思うかと言うことであり、ぜひあなたの三宝論と宗派についての見解、学会と公明党について、憲法に照らし合わせてどう考えるか忌憚のない見解を直ちに伺いたいものでありますな。どうぞいつものしゃべりっぷり、饒舌ぶりで遠慮なくここに書き込んでください。あなたならたやすいこと、朝飯前のことでしょうな。何せ学会員としても長年の経験と知識をお持ちであり、公務員としても才覚を発揮され、「円満退職」されるまで職務を全うされるほどのおぬしである。お茶の子さいさいでありましょう。
あけぼのさん 投稿者:sinn 投稿日: 7月10日(日)00時32分17秒
彼には無理ですよ。遁走王「沖浦外道君」ですからね。仏法の証明を世法に求めながら、仏法の根幹の三宝を明示できない人ですから。
それでいて、「創価学会を支えている人」と卞氏さんから崇められています。創価学会の底が知れます。
あけぼのさん、SINNさんへ。 投稿者:terry 投稿日: 7月10日(日)01時05分
<法論館・別館>管理人のterryでございます。
書き込みしていただきありがとうございます。しかしながら、ここ「本館」は「テーマに則った討論場」になっておりまして、現在のテーマは上記に記載してある通りでございます。あけぼのさんの沖浦さんに対しての投げかけたテーマはここ本館ではなく、「別館・外野館」の方でご提示下さいます様お願い致します。以上です。
terry さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月10日(日)06時20分48秒
ご配慮、感謝いたします。
terry様 投稿者:あけぼの 投稿日: 7月10日(日)16時43分43秒
それは失礼いたしました。沖浦さんにとっては、まさに「あけぼの、ざまぁ〜」でしょうな(苦笑)。テーマをよく把握しておりませんでした。もっとも、このテーマでは私には難し過ぎますが・・・(苦笑)。
私もsinnさんも、学会の破折目的であることは管理人さんとしてご理解いただけるものと思っておりますが、一部に場所違いの書き込みがあったことは認めます。どうぞ寛大にしていただければ幸甚ですが、以後またよろしくです。
やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 7月10日(日)16時51分1秒
先ずは、真面目な御答に感謝致します。
>詰まるところ創価学会の教学は法勝人劣なのでしょうか?
当然ながら正宗も学会も「人法体一」「人法一箇」を主張していると理解しています。しかし、貴殿が<詰まるところ>と記されているように、表面上の言葉として「人法一箇」を主張しながら、その教義の理解の奥底では「法勝人劣」が内在しているのに気付けないといこと、是はままあるやも知れません。そういう事を指摘したいのであれば話を伺いたいと思います。
確かに、凡夫日蓮、凡夫本仏、法主本仏、御内証などを強く主張すれば、単純には「法勝人劣」と受け取られかねない部分あるとは思いますが、先に貴殿の意味する「法勝人劣」をもう少し説明頂かない事には何とも申し上げられません。
正宗でも学会でも「法勝人劣」の人と言えば、それこそ「色相荘厳の迹佛」を指す場合が多いと思うのですが・・・
又、六大秘法から論ずる、人と法は、本門の本尊において自受用身即一念三千との体一、出尊形仏自受用身で一箇に決定されるていると、解釈して良いと思っています。
それと、「今日の本因」についての貴殿の引用と説明は本果についての説明になってしまっています。本因を本と今に開いた説明ではないですね。本の本果、今の本果、本の本因まではあるが、今の本因だけは「人法一箇」を理由に、なくても良いと言うことでしょうか?本因妙教主日蓮は「久遠本有名字即仏」、「久遠元初自受用報仏」でしょう。末法応現日蓮の入る余地はないと思うのですが。
人本尊は、元初自受用報身の「再誕」であり一大秘法に纏められるが、本迹一致という事ではないので、法(下種題目)勝人(再誕日蓮)劣という論法には向かわないと思います。
>[本従]の義については大筋は了解されるのでしょうか?
貴殿は、「日顕猊下が本因妙教主である」と考えますか?思う思わないの個人的見解で結構です。それからでないと大筋もなにも了解出来ません。
あけぼのさん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月11日(月)08時22分23秒
「あけぼの、ざまぁ〜」そんな事は思いませんよ。それよりこの掲示板の内容に従って会話を致しましょう。他の板で罵りあうより、ずっと為になると思います。私が法華講系の掲示板に来る理由の一つは、語るに足る、法華講員を探す事。です。他所で罵りあうより、ここで真面目に仏法について語るべきです。人生などはアッと言う間ですよ。貴方のお身体が少しでもよくなれば私は嬉しく思いますし、ご不幸があれば私にとっても悲しい事です。仏法とはそう言う教えです。
私は鈴木法主の臨終を激しく責めておりますが、別に恨みがあるわけではありません。法の正邪における現証。としてあげているのです。朝晩の勤行唱題の時、鈴木法主のご冥福を心から祈っておりますよ。蓮祖門下ですからそうあるべきだと思っているのです。罵りあっても、根底に慈悲の一念が無ければ修羅ですね。お互いに気をつけたいものです。 では、では。
おはようございます 投稿者:あけぼの 投稿日: 7月11日(月)09時02分15秒
沖浦さん、果たしてそれは本心か私には大いに疑問であるところです。今までの書き込みで「鈴木法主のご冥福をお祈りします」という書き込みはまず見たことがない。それに、三宝で答えられなくなり、掲示板での居場所もなくなったのであちこちうろうろしているだけではないのですか。
ここはテーマが設定されておりますし、私はこのテーマについては難解で論じるほどの知識はありませんが、まぁ、ずいぶんのらりくらりとうまくやったものですな。おかげでここに逃げ込むことができた、そしてそのおかげで三宝については、一応法論ができない状態に働き、あなたの有利にはたらいたまで。
話のできる法華講員見つけてどうされるおつもりか、いたぶって楽しむつもりか、それとも正宗にちゃちゃ入れて娯楽にするおつもりか。あなたは向こうでも「正宗が念仏を拝もうと何を拝もうと勝手(主意)」との発言をされているが、べつにそれだけであれば法華講員の掲示板に張り付いている意味はないと思う。あなたも神戸の街は知り尽くしているだろうから、神戸の町で話の通じそうな法華講員探せばよいこと。
聞くところによれば、地元ではほとんどあなたが外で折伏しているのを知る人はいるとかいないとか。ネットに張り付いているほうが多いのではないでしょうか。
まぁ、テーマについてはここの管理人さんにお任せしますが、できることなら三宝論も加えていただければ折伏の材料が多くなりよいのではないかと考えます。まだ沖浦さんからきちんとした三宝の回答もいただいていませんし、龍次郎くんは破折されて撃沈されましたよ。あなたが三宝論についてあそこですみやかに答えていれば、仲間の龍ちゃんも少しは命拾いできたのではないかと思うと哀れでなりません。こちらに戻ってこられたとたん饒舌不利が復活されたようで何よりです。まぁがんばってください。
私はここの今のテーマではまだ理解できるに及んでいませんので、法論できる環境にはありませんので、すみませんが今のところ参加する意志はありません。それを「逃げた」と思うか、どう思われるかは皆さんの自由です。「あけぼのは口ばっかりでなんら教学もない」と思われても私は何も感じませんし、これからも少しずつ教学と知識を身につけるだけです。沖浦さん、あなたも障害者と以前どこかで書いておりましたね、私の体はご本尊様が治されるかどうか決められること、私はその御意に従うのみであります。今まで少しずつ回復してきておりますので、必ずご本尊様は改善してくださるものと確信しております。沖浦さんはいかがですか。少しでも正しい法に触れられ、あなたの身に現証として現れてよい結果となりますことを切に望みます。
あけぼのさん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月11日(月)10時14分3秒
【法論館《別館》】に返事を書いておきます。
やまさん40さん 投稿者:卞氏 投稿日: 7月13日(水)15時58分8秒
お仕事でお忙しいのでしょうか。何かと大変でしょうが、御題目で乗り切っていきましょう。ちょうど、富士宮ボーイの方で仕事と信心の話でもちきりです。時間が御座いましたらお立ちよりください。とてもよい話ですよ。
***
大勝利さんへの返答がありませんが、書置きしておきますので。では。
>[久遠元初自受用報身仏が本仏であり、末法ご出現の日蓮大聖人は久遠本仏の垂迹仏である]ということではないのですか?
または、久遠本仏は下種の教主で、日蓮大聖人は「末法下種の化主」とでも言ったらよいのでしょうか?
前半は良いのですが、後半がすこし・・「化主」ってまた新しい単語を用いなさる。ここではどういう意味で使えばよいのでしょうか?
久遠本仏(=日蓮大聖人)は下種の教主そのもので、「末法下種仏法の化導する主体」として応現した日蓮大聖人の振舞いがそこにあるということでしたら普通に理解できます。発迹顕本以後には、その久遠本仏という本地を表に顕したということですよ。なにか大聖人が変身したということではありません。
***
>私も創価学会の当時には、似たようなとらえかたをしておりましたが、詰まるところ創価学会の教学は法勝人劣なのでしょうか?
「本仏というのは「法」なのですか?」との先ほどの問いかけはここに来ます。学会の教学でも、人本尊(日蓮大聖人)、法本尊(南無妙法蓮華経)を至上のものとしますから、これは動かないのですよ。正宗教学でもそうではありませんでしたか?このあたりの詳細は大勝利氏の発言にもあるとおりで、わたくしも同様におもいます。学会当時、あなたが似たような捉え方をしていたというよりも、なにか学会の言うところとも、正宗教学ともちがう、全く別の捕らえ方をしていたのでは?
