南京大虐殺教科書比較


1.国書刊行会「高等学校最新日本史」
 (平成6年文部省検定済み)
 (注釈文)南京陥落直後の混乱のさなか,中国兵士や市民のなかから日本軍による犠牲者が多数でた.このことは国際的非難を受け,戦後の極東国際軍事裁判でとりあげられた(南京事件).

2.実教出版株式会社「高校日本史B」
 (平成6年文部省検定済み 平成7年発行 平成8年度用教科書)
 (本文)1937年12月,日本軍は国民政府の首都南京を占領した.その後,数週間のあいだに日本軍は南京市内外で捕虜・投降兵をはじめ婦女子を含む中国人10数万人を殺害し,略奪・放火や婦女子への暴行をおこなった.当時の中島師団長は12月13日の日記に,捕虜にはしない方針であり,佐々木部隊だけで約1万5000人を「処理」したと記している.この事件は日本国内にはいっさい知らされず,東京・名古屋・大阪などでは「南京陥落」を祝って提灯行列がおこなわれていたが,欧米では『ニューヨーク−タイムズ』などによって「捕虜全員殺される」と報道され,国際的非難が沸きあがった(南京大虐殺).
 (注釈文)現在,中国の南京市郊外の虐殺現場には侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館がたてられており,遺骨や遺品,当時の写真などを展示している.中国側は戦闘による犠牲者も含め,無辜の市民や武器を捨てた兵士など,30万人以上の人々が日本人によって虐殺されたと発表している.

2’.実教出版株式会社「高校日本史 改訂版」(ギルさんより)
 (昭和58年3月31日 文部省検定済、昭和61年3月31日 改定検定済 昭和59年1月25日初版発行、昭和62年1月25日改訂版発行)
ギルさんのコメント
 約11年前、1987年(昭和62年)ころの教科書です。
 これは「改訂版」になってますが、どこをどう改訂したのやら、気になるところです(^ ^;)

近代・現代
■第15章 軍国日本と思想・文化の統制■■■■■■■■
4. 軍国日本への道
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日中戦争の開始
 1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の廬溝橋付近で、日本の北支派遣軍が中国軍と衝突し、それをきっかけに日中戦争が勃発した。最初、近衛内閣は戦線不拡大の声明を出したが、いっぽうでは閣議で内地の師団の華北派兵を決め、現地の両国軍のあいだで進行中であった停戦交渉の道をとざした。さらに8月には、上海で日本の海軍陸戦隊と中国軍が衝突し、のち陸軍も派兵されて、戦火は華中に飛び火し、日中両国は、宣戦布告をしないまま全面的な戦争<2>に突入した。
 同年9月、中国では、西安事変<3>をきっかけに第2次国共合作が成立し、抗日救国統一戦線が結成された。その結果、共産軍は国民革命軍に編入されて八路軍・新四軍となり、抗日勢力の一翼をになった。
 1937(昭和12)年12月、日本軍は、国民政府の首都である南京を占領した。[南京大虐殺] 南京占領から1か月あまりの間、南京市内外で日本軍は、婦女子をふくむ少なくとも10数万人と推定される中国人を虐殺した。この事件は、ナンキン・アトロシティとして欧米などで報道され、人びとに衝撃をあたえた。
 国民政府は政府機関を漢口ついで重慶へと移し、米英ソの武器・軍需物資の補給をうけて抗戦をつづけた。戦線の拡大をめざす軍部のなかの強硬論に影響された近衛内閣は、1938(昭和13)年1月、「国民政府をを対手とせず」との無謀な首相声明を発して、国民政府との和平の道をみずから遠ざけた。
 注釈
<2>日本政府は、この戦争をはじめ北支事変、のち支那事変とよんだ。
<3>1936(昭和11)年12月、共産軍征討の任にあった張学良らが、督戦のため西安にきた国民政府行政委員長の蒋介石を監禁し、内戦の停止を抗日を求めた事件。共産党の周恩来らの調停工作により、蒋介石の釈放とひきかえに、国共内戦の停止が実現した。
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ギルさんのコメント
実教出版の「南京大虐殺」に関するあたりはこんな感じです。
まあ、無難にまとめてある感じですね‥。
三省堂のはご丁寧に太字で強調してあるわ、索引にも載せて引きやすくしてあるわで、もう(^ ^;)

3.自由書房「高等学校新日本史B」
 (1993年文部省検定済み 1994年発行 1995年度用教科書)
 (本文)日本軍は1937年12月,国民政府の首都南京を占領したが,このとき略奪・放火・暴行をおこない,一般市民と捕虜を大量に虐殺する事件(南京大虐殺事件)をひきおこしたため,国際的な非難をあび,中国国民の抗戦意識はさらに高まった.
 (注釈文)陥落から1か月余りのあいだに南京市内で,婦女子をふくむ一般住民のほか捕虜もあわせると,およそ20万人といわれる大量の人びとを虐殺した.なお,中国側では,戦闘による犠牲者もふくめ,その数を30万人以上としている.

