第68題 閔妃の写真はなかった
1、閔妃の写真を否定する新説
流布されている閔妃の写真
閔妃について簡単に概説すると、彼女は1866年李朝第二六代国王高宗の妃となり、宮中内外に閔氏一族を扶植して勢力を築き、舅である大院君と生死を賭けた熾烈な権力闘争を長年にわたって繰りひろげた。最後は日本公使三浦梧楼らにより日清戦争終結半年後の1895年10月に暗殺された。現在は明成皇后と称されている。
朝鮮史関係の本の多くにはこの閔妃の写真が掲載されており、一般に流布されていると言ってよい。インターネット上のHPでもよく紹介されている。
http://www.bishu.jp/r-yagi/koria/saito/rekisi-sp9.htm
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/t.paneruten.htm
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P208R100.HTM
それは閔妃の写真ではない
ところがこの写真、実は閔妃を写したものではないということが判明した。明らかにしたのは三谷憲正の「『閔妃』試論―図像をめぐる一考察」(註1)という論文である。私も閔妃の写真と思い込んでいたから、久しぶりに興奮を覚えたものであった。
当論考によると、日韓併合(1910)以前の欧文資料や日本語資料では、この写真の説明を「正装の韓国夫人」「宮中の侍女」「女官」などとしているのであり、「閔妃」とするものは全くない(註2)。ところが第二次大戦後の日本および韓国で出版された歴史および事典では、ほとんどがこれを「閔妃」としているのである(註3)。
つまり別人の写真であったものが数十年経った戦後に閔妃とされてしまい、それが定着したのである。(註4)
2、クンモリから新説を検討する
クンモリとは?
この写真で目につく大きな特徴は頭部の左右に丸く張り出した大きなかつらで、全体的にハート形を呈する。これを「クンモリ」という。直訳すれば「大きな頭」となるが、『朝鮮語大辞典』(角川書店1986)では「昔、婦女が礼式のとき頭の上に結いつけたかつら」と説明されている。
本節ではこのクンモリに注目して、写真の女性が閔妃ではなく宮中の女官であるとする三谷説を検討したい。
イサベラ・バードの記録
イギリスの女性旅行家であるイサベラ・バードは、日清戦争前後の1894年から1897年にかけて朝鮮各地を訪れ、その詳細な旅行記を著している。その記録は当時の朝鮮の様子を知る重要な資料である。彼女は高宗や閔妃に数回にわたり謁見しており、その様相も詳しく記録している。
彼女は宮中の侍女について次のように書いている。誤解のないように同一原文で二つの訳を呈示する。
「長すぎる1ヤード(0.91メートル)の絹のガウンを着て、頭にとぐろを巻き、枕状のものをつけた鬘を被った王妃の侍女たち」(註5)
「丈を1ヤードもひきずる絹衣を着て、重たいかもじで髪をふくらませたり巻いたりした女官」(註6)
このなかで「頭にとぐろを巻き、枕状のものをつけた鬘」「重たいかもじで髪をふくらませたり巻いたり」は、クンモリであることが明白である。
次にイサベラは閔妃をどう書いているか。頭部に限った描写を同じく同一原文で二つの訳を呈示する。
「彼女の頭飾りは、その前部に珊瑚の薔薇花飾りと赤い飾り房がたくさんあり、両側に宝石を鏤めた前立て飾り毛のある毛皮で縁取りした黒い絹の帽子であった。王冠を被っていない額の上に載せられていた。
‥‥この行事に王妃は‥頭はむき出しであった。その豊かな黒髪は、背中で一つの結び目に集められていた。頭の頂上にある真珠と珊瑚の宝石の他には、なんの装飾品も身に付けていなかった。」(註7)
「髪飾りは毛皮をまわりにあしらった黒い縁なし帽で、ひたいにかかる部分がとがっており、前部に花をかたどった珊瑚と赤いふさが、また両サイドには宝石の飾りがついている。
‥‥このとき王妃は‥帽子はかぶらず、たっぷりある黒髪はうしろでまげにまとめてあった。頭のてっぺんを真珠と珊瑚で飾っている以外、宝飾品は何もつけていなかった。」(註8)
これをどう読んでもクンモリは出てこない。すなわち閔妃はクンモリをしていなかったのである。
イサベラの記録からは、その謁見時においてクンモリをしていたのは閔妃ではなく、侍女であったことが判明する。
最近の再現事例
最近の韓国で、高宗と閔妃の嘉礼式(結婚式)を忠実に再現するイベントが開かれた。その時の様子が公開されている。
http://www.seoulnavi.com/area/area_r_article.html?id=181&area
http://www.seoulnavi.com/images.html?img=/area/images/right_list_img/181/tour_e_017_1.jpg