まず、結論を言えば、『一念三千即自受用身』の当体がなにかといえば、それは『人間』ですよ。
自受用報身如来とは、三世十方の諸仏の【本源の法】を体現した【本仏】のことを言います。今日では日蓮大聖人ということです。日蓮大聖人が法などとは普通言わないでしょう。
『苦をば苦とさとり 楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へこれあに自受法楽にあらずや、
いよいよ強盛の信力をいたし給へ』 (四条金吾殿御返事)
でしょう?大聖人は「これこそが自受法楽ではないか」と教えて下さっているのです。
***
本従の話を少しします。つまるところ「我が身即三徳究竟の体」に通じてきます。「法楽」とは、仏の悟りを享受する最高絶対の幸福のことですね。大聖人は自ら達したこの境涯、その最高悟りである南無妙法蓮華経そのものである自受法楽を、末代衆生が享受できるようにと御本尊を顕され御書を残されたのですから、結論的にその実践信仰体験の上で、「さて、九界である自分が一体何に従ったがために、この自受法楽の功徳をうけることができたのか?」をその身で実感するしかないでしょう。そして、そういうことを言ってくれる人、教えてくれる人は師ですし、これらは善知識というものです。
ですから、それ以外になにか特別な「本従」を私は知りません。ここで、善知識が本ということではないですよ。師を善知識たらしめる存在こそが本です。
本迹での話もすこししておきます。これは下種に繋がります。これはその実践信仰体験の上で、「九界の凡夫である自分が、何故、また何のためにこの自受法楽を受けさせていただいたのか?」と思索を重ねるのがよいでしょう。「本」を中心として沢山の「迹」が周りに集まってきます。
***
以下も参考に。空仮中を三身に配置できてますよ。有名な三転読みの由来ですね。
***
『第一に是相如と相・性・体・力以下の十を如と云ふ。如と云ふは空の義なるが故に十法界皆空諦なり。是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり。八万四千又は般若とも申す。
第二に如是相是れ我が身の色形顕れたる相なり、是れ皆仮なり。相・性・体・力以下の十なれば、十法界皆仮諦と申して仮の義なり。是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり、又は解脱とも申す。
第三に相如是と云ふは中道と申して仏の法身の形なり。是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり。又は中道とも、法性とも、涅槃とも、寂滅とも申す。
此の三を法・報・応の三身とも、空・仮・中の三諦とも、法身・般若・解脱の三徳とも申す。此の三身如来全く外になし。我が身即三徳究竟の体にて、三身即一身の本覚の仏なり。
』(一念三千法門)
『自受用身とは一念三千なり、伝教云く『一念三千即自受用身』』(御義口伝)
『此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、〈中略〉惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり、
無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云』(御義口伝)
『法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり、〈中略〉さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり』(御義口伝)
『身心の二字色心妙法と伝受するなり、【日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて即身成仏す身心無倦とは一念三千なり】云云』(同)
『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり』(同)
『無上道とは寿量品の無作の三身なり此の外に成就仏身之れ無し、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は成就仏身疑無きなり云云』(同)
『是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり』(同)
***
これだけくどくどと、言われているのに、一体どうやったら、法勝人劣という捕らえ方ができるのかサッパリ分かりませんよ。
沖浦さんの横レスにもあるように、「日蓮大聖人が御本仏」で十分とおもいます。
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月14日(木)06時43分4秒
お元気にされておられますか。
忙しいです。 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 7月14日(木)22時49分14秒
仕事と、土曜の宅御講の準備と、日曜の友人の結婚式の準備で忙殺されております。モデムの不調が解消しましたので、来週は一日おきにはPC卓前に座る時間が作れそうです。
@まず、大勝利さんからの質問に答えましょう。
>貴殿は、「日顕猊下が本因妙教主である」と考えますか?思う思わないの個人的見解で結構です。
「本因妙の教主」は日蓮大聖人御一人でありましょう。
A再度お伺いしたいのですが、お答えいただけますれば有難いと思います。同じく、思う思わないの個人的見解で結構です。
・「本門の本尊」を法本尊と人本尊とに開いた時に、別しては法本尊が勝れる。
・現在(大聖人様の御入滅後)の私達信徒は、御本尊を拝し、宗祖の遺された指南書として御書を師として修行していく。
・久遠元初自受用報身仏が本仏であり、末法ご出現の日蓮大聖人は久遠本仏の垂迹仏である。
というお考えなのでしょうか?
管理人・やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月15日(金)06時53分
ご多忙のようですね。これから暑くなります。ご自愛くださいませ。
やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 7月16日(土)00時21分53秒
お忙しそうで何よりです。御返答はゆっくりで結構です。
>再度お伺いしたいのですが、お答えいただけますれば有難いと思います。同じく、思う思わないの個人的見解で結構です。
・「本門の本尊」を法本尊と人本尊とに開いた時に、別しては法本尊が勝れる。というお考えなのでしょうか?
先に個人的に思う思わないの話をしますが、御義口伝が真書であるか偽書であるか、どちらを前提にとるかなのですが、
小生は、「御義口伝は蓮祖の意を伝えていると思う」です。故に、
>「本門の本尊」を法本尊と人本尊とに開いた時に、別しては法本尊が勝れる。というお考えなのでしょうか?
この質疑に対しての答えは、「NO」です。このような指導を学会で受けた事もありません。
「本門の本尊」を法本尊と人本尊とに開らくと、法本尊は「南無妙法蓮華経の法(経)」人本尊は「南無妙法蓮華経の人(仏)」で各別の義はありません。
繰り返しますが、人本尊を「本因妙教主釈尊」と観る場合に「法勝人劣」を論じ得ると思います。
>現在(大聖人様の御入滅後)の私達信徒は、御本尊を拝し、宗祖の遺された指南書として御書を師として修行していく。というお考えなのでしょうか?
これも小生は「NO」とお答えします。小生は御書を「師」とは考えていません。
>久遠元初自受用報身仏が本仏であり、末法ご出現の日蓮大聖人は久遠本仏の垂迹仏である。というお考えなのでしょうか?
これは「YES」とお答えしておきます。日蓮大聖人という表現が微妙ですが、
「久遠元初自受用報身仏の日蓮大聖人が、迹を垂れて末法に日蓮として出現した」という表現の方が、しっくりするかも知れませんね。
>「本因妙の教主」は日蓮大聖人御一人でありましょう。
さて、貴殿のこの御解答に対して、更に質問を続けてさせていただきたいと思います。
貴殿等がよく使用する「御内証」とは「内証の寿量品」を指しているのではないですか?
若し「内証の寿量品」肝心内証妙法蓮華経を日顕猊下が譲られたのであれば法仏同体から、やはり「本仏」となるのではありませんか?
何故、日蓮大聖人御一人なのでしょう?
法主本仏論?とやらに言及したいのでしょうか? 投稿者:やまさん40 投稿日: 7月24日(日)21時54分15秒
多忙につきPC机に座る時間もままならない状況で、失礼いたしております。
・・・・・・・・・・
文底内証の寿量品、神力品結要付嘱の実体は、宗祖日蓮大聖人様の御内証の南無妙法蓮華経ですね。
まず、師弟の差別として百六箇条の冒頭にも 『本因妙の教主本門の大師日蓮謹んで之を結要す。万年救護写瓶の弟子日興之を授与す云云。』と、
・大聖人様が仏であり、教主であり、師匠である。
・大聖人様より御内証を付嘱された日興上人以下、代々の法主は万年に亘り法水を継承し法灯を護るべき仏弟子である。
ことを明示されていますね。
・御本仏大聖人様は『本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』と御義口伝に仰せのように人法一体、南無妙法蓮華経の御当体であります。
『久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。』とも仰せでありますように大聖人様が唯一人の『教主』であり、如説修行抄に仰せの『法王』であります。
・日興上人、日目上人以下の御歴代上人様は、御本仏の弟子分であり、御内証・法水をお預かりする法器であり『法主』であります。
なお、本因妙抄の『然りと雖も仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり。』の御文は、
その前の『彼は網目の教相の主、此は大綱首題の主。』の文を受けたものであります。
・・・・・・・・・・
また、御義口伝の真偽に関してですが、二箇相承と同様に真書であっては都合の悪い異流儀の族が「為にする邪難」の一つでありましょう。創価学会も池田博正氏が講義を開始したところを見ると、現在のところは真書と考えているようですね。 (注*池田博正氏は池田大作氏の長男で、創価学会副会長。)
やまさん40さん 投稿者:大勝利 投稿日: 7月30日(土)21時09分15秒
小生こそ、返答が遅れて申し訳なし。
>法主本仏論?とやらに言及したいのでしょうか?
貴殿は、法主本仏を主張したいのだろうと考えておりましたが、どうやらそうではなさそうですね。
>「本因妙の教主」は日蓮大聖人御一人でありましょう。
この発言に表われています。総じてだろうが、別してだろうが、全く同じ御内証であろうが、血脈付属であろうが、「歴代法主(猊下)は本仏でない」との意味に受け取りましたが。言い方を変えると、「厳密には猊下、貫主と<法主>とではその持つ意味合いが違う」と言えるかも知れません。
小生は、御僧侶を、「尊敬」するという事は吝かでは有りませんが、その人柄、行動に依りましょう。至極一般的かと思いますが・・・。
亦「お預かりする法器」であれば、衆生の内でしょう。
>彼網目 此大綱首題主等 は加筆の可能性あるかも・・・
しかし、貴殿が、猊下本仏論者ではないだろうと、小生は感じましたので、テーマに戻して頂いても結構です。
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 7月31日(日)09時46分33秒
スケジュールに余裕が出ましたら、対話を再開したと存じます。ご多忙のおり、ご自愛下さいませ。
再開しましょう 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日:8月 6日(土)13時09分24秒
*日が開いてしまいましたが、双方からの投稿がありませんでしたので、
なるべくギャラリーの皆さんにも解りやすく仕切り直しましょう。*
このテーマは、学会側諸氏の「凡夫である衆生が本で、化導を垂れる仏が迹」「衆生が主で、仏が従」であるという説に対する
私(法華講側)の「主師親三徳である仏様が、衆生に従う・仕える立場であるというのには道理から言っても無理があるのではありませんか?」
という疑問から始まっています。
私は平成3年に創価学会を脱会し、あらためて法華講員としての信仰を始めてから、人本尊開顕の重書である開目抄が
『夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。』
と始まることに、大聖人様の深い御意(みこころ)があるのではないかと久しく考えています。同じく開目抄には
『王臣を教へて尊卑をさだめ、父母を教へて孝の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依をしらしむ。』
との御言葉がありますが、我々「日蓮が弟子檀那」を自負するものであれば、尊敬と礼をもって主師親に従い仕えることが人の道ではないでしょうか?