4.第一学習社「高等学校改訂版新日本史B」
 (平成9年文部省検定済み 平成10年発行 平成11年度用教科書)
 (注釈文)日本軍は南京占領にあたって,非戦闘員を含む多数(20万人以上と推定されている)の中国人を殺害し,略奪・放火・暴行をおこなった.この蛮行は南京大虐殺事件として,国際的にはげしい非難をあびた.

5.株式会社三省堂「詳解日本史」(ギルさんより)
 (平成元年3月31日 文部省検定済 日史047 平成2年3月30日初版発行 平成3年3月30日再版発行)
 第V編 現代の社会と文化
 ■第2章 中国侵略の本格化■■■■■■■■■■■■■
 1 日中戦争の本格化
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 廬溝橋事件
 日本はさらに侵略を強め、1933(昭和8)年には山海関を占領し熱河省を攻撃した。当時、蒋介石は中国共産党との内戦を主として日本軍との戦闘には消極的で、塘沽停戦協定[1]を結んだ。中国は満州国を事実上黙認し、長城以南の河北省の一部地域は非武装地帯とされた。華北侵略により冀東防共自治政府などのかいらい政権が成立した。こうして華北分離工作の明確な意志が示された。
 このため中国の反日民族運動はたかまり、共産党も1935(昭和10)年に抗日救国を国民に訴え[2]、さらにイギリスの援助をうけた国民政府も幣制改革[3]に成功した。そして1936(昭和11)年の西安事件[4]を契機に、抗日をめざす国民党と共産党の合作の気運もたかまった。このような情勢は華北侵略を進める軍部の焦燥感を強めさせ、北京・天津の駐留軍が増強された。
 1937(昭和12)年7月7日、第1次近衛文磨内閣の成立直後、北京郊外の廬(蘆)溝橋で日中両軍が戦闘を交えた(廬溝橋事件)。現地では11日に停戦協定がいちおう成立したが、このさいいっきょに中国軍に打撃をあたえ、抗日運動を屈服させ、華北の資源や市場を獲得しようとする意図から近衛内閣は華北派兵を決定した。こうして日本軍は7月に北京・天津を占領し、8月には上海に戦火を拡大させ(第2次上海事件)、日本は宣戦布告もないままに、中国への全面的な侵略戦争に突入した(日中戦争)。
 脚注
[1] 1935(昭和10)年の梅津-何応欽協定、土肥原-奏徳純協定によって侵略は進んだ。
[2] 中国共産党は1935年、「抗日救国のために全同胞に告げる書」(八・一宣言)を発表した。
[3] 国民政府の通貨統一政で政府系銀行の銀行券を法幣(法定通貨)として他行券と銀は禁止した。法幣はポンド・ドルにリンクされ、管理通貨となり、全国的な通貨・金融が統一された。
[4] 日本の侵略に不抵抗主義をとった蒋介石に対し、東北軍の張学良らは共産党との内戦停止・一致抗日にかたむいた。張は内戦督促にきた蒋を西安で監禁し、救国要求を出した。共産党は周恩来を派遣し、抗日民族統一戦線結成を説得して、事件は解決した。
[5] 当時、日本の支那駐屯軍は増強され、天津より北京近くまで駐兵していた。この日本軍の夜間演習の終了時に発砲があり、その犯人は不明であったが、それをきっかけに翌未明中国軍を攻撃した。

