ロイドジョージの虚像と実像


イギリスの第1次大戦の代表的な政治家はこの人だろう。ロイドジョージはそれまでの首相として極めて普通でない経歴をもっていた。第一に大学を出ていない。それまでに大学を出ずに首相になった人物はいた。デイズレリ、ウェリントン公爵は出ていない。しかしこの二人とも行こうと思えば行けたに違いない。

ロイドジョージ

ロイドジョージの実家は本当に息子を大学に行かせる資力がなかった。それだけではない。第二にロイドジョージはイギリス(イングランド)人ではない。ウェールズ人だ。しかもウェールズ語できちんと演説したことがあるくらいの伝統的ウェールズ人だ。そのうえイギリス国教徒ではない。独立教会(自由教会)の信者だ。妻が名門から来たわけでもない。

ロイドジョージは1916年から1922年まで首相を務め、1942年まで下院議員として活躍した。
28歳で代議士に当選した。その前は弁護士だったが事務弁護士で法廷弁護士ではない。仕事は近所の法律相談が中心で将来の選挙区の周辺をカバーしていただけだ。実際のところ一生は政治家としてであってそれ以外ではない。

ロイドジョージは相反する像をもっている。その像毎に解説が必要と思われる。

目次
腐敗政治家
忘恩の徒か?

人民政治家(ポピュリスト)
ニューリベラル
軍師
一匹狼

腐敗政治家

ロイドジョージはイギリスの20世紀の首相のなかでほとんど唯一首相在任時に財産を増やした政治家だろう。イギリスの公僕の給与は安い。ほとんど懲罰的だ。ロイドジョージは実家が貧しく家産による収入はなかった。

これを首相の地位を利用し爵位を売ることによって穴埋めした。現在に至るもこの収入による財産はロイドジョージ基金として残っている。しかしこのサイドビジネスは首相にならねばダメだ。その以前は誰からともなく資金を集めていた。最大のものはアメリカ人の鉄鋼資本家、アンドリュー・カーネギーから得ていたと言われる。

また金銭的支出にルーズだった。ロイドジョージは他の政治家と異なり、カントリーハウス(田舎の別荘)を持たなかった。このため休暇は取り巻きを集め、ブライトンや南仏海岸で過ごした。その費用はすべて国庫から支出されたという。

忘恩の徒か?

1911年蔵相のロイドジョージは健康保険のイギリスへの導入を検討した。この時ロイドジョージは大蔵省のまだ若い役人のブレイスウエイトをドイツに派遣しすでに実施されていた制度を研究させた。ブレイスウエイトは研究を終了しフランスのニースにロイドジョージを訪ね3時間のブリーフィングを行った。こうして現在も余り変わることがない健康保険制度が誕生した。余談ながらこの制度は現在の日本の制度とほぼ同一である。

こうしてブレイスウエイストはほぼ独力でイギリスの健康保険制度を作り上げたが、この仕事が終わったあとロイドジョージはこの若い役人をあまり重要でない所得税徴収の監督官に任命した。20年後、ロイドジョージは偶然ブレイスウエイトと会って話しかけた。「一体今何をやっているかね。」
ブレイスウエイトは答えた。「閣下に命じられた仕事です。」ロイドジョージと一緒に働いた政治家も同じ運命を辿った。

ロイドジョージはチャーチルと最も親しくしていた。チャーチルは1913年のマルコーニ・スキャンダルではロイドジョージを必死になって弁護した。だが1915年にチャーチルがガリポリ上陸作戦で失敗するとロイドジョージはこう言った。「チャーチルはトルコを我々に刃向かわせた男だ。」そして海軍大臣の引きおろし工作に加担した。

パリ講和会議でチャーチルとロイドジョージが同席したとき、ロイドジョージは「ウィンストン」とチャーチルを呼ぶと、チャーチルは脱兎のごとくかけより「イエッサー」と答えていたという。これは日本人の外交官が記録に残した。

ロイドジョージは「トップに友情は存在しない。」と常日頃語ったという。

人民政治家(ポピュリスト)