開目抄は私達にとっても「仏道に入る心の目を開く抄」であると思うのです。
創価学会の唱える人間中心主義というものが「あくまでも主体は仏法の利益を体現する衆生の側にあって、仏には衆生を得脱させるための存在である。仏は衆生を
成仏させることを目的とする、衆生に法を供養する存在である。」などと考えるのならば、それは仏弟子でも人倫でもない不知恩・下克上の思想であると言わざるを
得ません。人の道に外れるものは畜生であり、仏の教えを信仰する資格のない者であろうと思います。
大聖人様は聖愚問答抄に
『汝此の理を知りながら猶是の語をなす。理の通ぜざるか意の及ばざるか。
我釈尊の遺法をまなび、仏法に肩を入れしより已来、知恩をもて最とし報恩をもて前とす。
世に四恩あり、之を知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす。』
と仰られていますが、私には、学会諸氏がこの人間としての道理を解っていながら、このような説を主張することは、失礼ですが、心と頭が別々になってしまって
いるかのように感じられるのです。
本従ということについて大聖人様は「成仏用心抄」とも呼ばれる曾谷殿御返事に
『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。 (中略)
法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言。』
と、厳しくも解りやすく御教示下さっていますね。仏様は衆生の心田に仏種を植えてくださる三徳であり、
我々は仏様の教えを信を以って頂戴するのでありましょう。
*法華講側、創価学会側、双方からの御意見をお待ちしております*
本当は煩わしいのです 投稿者:みずほの星 投稿日: 8月 6日(土)21時12分31秒
一支国へ、「反論不能みたいだね!もう降参かい?」とは、驚きを通り越して、彼等の幕引の逃げの一手が見え見えだね。こんなところでコジンマリ治まりたいのかい?。バカを言うものではありません。一支国と、薄ら魔愚真愚は逃がしはしません。こ奴等の謗法の息の根を止めるまでは付き合ってあげますョ。
こ奴等は、宗門から現在の「この一凶と」断ぜられ、その逃れがたい謗法集団としての指定を受けた、池田狂に組する謗法の権化のような救い難い人種なのです。こ奴等の仲間は、今となっては、凶悪犯罪者で組織された国家の膿のような存在なのです。
いま、漸く戦後60年を迎えて東京裁判史観の自虐史観ともいうべき、マッカサー教の呪縛から目覚めようとしての動きが顕著に取り沙汰されるこの頃ですが、なんと言っても、それを取り除くて最大の近道は、池田狂の耳障りの良い「平和、人権、護憲」の似非ボランテヤ等の運動を、あり難くない目で睥睨する事です。彼等の唱える「平和、人権、護憲」等の耳障りの良いお題目の裏には、あの反日・侮日の北朝鮮籍の池田公明党の毒牙が隠されているのです。
本来ならば、拙者はこのようなバカというか、池田狂に洗脳された脳なしは相手にしたくないのです。
やまさん40 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月 6日(土)23時25分11秒
何度も言いますが、人間のための宗教ですから当然人間が主ですよ。
みずほの星 さんへ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 8月 6日(土)23時57分
投稿場所をお間違えのようですね。
8月 6日(土)21時12分31秒の書込みは3日経過後に削除させていただきます。
また大変失礼ではありますが
>本来ならば、拙者はこのようなバカというか、池田狂に洗脳された脳なしは相手にしたくないのです。
とのことですが・・・・。私たちにも、このような思いを慈悲心で耐えて折伏して下さったかたがあればこそ、正法の信仰につくことができたのではないでしょうか?と私は考えております。
次回は標題のルールをご覧の上、テーマに沿った投稿をお待ちしておりますので、破邪顕正の折伏精神を存分にふるって下さいませ。
南無と申すは・・・ 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月 7日(日)00時37分57秒
当板の開始時にも確認しましたように、宗教の存在意義は民衆救済の為にこそあることに異論はありません。
しかし三毒強盛の荒凡夫である衆生が仏に対して主徳を具備しているなどということは、道理の上からも通らない僻見です。
仏様は三界の主であり、師匠であり、仏の種を下す親であります。我々衆生は仏に随い修行する仏弟子であり仏子ではないのですか?
『南無と申すは敬ふ心なり、随ふ心なり。』(内房女房御返事)
と。この義理を違える者は不知恩の畜生であります。学会側は諸法実相抄の御文を依文として、「衆生が主」の論を立てるのでしょうから、「衆生が主」の主張を御金言を以って論証していただけますでしょうか?
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月 7日(日)22時55分16秒
>しかし三毒強盛の荒凡夫である衆生が仏に対して主徳を具備しているなどということは、道理の上からも通らない僻見です。
三徳は仏が備えるべきものです。以前も言いましたが教員が免許を持ち、人格を要求されるように、仏には三徳が必要です。でなければ衆生を化導出来ません。但しその三徳を仏に備えさせているのは衆生だ。と、蓮祖は仰せです。
『然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(諸法実相抄)
然しながら、衆生が仏に対して三徳を備えるわけではありません。衆生が三徳を備えれば、それは既に仏です。主とは、主体と言う事です。救済される衆生が主体。この考えが、仏法の卓越したところだと思います。
失礼ですが。 投稿者:卞氏 投稿日: 8月 8日(月)10時17分45秒
失礼ついでですが、率直に述べさせていただきます。
>心と頭が別々になってしまっているかのように感じられるのです。
心の置いてある場所が、貴方をふくめ、あなた方が想像できないところにあるのではないでしょうか。私は、そちらの言説が、現実社会と教学との関係が上手く連携機能していないとの印象を受けます。ですから、論争にはなりえないとの印象をすでに持っていますので、お含み置きください。
***
>「衆生が主」の主張を御金言を以って論証
論証とはなりませんが、考察・思索の種にでもどうぞ。
仏には誓願が有ります。その誓願を果すにあたっての、目的・対象となる主体存在とは、何でしょうか。
その誓願を果すにあたっての、現実的主体行動する者は具体的には、誰でしょうか。
草木も勿論、バクテリアも成仏するのが大石寺の仏法 投稿者:S@法華講 投稿日: 8月 9日(火)01時11分0秒
日蓮大聖人曰く、『草木成仏とは非情の成仏なり。』(草木成仏口決より抜粋)
草や木などでも成仏すると日蓮大聖人様が仰せです。実は私もよく近所の人が飼っている猫や、部屋に出没した蚊などに「お前、こんどは信心できる境界に生まれろよ。南無妙法蓮華経」と語りかけてやります。
これは私の菩提寺の御住職より教えて戴いたことですが、日蓮正宗に於いては、御僧侶は法話をされるときに信者さんが一人も来なかった時も、本堂で悠々と御説法出来るようになれば一人前だと云われているそうです。何故かと云えば、そこに人は居なくとも、外にいる鳥や虫、木々や花々、バクテリアに至る微生物までも無数の衆生が耳を傾けるからです。
同じく日蓮大聖人曰く、
『我等一身に有情非情具足せり。爪と髪とは非情なり、き(切)るにもいた(痛)まず、其の外は有情なれば切るにもいたみ、くるしむなり。一身所具の有情非情なり。此の有情非情、十如是の因果の二法を具足せり。衆生世間・五陰世間・国土世間、此の三世間有情非情なり。一念三千の法門をふりすすぎたてるは大曼陀羅なり。当世の習いそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり。』(草木成仏口決より抜粋)
仏法は一切衆生が成仏するための法であり、人間の創り上げた人間の為の法ではありません。一切衆生とはミクロは素粒子からマクロは銀河系など、その範囲は想像を絶するものです。考えてみれば我々の肉体も、数え切れないほど多くの細胞から成り立っていますし、その細胞を構成する物質も一つ一つは非情です。人が集まって家族や社会、国家が成り立ち、それを包む地球という衆生もありますね。
我々が大御本尊を拝せることが、何と有り難い事でしょうか。
下種先は無尽蔵にあります。お題目を唱える時も、自分に縁のある全ての衆生にお題目を聞いて貰えば縁になると考えれば、何とドラマチックで楽しい事でしょう。
管理人殿 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月 9日(火)06時41分15秒
S@法華講 さんの書き込みはテーマと無関係です。警告と善処をお願い致します。
よく読んでみましょう 投稿者:やまさん40 投稿日:8月11日(木)22時58分54秒
沖浦様、警告と善処の必要はありません。聖愚問答抄に曰く
『先づ汝目をふさぎ心を静めて道理を思へ。』
と。S@法華講さんの投稿を落ち着いてよく読んでみましょう。卞氏の
>論証とはなりませんが、考察・思索の種にでもどうぞ。仏には誓願が有ります。その誓願を果すにあたっての、目的・対象となる主体存在とは、何でしょうか。
その誓願を果すにあたっての、現実的主体行動する者は具体的には、誰でしょうか。
のお誘いをうけての投稿であることが、お解りになられると思います。
やまさん40 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月12日(金)00時22分6秒
ご自由にどうぞ。
そうですか。 投稿者:卞氏 投稿日: 8月12日(金)10時16分36秒
そういう意味の御回答だったとは知りませんでした。関連があるというのであれば整理だけさせていただきます。
@目的・対象となる主体存在とは?
・・・猫、蚊、バクテリア、外の虫、植物。
A現実的主体行動する者は具体的には、誰
・・・>実は私もよく近所の人が飼っている猫や、部屋に出没した蚊などに「お前、こんどは信心できる境界に生まれろよ。南無妙法蓮華経」と
語りかけてやります。
というS@法華講さん自身が一つ。
>信者さんが一人も来なかった時も、本堂で悠々と御説法するという一人前の僧侶。
がもう一つ。でよろしいですね。
(無題) 投稿者:法華講のおばちゃん 投稿日: 8月13日(土)14時50分28秒
生命は永遠。因縁果報によって、生死の中で、さまざまな生命体になる。
でも外道はこのことがわからない。このことが、完璧にわかっておられる方は、仏様だけ。そして現在では、それを御付属受けられている、日顕上人猊下様だけです。池田大作が知っているのは、【暑い寒い、朝が来た夜が来た、】くらいでしょう。
法華講の方で、 投稿者:大勝利 投稿日: 8月13日(土)19時28分31秒
>生命は永遠。因縁果報によって、生死の中で、さまざまな生命体になる。でも外道はこのことがわからない。このことが、完璧にわかっておられる方は、仏様だけ。そして現在では、それを御付属受けられている、日顕上人猊下様だけです。
法華講員で、上記に反論または補足なされる方はおられないのでしょうか?
管理人殿 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月13日(土)23時14分4秒
テーマはやめるのでしょうか?
大勝利様 投稿者:虚空老人 投稿日: 8月13日(土)23時51分35秒
大勝利様、虚空老人@法華講です(ご存知ですよね、笑)。本日はネットは終わりにしようと考えていたのですが…。
>法華講員で、上記に反論または補足なされる方はおられないのでしょうか?