 中国全土にまたがる侵略
 日本軍は上海上陸作戦で早くも中国軍の強力な抵抗をうけて苦戦し、中国を早期に屈服させうるとの予測は破綻した。そのため、つぎつぎと大軍を派遣し、ようやく1937(昭和12)年12月に国民政府の首都南京を占領した。
 この間の戦闘において日本軍は一般中国人の虐待・虐殺をおこない、とりわけ南京占領前後には、大虐殺事件をおこした(南京大虐殺[1])。この事件は日本国民には知らされなかったが、南京にいた外国人によって世界の各地に知らされた。中国民衆の抗日意識をいっそう強めることになった。国民政府も首都を武漢(漢口)に移して抗戦をつづけた。
 この間ドイツの和平斡旋にもかかわらず1938(昭和13)年、首都占領で勢いづいた近衛首相は、「国民政府を対手とせず」という声明を出し、中国との講和の道をとざした。日本軍は、除州や武漢・広東を占領し、おもな都市と鉄道を支配下におさめ、さらに戦線を拡大した。
 脚注
[1] 南京を占領した日本軍がくりひろげた大規模な掠奪・放火・集団虐殺などの総称が南京大虐殺あるいは南京事件とよばれる。戦死者をふくめた犠牲者総数については洞富雄は20万人を下らない数、中国側は30万人、という見解をもっている。

抗日民族統一戦線
 内戦を停止していた国民党と共産党は日本の侵略に抵抗するため、1937(昭和12)年9月に第2次国共合作を成立させた(抗日民族統一戦線)。北方軍閥も国民政府のもとに総括され、抗日救国の気運がたかまった。日本軍が武漢を占領すると国民政府は首都を重慶に移し、アメリカ・イギリス・ソ連などの支援をうけて抗日戦を強化した。戦争は持久戦の様相を呈し、抗日戦の拠点となった解放区も各地にひろがり、日本軍はおもな都市と鉄道の確保がやっとという状態になった。
 このころ、ヨーロッパにおいても侵略戦争がくわだてられていた。1938(昭和13)年、ドイツのヒトラーはオーストリアを併合し、チェコスロヴァキアにズデーデン地方の割譲を要求して全面的に侵略を開始した。イギリスは反ソ連強硬論が台頭し、ソ連国境紛争(張鼓峰事件[2])がおこったが、対ソ戦争遂行が容易でないことが明らかになった。
 近衛内閣は和平交渉の道を開くためとして「東亜新秩序[3]」建設の声明を出した。しかし、国民党幹部の汪兆銘(精衛)の切りくずしによる和平策[4]は失敗し、日本の戦略は完全にゆきづまった。

 脚注
[2] ソ連東部国境の張鼓峰をめぐり日ソ両国は争い、1938(昭和13)年7月、日本軍は攻撃したが、優秀な戦力をもつソ連軍に反撃され、損害をうけた。
[3] 第2次近衛声明ともよばれ、1938(昭和13)年11月に、日・満・華3国による「東亜新秩序」建設を声明した。
[4] 陸軍は汪兆銘を重慶から脱出させた。善隣友好・共同防共・経済提携をうたった第3次近衛声明が出されたが、汪に約束した日本軍撤退にはふれなかった。
 1940(昭和15)年、汪には南京にかいらい政権をつくらせ、和平を結んだが、問題の解決にはならなかった。
[5] 1938(昭和13)年10月の武漢・広東作戦後、軍事動員力は限界に達した。戦争は長期・持久戦となり、予備・後備兵の召集がおこなわれ、町や村から働きざかりの男子が戦場に送られた。
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ギルさんのコメント
 三省堂の「南京大虐殺」に関するあたりはこんな感じです。
 なんだか瑣末な事件ばかり強調してとりあげているというか‥‥。
 副題に<日中共産党の歩み>とでもつけろよ‥と言いたくなるような内容ですね。
 だいたい“洞富雄(ほらとみお)”って誰??(^ ^)