ロイドジョージは演説を重視した。この当時演説はマイクがなく全て肉声だった。屋外では声が通らず音楽ホールで演説会が設けられた。

しかしロイドジョージは奇妙な性癖を持っていた。まず草稿を用意することがあまりない。そしてなにより聴衆の反応により演説内容が変わるのだった。第1次大戦が終了しロイドジョージは少なくともクレマンソーウィルソンよりドイツへの講和条件は厳しくすべきでないと考えていた。

ところが演説会で「カイザーをつるせ。取れるだけドイツから取れ。」の声が聴衆からあがるとたちまちレモンの種がきしむまでドイツから絞りとれ、とトーンを変えてしまうのだった。

1923年、ロイドジョージは演説の際初めてマイクを使うことを依頼されうやうやしく受け入れた。その時、首相から転落したときだったが、それ以降再度浮上しなかった。ロイドジョージとマイクが関係するかどうか分からない。しかし音楽ホールがマイクによってさびれたことは確実だ。

音楽ホールばかりでなく、新聞にも意を払った。そして新聞記者ばかりでなく社主にも注意した。時には社主に爵位を与えた。ロイドジョージは貴族の称号を与えるとき全く王家の意向を斟酌せず連絡もしなかった初めての首相だ。更に影響力を行使するために新聞社の株式を購入し、御用新聞を発行させた。

また1920年、タイムズの経営が代わったときロイドジョージに編集長となることが示唆された。当然引退後の話しだったが、ロイドジョージはその時首相を辞職しようとした。タイムズの編集長のほうが首相より魅力のあるポストだったようだ。すくなくとも収入は5倍になる。

ニューリベラル

ロイドジョージはボーア戦争に反対し当時のイギリスの帝国主義政策に反対した。1890年代からイギリスは植民地獲得に熱心ではなくなった。少なくともカナダやオーストラリア・ニュージーランドに半独立を認めた。これはグラドストンが主唱したアイルランド自治法案に連続したニューリベラルの一貫した政策だった。ロイドジョージはこの方針の主唱者のように見えた。

大蔵大臣として累進課税や相続税を導入した。人民の平等を確保する目的だった。

ところが1890年代最大の論争だった自由貿易か高率関税か保護貿易かという論争に参加していない。これはなぜだろうか。ロイドジョージは植民地主義を嫌った。ところが自由貿易にも賛成しなかった。当時のイギリスは産業面で徐々にドイツ、フランス、アメリカに敗れつつあった。19世紀は鉄の世紀だった。鉄の原料は鉄鉱石と原料炭だ。ところがイギリスは良質な鉄鉱石を産出せずまた石炭は燃料炭が中心だった。それでも造船業や繊維産業は健闘したが斜陽の憾は否めなかった。

ロイドジョージの出身地南ウェールズは燃料炭のイギリス最大の産地だった。自由貿易に賛成し安い輸入炭によりウェールズを苦しめたくなかった。石油に代替される寸前の産業を守るため何をすべきだったのだろうか。南ウェールズはこの後1980年代嵐のような日本企業の進出まで斜陽工業地帯のままあり続けた。

軍師

イギリスの首相は文民出身でも当然のように軍事作戦に容喙する。そして旧軍の参謀将校はムキになって反対したが、官僚が我が物顔をするいろいろな分野のなかで軍事作戦は最も素人がはいりやすい分野だ。

ナポレオンは軍事と売春ではときどき素人のほうが恐ろしい、と語っている。

ロイドジョージは新設の軍需大臣に任命された。あるホテルが徴用され軍需省の建物となった。スタッフは全て新しく採用せねばならなかった。そしてロイドジョージは普通の政治家と異なりこのゼロから始める仕事を嬉々として実行した。とにかく先例墨守が嫌いな人物だった。

初めの仕事は機関銃の増産だった。BEF司令官のヘイグに必要な量を問い合わせたところ、「機関銃はすこし誇張されすぎたきらいのある武器だ。1大隊(約1000人)あたり2丁もあれば十分だろう。」と答えた。