一仏国土一仏これは仏教の原則です。ということでご了解いただけますでしょうか。講員間で争いはしたくありませんのでこれで失礼いたします。
再び、 南無と申すは・・・ 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月14日(日)22時09分29秒
沖浦様からの問い合わせもありましたので、テーマに戻りましょう。
先週お伺いした件。[衆生が主]との主張を、諸法実相抄等の御金言を以って論証される方はおられないようですね。
先週も書きましたが、大聖人様は内房女房御返事に
『南無と申すは敬ふ心なり、随ふ心なり。』
と仰せになられております。敬うべきを敬わず、随うべきに随わぬ者は不知恩の畜生であり、仏弟子を名乗る資格のない者でありましょう。
南無御書には
『南無と申すは月氏の語、此の土にては帰命と申すなり。帰命と申すは天台釈して云はく「命を以て自ら帰す」等云云。
命を法華経にまいらせて仏にはならせ給ふ。』
との仰せがありますが、
・【衆生が主、仏が従】とする創価学会員にとっての帰命とは?
・【妙法蓮華経に南無し奉ること】とは、
どのようなことなのでしょうか?
単に『命を法華経にまいらせて』の御言葉を、「=法本尊への帰命」と解釈なされるのでしょうか?御義口伝には
『帰命に人法之有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは法華経に帰命し奉るなり。』
とも御教示されていますがいかがでしょうか?
やまさん40さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月15日(月)07時55分22秒
>・【衆生が主、仏が従】とする創価学会員にとっての帰命とは?
・【妙法蓮華経に南無し奉ること」とは、どのようなことなのでしょうか?
蓮祖と同様の人生を目指す事でしょう。
やまさん40さん 投稿者:卞氏 投稿日: 8月15日(月)11時19分44秒
>・【衆生が主、仏が従】とする創価学会員にとっての帰命とは?
・【妙法蓮華経に南無し奉ること」とは、どのようなことなのでしょうか?
「とって」というのであれば個人宛にその感ずる所を述べればよいのですね。
であるならば、如我等無異:「我が如く等しくして異なることを無からしめん」ということでしょう。
修行の目的でもあり、修行の根本でもあり。修行の意味付けもここにある。
また、さらなる修行の種にもなる。正師即ち大聖人が不可欠なわけですが、そのように思います。
「諸法実相」の前に 投稿者:大勝利 投稿日: 8月16日(火)17時46分31秒
三世間から先に・・・では「衆生」とは?
天台の摩可止観の第五巻を引用します。(御存知の一念三千の有名な部分です。)
当然、大聖人は止観を熟読していたのですから・・・
「五陰を撮って通じて衆生と称するも、衆生同じからず、三途の陰を撮るは罪苦の衆生なり、人天の陰を撮るは受楽の衆生なり、無漏の陰を撮るは真聖の衆生なり、慈悲の陰を撮るは大士の衆生なり、常住の陰を撮るは尊極の衆生なり。大論にいわく、『衆生の無上なるものは、仏これなり』と。」
衆生世間への説明ではありますが、仏は衆生の内に含むと(観ずる)の意と読みますがどうでしょう?「三十種の世間は悉く心より造る」
「妙法蓮華経に南無し奉ること」とは? 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月17日(水)12時48分32秒
『命を法華経にまいらせて仏にはならせ給ふ。』と。
御本仏日蓮大聖人様への報恩の至誠の発露として、日興上人様・日目上人様が大聖人様にお仕えし、常随給仕の功によって仏意を会得されたことを。
入信間もない、難解な法門も知らぬ熱原農民衆が命をかけて正法信仰を貫いたことを。
>蓮祖と同様の人生を目指す事でしょう。
>修行の目的・根本・意味付け・さらなる修行の種。
>正師即ち大聖人が不可欠
>仏は衆生の内に含むと(観ずる)の意
帰命【身命を仏様に捧げ奉る】とはその程度のもの、自らの功徳の為になすものではございません。
日蓮大聖人様は
『譬へば子の心に親の随ふをば随他意と申す。親の心に子の随ふをば随自意と申す。諸経は随他意なり、仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に。
法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり。』 (新池殿御消息)
と仰せですね。衆生が自身の考えなりに懸命に修行に励み、仏と同じように生きようと努力すること自体は尊い心がけでありましょう。
しかし成仏の鍵は、仏様がその衆生の厚い信仰心と修行をお認めになり、お受け取りになられるかどうかにあり、仏意に叶う信心に励むことが大切なのです。
御義口伝・勧持品十三箇の大事に曰く
『法華経に順ずるは敬順仏意なり。意とは南無妙法蓮華経是なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは敬順仏意の意なり。 』
あなたがた創価学会員は池田名誉会長(沖浦様には戸田二代会長でしたね)を師匠として、
会長先生の手駒となり「師命に殉ずるは本望」との覚悟をもって信仰しているのではなかったのですか?
あなたがたは、自らの師と仰ぐ会長先生に対しても、[学会員が主・会長先生は従である]とは言いますまいが、いかがなものなのでしょうか?
やまさん40さん。 投稿者:卞氏 投稿日: 8月17日(水)14時01分42秒
>自らの師と仰ぐ会長先生に対しても、[学会員が主・会長先生は従である]とは言いますまいが、いかがなものなのでしょうか?
言いますよ。なにしろ本人がそのように申しておりますから。戸田先生もその意味の発言をなさっています。異体同心なれば、私は「従」で良いのです。
何度も言うようですが、沖浦氏からの主従の主は「目的とする主」の話です。
仏の本懐と、衆生の目的 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月17日(水)16時51分
>何度も言うようですが、沖浦氏からの主従の主は「目的とする主」の話です。
沖浦様は次のように説明していましたね。
>衆生がいなければ仏は絶対に出現されません。仏が存在するために、衆生は決して欠かせないのです。衆生がいないところに、どのようなな仏が出ても何のいみもあ りません。法を広める対象がいないからです。
ところが、衆生はほとけがいなくてもいくらでも出現します。衆生の存在に仏は絶対条件ではないのです。
立ち場から言えば、衆生の存在あっての仏です。衆生が主、仏が従。
寿量品に「衆生所遊楽」の経文があります。衆生が娑婆世界に生まれてくる目的は、法悦に浴することにある。
正法に縁し、信じ、修行して一生成仏の果報を得るということですね。また仏は衆生救済を目的として出世し、
仏と衆生の双方の目的が合致するところに仏教があるわけです。
更に見ていけば、一生涯仏法に縁することなく、また正法に縁しても信ずることなく、信じても全う出来ずに死んでいく衆生もあります。
衆生は仏と無関係にいくらでも出現するでしょうが、六道輪廻の苦海に浸かった人生を送るのみです。
それでは衆生にとっての出世の目的を遂げることはできません。
仏様は救済のために衆生に法を説かれますが、いつでも衆生の機に叶った随他意の教えを説くわけではありませんね。
随自意の教えは、真実の教法=随自意の教えを説くための権の教えでしょう。
随自意の教えを説き、衆生に仏果を得させしむることが、仏が出現して法を説く目的であるわけです。
仏教では師弟相対の信心ということを重要視いたします。
この師弟相対の信心の根底には、法を説かれる仏に対する知恩報恩の心がなくてはならないことは、開目抄の冒頭を拝しても了解されるでしょう。
私たち衆生にとって、法をお説きになり、救済してくださる仏様を主師親と仰ぎ、真心をもってお仕えする。
また、「折伏は仏様のお使いの心で」といわれるのも、弟子旦那は本師である仏様の従者として法を広める地涌の眷属であるからです。
教えを受ける私達衆生の立ち場から、「衆生の存在あっての仏」「衆生が主、仏が従」などと言って憚らない心は、非礼を通り越した慢心であります。
創価学会のいう師弟相対とは? 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月17日(水)16時57分57秒
諸宗問答抄に曰く
『修多羅の教は月をさす指の如しと云ふは、月を見て後は徒者と云ふ義なるか。若し其の義にて候はゞ、御辺の親も徒者と云ふ義か。
又師匠は弟子の為に徒者か、又大地は徒者か、又天は徒者か。如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ、
御辺を出生して後はなにかせん。人の師は物を習ひ取るまでこそ用なれ、習ひ取って後は無用なり。
夫天は雨露を下すまでこそあれ、雨ふりて後は天無用なり。大地は草木を出生せんが為なり、草木を出生して後は大地無用なりと云はん者の如し。
是を世俗の者の譬へに、喉過ぎぬればあつさわすれ、病愈えぬれば医師をわすると云ふらん。譬へに少しも違はず相似たり。』
と、大聖人様は禅宗の謗法を破していますが、
創価学会のいう師弟相対とは、「妙法の題目を知れば仏と衆生は対等」と錯覚し、
「衆生が主・仏が従」などと倒錯した、仏法を滅する外道義である。
学会が主・会員は従 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月17日(水)17時08分44秒
>言いますよ。なにしろ本人がそのように申しておりますから。
池田会長(当時)は、
「学会っ子は名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。奴隷のように学会につかえよ、それが御本尊様につかえる事だ。」
(昭和46年7/8・第50回社長会)
とも申しておりますね。
やまさん40 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月17日(水)22時47分13秒
>あなたがたは、自らの師と仰ぐ会長先生に対しても、[学会員が主・会長先生は従である]とは言いますまいが、いかがなものなのでしょうか?
当然戸田先生が従、池田先生が主。ですね。私にとっては池田先生が従、私が主。当然ですよ。言い換えれば師匠が本果、弟子が本因。簡潔な道理です。
>教えを受ける私達衆生の立ち場から、「衆生の存在あっての仏」「衆生が主、仏が従」などと言って憚らない心は、非礼を通り越した慢心であります。
ここは、道徳教育や低劣な感情論を発表する場所でしょうか?