6.株式会社山川出版社「詳説 日本史(新版)」(ギルさんより)
 (1984年(昭和59年)3月5日発行)
ギルさんよりコメント
 約14年前、1984年(昭和59年)ころの教科書です。
 ぢつは、これには「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」も「三光作戦」なる言葉もまったくありません(^ ^)ので、とりあえず日中戦争の部分を抜粋致しました。
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第四部 近代・現代
■第10章 近代日本とアジア■■■■■■■■■■■■■
■4■第二次世界大戦
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日中戦争
 1933(昭和8)年5月、日中軍事停戦協定(塘沽停戦協定)がむすばれて満州事変は終わったが、そののちも軍部は華北への進出の機をうかがい、広田内閣は華北5省を日本の勢力下におく方針を決定した。これに対し中国の抗日救国運動が高まり、1936(昭和11)年12月の西安事件<1>をきっかけに国民政府も抗日戦線統一の意思を示した。こうしたなかで1937(昭和12)年7月7日、近衛文磨内閣の成立直後に、北京郊外の廬溝橋で日中両国軍の衝突事件が発生した(廬溝橋事件)。近衛内閣は不拡大方針を声明したが、現地軍は軍事行動を拡大した<2>。いっぽう中国では9月末に、国民党が共産党と合作して抗日民族統一戦線を結成した(第2次国共合作)。
 こうした抵抗に直面し、日本は大軍を投入して戦線を拡大したが、収拾の機会をつかむことができず、近衛首相は1938(昭和13)年1月には、『蒋介石の国民政府を対手(あいて)とせず』との声明を発した。またこの年の末には日満華の東亜新秩序建設が戦争目標であるとの声明を発し、国民政府の要人汪兆銘(精衛)を重慶から脱出させ、1940(昭和15)年それまで各地に樹立していた傀儡政権を統合し、南京に新国民政府を樹立させた。しかし、日本の軍事力を背景とするこの政権によって戦争を終結させることは不可能であった。重慶にのがれた国民政府は、アメリカ・イギリス・ソ連などの援助をうけて、そののちも抗戦をつづけた。
 準戦時体制の長期化にともなって、内閣の強化・政治勢力の一元化と、全国民の強力体制の確立との必要が主張された。産業報国会の結成<3>、産業組合の拡充などによる農民の再組織、それら国民緒組織を準戦時体制に動員する国民精神総動員運動が展開され、1938(昭和13)年には、近衛を党首とする新党結成の計画が進められた。
 脚注
<1>このころ中国共産党は延安に根拠地をもっていたが、共産軍討伐のため西安にあった張学良は、1936年12月督励におもむいた蒋介石を軟禁し、内戦の停止を要求した。
<2>この事変は、はじめ『北支事変』、ついで『支那事変』と名称をかえたが、名称は事変であっても、実際には全面的戦争であった。
<3>1938(昭和13)年、協調会が中心となって資本家団体や労働組合幹部を集めて産業報国連盟を結成し、各職場に産業報国会を結成し、労働組合も一部それに改組した。1940年、大日本産業報国会に改組したころは単位会数7万、組織人員418万人であった。この時、労働組合はすべて解散させられた。
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ギルさんのコメント
 「南京大虐殺」があるとしたらこのへんだと思うのですが、見た通りそんな言葉は見当たりません。ちなみに、この後は
 経済統制の強化/国家総動員法、国民徴用令、米の配給制、日米通商航海条約廃棄、大東亜共栄圏‥(※太字の言葉を抜粋)などの説明へと続きます。
この“大東亜共栄圏”という部分も、掲示板にも載せましたが
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 軍需産業用の資材は、日本・満州・中国占領地の『円ブロック』のなかだけではとうてい足りず、欧米とその勢力圏からの輸入にたよらねばならない状態にあった。しかし、国際対立にともなってイギリス・アメリカとの貿易は縮小しはじめ、1939(昭和14)年の日米通商航海条約廃棄の通告が翌年から発効して、資材の入手はきわめて困難になった。そこで日本は、石油・ゴム・ボーキサイトなどの資源をもとめて、『大東亜共栄圏』の名のもとに南方進出をくわだてたが、それは列強の対日経済封鎖を強める結果をまねいた。
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 と、当時の日本の経済的状況、背景などが客観的かつ簡潔に説明され、文章としても比較的納得のいくものとなっていると思います。最近の教科書のほうは、中国や朝鮮側の言い分ばかり聞くあまり、かえって肝心なところが何が何だかわからない。なぜ日本は中国を侵略したの?と聞かれたら、それは日本人の性根が悪いために欲を出して、つつましく暮らしていたまだ力もない中国に行って好き放題奪いとってしまおうと思っていたからだよ、でも結局失敗したんだ、悪いことをしたからバチが当たったんだね、原爆を落とされてもミサイル打ち込まれても日本には文句言う資格なんか無いね‥‥とかなんとか本気で言いそうです。
 中国側の視点でものを見るあまり、あまり重要とは思えない中国の反日民族運動だの「抗日救国のために全同胞に告げる書」だの、それでも「日本」史の教科書か〜〜!!(-_-メ)プンプン>三省堂 


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