ここでは閔妃の右後ろにクンモリの侍女が立っている。一方閔妃は豪華な装飾のかつらであるが、クンモリではない。資料としての価値は今一つであるが、クンモリは閔妃ではなく侍女であることの根拠となろう。
王妃はクンモリをしない
『日露戦争 写真画報』第2巻(1904年5月)のなかに、4月14日夜におきた韓国皇宮炎上事件の画面がある(註9)。そこでは火災から逃げてきた多くの人々のなかにクンモリの女性がいる。大勢の避難者のなかにいるので、おそらく王妃ではないであろう。もしこれが王妃であるとするなら、閔妃亡きあとの厳妃となるはずだ。しかし今残る厳妃の写真にはクンモリがない(註10)。クンモリの女性を王妃と考えるのは困難である。
また1920年に皇太子李垠公と結婚された日本の皇族梨本宮方子妃も、その写真を見る限りクンモリはない(註11)。
朝鮮王室の慣例では王妃はクンモリをしないと推測できるだろう。
以上のようにクンモリについて検討してきたが、それは写真の女性が閔妃でないとする三谷説を裏付けるものである。
3、間違いの一人歩きと新たな「歴史」の創造
誰が最初に間違えたか
写真を閔妃とする間違いを最初にしたのは誰でいつであるかに関心がいく。今のところ最古例は日本近代史研究会『写真・図説 総合日本史』第11巻―近代U(1955年11月 国文社)である(註12)。さらに古いものがあるかも知れないが、それはこれからの課題である。
少なくとも戦前ではこの誤りを犯したものはいないようである。その当時の朝鮮は植民地下であったが李王室は存続しており、古式や慣例を知る人が健在であった。しかし戦後の朝鮮半島では南北とも王制が否定され、また日本との関係が険悪であった。日本側は李王室関係の正確な知識を得ることが困難となったために間違いが発生したと推測できる。
間違いの一人歩き――姜相圭
韓国では1976年に姜相圭『韓國冩眞史』が刊行された。そのなかに例の写真を掲げた上で次のような一節がある。
「明成皇后 閔妃(図14)は早くから外戚としての精神を起こして、大院君に反旗を翻し、高宗に親政を宣布させ、大院君系列の人々を粛正しながら、日本と外交関係を結んだ。1892年甲午更張が始まるとロシアに接近し、日本の勢力の追放を計った。1895年10月8日(陰暦8月20日)は閔妃の政変の日であり、安達謙、岡本柳之助が引率した幽徒隊が、閔妃の人物写真を皇室専属写真師から入手して、実際の顔と対照し、確認した後、殺害したのであり、このときの皇室嘱託写真師は日本人の村上天真である。」(註13)
これがどんな資料に拠ったのか不明であるが、撮影者の具体名(註14)を出し、暗殺の実行の際にこの写真を利用したなどリアリティのある記述となっている。ところが前提となる写真そのものが間違いであるから眉唾と言わざるを得ない。韓国においては同書が最古例となる(註15)が、刊行年代から考えると日本側の誤りをそのまま採用してしまい、想像を膨らませたのではないかと思われる。間違いが一人歩きし、新たな「歴史」が創られていくのである。
間違いの一人歩き――辛基秀
『映像が語る「日韓併合」史』は1987年の刊行である。編著者の辛基秀は例の写真を掲げて「閔妃(1851−1895年)国王高宗の皇后」というキャプションを付し(註16)、次のような「歴史」を語る。
「ソウルの日本軍守備隊や公使館員らは、1895年10月の夜、王宮に侵入、婦人3名を殺害、閔妃をはづかしめ、松林で焼きはらった。この前代未聞の暴虐の行為で、日本のカメラマンの果たした役割を看過できない。
日本政府は、すでに皇室の嘱託写真師として村上天真をおくりこみ、閔妃や王宮関係者の写真を撮り、日本軍守備隊に手渡し、写真をもとに閔妃の容姿を記憶したのであった。王宮の多くの官女の中、閔妃とおぼしき女性を的確に捕らえたのは、まさに写真によってである(「韓国写真史」姜相圭 螢雪出版社参照)。」(註17)
ここでは日本政府が朝鮮王室に写真師村上天真を送り込んで情報収集したこととなっている。彼は百年経ってから、潜入スパイとなって暗殺に加担したとされた。間違いが発展していくことが分かる。
間違いの一人歩き――角田房子
角田房子は閔妃暗殺事件について本格的な資料収集を行ない、『閔妃暗殺』を著した(註18)。その表紙カバーと口絵に例の写真をおき、「日本人写真師・村上天真撮影の閔妃といわれる写真」というキャプションを付している。
角田はその本文において、この写真を元に1866年の閔妃婚姻時の姿を次のように描く。
「王妃冊封の日の閔妃は‥‥頭には、左右に大きく張り出したハート形のクンモリとよばれるかつらを高々とのせ、さらに王妃の権威を誇示する数々の飾りが用いられる。“クンモリ”は昔は人間の毛髪を香油で固めて作られたが、高宗の時代には木製であったという。」(註19)
このように間違いが暗殺事件より29年前までさかのぼり、クンモリの閔妃が結婚式に臨んだことになった。さらに角田は写真について次のように詳細に記述する。先に引用したところと重複する部分があるが、正確を期すため省略しない。