これを聞いたロイドジョージは「ヘイグの言った数字のうちで最大のものを2乗し2をかけ、そして最後に安全をみて2倍した数字で考えなければダメだ。」と下僚に指示したという。ヘイグの数字の最大のものを4とするとロイドジョージの数字は64となる。休戦時BEFは1大隊当たり43丁の機関銃を所持していた。そしてもっと送れと叫んでいた。

1917年春首相に就任したロイドジョージは難局に直面した。ドイツが無制限潜水艦戦を再開しイギリス商船の被害はウナギ昇りとなった。ロイドジョージは護衛船団方式を主張した。海軍首脳でユトランド海戦の猛将ジェリコは反対した。「スピードの違う商船を一まとめにすることは一番遅い商船のスピードで進むことになる。大きな船団は発見がたやすいうえにスピードが遅いことは退避を難しくする。そのうえ駆逐艦は現在主力艦の護衛で手一杯だ。」

イギリスの対潜作戦

1917年4月ロイドジョージは首相の権威をもって居並ぶ提督に護衛船団方式を命令した。結果は即座の成功だった。単独で航海する商船の被害率は25%だが護衛船団にはいったときは1%以下となった。この命令は画期的なものだった。おそらくこの決定がなければイギリスは太平洋戦争の日本と同一運命を辿った公算が強い。

付言すると太平洋戦争で日本は護衛船団方式を採用したが護衛の駆逐艦が不足していた。商船の護衛としては日本の駆逐艦は巨大すぎまた攻撃力が強すぎた。護衛のための駆逐艦は水上で潜水艦との砲戦に勝てば十分であとは爆雷発射装置があればよい。また大型艦艇に遭遇した際のため速力が必要だ。護衛のため仕様にあった艦船が不足していたのだが第1次大戦のときの旧式駆逐艦が利用できなかったのだろうか。

陸戦ではロイドジョージは連合軍の統一指揮を要求した。連合国が勝てないのは統一した指揮がないためだと言うのである。1917年秋パリ、そしてジェノア(ラッパロ)でこの主張を繰り返した。1918年4月最終的にフォシュを最高司令官とすることが出来たのだが、これは陸軍の猛反対を押しきってのものだった。ロイドジョージは一貫してヘイグを馬鹿にしていた。無能極まりない将軍と思っていたのだろう。その身代わりか参謀総長のロバートソンを革職した。ロバートソンは兵卒からたたきあげて参謀総長にまで上り詰めた人物だ。その事情で兵卒にも人気があったばかりでなく兵站組織能力に優れていた。西部戦線でイギリス軍は最も物資に恵まれていた軍隊であることは疑いない。しかし人事でロイドジョージができたのはそこまでだった。

ロイドジョージは西部戦線の大量出血を嫌っていた。なんとか第2戦線ができないかと模索した。しかし東部戦線が失われた以上ドイツのへの裏門は存在しない。そこでロイドジョージはなんとイタリー戦線を主張した。しかしカポレットの戦いで消耗したイタリー軍に戦う力はなく逆に英仏軍に支えられていた。これは軍師としてのロイドジョージにやや傷を残すものだろう。

一匹おおかみ

ロイドジョージはアスキスに代わり首相に就任した。この政変はイギリスの議会政治では前例がない形で起こった。(…もちろん後にもない。)

アスキス内閣は1915年5月以降、自由党と保守党の連立政権となっていた。ところが1916年の戦況悪化、とりわけ初頭のガリポリ半島撤退とソンム攻勢の失敗は従来の戦争指導は限界だと知らせしめた。まず新聞が騒ぎ始めた。そして首相を替えるべきだとの意見が従来の例にはずれて陣笠議員から起きた。そして自由党、保守党、労働党の若手が中心となってロイドジョージ首班を唱えた。

1916年9月ロイドジョージは「戦争終結はドイツの完全なる打倒あるのみ」と主張した。そして戦時内閣から軍事的判断ができないアスキス首相を除外すべきだとした。アスキスは拒否、ロイドジョージは軍需相を辞任した。しかし議会では戦争完遂を叫ぶ三党の若手陣笠が絶対多数を占め、アスキスは不信任に直面、首相を辞任した。