おやおや 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月17日(水)23時32分19秒
『若し爾らずんば奴婢と為つて持者に奉えよ』(顕立正意抄)
世界に名だたる平等主義者の側面をお持ちの蓮祖も、この様にお仰せです。都合のいいところだけ、引用してはいけませんね。
いいえ 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月17日(水)23時36分43秒
>創価学会のいう師弟相対とは、「妙法の題目を知れば仏と衆生は対等」と錯覚し、「衆生が主・仏が従」などと倒錯した、仏法を滅する外道義である。
大聖人様の教えは、そのような教えなのです。文句は蓮祖にどうぞ。
いやいや 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月17日(水)23時39分19秒
>寿量品に「衆生所遊楽」の経文があります。衆生が娑婆世界に生まれてくる目的は、法悦に浴することにある。
釈迦以来、無量の衆生が地球上に出現しては死んでおります。ところでこの中で法悦に浴したのは何人ぐらいですか?現実を無視してはいけませんよ。
やまさん40 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月17日(水)23時41分20秒
貴方は御書を現実から拝さず、現実を御書に当てはめようとしています。日蓮原理主義者ですよ。
懐を広く、眼を見開いて思索をされるべきですね。でないと進歩を致しませんよ。もったいないです。
Re:>都合のいいところだけ引用してはいけませんね。 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月20日(土)21時50分8秒
顕立正意抄に曰く
『是を免れんと欲せば各薬王・楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山・国王等の如く身を投げ心を仕へよ。
若し爾らずんば五体を地に投げ遍身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんば奴婢となって持者に奉へよ。』
と。この御聖訓は信伏随従よりも更に深く、帰命の信を発すことを御教示されている御文であります。
・薬王菩薩は喜見菩薩としての前世において、法華経を説いて下さった仏の恩を報じる為に、あらゆる宝物を御供養し、
更に我が身に油を塗り千二百年もの間、仏に灯火として身を焼いて捧げた。その後も臂を灯火として八万四千年もの長きにわたり仏に御供養をした。
・釈尊の因位・楽法梵志は、仏の一偈を聴くために皮をはいで紙とし、骨を抜いて筆とし、血を墨として書写した。
・釈尊の因位・雪山童子は、鬼人から「諸行無常 是生滅法」の半偈を聴き、残る半偈を聴くために身を飢える鬼人に捧げた。
鬼人は帝釈であり、残る半偈は「生滅滅已 寂滅為楽」である。
・釈尊の因位・檀王は、正法を求める為に王位を捨て阿私仙人の弟子となり、薪や果を採り、水を汲み給仕し、時には身をもって師の状座となし、
千年の間給仕につとめ、ついに仏果を得た。阿私仙人は釈尊在世の提婆達多。
勅撰和歌集に「法華経を我が得しことは薪こり菜つみ水汲み仕へてぞ得し」と詠んだ聖武天皇の古歌で知られる。
沖浦様は御聖訓中の『珍宝を以て仏前に積め』の御文を「仏が珍宝を衆生に積む」と読み、『持者』の語を「侍者」とでも読み間違いをしていらっしゃるのではありませんか?都合のいいところだけ引用してはいけませんね。御書は「御書という本」で拝することが教学研鑚の基本ですよ。御書を拝しても仏意を理解しようとせず、近視眼的に現世利益に囚われるから、「妙法の題目を知れば仏と衆生は対等」と錯覚し、「衆生が主・仏が従」などと倒錯して、このような催尊入卑の愚を犯すのですよ。
この御文の直前には
『日蓮が弟子等も亦是くの如し。或は信じ或は伏し、或は随ひ或は従ふ。但名のみ之を仮りて心中に染まらざる信心薄き者は、設ひ千劫をば経ずとも或は一無間或は二無間乃至十百無間疑ひ無からん者か。』
と仰せであり、後には
『我が弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず等云云。』
と大聖人様は御抄を結ばれているのです。
やまさん40 さん 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月20日(土)23時25分51秒
>沖浦様は御聖訓中の『珍宝を以て仏前に積め』の御文を「仏が珍宝を衆生に積む」と読み、
『持者』の語を『侍者』とでも読み間違いをしていらっしゃるのではありませんか?
しておりませんよ。修行は衆生がするものです。仏は衆生の修行を助けるのです。
『是を免れんと欲せば各薬王・楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山・国王等の如く身を投げ心を仕へよ。
若し爾らずんば五体を地に投げ遍身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんば奴婢となって持者に奉へよ。』
当然これは衆生の修行の種類です。しかし、貴方はおかしな解釈をされますね。
>この御文の直前には『日蓮が弟子等も亦是くの如し。或は信じ或は伏し、或は随ひ或 は従ふ。但名のみ之を仮りて心中に染まらざる信心薄き者は、設ひ千劫をば経ずとも或 は一無間或は二無間乃至十百無間疑ひ無からん者か。』と仰せであり、
後には『我が弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我 を恨むべからず等云云。』と大聖人様は御抄を結ばれているのです。
このご文の何処が、衆生が主、仏が迹と矛盾をしますか?いま少し論理的にお述べ下さいませ。
結論から言いますと、戸田先生が蓮祖とご同様のおかた、池田先生が興師とご同様のご存在。と、捉える私の立場からは、貴方のご引用の池田先生のご指導は、
社長と言う世間では増上慢に陥り、民衆を見下ろしやすい立場の創価学会員に対する戒めを込めたご指導。と、して当然のお言葉です。何の不思議もありません。
仏道に入る以前の問題ですね 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月21日(日)01時45分29秒
開目抄に曰く
『礼楽等を教へて、内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため、王臣を教へて尊卑をさだめ、父母を教へて孝の高きことをしらしめ、
師匠を教へて帰依をしらしむ。妙楽大師云はく「仏教の流化実に茲に頼る。礼楽前に駆せて真道後に啓く」等云云。』
礼を弁えぬ者は、仏門に入る以前の機根であり、大聖人様は
『神は非礼を稟けたまはず』(北条時宗への御状)
とも仰せです。
また、確かに修行は衆生がするものですが、衆生は誰の弟子となり、誰に随従して修行を進めるのでしょうか?
先程も顕立正意抄の御文を引いて説明をさせていただきましたが、薬王菩薩・楽法梵志・雪山童子・須頭檀王は、『持者に奉へよ』正法正師にお仕えし、身命を供養し奉って仏果を得ているのです。
『奴婢となって持者に奉へよ』の御文の『持者』の語を『仏道修行者』と解釈して、仏を衆生の修行を助ける役目のコーチ程度に思うのであれば、『五体を地に投げ』身命を捧げて供養したり、『珍宝を以て仏前に積』む必要などないではありませんか?
前後の御文も師匠である大聖人様が、仏道修行に励む弟子檀那に対して
「仏に対して信じ伏し随い従うと口では言いながら、いざ身命に難が及べば臆病になる信心薄き者があるが、
身命を正法正師に捧げる覚悟がなければ正義を会得することは出来ぬぞ。成仏は叶わぬぞ。」
と、仏に対する帰命の信心に立つように戒めておられる御文ではありませんか?
ついでに、文証も無き余談ですが
>戸田先生が蓮祖とご同様のおかた、池田先生が興師とご同様のご存在
でしたら、牧口初代会長は釈尊か久遠古仏にでも配当するのでしょうか?私が学会員だったころには勤行要典の三座の御観念文になぞらえて、初代・二代・三代を大聖人様・日興上人様・日目上人様と並列して創価学会が仏意仏勅の団体とする指導が罷り通っておりましたが・・・。
いずれにしても『文証無きは悉く是邪謂なり』であります。
やはり創価学会のいう師弟相対とは、「妙法の題目を知れば仏と衆生は対等」と錯覚し、「衆生が主・仏が従」などと倒錯した、仏法を滅する外道義でありましょう。
>大聖人様の教えは、そのような教えなのです。文句は蓮祖にどうぞ。 などと逃げ台詞を吐く前に、
>妙法の題目を知れば仏と衆生は対等 また、 >衆生が主・仏が従 が己義でないことを文証を挙げて立証してみて下さい。
決め付けをやめるべきです 投稿者:沖浦克治 投稿日:8月21日(日)06時54分
戦時中、宗門をあげて謗法を受け入れた時、蓮祖の法を守り入獄し殉教されたお方は何方でしたか?出獄後、広宣流布は俺がする。
と、大宣言をし、獅子奮迅の戦いで命を削られたのは何方でしたか?それより700年の昔、全人類の為に命を懸けて戦われ、頸の座に付かれたのは何方でしたか?
その後蓮祖にお供をし、酷寒の佐渡の地で蓮祖をお守りされた方は何方でしたか?
『問うて云く如説修行の行者は現世安穏なるべし何が故ぞ三類の強敵盛んならんや、
答えて云く釈尊は法華経の御為に今度九横の大難に値ひ給ふ、
過去の不軽菩薩は法華経の故に杖木瓦石を蒙り竺の道生は蘇山に流され法道三蔵は面に火印をあてられ
師子尊者は頭をはねられ天台大師は南三北七にあだまれ伝教大師は六宗ににくまれ給へり、
此等の仏菩薩大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり、
此れ等の人人を如説修行の人と云わずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん、』(如説修行抄)
これらの方々は如説修行のお方たちです。行動がそれを証明しているのですよ。理屈ではありません。
>『神は非礼を稟けたまはず』
創価学会員は僧侶を本当に大切にしてきました。僧侶は創価学会員を大事にしてきましたか?
現在宗門法華講は創価学会員御安置の御本尊様を魔札と呼んでいます。これが礼儀ある態度ですか?
法論館別館での法華講の書き込みの、何処に礼儀がありますか?事実が証拠です。
仏(師匠)に衆生(弟子)が帰命することは当然です。私が一度でもそれを否定しましたか?言いがかりはお止め下さい。
仏が従、衆生が主。既に何度も文証を引用済みです。貴方にご理解が無いだけです。御書を読めないのですね。お気の毒に存じます。
牧口先生のお立場に関しては、ご自分でお考えになる以外に無いでしょう。私には、牧口先生が神札を受ける宗門を諌め、
従容として殉教をなされた尊い事実だけで充分です。私は、蓮祖、興師、の御二人、牧口、戸田、池田の三先生方を心より尊敬しております。
もしこの五人のお方の何方でも、沖浦ここから飛び下りて死ね。と、言われればその場で飛び降ります。それでも私は主、この五人のお方々は従です。
私は、蓮祖御図顕の御本尊様には文章の流れを損なわない限り、御本尊様と表現を致します。蓮祖のおん命であられるからです。
それでも尚、私が主、御本尊様は迹です。
私はこの五人のお方々のご発言を引用する際には、『』を用い、他の人々の発言とは区別をしております。
この方々のご発言は、仏のご金言。だからです。それでも尚、私が主です。
(注*編集に際しては『』書きは大聖人様・日興上人様と経文のみに統一した。)
珍説を以って自説と積むか 投稿者:やまさん40 投稿日:8月21日(日)11時53分
まずはテーマに則って、大聖人様の教えが
・「妙法の題目を知れば仏と衆生は対等」と錯覚し、
・「衆生が主・仏が従」などと倒錯するような、そのような教えであることを、いま少し論理的にごをお述べ下さいませ。
>仏(師匠)に衆生(弟子)が帰命することは当然です。
としながら
>仏が従、衆生が主。という前代未聞の珍説。常識的に考えても矛盾しているとしか思えません。それから
>私は、蓮祖、興師、の御二人、牧口、戸田、池田の三先生方を心より尊敬しております。
もしこの五人のお方の何方でも、沖浦ここから飛び下りて死ね。と、言われればその場で飛び降ります。
>この方々のご発言は、仏のご金言だからです。
三会長も立派な方だと思いますし、沖浦様が誰を心より尊敬するのも自由ですから否定はしません。
しかし、帰命とは成仏の直道に対し奉る信仰心であって、尊敬することと帰命・信仰の対象とすることとは次元が異なるのではないでしょうか?