「私が読んだ日本側の閔妃暗殺現場の資料はすべて、「誰も閔妃の顔を知らなかった」という前提で書かれている。だが辛基秀(大阪在住)が著した『映像が語る「日韓併合」史』(1987年、労働経済社)には「日本政府は、すでに王室の嘱託写真師として村上天真をおくりこみ、閔妃や王宮関係者の写真を撮り、日本軍守備隊に手渡し、写真をもとに閔妃の容姿を記憶させたのであった。王宮の多くの官女のうち、閔妃とおぼしき女性を的確に捕えたのは、まさに写真によってである。(『韓国写真史』姜相圭、蛍雪出版社参照)」と書かれている。辛基秀は「たった一枚伝わっている閔妃の写真が、村上天真の撮影によるものだそうです」と語った(口絵参照)。
『韓国写真史』は1987年に発行されたもので、その中にイサベラ・バード・ビショップの「閔妃は写真を撮らせることが好きだった」という証言がある。これによって閔妃の写真は数枚あったと思われるが、なぜ一枚しか残っていないのだろうか。「暗殺事件後に、日本側は閔妃の記録の多くを破棄した」という説が思い出される。
“閔妃の二枚目の写真”というものがあるが、これは肖像画を撮影したものだと伝えられている。」(註20)
角田の優れた筆力もあって、この記述には真実味を感じさせる。しかし写真は閔妃ではなかった。間違いは更に発展して、日本側は写真によって閔妃の顔を知っていたのに知らないとウソを言った、閔妃の写真は数枚あったのに日本側がほとんど破棄したために一枚しか残っていない、などと新たな「歴史」が創られたのである。
閔妃の写真は一枚もない
閔妃の写真とされてきたものが否定されたので、彼女の写真はいまや一枚も残っていないことになる。それではそもそも彼女は自分の写真を撮ったことがあったのかどうか。
当時の朝鮮では上流階級の女性は公の場に出ることがなく、その顔を知るものはごくわずかであった時代である。閔妃も顔はほとんど知られていなかった。大院君と死闘を繰り返し、命を狙われてきた彼女が、果たして自分の写真を撮らせることがあったのか疑問である。
また2001年7月7日付け東亜日報の記事に、写真真偽問題に関連して「当時“写真を撮らせると、魂が抜ける”と認識 カメラ忌避」(註21)とある。朝鮮開国後のしばらくは、このような噂が信じられた時代であった。
もともと閔妃の写真は一枚もなかった可能性がある。
検証と批判の重要性
辛の著作は1987年、角田の著作は1988年の発行である。ところが写真が閔妃でないとする戦後の文献は皆無ではなく、註3の通り1978年と1986年に世に出ている。それらは両人の本の発行時にはすでに公刊されており、しかも容易に入手できるものなのである。おそらく見落とされたのであろうが、ともに労作であるだけに残念と言わざるを得ない。
角田の著作はその後かなり普及し、暗殺事件は日本の朝鮮侵略の悪逆非道ぶりを示すものとして広く知られるようになった。そしてそれとともに閔妃の写真なるものが定着し、新たな「歴史」が創られていったのである。
歴史研究は人間がするものであるから間違いは避けられない。しかし間違いは批判されずに一人歩きすると事実とはかけ離れた「歴史」が創造され、世間に広まることがある。こうならないためにも地道な検証とともに批判を受けることの重要性を改めて感じ、自戒するものである。
註
(1) 国際日本文化センター紀要『日本研究第27集』(平成15年3月)所収。
(2) 当論考に例示されているもの以外では、学習院大学東洋文化研究所で戦前に収集された写真類の整理中に同じものが発見され、「妓生」を写したものとされている。http://www.gakushuin.ac.jp/univ/rioc/ihou.htmlに下記の一文がある。
「この写真・絵葉書資料のうち「朝鮮」と題された写真群について、韓国の国史編纂委員会の許英蘭氏に御協力いただき、その資料的価値の高さを確認することができた。二〇〇一年十二月にはそのうちのいくつかの写真が韓国の『京郷新聞』で大きく紹介され、思いがけず明成皇后(閔妃)の写真の真偽論争にも発展した(閔妃の写真とされてきた写真と全く同じ背景で「妓生」を写した写真が当研究所所蔵写真の中にあったため)」
(3) 戦後でも例外的に以下の二つの資料がこの写真のキャプションに以前の説明を使い、閔妃ではないとしている。
@『別冊1億人の昭和史 日本植民地史@朝鮮』(毎日新聞社 1978年7月)の110頁では「王朝時代の官女の正装」、
A『目でみる李朝時代』(国書刊行会 1986年3月)の183頁では「宮中の女官の正装」と付されている。
(4) 三谷憲正は自分のHPのなかで当該論文の概要を解説している。