1916年12月7日、保守党党首ボナ=ローの支持も得て、ロイドジョージは首相に指名された。

1916年12月政変

アスキスは自由党の党首のままで、自由党の大物は引き続きアスキスを支持していた。この政変は明らかに戦争完遂を求める声に従ったものだった。しかし第1次大戦が開始されたときは首相アスキス、外相グレイらが開戦を支持したものでロイドジョージはどっちつかずの態度をとっていた。同じロイドジョージが戦争完遂を叫んだことになる。

グレイはこの政変の後辞任した。グレイはアスキスの承認を得てヨーロッパ会議を開催しこの段階での和平を模索していた。ニューリベラリズムは外交とりわけ戦時外交では判断が分かれる。つまり自由主義とは基本的には各大国の自主的な良心にもとづいて、自由な交渉と神の摂理(一国が強大化すれば他国が同盟し、それ以上の強大化は自動的にチェックされる)で外交問題は暴力によらず解決されるべきだと考える。そのために国際法や国際会議の設定が有効な方法だとする。

だが実際に戦争が起きてしまうとこの方法は不可能だ。すなわち会議・仲介よりも各国が戦局に縛られてしまう。つまりどちらか一方が既に暴力を行使していたら、その結果が明らかとなり全ての交戦各国がそれを動かしがたいと認識するまで会議のテーブルにつかせることは難しい。途中和平の声をあげれば戦争完遂を妨害する行為だと受け止められてしまう。とくに戦局が悪化しまだ交戦能力がある国において和平や会議を叫ぶことは政治家としては単純に失脚の道を選ぶことである。

つまり戦争はその重みによってある判断を下してしまう。

ただこれは大国においてであり、小国はフリーハンドを持ちうる。ただ交渉にならないだけだ。大国の人士は和平を言う時、その行為自体が戦局に重大な変化をもたらしかねないから慎重に考えねばならない。

第一次大戦は連合国の勝利で終了した。そしてイギリスの戦勝がロイドジョージに負うところが大きいことは誰にもわかっていた。1918年の総選挙はロイドジョージへの信任投票の色彩が濃かった。労働党を別にして戦時連立派(ロイドジョージを支持する自由党戦時連立派+ボナ=ロー党首の保守党)と守旧派(自由党アスキス、保守党バルフォアら)の対立となった。そしてロイドジョージは大勝した。最も労働党が一番議席を伸ばしたが。

1922年チャナック危機が発生し、保守党と自由党の陣笠が騒ぎ始めた。というのはロイドジョージは自由党戦時連立派を支持基盤としていたがその党勢は4分の1に満たなかった。保守党陣笠は全部をあげて最大会派が政権を担うべきだと主張した。政界であまりそれまで知られなかったボールドウィンが登場しそれまでロイド=ジョージを一貫して支持してきたボナ=ローを引きずり出した。この時にはロイドジョージの名前は全て古臭いものとして連想されるようになっていた。

チャナック危機

その後ロイドジョージは数多くの選挙に当選し下院議員であり続けた。しかし自由党員だとしても自由党と行動を共にしなかった。常に一匹おおかみで政権は政党と離れるべきだと主張した。しかし受け入れるものはなくまた選挙のたび自由党は退潮に向かった。1938年ロイドジョージはヒトラーをベルヒテスガデンの山荘に訪ね意気投合しまたナチス党大会にも参加した。第2次大戦の間はナチスとの分離和平が必要なとき首班として期待され(すなわちイギリスのペタンとして)温存されたようだ。

どれが本当のロイドジョージの像なのだろうか。

ロイドジョージはボーア戦争にほとんど一人で反対した。またアイルランドの独立にも終始賛成だった。あるいはイギリス政界で希な国際主義者の本当のリベラルだったのかもしれない。

イギリス政治が異質なものを呑み込んで平然としていることに感動させられる。





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