三会長といえども人師なのではありませんか?
ともあれ、これが沖浦様にとっての[帰命=仏の金言に従い身命を奉る信心]ということなのですね?実に立派な心がけであると敬服いたします。
そこでお伺いしたいのですが、
・【血脈付法の日興上人様は、自らが本。御本仏日蓮大聖人を従。として修行して仏意を会得されたのでしょうか?】
・【牧口・戸田・池田の三会長は、それぞれ誰を従として、本である自らが帰命の対象とされるほどの境界を開いたと言うのでしょうか?】
・【同じ会長職でありながら、4代・北条氏と5代・秋谷氏は、なぜ帰命の対象とならないのでしょうか?】
ご多忙のところ申し訳ありませんが、迷妄愚暗を晴らすため、是非に成仏の直道に連なる道をご解説いただけますれば有難く存じます。
もうやめましょうか? 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月21日(日)22時58分43秒
>まずはテーマに則って、大聖人様の教えが「妙法の題目を知れば仏と衆生は対等」と錯覚し、
「衆生が主・仏が従」などと倒錯するような、そのような教えであることを、いま少し論理的にごをお述べ下さいませ。
錯覚も、倒錯もしておりません。先ず、この件を謝罪してください。
また、今一度この様な低劣な決め付けをされるなら、対話は打ち切ります。
同意します。 投稿者:卞氏 投稿日: 8月22日(月)14時04分33秒
こんにちは。下記沖浦氏の発言に同意します。
沖浦氏曰く
>貴方のご引用の池田先生のご指導は、社長と言う世間では増上慢に陥り、民衆を見下ろしやすい立場の創価学会員に対する戒めを込めたご指導。
と、して当然のお言葉です。
「学会っ子は名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。
奴隷のように学会につかえよ、それが御本尊様につかえる事だ。」
やまさん40さんが直接受けた指導なのかどうか定かではありませんが、大文字にしてまで強調するその意図が理解しかねます。
私は又聞きでしたが、印象に残る指導です。 学会はこういうところ素晴らしい団体ですね。その指導者もまた素晴らしいですね。
青年たちが黙々と学会のために、会員のために、延いては社会のためにと五体を投げ打って活躍する様は感動的です。
また、そういう青年には心からの労いをしたいと常々思っています。
創価説の解説は? 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月26日(金)18時56分6秒
あなた方の説が正義であるならば、私は謝罪することも吝かではありません。
それどころか、正義を教えて下さったお礼を申し上げ改宗せねばならないでしょう。
御本尊様に具わる人法一体の義を否定して「幸福製造機」などと簡単に催尊入卑して喩えとしてしまう創価学会の仏法からは、
御本尊様の前に端座合掌し、口には「南無」と帰命を唱えながら、
仏様を「衆生に奉仕する存在」「唱題の的・・・祈願成就の祈祷札」と捉えることが当然といえば当然なのでしょう。
>仏(師匠)に衆生(弟子)が帰命することは当然です。
としながら
>仏が従、衆生が主。
という珍説・・・創価説が、仏教の、また人間としての道義に叶い、倒錯でも錯覚でもないと言うならば、再度お伺いしましょう。
【「日蓮大聖人様の教え」「仏教における帰命の義」また「師弟相対」というものが
・妙法の題目を知れば仏(御本仏)と衆生(弟子檀那)は、もはや対等の存在である。
その後は(それ以前も?)衆生(弟子檀那)が主・仏(御本仏)が従というようなものであることを文証を引いてお述べ下さいませ。】
また、これに明快な答えが示せるのならば
【・血脈付法の日興上人様は、自らが本。御本仏日蓮大聖人を従。として修行して仏意を会得されたのでしょうか?】
【・牧口・戸田・池田の三会長は、それぞれ誰を従として、本である 自らが帰命の対象とされるほどの境界を開いたと言うのでしょうか?】
【・同じ会長職でありながら、4代・北条氏と5代・秋谷氏は、なぜ帰命の対象とならないのでしょうか?】
の問いにも矛盾なく容易にご回答いただけることと存知ます。
学会っ子は名前もいらない・・・ 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月26日(金)19時26分48秒
「学会っ子は名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。
奴隷のように学会につかえよ、それが御本尊様につかえる事だ。」
(昭和46年7/8・第50回社長会)
「学会っ子」を「末端学会員」と採るか、「学会外郭企業の社長」と採るかの違いでしょう。
幹部や社長でも、池田会長の境界から見たら「小僧」同然なのでしょうね。
いずれにしても、これが御書に通達するお方の発言であれば、
顕立正意抄の『奴婢となって持者に奉へよ』の御聖訓になぞらえたものであると読むのは不自然ではありますまい。
ましてや最高指揮官の言であれば、「学会につかえよ」の語を具体的に「私につかえよ」と意訳することも容易なことでありましょう。
勘違いしないようにね 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月26日(金)23時10分31秒
>あなた方の説が正義であるならば、私は謝罪することも吝かではありません。
正義云々ではありません。低劣な決め付けを謝罪すべきだとしてきしております。
>それどころか、正義を教えて下さったお礼を申し上げ改宗せねばならないでしょう。
貴方が改宗するしないには興味がありません。私は創価学会を去った人に再入会をしてほしくはありません。
無論信教の自由がありますから、私は貴方の再入会を拒否できる立場にはありません。
然しながら、出て行った人が帰ってくる必要を感じません。
貴方が低劣な決め付けを謝罪されない限り、貴方との会話は再会いたしません。
低劣な決め付け? 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月27日(土)01時21分17秒
謝罪すべきだと指摘するのならば、
>御本仏日蓮大聖人様の教えは、「妙法の題目を知れば仏と衆生は対等」と錯覚する外道義でもなく、
「衆生が主・仏が従」などと倒錯した下克上の教えでもありません。
という私の指摘が低劣な決め付に過ぎない事を、[あなたの言う諸仏]の金言を以って論証してごらんなさい。
当板は破邪顕正の一棟<破折法論館>であって、摂受(摂引容受)の館ではないのです。
また、この問いに明快な答えが示せるのならば
・血脈付法の日興上人様は、自らが本。御本仏日蓮大聖人を従。として修行して仏意を会得されたのでしょうか?
・牧口・戸田・池田の三会長は、それぞれ誰を従として、本である自らの仏界を開いたと言うのでしょうか?
・同じ会長職でありながら、4代・北条氏と5代・秋谷氏は、なぜ帰命の対象とならないのでしょうか?
の問いにも矛盾なく容易にご回答いただけることと存知ます。この3つの質問は、テーマの従となる問いですから<別館>にてお待ちしております。
開目抄の冒頭にも『夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。』
と説かれるように、御仏意の上から、尊ぶべきを尊び、敬うべきを敬う、人間としての真実の道を説き教え導き悟らせしむるものである。
真実の主師親に帰命し奉ること。この道を外れて真の人間主義は無い。
真実・真理よりも価値・利益(りえき)を重要視する牧口価値論を根底となす創価思想には、
あなた方の発言を見ても感じられるように、人間として大切な知恩報恩の視点が欠落しています。
創価学会の謳う人間主義の実体は「学会員に非ざれば人に非ず、四悪趣の愚衆に過ぎない」という、「学会員が主・学会員以外は従」の選民主義である。
そのあらわれの一つが、あなたの書いた
>貴方が改宗するしないには興味がありません。私は創価学会を去った人に再入会をしてほしくはありません。
無論信教の自由がありますから、私は貴方の再入会を拒否できる立場にはありません。然しながら、出て行った人が帰ってくる必要を感じません。
貴方が低劣な決め付けを謝罪されない限り、貴方との会話は再会いたしません。
の、その言葉。外道義に毒された欺瞞性があらわれていますね。
爾前二乗菩薩不作仏事に曰く
『一切の菩薩必ず四弘誓願を発すべし。其の中の衆生無辺誓願度の願之を満足せざれば、無上菩提誓願証の願又成じ難し。』と。
御義口伝に曰く
『今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉りて日本国の一切衆生を助けんと思ふ』と。
あなたは地涌の流類・日蓮等の類を名乗る資格を自ら放棄するのでしょうか?論証を掲げて法論を再開するもよし。論証を投げ出して法論から退座するもよし。
何かせん 仏の道をきわめずば 犬にも劣らん 人の身にして
でありますから。
意見 投稿者:神様 投稿日: 8月27日(土)04時59分54秒
一つだけ、会長は帰命の対象ではありません。これは日本中の学会員に聞いていただけたらわかります。
法主本仏論も、会長本仏論もあげ足とりの論であることは明白ですね。
貴方との対話は終了いたします 投稿者:沖浦克治 投稿日: 8月27日(土)06時14分37秒
やまさん40様、。貴方との対話は終了いたします。
沖浦さん、去りましたね。 投稿者:卞氏 投稿日: 8月27日(土)10時00分8秒
>ましてや最高指揮官の言であれば、「学会につかえよ」の語を具体的に「私につかえよ」と意訳することも容易なことでありましょう。
ふつうの学会員であれば、そんな風には捉えませんよ。それもまた、貴方の決め付けですか?
沖浦さん去りましたね。
神様<
法主本仏論は、「法主は大聖人と御内証が同じ」「戒壇と不ニの尊体」という個人見解ではなくて公式の発言に見られると思うが如何か?
否定するつもりなら、その行いで示してもらいたいものとおもうがいかがでしょうか。そしてそれは単なる上げ足とりでしょうか?