「近代における日本のアジアに対するまなざしはどうであったのか。それは朝鮮半島に目を向けたときに一番よくわかるんじゃないかということで、この間近代日本の朝鮮観を探ってきました。たとえば、朝鮮第26代高宗の妃で、19世紀末に暗殺された反日派の首領・閔妃(みんぴ)(明成皇后)という人がいます。その閔妃の姿を映したものとして戦後長らく信じられてきた写真が、実は別人のものだったのではないかということを最近提起いたしました。その写真はもともとは当時のヨーロッパの資料に朝鮮宮廷の女性の写真として紹介されていたもの。「A Korean Lady in Full Costume 」(朝鮮の正装の女性)、あるいは「A Palace Woman」(宮廷の女性)と解説されていたり、明治の頃の日本の雑誌では「宮中の侍女」「宮中の官女」「宮中の女官」などの説明で出ていました。しかしこれが閔妃であるなどとは、どこにも書かれていないのです。それならこの写真が閔妃であると、いつ、だれが言い出したのか。おそらく戦後になってから、「ある人」が言い出した……。これは戦後につくられた「戦前・戦中」像の一例なのです。」
http://www.bunet.jp/world/html/15_11/458_kenkyu/458_kenkyu1.html
(5)『朝鮮奥地紀行2』(朴尚得訳 平凡社東洋文庫 1994)79頁。
(6)『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』(時岡敬子訳 講談社学術文庫 1998)339頁。
(7)註5の67頁と80・81頁。
(8)註6の330頁と341頁。
(9)註1の106頁。
(10)『英親王李垠伝 李王朝最後の皇太子』(共栄書房 2001年8月)5頁。および註3−Aの183頁。なお厳妃は高宗の側室で、閔妃亡き後に李垠公(のちの皇太子)を生んだ。「厳妃」と称されるので王妃として扱われたと思われる。李垠公は1970年まで存命だったので、実母の写真を間違えることはなかったであろう。
(11)註10の11〜14頁。
(12)註1の95頁。
(13)註1の96頁より再引。原典は姜相圭『韓國冩眞史』(1976・12 圖書出版一心社)とある。
(14)撮影者とされる村上天真なる写真師は、朝鮮史でも日本の写真史でも管見では見当たらない。実在が確認できないのである。ご存知の方がおられればご教示願いたい。
(15)註1の97頁。
(16)辛基秀編著『映像が語る「日韓併合」史』(労働経済社 1987年8月)13頁。
(17)註16の6頁。ここで参照された「韓国写真史」は註13と同じと思われるが、出版社名が違っている。また角田は辛の著書より同書を再引用した際にその発行年を1987年としている。ここでも註13と違いがある。どれが正しいのかは確認できていない。
(18)角田房子『閔妃暗殺 朝鮮王朝末期の国母』(新潮社 1988年1月)
(19)註18の50・51頁。
(20)註18の327頁。なおこのなかで閔妃は写真好きというイサベラの証言があるとされるが、管見では彼女の旅行記には出てこない。写真に関係ありそうなところは、高宗と閔妃に謁見した際に「謁見のおわりにわたしは池の亭を写真に撮らせていただけないかと許可を請うた。国王は『あの亭ばかりではなく、何度も来ていろいろなものを撮りなさい』と建物の名前をいくつか挙げたあと、『しかるべき世話役をつけてあげよう』とつけ加えた。」(註6の332頁)とあるのみである。証言なるものは存在そのものが疑問である。
(21)註1の104頁より再引。
(追記)
当HPの読者より、8月12日付け朝鮮日報にこの写真についての記事があるとの情報を頂きました。新たな資料の発見で、写真の女性が閔妃でないとする根拠となるものです。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/08/12/20040812000038.html
8月14日記
(追記)
「閔妃の写真」が存在しないことは、拙論で論じた。このことについては下記の報道があったように、否定説=歴史事実が定着してきたように思ってきた。
http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/text/050628-3text.html
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/08/12/20040812000038.html
ところが今よく売れていると評判の嫌韓本のなかに、「閔妃の写真」が堂々と掲載されているのである。
桜井誠 『嫌韓流 反日妄言撃退マニュアル』56頁
山野車輪『マンガ 嫌韓流2』221頁
「閔妃の写真」なるものは左翼系の人たちが広めたものだが、これと正反対の立場の人間もこの間違いを継承している。私には似た者同士、という感想である。
間違いを正すことはなかなか難しいと改めて痛感した次第である。
(2006年3月5日記)