歴史人口学の鬼頭宏(2000)が整理した日本の人口の超長期推移をグラフにした。これを見ると日本の人口は、大きく見て、増加と停滞の時期を何度か繰り返してきた。また、これに最近の将来人口推計をつなげてみると近代の人口爆発は21世紀に入り一転して急激な減少へ向かうことが明らかである。 縄文時代・弥生時代の人口数は遺跡数等からの推計によっているが、単純な増加ではなく、早期(8100年前)・前期(5200年前)から中期(4300年前)にかけて急増した後、後期(3300年前)・晩期(2900年前)にかけて急減し、その後、弥生時代(1800年前、西暦200年頃)に入って、再度、急増している。 1万年前日本列島の平均気温は現在より約2度低かったが、6000年前には現在より1度以上高くなった。この結果、東日本は、ブナを中心とする冷温帯落葉樹林は後退し、代わってコナラ、クリを中心とする暖温帯落葉樹林が広がり、西日本はカシ、シイの常緑照葉樹林となった。木の実の生産性は照葉樹林より落葉樹林、特に暖温帯落葉樹林が圧倒的に高いため、こうした温暖化により東日本を中心に日本の人口は急増したといわれる。 4500年前から気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少したと推測されている。 弥生時代以降、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長した。歴史時代にはいると人口推計の方法は戸籍など文献資料が中心となる。8世紀を過ぎて人口成長率は落ち、10世紀以降は停滞的となったとみられる。理由としては、律令制的な水田開発に代わって主流となった荘園領主の土地開発が限界に達したためと考えられる。 16〜17世紀は、農耕の開始に次ぐ人口革命の時期である。戦国大名の規模の大きな領内開発、小農民の自立に伴う「皆婚社会」化による出生率の上昇などが主たる要因と考えられる。18世紀に入るとこうした動きは限界に達する。江戸、大坂といった新たに誕生した巨大都市は、高い未婚率と衛生状態の悪さから人口のマイナス要因となっていた(都市蟻地獄説)。 明治維新以降、近代の人口爆発は、出生率が高いまま死亡率が低下したためもたらされる(いわゆる人口転換)。江戸時代に3000万人程度であった日本の人口はそれ以前の長い時間の流れの中では極めて短期間に、また第2次世界大戦の惨禍にもかかわらず2006年には1億2,779万人のピークにまで到達した。 死亡率の低下スピードは低くなった後も出生率は低下を続け、2007年からは人口減に転じたが、将来人口推計によれば、今後、さらに人口が急減していくとみられている。そして一時期急増した人口が高齢者となって人口の大きな構成要素となるため、人口爆発の過程で5%を切っていたこともある65歳以上人口比率(高齢化率)は、2006年に19.5%となり、将来、2075年頃には42%となると推計されている。 なお、地域別人口分布の超長期推移については、図録7240参照のこと。 (2004年6月22日収録、2007年2月19日更新) |
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