以下は、「地涌」からのものであり、たまたま見つけたが、私も同様のことをリアルタイムで聞いている。
ここでは示すだけにします。何かコメントがあったら裏にでもお願いします。
(注*「地涌」は平成3年初頭より毎朝、日蓮正宗寺院へ発信人匿名で一斉送信され続けた宗門批判の怪文書。「地涌からの通信」として出版され
学会内部ではテキストに使用し学習会も行われた。参考としては、http://www.houonsha.co.jp/jiyu/index.html に全記録がUPされている。
* 「裏」とは学会系BBS富士宮ボーイ掲示板http://fboybbs.dip.jp/のこと)
***
日蓮正宗総監・藤本日潤が、九月十三日の「御講」終了後に、地元創価学会幹部と話し合いをした。その際、日蓮正宗能化七名による創価学会側への回答書(以下「能化文書」と称する)を否定する発言をしていたことが判明した。
東京・墨田区の創価学会幹部は、「能化文書」の、「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」(『大日蓮』九月号)というくだりについて、総監・藤本日潤の見解を求めた。
それに対して総監・藤本は要旨、次のように答えた。「日蓮正宗は、今も昔も法主本仏論など言ってない。(能化)文書の中にある『戒壇の大御本尊と不二の尊体』『この根本の二つに対する信心は、絶対でなければならない』は、法主本仏論を示すものではない」総監・藤本は詭弁を弄している。「能化文書」の言うように、「唯授一人の血脈の当処」が「戒壇の大御本尊」と「不二の尊体」であれば、論理的帰結として、代々の御法主上人と戒壇の大御本尊が「不二」だということになる。戒壇の大御本尊と「不二」の法主が、総監・藤本の言うように本仏でなければ、戒壇の大御本尊もまた同様ということになってしまう。総監・藤本の弁は、論理的に完全に破綻しているのだ。総監・藤本は先の弁につづき、次のことを強調した。「歴代の猊下は大聖人ではない」(要旨)「猊下は絶対ではない」(要旨)いまの日蓮正宗中枢としては、なかなかに勇気のある正直な発言である。総監・藤本は、その教義解釈を宗内に徹底すると同時に、みずからもそれに基づき宗政に携わる必要があるだろう。
このごく当たり前のことを、いまの宗門は見失ってしまっているのだ。やみくもに猊下の権威をふりかざし、信徒に平伏することを強いる僧ばかりである。 それにしてもこの発言は、総監みずからが、「能化文書」の先に引用した箇所を否定したことになる。しかもその箇所は、現在、日蓮正宗と創価学会との間に起きている教義解釈の根本的な問題点である。猊下が絶対的なものでなく、相対的なものと見るならば、猊下が過ちを犯すことも、総監・藤本の考え方の中で充分に納得できるはずだ。現に日顕上人は、数限りない過ちを犯している。「猊下は絶対ではない」と総監みずから認めたのだから、今後、日蓮正宗宗務院は、「猊下に信伏随従することが信心だ」などとは“絶対”に言わないでもらいたい。それとも総監・藤本は、日顕上人同様、両舌(二枚舌)を用いるつもりだろうか。
かつて総監・藤本が、創価学会側に「総監は以前、猊下は『C作戦』を知らないと言っていたが、実際は知っていたではないか」と追及されたとき、激したあまり「(『C作戦』を)知っていることと、やることは違うんだ」と、語るに落ちる返事をしたことがあった。この九月十三日の話し合いのとき、創価学会側よりこの発言を追及され、「『C作戦』を知っているというのは昨年(平成二年)の七〜八月を指すのではない。昨年の十二月以降の意味だ。もし『C作戦』を知ったときが昨年夏というふうに間違えて受けとめられたのであれば訂正する」と、これまた苦しい釈明をおこなった。この総監・藤本の発言もまた語るに落ちる内容だ。「昨年(平成二年)の十二月以降に知った」とは、これまた重大発言である。「(平成三年)一月以降」ではなく、「十二月以降」という言葉を使ったことに重大な意味がある。総監・藤本は、「いつ」「どこで」「C作戦」を知ったのだろうか。「C作戦」が公になったのは、『週刊朝日』(平成三年一月二十五日号)の報道が最初である。「このC作戦を起案したグループの中心人物の一人は、知人に出した私信の中で、『C作戦中止のために裏切らざるをえなかった人々のことを思い、ホテルで泣きました』と書いている。もっとも、実行されていたら、いま程度の騒ぎではすまなかったろう。現に、『地獄絵図が繰り広げられていただろう』とも書かれていた」(『週刊朝日』平成三年一月二十五日号より一部引用)この『週刊朝日』が発売されたのが、(平成三年)一月十八日である。この『週刊朝日』の記事は、当時、日蓮正宗海外部書記だった福田毅道が、創価学会側に「宣戦布告」のFAX文書を一月二日に送ったが、その中に記述された「C作戦」にかかわる文を参考に記述したものだ。本紙『地涌』が「C作戦」の真相を公表したのは、一月十五日(第15号)である。本紙編集部は、日蓮正宗と創価学会とが「修復しがたい関係」となることを懸念して、事実をつかんでいながら、その公表を差し控えていたのだ。総監・藤本の話した、「十二月以降」とは具体的に「いつ」であろうか。「十二月以降」とは、「昨年十二月より今日まで」といった回答では誰も納得しない。「(『C作戦』を)知っていることと、やることは違うんだ」と総監・藤本が発言した経緯からしても、「C作戦」が断行された十二月二十七日(池田総講頭解任)以前には、すでに総監・藤本は「C作戦」を知っていたと思われるのだ。総監・藤本としては、「『C作戦』はたしかに知ってはいたが、我々は実行していない。池田総講頭解任は、単に規約改正によるものだ」と主張したかったのではあるまいか。
「御講」終了後の創価学会幹部との話し合いの中で、妙観講(指導教師・理境坊小川只道)が話題にのぼった。このとき、総監・藤本は、「妙観講に行き過ぎがあれば注意する」と約束した。今後、全国的に妙観講に行き過ぎがあった場合は、直接、総監・藤本日潤に連絡をとるのが賢明といえよう。妙観講が「猊下は絶対だ」と言えば、東京・墨田区の常泉寺に行くように話そう。
日蓮正宗中枢と法華講とでは、教義の上で不一致があるようだ。
神様さんへ・沖浦様へ 投稿者:管理人・やまさん40 投稿日: 8月27日(土)10時08分51秒
神様さんへ
当板では初めてになりますね。正法護持の者を守護する「善神」のように、学会説擁護のために投稿をされたのでしょう。
せっかくのご意見をいただいたのですが、先に当板冒頭のルールをお読みくださいませ。
あなたの書かれた文面を読めば学会員であることはわかりますが、他人の家を訪ねる時は「これこれこういう者です」と名乗るように、
当板は折伏法論の板ですから、最初の投稿時には自宗を明らかにしましょう。
>会長は帰命の対象ではありません。これは日本中の学会員に聞いていただけたらわかります。
とのことですが、私が問い質しているのは、沖浦様が自身を雪山童子になぞらえて[身命を奉る]とした
>私は、蓮祖、興師、の御二人、牧口、戸田、池田の三先生方を心より尊敬しております。
もしこの五人のお方の何方でも、沖浦ここから飛び下りて死ね。と、言われればその場で飛び降ります。
>私はこの五人のお方々のご発言を引用する際には、『』を用い、他の人々の発言とは区別をしております。この方々のご発言は、仏のご金言。だからです。
との発言についてです。神様さんも沖浦説に同意されますか?また、日本中の学会員に聞いたならば何と答えることでしょうか?
沖浦様へ
何度も言いますが御本仏日蓮大聖人様の教えは、「妙法の題目を知れば仏と衆生は対等」と錯覚する外道義でもなく、
「衆生が主・仏が従」などと倒錯した下克上の教えでもありません。という私の指摘が低劣な決め付に過ぎないというならば、
[あなたの言う諸仏]の金言を以って「妙法の題目を知れば仏と衆生は対等」「衆生が主・仏が従」を論証してごらんなさい。
顕立正意抄に曰く
『彼の不軽軽毀の衆は現身に信伏随従の四字を加ふれども猶先謗の強きに依って先づ阿鼻大城に堕し、千劫を経歴して大苦悩を受く。
今日蓮が弟子等も亦是くの如し。或は信じ或は伏し、或は随ひ或は従ふ。但名のみ之を仮りて心中に染まらざる信心薄き者は、
設ひ千劫をば経ずとも或は一無間或は二無間乃至十百無間疑ひ無からん者か。』
と。[衆生のための仏。仏が迹、衆生が本。]を主張したのは沖浦様の方でしたが、やはり三証をあげての論証など出来ないのでしょう?
それとも9.11に向けて[折伏と同じ功徳のF活動]に忙しいのでしょうか?勢い余って可笑しなことを書くから、このような墓穴を掘り、回答不能に陥るのです。
何かせん 仏の道をきわめずば 犬にも劣らん 人の身にして
沖浦様は、この和歌をご存知ですよね? (注*この年の「9.11」は、平成17年9月11日に行われた衆議院議員総選挙を指す)
卞氏へ 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月27日(土)10時43分40秒
能化文書にある文言が法主本仏論の証拠とする短絡的妄説に対しては、
時局協議会文書作成班一班の作成になる<学会僧七名による「諫暁の書を」粉砕す>において、
宗門から公式に破折済みである。長文の引用はテーマ討論の閲覧の妨げになるのでここには引用しないが、
リンクを挙げておきますので再読していただきたい。 http://www.fsinet.or.jp/~shibuken/SHIRYO/230.htm
なお、[法主本仏論]と[会長本仏論]について云云したいのであれば、沖浦様の棄権試合で宙ぶらりんとなった
【・血脈付法の日興上人様は、自らが本。御本仏日蓮大聖人を従。として修行 して仏意を会得されたのでしょうか?】
【・牧口・戸田・池田の三会長は、それぞれ誰を従として、本である自らの仏界を開いたと言うのでしょうか?】
【・同じ会長職でありながら、初代から三代と、4代・5代との間には、いかなる差別があるのでしょうか?】
について<別館>にて学会側としての説明を先にしていただきたいと思います。
そのリンクは意味なし。 投稿者:卞氏 投稿日: 8月27日(土)11時12分31秒
坊主の行状を問題にしているんですよ。
いくら、「法主本仏論ではありません。そういう意味ではありません。」と言っても、坊主らの行いが信徒蔑視であれば、神様がいうようなあげあしとりなのでも何でもなく、まさに法主を本仏とあがめるかのような宗門体質を浮き彫りにしてやみません。まず、信徒蔑視、坊主が上、法主は偉い、との「行状ありき」です。
***
『総監・藤本は、その教義解釈を宗内に徹底すると同時に、みずからもそれに基づき宗政に携わる必要があるだろう。このごく当たり前のことを、いまの宗門は見失ってしまっているのだ。やみくもに猊下の権威をふりかざし、信徒に平伏することを強いる僧ばかりである。』
というのが、地涌に書かれていた趣旨です。論理破綻については、当時発表時点でのことの指摘です。
その指摘に答えたからといって、坊主が謙虚にならずして、なんの意味があるというのでしょう。したがって、そのリンクは無意味です。
それから、
>・血脈付法の日興上人様は、自らが本。御本仏日蓮大聖人を従。として修行 して仏意を会得されたのでしょうか?
・牧口・戸田・池田の三会長は、それぞれ誰を従として、本である自らの仏界を開いたと言うのでしょうか?
・同じ会長職でありながら、初代から三代と、4代・5代との間には、いかなる差別があるのでしょうか?
について<別館>にて学会側としての説明を先にしていただきたいと思います。
については、沖浦氏に当てたものであるので、私は答える義務を負ってません。私の個人的見解が知りたいのでしたら、富士宮ボーイに来訪してください。
卞氏へ 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月27日(土)11時42分39秒
宗祖日蓮大聖人様は御義口伝に
『法華の行者罵詈せらるゝも忍辱を行ずるは瞋恚の病を除くなり。』
と仰せですね。
>坊主の行状を問題にしているんですよ。
などと狡猾にも僧侶蔑視の言を吐いて挑発しているつもりなのですか?
法主本仏論に焦点を屈折させたいようでしたら、当テーマ進行の妨げになりますので<別館>にてお伺いしましょうか?
>リンクは意味なし。
などと言って目を背けずに一読されて、能化文書にある文言が法主本仏論の証拠とする短絡説と、時局文書の非を、丁寧に論証して下さいませ。
常識論ですから。 投稿者:卞氏 投稿日: 8月27日(土)12時10分13秒
>『法華の行者罵詈せらるゝも忍辱を行ずるは瞋恚の病を除くなり。』と仰せですね。>坊主の行状を問題にしているんですよ。などと
狡猾にも僧侶蔑視の言を吐いて挑発しているつもりなのですか?
違いますよ。ちょうはつではありません。法華経の行者にあるまじき坊主の行状を問題にしているのであって、ただ「法主本仏論」などといった公式発言に対する、あげあしトリではないデスヨとの、神様に対するコメントです。お取り違えをなさるな。
「宗門が法主本仏論を展開している」という指摘は、坊主の行状についてのことなのだから、どんなに、「そういう意味ではない」といっても「正論である」といっても、意味はありません。「悪徳坊主は厳重に注意します。今後の悪法主は解任することにします。法主といえども例外ではありません。」くらいの宗門からの公式発言でもリンクしてもらえれば、一応収まる話です。そこで初めて意味のある話になります。ご理解いただけましたか?
卞氏へ 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月27日(土)16時49分53秒
「法主本仏論」を宗門の公式発言であるとしたいようですが、日應上人様によって破折しおわっている法主本仏論を、
今さら痴犬・驥尾日守の墓穴から百年前の骨を掘り出してDNA鑑定をしても何の意味もないことです。
大聖人様・日興上人様の弟子にあるまじき行状をなす僧侶がいれば、随時に宗門から注意・解任をされています。
14年前に喜んで独立していった他宗の者に問題にされる筋合いはございません。あなた方も日蓮正宗に未練はないのでしょう?
対して、会長以下・創価学会幹部の指導的立場の者にあるまじき幾人か者の行状を、この板でとやかく言う気はありません。
法論とする次元の問題ではありませんし、そんなことは創価学会破門の本質ではないからです。
常識論で考えれば、他宗・他門の僧侶や指導者が個人的に何をしようと、私たちの成仏・不成仏には何ら関わりのないことです。
あなながた創価学会という単一教団の会員諸氏にも、かつて所属した宗派の僧侶がどこで何をしようが、しまいが、
あなたがたの祈願成就・不成就には関わりのない事柄でしょう。穿った見方をすれば、学会の団結を図るという面では利益があるのでしょうが。
しかし大聖人様が曾谷殿御返事(成仏用心抄)に
『謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。』
と御教示されているように、法門に関する邪難、三宝尊に対する誹謗は別です。私たちの成仏・不成仏に直接関わる事柄であるからです。
・・・・・・・・・
今夜より明晩まで、総本山登山のため留守にします。
謝罪 投稿者:神様 投稿日: 8月28日(日)15時12分56秒
不快な思いをされたのならすいません。破門後に生まれた創価学会員の者です。擁護というか、そんな深い発言じゃないです。
ただ、会長は御本仏ではない。という歴然とした事実を誤解されているようなので、書き込ませていただきました。
やまさん40さんの勘違いについて。 投稿者:卞氏 投稿日: 8月30日(火)12時55分44秒
>日應上人様によって破折し了わっている法主本仏論を・・・
ここが勘違いとおもわれます。現法主下による、宗門見解の話をしていた(過去形)に過ぎません。過去に破折しても意味はありません。
法主本仏論なる言い回しは「現法主、現在の坊主らの振舞い」を問うている問題であるということです。そこが勘違いされているところでしょう。
神様の言うとおり、会長本仏論は学会にはありません。やまさん40さんによる同様の勘違いからくる、反論のつもり。言いがかりの類と思われます。
本来的、本迹 投稿者:卞氏 投稿日: 8月30日(火)13時04分30
連投で失礼しますが、テーマに沿い、この本迹を問えば、この「法主は不ニの尊体」という言い方は実は「法主迹仏論」といったほうが妥当なのかもしれません。
ただ、俗的に「本仏」という方が解りやすいため、地涌や新報での内容では「法主は本仏気取り」「法主本仏論を展開」という風に揶揄したものでしょう。
大聖人になぞらえてそう言ったに過ぎないものです。
しかし、それに呼応して会長本仏論を出して、反論してくるあたりが、教学的裏づけのない愚論であることがわかろうというものです。
要するに、行体がどうかと問う手いるだけの話だったのです。一生懸命「本迹」の教義を使って「破折」するのは、いささか、滑稽な手段と見えます。
もし、するならば、「法主はこのように立派である」というものを持ち出してくるべきです。
卞氏さん 投稿者:大勝利 投稿日: 8月30日(火)21時31分56秒
全く同意します。もっと揶揄した言い方で申し訳ないが…
「成仏に法主の取次ぎが必要」であるならば、「法主迹仏論」どころか、「法主受付係論」ですね(笑)
神様さんへ 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月31日(水)00時09分9秒
特に不快な思いをしたわけではありませんので、ご安心ください。また、この位で不快な思いをするようでは現実の折伏(⇔ネット法論)などとても出来ません。
ただ、初稿で宗旨を名乗るというルールを徹底しないと、他の板で見られるように道心なき者の悪戯目的で板が荒れてしまうので、ご注意申し上げたまでです。
会長本仏論ということについてですが、創価学会が公式に「池田名誉会長は御本仏だ。」「池田名誉会長は大聖人様と同じ境界だ。」と表明しているわけではあり
ません。しかし「池田先生は仏の境界なのよ。何でもお見通し。」「先生は成仏している方。会えただけですばらしい功徳がある。」等ということが学会員の常識、
会員内の暗黙の認識であることは、ご存知であると思います。
私は創価学会に所属していた昭和59年〜平成2年の短い間に何度も「池田先生と呼吸を合わせるために、御本尊様にお題目を唱えましょう。」という末端指導を耳に
してきました。最近、脱会された方に聞いたところでは今でも座談会で県幹部等の口からも同じことが話されているとのことです。
大聖人様は御本尊様について
『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。』(経王殿御返事)
と御教示されていますが、御本尊様は御本仏日蓮大聖人様の魂魄であります。御本尊様は、祈願成就の祈祷札でもなく、幸福製造機などでもありません。
御本尊様に唱題するということは、四力合一の功徳によって御本仏日蓮大聖人様の仏界の御命と境智冥合し、
己心の仏界の命を涌現、罪障消滅させていただく有難い修行であります。
「何のために信心をしているのか?」という信仰する目的に関わる大事なことであることはお分かりですね。
その大事な唱題の修行を「先生と呼吸を合わせるために、御本尊様にお題目を唱えましょう。」などと言って指導する事は、
池田名誉会長を御本仏日蓮大聖人様と対等視している、対等視させる(=結果として大聖人様をおとしめる)ような
誤った信仰に導く危険性の高い指導をしている事にはなりませんか?
池田名誉会長と境智冥合するための唱題のように言う末端指導が、会館や座談会において平然と行われていることについて、
あなたはどのように思われますでしょうか?名誉会長と境智冥合することを言ったものではないとしたら、
名誉会長と呼吸を一にすることが御本尊様と境智冥合することに通じるどのような筋道があるのでしょうか?
御在世においても、各地信徒の中心者である南条時光殿や四条金吾殿と呼吸を合わせるために御本尊様にお題目を唱えましょうなどという御指南は御書にありません。
このことは学会員が池田名誉会長を仏の境界の方と思うのかどうか?・・・ということ以上に、御本尊様とは何なのか?という信仰上大変重要な問題です。
卞氏・大勝利さんへ 投稿者:やまさん40 投稿日: 8月31日(水)00時43分22秒
>法主本仏論なる言い回しは「現法主、現在の坊主らの振舞い」を問うている問題であるということです。
>要するに、行体がどうかと問うているだけの話だったのです。
往復文書を再読されたようですね。落ち着いて読んでみれば、能化文書の文言を以って日蓮正宗が法主本仏論を主張している証拠とは断言できない。と、
・・・そういうことでしょう。しかし、
>この「法主は不ニの尊体」という言い方は実は「法主迹仏論」といったほうが妥当なのかもしれません。
>もっと揶揄した言い方で申し訳ないが… 「法主受付係論」ですね(笑)
とのことでしたが、宗祖日蓮大聖人様は
『末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。』(新池御書)
と仰せであります。
まさに「唯授一人の血脈の当処」(能化文書)の法水瀉瓶を受け継がれた御法主・第二祖日興上人様や、学会が現状では認めざるを得ない第26世法主・日寛上人様
までも、御本仏日蓮大聖人様の>迹仏 や >受付係り であると言うのでしょうか?
つまらない揶揄や冗談で僧宝に、またあなた自身の信心に傷をつけるのは止めた方が宜しいかと存じます。
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〜 *中編へ続く* 〜
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